07 時を刻まぬ秒針
「かつて——あらゆる性愛が退廃を極めた古代ローマにおいて、詩人ストラトンは自著『少年のミューズ』においてこのように謳っている。『十二歳の花の盛りの少年は素晴らしい。十三歳の少年はもっと素敵だ。十四歳の少年はなお甘美な愛の花。十五歳になったばかりの少年は一層素晴らしく、しかし、十六歳だと、神の相手がふさわしい。十七歳の少年ともなると……おれの相手ではなく、ゼウス神の相手だ、おお!』、と。とても劇的な詩だが、ある一つの側面から見た場合、彼の主張はきわめて正しい、と私は考えている。そう——少年は神聖な生き物だ。それも十四、五を数える年頃の全ての少年にはある一種の魔力がある。即ち大人を揺さぶり尽くしかねないという」
その男は試験管に向けてとうとうと語りかけていた。無数に並べられた試験管のうち、特別にあつらえられた一本の中にだけ、身体を丸めた何かが浮かんでいる。竜の落とし子に似た形をしていて、あまり人らしくはない。胎芽だ。全長は一センチほどで、やっとのことで各種器官の原型をかたちづくりはじめた頃である。受精してからおおよそ一ヶ月ほどと見られるその胎芽はまだ男の子か女の子かもはっきりとはわからないぐらいの時期だったが、その男の中では、ガラスの中で芽吹いた小さな生命がやがて少年へと育つことが既に決定づけられているようだった。
「少年というものはね、歩く価値観だ。価値観のスケールそのものだ。少女も同様にそのような側面を持つが、少年のそれは時に、おぞましいほど……人を狂わす。特に君は——その価値観によって非常に強力に大人を左右するだろう。私が弟子に託した種を植え付けられた『背徳の炎』、彼をも、君は動かすことが出来る。そういう可能性として私は君をデザインした」
そこはなにがしかのラボラトリであるようだったが、それにしては、異常なまでの雑多さが猥雑に世界を支配しているようでもあった。その空間は一言で言えば情報過多だった。ありとあらゆる情報と可能性とが乱雑に転がり、明滅を繰り返している。子供の秘密基地のような、箱庭に似た空間であった。
「君が生まれる世界は、簡単に言ってしまえば、地獄のような世界だ。未だ、人が永遠に幸福に生きる道を定義出来ていない以上この世に地獄以外が訪れたためしはないが、その中でも輪を掛けて凄惨な時代だと言って差し支えない。かの情報生命体がヒトに取り付いて身を潜め、学習に時を費やしている最中であることだけが救いだ。不甲斐ないことだが、プログラムエラーから認識齟齬を起こしてしまってね……いつかはそれを是正しなければいけないが、そのためにも、まずは私の弟子が生み出したこの煉獄を収束させることが先決。そのために君は生まれる。地獄を終わらせるために。人々が希望と明日とを心から信じる日々を取り戻す、その正義の旗頭となるために……」
指先よりも小さな胎芽に、男の言葉が正確に理解されているわけでは無論ない。それらは全て男の独り言である。だが独り言がどうも長引いてしまうのも、男が最後に他者と会話を持ったのが弟子に種を託した百五十年近く昔の出来事だと思えば、仕方ないのかもしれない。独りの時間が長いと、返事のない長話を繰るのに抵抗が薄れていってしまうからだ。
彼は気が済むまで言いたいことを述べ続けると、やがて満足したように試験管を撫で、一息を吐く。
「……少し気が早かったかな。何しろ君が生まれてくるまであと九ヶ月もある。そして君を地上に降ろせるようになるまでそこから更に十年だ。気が遠くなるような一瞬。人の身体を与えるとどうにも時間がかかりすぎるのが難点だが、しかし情報生命体では、またいつ、認識に齟齬をきたすかわからない。結果的に言えば、人の器は必要だった。何故なら自らが人でなければ、『何をもって人であるとするか』という定義に、答えが見出せないからだ。
……ではまず、君に名を与えよう。名は必要だ。名前を与えなかったことも、かの情報生命体が狂ってしまった原因の一つなのだから。名前は一際強力な言霊となり、その存在を縛り付ける。名の通りであれ、と働きかける。君が人間が永遠に幸福に生きる世界を創る柱となるために、名前は君の魂と精神を拘束する。そうだな……正直、私はこういうのは苦手なのだが、何がいいか……」
男は思案した。ここしばらく、これほど頭を巡らせたことはないのではなかろうかというぐらいに考えに耽った。神聖なる少年を形作るべく、この世全てのうつくしいものと途切れることのない祈り、決して折れることのない正義、そして男が最も愛した弟子の才能をその小さな体躯に宿す男の子に最もふさわしい御名を与えるため、奇才中の鬼才たるゆえんであるその頭脳全てを費やした。
その名前は人々から愛される男の子を示す象徴でなければならない。その名前は正義を掲げるに相応する強い表象でなければならない。その名前は彼の本分たる祈りを捧げられるべき記号でなければならない。その名前は確固たるシンボルであらねばいけない。それを満たし得る名を男は考え続け、とうとう、ある一つの素敵な名前を思いつく。
「——カイ。君の名前はカイだ。ギリシアの第二十二字、救世主を表す頭文字。彼の十字架から生まれた君には、象徴をそれそのものとするこの名より相応しいものもあるまい。祈りなさい、君が生き続ける限り。そして祈りを請いなさい、君が正義という信念を貫き、世界を変えるために——」
男……人類史上はじめてバックヤードに到達し、世界の真理を手にしたことで永劫に続く人類の幸福を追い求めるようになった世界最大の罪人は、歌うように、願うように、祈るように、呪うように、その名を口ずさんだ。
◇◆◇◆◇
君はまるで十字架のような少年だねと、言われたことがあった。
祈るために生まれたようだねと言う人、君自身、祈られるためにあるような存在だと言う人。カイが唯一生まれた時から持っていた十字架と名前とを指し、人々は他意なくそう言う。君は十字架のような少年だ。正義に忠実であり、人々の幸福に正直であり、誰より人を愛している。君の親は、きっと、君がそうであるようにカイという名を与えたのだろう。カイとは、即ち、救世主クリストスの頭文字である《Χ》。十字架に似たかたちを持つ名。君のご両親はきっと大層信心深い方々だったのに違いない……。
「私は……べつに、知らないんですけれどね、両親のことなんて……」
それを言われる度、複雑な心地になりながらも表面上にこやかに取り繕い、ありがとうございますと礼を述べるのがカイの常だった。確かにカイはよく祈る。戦のはじまりと終わりに祈り、日曜には教会でミサに参加する。祈りは常にカイと共にあると言ってもいい。けれど別に、カイは自分が救世主だなんて思ったことは一度もない。
もしも、顔も知らない両親が本当にカイに救世主たれと願ってこの名を付けていたのだとしても、今を生きるカイにとってそれはまったく関わりのないことだ。カイは自分自身がそうあれかしと考えるから祈り、自ずから求めるゆえに正義を信じ、心からそう思えるからこそ人を愛するのである。
「今更そんな、見たこともないひとたちのことなんて、知りませんよ」
カイはむすりとぼやいて窓の外へ目を遣った。
先日、長きにわたって続いた聖戦が終わりを見た。聖騎士団はとうとう悲願であったギアの女王・ジャスティスの捕縛に成功し、彼女を次元牢へ封じて無力化。司令塔の消失によって各地のギアは積極的な破壊活動を停止、これを受け、国連・元老院・聖皇庁、その全ての合意から聖戦終結の宣言がなされた。それが十一月二十日……丁度、カイが十八歳の誕生日を迎えたその日のことだった。
表向き、聖騎士団の精鋭部隊の成果とされたその手柄による誉れを代表して賜ることになったのは、もちろん、当代の団長であるカイだ。その栄誉を祝す式典が今度十二月二十五日に行われる見込みであるという。一ヶ月も間があくくらいならそんなものはやらなくても良いのではないかと思ったが、政治的な観点から見た場合必要な工程なのだということは、理解出来なくもなかった。
『選べ——道を開けるか、くたばるか……』
そんなことよりも、カイの頭を目下悩ませているのはあの男のことだ。ジャスティス封印の際にほんの少しだけ顔を合わせた彼と二年前に交わした、あの夜の会話。ジャスティス封印の本当の立役者であるソルは、ほぼ無力化状態にまで追い込まれたあとだったジャスティスを聖騎士団に放り投げ、カイに一言も告げることなくまた何処こかへ消えてしまった。あの晩の真意を問いただす暇さえ与えぬままに……。
「聞きたいことが、まだ、たくさんあったのに。それこそエベレスト並に。いっぱい、いっぱい、問いただすべき事柄が山積みなんです。あの男には」
今も。その先に続くべき単語を沈黙と共に呑み込む。カイには自信がない。ソル=バッドガイという男が、カイのこれからの人生に再び姿を現すことがあるのか、その確証が持てない。
「……。坊や、か……」
呟いた折、丁度団長室のドアをノックする音がして、カイは頭をひとつ切り換えると腹心の部下であり父親のようにも思っている初老の男を出迎えた。
「いかがですか、書類の仕分けは。本当なら、私もお手伝いしてさしあげたいところですが」
入室し、盆に載ったティーセットをテーブルの上に並べながら彼が尋ねた。
役目を終えた聖騎士団が解体されることが先日決まり、後始末に追われた団員たちは日夜敷地内を奔走している。団長職にあるカイとてそれは例外ではなく、クリフから引き継いだあとのこの部屋にある種々の物品の中から要不要をより分ける作業には結構な日数を費やしていた。そのせいで余計な考え事も捗ってしまい、結果的に先ほどのような益体のないことに延々思い悩んでしまう。彼がティーセットを運んできてくれたのは、今のカイにとってはとても有り難いことだ。
差し出されたカップを手に取り、一口含んでからカイは顔を上げた。
「いや、いいんだ、ベルナルド。機密書類ばかりだから私自身の手で処理しなければならないことは分かっています。今はあなたが美味しい紅茶を淹れてくださるだけで充分です」
「かたじけない。ああ、それと、団員達の今後の進路希望が大方出そろいましたよ。内訳としては、おおまかに四割が故郷への帰属、二割がその他、そして四割がカイ様と共に新設される国際警察機構への移籍を志望しております」
ベルナルドが端的に事実を告げる。それにカイは思わず狐につままれたような表情をしてしまい、飲みかけのティーカップをテーブルに戻した。
「そんなに? 本当にいいのだろうか。前線で戦い続けた彼らは、名誉勲章を賜って故郷でゆっくりと過ごす権利があると、はっきり国連及び聖皇庁から通達がきていたはずですが……」
「老齢や負傷が著しいなどの理由でリタイアメントせざるを得ない者達はその恩恵にあずかるそうです。とはいえそれも全体で見れば二割ほどですかな。故郷帰属を希望した者の半分は実家の手助けをするために警察機構行きを断念したと申しております。それを加味すれば、カイ様に着いて行きたがった者の総数はおよそ六割にのぼるかと」
そんなカイにベルナルドはやや悪戯っぽい表情でそう続ける。カイはますますきょとんとし、今度は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になってしまった。
「ベルナルド、そんなことを言われても、私は別に喜んだりしませんよ。しかし困ったな……いえ、国際警察機構というこれからの正義と秩序を担うべき組織に聖騎士団の頼れる者達が多数所属してくれること自体は素直に喜ばしいのですが、彼らは本当にそれでいいのだろうか。別に私は、強制をしたつもりはなかったんです。むしろその逆で、これからの時代は、各々が目指すことをやってほしくて……」
「お言葉ですがカイ様、彼らは皆、自分自身の意思でカイ様に着いていくことを望んでおります。誰もカイ様に強制されたわけではありません。尤も、カイ様を置いて遠くへ行くなどそんな危なっかしい真似は出来ないと申す者も少なくはなかったのですが」
「べ……ベルナルド!」
「嘘ではありませんよ。その他純粋に正義を志す者、そして故郷を失い、どうせなら新天地で信頼出来る上官のもと心機一転したいと考える者。志願理由は様々です。如何いたしますか」
ベルナルドにしれっと問われ、カイはこめかみを押さえる。そんなことを聞かれたって、カイには承諾して判子とサインを通すことぐらいしか出来ないのだ。
「如何もなにも、私に彼ら個人の志望を変更させる権利なんてありません。受理します。そのように各組織には私から報告しておきましょう」
「御意に」
「それで……一応訊いておきますが、ベルナルド、あなたの希望は? あなたも国際警察機構へ?」
この分では、ベルナルドも「カイを放っておくなんて危なっかしくて出来ない」という理由で国際警察機構への移籍を希望しているのだろう。そもそも彼の場合、カイの育て親のような側面を持っていたせいで、その派閥の筆頭である可能性さえある。そう考えて半ば決まり切った答えを想定していたので、次いで返ってきた彼の返答にカイは驚かされた。
「いえ。私は国際警察機構そのものへの所属は考えておりません」
「……え。それじゃ、故郷へ? あなたの故郷は、確か……」
「グリーンランドです。しかしそちらにも戻りません。カイ様、私はカイ様付きの執事となり、この身果てるまであなたにお供致します。スケジュールの管理から快適なティーブレイクの提供まで、全てお任せください。受理いただけますかな」
代わりに提示されたのは、とても魅力的な提案だ。これまでも、ベルナルドは団長付きの副官として執事に近い役割をこなしてきてくれてはいた。書類仕事の引き受け、カイのスケジュールの把握、サブ指揮系統の管理……。さらにはお茶の用意に関して言えば、彼の趣味だというので、クリフが団長であった頃から任されている。しかしちょっと魅力的すぎないか。というより、これはもうその域を超して、カイに対して過剰に世話を焼きすぎているのではないか……。
「……。ベルナルド……あなた、実はちょっと私に対して過保護すぎるんじゃないかって、最近、そう思うのですが」
「おや、いけませんか。これでも幼少のみぎりよりカイ様を見守らせていただいた身、御身のことは誰よりも案じている自負があります。クリフ様には、団長役をカイ様に引き継ぐ際によろしく頼むとも言われていますし」
「クリフ様……あの方は、私のことを孫か何かだと思っているんじゃないでしょうね……」
「まあ、半分ぐらいはそうでしょうな」
そのあたりをひとつ明確にしておかねばいけないと思い聞けば、やはりしれっとした顔でそれを肯定される。そこでカイはもう立つ瀬なくなり、がくりと肩を落とすと盛大に溜め息を吐いた。
「はあ……わかりました。断る理由がありません、これからもよろしくお願いしますね、ベルナルド」
「お任せを」
「いや、でも、本当にそんなに過保護にはしなくていいですからね。私の個人口座からそれなりのお給金を出しますけれど、額面以上の無茶はしないでいただきたいですし、住み込みじゃなくて通いでいいですし、というより私生活はひとりで回せますから、仕事の補佐だけで構いませんし……」
「まあ、カイ様も難しいお年頃ですからなあ」
「そうです。この際敢えて否定しませんが、ええ、そうですとも。わかっていただけるようでなにより。私だってもう十八なんですよ。法律上は成人していますし、自分の責任は自分でもてます。まったく、どうして皆して私のことをそう過剰に心配するのか……」
ついつい本音が漏れ、そんなことをぼやくと、おかわりの紅茶をカップに注ぎながらベルナルドが微笑む。
「それは、あなたが大人になった時に自ずと分かりますよ、カイ様」
けれどその言葉の意味がわからず、カイは首を傾げた。
……カイが大人になったら? だってカイはもうじゅうぶん大人とかわりのない能力を備えているし、そもそも成人して、保護される必要のある年頃を終えたのだ。思春期がちょっぴり遅咲きの気があることは認めるが、それにしたって、もうなんだって自分一人で出来るのに……。
でも、ベルナルドは意味もなくそんなことを言ったりする男ではない。では、彼がそう言う以上、カイはまだどこか守られるべき子供の側面を抱えているのだ。けれど大人と子供の境というのは、一体なんなのだろう。たとえばカイがまだ、お酒が苦手だから? いいや、そんなことではないはず……。
思考は堂々巡りに陥り、どう足掻いても答えが見つかりそうにない。正面で微笑んでいるベルナルドの顔には、ですからカイ様はまだ、大人になりきれていないのですよなどと書かれているような気がして、カイはなんだか調子が狂ってしまい彼から目を逸らした。
◇◆◇◆◇
聖戦終結当時は世界中どこもかしこも焼け野原だったものの、人間というのは存外逞しい生き物で、それから五年も経つ頃にはすっかりと都市部を広げ繁栄の盛りを見せるようになっている。このローマの街も聖戦後の平和を象徴する巨大都市のうちの一つだ。旧聖騎士団本部や現国際警察機構本部が置かれているパリと並び、ヨーロッパ付近では有数の勢いある地区である。
三年前に国連が発布した新国家「イリュリア」の建国宣言に謳われた構想によれば、この繁栄めざましいローマの街を新たなる王都に据えて散り散りになったヨーロッパやロシア、中東アフリカなどをまとめる巨大国家を発足させる予定なのだという。今現在はそのための威信ある王城を建設している真っ最中であり、イリュリアの正式な門出はその城が完成するのを待ってからになるという話だ。
その日、彼はわけあって街の裏路地を入った奥にある小さなパブの敷居をまたいだ。そこはどちらかといえば法を司る立場である彼が訪れるには少々場違いな、アウトローな雰囲気でいかにもといった風体の荒くれ者達のたまり場だったが、彼にはある確信があり、そこを訪れる必要があった。
「お久しぶりですな。聖戦終結以来ですか、一応私もあの場にいましたからね」
果たして、賞金稼ぎのごろつき共がたむろしているそのカウンターの一番奥に座っている男こそが、彼の尋ね人であった。所属を同じくしていた頃とは違い、あまり似合わない白を一切まとわず、赤と黒の派手な装いに身を包んでいる。グラスになみなみと注がれている琥珀色の酒を胃袋に流し込んでいたその男は、声を掛けられたことに気がつくと身じろぎの後振り返り、意外な人物の到来にほう、と唇を尖らせた。
「あ? ……ああ、なんだベルナルドか。珍しいな、テメェみたいなのがこんな酒場にいるとは……」
「《J》との密会の日でね。他言無用ということで頼みますよ」
息をするように尤もらしい嘘を吐くと、男が鼻で笑う。
「つまらない冗談はよせ。ヤツは半年前に軽いヘマをやって次元牢にブチこまれたはずだ。俺でも知ってるぜ。ヤツに司法取引を持ちかけに行くのなら、方角を見誤ったな……」
「おや、わかりますか。実はあなたを探してここに来ました。相席しても? ——ソル=バッドガイ」
「好きにしろ」
どうせ断ったって座るんだろうが、と嘯いたソルに頷き、ベルナルドは腰を下ろした。
そこそこの酒を頼み、しばらくの間、腹を探り合うような当たり障りのない会話の応酬が続いた。ベルナルドは確たる目的を持ってソルを探しにわざわざロンドンくんだりまで(カイをパリに置いてまで)出てきていたが、下手を打つと彼に逃げられる可能性があり、そういった事情が攻勢に転じることを彼に躊躇わせていた。何しろ世界中を転々としている賞金稼ぎである彼は、一所に決まった宿を持たず、いくつもの情報筋とパイプを持つベルナルドの力をもってしても捕捉が難しい。今回、やっとのことで偶然が重なり、ロンドンにある程度の日数滞在をすることが確かめられたのだ。こんな千載一遇のチャンス、次はいつ巡ってくるのかわからない。
そこからどのくらい、そんな無意味な探り合いが続いたのだろう。緊張を維持し続けることに嫌気が差したのか、先に話の核心を促してきたのは、ソルの方だった。
「いい加減、本題に入ったらどうだ。わざわざテメェが俺を捕まえにきたってことは、あの坊や絡みなんだろう、どうせ」
「……逃げるつもりはないと?」
「どうせ外に見張りを立たせてるんだろ?」
「心外ですな。逮捕をしに来たわけではないというのに」
「俺は賞金稼ぎであると同時に特級賞金首だからな」
「無茶苦茶な手柄のあげ方をしすぎるからですよ。カイ様がそのことであなたが不当に牢に入れられないよう、どれほど心を砕いておられるのか……」
「やっと出たか、坊やの名前が」
ソルがにやりと口端を釣り上げる。はめられたか。そう観念し、ベルナルドは静かに息を吐くとグラスの中に残っていたモルトウイスキーを一息に煽った。
「……あの日、何故カイ様に声を掛けなかったんです」
あの日というのが、聖戦が終結した日……ジャスティスが次元牢に葬られた日であることは尋ねるまでもなかった。封炎剣を持ってソルが団をいなくなった日から二年後。二年間も捨て置かれたと思っていたカイの前に急に現れ、彼の心をソルが掻き乱していったその日だ。
ソルはそれにひどく辟易した調子で質問を質問で返す。
「逆に訊くが、何故俺があの坊やに声を掛けなきゃならねえ」
「あの方は大人になるのをやめてしまわれた。……あなたがいなくなったあの日からですよ」
ベルナルドが言った。口調は重々しく、ソルに対する批難の色を強く含んでいた。
「坊やがいつまでもガキのまま成長しなかろうが、俺の知ったことじゃねえな。爺さんとの約束にだって、そんなところまでは含まれちゃいねえ。契約外だ。他を当たれ」
「そういうわけにもいきません。それに私は、ソル=バッドガイ、あなたに責を問う権利がある」
「権利だ? それは法の番人としての口利きか? それとも……」
「実を申しますと、私はあなたとカイ様が関係を持っていたことを知っているのですよ」
責任逃れをしようとソルがひらひら手を振ったところで、ベルナルドはとっておきの隠し球を放つ。効果はてきめんだ。それを聞いた瞬間、ソルは思いがけぬ言葉に口から酒を吹き出し、カウンターを汚したことにも構わず口を手の甲で拭うと動揺著しい声を出してベルナルドに向き直った。
「な……なんだと?」
「おや、隠し通せていたとお思いで?」
そこを見逃してやるベルナルドではない。彼は慌てるソルとは正反対に、冷静そのものといったふうでソルを続けて問い詰める。
「いや、だから……」
「誤魔化す必要はありません。もちろん、ただの親交などではなく肉体関係を持っていたことについて私は言っているのだから。……無論あの方にそれを問いただすような真似はしませんし、カイ様は私がそれに勘付いていることさえご存じないでしょう。しかし相手であるあなたには、釘を刺す権利があると思いまして。これでも一応カイ様の育て親の一人です。あなたと同様に」
「……俺はあいつにひとつも親らしいことなんざしてねえよ」
「なんと。それはおかしな話ですな。カイ様は明らかに、思春期の発達にかけてはあなたの影響を受けていると思いますよ。それで……本題ですが」
「…………」
「何故カイ様をあんな形で縛り付けて放置した。あれでは本当に磔の聖人だ」
鋭い糾弾にソルが口を噤んだ。形勢は完全に逆転し、ソルの不利に場が動いていた。
ソルがすっかり唇を閉ざしてしまってからも、ベルナルドの糾弾は止まる素振りを見せなかった。むしろ弁舌は激化し、彼の怒りにも似た憤りがいかほどのものであるのかをソルに訴えかけてきている。その様にソルはうっすらと思い出す。そういえば、昔から……この男は苦手だった。面倒極まりなくて。
「謝罪しろと言っているわけではありません。ただ、私はずっと側であの方を見ていて、そう判ぜざるを得ないと思った。カイ様もあれから歳を重ねられ、今や二十二です。責ある地位に就き、『公人』としてのカイ=キスクという人間は誰の目から見ても大人になったと言うに相応しい成長を遂げた。しかし、カイ=キスクという『個人』はそうではない。そう強く感じたのは、聖騎士団が解体された時です。
……聖戦終結当時あの方はまだ十八でしたから、その時はまだ、子供と大人の境にいてもおかしくない時期ですし、確かにそのような側面が残っていても仕方なかったかもしれない。それでも私は予感があり、あの方のそばで添い遂げるべく執事を志願しました。そして……予感は的中した」
視線が刺すようだった。五年間、いやひょっとすると七年間の長きにわたって蓄積されたベルナルドの憤怒は、蝶よ花よと育てた愛娘が行きずりの男に孕まされたことを知った父親のそれにさえ似ていた。
「カイ様は今もって少年のままです。あの方の心は、あなたに置いて行かれた日から時を止めてしまわれた」
もう、七年間も。それを口にして、ようやく彼は一度言葉を止めた。
それから幾らかの間、静寂がソルとベルナルドとの間を支配した。生半可な言葉で彼に応えることは、ソルには出来なかった。それが彼の怒りの中心ではなかったにせよソルがカイと肉体関係を持っていたことは事実であり、何も知らなかった生娘の如き少年を犯したのも変えようのない真実なのだ。
だが一方で、ベルナルドの認識とソルの認識との間に、大きな齟齬も生じてしまっている。ソルは確かにカイを犯した。神聖たる少年の肉体を陵辱し、以降、団を離れるまで度々関係を持った。それはカイが望んで行われる時もあれば、ソルがカイを手招きしてはじまる時もあった。
しかし最後まで、彼という少年の神聖は失われなかった。彼はソルに幾度犯されようとも、決して、ソルのために穢されてはくれなかったのだ。
「テメェはいくつか、勘違いをしてやがる」
それを告げると、ベルナルドはわかりやすく眉をひそめた。
「カイの時が本当に止まっているとして、だが、ソイツを動かすべきは……少年時代の幕を引くのは、俺じゃねえよ」
「……何故?」
「俺は……確かに、言った。俺のために大人になんかなるなと。いつか嫌でも大人になる時が訪れるのに……こんな大馬鹿野郎のために、たった十五歳で、子供を棄てる必要なんざないと……。そう言い含めたにも関わらずカイは俺との関係を続け、そして結局最後まで何も変わらなかった。こう言い換えた方がいいか。俺には、あいつを大人にする力なんかねえんだよ。もしそれが出来てしまったのなら、あいつはもうずっと前から子供なんかじゃいられなかったんだ」
——俺が坊やを抱いたあの夜から。
呟き、からからになった喉を潤そうと口を付けたグラスには、最早氷の溶けた生ぬるい水しか残っていなかった。
「そんなに坊やが大事か」
「あの方は、これからの世界に必要な方だ。私はカイ様のためにこの身全てを捧げる覚悟をとうに決めている」
「は、おあついこったな」
「言えた口か。あなたとて、そうだろう、ソル=バッドガイ。あなたが私と違うのは、カイ様のそばにいるか否か、そしてカイ様に肉欲を抱いたか否か、それだけだ」
「……そうかよ」
それからは、二人して生ぬるい水をちびちびと飲みながらまた益体のない話へと戻った。ベルナルドは他のカイという偶像へ盲従的な奴らよりは幾億倍もマシだったが、それでもカイを信奉していることには変わりないので、ソルには彼の考えの全てはわかりかねた。
ただ、話している中で一つだけ気に掛かることがあり、それを尋ねる。かつてはじめてカイとセックスをした夜、確かにソルは、彼の中に神聖を見た。一ミリぐらいなら、どうして彼という少年を天使か何かのように崇める連中が出てくるのか、その理屈は理解してやれると思った。けれどカイは天使ではない。神の子でもなく、当然ギアなんかでもなくて、ただいたずらに正義感が強くてひたむきなだけの、人の子だ。
「カイは人間だぞ」
ごくふつうの、どこにでもいる、ただ人より少し頭がいいだけの。
視線を向けもせずにそう言い棄てると、ベルナルドはわかっている、と二人分の勘定を懐から取り出し始める。
西暦二一八〇年八月。奇しくも、カイの人生にソルが再び関わり始める契機となったあの第二次聖騎士団員選抜武道大会が開かれる、一ヶ月前のことであった。