08 かくあれかし、永遠なる少年よ

  ——”かくあれかし”、とそのひとが仰いました。

「Holy, holy, holy……all the saints adore thee, Casting down their golden crowns around the glassy sea ; Cherubim and seraphim falling down before thee, Which wert, and art, and evermore shalt be.」
 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。全能者にして主なる神、昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者。ヨハネの黙示録第四章八節には次のように語られる。二十四人の長老は御座におられる方にひれ伏し、この世のはじまりから終わりまでを生きるその存在を拝み冠を投げ出して言う。あなたこそは栄光と誉れと力とを受けるに相応しい。あなたは万物を造られ、御旨によって万物は存在し、また造られたのだと。
「Holy, holy, holy……Lord God Almighty. All thy works shall praise thy name, in earth, and sky, and sea ; Holy, holy, holy……merciful and mighty. God in Three Persons, ……blessed Trinity……」
 礼拝堂で祈る少年は賛美歌を歌う。神聖であれと呪われてこの世に生み落とされた少年は姿なき神を讃える。昨日剣を握った手で、一昨日は犬だった兵器を殺した指先で、十字架を持ち、聖像に傅く。
 正義であれ、と少年を生み出した男は言い、また、シンボルたれ、とも男は言う。祈りとうつくしいものとで腹を満たしなさい。信仰と神聖とでその肢体を形作るのです。そしてなにより救世主でありなさい。この救いようのない地獄を終わらせ、人類の幸福が永遠に続くという彼の夢を今度こそ叶えるために。

 ——” 少年であれ かくあれかし ”、と男は彼を呪いました。


◇◆◇◆◇


「……坊やは寝てな……」
 七年ぶりに見た背中だった。
 かつてその背に男らしさを見いだし、雄々しさと勇猛さ、力強さ、そして何より安堵を見出した。けれど七年前のあの夜だけは、そこに怒りとも憎しみともつかないような悲しみ、落胆、裏切りと猜疑を思うさま投げつけ、それから忘れようとして、でもやはり、忘れられなくて。
 そして今また、その背に一つの感情を見つけ出そうとしている。
「ソル……私は……まだ、届かない、のか……」
 第二次聖騎士団員選抜武道大会。出場資格に犯罪歴さえ問わず、にも関わらず優勝賞品として巨額の富と名声とを掲げ、世界各地からならず者達をありったけかき集めて開かれたその大会は、旧聖騎士団とは一切関わりのない団体が催すのだという。どう考えても裏があるとしか思えない。それを受け、反対する部下達を説得して自ら乗り込んだカイがそこで目の当たりにしたのは、一癖も二癖もあるような参加者たちと、驚くべき真実だった。
 「アサシン」組織の者達、義賊の娘、ツェップの奴隷兵士。ひょうきんなイギリス人、連続殺人犯、元売人のアメリカ人忍者、そして何かの決意を持って現れた敬愛する師と、かつて焦がれた男。……今、カイの眼前では、黒幕を名乗るギアが高らかに告げている。参加した彼ら全てを利用して、かの史上最悪のギアの女王、「ジャスティス」を復活させることこそがこの大会の目的だったのだと。
「……小うるさい坊やは始末しておいた。茶番は終いだ。そこの貴様、ツラ出せ」
「……ほう。やはりお前は気付いていたか」
「フン……チンケな小細工しやがって。ここまで大人しくしているのは、かなりヘヴィだったぜ……」
「……」
「だが……ヘタに動いて、またテメェに逃げられたんじゃたまんねえからな。悪く思うな。ここで茶番ごと、テメェも終いにしてやる」
 ソルから鳩尾に重たい一撃をもらい、為す術なく地に伏せっているカイからやや離れたところでソルと長髪の青年が対峙している。這いつくばったまま上を見上げているカイは、ソルが会話をしながらある一定の距離へと相手を誘導していることにすぐ気がついて歯がみした。死神の如き大鎌を持った彼の攻撃範囲に、決して倒れているカイが入らないように調整しているのだ。するとカイを殴って寝込ませたのは、その真意は、つまり……。
(届かないも何も……私は……なんて、未熟な。この期に及んでソルに守られているなんて、こんな、七年間も私を置いて……どこかへ行ってしまった男に、私は!)
「察しの通りだ。この大会はジャスティス復活のための儀式にすぎない。お前達はその贄となるために人間同士仲良く闘気と血を大量に流し合ってくれたわけだ……。くくく、そう、国民も、大会実行委員も、国連の上層部すら、私の手の中で踊らされていたのさ! そして機は熟した。さあ、残るはあと一人。お前の血をもって、この喜劇に幕を降ろそうじゃないか。背徳の炎よ……!」
「は……マンネリな野郎だな、テメェも。そういうのはそこでおねんねしてる坊や一人で十分だと俺の中じゃ相場が決まってる。くたばりな……」
 封炎剣を構えたソルが荒々しい踊りのように青年へ襲い掛かっていく。その背中にまた声なき声を見て、カイは呆然と、その様を見る。
 ——坊や、大人のやり方ってやつを、教えてやるよ。だから今は……寝てろ。テメェが生きるために……。
 そしてカイはその日はじめて、神器を手にした男の戦いぶりを目の当たりにした。
 ギア・テスタメントとソルの戦いは、いっそ芸術的なまでのワンサイドゲームに終始した。聖騎士団で現地調達した適当な武器を使い壊していた頃からソルは圧倒的な強さを見せていたが、そんなものの比ではない。神器は手足のようにソルに馴染み、彼の一存で自在に炎を吹く。まるで彼がためにあつらえられたかのような、暴力的で傲岸不遜な剣。
 何しろ世界に七つしかないと言われる出所不明のオーバーテクノロジーだ。カイが賜った封雷剣だって、封炎剣と比肩するポテンシャルを持ち、聖戦終盤は幾度となくそれに助けられてきた。だが同じ力をもつそれをソルが扱えば、こうまで相手を蹂躙するのか。
 確かにソルが欲しがるわけである。でも……そこまで考えてふとそのことを思い出してしまって、カイは気落ちした。だからって盗むような真似をしなくたって、あの男が望めばきっとクリフも自分も、彼に剣が下賜されるようにいくらでも手を回してやれたのに。
 そして最後にその結論に思い至り、カイはますますどん底の気分に陥った。本当はわかっているのだ。ソルが聖騎士団を抜けたのは神器が手に入らなかったからではない。ただ単にカイにうんざりして、だから……それでだ。
 上空からの強烈な一撃が決まり、テスタメントが吐血して倒れる。焼け焦げ、ぼろぼろになったギアの腹に封炎剣を突き立て、ソルはやれやれだぜ、と首を捻った。
「はん、手間取らせやがって。おら……ジャスティスが寝込んでんのは何処だ。とっとと出しやがれ」
「くっ……くく、は、はは……! 私を倒して一安心と言ったところか。だが、言ったはずだ。あと一人だと。あと一人分の血、それはこの私のものでさえ例外ではない。これでジャスティスは確実に復活する!!」
「チッ、いちいち鬱陶しい真似してくれやがる。どうせそんなこったろうとは思ってたぜ。こっちも初めから野郎は消すつもりだった。それが俺の役目だからな……」
「……何故だ。何故?! 『背徳の炎』、貴様とて、我々と同じ……!!」
 テスタメントが絶叫する。しかしそれには応えることなくとどめの一撃をお見舞いしてやり、ソルは倒れ伏したテスタメントのその更に奥にある祭壇に目を遣った。
 暗闇の中で何かが光る。あれは……目だ。暗い翳りを落とした双眸。人を憎む眼差し。離れた場所に横たわっているカイにでさえ、その光ははっきりと視認出来た。同時に怖気と寒さがカイを苛む。あの目は。あの瞳を、カイは知っている。医務室のベッドの上から始まった人生の中で、一番最初に教えられた恐怖と畏怖の象徴。カイが聖騎士団で過ごした八年間を裏から支配し続けた、人々の正義を脅かすもの……。
 絶対悪。
 破壊神ジャスティス。
「……おいでなすったな。ったく、ヘヴィだぜ……」
 口調とは裏腹に、ソルの声は待ちくたびれたといったふうだった。そのまま続けて封炎剣を構え、その時ふと思い出したように彼は振り返り……
「坊や」
 その唇でカイを呼んだ。
 七年ぶりだった。七年も声をかけてさえくれなかったくせに、その呼び声はつい昨日も教会でミサの帰りに出会った友人のように気安く、そして何よりカイの心を喜びの感情で揺り動かした。
 一度もちゃんとした名前で呼んでもらえていないことを七年前はしょっちゅう憤っていたけど、今この瞬間、カイにとりそんなことは些末事にすぎなかった。ソルがカイを呼んだ。彼はカイを覚えている。気遣ってくれていたのも思い上がりではなく、何か意味のある作戦だったのだ。恐らくは……。
「立てるか。いや、立てなくてもいい。役目を果たせ、あれを準備しろ。出来るな。今この場にソイツを行使出来る術者はテメェしかいねえ。その代わり、このクソッタレの化け物は絶対に坊やのところまでは行かせねえよ」
「え……ええ。わかりました。やります……私にも、矜持がありますので……!」
 「うれしい」だなんて思っていることがおくびにも出ないように細心の注意を払って出した声は、上ずって跳ね上がる鼓動の音と反比例するように冷静だ。ソルが自分を頼ってくれた。いつも子供扱いして遠ざけていたソルが、カイを、頼った。その事実だけで十分だった。
 近場に転がっていた封雷剣を手繰り寄せ、なんとか身体を引き起こして膝をつく。ソルがこの場でカイを頼ってまで発動させたがる術式なんて一つしかない。次元牢発動の術式。それもジャスティスを永遠に葬り去るに足る、特級の永久牢獄だ。
 法力を増幅する役割を持つ封雷剣を地面に突き立て、カイは努めて冷静な声で詠唱を開始した。普段使い慣れた雷の法術なんかはもう理論も発動過程も完全に暗唱しきっているから、詠唱を破棄して即時発動まで持って行けるが、次元牢を生成するとなるとそうもいかない。精密で複雑、そして繊細で緻密な術式計算を必要とし、なおかつ実行には膨大な法力も不可欠だ。本来はその手の術式を扱うのに優れた専門の部隊を編成し、十人単位で行わねばならない。実際、五年前の聖戦終結時には万全を期して三十人編成の特殊部隊で事に当たった。
 だが今は、それを全てカイがまかなわねばならない。けれど不可能だとは微塵も思っていなかった。ソルがカイを頼り、そのうえ、言ったのだ。「出来るな」と。ここで出来ないようでは、あの男には一生、カイは認めてもらえない。
 救いは、強力なブースターとなる封雷剣が手元にあり、そしてジャスティス復活のために集められた大量のエネルギーが祭壇にまだ残されていることだ。あれを自然法力に変換して足しにすればギリギリで発動に漕ぎ着けられる。あとは間違いなく詠唱を終えるだけ。大丈夫だ。出来る。カイはもう守られるだけの子供じゃないのだから。
「……父、病める時、母、その涙。母、病める時、子、その涙。冥暗に銀の流線は哀。悲嘆に伏せし背に、添える手は愛。欲心に慎ましく。世俗に真理あらば、寛容に。健やかに心育む時、四海はその涙……」
 意識が研ぎ澄まされていく。ほんの数メートル先で行われているはずのジャスティスとソルの攻防もまったく聞こえてこなくなるくらいにカイの神経は鋭敏になり、その全てが術式を成功させることのみに向けられていた。時折、流れ弾が近くを掠めたが、それさえカイの意識の埒外にある。
 ソルは言葉通りにジャスティスを一歩もカイの方へ向かわせなかった。ジャスティス復活の儀式を担ったテスタメントが、養父クリフを思い慕う心により無意識下で抵抗を見せ、蘇った破壊神が全盛期ほどの力を持てなかったことも事態を有利に運ばせている。しかしそれでも、手を抜いたままで相手取ることは出来ない。ソルは舌打ちをしてヘッドギアを外した。この最悪のギアを今一度完璧に葬るためには、やはりこれを外さなくては。
 ドラゴンインストール。平素は押さえているギアの全能をありったけ解放し、ソルは猛り狂いジャスティスに殴りかかった。耳を澄ませば、離れた位置で詠唱を続けているカイの声が聞こえてくる。あれは確か……もう終盤の祝詞だ。となればいよいよもうすぐか。もたついている暇はどうやらなさそうだ。
「テメェの時代は、終わったんだよ。いい加減、くた、ばり、やがれ……!」
「発動せよ、拘束次元牢、第二十二式永劫牢獄!! 破壊神ジャスティス……お前を、封印する……!!」
 そうしてソルが渾身の一撃をこめた攻撃を繰り出すのと、カイが詠唱完了を宣言したのは殆ど同刻のことだった。
 地に突き立てられた封雷剣から、ソルの封炎剣が突き刺さったジャスティスへと一直線に雷光が走る。次の瞬間、青い閃光が迸り、ジャスティスの身体を魔方陣の中に捉えた。
「ソル……やった……私は、やりましたよ……」
 それを確かめてカイはがくりと肩を落とし、ふらついて再び倒れ込む。この身に宿る法力全てを使い果たし、文字通り精魂尽き果てたカイには、最早立ち上がっているどころか意識を保っているだけの力もない。
「ああ……よくやった。後は任せて、ゆっくり寝てろ」
 ソルが振り返ってカイをねぎらう。なんて珍しいことだろう。もしかして私は夢でも見ているのかもしれない。そうぼんやり考えたカイのぼやけて霞んだ意識が、彼の額に刻まれた紋様を捉える。
「……え?」
 カイはそれに思わず小さな声を上げた。
 赤く光る灼熱のような紋様。見覚えがある形だ。だってそうだろう。その証をカイは腐るほど切り裂いてきた。それこそは、かの罪ありき兵器の証明。悲しき生体兵器、その全てが身に宿す、ギアの刻印……。
『貴様とて……ギアであろう! その額の刻印こそ、我が同胞の証! なのに何故……何故、私の命令を聞かぬ!!』
 薄れゆく意識の中、最後にカイの脳裏に響いたのは、怒り狂うジャスティスの雄叫びであった。


◇◆◇◆◇


「気がついたか」
 目覚めた時はベッドの上に横たわっていた。けれどこれまでの記憶もちゃんとある。大丈夫だ。カイの人生は、決してこの今寝かしつけられているベッドからは始まっていない。
「……また、私を置いていくのかと思いました」
 開口一番に口をついて出たのは、そんなかわいげのない言葉。しかしそれを気に留めたふうもなく、カイに声を掛けた男——ソル=バッドガイはフン、と鼻を鳴らした。
「どうやらこの七年の間、あんな焦土みてえになったところに意識不明重体の坊やを一人置いていくほど人でなしに思われていたようだな、俺は」
「そ、そういうわけじゃ……」
「いや、いい。テメェが仮にそう思っていたとしても、それを責める謂われは俺にはねえ。やれと言ったのは確かに俺だし、その結果坊やが生命を維持するための気の流れまで全て変換して次元牢を生成したのは事実だ。あそこで死なれたら、寝覚めが悪ィ……」
 ばつが悪そうに顔を逸らしてソルが言う。その言葉に昔のことを思い出して、カイはぼんやりと、ソルの顔を見上げる。
『坊やが倒れたら、困るのはテメェ一人じゃねえんだぞ』
『……ソルも、わたしが倒れたら、困るんですか』
『寝覚めが悪くなる』
 あれは確か、ソルが聖騎士団に来てまだそう日が経っていなかった頃の話だ。もう既にヘッドギアと前髪とに覆われて何も見えなくなってしまった彼の額を見つめながら、カイは思い出を脳味噌の中で反芻した。
「……本当に子供のままだな」
 そんなカイをじっと観察していたソルがそうぼやく。その言い方にかちんときて、カイはむっとしてよく考えるより先に抗議を口に出した。
「お前が七年も私を見ていなかったからそう思うんだ。私はもう二十二だぞ、二十二! 十一月がくれば二十三だ。まったく、成人して何年経ったと思ってる……」
「あんま興奮すんなよ。まだ万全じゃねえんだぞ」
「ッ……おまえが! おまえのせいだぞ!! ソル!!」
「ったく。そういうところが、ガキだって言ってんだよ……」
 やれやれと首を振り、ソルはベッドの上に上体を乗り出してカイに覆い被さるようにして距離を詰めた。
 くっとカイが息を押し殺す。カイの上にソルの影が色濃く落ち、視界を圧迫される。けれど二人の身体の間には三十センチ以上の間隔が丁寧に開けられていて、ソルの手のひらだけが唯一カイの顎に掛けられている。
 一体何をするつもりなんだ? そう問いただそうとしたカイを、ソルの声が遮った。
「先月、ベルナルドと会った。ロンドンのイースト・エンドくんだりまでわざわざ俺を目当てにな。あんな場所にお上品な身なりのまま入ってくるあたり、ヤツの度胸は鋼鉄のかたまりそのものだ。あれほどピリピリした空気を振りまいてなきゃ、身ぐるみ剥がれてたに違いねえぞ。一度言ってやれ。あの執事殿もテメェの言うことなら一考はするだろ」
 思いがけない内容にカイは困惑を露わにする。ベルナルドが? ソルと……何故?
「ベルナルドがお前と? 先月というと……そういえば、珍しく休暇が欲しいと言って三日程空けていたけれど……しかも急に……」
「大方、俺がある程度の期間ロンドンから動けないと知って大慌てですっ飛んで来たんだろうな。とんでもねえ剣幕だったぜ。坊やが、あれきり大人になるのをやめちまった……と」
「……は?」
「さらにはあれじゃまるで磔の聖人だ、とまでのたまった。坊や、執事に忠告してやれ。あまり一人の人間に傾倒しすぎるのは健康に良くない、とでもな」
 それでいよいよ問いただす言葉も出てこなくなって、カイはぽかんと大きく口を開けたまま、黙り込んでしまった。
 ベルナルドが、カイに対して少々過保護の気があることは知っている。彼はカイが十歳でまだこの世界のルールさえ知らなかった頃からの付き合いで、カイのことを息子のように思っている節がある。でも。「磔の聖人」だなんて、それは一体どういう意味なのだろう。
「私は……別に大人になりたくないと言っているつもりはありませんし、磔にされているわけでも、そもそも聖人なんかでもないんだけれど……」
「ところがやっこさんはそうは思っちゃいないらしい。坊や、自覚しろ。どうやらテメェはそういう『性質』を持って生まれてきちまったみてえだな」
 カイの記憶にあるソルならば、うんざりした口調で辟易と語ってきそうな内容だったが、意外にも彼の声音は優しかった。半ば同情している節もある。それに、ソルの額に刻まれたあの紋様から、気を逸らそうとしているふうでもあった。
「そういう、とは」
「人に祈られる。人を揺らがす。時には人を夢中にさせる。……愛されやすい、と言えば聞こえはいいが」
 テメェのそれはまるで魔性だな。呟くソルの目はまるで笑っていなかった。
 童顔めいて、未だ幼いつくりを晒している彼の顔をそっと撫でる。あどけない二十二歳の「少年」。本人とこうして至近距離で相対すると、流石に、「少年のまま」という評価に関してはベルナルドに頷かざるを得ない。
 身体は、確かに成長した。あの頃よりいくらか身長も伸び、ソルを超えることは出来なかったが、まあ前よりはよくなった。声も少し低くなった。変声期の終わり頃の不安定さがなくなり、透き通って訴求力のある、落ち着いた声音だ。けれどそれだけだった。身体はきちんと成長しているのに内面がまるでそれに引きずられない。
 カイは何も変わっていないのだった。七年前、いやもっと昔の、ソルがはじめて彼を抱いた瞬間から、氷に閉じ込めたみたいに不変だった。通常脱ぎ捨てられていくはずの少年性は不滅の聖性であるかのように彼の全身に今なお息づいている。まるで造物主に「おまえだけは大人になってはならない」と呪われているように。
 あの悲壮な「おとなになりたい」という言葉をソルに吐き出した時から、彼は大人になりたがっているのに、何かに首を掴んで阻まれ続け、大人になることを一人許されず子供のまま蹲っているのだ。
(汝よ……アナテマたれ、アーメン、か。こいつの信心深さと並べるとなんとも笑えねえ話だな)
 自嘲気味に乾いた笑い声を漏らす。そのことに本人が気がついているのといないのと、一体どちらがましなのか。その問いはソル=バッドガイという男のギアを討ち滅ぼすべしという命題に近い。
「坊や……大人になりたいか? 昔テメェは言ったな。大人になりたい。一秒でも早く、たとえ二度と後戻りが出来なかったとしても。俺はその時、大人になんかなるなとテメェに返した。何故ならテメェはまだ十五歳だった。ガキでいていい歳だ。俺は、身の丈に合わない背伸びを続けているガキんちょを大人扱いしてやる気にはとてもじゃないがなれなかった」
 頬に指先を添えたまま尋ねると、カイは何を思いだしたのか僅かに顔を上気させ、躊躇いがちに答える。
「……知っている。それに、そのあと私達が持った行為は子供のすることではなかったけれど、別にそんなことをしたって大人になれるわけじゃなかった。お前の言った通りに」
「ああ。ベルナルドには、俺のせいで坊やは大人になれないだなとど散々なじられたがな。俺なんかに左右されるようなら、テメェは処女をなくした段階でもう魔法が解けててしかるべきだ。なのにまだ青臭いツラしてぴいぴい喚いてらっしゃる。ああ、間違いねえよ。俺には無理だ」
「ちょっと、どういう意味なんだ、それ……んっ?!」
 そうしてソルは何もかもを誤魔化そうとする代わりにカイの唇を塞いだ。
 七年ぶりにするキスは、あれだけ血まみれになった後の身体だというのにやはり白木蓮の味がした。この男は、もうとっくに処女なんかじゃないくせに、ユニコーンに頬ずりして背を差し出されそうなやつだな、と漠然と思う。はじめてを図書室で奪った時よりもよほど上達したキスの技術は、しかしソルが団を抜ける前に最後に行った時のそれよりは拙い。大層な禁欲生活を行っていたらしいことが伺え、ソルは内心安堵した。
 さほど時間を掛けずに唇を離すと、名残惜しそうな目でカイがソルの口を追いかける。しかし自分から顔を動かしてソルの唇に触れようとはしない。
 その眼差しに、この少年はきっと未だに恋を知らない、とソルは思った。熱に浮かされたはしかのような愛にだけ先んじて溺れ、その中でぷかぷか浮かんだまま、自分を孕ませた行きずりの男を待つ女のように、自分の人生に再びソルが現れる日を待っていたのだ。
 ベルナルドがそうしたように、やろうと思えば、カイはソルの動きをある程度は捕捉出来たはずだった。何しろ賞金稼ぎたちの活動報告は全て管理元である国際警察機構へ集められている。ソルは賞金を受け取る時に馬鹿正直に自分の名前を書いたことはないが、挙げられた功績の難易度と頻度から、いつどこどこで何をしていたかぐらいはおおまかに推測出来てもおかしくはない。
 だがカイはそうしなかった。恐らく、自分を見捨ててどこかへ行ってしまった男に自分から会いに行くことは、縋り付くように惨めで、出来なかったのに違いなかった。
 そうでなければ、一度関係を断とうとした恋人が何かに耐えかねて自分の元へ戻ってくることを辛抱強く待とうとしたかだ。
「なんだ、これじゃ満足出来ないのか」
 それをからかうように尋ねればカイが唇を尖らせる。
「私がもっと幼かった頃、お前がこんなにすぐに口を離したことはなかった。それだけだ」
「そうか? だがこの先はナシだぞ。さっきまで死にかけてた病人にベッドで運動させる趣味はねえよ」
「じゃあ、なんで……」
 不満たらたらと言った様子で文句をつけてくる唇をつつとひとさし指でなぞり、チャックをする。それからソルはずっと彼の上に覆い被さらせていた身体をぱっと引き離し、大仰に肩をすくめるとひらひらと手を振って見せる。
「坊やがまた俺を追い回せるぐらい元気になったら、その時は改めて相手をしてやるよ。剣だろうが、剣ではないものだろうが。……まあ俺の気が向いてればの話だがな」
 その代わり、今はテメェの気になっていることに一つだけ答えてやるよ。そうヘッドギアの下をわざとらしく指し示せば、彼はすぐに顔色を変えてこの日初めて、自分からソルの腕を引っ掴んだ。