10 もしもいい子じゃなくっても
十二歳の少年を花の盛りだと言うのならば、では十をやっと数えた頃の彼は、どのような存在なのか。
答えは極めて簡潔だ。花開く前の蕾である彼は、まだ、少年に「なりきって」いない幼子に他ならない。
子供から大人へのゆるやかなメタモルフォーゼ、その途中にのみ限定的に訪れる過ぎゆく夏の思い出に似た姿、それをいつかは散ってしまう花にたとえることは詩的であると同時にきわめて正鵠に的を射た表現でもある。花であるならば、満開の時が一過性であるのは必然。そしてその美しさを永久のものにせんとし、プリザーブドフラワーが生み出されたのもまた、然るべき過程。
なれば少年を永遠のものにしてはいけないと、誰が決めたのか。古来よりそのような思想は歴史上に散見される。古代ローマの時代、ハドリアヌス帝は溺死してしまった少年アンティノウスの美を永遠なるものにせんとし、都に彼の名を与えた。暴君ネロは絶世の美少年スポルスを妻に娶り、その際に去勢させサビナの名を与えて花嫁として扱ってさえいる。
美しいものを美しいまま、最も強い力を保持した姿のままで保とうとするのは、その影響の及ぼす効果範囲を考えれば当然のことだ。
だから男は少年を作る。
「こうして見ていると、あの子の幼い頃を思い出すな。ミッションスクール時代だ。まだ聖皇庁も出来ていなかった」
ニルヴァーナと呼ばれる、バックヤードにある空間の一つで男がそう呟いた。彼の眼前には今は使われなくなって久しい大小様々な試験管の群れと幾本ものチューブ、無数の山をなす本、そして一人の男の子が佇んでいる。
言語・ジャンル・主旨を問わず山積みにされた本を黙々と読みふけっていた男の子は、後ろから降ってきた男の独り言に反応して本から顔を上げると、そちらへ振り返った。
「先生、それは、わたしの親のどちらかのことですか?」
「おや。どうしてそう思う」
「今読んでいる本が……その、ご両親と喧嘩して家出してしまう男の子の話だったので……私を見て思い出すということは、そうなのかな、と」
「ご明察だ。けれど完全にはそうとも言い切れない」
おずおずと口にした男の子に笑いかけ、しかし男はそれを肯定しない。すくすくと成長して健康な肉体を手に入れた男の子の中に、未だ発達しきっていない不安定な魂が宿っていることを彼は重々承知しているからだ。
「何故なら君はまだ生まれきっていない。肉体はとうに発生してこの世に定着しているが、ここニルヴァーナから出たこともない君は、未だバックヤードに『ヒトとして観測されていない』。観測されていないということは、この世にとってないも同じ。そうでなければ君のような存在は世界のエラーとして理に是正されてしまうかもしれないからね。それに彼は君のことを知らない。故に君の両親は、正しくは『存在しない』、と言った方がいい。或いはこれから、君を人間にし終える何者かがそうなり得るのかもしれないが」
「……? そうしたら、先生は? 私を育ててくださっている先生は、私の親では、ないのでしょうか……」
心底不思議そうに上目遣いで尋ねてきた男の子に向かって、男はからからとそれを笑い飛ばす。男が、この子供の親。まったく笑えない冗談だ。本当に世界を動かせる美しいものが男のような存在から生まれるなんてことは、絶対にあってはならないのに。
「ああ、それはない。私みたいな人間失格が親を務められるはずがないからね。たった一人、娘と呼べるものもいたが、与えられた命題を処理しきれず、私のせいで狂わせてしまった。こんな男を親にするのはやめたほうがいいぞ。何しろ未だに人類一つ幸福に導くことも出来ていないんだ」
だからその使命を今度は君に託すんだが、と前置きして男が男の子の頭を撫でた。
もうすぐ彼は子供から少年になる。蕾は色づき、目覚めの時を待って時計の針が秒読みを始めている。その花が綻び始めた時が合図だ。彼はバックヤードに観測を開始され、世界に生まれる。救世主として。生まれる以前、羊水の中の記憶は、全て忘れ去って。
「無事に生まれることが出来たら、君にはハッピーバースデーを歌ってあげよう。その日が君にとって佳き日となるように。十字架は持っているね?」
「はい。片時も、離したことはありません」
「それは大変にいいことだ。何しろ私が君にしてやれる唯一の善行そのものだから。大分気が早いが、それが私から君への最初で最後の誕生日プレゼントだ。大事にするんだよ」
少年として生まれ、永遠に少年として生きることを生まれる前に宿命づけられた男の子は、その言いつけに花が咲いたような笑顔で力強く頷いた。
◇◆◇◆◇
例の大会以来、ソルはカイの前にしばしば姿を現すようになった。相変わらず賞金稼ぎとして荒っぽい活動を続けていたが、なるべくパリ近辺の仕事を取るようにしたり、仕事先でたまたまカイと出くわした時に、気付かれないように身を潜めて撤退することをしなくなった。……そればかりか、カイの自宅にこれ幸いと入り浸ることが増えた。
その日も、仕事を終えて帰宅したカイがリビングに足を踏み入れると、来客用ソファの上でソルが寝っ転がってタバコ片手に新聞を捲っている姿がまず視界に入ってくる。次いで視線を横へ向ければ、テーブルの上には勝手に開けられた酒瓶。格好を付けようと思って買うだけ買っておいた、そこそこ値の張るウイスキーが、まるまる一瓶空っぽになって転がされている。
「ちょっと——ソル! 宿にされるのはもう諦めたと言いましたけど、人のお酒を勝手に飲んでいいとまでは一言も言っていません! そろそろ賠償請求に踏み切りますよ!!」
出会い頭に叫んでみれば、ソルは漫然と寝返りを打ち、新聞の隙間からちろりと目だけを覗かせた。
「あ? なんだ、帰ってきたのか。えらく遅いお帰りだったな、坊や。帰り道でランタン持ったカボチャに追いかけられたりはしなかったか」
「するか!! ハロウィンは半年前に終わっています!!」
「そうか。まあ、坊やはうるさいくらいが丁度いいとはいえ、そうキンキン喚かれると流石に耳にくる。おい、上着脱いでこっちに座れ」
「だから、何故……ああもう、酔ってるからか。そうだな。絶対にそうだ」
一人で勝手に結論に至り、カイはうええ、と露骨に顔をしかめる。
何しろ酔っぱらったソルにはろくな思い出がない。目についた段階で既に出来上がっているソルならそこから倍率ドン、更に倍だ。カイは思い切り頭を抱え、眉間に皺を寄せると、ものすごく嫌そうな顔をして渋々と手招きをしているソルの方へ歩み寄った。経験則から言って、この誘いを断ると後々七面倒なことになるのがわかりきっているからだ。主に翌朝の目覚めが最悪になる。
コートをハンガーに掛けて吊し、ケープも同様にし、前垂れその他も全て外してインナーとズボンだけの格好になってからソファへ座ると、「相変わらずめんどくせえ服着てるな」とぼやかれる。その息の酒臭さにカイはうっと鼻を詰めた。こいつ、どれだけ飲んでいるんだ。しかも人の酒を。
「ソル……お前、一体何本……」
声をひきつらせながら尋ねると、ソルは新聞を慣れた手つきで折りたたみながら平然として答えた。
「ワイン三本とウイスキー一瓶、ついでにコニャックを半分」
「う、うそ。常人でそんなに飲んでいたら、もう意識も残っていませんよ。やっぱりギア細胞ってお酒に耐性も付けてしまうとか……」
「いや、関係ねえ。普通に酒に酔えるのがギア細胞の数少ない優れた特性だからな。単に俺が酒に強いだけだ」
「……なんなんですか本当に……」
この前酒蔵の鍵を変えたのに、なんの意味もなかったらしい。カイは悲しげに目を伏せってそう考えた。もうあほくさいからソルのために鍵を変更するのをやめよう。どうせ飲まない酒なのだ、飲める男に美味しく消費してもらった方がいくらも……。
「しかしシャトーマルゴーの二〇〇九年モノなんぞ、よく手に入ったな。聖戦で大半が割れたと聞いてたんだが、どっかのお貴族様にでも取り入られてんのか」
「——返せ!! 私のコレクション!!」
などと思いかけた菩薩のように慈悲深い心はソルの発言で一瞬にして帳消しとなった。
マルゴーの二〇〇九年もの。ただでさえ高価なワインだったものが聖戦で更に希少価値を高め、現在は時価一万ワールドドルはくだらない超高級品だ。以前に仕事の関係で譲り受けることがあって以来、コレクター気質があるカイがとても大事にしていた一品だった。
がくりと項垂れて膝と額が付くぐらいに背中を丸めてしまったカイに、起き上がったソルが無遠慮に近寄ってきて背を撫でる。撫でる手つきは恋人にするそれの優しさだが、酒臭さがそれをすべて台無しにしている。この酒気の中に一万ワールドドル。それを思うと心が沈み込むのもむべなるかなと言ったところだ。
だが、一方でカイの心は、これから起きるであろう出来事について静かに諦めはじめてもいた。酔っているソルは手が早い。これだけぐずぐずに酔っぱらっていれば、喧嘩も早くなるが、肉体関係を持つ相手……つまりカイを引きずり落とすまでの速度も、例外なく速まる。
「あの、ソル」
「なんだ」
「出来れば……ベッドは清潔な人と一緒にしたいんですけど。例えばお酒くさくない人とか」
「なんだ、そんなこと。ならベッドじゃなくソファでやりゃあいいだろ」
「……そういう意味ではなく! ああ、もう、ちょっと待ちなさい!!」
もちろん待てと言われて待つソルではない。カイはあえなく全身を彼の腕に絡め取られ、インナーを脱がすのもそぞろに、ズボンのチャックだけ下げられてソファに押し倒されてしまった。
日曜の晴れやかな午前をソファの掃除で迎えたくなかった。
翌朝、二日酔いのような気分で目覚めたカイの心からの思いがそれであった。
酔っぱらったソルに散々好きなようにされ、体中キスマークでいっぱいになり、さらには下腹部もソルの出したものでいっぱいになり、事もあろうか結合したままで眠りに落ちてしまったカイが目覚めてまずはじめに覚えたのは当然のように頭痛。身じろぎすれば、中に入り込んだままのソルが自分の肉と擦れ、じゅくじゅくと泡をたてて液体が零れ出す。ひどい朝だ。それなのにカーテンの隙間からはこの上なく気持ちよいお天道様の陽射しが差し込んでいて、もう落差がとんでもない。
がっちりと自分を支え、ソファに押し留めていたソルの手を無理矢理引き剥がし、それから慎重に自分に挿さりっぱなしだったものを引き抜くと、カイは大慌てでシャワーを浴びに浴室へ向かった。
「急に何をしに来たんだか、本当、あの男の考えていることはわからない……」
一晩のあいだにすっかり移ってしまった酒と男の匂いを全て洗い流すようにシャワーを上からかぶる。あのあと、抱かれている間の問答でマルゴー以外にもラフィット・ロートシルト、はてはロマネ・コンティまですっかり空っぽにされていたことが発覚し、この件に関しては最早怒りを通り越して諦めの境地に至りつつある。ロートシルトはロスチャイルド家のご当主に直々に賜ったのに。もし今度晩餐会で顔を合わせた時にそのことを聞かれたら、どんな顔をして報告すればいいのだ。不貞の輩に飲まれましたなんて言ったら、カイの自宅のセキュリティレベルを疑われてしまう。
「ソル以外には鉄壁の警備なんですからね、まったく。合い鍵をさっさと作って渡したのは我ながら良案だったな。ベッドとソファ以外の設備被害は激減したし。……ああ、そうだ、ソファを掃除しないと……絶対手伝わせてやる……」
昨晩の名残を吸い上げてつやつやのかぴかぴになっているであろうソファのことを思い出し、カイはひどく悲しい気持ちで指を己の下半身に添わせた。こんな気持ちでやっていることが下の処理というのがまた最高に情けない。けれどソルはゴムを付けたがらないし、カイもどうせ出されるなら直にそうされた方が気持ちいいし、そもそも行為の最中はそんなことを気にしている余裕もないし、かといって身体のために入れっぱなしにしていくわけにもいかない。そんなこんなで若干の虚しさと温かい湯気に包まれながら後始末を終える頃には、もう鳥の朝鳴きもすっかり聞こえなくなってしまっていた。
シャワーを浴びてダイニングに戻ると、粘り強く惰眠を貪ろうと抵抗したソルをすぐさま入れ代わりでシャワールームに押し込み、軽いブランチをこしらえにかかる。それらが皿に載せられてテーブルに並べられた頃、さっぱりして戻って来たソルを座らせてカイはようやく一息をついた。
「それで?」
正面でベーコンを咀嚼している男にぶっきらぼうに尋ねると顔をしかめられる。
「なんだまだ怒ってんのか」
この問いには無言のまま怒気のこもった笑顔で応対し、紅茶のカップを置くと、カイはおもむろに話を切り出した。
「今度は何の用だ、何の」
「顔を見に来ただけだが」
「そうか。顔を見にくると、ついでに三十万ワールドドルの酒が飲めるんだな。それは大層素晴らしいことだ」
三十万ワールドドル、のくだりでソルの喉がひくつく。流石に不味かったかと青ざめるあたり、酔った勢いで酒の価値も考えずにばかばかと封を開けてしまったらしい。
「やっぱりまだ怒ってるんじゃねえか……」
「では私の怒りが収まるよう、精々努力してくれ。それで、本当の目的はなんだ。しらばっくれてないで、いい加減……」
そうしてカイがとうとう辛抱たまらなくなり、マナーも何もかなぐりすてて机をドンと叩きかけたところで、今の押し問答で昨晩の酒がすっかり抜けてしまったらしいソルが急に真面目な顔をして振り上げられたカイの拳を掴み取った。
拘束されるのかと思いきや、そのまますぐにぱっと離される。拍子抜けしてぽかんと口を開いたまま動きを止めてしまったカイを見て一息吐くと、彼は食べかけだったベーコンを口の中に放り込み、先ほどまでと打って変わって低い声で言った。
「この前の魔の森でのことだ」
嘘を言っている様子ではなかった。
「魔の森……ディズィーさんのことですか」
「ああ、そうだ。ジョニーに預けたあと、あちこちに手を回したらしいな。……何故だ? 何故そこまであの小娘に肩入れする。テメェは公僕の、しかもその頂点だ。不正をあれだけ嫌っていたテメェが、何故……」
五十万ワールドドルの賞金を掛けられていたハーフギアの少女、ディズィーを法の番人たるカイが匿ったこと。それを問いただしてソルは深々と溜め息を吐く。
ただ自分の力を制御出来ていないだけの心優しい娘が殺されるのを、カイが黙って見ていられない性格なのはソルとてわかっている。問題はその彼女を保護した後、「問題のギアは死んだ」というふうにあちこちへ手を打って回ったのがカイ本人だったことだ。
そのうえ、ジョニーから聞いた話では彼女を自宅へ定期的に招き、交流をさえ持っているのだという。これでディズィーがちょっと強い力を持っているだけの少女だったら何の問題もない。それこそ錬金術で生み出されたホムンクルスとかなら、ソルだってわざわざ口を挟みには来なかった。
だがディズィーはギアだ。
そしてカイは、かつて世界中の信仰を一手に引き受け、そのギアを殺すことに全てを捧げてきた男なのだ。
「……それは、私がギアと親睦を深めるのはまずい、という忠告か?」
そのこと自体はカイもわかっているのだろう。一字一句確かめるような調子で、すぐに返事がきた。
「そうだ。ギアを殺して英雄になったテメェがギアを匿ってると知れれば、スキャンダルどころじゃすまねえぞ」
「それを今更お前が言うのか。ギアであるお前が……」
「あの娘はまだ幼い。身の振り方を完璧には覚えていない。俺と違い、ギアらしい特徴が体外に分離して現れている分隠すのも難しいはずだ。あまり生半可な気持ちで関わりを持っているようなら、今すぐ切れ」
「——それは出来ません」
ソルのやや強い口調の言葉に対し、カイの切り返しはとりつく島もないほどにきっぱりしていた。
思いがけない強い否定に、逆にソルの方が驚いてしまう。昔からここぞという時はばっさりと決断をしていく方だったが、しかしここまではっきりと言い切られるとは思っていなかったのだ。それはまた、彼のことをソルがずっと子供だと思っていたからでもある。あの氷漬けにされた少年性を後生大事に抱え込まされている彼が、こんなことを言うようになっているとは考えてもいなかった。
「生半可な気持ちでは、ないつもりだから。実は……復活祭が終わる頃に、彼女が越してくることになっているんだ。快賊団の方とも、それでもう話がついている。私が正式に彼女を引き取ると」
「……本気か」
「本気だ。大まじめだし、不自由はさせないよう、出来る限りの手はもう尽くしている。お前に何と言われようと、このことについて私が考えを改めるつもりはない」
カイの青い瞳はいつにも増して真剣な眼差しを見せている。それでもう何も言うことが出来なくなり、ソルはやれやれ、と首を振った。
世の中の反ギア感情というものは未だ根強い。各地に残されたギアの残党を狩ることでソルのような無法者が十分に生計を立てていけるほど、ギアには多額の懸賞金が掛けられ、今も恐れられている。カイとて、国際警察機構ギア対策本部の責任者として、年に十数体のギアを始末し続けているはずだ。
現在も討伐依頼が出ているギアはジャスティスの統率を失って以後暴走状態から回帰出来なくなってしまった個体が殆どとはいえ、それでもディズィーと同じ細胞を持つ種族を殺していることに変わりはない。ではカイが手に掛ける・掛けないの基準とはなんだ? 人の心を持っているか否かなのか。ディズィーを近くへ迎えることで、それらに対する答えをより強く模索していくことをカイは求められるだろう。決して平坦ではない、茨の道だ。昔のように一面的な正義に基づき、ギアというだけで悪だと決めつけていたほうがいくらも楽だろうに……。
(成長した、っつうことか。もしかすると、止まっていた時が、ようやく前へ進み始めたのか)
ディズィーを家へ迎えるとなれば、そう遠くないうちに二人は男女の関係になるか、或いはもうなっているのだろう。そうなればきっと、雪解けを迎え始めている彼の少年時代は、いずれ完全な終わりを迎える。カイ=キスクという男が変化を見せ始めていることについて、その原因はディズィーであろうということを既にソルは確信していた。ソルでも変えられなかったものを彼女は変えてしまったのだ。
それは彼女が女である、ということには何ら関わりなく。ただ、ディズィーにだけは唯一、カイを大人にする魔法を使うことが出来たのである。
「やっと大人になる準備を始めたのか」
にっと笑ってそう言ってやれば、カイが意外そうに目を見開いた。
「あれ、怒らないんだな。私はてっきりお前と関係を持ちながら彼女に本気だなんて言い始めたことを、怒るのかと思っていたのに」
「いや……。あれは俺が始めたことだ。昨晩だって、俺が誘わなきゃ、坊やはあんな真似はしなかっただろう。……潮時だな、そろそろ」
「……ソル?」
「なあ、坊や。テメェは知らなかったんだろうが、人間、もっと小ずるく生きたっていいんだ。ギアの娘を匿って恋に落ちようが、それ自体が悪いだなんてことはまったくない。大人はいい子でいなくたっていい。酒の味を覚え、煙草の苦さを知り、必要に応じて嘘を吐く。……悪い子になれ、坊や。とびきりな。何しろテメェは、今まで我慢ばかりしてきたんだから……」
出会った頃のカイの姿が、克明にソルの脳裏に描き出されていた。頭を撫でられて子供扱いされたことにむきになり、クリフに訴え出ていた小さな少年。齢十四で小隊を任され、戦場では誰よりも多く命を奪って返り血を浴び、どろどろに染まった身体で失われた命に祈る。あの誰よりも気高く美しく尊かった子鹿のような子供。
背が伸び悩んでいることを思い詰め、自分の華奢な体つきとを比べてはソルを羨んで見ていたことも、ちゃんと知っている。その身体を両腕の中に閉じ込めるととびきり甘美な鳴き声を上げたことも。小さな身体で、その身以上の重荷を背負い、弱音一つ吐かずに祈りを集め続けていたことも……。
その頃ソルはカイの全てを知っていた。彼という少年がどのような生き様を持っているのか。どのような顔をして正義を謳い、剣を手に取るのか。必死になって大人になりたがり、けれど処女性を失い犯されてさえその神聖は穢されず、ただ永遠にそうであるのだという顔をして少年の甘やかさを心臓の代わりに抱え込んでいたことですら、ソルだけは、その全てを知り尽くしていた。
けれどそんな時代ももうすぐ終わる。
「カイ」
名を呼び、頬に手を寄せて手繰り寄せれば変わらぬ花の香りがする。今はまだ少年の残り香がしている。これもいつかは、なくなってしまうのだろうか。ソルからは荒っぽい雄の匂いしかしないのと同じように。
「このキスで最後だ」
耳元で囁いていやると、カイはソルの首に両腕を回し、何も言わずに目を閉じた。長い睫の下にあの透き通った瞳が覆い隠されてしまったことを少し残念に思いながらソルはカイに口づける。図書室で交わした初めてのキスを思い返しながら、けれどあの時とは違って恋人にそうする優しさで。大人になりゆく少年の最後の季節を摘み取って、彼は触れるだけのキスを手向けに贈った。