11 運命だなんて云わないで
「やつれたな。……歳でも取ったか」
「お互いにな。尤もお前は、初めて会った時から見た目はあまり変わらないけれど」
「テメェの青臭さが変わらねえのと似たようなもんだ。ったく……」
口ばっかり一人前に達者になりやがって。そうぼやき、ソルは来客用のソファにどかりと腰を落ち着けるとシガレットケースから煙草を一本取り出した。
年の瀬から続いていたヴァレンタインの強襲がなんとか終わりを迎え、被害を受けたイリュリアの城下ではあちこちからトンカチを振り下ろす音が聞こえてきている。法力技術が発達しても、家を建てる大工のやることはさほど変わらない。カイがイリュリアの王としてそれらの陣頭指揮を然るべき組織に委ね、公的な発表をするために報道陣の押し寄せる中会見を開き、世間的にも一応の収束を見せたのがやっと昨日のことだ。
何分急な出来事だった。年末を控えて城勤めの人員が何割か実家へ帰省に出ていたことだけが、不幸中の幸いと言えるだろう。城を守る兵士は軒並みヴィズエル達にのされ、頭であるカイまでも封印状態に陥ってしまったことから指揮系統が乱れ、第二・第三連王への状況説明が遅れて協力要請を送ることもまならなかった。結局は第一連王の部隊とソル達の力で何とか始末がつけられたものの、第二連王であるレオは若干むくれたふうな小言を言って寄越していたし、第三連王のダレルに至っては合理的かつ容赦のない追求を書面にまとめて通信の向こうで読み上げ出す始末だ。この件に関しては全面的にカイの過失なので言われるままに甘んじたが、それと肩こりが起こらないかどうかはまた別の問題である。
今回の事件の立役者であるソルは、あの事件終結から十日ほどイリュリアに滞在し、もう明日にはここを発つ予定になっていた。ギアを超えた新たな敵勢力の出現、そして何より、とうとう姿を現した「あの男」。それらとの戦いを控え、戦力を補強するため神器を回収することを決めたのだという。
「相変わらずテメェは馬鹿にまっすぐだったが、最低限必要な嘘は覚えたようでまあ一応安心した。ま……信任投票の結果を見るにそこんところは上手くやっているようだったしな。元々テメェは人の信を集めるのに特化したような部分があったし……」
「なんだか昔の話を蒸し返されているような気がするんだが、私の気のせいか? 悪かったな。手柄の大体をイリュリア正規軍のものにしてしまって」
「その方が都合がいいだろうが。しかも第二・第三連王の手を借りずに第一連王直属部隊だけで事を収めたとあれば、まあ、それが広報の面から言っても最適だろう。その謝罪は俺じゃなくあの鳥にしてやれ」
「既に話をさせていただいています。しかし……、国民感情を考えると、どうしても。共闘を持った兵士達の中にはギアへの認識を改める者も出てきてはいるが……実際に目の当たりにした者でもないと、なかなかそうすぐには受け入れてもらえないでしょう。ドクターもそれについては理解を示してくださいました。それと一緒に取引もしたことだし」
「取引?」
「ああ。ガニメデに帰らず、イリュリアに留まっていただくことで合意に至った。どうしても、軟禁……という形にはなってしまうが、その代わりこちらから不自由しないだけの衣食住と設備、そして知識を提供するつもりでいる。ディズィーを……ひいてはこの国を守るために、彼の力を借りたいんだ」
疲労のほどが伺い知れる長々とした溜め息を吐き、カイは執事の淹れた紅茶を口に含んだ。
王城内部の執務室にソルを招き入れたのは、実は初めてのことだった。カイが連王に就任して以降、ソルと直に会ったのもこのごたごたの中でが初めてだ。事件終結以降、ソルとシンには居住エリアに滞在してもらっていたのだが、カイが彼らと顔を合わせるのは大概がその客間か、或いはディズィーが安置されている封印の間でだった。
そんなソルが、今晩はカイの執務室を訪れた。それもシンを伴わず、一人でだ。聞けば健康優良児そのもののシンがさっさと寝入ってしまったので、暇をもてあまし、カイにちょっかいを出しに来たのだとか言う。昨日まではそんな素振りも見せなかったくせに、と少しおかしかった。カイが後始末のためにあちこち飛び回っているのを知っていたから、遠慮していたのだろう。
「いつぶりかな。こうしてお前と落ち着いて話すのは。確か……あの日以来じゃないか? 私がディズィーと暮らすことをお前に告げた日だ。それからお前はぱったりと私の家に寄りつかなくなった。出先で顔を合わせるのが精々で、剣を交えることこそありはすれ、机を挟んで会話を持つ余裕なんて、とてもじゃないがなかった。どうして家へ来なくなったかなんて野暮なことは流石に聞かないけど、やっと、落ち着くことが出来たなと。そう思う気持ちも本当だよ」
少し身を寄せてそう上目遣いに言えば、ソルが照れ隠しのようにふいと目を逸らした。それから参ったように頭を掻き、横目に視線を逸らしたまま、彼が口を開く。
「ディズィーに呼ばれて行った頃のテメェは酷い有様だったし、シンを預かってからは、あいつがテメェのそばへ寄ることを極端に嫌がったからな。おかげでイリュリアに入国しても王都には一度も近寄れなかった。アメリカに入り浸ってたせいでシンはハンバーガー・マッドネスに育つし」
「なんですって?!」
聞き流せない発言に先ほどまでにこにこしていたカイが急に真顔になってソルを見上げると、彼はそこでようやく手を振って視線をカイに戻し、なんでもないことのように言った。
「ジョークだ。基本は野宿と狩りだぞ」
「そ……それはそれでどういうことなんだ、ソル!!」
「生きる術を叩き込むのが先決だろうが。マナーなんぞ気に掛けてたら大自然の中では生き残れねえぞ」
そんなソルの発言に唖然として口を開き、カイは頭を抱えて「教育方針の違い」とかなんとか呻き始めてしまう。だが、シンを預かった段階でソルはカイに言質を取っている。「シンがどう育っても知らねえぞ」と。そもそもイリュリアは選挙制であり、仮に今後シンがカイの息子として正式に公表されることがあっても後を継いで王になれるわけでもないし、恐らくシンはそういったものごとに向いていない。預かってすぐにそう判断したソルは、シンにその手の指導は一切施さず、サバイバル教育に重点を置いて育て上げてきた。
……などということを今口にすると更なる火種になることは間違いないので、ひとまず黙っておくことにしてソルはカイの背を宥めるようにぽんぽんと叩く。
「いいだろ。元気に育ってんだから。テメェが同じくらいの背丈だった頃の方が……いや、今はもうシンの方がデカイか」
「うるさいな……」
「ともかく、テメェよりよっぽど健全に育ってることだけは保証してやるよ。あいつは人に好かれやすいたちだが、テメェのそれほど病的じゃない。信者がずらりと列を成して祈り始めることもねえしな」
「いや、それは式典だからな。聖皇様と一緒に年始めの挨拶を国民に向けて行う迎春の催しのことだろう? そういう行事なんだ。私は他二人に推薦されてしまったが故に王としてその責務を果たしているだけで」
「他の連王共が代表にカイ=キスクを据えた理由は、テメェが優先権最高位の第一連王だってこと以外にもあると俺は思うがな」
「まあ……私は立場上昔からああいうのをよくやらされてきたから、慣れているし、適任だと思われたんだろう。……ともかく。シンをここまで無事に育ててくれたことには例を言うが」
そろそろ勉学も教えてくれ、とカイが咳払いをして強めに言えば、ソルは答えずにそっぽを向いた。
そのことにわざとらしく盛大な溜め息を吐いて見せ、カイがやれやれと首を振る。シンの教育方針に関する押し問答では、現場監督であるソルに今のところ勝ち目がないことを悟ったらしい。だが完全に諦めた様子ではないところを見るに、機を見てはこの問いを蒸し返すつもりなのだろう。ソルはカイが仕掛けた「呼び出し」の張り紙をシンに読ませた時のことを思い返した。読み書きぐらいはそろそろ完璧にさせないとまずいかもしれない。
そんなソルの内心を知ってか知らずか、カイがくるりと話題を変える。
「それはそうと、お前に聞きたいことがあるんだ。今、時間はいいか?」
「いいも何も今日はもう風呂入って寝るだけだ。明日の朝も急ぐ予定じゃない」
「そうか。それはちょうどいい」
ソルの返答を確かめて頷くと、カイは急にソルとの間に開いていた距離をぐっと詰めてきた。何の前フリもなく五センチは開いていた間が瞬く間にゼロになり、ソルは妙な予感を覚えて訝しげに眉をひそめる。
そんなソルの様子に構う素振りも見せず、カイがこてんと首を傾げて、整った桃色の唇を開いた。
「あの日、私に、最後だと言ったな」
その唇のなまめかしさが妙に目に付く。あの日。ここまでの流れから察するに、ソルが最後にカイと朝食を共にした、あの時で間違いあるまい。まだカイは国際警察機構の長官で、髪も短く、ディズィーと結婚していなかったし、シンも生まれておらず、元老院に圧力を掛けられてもいなかった。
そしてその日こそ、ソルがようやく、カイという男が少年の殻を破り始めていると認識した瞬間でもある。
「あ? ああ……そうだったな。けじめが必要だと思ったからだ。大体いつも、俺がそうさせていただけだったからな……」
「……なら。私が。私から求めれば、お前は今も応じるのか?」
なんだ、と問いかける間もなかった。
カイの腕がソルの胴に回され、身体が密着する。すぐに顔も鼻と鼻がつくぐらいにまで接近し、そのまま何かやわらかいものがソルの唇に触れた。先ほどから、てらてらと光ってソルの気を引いて仕方なかった、カイの唇だ。五年ほど前に手放してしまった少年の感触。いや……今はもう少年ではなくなってしまった、彼の……。
「……こいつは一体、何の真似だ」
口づけはさして長くは続かず、ソルが思考を巡らせているあいだにぱっと離されてしまう。それを名残惜しく思う自分を叱咤して今度こそ低い声音で問いただすと、カイは涼しい顔をして言った。
「私はあの時、あれで最後にしていいなんて一言も了承していなかったんだぞ。覚えていないのか?」
「確かにそう言われてみればそうだったような気もするが……だからってな、カイ、やめとけ。こんな時だ。一段落したと言ったってそんなところで書類を捲ってるんだ、今日だって十分に疲れてるはずだろうが」
「今日なら、もう少し疲れてもいいんだがな。だってお前は明日には行ってしまうんだろう」
「いや、それは……そうだが」
「悪い子になれと昔私に言ったのはお前だぞ、ソル。それもとびっきりに。この椅子でずっと書類仕事をしているとね、段々と、尻が四角くなっていってしまう。もう三年もがちがちだ。だから……いいだろう?」
ほど近くで囁かれたその言葉に、鼻孔をくすぐる甘い香りが混ざっていることにそこでソルは気がつく。いつも彼の身体からしていた少年の花の香りに混ざるこれは……酒の香りだ。ブランデーあたりだろうか。かつての彼からなら絶対にしなかったものだ。
「……おい、カイ。飲んだな」
「五年前のお返しだ」
恐る恐る尋ねると、カイはにっと笑ってソルの耳元にブランデーの香りを落とし込んだ。
「五年前? ——待て。さては俺の荷に入っていたやつだな?! くそ、坊やみたいな酒に弱いヤツが、顔に出てないはずがないと思っていた俺が油断しすぎていたか」
「三十万ワールドドルに比べれば、大した仕返しでもないだろう。それに顔に出さないのは得意なんだ。やけ酒は当然やらないようにしているが、国民の前に立つ際、疲労を見せないようにするのも私の努めだからな。式典で乾杯のワインを飲み干して真顔のままでいるのも。得意だぞ、そういうのは」
とうとうカイはしなだれかかるようにしてソルの上に身を預けきった。華奢だ軽いだなんだと言ってはいるが、それでもカイは成人男性だ。それだけの重力を掛けられれば、ソルとて身体がソファの方へ傾いてしまう。それを好機と見てさらに両腕を搦めて来ようとしたカイの手を、しかしソルは必死で留める。
ソルの脳裏に浮かんでいるのは、例の日に彼が告げた少女の姿だった。
「木陰の君……ディズィーは、どう、するんだ。あいつの眠りもまだ解けないのに」
封雷剣を費やすことも気に留めず、平素あれほど美しい構築式にこだわるカイが術者である自分でさえ二度と自力では解除出来ないような術を用いてまで彼女を時の流れない空間に守り、昇華を止めたのだ。カイがディズィーという一人の女性を愛している事実には疑う余地がない。それはドクター・パラダイムへ必死になって彼女の助命を懇願したことからも伺える。
だからその彼と、今の彼が、どうもソルの中では上手く繋がらない。ではこれは彼女への裏切りではないのか。もし酒に酔って理性を失っての行動なら、事を成した後に後悔するのは翌日シラフになったカイ自身だ。
けれどそのことを指摘されても、カイは微笑み、いっそ超然とした面持ちでソルの額に口づけるだけだった。
「ディズィーは、彼女は、知っているよ。何もかも」
「……何もかも?」
「彼女はわかっている。私達夫婦が愛し合うのと同じように、私がお前に惹かれていること。だから彼女は私を選んでくれたし、私は彼女に恋をした。私達はお互いに、自身に正直である相手を好ましく思っていた。……そう、恋を知ったんだ、私は。彼女に出会い、それでようやく、きっと……大人になった」
カイが囁く。まるで脳髄をぐずぐずに溶かしきるようなそんな危険な甘さを孕み、大人になったはずの青年は子供っぽいおねだりをする。ああ、くそ、とソルは聞こえよがしに舌打ちをした。こんな顔をされると、駄目だ。昔のことを思い出してしまう。カイがもっと危なっかしく地に足付いていなかった頃を思い出して、冷静ではいられなくなる。
◇◆◇◆◇
カイさん、人を愛するって、いったいどういうことなんでしょう。「自分のことをもっと知るため」にカイの家を度々訪れるようになってしばらくして、彼女はカイにそう問うた。人を愛するということが、うまく確証を持てないんです。はっきり、わからないと言うか。
では貴方が以前話してくれた、育て親の老夫婦の方達への気持ちを思いだしてみてはどうでしょう? カイがそう返せば、彼女は首を振る。いえ、それは、多分違うんだと思います。私は確かにおばあちゃんとおじいちゃんのこと、大好き。今でも感謝しているし、愛してるかと聞かれれば、そうなんだと思います。でも、違うんです……それはきっと違う愛、なんです。難しいんですけれど……。
「なるほど。仰るとおり、それはとても難しい問いです」
この前買ったばかりのファーストフラッシュで淹れた自慢の紅茶を勧めながら、カイはダイニングテーブルを挟んで彼女の向かいに腰を下ろした。
「親や友人に向ける愛ではないもっと狭義のそれ、ということでしょうか。恋……みたいな」
「はい。多分、そうなのかな。私……メイを見ていて、それがずっと気に掛かってるんです。彼女はクルーの皆を……私のことも、『仲間として』愛してくれている。でもそれとジョニーさんへの感情は、きっと彼女の中では別物でしょう?」
「はは、それは確かに。メイさんも大変ですね。あの人、あれだけ女好きなのにクルーはその勘定に入れませんから」
「あれ、カイさん、知ってるんですね、ジョニーさんが船の皆は家族だって言ってること」
「それはまあ。だから貴方を安心して預けられたんです。彼は義賊ですからね。一度公約したことは破らないのが、彼の美徳の一つだと私も感じています」
「……あ。もしかしてカイさん、ジョニーさんに口説かれたことがあったりするんですか」
「まさか。女だったら口説いてた、と言われたことはありますけど。でも私は逆立ちをしても女にはなれないので、それだけですよ」
思いがけない切り返しにカイが苦笑して答える。するとディズィーもはにかみ、なんだかちょっと安心しました、なんて言ってみせ、けれどそのあとすぐにどうしてだか意気消沈して俯いてしまった。
どうしたんですか、お茶が口に合いませんでしたか? と慌てて尋ねると彼女はいいえ、とってもおいしいんです、けれど、と呟く。
「私みたいなギアが、誰かを愛してもいいのかな……って、最近不安に思うんです」
彼女の言葉は真に迫り、どれほどそのことで思い悩み、思い詰めているのかが肌を刺す感触となって伝わってくるようだった。
「人を愛する資格なんてないんじゃないかな、とか、そんなこと、初めから出来ないようになってたりしないかな、とか」
「何故です? 誰かを愛することに資格なんているものでしょうか。もし本当に貴方が自身をギアだから許されないと考えているのなら、それほど馬鹿げたこともない、と私は言わざるを得なくなる。それに貴方ほど心優しい女性を私は知りませんよ。誰かを愛するその一方でまた別の他者を傷つけてしまうというのならば話は別ですが、私には貴方がそのようなことをする方にはとても思えません」
「そうでしょうか? 私が愛することで、その人の迷惑になってしまうことは、ないんでしょうか?」
「それは、迷惑行為に訴え出ない限り、問題ないのではないかと……。例えばその、貴方が愛する人を独占しようとしてどこかに閉じ込めたり、はたまたその人の周辺人物を無闇矢鱈に攻撃したり、そういうことをしないのであればまったく」
「……そう、なんでしょうか?」
本当に? ディズィーのサルビアの色をした双眸が上目遣いに尋ねてきてカイはたじたじになりながらも頷く。彼女の愛らしい瞳からごく至近距離で見つめられるのにカイは弱い。最近は特に弱い。あのまなざしにじっと見られているとなんだかぽうっとしてきてしまって、見とれてずっと見ていたいような気がしてくるのだ。しかしじろじろ見るなんて不躾なことは絶対に出来ないし、かといって目を逸らすのも失礼で、カイはいつも必死に自制心を働かせて自分を抑えるはめになる。
だがそんな浮ついた気持ちも、ことこの瞬間に限っては、彼女の次の爆弾発言によってどしゃりと冷や水を浴びせられたように冷静になってしまった。
「けれど、その人にもう好きな人がいたら……やっぱり、迷惑じゃありませんか」
「妻子ある殿方にでしたら、それはちょっと、倫理的に問題があるかもしれませんが……しかしそれを一概に悪と言い切ることも、難しいですね……」
「それじゃやっぱり、駄目、なのかも。だって……カイさん、ソルさんのこと、好きみたいだから……」
「…………。……はい?」
想定してもみなかった台詞に、カイはたっぷり数十秒間も考え込む間を必要とした。彼女の今までの「自分が誰かを愛してもいいのか、また、愛するというのは一体どういうことなのか」という問いと、「カイがソルのことを好きみたいだから」という言葉が、まったくもってカイの中で繋がろうとしない。彼女は一体どういう意味でそれをカイに聞いたのだろうか。というより、それと彼女の愛に一体何の相関関係が。
もしかして。ディズィーが思い悩んでいる好きな人というのは、まさか……あの男なのか?
「あの……ディズィーさん」
「はっ、はい。や、やっぱり迷惑ですか?!」
「い、いいえとんでもない! ですからその、何故そこであの男の名が……」
確かめねば。そう思い慌てて問うと、迷惑ですか、なんて悲しそうに言われてしまうので咄嗟に否定が先に出る。
カイが両手を振ってあまりに必死に否定するので、ディズィーもどこかほっとした顔を見せたが、しかし次にはそっとまなじりを伏せり、確かめるように尋ねられた。
「何故って……だってカイさん、ソルさんのこと、大好きでしょう?」
そのまま頭から机に突っ伏しそうになった。
カイは思い切り頭を抱えてしまう。今度は「大好き」と来たか。一体彼女に何をどう説明したらいいんだ? うんうん唸るが、具体的な解決策が思い浮かばない。
確かにカイはソルのことを好ましいと思っている。昔はただただ自らの正義と潔癖さにあの奔放な自由さが相容れなかったり、あとは何も言わずに自分を置いて出て行ったことに若干むかっ腹を立てていたこともあって反発していた時期があったが、今はそういった気持ちにも自分の中で整理がついている。それにディズィーにはまだ言っていないが(だって言う必要がないだろう)、身体の関係も時々持っていて、別段それを嫌だと思ったことはない。
事実として、長い間ソル=バッドガイという男はカイ=キスクにとってのコンプレックスとその象徴であった。二人の性質は結構な部分が正反対で、カイは祈りを大切にし、ソルは目に見える結果を重視した。戦闘スタイルだって真逆だ。カイに言わせればソルの炎は野蛮すぎるし、ソルに言わせれば、カイの雷はせせこましすぎる。
けれどそれとこれとはまるで別ではないだろうか。確かにソルのことは好きだ。好きだけれど。好きだけれど……。彼女の愛や恋とそれに、関係があるのだろうか?
「あの……どこをどう見て、その結論に?」
恐る恐るそう尋ねれば、彼女はきょとんとした顔を一瞬見せたが、すぐに微笑み、ゆっくりと事のあらましを話してくれた。
「カイさん、よくソルさんのお話をしてくださいますから。あ、私もソルさんのことは尊敬していますし、感謝していますから、それが嫌だと思ったことは全然ないんですよ。カイさんがとても楽しそうにお話してくださるので、むしろ嬉しいです。……でも、その話をメイにしたらこう言われてしまって。『女の子と二人っきりの時に他の男の話ばっかりするなんて、その人、その男のこと好きなんじゃないの?』と……」
「め……メイさん!! あの方は……ディズィーさんになんてことを!!」
「あれ、じゃあソルさんのこと、嫌いなんですか?」
「いや、その、だから。嫌いではないですけど……あんなでも昔の私を世話してくれた一人ですし……」
あわあわしながらもそう答えると、彼女は何故か安心したようにカイの手を握る。
「よかった。私、カイさんがソルさんを好きだって言ってくれる方が、安心します」
「それは何故です?」
「だってソルさんは私に生きる理由をくれたヒーローですから。好きな人のことを、好きな人が好ましいって言ってくれる方が嬉しいです」
「はあ……あいつがヒーロー、ですか……ヒーローはヒーローでもダークヒーロー寄りなんじゃないかとちょっと思いますけど。粗暴すぎるし……」
「それでカイさんは、私を森の外へ連れて行ってくれた王子様。私にとっては」
「……えっ?」
そしてカイが思ってもみなかったようなことを口にして、彼を驚かせた。
また、たっぷりと何十秒も思考が停止してしまった。彼女がソルをヒーローみたいだと言う、これはわかる。悪魔の棲む地で自身の暴走に怯えていた彼女に理由を与え、解放したのはソルだ。
問題は次である。カイが、王子様? 彼女にとっての? だってカイがしたことなんて、ソルがなんとかして落ち着いた彼女に手を差し伸べて、外の世界へ出る切っ掛けを与えたぐらいだ。その後のことも直接的なものごとはジョニー及びジェリーフィッシュ快賊団に任せきりで、とてもではないがそんなきらきらした形容をされるほど彼女にいい格好を出来ていた自信がない。
しかし、そんな大告白の直後にカイが口を噤んでしまったからなのだろうか。彼女はしゅんと伏せり、それから恥ずかしそうに目を泳がせてしまう。
「い、言っちゃった。ご、ごめんなさい。やっぱり、駄目ですか……?」
「——いいえ! そんなことはまったく。でも、あの、正直に言わせてください。驚いているんです。その……私は、お話を聞いていて今の今まで貴方の好きな相手というのが、その、ソルのことだと思っていて……」
「ソルさんのことは、好きですよ。お父さんみたいだなって、思ってるんです。他人みたいな気がしないというか……。でもそれは、ジョニーさんや、私を育ててくれたおばあちゃんおじいちゃんに思う気持ちと一緒。カイさんとは、別です。だから私……知りたかった。人を愛するって、一体何? カイさんは、ソルさんのことを、愛しているんですか?」
ディズィーが顔をあげてはっきりとカイの両目を見つめ、問いかけた。
とても真摯な眼差しだった。彼女は今、カイをそのような意味で好いていると言い切った上で、改めてカイに問うている。カイさんはソルさんが好きですか。愛しているんでしょうか。そうしたらそれは、父親を愛するように? それとも、別の……?
「私は……」
どうしても、すぐにはうまい言葉が見つからなかった。しどろもどろになりながら、しかしはぐらかす気にはとてもではないがなれず、必死に言葉を手繰る。嫌いではない。むしろ好きだ。広い意味で言えば、愛している、と即断出来る。彼はカイの育て親の一人だった。本人に聞けばそんな大したことはしてないと否定されるかもしれないが、十五歳だったカイ=キスクという少年にとって最も大きな指針を与えてくれた大人のうちの一人に間違いなかった。
「好きです。あの男のことは。けれど、わかりません。ソルは私にとってとても重要な人物ですし、私の人生においても大きな意味を持つ男です。ソルがいなければ、今、きっと私はここでこうして貴方と話してはいなかった」
「とても……大切な人なんですね」
「はい。けれど……」
そこで口ごもる。父親とセックスは、普通、しない。でもカイはソルとのセックスを嫌だと思ったことは全然なくて、聖騎士団にいるうちなどはむしろ自分からそれを求めた日さえあった。けれど。カイにはわからないのだ。彼のことを自分は愛しているのかもしれない——しかしそれは、今までただの一度も、恋だったことがあっただろうか?
『まだテメェは恋も知らないお子様なんだからな』
カイを抱きながら、時折ソルがそう言っていたことをにわかに思い出す。また彼は熱に浮かされたはしかのような愛、とも言い、カイの中に精を吐き出しながらこう言うことさえあった。坊やも、いつか恋をすることがあるんだろうさ。昔俺がそうだったように……。
「私があの男を愛しているとして、その愛は、貴方の尋ねる愛と本当に同義なのか、それがわからないんです……」
絞り出された声音は弱々しく所在なさげで、それこそまさに恋に思い悩む少女のそれによく似ていた。
「でも同時に私は知っている。あの男は、別に、私に恋してはいなかったですよ。昔からずっと。その理由も知っています。ソルは男ですし、私も男です。きっと、それが全てなんでしょう」
そして最後に漏れ出たのは弱々しい溜め息だ。
いつか俺がそうだったように、と言った以上、ソルには恋をした相手がいるのだろう。そしてその相手はカイではない。お相手はきっと女性だ。カイみたいに口うるさい背伸びした子供なんかじゃなくて、落ち着いた大人の。
それを思うと随分気落ちしてしまって、けれどならどうして自分を抱いたのかと憤るような気持ちは全然なくて、カイはひとりでにどんどん袋小路に追い込まれていく。別に利害が一致したから一緒にいたわけじゃない。そこに確かに情はある。それなのに……それだから、好きと愛が頭の中でぐるぐるになって、わけがわからなくなってしまう。
そんな混迷した思考を遮ってくれたのは、ディズィーのはっきりした声だった。
「……ねえ、カイさん。さっきカイさんは、誰かを愛することに資格はいらない、と言いましたよね? 私がギアであることも関係ないって」
「え……ええ。もっと言えば、それには理由も許可もいらないはずです」
「だったら、カイさんはやっぱりソルさんのことを愛しているんだと、私思うな。ソルさんもそう。私……滅多にソルさんとはお会いしないんですけど、時々会うと、カイさんのお話をするんです。『まだあいつは坊やだからな』って気に掛けている時のソルさんの顔、とても……大切そうで。だから……あの、理由も許可も資格も要らないのなら、おとこのひともおんなのひとも、同じように変わりなく、誰かを愛せるんじゃないでしょうか……」
彼女の言葉は慮っているようであったが、また同時にきっぱりした主張だった。彼女なりに懸命に考えたことを素直にぶつけてきてくれている。真っ直ぐで偽りがなく、とても好ましい感情。
「愛ってとてもむずかしいものだけど、実は私達がそう思っているだけで、本当はもっと簡単なことなのかもしれません」
彼女が微笑み、カイの手を先ほどより強く握りしめる。
その刹那、脳裏にいくつもの幻が過ぎった。
『俺のために大人になんかなるな。そうでなくとも、いつかテメェだって、嫌でも大人になる時が来るんだよ』
『君が少年でいられるよう、私は君の恋を封じよう。君が大人にならないために』
『そういうところが、ガキだって言ってんだ』
『君だけは——少年のままでいなさい』
『坊や……大人になりたいか? 昔テメェは言ったな、大人になりたい、一秒でも早く、たとえ二度と後戻りが出来なかったとしても。だが処女を失ったところで、テメェはガキのままだった。何年もな。……ああ、間違いねえよ。俺には、テメェの少年たれという魔法を解くのは無理だ』
『汝よ、少年たれ。”かくあれかし”』
『だからいつか恋を知ったら、その時ようやくテメェは大人になるのかもしれねえな』
幻はまるで走馬燈のようだった。カイ=キスクという少年の終わりを間近に控えて走っていく、彼を少年たらしめた戒めの羅列だった。記憶にある男の言葉とまるで覚えのない誰かの呪いが交互に過ぎ去る。大人になりたい。十五歳の頃必死にそう願っていた。大人になったら身体も頑丈になってあの男と肩を並べられると信じていた。逆に言えば、背丈さえ伸び、力が強くなれば、大人になれるものなのだと思い込んでいた。
けれどカイがどんなに歳を重ねて地位を上げ、力を付けたところで、ソルはカイを頑なに坊やと呼び続ける。然るに、カイはまだ子供のままだったのだ。少年をその身に抱え、ずっと、他のものにはなれずにここまで来ていた。
ディズィーが真っ直ぐにカイを見据える。サルビアの瞳が彼を縫い付けるほど強く見つめてくる。その瞬間、カイは不躾だという気持ちも忘れて彼女に見惚れた。彼女のことを心から強い女性だと思った。自分にないものを彼女は持っていて、だから、自分は彼女が気に掛かって仕方ないのだと思った。
「だから……。それを全部考えて、わかってて、それでも、私はカイさんが好きなんです」
この気持ちをいけないとは言わせませんよ、と彼女が強かに笑った。
そうしてその時、カイは自分が彼女に見つめられるのに酷く弱い理由をやっと思い知る。まるで魔法が解けたみたいだ。ソルが俺には無理だと匙を投げた呪い、そのいばらが取り去られ、カイという個人が彼女によって真裸にされたのだ。
けれど彼女にそうされるのであれば、それはとても好ましいことだ。
カイは赤面した。そしてややおっかなびっくりになりながら彼女の手を握り返すと、確かに、その言葉に頷いた。