13 硝子の楽園
私は、あなたのことを、なんと呼べばいいのでしょう?
生後七十二時間が経過した頃、体重三千グラムの赤子はごくはっきりとした声でそう告げた。
多くの子供達がそうであるのと違い、彼が初めて喋った言葉は「パパ」ではなく、「ママ」でもなかった。自己と同一視されるべき母親を持たぬ赤子にとり、世界に満ちる全ては他者だった。故に早急に他者を定義する名前が必要であった。
「それでは、私のことは『先生』と呼びなさい。ここには君と私の二人しかいない。だから私の名前は『先生』で十分に機能するはずだ。いいかな、『カイ』」
男が言うと、赤子がまばたきをする。了承のサイン。これでこの空間において、男は「先生」になる。
「はい、先生。では、ええと……次の質問をしても構わないでしょうか」
「勿論だとも。君は何を知りたい?」
「私は、私が何者であるかを知りたいのです、先生」
それを赤子が尋ねると、先生はほう、と驚嘆から来る溜め息を漏らした。
生まれる以前からバックヤードに接続していた赤子は常人のそれを遙かに超える学習速度を見せていたが、しかし生まれて僅か三日にして己のテーゼを求めるようになるとは、これは予測を遙かに超えた嬉しい誤算だ。先生は腰を屈め、カバーオールを着てゆりかごに包まれた赤子に顔を近づける。柔らかく、ミルクの香りがするその肌を撫ぜ、彼はゆっくりと赤子に言い聞かせる。
「君が何者であるのかという問いは、とても難しい命題だ。何故ならそれには答えがない。通常はね。人間は、何にだってなることが出来る。まったく同じ赤子が、アドルフ・ヒットラーになる可能性とマハトマ・ガンジーになる可能性を同等に秘めている。人が何者になるかは、生まれてからその人が歩む過程で決まっていくものだ。だから通常、生後三日の赤ん坊にはこう答えるしかない。『君は何者でもない』と」
「では、先生……」
「ああ、大丈夫だ。しかし心配は要らないよ。君に限っては、その命題に対する答えに近いものが既に決まっている。君は『やがて救世主になる少年』だ。私は君をそのようにデザインした。世界をよりよく導き、人類に決して終わることのないとこしえの繁栄をもたらさんがために」
やがては見目麗しく育つことが確約されている子供の小さな手を壊れないようにそっと握りしめ、男は熱弁する。バックヤードからまったく新しい生命体を創造する道を選ばず、敢えて旧来の人工授精技術をベースにして生み出されたこの少年は、先生の被造物の中でもぴかいちの最高傑作だった。
実は、期待されるべき新人類として新たな生命体を一からデザインする試みも行ってはいた。人類に対する認識齟齬が出来てしまった「慈悲なき啓示」にも満場一致で認められるような、衰退と諦観を持たず、常に繁栄を努力し続ける存在を目指してそれをデザインした。しかし結果はまったくのさんざんで、先生は二度と自分で一からものを創ろうとはしなくなった。やはり先生のような人間がそんなことをしようとしたってろくなことにならないに決まっていたのだ。人は神にはなれないのだから。特に、先生のような考え方の人種は。
「やがて、救世主に、なる……?」
先生の言葉の意味をはかりかねて赤子が不思議そうな声を出す。しかし不可思議を示すジェスチャーとして首を捻ろうにもまだ頭も座っていないような新生児なので、そうはならず、ただ、納得がいかなそうな声を出すまでに留められていた。
「そうとも。君は世界を変えるために生まれるんだ。永久に続く人類の幸福という私の夢を叶えるために」
そんな赤子をあやし、フードの奥で先生はにこりと微笑む。
「だが、そのために私は君にひとつの枷を与える。——君は恋をしてはいけないよ、カイ」
そして先生はにこにこと微笑んだまま、眉一つ動かさず、祝宴に招かれなかった十三番目の魔女がいばら姫に与えたように忌まわしき呪いを少年に掛けた。
「君のそれは誰とも愛し合うことが出来ない身体だ。物理的には、そりゃあ勿論普通の人間と変わりない機構を全て備えているが……精神の問題だな。恋をしないことが、君が永遠を生きるための秘訣なんだ。熱に浮かされた子供が夢見る愛ならばいいが、恋を知った時、君は夢から醒めてしまう。それではいけない。だから君は恋が出来ない。何故なら、人々を導く為、君は少年で居続ける必要があるからだ。少年は神聖だ。少年は無垢であり、純真で、穢れなく、まっさらだ。それこそ新しい人類となるにふさわしい」
十五歳になったいばら姫がつむぎ車の紡錘に刺されて死んでしまうその呪いの代わりに、赤子には十五歳のまま時が進まなくなる呪いを施す。カイ=キスクよ、恋を知るなかれ。汝よ
「古くから神聖なる力をもつ乙女は聖処女に限るとされてきた。吸血鬼でさえ相手が処女か童貞でなければ繁殖できないと信じられ、奇跡を授かる人間は皆穢れのない身体であることが要求される。これは何故か? 奇跡を授ける神がユニコーンのように生娘以外を嫌うからか? いいや、それは正しい答えではない。ただ、余計な汚れが少ない方が、より多くの人々の信仰を掴み取れるからだ。人間は美しいものを好む。何故天使が常に美しいものとして描写されるかというと、それは彼らが堕落していない生き物であるからに他ならない。
……更に言えば、人は本来のデザイン上は当然持ち合わせている権利を封じられた時、それを補うために他の機能を鋭敏にする。視力を奪われては聴覚を発達させ、嗅覚を封じられれば味覚を伸ばす。では恋を封じればどうなるか。それにより対象は清潔さと純潔を獲得し、聖性を増す」
一息に喋り終え、満足そうに先生が息を吐いた。赤子はその様に本能的に畏れを覚えたが、しかしこの箱庭における全能の主である先生の機嫌を損ねるような真似はとても出来ない。
「先生——では私がもし、その枷を破って恋を知ってしまったら……」
そこで赤子は恐る恐る、慎重に言葉を選んだ。彼を決して怒らせてしまったりしないように、けれどこれだけは尋ねておかねばならなかった。
「それはとても悲しいことだ」
すると先生は狂人が嘲り笑うように冷酷に言う。
「もしそんなことがあれば、その瞬間にも君は死んでしまう」
◇◆◇◆◇
「アクセル=ロウ、彼は来ないわよ。正確には『来られない』。……アンタならその理由は分かるでしょ? ジャック・オー?」
瓦礫と共に煙幕を巻き上げて現れた女がぴしゃりと可能性を否定する。続いてギターの切り裂くような音色。その激しい音に、名指しで呼ばれたジャック・オーが厳しい声音を出す。
「……ええ。貴方が来たってことは、そうなんでしょう。たった今可能性の糸を断ちきられ、断定せざるを得なくなっちゃったわ。アクセル=ロウと貴方は識別IDを共有する存在。
「そういうこと。だったらアタシの目的も……わかるわよね」
女——イノが含みを持たせた笑いを零し、その場の全員が臨戦態勢に移り変わった。つい先ほどまでカイと飛鳥の相似性、そして第一の男という存在について見解の相違を見せていたあの男とソルでさえ、今は意思を同じくして目の前に立ちはだかった脅威を見据えている。この女は何を考えているのかわからない。何をしでかすのかわからない。誰の利に沿って働くのか、それがわからない。
その様にイノが含み笑いを続ける。
「そうそう、挨拶がまだだったわね。はあい、お晩。なぁに、ぞろぞろぞろぞろ雁首垂れちゃって、そんなに私が珍しいの? それとも想定してなかったのかしら? 邪魔が入るかも、なんて。でも——そりゃそうよね。なんたって今や『あの男』ですら味方に付けて、もう向かうところ敵なしって顔してるものねえ?」
「テメェ……因果律干渉体がわざわざこんな場所に何の用だ。目的はコイツか? それとも俺達全てか」
「あら、いきなり本題なんてつれないわね」
これだけの騒ぎが起きてもまぶた一つ動かす兆しを見せないカイを暗に示し、ソルが顎をしゃくりあげる。それにイノがつまらなそうに唇をすぼめ、しかしすぐにどうでもよさそうにそこに添えた人差し指を放り投げた。
「ま、いいわ。あたしも別にアンタとギグをしに来たワケじゃないの。ただ条件が良かっただけ。なんたってここには種が二つもあり、眠り姫までいるんですものねえ?」
「眠り姫だあ……?」
「かわいそうに、十五歳で死ぬ代わりに十五歳のまま生きるように呪われたいばら姫よ。覚えがあるだろ? なあ? 呪いが解けるまでずぅっと甲斐甲斐しく見守ってた王子様。ああ、目覚めのキスをした王子様はそっちのお嬢ちゃんで、アンタはただのパパだっけ?」
急に態度が一変し、全てを嘲るような口調で荒々しく喧嘩を吹っ掛けてくるイノにソルは違和感を覚え、舌打ちをする。これほどまでに好戦的なイノの姿は久方ぶりに見た。最近の彼女はもう少し落ち着いていたはずだというのに、これではまるで、一時あの男の制御を外れて暴れ回っていた時期のそれではないか。
それを問いただすようにあの男に目配せをすれば、彼は困ったように肩をすくめてイノに向き直る。
「……やれやれ。君が自己を知り、種に興味を持った時点で、いずれこうなるような気はしていたんだけれど……ちょっと、早くないかな。見ての通り今はタイミングが悪い。喧嘩の約束をしたばかりの僕とフレデリックがやむなく休戦協定を結んでいるぐらいにね」
「どうだか。貴方とカレ、実は結構仲良しさんでしょう? それに……間が悪いのは承知の上。あたしは今、第一の男にこの場の誰をも近づけないためにココにいるの。そういう意味ではこれ以上にないタイミングを計ってきてるつもりよ?」
——「第一の男」。その名前にあの男が納得したと言わんばかりに目を細めた。
「……そうか、あの人と」
「ま、そういうことにしといてちょうだい。それに……私、気がついちゃったの。貴方は別にあたしの力が欲しかった訳じゃない。ただ、存在自体がイレギュラーであったあたしを目の届くところに置いておきたかっただけなんだってね。千年の恋も醒めるような気分だった。だから今のアタシは貴方にもギターを向ける」
「……否定は、しないよ」
「そう。やっぱり貴方、優しすぎるわ。向いてなかったのよ、世界の敵なんて。壊滅的にね」
それだけの力があればいくらでもずるく生きられたでしょうにね。イノの微笑みをあの男は否定しなかった。出来なかったのだ。レイヴンにもジャック・オーにも散々言われてきたことだった。それでもあの男にはこんな生き方しか選べない。自らの師とは違って、彼は酷く不器用な男なのである。
「けれど僕が引き受けるしかなかった役目だ」
「馬鹿な人ね。それが面白いところでもあったけど」
「……本気なんだね、イノ」
「ええ。……ねえ、分かるでしょう? あたしは未来が欲しいの。だってアタシは世界の一部。世界は私の一部! もっともっと面白く生きてみたいじゃない。そのためなら私は何でもする。そう——クソつまんねえ未来に繋がりそうな因子を根こそぎ排除することもね……!」
そして彼女は再び愛用のギター「マレーネ」に指を掛けた。
吹き荒れようとする旋風を、あの男が手を振って咄嗟に発動した術式ではじき返す。そのまま彼は空間を遮断し、カイを守るように結界を張った。
だがイノの攻撃の手は緩まない。それにさえすぐにひびが入り始め、あの男は小さく唸った。もって数分。そう判断し、次の一手を取るべく新たな詠唱に移る。
それを遮るように、黙って話を聞いていたソルがあの男へ口を挟んだ。
「おい、テメェ一人で納得してねえでさっさと俺達にも分かるように説明しやがれ」
「……恐らくだが、彼女、歴史を修正する気だ。そのためにまず不確定要素である僕と君、そしてジャック・オーを物理的に潰す腹づもりってところだろう」
「なんだと? 奴はテメェの手下じゃなかったのか」
この場の皆の意見を代弁したソルの言葉に、あの男がすまなさそうに首を横に振る。
「いみじくも彼女自身が言った通り、僕が彼女を側に置いていたのは、因果律干渉体という僕や師匠でさえ制御出来ない存在である彼女から目を逸らさないため、と思っての部分が強かったからね。それに彼女を束縛していたわけではなかったから、彼女の方から見限られてしまえばそれで終わりだ。そして今、彼女は目的を見つけている。君の喉元の種もその一つ」
「……背徳の炎を、だが奴が一体何に使う。まさか、絶対確定世界か」
「いや。それなら僕達が聖皇アリエルスを打破しようとした時点で阻害行動を仕掛けてきたはずだ。故に彼女の狙いはそこにはない。恐らく彼女の真の狙いは……カイ=キスクのリセット」
結界に入ったひびが加速度的にその数を増していく。びきびきと音を立てて全体に張り巡らされた揺らぎはあの男の術を上回り、破壊し尽くさんと荒れ狂う。
「ここからは、今までの主張を百八十度翻して『彼を第一の男が創った』という仮定の上で立てた僕の推測だが、恐らく『カイ=キスク』とは即ち世界を動かすためのコアピースとして第一の男に役割を課された存在だったんだ。しかしそれが、何らかの要因でフリーズしてしまった。その理由が僕や君が彼の秘密に勘付きはじめたからなのか、それともアリアと接触して眠りについてしまったことそのものなのか、或いはその両方なのか……それは本人に確かめないとわからないが」
「チッ……クソッタレが。何を確かめようにも時間が足りなさすぎる。あの女さえ乱入して来なけりゃあまだやりようもあったが、は、このタイミングだ、そのあたりは織り込み済みだろうな。ったく、腹立たしいことこの上ねえ」
「だが同時にこれ以上ないほどの最適解だ。彼女が一旦自らの万能性を自覚してしまえば、最早誰の手にも負えないのだから。……けれどそれでも、首輪を付けて彼女のリードを取ることは僕には出来なかった。人を駒のように扱うのは僕の師だけで十分だ。僕は、彼女のことも、救ってやりたいんだよ。本当に」
あの男が懺悔をするように呟いたのと同時にケミカルの衝撃に貫かれ、結界が割れた。剥き出しになった悪意がありったけ向けられる。私怨もなく偏執的に誰かに殺意を向けることが出来る世界の異常は、舌なめずりをして手招きをする。
「さあ、もう十分かくれんぼの時は数えたわよ、化け物共。敗者達の断末魔をアンサンブルにして最ッ高の交響楽を奏でるの。終わりにしましょう? トゥルビノサメンテで壊してあげるから……」
深紅の魔女が、下卑た高笑いを隠しもせず恍惚として謳い上げた。
◇◆◇◆◇
——はじめに、試験管があった。
主はそのうちに生命を注いだ。生命は結実し、やがて硝子の檻を這い出る。試験管の外に出た生命はヒトになり、救世主の名を与えられ、十までを楽園で過ごした。赤子だった生命は子供となり、主の待ち望んだ少年の花を咲かせるその間際を迎えていた。
そして主は楽園から子供を追放した。しかしそれは蛇にそそのかされて智恵の実を囓ったからではなく、主の期待する救世主の役を果たすにふさわしい年頃まで彼が育ったからに他ならなかった。
「そう、君は、少年のまま生きて朽ちるために生み出された。だからこそ、わざわざ十になるまではバックヤードの中に閉じ込めて育てたんだ。君という子供が少年へ生まれ変わるまで、粘り強く私は待った。そしてそれに成功した後は、この世全ての祈りをかき集めて形作られた少年が人類の幸福を手に入れる様を眺めていればいいはずだった。
……実際、ある程度はうまくいった。聖戦は無事に終わり、世界中に安寧と落ち着いて眠れる夜が取り戻された。後々には人類の永久に続く幸福を求めるどころか人類の災厄となってしまった啓示をさえ打ち破り、あとは種の始末を残すだけ、のはずだった。だが……背徳の炎に接続しすぎていた君は、ユノの天秤との接触に耐え切れず、自らの身体の中で極小規模とはいえ、絶対確定世界を引き起こしてしまった!」
長年「背徳の炎」との濃厚接触を繰り返してきたカイの体内には、種に封じ込められた存在の余波が蓄積されていた。種と違い外皮がない分、それは強い影響力を持って直接的にユノの天秤へ作用する。不安定な状態だったこともあり、ユノの天秤はそれにより軽い熱暴走を起こしてオーバーフロー。結果的にカイもアリアも意識を失ってしまった。それがことのあらましだ。
「その時点で起動状態での処理に耐えきれなくなった君は、余剰思考能力を求めてバックヤードへ完全接続するために眠りに就いた。ここにも誤算が働いていることは、特筆しておかねばいけないね。もし君が私がデザインしたままの完成された少年だったならば、絶対確定世界さえ起動状態で相殺可能なはずだったのだから。何故なら、君こそが新時代に適応するために創られたデザインベビーの完成系だったからだ」
「新人類ですって? 慈悲なき啓示は、絶対確定世界に残す生命体は種を持つソルとジャスティスに限るようなことを言っていましたが」
「そんなものは定義の差に過ぎないよ。それでも証明が必要だと言うのなら……そう、たとえばだが。カイ、君は、ギアに侵されているね」
その言葉にカイの身体がびくりとわかりやすく震えた。シンと眼球を交換してから、カイは自らの形質をギアに変貌させてしまっている。それは事実だ。だがこの秘密は、今まで誰にも見破られたことはない。ディズィーにも、シン、ジャック・オー、あの男、そして……ソルにも。
先生が宥めるように右手を上げる。
「そんなに怯えなくてもいい。勿論このことには私とカイ以外は気がついていない。だが……カイ、自覚しなければいけない。君はギア細胞を自分自身の意思で制御出来ている。それをおかしいと思ったことはないのか? ギア細胞が簡単に根付いてしまったことが、そもそも異常だと考えたことは?」
「……いえ……そこまでは、考えが及ばず」
「では覚えておきなさい。君は元々ギア細胞に対する拒絶性がきわめて低い個体なんだよ。逆に融和性が飛び抜けて高い。かつて……今もだが、ギア細胞の移植実験には拒絶反応がつきものだった。ギア化手術を施された全ての生き物が成熟したギアへ変化できたわけではない、という記録を見たことがあるだろう。適応出来たとて、身体全てがそれにそっくり造り替えられる形でしか生き残れない。
しかしそれでは新人類になるために不十分だと私は考えた。私が君に与えたのは、それを克服した、ギアに成り代わられるのではなく取り込める肉体だ。つまり、人間が人間であるまま、ギアの不変不滅性を手に入れられるようにした。旧来では混濁して判別不可能になってしまう血液型も生来のそれを保持し、平時は各種シグナルを完全に人間と同じものへ偽装出来る体質だ。……更に言えば、君が取り込んだギア細胞は、減数分裂をほぼ行っていないオリジナルにごく近いものだ。そのレベルのギア細胞を制御出来ている時点で、君は自らが成功個体であることを証明している。無論これには、君が成功に至れなかった歴史をバックヤードの側から否決していったことも無縁ではないがね。——カイ。君は、死を実感したことは?」
先生に尋ねられ、カイがぼんやりと首を横に振る。今までカイは何度か死にほど近い経験を経てきていたが、そのどれもを何らかの要因でかわしてきていた。メガデスギアに囲まれた時、元老院に射殺されかけた時、そして聖皇アリエルスに銃口を向けられた時。一歩間違えれば死に至っていたであろう瞬間は数限りないが、本当に死を迎えた覚えは一度もない。
「今がそうでないのだとすれば、ありません」
すると先生は諭すようにして肩を竦める。
「その通りだ。ところが、バックヤードのデータログの上では、君はこれまでに5876491087回ほど死にかけている。十歳で地上に落とされたその瞬間から、実に一秒につき十回ほど、死の危機に瀕している計算だ。特に二一七三年のローマはひどかった。ここでは一秒に六十回を上回る勢いで死のリスクが発生していた。バックヤードの自然淘汰機能は君をなんとしてもそこで死なせたかったらしい」
「……今、なんと」
「理由は様々なので省くが、ともかく君は尋常でないほどに死に近かった。意思を持たぬバックヤードにこうまでさせるとは、君の死には世界を続けて行くために、それほどの必然性があったらしい。私はそのたびに事象淘汰に干渉し、君が死ぬ可能性を悉くにキャンセルしてきた。それらを投棄した場所のことを、あのヴァレンタインの娘は皮肉にもこう言っていたよ。『
「——ジャック・オーさんが……ッ、ぁ、ああ、そういう、ことか……!」
その名前に、稲妻のように鋭い衝撃がカイの体中を走り抜けた。
ジャック・オー……ジャック・オー=ヴァレンタイン。あの男が生み出した最も完成されたヴァレンタインの娘、バックヤードから生まれいずるもの、情報生命体。背徳の炎、ユノの天秤、絶対確定世界。「慈悲なき啓示」。あの男。罪ありき生体兵器「GEAR」。父も母も知らず、己のルーツを持たない少年。唯一残されていた十字架。そして彼を彼たらしめる、ギリシア文字の二十二番……。
『無事に生まれることが出来たら、君にはハッピーバースデーを歌ってあげよう。その日が君にとって佳き日となるように。十字架は持っているね。……何しろそれは私が君にしてやれる唯一の善行そのものだ。大分気が早いが、それが私から君への最初で最後の誕生日プレゼントだ。大事にするんだよ』
ばらばらになっていたジグソー・パズルのピースがぴたりと収められていくような心地だった。カイは誰かの手によって生み出された。そして誰かの意思によって十歳で下界に落とされ、聖騎士団に拾われ、医務室のベッドの上で改めて生を受けた。クリフがどれほど手を尽くしても家族が見つからないわけだ。カイの親なんてものは、元々どこにもいなかったのだから。
カイは震える手で胸元に手を伸ばした。この胸に下げ続けた十字架、息子に継承してもなお手放すことを恐れて複製したそれこそがカイを縛り続けるいばらの冠であったことに、その時はじめて、カイは気がつかされていた。
「……やっと全てが繋がりました。私の空白の十年間が、ようやく。わたし……私は……先生、貴方の手によりここで育てられた。私の周囲にはいつも試験管と機械、本、そして汚れのないおもちゃだけが転がっていた。ここには私の他には誰もいなかった。先生、貴方一人を除いて」
「そうとも。成功することがわかっている実験に、複数の被験体を用いるのは単なる労力の無駄だ。君は一人で世界を救うのだから、同じ運命を持つ仲間や友達は必要ない」
「しかし保険は必要です。最低限の労力と工夫で最大の結果を叩き出すために先生が私に行ったのは枷を掛けること。しかし……私はその枷を破ってしまった」
「そうとも」
「枷を破り、努めて秘匿されていた真実を私が知った今でも、先生、貴方は私に役割をお望みですか?」
「勿論だよ、カイ」
先生の声は恐ろしく冷え冷えとしていた。
目深に被られたフードの奥に隠された顔があからさまに歪むのを、カイは理解していた。先生は恐ろしい人だ。彼はバックヤードを知り、その力を手に入れ、これまでの人生において彼の思いの殆どを現実にしてきた。時々失敗はしたが、それは全て彼の予想の範囲内であり、許容され得る表出した自分自身の人間らしさに過ぎなかった。
そんな彼が今、生まれてはじめて自分の理解出来ない事象に直面している。冴え渡っていく思考でカイは自らの震えと怯えを打ち消した。この人はまだ理解していないのだ。カイ=キスクはもう、とっくに、彼の道具などではないというのに。
エルフェルト・ヴァレンタインとラムレザル・ヴァレンタインが慈悲なき啓示の道具ではなくなったように、カイもまた彼の意図したデザインを外れてしまっている。
「私は恋を知りました。もう……あなたの理想の少年には戻れません」
カイは法衣の下に身につけていた十字架を毅然とした顔で投げ捨てた。それは二十年ぶりに再会した「父親」に対する、はっきりとした決別のメッセージだった。