14 いばらの冠
自分のルーツをずっと知らなかった。彼には母がなく父もなく、思い出も故郷もない。周りの人達がそれを話し合うのを羨ましいと思ったことだって一度や二度ではなかった。彼らは肉親の話をする時、どんなに口では悪態をついていたとしても、その表情はどこか暖かみに満ちて、家族の話をすることで自身を奮い立たせているようだった。自身のルーツというのは、人を人らしくあらしめるものだ。彼らはそれに基づき形成された誇りに従い、自らを確固たる自己たらしめるために生きていた。
「かつて貴方は私にそれを否定しましたが、やはり、私の父は貴方ですよ、先生」
それなりの信心深さを自負しているカイが、十字架を投げ捨てるなんて罰当たりな行為に手を染めたのは生まれて初めてだった。けれどこの場において、あの十字架が持つ役割は信仰の依り代などではない。あれは単なる「先生」から「カイ」への首輪に過ぎない。
カイの不信心な行動に先生は更にフードの奥に隠れた眉間の皺を深めた。困惑しているというよりは、今までずっと親の言うことを聞いてきた良い子が、急に親に逆らい始めたので驚いているふうだった。
「カイ。私は言ったはずだね。その十字架をなくしてはいけないと」
「覚えていますよ。ドッグタグをなくされると管理に困ってしまいますからね、それは、必死に言いくるめるでしょう」
「馬鹿なことを。それは君が持つ唯一の『本物の』ルーツだぞ。君の父親であり母親である彼が所持していたものだ」
「遺伝子上の両親になど興味はありません。先生は以前仰っていたでしょう、その人は私のことなんてまるで知りもしないとね。であるならば私の父は、クリフ様であり、ベルナルドであり、ソルであり……そして先生です。血が繋がった両親と呼べる存在が実在していたことには少し驚いていますが……」
そこまで呟き、そこでカイはふと口を噤んだ。カイはバックヤードに安置された試験管から生まれた。母親の腹に収まっていたことは一度もない。それならば、そもそも、自分の好みの遺伝配列をバックヤードから作出して掛け合わせてもよかったはずだ。
「……いや、待て。
「私の理想の少年を創り出すには、やはり、理想に近い少年の遺伝子が必要だ。ゼロからの作品は失敗作に終わった。だから私は、かつて私が最も大きな価値観の揺らぎを受けた少年を元にして精子と卵子を作成し、出来るだけ自然交配に近い形になるように受精させた」
「少年を元に精子と卵子を? いえ、確かに理論上、X染色体とY染色体を保持する男性からそれを造ることは可能ですが……」
「尤もらしい理由を求めているのかね? ならばそれにはこう答えるしかない。私という人でなしは、彼という少年を、永遠に少年のまま留めておきたかったのだ、本当は」
先生が言った。
その瞬間、カイの背筋は怖気で凍り付いた。先生の言っていることが、カイの倫理観ではまるで理解出来ないのだ。会話が出来るのにまったく意思疎通が図れない。慈悲なき啓示と話していた時のような心地だった。あの女も、同じ言語を喋っていたはずなのに何もかもが噛み合わず、ちぐはぐで、子供の癇癪のように人類を滅ぼそうとしていた。それと殆ど同じだ。
先生の価値観をこうまで徹底的に破壊せしめた少年が誰なのかをカイはまるで知らなかったが、その少年にこそ本当にいい迷惑だろう。知らないところで勝手に偏執され、勝手に複製され、勝手に人の親にされていたのだから。最早生きているのかさえわからない少年にカイは同情した。みんな気が狂っている。
「どなたか存じ上げませんが、私はその少年の代替品ではありません」
粘り強くカイが提言すれば、先生はそれがどうしたとばかりに首を傾げる。
「知っている。よって思考回路や人格はそれのコピーにならないよう最大限配慮し、自由意思を尊重して育てたはずだ。彼は君のように絶大な人々から信仰を受ける人間ではないよ。その代わり、ごく一部の人間の心を絶大に掴む。君と彼のカリスマ性は結果的に真逆になった。君は救世主に求められるカリスマ性を獲得する必要があった」
「……狂ってる……!」
「だから言っただろう、私みたいな人でなしを親と考えるのはやめた方がいいと」
その声音はどうしてだかこれ以上ないほどの慈しみに満ちていた。
狂気の糾弾を極上の褒め言葉として受け取られているかのような、人でなしと自分を罵ることに快感を覚えているかのような、そういう、カイの常識では推し量れない相容れなさの結果がそこにある。そうして先生は慈愛に溢れた優しい声のまま続けるのだ。カイの頬に手を添わせ、まるで小さな子供に、お伽話には絶対にバッドエンドが存在しない理由を、丁寧に言い含めるように……。
けれどそれでも、これほど恐ろしく感じた手のひらはなかったというのに、先生の指先で触れられることをカイは拒めない。
「カイ、君は今こう考えているだろう。『では何故その少年をバックヤードから書き換えて操作せず、私を生み出したのか?』『そんな面倒くさい方法を踏まずとも貴方には事を成せたのではないか?』……それならば、その認識については改めてほしい。私に既に定まってしまった誰ぞの人生を操作することは出来ないよ。出来るのならば、暴走した『娘』を放置したりはすまい。バックヤードに接続したところで、人は、人のレールの向きを変える程度の干渉しか出来ないのだ。バックヤードに存在しない可能性はどこからも引っ張っては来られない」
「何が……言いたいんです」
「私にはあの子の成長を咎めることは許されていなかった」
「戯れ言を。ならば私のそれを咎める権利もあるまいに……!!」
「はじめからそのようにデザインされていた君にはそもそも恋をする機能が欠損していたんだ。もう一度言うべきか? 存在しない可能性はどこからも生まれない! 私が逆に聞きたいぐらいだ。君は一体どこからそれを引っ張ってきた。背徳の炎もユノの天秤もそれには能わない。或いは幾不可思議回の事象淘汰を繰り返して天文学的確率を引きずり出したのか? 事象キャンセルを行うのは、人の精神力では精々億単位が限界だ。出来るとしたら私以上の人でなしがいるということになるが」
そんなものは存在しないよ、と先生はどろりとした声で落とし込み、カイを抱き締めてから彼が投げ捨てた十字架を拾う。
それを咎めることも出来ず、その場に立ち尽くしてカイは息を飲んだ。確かにそれはおかしな話だった。
(存在しない可能性の虚数域からの強制採択? ここまでくると事象の上書きだ。因果律を否定しているに等しい。バックヤードにない可能性を持ってくるなんて……)
恋に纏わる一切の可能性を剥奪して赤子を生み出した彼が、カイの死についてはバックヤードからの干渉で何十億回と否定する手間を掛けねばならなかった。このことから推測されるのは、死という概念を持たない生命はデザイン出来ないという仮説だ。レイヴンという存在が実証しているように「不死不滅」の生命体はあり得なくないが、彼も生まれながらに不死だったわけではなかったのだろう。似たような不老不滅の生命体であるギアも決して死なないわけではない。
初めから消滅のメカニズムを持たない生命が群体として発生する、という可能性は塵一つさえバックヤードに記されていない。もしその可能性が採択されてしまえば、世界は途端に立ちゆかなくなってしまう。それは世界をゆるやかに存続させるために、バックヤードという機能そのものに課せられたルールなのだろう。つまりバックヤードには、ある厳格なルールのもと、「起こりうる可能性」、起こってもいい事象しか記録されていないのだ。
そこから逆説的に考えれば……或いは……。
「しかし、起こってしまったことは仕方がない」
カイの思考を遮って先生が言った。それにより思考を引き戻され、カイは彼の手のひらの先に目を奪われる。そこには鈍く光る十字架がぶらさがっており、暗に、その先を示唆している。
先生は確かに恋を出来ない身体にカイを創ったが、こうなってしまった以上、現在のカイは恋をした存在としてバックヤードに記されている。それを書き換えることは出来ない。書き換えることは出来ないがしかし、先生は目的を遂げなければならない。なれば、彼の目論見は自ずと絞れる。
「君が自己保全のためにバックヤードへ戻って来たことも、こう考えれば好都合だ。カイ、私が今どうして君の前に姿を現したのか、その理由はもうわかっているね」
「……ええ。私の定義を再び書き換え、貴方の望む形で現世へ置き戻すため、でしょう。何しろ私の十歳までの記憶を完璧に剥奪していたあなただ。過去を書き換えることは出来ないが、未来を採択することは出来る。要は『私があなたの意にそぐわぬ行動を取る』という可能性を全て否定していけばいい」
「その通り」
「今一度私にいばらの冠を掛けるおつもりで、先生」
「聞き捨てならないな。祝福だよ、この十字架は」
反吐が出そうな答えだ。ゴルゴダの丘を知らぬ彼でもなかろうに、平然としてそんなことを言う。
「救世主の額に宿るという聖痕も貴方は同じように言うのでしょうね。ですがそう簡単に事を通せるとお思いですか? 昔と違い、私には貴方にさえ抗おうという意思があります。たとえそれが私という存在を生み出した造物主であろうと。今は私もバックヤードに接続しているんですよ」
「では問おう。私は人類の永遠に続く幸福のために君をメンテナンスしようとしているだけだ。人類の幸福を望む君に、何故私に抗う理由がある。私のかわいい少年で居続ければ、君も、世界も、人類も、全てが救われるというのに」
問いただし、それでもやはり先生は超然としていた。
やはり、狂っている。カイは強く首を振って先生の言葉を否定する。彼は自分の理想が全ての人々にとっての幸福であるという妄想に取り憑かれてしまっているのだ。
なまじ、バックヤードから干渉など行えるからなのだろうか? 意思の多様性についてこれっぽっちも理解が出来ていない。だから話も通じない。
「残念ですが」
カイはゆっくりと言葉を選んだ。話し合いで解決出来ない相手に対してどう行動を取るべきか、それを考える彼の腕は自ずと腰に下げられた愛剣に伸ばされていた。
「私は貴方の敷いたレールを信用出来ません。貴方の考える幸福は、全人類の幸福ではないのですよ。与えられた運命に唯々諾々と従う人形の王国を造り上げる愚行など私が望むと思うのか。二度も言わせるな。私はたとえどんな暴力が現れようと、それに屈しはしない」
「君こそ忘れているのではないかね、カイ。それでも君は私にデザインされた生命だ。私は君の親ではないが……今は敢えてこう言おう。親に細胞レベルで染み込ませられた反応に、子は抗えない。君はとてもすぐれた存在だ。バックヤードで十年を過ごした君はその才能を十分にこの場所で活かせる適正をも獲得している。だが、惜しいな。私はそれを遙かに超える時をここで過ごしているんだよ。バックヤード内で私に勝る干渉を行える存在など……」
「——そう、僕をおいて他にはいないはずだ、
年若い少年の声が響き、次の瞬間、十字架をカイの首に掛けようとした先生の手が勢いよくはじき飛ばされた。二人きりしかいなかったはずのニルヴァーナに突如第三者が出現し、カイを庇うようにして先生から引き剥がす。瞬く間に距離を開いた後、少年は瞬間移動と同じ要領で再び先生との間に距離を詰め、地に足を付けて眼前の男を睨み付けた。現実世界では常に閉じられていたその瞳は、今は確たる意思を持ってしかと開かれている。
「お前は」
先生が淡々と問うた。その時先生がごく僅かにだが瞬きをしたことがカイにはわかる。それが、カイが初めて見た彼の人間らしい生理現象だった。
「いや、今は第一の男なんて他人行儀でしみったれた名前より、こう呼んだ方がいいのかい? ——ありがとう、僕達兄妹を棄ててくれた優しいパパ。感謝しているよ、君が失敗作だなんて言って放棄してくれたおかげで今僕はこうして自由を得たんだからね。この自由という概念こそが人々の幸福に真に必要とされるピースだ。君は考えたことがあるかい? 何故人々が彼という偶像に祈りを捧げるのかという命題についてだ。無論考えたこともあるまい。それは君の『正しい』デザインから為される当然の結果だと信じているのだろうから。では早速だがそれを否定してあげるよ。君のデザインなどハナから関係ないのさ。それはただ、カイ=キスクという男が誰よりも人らしく生き人らしく恋をして人らしく足掻くからこそに他ならないのだから」
少年が冷ややかに言い放つ。彼の姿に見覚えがあり、カイは顎に手を遣って考え込んだ。一体どこで? 実際に会ったことがあるのか、それとも……。
そうだ。間もなく、巨大な可動式ベッドに括り付けられた彼の姿を記憶の中から探り出してカイは息を呑んだ。彼はベッドマンだ。ソルを伴ってツェップを訪れた際、一度だけモニタ越しに見たことがある。
◇◆◇◆◇
奇妙な違和感がずっとついて回っている。肌にべっとりとまとわりつくような不自然さだ。襲いくるイノの攻撃をいなしながらあの男は考える。彼女の動きは妙だ。巧妙に取り繕ってはいるが、もしかして彼女は本気であの男やソル、ジャック・オーを壊そうとしているわけではないんじゃないか?
あちこち飛び回って攻撃している割には、致命傷に届きそうなものが少ない。何しろ相手は規格外の法術使いであるあの男、背徳の炎を宿した最強のギアであるソル、ユノの天秤を併せ持つヴァレンタインのジャック・オー、ジャスティスを継承した娘であるディズィー、空恐ろしいまでのサラブレッドであるシン、それに指揮官型ギアとしては最高峰の能力を誇るパラダイムだ。この全員を少なくとも本気で行動不能にする気があるのなら、もっと死にものぐるいで掛かってきてもいいはずなのに。
その疑念は彼女が「メガロマニア」をぶちかましてきたことであの男の中で確信に変わる。これだけ多人数を相手にしていてこの技を選ぶのは、お世辞にも優れた判断だとは言えない。精々が全員の抗力を削ぎ、足止めをする程度の効果しか期待出来ない。
(……そういうことなのかい? イノ)
胸中で独りごち、あの男は指先に法力を集める。けれど足止めとして考えた場合にはこれ以上の選択肢はない。規格外の化け物共を一秒でも長くこの場に留めさせるにはもってこいの方法だ。そこまで考えが至ったところで確信を持ち、あの男は結界を補強しながら声を張り上げた。
「もう、いいよ、イノ。君はさっきトゥルビノサメンテと言ったが、これじゃアンポーココルペドゥだ。その証拠に右ペダルを全力で踏んでこない。君がその気になれば、事象干渉で潰しに掛かれるはずだろう」
あの男の声などまるで耳に入っていないかのように、迫り来る音の奔流は止まらない。だがそれに構わずあの男は問い続ける。
「何か目的があるのなら話してくれ。事と場合によって僕達は協力し合える」
そこまで言い切ると、今度は狙ったイノではなくパラダイムがあんぐりと口を開けた。
「ギッ……ギアメーカー、それでは彼女はこれでまだ本気ではないと言うのか!」
「あら、じゃあやっぱりそうなの? 実際のところ、魔器としての自己を認識した彼女が出せる本気はこんなものじゃないわ。だって彼女には歴史を書き換える力さえあるのよ。過去に規定された事実さえねじ曲げられるの。そんな存在が本気を出したらどうなると思う?」
ジャック・オーの問いかけにカイを抱き抱えたままのソルが答える。
「まあ、この部屋ごと城が吹き飛んでてもおかしくはねえな」
「僕が倒れて、磁場コントロールによる情報圧縮が行われなくなったらそうなるだろうね。そして彼女が本気ならもっと徹底的にこの場を支えている要の僕を殴りにくるはずだ。……さあ、イノ。そろそろ時間は稼げただろう。君の本当の目的を教えてくれ」
あの男がそう告げるのと時を同じくしてメガロマニアの放出が一度止まる。そこを見逃さず、あの男は隙を突いて渾身の術式を彼女に向かって撃ち出した。
リチャージのための硬直時間を狙って展開された正確無比なその術式をかわす道理など存在し得ない。その上あの男が放ったのは、通常ならばいかな魔器とて器になっている肉の部分が跡形もなく吹き飛ぶような攻撃。だが、彼女がその直撃を受けて吹き飛ぶことはない。衝突の直前で技がキャンセルされて掻き消えてしまったのだ。
魔器としての自覚を強めた彼女が、その身に与えられた権能で事象に干渉した結果である。あの男にも、第一の男にさえ出来ない芸当。それを仏頂面であっさりとやってのけ、イノが心底がっかりしたふうな声で溜め息を吐いた。
「貴方って本当にやな男ね。アタシがせっかく一世一代の大博打を打ってあげてるのよ? もうちょっと空気を読むとか、せめて時間稼ぎだって大声で言いふらしたりする必要ないじゃない」
「そういうわけにもいかないな。無駄な体力の消耗はあんまり好きじゃないんだ」
「……忘れてた。だから了承さえ取らずに友達をギアに改造出来るのよ、この男。しょうがないでしょ、貴方が良くってもそこの男はアタシの言うことなんか聞いて止まってくれやしないわよ。そうしたら実力行使で留めておくしかないじゃない」
「さあ、どうだろう。内容によるんじゃないかな? この百年で大分彼も丸くなったからね」
「そこでおねんねしてる坊やの言うことは聞くようになったわね。だけど彼が今一番起こしちゃいけない子よ。で……どうしたいの。もう一発メガロマニア、ブチ込まれたいのかしら?」
イノの背後に浮かび上がった純白の両翼が再び動き始める。リチャージが済んだらしい。
その場の視線が次々に集中するのを感じ、ソルが仕方なさそうに口を開く。
「やめとけ。次に撃ったらテメェがくたばるまで殴り続けるぞ」
「あらあ、口だけは達者ね。これ以上ドラゴンインストールを使ったら後がないって一番よく知ってるのはテメェ自身だろ。が……そうすることに利がないのはどちらとも同じだ。背徳の炎は今じゃなくてもいいが、カイ=キスクの目覚めについては火急を要する……」
「あ? そいつはどういう意味だ?」
問われてイノは大仰に溜め息を吐いた。感覚を研ぎ澄ませ、「相方」の作業が今どこまで進んでいるかを確認する。進行度合いは約86%。まずまずと言ったところだが、ここからが勝負どころでもある。
それから抱き抱えられたままのカイにつかつかと歩み寄り、彼女はその額に触れた。流石に彼の状態を完璧に測ることは出来ないが、こちらも大詰めと言ったところだろう。元々尋常じゃない粘り強さのある男だ。それに保険も掛けてある。ここまでイノにやらせておいて、「世界が明日へ続かない」選択肢なぞ存在していい謂われがないのだ。
「その子の情報を今大急ぎで再定義し直してる真っ最中なのよ。完璧に定着し終わる前に起こしたら——正確には、その作業が完了する前に第一の男を殴りなんてしようものなら、この子、世界ごと道連れにして死ぬわ。それともこの子を自分の手で終わらせてあげたいわけ? それはそれでとってもサディスティックな愛の形だと思うけど、アタシはぜんっぜん好みじゃないわね。心中なら世界が終わらない相手と勝手にやってな」
イノがけしかけるように投げつけた言葉に、ソルの顔が目に見えてひきつった。
◇◆◇◆◇
「……貴方は!」
自らと先生の間に割って入った少年を見上げてカイが叫んだ。ベッドマンが振り返り、軽く会釈をする。現実世界で動いていた彼はずっと寝たきりで何も喋らないのだと報告を受けていたが、実際に動いている彼の口はその印象とは正反対に驚くほど饒舌だった。
「ああ、はじめましてと言うべきだなカイ=キスク。僕達は互いに関する情報を知識として有してはいたが、肉体を伴った実際の対面をしたことはない。尤も今だってソーマとプシュケーのみで会話を成り立たせているに過ぎないがね。君の肉体は今もって眠りに就いている真っ最中だし、僕の肉体は不手際で消滅してしまった。だが、ことバックヤードという空間においては僕の優位性が揺らぐこともない。安心したまえ、借りは返すよ、第一連王」
「何故貴方がここに……。いえ、先生を『パパ』と呼んだのは、一体……」
「うん、それは簡単な理屈によるものだ。彼の言う『ゼロからデザインした結果失敗してしまった試作品』が僕と妹だったというだけの話さ。僕達は単独で絶対確定世界を招き限定的な万能領域を展開することさえ可能な能力を要しているが、生まれつきそんな機能を持たされていたせいで現実世界でまともに活動することも出来ない身体になってしまっていた。僕らが持たされている情報量はこのサイズの脳が持つ演算能力じゃ補えない。バックヤードの補助があって初めて成り立つ過剰スペックだ。よって僕らは随分長い間眠り続けた。夢を見ることでバックヤードに接続し、かろうじて存在を繋ぐために。しかしながら眠り続けなければ生きていけない生命が次世代を担おうなどどだい無理な話。故に次作の君は既存の人間をモデルにして創造されたというわけだ。彼は僕達で失敗したことにより、ようやく自分に何かをデザインするセンスが壊滅的に欠けていることに気がついたのさ」
ベッドマンが入れ墨の刻まれた細腕をひらりと振って一息に言いのける。なるほど、理屈は通らないこともない。元々バックヤード……夢の中の世界をメインにして活動していたという彼だ、この空間内で自在に動けるのも道理だろう。
だがカイの疑問の全てはまだ解消されていない。
「……その答えはまだ納得出来る理由になっていません。貴方は慈悲なき啓示の協力者だったはずでは? 何故私を助けるんですか」
それを問うと、彼は自嘲気味に目を細めた。
「言っただろう、借りを返すと。借りの一つ目は君たちが僕を騙して人類を破滅させようとした聖皇アリエルスを倒してくれたこと。そして借りの二つ目は君にではない。僕を助けてくれた君の友人に対してのものだ。僕は彼に頼まれ、最後の時間稼ぎをするためにここへやって来た」
「一体何の為に。時を稼いだところで彼相手には無意味なのでは」
「ところがそうでもない存在もいる。君もよく知っている男、彼はその数少ない例外だよ」
そうしてベッドマンが肩を竦めた先で、先生がフードをより深く被り直していた。ベッドマン——彼曰くの「失敗作」の思わぬ登場がよほど堪えたのか、単に何も考えていないからなのか、そのどちらにせよ得体の知れない動きだ。
その様にベッドマンが嘲笑を返す。
「やっと人間らしさが見えてきたじゃないか。かわいくない息子の方は顔も見たくないってことかい? 君が彼の元になった少年のことをどれほど狂執的に偏愛していようと僕の知ったことではないが、しかしその対応はちょっと辛辣に過ぎやしないかね。まあ廃棄した瞬間から僕と妹のことなどお忘れだったのかもしれないが」
「サムソンとディライラ。忘れたことなどない、ああ、一度たりとも。私の創り出したものの中で最大の汚点だ。教師はほどほどに出来の良い生徒のことを次第に忘れていくが、飛び抜けた優等生と図抜けた劣等生のことは忘れ難いものだよ。だが、何故生きている。お前は生まれる前に死んだはずだが」
「その表現は矛盾に満ちているな。全ての生命は誕生の前に死滅は出来ない。生まれる前に死んだという表現は死産を示す比喩の域を超えられない出来損ないだ。生まれていないものは当然死ぬことも出来ない。生と死は必ず対になって発生する。バックヤードに可能性として書き込まれた時点で僕は生まれていたし、カイ=キスクも十歳になる前からちゃんと生きていたじゃないか。少年から始まって発生する生命など君の思い込みにすぎないよ」
「……。何を目論んでいる?」
「カイ=キスクの解放と安定。それから子離れの提言だ。まったく君は度し難い生き物だな。慈悲なき啓示を創り出して暴走させ、弟子達に尻ぬぐいをさせながら自分は理想の子供を作ってままごと遊びに耽溺していたなんて、三文小説にも劣る筋書きだよ。なまじ力があるから世界は自分を中心に回っていると思い込んでしまう。能力のある子供ほど厄介なものだ。アリエルス、彼女も——嘘つきだった分もっとたちは悪かったけどね」
人を裏切り道具扱いすることに罪悪感を覚えないところはうり二つだな。ベッドマンの言葉は散々に先生をけなしていたが、その言葉の調子とは裏腹にこれまでにないほどの緊張感が彼の存在じゅうに張り詰めていた。
いかにベッドマンがバックヤード適正に優れているとはいえ、相手は再起の日以降からの二百年を裏から牛耳っていた存在だ。僅かでもパワーバランスを取りこぼし、相手を「その気」にさせてしまったら何をしでかすかわからない。この危うい均衡は第一の男にとってカイが重要な駒であるという純粋な利害関係で保たれている。もしもこれを廃棄して次の少年を創ればいいなどと思われてしまえば、それで全てが水泡に帰す。
(とはいえ、再調整をしようとするぐらいだ。勝機は十分こちらにあると見て構わないはず。そしてその再調整を一秒でも長く遅れさせた時点で僕の役割は終わりだ。あとは……彼の観測が第一の男に勝れるか否かの出たとこ一発勝負だな)
ここまで来たら残るはハッタリと理詰めだ。この男が何を考えているのかさっぱり想像さえ及び付かないことが最後の不安要素だったが、無理矢理にでも押し通すしかない。ベッドマンの行動理念はずっと、妹に外の世界を見せてやりたいという願いに基づいていた。世界が滅ぶのも、多様性を持つ人々が生きる世界が失われるのも、望ましいことではないのだ。
あと一秒、二秒、いやたったの三秒でいい。バックヤードは現実と時の流れを異にする場所。そのほんの数秒が歴史を左右し得るのだ。
「詰みだよ、二千年以降のあらゆる罪を背負った君。いい加減に諦めたらどうなんだ? 君なんぞに左右されずとも人類は幸福を模索していける生き物だ。イリュリアという国がそれを証明している。人から戦争を取り上げるのは植物から酸素を奪おうとするのに等しく無駄な行為だが、同時に人はそこから多くのものを学んで行ける。僕にも聞かせてくれ、君の理想郷は一体なんだ。彼を十年も閉じ込めた穢れなき涅槃の地である
「…………本命はなんだね?」
「君が心変わりをしてくれればそれが一番望ましい。しかし決定的な事実を突きつけられなければ君はそのアダマントのように硬質な意見を翻しはしないだろう。だから証拠を揃えることにした。……ふむ、喜ぶといい。たった今準備が整ったようだ」
満を持して振り上げられた腕が無限に続く回廊に暗いうろを造る。その奥からむわりと霧がけぶった。深い、ロンドンのスモッグだ。その奥から招かれざる者の声が響く。男の声だ。
「お待たせ。たった今、カイちゃんの過去をぜーんぶ固定し終わった。いやあ、苦労したよ? わりと細かいところまで結構強引に上書きしたかんね。特にカイちゃんと旦那がうっかりしちゃうこととか、あの子と出会ってシンちゃんが生まれたこととか、あのへん重要な割に確率低いんだもん。アレ、いちいちバックヤードから干渉してたらキリないって。いや、ホント、人でなしだよアンタ」
霧の奥から何者かの影がこちらへ近づいてきていた。そこそこの長身で、シルエットは細身だ。けれどそれは彼が着やせするタイプであるからだということをカイは知っている。自分も同じ体質だということで過去に大いに盛り上がったことがあった。
ニルヴァーナに現れた最後の闖入者は、ユニオンジャックを身に纏った長髪のイギリス人だった。軽薄そうな笑みを浮かべながら、体中に疲労と汗を滲ませている。相当な大仕事をこなしたあとであろうことは想像に難くない。その彼がカイを見ては嬉しそうに手を振り、そうしてフードの男にひとさし指を突きつける。チェックメイトの宣告だ。
「でもカイちゃんをこの世に生んでくれたことだけは最高によかった。……だからさ。あとはほっといてやんなよ。子供はいつか親から離れてくもんなんだから」
アクセル=ロウは堂々たる存在感を放ち、そこにいた。