15 世界五分前仮説
「ハァ? カイ=キスクの過去を知りたい?」
あの男とソル=バッドガイが喧嘩の約束を交わす現場を見守り、さてじゃあ自分はどう動いたもんかと思案していたイノにそんな話を彼が持ち込みに訪れたのは、メイシップⅡでの件の酒盛りから二日後のことだった。テーブルの向こうに座ったユニオンジャックの男が、その素っ頓狂な声に実に申し訳なさそうに身を竦ませる。
ただそれでも物怖じはせず話を続けるあたり、男……アクセルも、大概場慣れしてきたと言うべきか、神経が太くなってきているようだった。
「この前旦那達とお酒飲んだ時にカイちゃんがわかんないんだって言っててさ。どうも……引っ掛かるんだよね。アンタなんか知らない?」
「知らないわよ、まったく。ようやくズルく生きる決心でも固めたのか、そうじゃなくても何か面白い話でも持って来たのかと思えば、あのお坊ちゃんの過去とは……。そんなの、自分で時間跳躍をして確かめてくればいいじゃない。時間圧縮までやってのけた今のアナタなら、私の手助けなんか必要ないでしょ」
「や、それがさ、もう何回も試してはみたのよ。結果は全部駄目だったんだけど……」
「……どういうこと?」
その言葉にイノの表情が一変した。バックヤードそのものにさえ迫るイレギュラーな権限の数々をイノと共有しているアクセルに、時に関する項目でおよそ不可能は現状ないと言ってもいい。彼は自在に時代を行き来し、存在する限りの過去と続く限りの未来を垣間見ることが出来る。さらには自身が廃棄された世界の唯一の生存者であるという特性を用いれば、イノでさえ不可能な「廃棄された世界による現世界の上書き」ですら可能なのだ。結局、この世界で出会った多くの友人たちと元の世界に残っているであろう彼女のことを考え、その選択肢は仕舞ってしまったようなのだが……。
ともかく、そんなアクセルがタイムトラベルについてエラーを出すとなると、何らかのイレギュラーな力が働いていることはまず間違いない。
「意図しない時代に飛んじゃうんだ。そのまま石器時代に飛ばされたり、古代ローマに立ってた時もあったし、ヘタすると白亜紀に行っちゃった時もあった。……とにかく、カイちゃんが生まれた年……二一五七年からの十年間に絶対アクセス出来ない。あの灰色の未来にばっかり飛んでた時と状況は似てるかな」
「……そういうことね。因果律干渉体であるアンタを特定の時代から遠ざけている原因となると、思い当たる可能性はそんなに多くは残らないわ。一つ、バックヤードに住んでる何者かが強引な干渉をし続けてる。二つ、世界そのものの摂理に抵触してる。三つ、タイムトラベルを試みてるアンタ自身が無意識にそこへ行くのを怖がってる」
「それじゃ一か二だ。俺は絶対行きたいと思って何度も飛んでるんだぜ。というか、アンタ……その口ぶりじゃ、何か心当たりがあるみたいだけどもしかして……」
「失礼ね、私はしてないわよ、そんなこと。それにあの男もね。ついこの間やっと啓示にカタが付けられたって大喜びで大親友と河原で殴り合いする予約入れに行ってたぐらいだし……それに知ってると思うけど彼けっこう無邪気で純粋なの。親友が大事にしてる子にわざわざ仕込みをしておくような陰湿さを持ってたらもっと上手に世渡りしてるわよ」
「そだよね。バックヤード饅頭とかくれようとしたもんね……やでも、そんじゃ他に誰がいるんだ? そんな荒唐無稽なヤツ……」
「いるのよ、一人だけ」
紅茶を啜ってイノは溜め息を漏らした。荒唐無稽も荒唐無稽、あの男を上回る大役者だ。しかもアクセルに接触してきたことがある。
「前にアンタに伝言を頼んだ男がいたでしょう」
「ああ、あのアンタたちがオリジナルとか呼んでた」
それを告げてやると、アクセルが思い当たったように手を叩いて「はあ、なるほど」とか間の抜けた声を漏らした。
「そう。あの男の師匠筋にあたる第一の男は、ぶっちゃけて言えばあの男を遙かに凌駕する天才よ。当事者以外に内容が伝わらないようコードに禁則を掛けるとか、もう人間の発想じゃないもの。それに、思い当たる理由はその男が稀代の天才ってだけじゃないわ。あのねえ、それだけの力を持った存在がわざわざ本人に直接伝えないでアンタに伝言を運ばせたのよ。これがどういう意味だか分かる?」
「えーっと……あの、怒らないで聞いて欲しいんだけど……ぜんっぜん分かりません」
「決まってるわ。やましいことがあるからよ」
聞いてはみたもののアクセルが正解を出せるとも思っていなかったので、イノは平坦な声のまますぐに答えを教えてやる。それにアクセルが「わからん」というように顔をひきつらせるが、そのあたりも想定の範囲内ではあるので、別段怒ったりはしない。
「……えと、それ、どういう……」
「やましいことがあってあの男と接触したくないの。慈悲なき啓示なんていう規格外の情報生命体を創り出すような力を持っていながらね。多分だけど、あの男の力を恐れて……とかじゃないわ。もっと意味わかんない理由からって考えるのが妥当。前、私はアンタへずるい生き方したくなったらまた来なさいって言ったと思うけど、第一の男ぐらいまでくるとずるいを通り越して変態よ、変態。何考えてるか分かったもんじゃないわ」
「そうなんだ……アンタにそれだけ言わせるって、そりゃ本物の変態さんなんだろうな」
「ちょっとそれどういう意味? ま、でも……だからこそ、引っかき回す価値はあるかもしれないわね……」
そう呟き、イノは頬杖を突きながらバックヤードへのアクセスを片手間に開始した。
二一五七年から二一六七年までのログを片端から漁り、干渉を仕掛ける。膨大なデータと可能性の海の中から「カイ=キスク」に纏わる事柄を探し出してピックアップしようとし、イノは眉をひそめた。エラー、エラー、エラー、エラー、エラー。カイ=キスクに接触しようとした途端、異常な数のエラーメッセージが出現し、ダイアログを埋め尽くしたのだ。
「あら、ほんと。すごいわね、これ……」
続けて対象年代を二一六七年から二一七七年に移す。次のログは正常に吐き出された。カイが聖騎士団に拾われ、様々な出来事を乗り越え、聖戦を終結させて国際警察機構に移籍する……そのごくつまらない情報がずらりと羅列されるのみだ。
イノはげぇ、と顔を歪ませると唇を尖らせる。どうでもいいことまで見てしまった。あの坊やと背徳の炎の性事情なんてものは別に知りたくなかった。
「こっちはつまんないわね。大体、アタシも知ってるし。で、あとはエラーを出してる原因だけど、これは一回跳んだ方が早いか。じゃ、ちょっと出るから留守番よろしく」
「へ? 何?」
「すぐに戻ってくるわよ」
そしてイノは朗らかに手を振ってアクセルの目の前から消え——
「……おいおい、一体どうなってんだよこれは?!」
——本当にものの数秒で戻って来た。
彼女のタイムトラベルの結果を総括すると、以下のようになる。一つ、「二一五七年から二一六七年までのカイ=キスクに纏わる情報は禁則事項に抵触している」。二つ、「その裏に関わっているのはほぼ間違いなく第一の男」。三つ、「カイの人生は天文学的綱渡りの連続で形成されている」。四つ、「今後の人生においてもカイは生き延びるだけで天文学的確率を要求され続ける」。
実際、今までずっと歴史がどん詰まりに陥っていた五年後のバビロンではカイを含めた全ての生命体が殆ど死滅していた。そのループをようやく脱し始めている現状でも、五年後にカイは存在していなかった。このあたりに関してはもう少し調査を積み重ねた方が良さそうだが……。
そこまでを説明し終え、どっと疲れがこみ上げてきたのか彼女は頭から後ろのめりになって何も見えない空を見上げた。
「要は尋常じゃなく不安定な地盤の上に成り立ってる、ってこと。あの子なんで死んでないわけ? 常人だったら何十億回と死んでるわよ、あんな人生送ってたら」
「ええと……そりゃカイちゃんがすっごい天才だからとかじゃなくて?」
「んなわけねーだろ。どこぞの誰かさんが常に死の可能性を棄却してるんだよ。だからソイツがおっ死んじまうとカイ=キスクという生命が存続出来なくなる。五年後にいないってことは、現状の未来では五年後にはそいつごとお陀仏になってるって寸法」
イノが苛立ちを隠しもせずに机の脚を蹴り上げた。テーブルの上のティーカップから中身がこぼれそうになり、アクセルがあわててそれを取り上げる。
彼女の苛立ちの原因はすぐにわかった。彼女自身が聞かれるまでもなくそれを口に出してくれたからだ。
「そいつは困るんだよな。カイ=キスクが死ぬと世界は詰みだ。コイツは二一七三年のローマ会戦で既に実証されてる。たかがガキ一人死んだぐらいで本当かよってアタシも最初は思ったが、事実は事実だ。背徳の炎に対する抑止力が一つでも欠ければ、またあの灰色の世界に逆戻りしかねない。そうするとこのアタシが何回も何回も何回も何回も! ラムレザルをブチ殺してループの検証してたことまでパーよ、パー」
「なんか初耳の情報ばっかなんだけど、つまりカイちゃんが死ぬのはマズイってこと?」
「第一の男が必死こいて生かし続けてる時点でほぼ証明終了でしょうが。問題はどっちかというと第一の男の方。二百年以上も既に生きてる、殺しても死ななそうな変態がなんで五年後に息を引き取ってるわけ? あんなやつ殺せるとしたら、ソル=バッドガイぐらいよ。でもそんなこと、あの筋肉ダルマが知る由なんて……いや、待て……ユノの天秤は今向こうに渡ってる。それに野郎、こういう余計な時の勘はすこぶる調子いい……」
独り言は次第にトーンを落とし、深刻さを増していく。そしてソルの時たま見せる勘の良さと科学者の鋭さに思い至り、とうとう彼女はがりりと爪を噛んだ。思っていた以上に、これは相当、ヤバイ。切羽詰まりすぎている。
「やっべえ。そりゃ確かに、ほっといたら第一の男は死ぬだろうよ。その前になんとかして手を打たないと、続くはずだった未来まで終わりかねない」
「……俺に手伝えることってある? よくわかんないけど……旦那やカイちゃんの未来もヤバイ、って話だろ?」
「大ありよ。ていうかアナタ、ここまで危機的なネタ持ち込んどいてその張本人が何もせずに帰れるワケないでしょ。アンタだって因果律干渉体なんだから、やれることはやりなさい。アタシとアンタだけなのよ、”後出しジャンケンで歴史を書き換えられる”のは」
イノがずいと身体を乗り出してくる。未来は、現在の行いを改めることで誰にでも変えていくことが出来る。しかし一度確定してしまった過去をひっくり返すことは誰にも出来ない。あの男や第一の男でさえ、過ぎ去った時には干渉出来ないのだ。それは既に確定した「現実」。バックヤードの力をもってしても、変えていけるのは「可能性が偏在する仮定」の段階までだ。
ところが因果律干渉体だけはその枠組みに囚われない。イノとアクセルだけは、未来のシミュレートを覗き見てそこに滞在することも、逆に過去を改竄して歴史を変え、間接的に未来まで大きく左右することを可能としている。実際アクセルは、自分が生きている世界から見れば随分遠い未来に滞在し続けているのだ。最早帰る世界を失っている彼の本来いるべき時代を、この世界の一九九八年に定義していいのかという話題には疑問が残るにせよ。
「二一八七年十一月二十五日に大規模な時空の乱れが発生するみたいだから、そこからが勝負ってところかしらね。……ハア、あんまり気が進まないけど背徳の炎はアタシが引き受けてあげる。だからアンタは坊やをなんとかしてやりなさい」
「なんとかって、どうやって」
「片っ端から『カイ=キスクは存在した』っていう事象を確認して受理していけばいいのよ。彼は元気です、死んでません、頑張ってます、ってね。不都合なことがあったら全部キャンセルしておきなさい。そうすりゃ歴史が固定化出来る。因果律干渉体が認識した通りに、五分前から発生した癖にあたかもずーっと同じ顔してましたってツラしてね」
「それって確か……『世界五分前仮説』、ってやつ……」
アクセルが呆然として呟くと、イノがにんまりと口角を釣り上げる。
「あら。意外と博識なのね」
「似たようなことこの前も言われたけどね、伊達に何年も旦那と酒飲んでません。あの人酔うとす〜っごい饒舌になるかんね、結構色々話してくれるんだ、専門分野とか哲学の話ばっかりだったけど」
まあ役に立ったのは初めてだけど……と頭をボリボリ掻いてアクセルが言った。こんなふうに知人の話を出来るのも、彼らがつつがなく今を生きているからだ。それを彼は自覚して口に出している。
思ったより見込みがありそうだ。イノはおもむろに椅子から立ち上がり、とんがり帽子のつばに手を掛けた。それからギターを引っ掴み、ニヒルに笑う。やはりこうでなくちゃ、面白くない。
「忙しくなるわよ。ダチを助けたいってんなら、それ相応の根性見せな。アンタ立派な男の子なんでしょう?」
まだしばらくあの男のそばにいるのを止められなさそうだ。そう独りごち、彼女はバックヤードの外へと消えていった。
◇◆◇◆◇
「アクセル。なんというか……もう、滅茶苦茶だな。こうなると。ベッドマンの出現だけでも驚きでしたが、貴方までここに」
カイが剣に手をかけたまま茫然自失といったふうに呟く。それにアクセルはへらりと手を振って応え、歩み寄ってはカイの肩に手を置いた。
「いやあ、大変だった! 全部終わったらあとでねぎらってちょうだいって旦那に言いに行くつもり。カイちゃんもどう? 旦那の奢りでパーッと酒盛り」
「それは随分魅力的な提案ですが、それ以前に私達はここを無事に脱しなければ。勝算はあるのですか、アクセル。私が言うまでもないでしょうが……恐ろしい人ですよ、先生は」
「うん? 大丈夫、大あり。だから安心して三十万ワールドドルぶん、何のお酒飲むかでも考えといてよ」
アクセルが耳打ちした内容にカイの身体が固まる。三十万ワールドドルの酒といえば、カイが昔酔っぱらったソルに開けられた酒瓶の合計金額だ。カイもソルも、そんな話を彼に打ち明けたことはない。では何故知っているのか? それはアクセルが、時に干渉する特殊な存在だから。そして彼は直前にこう言っている。「カイの過去を全て固定した」と。
それは、つまり……。
「……え? う、うそ。な……なんで貴方がそのことを知って……」
「そいつは内緒だ。企業秘密ってやつなんでね」
動揺しきったカイをなだめるようにしてアクセルが更に前へ進み出た。ベッドマンに後ろに下がってカイを守るよう合図し、第一の男の目の前で気負わないふうに手を上げる。内心はがちがちに緊張で凝り固まっていたが、ここでびびっていたら男じゃない。そう言い聞かせて、アクセルは口八丁のために口を開く。
「聞いてただろ? もうアンタがバックヤードから四六時中手を出してなくってもカイは死なないよ。俺が見た通りに歴史は書き換わった。相変わらず十歳までの経歴はどんな書類にも書いてないけど、必死に戦って生き延びて、いつか恋を知って大人になり、たくさんの家族に囲まれる、ここまでは、他に何者が入り込む余地も残らないようにガッチリ固めてきた。それに、ここから先もカイは死なない。何故ならカイはひとりぼっちじゃないからだ」
「君だったのか、アクセル=ロウ。そもそものカイの成り立ちに介入して有り得るはずのなかった恋を与えたキューピッドは。君と出会ってしまったことで、そもそも、カイは私の思惑を外れてしまっていたんだな。二一八〇年……第二次聖騎士団選抜武道大会の段階で」
「ま、そういうことになるのかもね」
「それに加え、今度は過去を完全固定してくるとは。随分余計なことをしてくれたものだ。君がそんな徒労を働かずとも、私はあらゆるリスクからカイを守り続けたというのに」
「今時流行らないぜ、そういう過保護。カイはもう立派な大人だ。分かってるんだろ?」
「大人になれ、などと。私は一度たりともあの子にそう願ったことはない」
「……クレイジー。アンタ、キマってるよ、最高にな……」
アクセルがひどくげんなりした調子で言う。しかし彼はそれでも愛用の鎖鎌、すなわち武力に訴え出る素振りは見せず、あくまで口による交渉を続けて行く。
「とにかく、これでもうカイの書き換えは出来ないぜ。アンタが何を流し込んだところで、俺の観た歴史の方が勝つ。なあ、いい加減認めようぜ? カイの人生を追いかけてる途中で会ったベッドマンってやつも、アンタとその『娘』のやり方にはどうもうんざりしてた。他人は玩具じゃない。みんな自分の意思を持ってるし、そんなに救世主が欲しかったら手前が自分でなりゃよかったじゃないの」
「私は少年ではない。既に醜い大人に成り果てて久しい」
「そいつがよくわかんないな。俺が生きてた世界で信じられてた有名な宗教の信仰対象、みんな普通に大人だったぜ。子供じゃなきゃいけない本当の理由ってのは、世界が子供を求めてるからじゃないだろ。単にアンタが少年好きなだけなんじゃないか、本当は」
「……」
「な、そうなんだろ? だったらもう、カイのことを自由にしてやれよ」
アクセルの勧告に第一の男は答えを返さず、ただ口を噤むばかりだ。これでは埒があきそうにない。後ろにちらりと視線をやって確かめると、ベッドマンの方からも目線の動きで返事が戻ってくる。そろそろ頃合いか。ベッドマンからのサインを噛み砕いてアクセルは話の舵を面舵いっぱい回した。アクセル=ロウ、この短くも長い人生の中でそれなりの博打は打ってきたつもりだが、しかしここまでの大博打は初めてだ。
手はずを脳裏で確かめる。ベッドマンと合流した段階でイノと立てておいた作戦では、ぼちぼち、あちらの準備も整う頃……のはずだ。二人の行った「時間稼ぎ」の本命は実はそこにあった。アクセルがカイの過去を固定するまでの時間をベッドマンが稼ぐ。そしてその後はアクセルが役割を交代し、イノが首尾を整えるまで、時間を稼ぐ。
全ては第一の男に対する最も有効なカード、切り札となる男を万全のタイミングで叩き付けるためだ。
「そんじゃこっちも、最終手段に出るしかなさそうだな。とっておきのゲストを呼んである。じゃ、あとは任せちゃっていいかな?」
泣き言を言っている余裕はない。ここぞとばかりにアクセルは舌を回した。イノに話を持ち込んだ時点で覚悟は決めてきたつもりだ。だから——万事解決したら、今度こそみんなで美味い酒を飲もう。
「あの男……いや。飛鳥=R=クロイツさん」
その名前を口にした瞬間、それまでアクセルの言葉にどうという素振りも見せていなかった第一の男に緊張が走った。
◇◆◇◆◇
「カイ=キスク」
そろそろ、時間だ。ベッドマンはアクセルに託された役目を果たすため、アクセルと第一の男の遣り取りを離れたところで見守るしか出来ずにいる彼に声を掛けた。
「……なんでしょう」
すると返ってくるのは困惑を隠し切れない様子の声音だ。ついさっきまで先生と真っ向勝負でもするつもりだった分、カイは手持ちぶさたになり、どうしていいのかわからずにいるようだった。彼はとても聡明な人間だし、子供の頃と違って無鉄砲さがなりを潜め、大局のために動く視野の広さを獲得している。しかしその彼も、今向こうへ割って入るのが得策でないことは分かるが、かといって自分が何をするべきなのかははかりかねている状態だ。
もしここまで状況を読んでいたのだとすれば、なるほどあの魔女の采配は大したものである。そう思ったが口に出すことはせず、ベッドマンはカイに耳打ちをする。
「僕の役割を先に説明しておこう。僕の役目とは即ち君を安全にバックヤードから離脱させることだ。現在、君は第三者の手により魂だけを強引にバックヤードへ引きずり込まれた、とても危うい状態にある。ユノの天秤との接触でオーバーヒートした隙に魂を肉体から拉致したらしいのだが、とにかくこれが危険極まりない。というのも、魂がバックヤードにあるにも関わらず君の肉体はイリュリア王城で眠り続けたままだからだ。
夢を見るメカニズムを応用して意識をバックヤードへ表出させている状態と違い、今の有様は魂と肉体が剥離しかけ、ほぼ仮死状態のそれに近くなっている。肉体そのものは健全なレム睡眠の中にあるが……外部から無理な衝撃が入ってしまえば魂と肉体との接続が途切れ、もう二度と正常に起動出来ない可能性も有り得る。よしんば起動出来たとしても接続がちぐはぐになり、修正には多大な時間を必要とするだろう。そう、丁度君が接触したことで強制起動し、エラーを出してしまったジャスティス……アリアという女性のようにだ。ここまでは理解出来るかな」
一息にここまで喋り終えて確認を取ると、カイは小さく頷く仕草を見せ、淀みなく理解を示した。
「理論は問題有りません。それで、私に何を?」
「理解が早い人間はいい。助かるよ、余計な手間が省けるからね。それでだが、君の睡眠状態をレム睡眠からノンレム睡眠へ移行させる。早い話がバックヤードへ側からのシステム誘導でアクセスを安全に遮断し、インターバルを儲けながら再起動を掛けるんだ。いいかい、君の身体は既に現実世界の単位で五時間以上もの間レム睡眠だけを続けていることになる。これは異常事態だ。こんなことをあともう何時間も続けていれば、それこそ本当にバックヤードの上書きでもしなければ現実へ戻れなくなってしまう。
そこでノンレム睡眠を挟み、ゆるやかな意識の覚醒を促すことで出来るだけ安全に君を現実へ回帰させようと思う。しかし問題は君に通しで何時間ものレム睡眠を要求している男の存在だ。彼が君の魂にレム睡眠の実行をさせ続けている限り、システム側からのリブートは難しい。ある程度の隙が必要だし、よしんば隙が出来たとしても彼が完全に気絶でもしない限りはその作業が正常に完了する保証はない。ここまでも」
「ええ、続けて」
カイに促されたベッドマンはそこでちらりとアクセルを見、その先に立つ第一の男を観察して生唾を呑み込んだ。なにがしかの覚悟をそこで決めているのだ。
「そのためにアクセル=ロウ自身があそこで交渉を続けている。だが目測通り、これでは読みが甘かったらしいな。彼は今のところまったく君のことを諦めてくれる様子がない。なんという執着心だ。僕は第一の男をこれっぽっちも尊敬するつもりはなかったが、ことその精神力においてだけは拍手を贈ろう。流石に君を生かすために何十億回と事象干渉を続けているだけあるな、化け物じみているとさえ思うよ。しかし嘆いていても仕方がないのでプランBに移行する。第一の男が少しでも気を逸らした瞬間に君を送り返す手はずを整えられるよう、僕という存在を現世へ固定しているエネルギー全てを用いる」
「——いけない、そんな選択は!」
ベッドマンの覚悟と決意の表れた台詞に、カイは反射的に義憤を露わにして首を振った。すごく嫌な単語が彼の耳に入ったからだ。この身と引き替えに、なんていう言葉には、カイにはもうこれっぽっちも良い思い出がない。
「私のために誰かが命を落とすのはもうまっぴらです。聖戦の時、それで幾度眠れない夜を過ごしたことか。ベッドマン、私はあなたの存在を食いつぶしてまで……」
だがカイの咎めるような声をベッドマンは腕をぴっと差し出して制する。彼は自らが取る選択の意味を正確に理解していた。戦場で末端の兵士達がカイ様のためにと命を投げ出した時と違い、ベッドマンがカイ=キスクのために存在を放棄するという行動が後々どう世界に響くのかをわかった上で、彼にはそうするしかなかったのだ。
「いや、それだけの意義があることだ、カイ=キスク。君が死ぬと人類史が途絶える。詳細は省くが、どころか場合によっては、抑止力を失った背徳の炎は最悪宇宙を吹き飛ばしかねないんだ。それだけの『意義』を持っていると、既に例の魔器が調査済みだよ。それに気を揉むことはない。実を言うと僕はもうとっくに死んでいる」
「……どういうことです」
「アリエルスに用済みとされてね。僕は彼女に一矢報いんとしたが、現実世界で起きたまま力を行使しようとして肉体が消滅してしまった。そのあと必然的に魂までも消えかかっていたところを偶然アクセル=ロウに拾われ、彼に固定されて今はちょっとばかり完全消滅までの時間を長引かせているに過ぎない状態だ。放っておいてもそのうち消える。ならば君を助けた方が、幾らもいいさ。
……ああ、そうだ、君には感謝しなければいけないことがまだあった。ラムレザル・ヴァレンタイン、彼女を人形から少女に変えてくれたのは君の息子だ。君はいい親だよ。そう、間違いなく僕らの父親なんかよりよっぽどね」
だからだろうか。尋ねるカイの声が震えているのに対し、ベッドマンの声には、一切の怯えや恐怖がなく、達観が見え隠れしていた。
とても少年がする声ではない、と言いかけて、しかしカイはその先を口にすることが出来ず言葉を失う。「とても子供のする顔じゃない」。「子供がしていいことじゃない」。「坊やが言っていい言葉じゃない」。どれも全て、過去の自分に正確に戻ってくる矢だ。カイ=キスクが少年らしさを保持したまま大人の痛みを自ら背負ったように、ベッドマンという少年もまた、少年の姿をしてこのような決断を下す道を自ずと選び取ったのだ。であるならば、それをカイに咎めることは出来ない。そうすれば、カイ自身が歩んできた道を否定することになってしまう。
カイが息を呑んだ理由がわかるのだろう。ベッドマンは微笑み、カイに向かって右手を差し出した。
「一つだけ約束してくれるかな」
問いかけた声は静かで、力強い。カイは頷いて彼の手を握り止めた。若く幼い少年の指先に、かつての自分の姿が映って見えるような気がしていた。
「私に出来ることでしたら、なんでも」
「平和な世界を創ってくれ。僕の妹が、穏やかな季節に囲まれ人々と笑い合い、なんでもない日々を過ごせるような、そんな世界を」
「わかりました。必ず」
カイの確かな約束に、ベッドマンが心の底からの笑みを見せる。そして彼は自らを起点とした小規模な万能領域を造り出し、さようならの代わりにカイの額に触れた。