16 ハッピィバースディ・トゥ・ユー


「せんせい」

 まさしくそれは鈴が鳴るような声だった。

「先生、先生は、すごいですね!」
 無邪気そのものの顔をして少年がはしゃぐ。世界中の何よりうつくしい声で、うつくしい姿をして、少年は男を呼ぶ。宝石箱の中で真綿にくるまれて眠る真珠のような少年。その愛らしさと純真さに男は目を惹かれ、奪われていた。
「先生はたくさん本を持ってるんですね。すごいな……僕も、頑張ったら、先生みたいに難しい本が読めるようになりますか?」
「君は……」
「あ、いけない。ご挨拶がまだ、でした。先生、僕の名前は」
 少年が照れ隠しのように頭を叩いて本の山の中から起き上がり、まっすぐに顔を上げて男を見上げてくる。大きく見開かれた目の色は透き通ったエメラルドの海色だ。それがリスのようにくりくりと愛らしさを讃え、男を捉えて離そうとしない。
「僕は飛鳥。飛鳥=R=クロイツです。よろしくお願いします、先生!」
 少年が元気よく言った。男を縛り付けた呪いの言葉にしては、その台詞は底抜けに明るくて愛らしく、美しくてきらきらしていた。


◇◆◇◆◇


 先ほどまでベッドマンがいたはずの場所に、彼は立っていた。飛鳥=R=クロイツ、説明不要の大罪人。ギアメーカー。第一の男の弟子たる五人の使徒のうちの一人であり、その序列一位に席を置いていた彼の愛弟子。
 飛鳥の腕の中にはぴたりとまぶたを閉じたカイの姿がある。レム睡眠から強制的にノンレム睡眠へ移行させられた影響なのかはわからないが、彼の姿はポニーテールを長く結わえた青年のものから、ショートヘアにくるまれた幼い少年のものへ立ち戻ってしまっているようだった。
「お久しぶりです、先生。もう、二百年ぶりになりますか。聖皇庁を立ち上げて間もなく、あなたは消えてしまわれた。誰にも告げず、啓示も放ったまま。おかげさまで、今生き残っているのは私とクロノスのみだ。リブラリアもアクソスも、バルディウスも、皆先に逝ってしまった」
 責めているわけではないのですよ、と飛鳥が首を振る。そうして彼はカイを抱いたまま第一の男への距離をおもむろに詰めた。すっと横を通り抜けられてアクセルは順繰りにフードを取り去った飛鳥の素顔と幼いかたちをしたカイの寝顔を見比べ、はあ、と息を詰める。なるほど確かに、ソルが疑うわけだ。これは血縁関係があると言われた方がしっくりくるぐらいによく似ている。
「……アクセル、僕達、そんなに似てるかい?」
 そんなアクセルの様子に気がついてか、何も言わない第一の男からアクセルの方へ振り向き、飛鳥が困り笑いでそう尋ねた。
 アクセルは様子を伺うように飛鳥と第一の男を見比べ、それから唇に手を当てて内緒話をするように彼に答える。
「正直なこと言えば、鏡見れば一発。今はそうだな、二人とも背丈が低いから兄弟に見える。アンタのその耳と右目の羽とかがなければ」
「む……そうか。正直、フレデリックに迫られたときは言いがかりなんじゃないかと思ったりもしたけれど、君までそう言うんだからもう確かなんだろうな。ジャック・オーがDNA鑑定の結果も持って来ちゃったし……いよいよ言い逃れは出来なさそうだな。僕はまったく、一度もそれを望んだことはなかったし、今の今までその事実を知らなかったけど……」
 飛鳥のたっぷりと含みを持たせた声は、普段のどこか抜けたところさえあるような彼にしては珍しく、やや怒っているようだった。無理もない。彼はフレデリックとアリアのカップルを生かすことには長い間ご執心だったが、それでもアリアがジャスティスとなった後にフレデリックの子を卵の形で産み落としたことを、実際にディズィーと接触するまで知らなかったのだ。となると自分の遺伝子を後世に残したいなどと考えたこともなかっただろうし、だからこそ勝手に残されていたとは思いもしなかったはず。
 そのせいか、優しい手つきで少年のカイを抱き抱える姿に、あまり父性というものは感じられない。彼のそれは兄の手つきだった。何もおかしなところはない。ある意味で、飛鳥もまた第一の男に育てられた子供と言って差し支えなかった。
「イノから、どうも先生は僕に会いたくないようだったと聞きました。何かやましい思いがあるからだと。ではやはり、この子を創ったのは先生。そしてルーツも僕、ということで間違いないと」
「……そうだ」
 飛鳥がしつこく弾劾し続け、ようやくのことで第一の男が口を開く。声音には震えが見えていた。それが歓喜によるものなのか怯えからくるものなのかはわからなかったが、少なくとも、彼が飛鳥という存在が目の前に現れただけで、殆ど再起不能に至る寸前なのではないかというぐらい動揺しきっているのは確かだった。
「では何故です?」
 それを認めても飛鳥は追求の手を止めない。自らの師匠が前後不覚に陥り掛けていようとも、彼はそれを尋ねなければいけなかった。それが一人でここへ来る際、フレデリックを言い含めるために出した条件だったからだ。実を言うと、イノが第一の男の元へ飛鳥を送り込む際、フレデリックは最後の最後までそれに同伴しようとした。一発殴ってやらねば気が済まないのだという彼の思いは大変よく理解出来たが、しかし彼に殴らせると本当にそれで物理的に事態が収束しかねないので、なんとしても引き下がらせねばならず、これが結構大変だった。
「先生が特別便宜を図ってくださっていたのは、僕も一応自覚がありました。自分で言うのも何ですが、僕は才能の方向性というか、指向性がクロノス達より先生寄りだったから。けれど……その十字架だって、誰かの生き死にを縛り付ける依り代にするために先生に差し上げたわけではなかった」
「うつくしいものを創ろうとした」
「……僕をモデルに?」
「私は……少年だった君に心打たれていた。だからそれをモデルにするのは、当然の帰結だ」
 懐疑的な飛鳥の声に対し、それまで震えを見せていたはずの第一の男がそればかりは強い口調で断定した。
 うつくしいもの。非の打ち所のないもの。そういえば蒸発する以前から、彼にはそういったものを求める傾向があった。彼は熱狂的なコレクター気質で、何かに一つ関心を寄せると際限なくそれを蒐集するタイプだったし、一度取り組み始めたテーマに対しては極限を超えて真相に近づこうとした。それまで「アカシック・レコード」「森羅万象」「根源」などという存在しない架空の領域として取り扱われていたバックヤードに彼が到達出来たのも、その性質のなせるところが大きい。
 では今回は、それが裏目に出た結果なのか? しかし……飛鳥は首を捻る。初めて知る情報がいくつかあったからだ。
「僕は特段、自分が美しいとは思ったことはないし……フレデリックの方がうつくしい魂を持っていると思うのですが」
「や、あのさ、アンタ……それはアンタの価値観での話でしょ」
 心底疑問に思って口に出した内容にすぐさま鋭い切り返しを入れたのはあの男ではなく黙ってことの成り行きを見守ろうとしていたアクセルだった。飛鳥の天然さに思わず口をついて出てしまったらしい。言った後しまったという顔をしていたが、もう引っ込みも付かず、仕方なしに彼が続きを口にする。
「だから……えーっと、実際旦那に同じこと聞いたらカイちゃんのこと綺麗だって言うよ、絶対。それと一緒でこの人にとっては飛鳥っていう男の子が世界で一番綺麗だったんだろ? 多分さ……」
「まあ、そういう相対価値観による捉え方は確かにこの人らしくはあるかな。けれどその後も分からないんだ。イノから聞いた話で、ベッドマンとディライラという新規概念の発想に躓いてしまい、次のケースは出来る限り既存の人間ベースで考えた、というところまでは僕も理解している。人心を掌握して歴史を正しい方向へ進ませるためにカリスマ性その他を持たせるというのも、なるほど理に適っている。けれど”少年に固執する必要性”は? 別段、貴方はペドフィリアではなかったはずだ。貴方が少年趣味に後々目覚めたというのならばまた話は別だが、その割に、ベッドマンとディライラの時点では形質的にそこで成長が止まるような因子を組み込んでいない。何故、カイにだけそのような理不尽な枷を期したのです」
「……それは」
 彼は一度そこで言葉を切った。その先を告げるのに、大きな痛みと覚悟とが必要なのだった。それこそまさに第一の男が飛鳥に感じていた「やましさ」の中核であり正体で、これを正面切って本人に懺悔しなければいけないのは拷問に近しい。
 だが飛鳥にそれを問われれば、第一の男には告解を続ける他選択肢がない。飛鳥=R=クロイツは、世界で初めてバックヤードを到達し人類で最も世界の真理に近しい場所に立つ男にとっての唯一の弱みなのだ。
「君が——十五の春、恋をして少年を止めてしまったからだ、飛鳥」
 そうして第一の男は言った。
 絞り出すような告白だった。
「それから君のうつくしさというものは、加速度的に失われていった。旬を過ぎた果実が艶を失うように色を失った。だから私は、君をモデルにするならば、そこで成長を止めてやらなければ同じことになると考えた。さすれば永遠にあの日私が感じた神聖さを保てると。世の中の仕組みさえひっくり返してしまえるような、あの、少年の持つ不滅の聖性を、信じたのだ。私は」
 一度吐き出してしまえば、そこからは堰を切ったダムのようにどぼどぼと勢いよく滑り落ちた。「だから救世主とはその失われた聖性を保つ存在でなければならない」、彼は言う。唇を噛むようにして吐露した言葉の主は、フードの下の瞳でふたりの少年を中央に見据え、やがて音もなくそこから水を零す。
「……そういう、ことか」
 嗚咽を零し始めた彼の姿に、飛鳥がはっとして乾いた笑いを漏らした。
 十五歳の春。ドイツからアメリカにあるハイスクールへ飛鳥が両親の転勤に伴い編入をした時のことだ。私的な交流を結んでいた「先生」と「飛鳥」の遣り取りが途切れることこそなかったとはいえ、確かにその季節は、飛鳥の人生と価値観とを大きく変えてしまった。転入した先のハイスクールには後々長い人生を共に歩むことになる一人の才媛が在籍していたのだ。そうして飛鳥はフレデリックに出会った。
 興味関心が近かった二人は瞬く間に親交を深めた。それまで飛鳥の世界といえば、家族と「先生」、それから数人の縁故ある知人ぐらいでなんとなく組み上げられていたのだが、その頃を境目に彼の世界はフレデリックに塗り替えられてしまった。「先生」の入る余地など残らないぐらい、徹底して、飛鳥という少年は彼に夢中になった。
 もしもそれに恋という名前を付けるのであれば、あれほど情熱的に飛鳥をつくりかえていった恋は、後にも先にも二度とないだろう。
 それと同時に、飛鳥が少年を止めてしまったというのも、「先生」の側面から見た場合は紛れもない事実だったのだ。飛鳥の視野は爆発的に広がり、世界は拡張され、先生が長い年月を掛けて囲い込んだ箱庭を飛び出してしまったのだから……。
「先生、しかし、子供はいつか必ず大人になるものだ。僕がそうであり、フレデリックやアリアがそうであったように、貴方もそうであったはずなのに。永遠に子供のまま生きていける存在などあり得ない。それは先生の妄想でしかない」
「通常は。通常の発生をすれば、そうだろう。だから一から創った。私の知りうる限り最も美しい遺伝子を、最も美しい遺伝子と重ね合わせて」
「それで近親交配だったのか。他の人間の遺伝子を混ぜるという選択肢も取れず、かといって単一複製では結局オリジナルと同じ結果を辿るのではないかという懸念に耐えきれず、そうせざるを得なかった……フレデリックが聞いたら怒るな。言わないでおこう」
「うまくいくはずだ。実際うまくいっていた。因果律干渉体が彼の人生に姿を現さなければ私の思い描いた通りの少年が永劫に生きていけるはずだった」
「ばかばかしい。いつか大人になるからこそ、少年は美しいんです、先生」
 それだけ言い棄てると、飛鳥はカイを片手で抱えて右手を掲げ、そのまま第一の男の頬を張り倒した。


◇◆◇◆◇


 いつか——誰かがひとりの少年に呪われ、誰かはひとりの子供を呪った。かくあれかし、この世で最も美しい君。そのようにありなさい、未来永劫、人が生き続ける限りに。
 子供は十字架と祝福を受けて生まれる。ハッピーバースデーのお祝いを歌って贈られた十字架は彼の印となり、あらゆる厄災から子供を守り続けた。子供は知らず十字架によって生かされた。十字架という「概念」を身につけている限り、彼は死から悉く誰かの手により救われ続けた。
 けれどその十字架は、もう彼の首に掛かってはいない。彼は十字架を自ら棄てた。かつて誰かを捉えた少年が神様なんかいないと信じて十字架を放棄したように、然るべき時を迎えて、彼は誰かによって生かされる自分を脱却する。
「ずっと少年のままでいられる存在がいるとしたら、それは最早人ではないだろうね。子供が親を乗り越えて未来を目指すように、少年少女はいつかそうであることを止めなければならない。人は人である限り少年のままではいられない。そんなことをしているから、彼は死につきまとわれていたんだろう。少年から先へ進めないなんて、それは不自然な生命に他ならない。フレデリックが目をかけるわけだよ」
 すやすやと眠りこける「昔少年だった彼」を腕の中に抱いて、たった今師をはっ倒した男は平然とそう言ってのけた。有無を言わせぬ強さで、聞き分けの悪い老人へ言い聞かせるようにはっきりと、何度も。第一の男が今度こそ言葉を失ってぱくぱくと口を開いたり閉じたりしているが、それにさえ構わない。この人はもしかしたら今まで誰にもぶたれたことがないのかもしれない……なんて、少し思うだけだ。
「貴方は目先の少年性に囚われすぎていたんだ。そんなものとは関係なく、彼はうつくしい存在ですよ。なにしろあの頑ななフレデリックをあそこまで絆したんだ。それにはもう疑う余地がない。誰かの心を大きく揺らがす、という点では確かに彼は貴方の望む通りに育った。それでもう良いのでは? 現在進行形で彼は世界中から必要とされているし、愛されるべき存在だ。イリュリアの第一連王といえば権力をかさに着ず誰にでも公明正大、思慮深さと勇猛果敢さを兼ね備えた賢王——と長いこと引きこもって活動していた僕の耳にさえ入ってくるほどの人気ぶりだし、聖皇が不在の今、その存在はますますもって人々の中で重大性を増していくだろう。まだ気付きませんか、先生。貴方の言葉を借りるのであれば、彼はずっと『神聖』なままです。酸いも甘いも知り尽くして並々ならぬ苦労の末に大人になった今でも」
 フレデリックは飛鳥が発つ際に言っていた。昔のいつでも祈っていた坊やは、小さな世界しか知らなかった。ギアは絶対悪だと信仰し、大多数の正義を敢行することで何もかもを守れるのだと盲信していた。けれど今の彼は一面的な正義からは既に脱却している。彼はもっと大きな目的のために、生きている。一人の人間として。
「フレデリックが言っていたよ、彼は大人になったが、しかしそれでも彼の中にある神聖というものは、まるで変わることはなかったのだとね。何しろ彼の十五年間を見守って来た男の言うことだ、僕にはこれ以上信に足る言葉はないと思う。つまり、彼が彼であり続けることに、少年であること、大人にならないこと、そういった条件はまるで無意味だったんだ。少年期に彼から感じた美しさというものはそんな理由で損なわれるわけではない、とフレデリックは身をもって体感している。それも何度も」
「あー、ああ、うん、だろうなあ。十五歳のカイちゃんも二十三歳のカイちゃんも、二十九歳のカイちゃんも、全部見てるかんね、旦那は」
「なんだかえらく実感がこもってるけど、まあ要するにそういうことなんだろう。先生、彼はもう一人で歩いて行けます。首輪も必要ない。親離れを、彼はしていたんですよ、とっくに」
 アクセルの重みのある言葉にやや苦笑し、飛鳥は第一の男に提言する。彼はしばし黙って飛鳥の言葉に耳を傾けていたが、飛鳥が口を噤んでしばらくしてから、ゆっくりと首を振って息を吐いた。
「観念しろと?」
「子供が親離れをしたのだから、親も子離れをする必要がある。そういうことです」
「そのために私を張り倒すか。今まで一度も、啓示を逃した時でさえ……私にそうしなかった君が」
「親に期待される通りの良い子でいるのは、やめにしたんです。だって僕も彼も大人なんですから。昔、僕に悪いことも覚えろ……と教えてくれたのも彼だったな、そういえば」
 飛鳥が懐かしそうに目を細める。生真面目で勤勉実直、そればかりだった飛鳥少年に煙草と夜遊びを教え、潔癖と純真を体現したカイ少年に大人の悪戯を与えたのは、そういう意味では、同じ男だったわけだ。結局飛鳥に煙草と夜遊びは根付かなかったし、カイも自分を爛れた世界に引きずり込もうとした男以外とは火遊びをしなかったようだが、それにしても名に違わぬ悪い男である。本人にその自覚があるのかないのか今ひとつわからないところまで含めて。
 けれど相手の自主性を重んじて、選択肢を差し出すまでに留めてその先を強要してこないあたり、目の前の男よりは数段マシだ。
「……手塩に掛けた子供を二度もどこぞの馬の骨とも知れぬ男に連れさらわれた気分だ」
 ややあってから、第一の男が無味乾燥な声でそう漏らす。飛鳥がそれに薄く笑みを浮かべる後ろで、アクセルがひきつった苦笑いを噛み殺していた。
「先生の口から、そんな『人の親』みたいな言葉が聞ける日が来るとは思わなかった」
「私自身もこんな人でなしにそんな感情がまだ残っていたことに驚いている。しかし……そうか。最早私が望まなくとも、それが必要な歴史ならこの子は救世主になるだろうし、或いは世界を滅ぼす脅威となるのだろう。ああ、そうだ、今度こそ認めよう。そうせざるを得ない。因果律干渉体の横やりで、カイは今や完全に私の制御を離れてしまった。慈悲なき啓示のように完全に失敗したわけではなくとも、この子がこの先確実に人類の永遠に続く幸福と繁栄をもたらすのかどうか、その保証はなくなる」
「それがあるべき姿だ。僕も、彼も、かくあれかしと期待されたからギアメーカーや人類史の英雄になったわけではない」
「では私は間違っていたと?」
「それをこれから探っていくのでしょう、先生」
 貴方はそういう人だ。飛鳥がすましてそう言えば、第一の男はやっとのことで肩の荷を降ろすように長い長い溜め息を吐き出した。
 張り詰めていた緊張感が消え、ニルヴァーナに安寧が戻る。育ての親と遺伝上の親に囲まれたカイは、第一の男にバックヤードへ引きずり込まれていた魂を無事現世へと還元させている真っ最中で、ゆっくりとその姿を幼子に退行させ続けていた。これが昔試験管に収まっていた身の丈数ミリの胎芽にまで戻り、やがて消える頃になれば、彼は無事現実の身体で目を醒ますことだろう。ベッドマンの助けがなければ、こううまくはいかなかった。本人の意思を伴って肉体ごと訪れる場合とは違い、魂だけ第三者の手でバックヤードへ持ち込まれてしまうと、後始末が大変なのだ。飛鳥にも覚えがある。
 暴走した本体からサルベージしたアリアの魂の半分も、ジャック・オーという器を完成させてからその中に定着させるのに相当な時間を要した。カイの魂がすんなりと戻っているのには、元々強い結びつきを持つ肉体を目指しているという前提の他に、ベッドマンが自身の存在を固定させていた事象の力全てを注ぎ、肉体へ定着する補佐を担ってくれたからという部分が大きい。彼も——何らかの形で救えればいいのだが。すぐには手を回せないだろう。やるべきことがあまりにも多い。
「行くのか」
 飛鳥が帰路について思案しはじめていることに気がついたのか、第一の男が尋ねた。引き留めるような無粋な真似を働く気配はない。
「フレデリックが首を長くして待っている。帰らないと。その後は、僕は僕で成すべき事をするつもりです。先生は」
「私はバックヤードの外に既に帰る場所を持たない。カイが私の手を離れて自由になったとて、私が追求する命題は揺らがない」
「では、いつかどこかでまた会うこともあるでしょう」
 飛鳥の言葉に第一の男が頷いた。そして彼は静かに飛鳥に歩み寄り、その腕に抱かれている幼子を確かめ、娘の門出に立ち会う父親が花婿に問うような声音で、飛鳥に訊く。
「最後に……カイの顔を、もう一度見せてくれないか」
 その申し出を拒むほど飛鳥も師に厳しくはない。彼は黙って了承し、今や乳幼児ほどの大きさに立ち戻ってしまっているカイを第一の男へ差し出した。愛らしい赤子を両腕におっかなびっくり抱き、落としてしまわないように抱え上げ、すやすやと寝入るその姿に思い出を重ねる。
「こんなことを言う資格は、私にはないのかもしれないが……」
 そして彼は長いまつげを伏せったカイの寝顔に手を伸ばした。指先は赤子のぷくりとした頬を辿り、鼻筋を掠め、額に伸ばされる。かつてゴルゴダの丘で十字架に架けられた救世主の、いばらの冠が被せられていたあと。眠る前、カイは第一の男に問うた。『今一度私にいばらの冠を掛けるおつもりで、先生』。十字架というくびきを、鋼鉄の枷を、再び私に課すつもりなのですか、貴方は傲慢にも。
 とんでもないことだ。それを直接訂正することは出来なかったが、彼に託した十字架は本当に祝福の証だったのだ。目に見える唯一のルーツであり、彼を死から救うしるべであり、そして、親を名乗る資格もない男の与えられる唯一の愛情の証だった。カイは十字架に守られて大きくなった。これだけは本当のことだ。
 けれど今度は、彼の首に十字架を掛けてやることは出来ない。だからその代わりに、聖痕が浮かび上がったという場所へ男は祈りを託すのだ。
「君を愛しているよ、カイ」
 第一の男が言った。