03 波打ち際のセイレーン

 家に帰るとリビングでエンジェルが溶けている。
 エンジェルがやってきてからはや二ヶ月が経ち、オースティンは夏のピークを迎えようとしていた。長いうえに湿気の多いオースティンの夏は、エンジェルにはあまりなじみがないものらしい。電算技術衰退の余波でエアコンが世間から姿を消して久しい現代、ジールで動く安物のひんやり装置だけでそんな環境がどうにか出来るわけもなく、結果的にエンジェルはソファで溶けてしまう。しかしそんな日々ともしばしおさらばだ。
 過酷な期末考査と研究室の業務にやっと目処が立ち、飛鳥とフレデリックにもとうとう夏期長期休暇が訪れた。こんな酷暑の日々で冷房もろくに効かない家に引きこもっていてもくさすばかりなので、この夏は湾岸地域まで旅行に出掛ける。この提案に、日がな家の掃除と自学に時間を費やしていたエンジェルは一も二もなく頷いた。数ヶ月一緒に暮らしてどうやらワーカホリックの気があるらしいと判明したエンジェルだが、その彼をしても、オースティンの猛暑から逃げる魅力的なアイディアには敵わなかったらしい。
「おかえり……二人とも……」
 ソファで溶けたまま、エンジェルがふらふらと手を持ち上げて振る。スーパーの買い物袋を持ったままソファに急ぐと、エンジェルはシャツにじっとりと汗をにじませ、妙に色気のある表情でフレデリックを茫洋と見上げた。
「氷の生成はもうやめたのか」
「出来なくはないが……余計に疲れる。ろくなシーケンサがないから、送風の術式を記録させて自動再生するのも難しいし……」
「けど、アンジュの言う『ろくなシーケンサ』って、ものすごい高額商品というか、専門研究機関しか持ってないうえに持ち出し禁止レベルのものだからね」
 遅れて入って来た飛鳥が「それは無理なんだよ」と肩をすくめれば、「しってます」と生気のない返事。
 フレデリックはそんなエンジェルをひどく憐れみ、買い物袋から買いたてのカップアイスを取り出すと彼の前に供えた。それを認めた瞬間、エンジェルがまるで別人のようにがばりと起き上がる。
 エンジェルは目にも留まらぬ早業でカップアイスを手に取り、目を輝かせ、子供のような眼差しを同居人達へ向けた。
「これは……新商品ですか、フレデリック」
「おう。お前紅茶党だろ」
「それはもう。ああ、本当に生き返る……ありがとうございます」
「礼なら俺じゃなくて選んだやつに言ってくれ」
 フレデリックが親指を突き出し、肩の向こう、玄関口の方を指し示す。それを合図にして、彼の背中からにゅっと別の人物が顔を出した。鮮やかなベリーレッドのショートヘアに、快活な猫を思わせるトルマリンの瞳。フレデリックの背にすっぽりと収まっていた少女は、人好きのする笑みを浮かべるとエンジェルに手を伸ばす。
「ハイ、エンジェル。私、アリア=ヘイル。よろしくね!」
 エンジェルはぱちぱちと目をしばたかせ、アリアをじっと見た。でもすぐに自分が不躾なことをしていると気がついて「すみません」と顔を振り、アリアの手を握り返す。
「二人から、お名前はかねがね。お会い出来て光栄です、アリアさん」
「アリアでいいわよ。私、学年はフレデリックと同じだけど、二つ飛び級してるから。年はあなたと一緒。……それに私もあなたに会ってみたかったの。だって偏屈なフレデリックと変人の飛鳥とうまくやっていける人だもの、絶対面白い人に違いないって!」
 アリアは屈託のない笑みを見せ、握り締めたエンジェルの手をぶんぶんと上下させる。エンジェルもまた彼女の歓待に笑みで応える。
「じゃあ、アイスを食べたら出発しよう。四人乗れる車、手配してきたから」
 二人の遣り取りが一段落したことを確かめ、見守っていた飛鳥がひとさし指を立てて提案した。全員がそれに頷く。海辺への短い旅は、フレデリックが運転する車に乗って四人で行くということで決めていたのだ。


 ハイウェイをつっきること数時間、海を臨む街に降り立ち、フレデリックはエンジンを切ると車の鍵を閉めた。再起の日以降のいざこざでさまざまなものが使用を制限されて久しいが、車に依存して生きて来たアメリカ人たちは特に、これだけは未だに手放せずにいる。おこぼれを預かって単車も健在で、ハイスクールの頃はもっぱらそっちを乗り回していた。恐らく、突然のパンデミックとかで世界人口が大幅に減って製造とメンテナンスを維持するだけの人間が減るとか、そもそも人々が外を出歩けなくなるぐらいの変化がない限り、車社会は消滅しないだろう。人間はよほどのことがなければ便利なものを手放したがらない。幼い日のフレデリック少年だって電子ウォークマンを棄てる気なんかさらさらなかったのだ。
 目的地のコテージはプライベート・ビーチエリアに隣接しており、ついた時間が遅かったせいか、人影はまばらだった。コテージの中に入って簡単な部屋割りをし、各々で作業を分担する。アリアはコテージ内のキッチンで食材の準備、フレデリックがバーベキュー用品一式の組み立て。そして飛鳥とエンジェルが管理人のいる詰め所に足を伸ばして薪やら何やらを調達する係に決定した。飛鳥はこの四人の中でもとびきりの頭脳派(一番貧弱とも言う)なので、エンジェルの補佐が必要なのだった。
「火は、フレデリックが起こしますか?」
「俺が? まあ、いいが。古式ゆかしい固形燃料にマッチ擦るだけなんだから、誰がやっても同じだろ」
 諸々の準備が整い、バーベキュー用グリルに火が灯される。薪が爆ぜ始めるのを待ち、網の上に豪快に肉が置かれた。フレデリックがあまりにも雑に肉ばかり敷き詰めるので、隣のアリアがぷんすかして彼からトングを奪い取る。アリアはソーセージを何本か皿に戻すと、籠いっぱいにカットされている野菜を代わりに並べ、エンジェルの方を振り向いた。
「無理無理、フレッドの火は勢いが強すぎるもの。あっという間に黒こげにされちゃうわ。それに消火用に出す水もほんとに適当だし」
「その口ぶり、既に前科があるんですね」
「そりゃあ、いっぱいね。私達、同じ研究室だから……フレッドの失敗話なら事欠かないわ。エンジェル、聞きたい?」
「そりゃあもう」
「おいやめろ」
「じゃあねえ、あれはそう、フレッドがまだ一回生だった冬のことなんだけど……」
「アリア、頼むから」
 カルビ肉をひっくり返したフレデリックが悲壮な顔で懇願する。そのあまりにも情けない表情に、エンジェルとアリアは二人で顔を見合わせ、くすりと笑ってしまった。
「フレッド、法術自体は得意なのにね。生命科学もやってるから治癒まで一通り使えるし。でも全然加減が出来ないのよね」
 アリアが楽しそうに言う。法力が発見されてわずか十一年、その間に法術学はめまぐるしい進歩を遂げ、法力エネルギーのおおまかな体系化に至った。法力には気を入れて五つの属性があり、それらの得意不得意は生まれつきの素養に左右される。だから万能型の飛鳥なんかはなんでも平均以上に使うが、アリアは水と治癒以外はそこそこだ。フレデリックも万能型寄りだが、コントロールが壊滅的で、強烈に燃やすのは得意だがストーブを維持させるのにはとんと向いていない。
 フレデリックはばつ悪く唇を尖らせ、繊細なコントロールを最大の武器にしている同居人の頬をいきなりつついた。
「仕方ないだろ。こいつみたいに曲芸出来る方が異常なんだよ」
「ちょっと曲芸って。……でもエンジェル、そんなに上手なの? ねえ、良かったらあとで見せて」
「ええ、もちろん。後でと言わず、今お見せしますよ」
 アリアにせがまれたエンジェルが美しく微笑み、ひとさし指で空中に簡単な陣を描く。それから早口に何かを詠唱し、ぴっと指を止めた。するとたちまち、エンジェルが描いた指の軌道に沿って光の線が浮かび上がる。
 アリアはぱちぱちと手を叩き、頬を高揚させてエンジェルの術式をじっと見た。
「すごい、花火みたい! 第五次元方程式を応用して滞空させているのね。雷属性をベースに……風の混合? 配分比率はちょっとわからないけど、これ、秒刻みで再演算が必要でしょう。むむ……あなた、私の五倍ぐらいのスピードで飛び級できるわよ。というより、むしろなんで今まで飛び級してなかったの?」
「ええまあ、ちょっと。やりたいことがすぐに見つからなかったんです」
「ふうん。こんなになんでも出来るのに……ううん、なんでも出来るからこそ、か」
「はは、そうかも。でも今は、やるべきことがはっきりしたので」
「そっか。それはすごく素敵ね」
 くるくる表情が変わるアリアに、柔和な笑みを絶やさないエンジェル。たまねぎの輪切りをトングでつまみながら、まるで少女同士の会話のようだ、とフレデリックはふと思う。ハイスクールで、窓際の席から遠目に見ていた女生徒達の会話。意味があるのかないのかわからないハイテンションで、話題は次々に遷移し、砂糖菓子で出来上がってるみたいないっぱいの笑みをぽろぽろ零す。
 大学で出会って以来、フレデリックと飛鳥、そしてアリアの三人はいつも一緒だった。逆に言えば、それ以外の知り合いはあまりいない。アリアは類い希なる才媛だったがそれ故世間ズレしているところもあり、多くの女友達に囲まれるための努力はしたがらなかった。フレデリックにしてもそうだ。自分よりレベルが低いと感じた人間はすぐに置いていったし、どちらかといえば無愛想だし、時間はなるべく自分のために使いたかった。飛鳥に関しては言わずもがなだ。彼が聖皇庁設立者の徒弟であることは何故か周囲に知れ渡っており、彼に接触を図ろうとするのは大抵の場合身なりは良いが怪しい大人達だった。
「エンジェルが来てよかったよな」
「え?」
 焼き上がった肉を配膳しながらぽつりと漏らせば、エンジェルがちょっと驚いたふうにフレデリックを見る。でも本当のことだ。エンジェルが来てよかった。そりゃ、引っ越してきた次の日に銀行強盗犯をノックアウトした時は、クロイツの人間は変人揃いだと確信を深めたものだが。
「エンジェルが来てから家はきれいだし、飯はうまいし、なにより、俺達と話が合う。こんなことを言ったらなんだが、お前がやりたいことに悩んでくれて良かった。だから俺達はこうして会えた、とも言えるだろ」
「ああ、あなたたち、みんなへんくつですものね」
「反論出来ないんだよなあ、それ」
「私もですよ。だからこそ、私もここへ来て良かったと思います。だってあなたたちと会えたんだから」
 ね、と微笑むエンジェルにアリアがうんうん頷いている。どうやらアリアは、夏期休暇直前で大学に詰めていた二ヶ月間会いに行く暇もなく話でだけ聞いていたエンジェルのことを、実際に会ってすぐにいたく気に入ってしまったようだった。彼女はエンジェルの手を取り、まるで仲の良い同性の友人にそうするように柔らかく握り締め、エンジェルの耳元に唇を寄せて囁く。
 エンジェルは赤面一つせず彼女の囁きに囁きをもって返事をした。二人は意気投合し、意味深に微笑み合う。
 その様を見ながら、フレデリックは奇妙な感情を覚えた。しかしそれは、決して、アリアと親しげにしているエンジェルへの嫉妬ではない。第一フレデリックはまだアリアに告白をしていないし……いやそれを差し置いても、これはまったく別種の感情だ。
 ただ、エンジェルを見ていると酷く心がざわつく。その答えにまるで見当も付かないのに、何かがずっと引っ掛かっている。


◇◆◇◆◇


「彼女、きれいな人ですね」
 バーベキューが終わり、後片付けをしている最中、ふとエンジェルが呟いた。
 コテージに残ったフレデリックとアリアの代わりにレンタルした資材を戻しに行ったその帰り道。飛鳥とエンジェルは二人きりで浜辺を歩いており、長い間無言だった。なにしろフレデリックがいないとあまり二人で話すこともない。
 その沈黙を遮っての突拍子もない台詞に、はたと飛鳥の足が止まる。
「……駄目だよ、アンジュ。アリアはフレデリックの思い人なんだ」
 飛鳥の唇から零れた声は心なしか低く、そして冷たい。エンジェルの何気ない一言は、それまで飛鳥が抱いていたフラットな感情を初めて揺らがしていた。
 しかし険しい表情の飛鳥に、エンジェルはあくまで素っ気なく受け答える。
「え? ああ、知ってますよ。そういう意味じゃないから、そんな顔しないで欲しいかな。ただアリアって、私の大切な人にどことなく似ていて」
「……故郷の彼女?」
「まあ、そんなところです」
「遠距離恋愛なんだ。……なんか、想像つかないな。アンジュはそういう話にはわりと淡白というか……あんまり、似合わない気がする」
 似合わないなんて言ったあとになって、どうしてそんな印象を抱いたのか論理立てて説明できないことに気がついた。「ただなんとなく」としか言いようがなく、どことなく気持ちが悪かった。
 飛鳥がそのことに眉をしかめていると、エンジェルが他人事のように嘯く。
「私の得体が知れないから、うまく納得出来ませんか」
 表情には色がなかった。冷め切ったという形容を軽く飛び超え、機械的だった。アリアと砂糖菓子みたいに笑い合っていた表情が、フレデリックに向けられる満天の笑みが、ぞっとしないほど無機質なものに成り代わってぼたぼたと床に垂れ落ち、泥になっていく。
「確かに、言語化するとそういうフレーズになるのかも」
「あはは、言語化、か。いいですね。では今度から、私達は法階で会話しますか。その方がシステマチックで、秘密もばれにくい。たとえば、私達が本当は、別に親戚でもなんでもないとか」
「そうだね。たぶんものすごく不自然だと思うけど、アンジュがやりたければ付き合うよ」
「…………。やめます。ただ疲れるだけだ。それより……ずっと聞こうと思っていたんですけれど。あなたは私の正体が気にならないんですか」
 相変わらずプラスチックみたいな横顔をして、エンジェルが尋ねた。
 その問いに飛鳥は押し黙った。考えてみたこともなかった。飛鳥はエンジェルについていくらかの「本当」を知っていたつもりだったが、よく考えてみたらそれもフレデリックが持っている知識に毛が生えたぐらいのものにすぎなかった。
 ——「先生」がある目的のため送り込んできた謎の青年。
 それが、飛鳥の知る限りのエンジェル=K=クロイツと名乗る人間のパーソナルだ。それ以上のことは何もわからない。知ろうとさえしなかった。便宜上飛鳥の親戚ということで話を通すよう先生に頼まれ、そうやって振る舞っているが、彼は別にはとこのいとこでさえないし、本当の名前が何かということも誰からも教えてもらえない。
 ただ、先生が、「彼は自分の計画にとても重要な役割を持っている」と言ったので、飛鳥にとってはそれで十分だった。あとは「彼は二十二世紀の未来からよりよい人類の幸福を決定づけるために送り込まれた」という説明もついていた気がするが、正直言ってどうでもいい。
「いや、ちっとも。フレデリックやアリアに害を為さない限り、僕は君に一欠片の興味関心もない」
「一つ屋根の下で暮らしているのに?」
「同じアパートに住んでいたって他人は他人のままさ」
「うん、そうですね。飛鳥は、そういう人ですよね」
 だからそう答えると、エンジェルは何故か安堵したように息を吐く。
「安心してください、フレデリックとアリアに害をなすつもりはありません。彼らには一緒になってもらわないと困る。『先生』の思い描く未来には、その流れが必要です」
「先生が何を考えているのか、実を言うと僕やアクソス、リブラリア、クロノス、バルディアス、その誰もよく知らないんだけど。アンジュはそれを知っているのかな」
「いいえ? あの人が何を考えてるかなんて、誰にもわかりっこないですよ。でも私は、正しい未来を知っています。正しい歴史の形を」
「人類の永遠に続く幸福が訪れる事象をか」
「いみじくも、その通り」
 エンジェルの口調は大仰だったが、声音は裏腹にくさしていた。
 それから、また二人して無言になった。エンジェルは次に告げるべき言葉を探しているようだった。ろくな表情もないまま思案する様はますます彼の相貌をつくりものめいて見せる。なんだろう。今の彼は、仮面を被っているみたいだ。そうでなきゃ、本物の顔の上に薄い石膏を塗り固めている。しかしその現象は飛鳥と二人きりの時にしか起きない。
 そこでようやく飛鳥は気がつく。彼の秘密をより多く知っているのは飛鳥だ。なのに、何も知らないフレデリックやアリアに対して見せる顔の方が本物で、飛鳥に向けられる顔は全て固く塗り込められたセメント製だったのだ。
「逆に……私は、聞きたい。先生に師事する五人の使徒のうち、あなた以外は既に国連元老院に抜擢されそれに就任しました。なのにあなただけが、今もこんなところでのうのうと油を売っている」
 コテージにほど近くなった頃、沈黙を破り、エンジェルがまた唇を開く。心なしか表情よりも声音の方が固い。はれものに触れるような用心がその中に潜んでいる。
 飛鳥は彼の声に込められたそういった意図を丸っきり無視し、大げさなぐらい首を横へ振ってやった。大好きな友人達と海へ来ることをそんなふうに表現されるのが本当に心外で、エンジェルの感情の機微といったものはとりあえず捨て置いた。
「方向性が違ったんだ。それに油を売っているわけじゃない」
「しかし、五人の中で最も優れているのはあなたですよ、飛鳥=R=クロイツ」
「そんなことは、僕の青春を奪う理由にはならない。アンジュ、僕は出会ってしまったんだ。僕の生涯全てを捧げるべきものに。君が僕に見せる表情はなんだかみんな嘘っぱちだけど、これだけは、君にもわかるんじゃないのかな」
「——……、」
 エンジェルが息を呑む。彼の喉がひくつき、きつく唇を噛みしめる。
「そう……ですね。そういう意味では、私達はどうしようもなく同じ穴の狢なのかもしれない。私達が……やがて同じ罪に手を染める末路まで、全て含めて……」
 エンジェルの呟きが海風に溶けて流されていく。それに覆い被さるように、コテージの方からおういと呼ぶ声がした。フレデリックとアリアが口を大きく開け、両手をメガホンみたいに添えて飛鳥とエンジェルを呼んでいる。
 明朗な声が隣から聞こえ、飛鳥は驚いて目をやった。
 そこには数秒前とはまるで別人のような、曇りのない笑顔をしたエンジェルが立っていた。


◇◆◇◆◇


 時計の針は午前二時を指している。眠りに就けず手慰みに読んでいた本にも飽きがきた頃、フレデリックの上に影が落ちた。本を閉じて見上げるとエンジェルの顔がある。彼はいつもポニーテールにしている髪をほどいたまま、「まだ起きているんですか」と静かに微笑んだ。
「眠れないんだ」
「ええ、実は私も。よければ外を歩きませんか」
「そいつはいい」
 アリアも飛鳥もとっくに寝入っているので、二人でひっそりとコテージを抜け出す。見上げた空には雲がなく、こうこうと地を照らす満月を取り囲むようにして星々が輝いていた。「きれいですね」エンジェルが呟く。「満月は好きです。色々な思い入れがあって」。
「月の満ち欠けなんて普段大して気にしたこともなかったが、こういうのは悪くないな」
「意外と、動物の生活サイクルに影響を与えているんですよ。隣の家の犬も、この時期はよく吠えてるし」
「とはいえ、俺自身はその手の実感をしたことはないからな」
 フレデリックを先導するエンジェルは、肩より長いロングヘアを降ろしているせいもあって日中よりますます中性めいて見える。全体的な線が細いから、後ろ姿だけを見れば女と何も変わらないだろう。実際、プライベート・ビーチに来てすれ違った人間の何割かは、そういう誤解が含まれていそうな視線をエンジェルへ送っていた。彼はそれを気にも留めていなかったようだが……。
「なんだか改まった言い方になってしまうんですけど、海へ連れて来てくれてありがとう。一度あなたと海へ行ってみたかったんです。普段は内地に住んでますし」
 波打ち際を静かに歩いていたエンジェルが不意に立ち止まり、フレデリックの手を取る。彼がかけている眼鏡のフレームに月明かりが反射し、海と同じ色をした彼の瞳を一層幻惑的に見せていた。波がさざめくように揺らぐ海色の瞳にどきりとする。なんでもないもののはずなのに、まるでいけないものを見ているかのような気分がしてきて、動悸がしてくる。
「い……いや。喜んでもらえてなによりだ。家の雑事やらで、お前には世話になってるし。アリアともやっと会わせてやれたし……」
「ええ。彼女はいい人ですね。けっこう、気が合うんじゃないかな」
 エンジェルがはにかむ。フレデリックに添えられた手はやはり細い。剣だこらしきものも二ヶ月の間に少しだけなりを潜め、暗闇で握り締めていたら、もうこの手が男か女かわからないかもしれない。
 バーベキューの最中、アリアと意気投合していたエンジェルがやたらと少女めいて見えたことがふと思い出され、フレデリックは生唾を飲んだ。あの理由のわからないざわつきが再び襲ってくる。その恐怖から逃れるように、意識するより早くエンジェルの手を握り締めていた。月へ帰ろうとする天女を引き寄せる男のように性急な動きだった。
「——今度、ヒューストンの宇宙センターに行かないか」
 そして頭でも、手と同じぐらい急なことを口走った。
「……え?」
「だから——その、宇宙センターに。チケットが……あるから……二人で……」
「二人で……私と?」
 手を握られたままのエンジェルが不可思議そうな顔をする。当然の反応だ。口走ったフレデリック自身、どうして急にそんなことを言ってしまったのかうまく説明できる気がしない。
 満月がおかしくしてるんだ。フレデリックは自分の謎すぎる行動をそう解釈しようとした。たとえ行動原理が隣の家で飼われているシベリアンハスキーと同じになったとしても、その釈明で済ませたかった。
「ああ、お前と、エンジェル」
「飛鳥やアリアとはいいんですか」
「アリアに……告白したいんだ。だからその、予行練習というか、下見、で……」
 口からどんどんと考えてもいなかった言い訳が零れていく。——一体俺は何を言っているんだ? 握り締めた手が汗ばんでいくのを感じ、しどろもどろになりながら、フレデリックは内心でだらだらと冷や汗を流し始める。さしものエンジェルも、この支離滅裂さには呆れ始めるんじゃないか……。
「いいですよ」
 だがエンジェルはフレデリックの予想に反し、訝しげにひそめていた顔をぱっと柔らかなものに変えてみせ、フレデリックのじっとりした手のひらをきゅうと握り返してきた。
「私でよければ。思えば二人きりで出掛けたこともありませんでしたし、とても嬉しい」
 そうして、薄闇でもはっきりそうとわかるチャーミングな笑みを惜しげもなくフレデリックに向けてくる。フレデリックは彼から目が逸らせず、彼の美しい相貌をたっぷりと見つめていなければならなかった。彼の面差しはあまりに完璧すぎて、一秒見つめるごとに気が狂っていってしまいそうになる。
 海に棲むセイレーンなる魔物がいるとしたら、それは今目の前にいる彼だ。
 直感的にそう思う。アリアと話す彼を見ていて覚えた正体不明の感情、その答えが、朧気に見えてきたような気がする。エンジェル=K=クロイツという男は、フレデリックの中の何か大切なものを大きく揺らがせていた。けれど……それはきっと悪いものではない。飛鳥がフレデリックに変革をもたらしたように、アリアがフレデリックの世界を塗り替えたように。きっと彼もそういうものを、フレデリックに持って来てくれたのだ。
 都合のいい妄想をそう信じたいだけだと気付かぬまま、フレデリックはエンジェルの頬にキスをした。頬を擦り合わせ、間近で見たエンジェルの瞳は、眼鏡越しに見るものよりずっと澄んでいて美しく、海のように底知れなかった。