04 バナナフィッシュに首ったけ

 海辺への小旅行から帰ってきた途端に研究室の関係で急な用事が立て込み、「デートの下見で宇宙センターに行く」約束がいよいよ秋にもつれこみそうになった頃のことだ。やっとのことでフレデリックは雑事から解放され、大手を振って休む権利を得た。実に数週間ぶりの休暇。これでもうしばらくは研究室に行かなくて済む。
「ああくそ、やっとだ」
 クローゼットをひっくり返して少しでもましな服を選びながら壁に向かって悪態をついた。フレデリックを拘束していたのは研究室だが、悪態の向かう先はそこではない。これというのも全て聖皇庁のせいなのだ。聖皇庁設立者の弟子が同じ家にいることにもお構いなく、ぶつぶつと文句を垂れ流す。
 ……いや、聖皇庁の発表自体は、まあ、仕方なかった。けれどなにもそれを夏休みにぶつけることもないと思う。ふと目をやった先のカレンダーについた大量のバツ印に自然と溜め息がこぼれていく。フレデリックの夏休みに残された余命は風前の灯火だ。
 八月上旬、聖皇庁主導の国際サミットが開かれ、その結果国連が魔法時代の幕開けを宣言した。それだけならまだしも、ついでのように科学文明の終焉も同時宣言。これが一大問題だった。
 前時代の技術が続々と使えなくなることで、法力技術での代替を求める論調がますます強くなる。その結果起こったのが法力を専門にする学者たちのタスク圧迫。細胞研究の世界的権威であるヴィンス=マクドネル教授もそのご多分にもれず、ありとあらゆる技術提供や協力を要求された。
 医療分野の高度な法術に手を出していたことが災いし、教授はあちこちへ引っ張りだこ。四本しかない教授の手足を増やすため、フレデリックも飛鳥もアリアもあちこちへ使い走りにかけずり回り、その結果フレデリックは僅か数週間で法術の威力コントロールをマスター。何一つ笑いどころはないが、何事も荒療治が一番だというのは本当らしい。
「約束の時間まであと一時間しかないぞ……」
 心なしか独り言も早口になっていく。しかしどんなに焦ってもお構いなしに、秒針は時を刻むばかり。フレデリックは現実から目を逸らすように窓の外を見た。彼の方は、もう三時間以上も前に家を出た。同じ家に住んでいる人間と待ち合わせの練習をするため、出立の時間をずらしたのだ。何に対しても几帳面なあの青年のことだから、今頃は待ち合わせ場所近辺の本屋とかで時間を潰している頃だろう。
 ——遅刻だけはするわけにいかない。
 フレデリックは決意を固め、ワイシャツのボタンを留めた。


 ヒューストン宇宙センターに、アリアとの初デートに向けた予行練習と下見という名目でエンジェルに同伴してもらう。それが今日フレデリックを待っている一番大きなイベントだ。無論飛鳥は抜きで、アリアもいない。つまり、完全な二人きりということである。
 飛鳥が出払っているので家の中に二人だけだとか、ちょっとそこのスーパーに買い出しをするだけなので二人で出るみたいなことは今までにもちょくちょくあったが、こんなふうにあらたまって二人で出掛けようとしたことは一度もない。交友関係の狭いフレデリックはこれまで大体の時間を飛鳥と一緒に行動してきたし、それが当然だった。だからエンジェルが越して来たあとも、飛鳥とフレデリックとエンジェル、みたいな組み合わせが常態化していたのだ。
 だけど今日はそうじゃない。
 車を飛ばし、待ち合わせ場所に急ぐ。まず、ダウンタウンのカフェでエンジェルを拾い、ハイウェイに乗って宇宙センターへ。その後宇宙センター内で数時間を過ごし、またハイウェイを飛ばしてオースティンの自宅に一緒に帰ってくる。手順はこれで完璧のはず。
 待ち合わせ場所近くのパーキングに車を止め、有名チェーンのカフェに向かう。慌てて中へ入ろうとドアへ手を掛けると、後ろからくいと腕を引っ張る手があり、驚いて振り返る。
「エン——ジェル?」
 そうして彼の姿を認めた瞬間、驚きは数万倍にも膨れあがった。
「しーっ。なんだかさっきから、複数の視線を感じるんです。早く車に乗り込んでしまいたい」
「いや、お前。そ、そりゃ……そうだろ……」
 言葉が途切れ途切れにしか口から出て来ない。フレデリックの手を引いたのは、テイクアウトのカップを持って店外に立っていたエンジェルだ。そこまではいい。でもそれ以外はだめだ。フレデリックは自分の心臓がしっちゃかめっちゃかに跳ね回るのを感じて無理矢理深呼吸をする。こんなの、人目を惹いて当然ではないか。
 Tシャツを適当に着ているだけでもはっきりわかるレベルで美形のエンジェルが、今日はやたらと小洒落た装いをし、ファッションモデルも裸足で逃げ出すほどきまった格好をしている。加えてコーディネートはボーイッシュな女性とも線の細い男性とも取れるスタイルで統一されており、まず間違いなく、エンジェルのクローゼットには入っていないレパートリーで構成されていた。フレデリックがもたもたしている間に街で全身用立てたとしか思えない。普段の彼は家の中では数種類のTシャツを着回して夏の暑さをしのいでいたし、外に出る時でも青か白のワイシャツにぴんとアイロンのかかったスラックスを合わせるぐらいのことしかしていない。
「どうしたんだ、それ」
 エンジェルにぐいぐい引っ張られてパーキングに戻り、ちくちく刺さる視線から逃げ出すように車に乗り込む。エンジンをかけてキックしながら恐る恐る尋ねると、助手席のシートベルトを締めたエンジェルが澄まし顔で言う。
「フレデリックを待っている間、アリアに全身コーディネートされてきました」
「アリアに? ……は?! アリアに?!」
「ええ。ちょっと気合いを入れて出掛けたいと話したら、それはもう目を輝かせて協力してくれて……すみません、断りを入れる間もなかったものだから」
「い、いや。というか、いつの間にそんな、仲良く……」
「メル友ですよ。交換手の要らない法力通信の練習で、簡単なメールを送り合ってるうちに随分ね。でもたぶん、私は彼女の中で異性として扱われていないな……」
 彼は唇をすぼめて嘆息し、アンニュイな表情で「だから安心して」と付け足した。今日の宇宙センター行きがそもそも「アリアとのデートの予行練習」という名目になっているので、そのあたり気を遣ってくれているのだろうが、フレデリックを本当にぎょっとさせたのはそんなことではない。
 フレデリックはのろのろと進み始めた車のタイヤと同じぐらいもたつく舌で、一つずつ言葉を選んでいく。
「俺ほどじゃねえが、アリアもまあ友人は少ない」
「ん? あー、うん、彼女はちょっと変わっていますからね。まあ、たとえ話にゴキブリを持ち出す男よりは全然普通だと思いますよ」
「ああくそ、それもアリアに聞いたのか?! 忘れろ、そんな話!! ……そいつはさておき、アリアが他人の服装に口を挟もうとすることなんか滅多にないんだ。お前が類い稀な美形だってことを差し引いてもな。そう、めちゃくちゃな美形だとしても……最近、慣れはじめて忘れていたが」
「ふうん。ではどうですか、今日の私のコーディネートは」
 気のないふりをした返事と共に、エンジェルが運転席の方へ少しだけ身体を押しつけてくる。エンジェルの肌から清潔なシャンプーの香りが漂い、嫌が応にも喉が鳴って、もう本当に、心底、駄目だ。耐えられない。
 覚悟を決めて間近で凝視したエンジェルの顔は、昨日の夜風呂上がりにアイスを舐めていた彼のそれよりずっと眩しかった。
 いつもと違いてっぺん近くで結わえられているうえにヘアアレンジがされている金髪は、陽が当たると蜂蜜を溶かして固めたみたいにきらきら光る。肩にゆるく掛けられた濃紺のカーディガンがゆるめのワイシャツに映え、鎖骨まわりまで見せているせいもあって、概ねぴっちりきっちりした印象の強い彼を五割増しぐらいラフに見せていた。そのせいだろうか、変わらないはずの眼鏡まで妙に色っぽく見え、おかしな気分になってしまう。
(——アリアのやつ! なんてことをしてくれたんだ!)
 フレデリックは生唾を呑み込むと運転に集中しているふりをしてフロントガラスの向こうに目を凝らした。だだっぴろいハイウェイは直線にずっと続いており、灰色のアスファルトとまばらに立つ案内標識、でかでかとした広告パネルぐらいしか気を紛らわせてくれるものがない。
「……正直に言う。動悸がすごい。へんなものに目覚めそうになる。お前のコーディネートを考えたやつ、つまり、アリア=ヘイルは、悪魔的だ」
「最高の賛辞です。アリアもきっと喜ぶでしょう」
 エンジェルが、いかにも「にやり」という形容が似つかわしい声音で言った。
 思わず横目を流せば、彼は悪戯っぽい笑みを満面に浮かべ、形の良い唇の口角を上げている。引っ越してきた日に見せたものと同じコケティッシュな笑み。どうしようもなく人を惹きつけてならない、どこか危険で蠱惑的な……。
 それに胸を掻き乱される気持ちがして、アクセルを踏む足に籠もる力が少しだけ強まった。


◇◆◇◆◇


「先生、お久しぶりです」
 指定された店に入り、待ち合わせの相手を見つけると飛鳥はゆっくり彼の元へ歩み寄っていった。街角でひっそりと営業している場末のパブ。それも真昼間の時間帯——ともなれば殆ど客の影もなかったが、「先生」と呼ばれた男の後ろには仮面を付けた怪しげな男女が控え、いかにもな空気を作り出している。
「アクソス、リブラリアも、お疲れ様。……それで、用件とは?」
 それにまったく怯む様子もなく、勝手知ったる顔で彼らにも挨拶を済ませると飛鳥はカウンターに腰掛けた。飛鳥がバーテンダーにレモネードを注文すると、先生はゆっくりと飛鳥に顔を向け、唇を開く。
「飛鳥、挨拶は省略しよう。まずこの夏はすまなかったね。マクドネル教室には、特に過大なしわ寄せが行ったと聞く。さぞ忙しかったことだろう」
 先生と呼ばれた男の声はまだ若く、しかし語り口はそれに反して老成していた。
「僕一人ではなかったので、平気ですよ。フレデリックとアリアには可哀想なことをしました」
「そうか、ならば良い。では、手短にいこう。本題だが、エンジェルはどうしているかね」
「アンジュ? 彼なら、僕達が研究室に詰めている間はずっと家を見ていてくれましたけれど……」
 すぐに出されたレモネードにストローを挿し、飛鳥が首を捻る。旅行から帰ってきて以来、本当に寝る時ぐらいしか家に帰れない日々が続いていたので、その間暇をもてあましていたエンジェルが何をしていたのかはよく知らない。大体の場合は予定もなく日がな家の中で過ごしていたはずだが、彼も子供ではないので、気が向けば一人でダウンタウンに出掛けたりすることがあるだろう。
 そう答えると、先生は真意の読めぬ表情でそうかと頷く。
「まあ、致し方あるまいな。彼は同居人とうまくやっているのか」
「僕やフレデリックと? そりゃ、勿論。特にフレデリックは、彼のことをいたく気に入っています。はじめの内こそ、常人離れした胆力に驚いてはいたようですが」
「重畳。では間もなく、彼はつつがなくその役目を終えることだろう。飛鳥、あと少しの間、彼を手伝ってやってほしい。最後の一瞬、彼には君の助けが必要だ」
「……? ええ、アンジュが僕のささやかな願いを乱さない限りは、構いませんが……」
 飛鳥はますます首を捻り、そこで唇を閉ざした。
 何をやらせても完璧で、頭もよく人当たりのいいエンジェルが、どんな場面なら飛鳥の手助けを必要とするのか皆目見当も付かなかった。一体彼の目的は何だ? 先生の要請を受けて初めて、そのことに疑問を持つ。彼が何者かということに意味はない。そんなものは定義の結果でしかない。しかし彼の目的がもし飛鳥の望みに抵触するのだとすれば、そこには大きな不都合が生じる。
「先生、彼は本当に未来から来たのですか」
 だからストローから口を離し少々強い語調で尋ねると、先生は「気になるのかね」とフラットな声でむしろ訊き返してくる。
 飛鳥は慎重に言葉を探した。
「本当に未来から来たとして、一体何が目的なのかな、と。過去の改変? それとも改竄? わざわざ僕らのもとにやって来たということは、〝GEAR〟に関わる何かという線も有り得る」
「然り。しかしエンジェルはギア・プロジェクトの正否について多くを語らなかった。それは未来の呈示になり、必要以上に過去をねじ曲げる要因になると言ってね。彼の目的は過去の改竄ではない。むしろ、彼がやって来た未来を守るためのコントロールだ」
「確証は?」
「彼は未来の私自身からのメッセージを預かっていた。それは、過去現在未来を通して私以外には解析・行使不可能なヒドゥンメッセージだった。それで私は彼の言い分を全面的に信用し諸々の手配を決めた」
 先生が一息に告げる。彼の目には一点の曇りもない。
 元々彼は嘘を吐かない人種だが、それを差し引いても、このまなざしを疑う気にはなれなかった。飛鳥は首を振り、今一度情報を整理する。エンジェルは、過去を正しい方向へ導き、未来を守るために派遣されたエージェント。そして恐らくは、ギア・プロジェクトに精通している可能性があり、未来で「先生」にコンタクトを取ることが出来る立場にいる。
 となれば、彼がどうして未来を守ろうとしているのか、その真意は自ずと絞られてくる。
「……ではやはり、彼は『永遠に続く人類の幸福』に関与して」
「ああ、恐らくは。それについても彼は多くを語らなかったが、話した感触では、彼の住まう未来は確実にその道へ進んでいる。彼自身の意思や自覚には関係なくね。
 ……いみじくも、先日『慈悲無き啓示』がエラーを起こしたばかりだ。彼は来たるべくしてこの時にやって来たのだろう、そればかりは間違いない」
 先生は深々と頷き、飛鳥の言葉を肯定した。
 慈悲無き啓示……苦い名前だ。「人類の幸福が永遠に続く夢」を叶えるために生み出された「慈悲無き啓示」は、深刻なプログラムエラーを起こした。いつかの未来、人類は発達しすぎた文明に自我を奪われ、自由を、余地を喪う。啓示は人類を守らなければいけない。しかし人類は堕落し魂を喪い、啓示が定義した人間の枠組みから外れてしまう。人間は永遠に人間ではいられない。
 では啓示が守り続けるべき「人間」とは? 
 永遠に続く幸福を真に享受すべき存在とは?
 こうして、「慈悲無き啓示」は先生が予測していなかった結論に至る。つまり——この世界にはまだ、人間が生まれていない。だから現行人類を滅ぼし、自分が真に守るべき新人類を造り出さねばならないのだ、と。
 エラーを起こした情報生命体は、こうして人類の敵になった。先生が思い描く未来予想図を乱すバグに成り下がった。これにより、先生は並行して進めていたギア・プロジェクトの進行を余儀なくされる。ギア・プロジェクトとは、即ち現行人類そのものの強化。そして啓示に対抗しうる存在の創造。
 この計画を二〇一〇年現在で知らされているのは「使徒」五人のみだ。「ギア・プロジェクト」の存在を知っている時点で、エンジェルが確かにこの時代の人間ではないということが証明可能になる。
 けれど……。
「しかし先生、目的が知れたところで、まだ僕は確証を持てません。つまり……アンジュがフレデリックやアリアに不要な変化をもたらさないということについてです」
 未来から来たというのならば、フレデリックやアリアが、今後ギア・プロジェクトに関与する予定だということを知っていてもおかしくはない。もしや彼はそれを阻害するつもりなのか? それだけは避けねばと厳しい声を出せば、先生は鷹揚に手を振り、今度は飛鳥の問いを否定する。
「ああ、それについては心配ない。それだけは有り得ない」
「何故?」
「エンジェルは私に誓いを立てている。そもそも『エンジェル』という名前が、その証なのだ。過去で彼の行動を制約する枷だ。しかして彼は己の正義、彼の信奉する未来を証明するため、まず初めに私の前で本当の名前を棄てた。そして彼は〝 天の御遣い エンジェル 〟になり、宣誓した。十字架を掲げ、聖母像の前で厳かに」

 ——私は確かに、自分の目的のためにフレデリックへ接触を図るでしょう。でもそれだけです。彼の人生を操作したいなんて思わない。私のことだって覚えていて欲しくない。何故なら……
 ——何故なら私は、彼を愛しているから。
 ——彼という人間が成り果てた 化け物 ヒーロー を、そして 化け物 ヒーロー が守った世界を、愛しているからです。

 飛鳥はその言葉に息を呑んだ。
 エンジェルが先生に立てたという誓いの一言一句、その全てがおぞましいほどの重さを持っていた。飛鳥はそこに居もしないエンジェルの双眸が自分を見ているような幻を覚え、目を擦る。しかしいつまで経っても彼はいなくならない。ばかりか、強い瞳でじっと飛鳥を睨み付けている。


◇◆◇◆◇


 当然だが、宇宙センターについてからもエンジェルは衆人環視の注目を大いに集め続けた。しかし館内の展示施設をひとつ回る度に、向けられる視線が目に見えて減っていく。理由はたぶん、フレデリックの饒舌ぶりとエンジェルのはしゃぎようにあった。
「マーキュリー・アトラス9号だ。本物! 本でしか見たことなかったのに。フレデリック、アポロ11号は? ここにはないのかな」
「ああ、そいつはワシントンの国立航空宇宙博物館に所蔵されてるんだ。スピリット・オブ・セントルイスや、ジェミニ4号なんかと一緒にな。当時アポロ11号に搭載されてた救命胴衣や天球儀なんかはヴァージニアの博物館。こっちには、企画展示かなんかがなきゃやって来ない」
「へえ……フレデリックはなんでも知ってますね」
「子供の頃はそりゃあもう宇宙に憧れたもんさ。絵本なんか擦りきれるまで読んだりしてな」
「じゃあ宇宙飛行士になりたいと思ったことがあるんですか?」
「当然、四歳の頃は盛んに言ってた。だがそのうち、宇宙には空気もなければクイーンもないことに気がついて地球を旅立つことをやめた」
「なるほど。クイーンは、確かにないでしょうね」
 エンジェルが熱心に頷いた。
 ハイウェイを走っている間の艶めかしい空気はどこへやら、宇宙センターに入ってからのエンジェルはまるで父親に連れられて初めてロケットを見に来た少年かそれ以上のはしゃぎぶりを見せていた。一つ展示を見ては説明文を熟読し、フレデリックに横目で説明をねだる。そうすると、こういう込み入った話を聞いてくれる相手なんぞそうそういないので、フレデリックもついつい説明に熱が入ってしまう。
 次第に異様な熱気に包まれていく二人を、他の来館者達は、触らぬ神に祟りなしとばかりに遠巻きに見守った。でもそのぐらいで丁度良かったのかもしれない。なにしろ今日のエンジェルときたら本当になにもかもがさまになりすぎていて、そうでもなければ三秒おきに見知らぬ人間に声を掛けられそうな勢いだったのだ。
「フレデリック、しばらくあそこで休みましょう」
 たっぷり時間を掛けて三周ほど展示物を眺め、二人ともが満足した頃合いでカフェテリアのテラス席を確保する。オーダーを預かって一人でカウンターへ向かい、頼まれたアイスティーとブラックコーヒーを手に席へ戻ってくると、エンジェルが読みかけのペーパーバックを閉じてテーブルの隅へずらした。
 気になって書名を見ると、引っ越しの初日に読んでいたのとは違うタイトルが印字されている。ハインラインの「夏への扉」——随分な古典だ。今時、こんなものを読んでいる人間が目の前にいるなんてシチュエーションに遭遇するとも思っていなくて、フレデリックはくすりと鼻から笑みを漏らした。
「五十年ぐらい前の本じゃないか。この前もニーチェかなんかを読んでたが、古い本が好きなのか」
「ええ。お恥ずかしながら、こういうのはあまり読む機会がなくて。最近になってやっとサリンジャーも読みましたよ。あの家、図書館が近いでしょう。しょっちゅう通ってたから、おかげで司書に顔を覚えられてしまった」
「お前の顔はしょっちゅう通わなくても覚えられるだろ」
「どうでしょう。私はあんまり、人の記憶には、残りたくないんだけど。とはいえ毎日三冊とか五冊とかとっかえひっかえ借りていったら、そりゃあ覚えるなという方が無理ですよね。でも読んだことのない本がたくさんあるから……つい浮かれてしまって」
 彼は微笑むとペーパーバックを再び手に取り、表紙を撫でる。言われてよく見れば、裏側には図書館所蔵であることを示すバーコードが貼り付けられていた。フレデリックも飛鳥も出払っていて暇な時間を図書館通いに費やしていたというのは、勤勉な彼の性格を思うとかなり納得のいく時間の使い方である。
 ……それにしても、毎日その量の本を読めるのなら、生来の読書家だと思うのだが。それでサリンジャーの一つも読んだことがないというのもどうにもおかしな話だ。
(でもこいつ、絶対変な家で育ってるしな……)
 フレデリックは小さく唸った。フェンシングをやっていて、一族皆軍人で、繊細なつくりの顔に似合わなすぎる豪胆さで。そんな育ちなら、家にいる間は娯楽小説を与えてもらえなかったなんていうのも、有り得なくはない気がしてくる。もしかしたら彼は、生活の全てを親にコントロールされていたのかもしれない。だってジャンクフードも殆ど食べたことがなくて……ロケットひとつ、見たことがなかったのだ。もう大学生になろうというのに!
(秘密の花園で育てられたお嬢様みてえだな)
 タイトルしか知らない小説の中身を適当にでっちあげて当てはめ、フレデリックは一人で頷いた。エンジェルは完璧な礼儀作法と美しいクイーンズイングリッシュ、そして天才的な法術を修めていたが、その代償のように、美しくないもの全てと縁遠く見えた。ありとあらゆる美しいものだけでこどもを培養したら、彼みたいなものが出来上がるんじゃないだろうか。ふと、そんな益体のない夢想がフレデリックの脳裏を席巻する。
 しみ一つない透き通る肌、ふっくらとした赤い唇。乱れのない金髪、おまけに両目は海より深く澄み渡り見るものを誘惑する。本当にこいつは、自分と同じもので出来ているのだろうか? 思案が泥沼に沈み込んでいく。つまり、水と炭素とアンモニアと、石灰とリンと塩分と……そういったもので形作られ、あまつさえ下半身には「あれ」がぶら下がっているのか? 本当に?
 わからない。どれほど考えても、フレデリックの中からその答えを拾い上げることは難しかった。彼にわかるのは、少なくともカエルとカタツムリとこいぬのしっぽよりは、砂糖とスパイスと素敵な何かで出来ていると言われたほうがしっくりくる、ということぐらいだ。
「なあ、エンジェル」
「はい」
「その、だな……今から、ものすごく失礼なことを聞くが」
 コーヒーをすすって唇を濡らし、エンジェルにだけ聞こえるようにひそひそ声を出す。フレデリックの夢想は暴走列車のように暴れ狂い、最早彼自身の努力だけでは収拾不可能になりはじめていた。たとえばそれは、エンジェルはセックスを知らないのではないかという不安に及んでいた。はたまた、オナニーも知らないとか。どうしよう。ないとは言い切れない。向かいの部屋から荒い息づかいが聞こえてきたことは勿論ないし、いかがわしげな本は愚か、雑誌についている少々アダルティなピンナップをめくっているところだって一度も見たことがない。
「お前——男、なんだよな。本当に」
「え? あ——ああ、あはは! なんだ、そんなこと」
 だから本当に失礼だと知りながらも怖々尋ねたのに、エンジェルときたら、思いがけないものを見た猫みたいに目を丸くして、その次の瞬間フレデリックの顔を真っ直ぐ見たまま勢いよく笑い出してしまうのだった。
「当たり前じゃないですか。たぶん今、フレデリックが思い浮かべてるものもちゃんとついてますよ。……ねえフレデリック、私だってもう子供じゃないんですから、少しはいやらしいことも分かってますよ?」
 屋外なので必死に押さえてはいたようだが、あまりに気持ちの良い大笑いは噛み殺しきれるものではない。エンジェルはそれからひとしきり笑い、笑いすぎて目尻から涙までこぼし、ひとさし指でそれを拭うと何を思ったのかフレデリックの頬に拭ったままの指先を押し当ててくる。そして空いている方の手をもぞもぞとテーブルの下に滑り込ませた。何をするつもりかと警戒していると、彼のなめらかな指先がフレデリックの手を掴んで、エンジェルの方へ無理矢理引っ張っていく。
 意外と強い腕力に引き摺られ、フレデリックの手が触れたのは、ざらついたスラックスの布地とそれに覆われた何かだった。何かはふくらみを持った柔らかいもので、じっと触っていると、熱が籠もっていることも伝わってきて……。
「え、え——エンジェル!!」
 その正体を察した瞬間、フレデリックは立ち上がって大声で叫んでしまい、はっとして口を覆った。
 派手に動いたせいでエンジェルに握られている方の手も驚いたせいで変な動かし方をしてしまい、引っ繰り返った拍子に、何か柔らかく暖かなものを爪が引っ掻いてしまう。途端に青ざめ、フレデリックは大慌てでテーブルの下から手を取り出した。はずみでエンジェルの腕も飛び出し、その姿が露わになる。
 彼の手のひらを見てフレデリックは息を呑んだ。白くやわらかな肉の内側に、浅く派手な切り傷が出来ている。フレデリックが彼の皮膚を破ってしまったのだ。そういえばここのところは忙しくて、しかもクリーンルームではなく外を走り回っていたから、爪を切るのをすっかり忘れていた。
「わ——悪い……」
 エンジェルの皮膚が白いぶんだけ、じわりと滲む鮮血は大げさなくらいショッキングに目に映る。勢いを増してどろどろと滴り落ち始めた血液にフレデリックの血の気も引いていった。彼の血はこういう場所で不用意に流されて良いものではないのだと、本能が訴えかけている。
「止血して……治癒をかけないと。それから本当にすまん。あんなことを聞いた挙げ句、お前に怪我までさせるなんて」
「気にしないで。フレデリックになら、何を聞かれてもいいんです、私は。それにこんなのかすり傷ですよ。すぐに治ります」
「でもな……」
「いいえ。逆に嬉しい。そのぐらい、フレデリックが私に興味を持ってくれてるということだし。それに……この色を見るとちょっと懐かしくて、ほっとする……」
 エンジェルが手のひらを顔に近づけ、ぺろりと傷口を舐めた。その動作の全てが艶めかしく、同時に、神の使いを表す彼の名前に反して卑近で俗っぽい。ああ、くそ、またか! フレデリックはおかしな動きをする己の鼓動を諫める。エンジェルを見ていると——何かが、狂ってしまいそうになる。
 動転しきり、エンジェルの言う言葉の何割もろくに頭に入ってこなかった。何故血の色が懐かしいのかとか、そういう、当然気にしなければいけないところも右から左に抜けていく。残るのはばくばくとうるさい心臓の音だけ。そして、舐めたそばからじわりとわきでる彼の鮮血。
 唇よりずっと鮮やかなその紅から、フレデリックは目を離すことが出来なかった。彼の身体から流れる赤い血は、ともすると恐ろしいほどに彼という存在に馴染み、よく映えている。
 自分が生唾を呑み込む音がいやに大きく聞こえて舌打ちをした。頭はエンジェルのことでいっぱいで、胸のうちに渦巻く感情につけられた名前を、まだ自覚したくはなかった。