06 It's Only A Paper Moon




※R-18描写を含みます。高校生含む18歳以下の方は閲覧をご遠慮ください。




 夏休みの最後の夜。自室は薄暗く、窓の外も明かりが少ない。そのせいで自分にまたがる人間の顔もよく見えなかったが、しかし今まさにフレデリック=バルサラという男を食い荒らしている存在が絶世の美形であることに疑いようはない。それにだ……本当のところ、彼という存在の美醜には何の意味もないのだ。はじめに気に掛かったのがその点であることは否定しない。それでも、結果は、ただ、フレデリックが焦がれた男がたまたま気が狂うほど麗しかったというだけのことに過ぎなかった。
「エンジェル……エンジェル、エンジェル……」
 手を伸ばし、背骨の浮き出た皮膚を引っ掻き、うわごとのように天使の名を呼ぶ。いや、わかっている。これは天使の名前なんかじゃない。天使の名を冠した悪魔の名前だ。でもそんなことは、彼がどれほど美しいのかということと同じくらいどうだってよかった。彼が与えてくれるものに比べればほんの些末事だったし、それよりもっと大切なことがたくさんあった。
 はじめて出会った時は、確かに、やたらに美形だなとかそんな感想を抱いた記憶がある。その次の日は、銀行強盗を撃退した彼の姿を見てどこか遠い存在のようにも思った。エンジェル=K=クロイツは、フレデリックが何一つ備えていないヒーローの条件を全て持ち合わせていた。豪胆で冷静、そして勇猛果敢。報復を恐れず己が正義と信じたものを為す。そんな彼の在り方はフレデリックにとって眩しすぎた。それに彼はちょっと信じられないくらいに天才だった。
 けれど。
 数ヶ月間を同じ家で暮らし、共に過ごす内に、それは決して彼の全てではないということを知った。買い物先のスーパーで特価品のキャベツを品定めする彼はびっくりするぐらい主婦のような手つきが堂に入っていたし、ものすごく汚いスラングが書かれたコメディの本を持って来て説明をせがむ姿はフレデリックの良心を激烈に揺すぶった。彼はヒーローの素質は全て持っていたが、かといって全知全能とはほど遠かったし、ちゃんと欠点や不得手も抱えていた。それに何より素直だ。率直に言って非常に好ましいタイプの性格をしている。
 そんな思いは、海辺のコテージから二人で抜け出したあの夜、確かになった。
「エンジェル」
 うわごとみたいに彼の名前を呼び続ける。もう殆どまともに頭が回らない。視界がちかちかする。あまりの気持ちよさに失神しそうになる。
「悪い、また、」
「ええ、いっぱいください。私のなかに」
 腰を優しく撫でられる心地の良い動きと共に許しを得て、エンジェルの柔らかい尻の穴に抱かれながらフレデリックは三度目の射精を迎えた。己の陰茎が脈打って精を吐き出すたび、エンジェルの熱い肉襞がぎゅうぎゅうに絡みつく。とろけるような至上の悦楽。頭がばかになる。それだけでいっぱいになって、真偽も善悪も何もかもが陳腐の海に沈んでいく。
 フレデリックは、覚えたての乳幼児が母親の乳を吸い上げるようにエンジェルの身体に溺れた。彼の身体はどこもかしこも気持ちが良く、フレデリックの意識を夢心地へと誘い込んだ。
「フレデリック、きもちいい?」
 細い指先が伸びかけの黒髪を梳く。灼けそうに熱い腰が彼の手つきにあわせて疼く。「ああ」フレデリックは夢見るように呟く。すごい。こんな快感は知らない。
「熱くて……やわらかくて……ずっと入れてたい……」
「ふふ。いいですよ、まだ入れていて。一回射精したら出してなんて無粋なこと、言いませんから。……それにしても、またいっぱい出ましたね。おなか……ぱんぱんになっちゃう……」
 馬乗りにまたがり、咥え込んだままの態勢でゆっくりと腹をさする。エンジェルの身体は成熟した成人男性のものだったが、腰は細く腹も薄く、本当に今この瞬間もフレデリックのいちもつを受け入れているのかと不安になるほど心許ない。
 しかし確かに、この薄く華奢な身体の中にフレデリックの全てが抱き込まれている。フレデリックの成人男性としては平均やや上ぐらいのサイズがあるものを、時間を掛け多少引っ掛かりながらとはいえ、丸ごと全て根本までぱっくりと咥えている。
 そのことに感嘆せずにはいられないが、また同時に、それはものすごくおっかないというか、恐ろしいことでもあった。こんなふうにして貰えるなんて——全てを抱きしめて貰えるなんてことを覚えてしまったら、フレデリックはこれから一生、どこかでこれと同じかそれ以上の心地よさを求めてしまうかもしれないのに。
「お前の穴は、具合が良すぎる。これで気持ちよくなるなと言うのは、もはや……拷問だ」
「そりゃあもう。私の身体は、フレデリックのかたちに沿って出来ているから。あなたが一番気持ちよくなれるように」
「まさか……」
「ふふ。どうでしょう……ね!」
 エンジェルが自ら腰を浮かし、その次の瞬間がくっと腰を落とした。最初は中がきつかったこともありゆっくりと行われていた挿入も、今やエンジェルのペースで勝手気ままにされている。自重と反動で引き抜かれたものがひといきに奥まで届く。フレデリックが届く最も深い場所に行き当たり、熱くうねる肉襞がじゅくじゅくと男性器を包み込む。
 柔らかな内壁はフレデリックの竿を一番効果的に刺激できるかたちに広がり、細やかな愛撫を繰り返した。彼の熱っぽく潤んだ身体は、抱きしめたフレデリックの全てを許した。卑近な欲望も卑俗な劣情も、彼の身体は一切を拒まなかった。全てを愛し、全てを求めた。エンジェルの身体は拒むことを知らない代わりに貪欲だった。
「ねえフレデリック、遠慮なんて要りませんから。あなたの全てを私にください。全部、はじめから終わりまで、余すことなく。中にいっぱい出して、私のお腹をあなたで満杯にして、それでもまだ足りない」
「は、この……ごうつくばりが」
「ご、ごうつくばり?! ……フレデリック、もしかして私のこと、嫌いになりました?」
「まさか。むしろもっと好きになった」
 あわあわしてほんの一瞬素の表情を見せるエンジェルが愛おしく、頬を舐めて肯定してやると彼はほっとしてフレデリックの背を撫でた。そして、すぐに淫靡な微笑みを浮かべ直すと手招きをする。
 招かれるまま腰を押し上げてやれば、脳髄を焼き尽くすように甘美な啼き声が上がった。ああ、やはり。これはサキュバスだ。男の精を喰らう夢魔。彼をそう思うことに最早迷いはない。悦楽にまみれ、情欲をたいらげることを悪ぶれず、本能のまま、フレデリックの精魂尽き果てるまでその全てを奪い尽くさんとする淫魔。
(だが、)
 フレデリックは熱に浮かされてろくに働かない頭でエンジェルの腕を引き、胸にキスをした。それで別にいい。構わないのだ。こいつになら、それでも構わない。たとえこれが、お互いに一時の気の迷いに成り果てたとしても、今この瞬間を二人で迎えられるのなら、それで全然構わない。
「おまえが俺に会いに来てくれてよかった」
 だからだろうか、知らず、そんなことを口走っていた。
 分かっている。エンジェルは別にフレデリックに会うためにオースティンへやって来たわけじゃない。それでも、この幸福な時間を骨の髄まで味わうために、彼が自分のためにはるばるこの家へ来てくれたのだと思い込みたくて仕方なかった。胸元へのキスを首筋へ移し、ひときわ強く吸い付く。エンジェルの喉が震えて感極まったような声が漏れる。天上の歌声にも勝るとも劣らぬ人を狂わす声音。それに満足して唇を離すと、吸い付いた場所に鬱血痕が残り、赤く色づいている。
「本当に……良かった……」
 赤くなった場所を再び啄み、フレデリックはとろとろした眼差しでエンジェルのあられもない裸体を舐め回すように見た。
 窓から漏れ入る月明かりだけが僅かに照らし、濃い陰影の落ちた肢体はひどくエロティックで、彼が普段見せている清楚な雰囲気とはまるで真逆だ。けれど確かにこの姿も彼という青年を構成する一要素で、だからこそこのギャップにフレデリックは翻弄されてしまう。
 海で見たセイレーンの如き横顔、宇宙センターで見たコケティッシュな微笑み。ヘミングウェイの「老人と海」を読みながらライオンの夢について論じるどこか幼い口ぶり。銀行強盗犯に向けられた冷徹な眼差し、臆面もなく天罰を言い渡した十字架を体現したかのような狂信者の瞳、そして甘ったるい鳴き声でフレデリックをたぶらかすサキュバスの囁き。まったく似通っていないこれらの要素全てが同居する、ミステリアスでアンバランスな魅力。
 ああ、なればこそ、彼に惹かれないなんてどだい無理な相談だったのだろう。ぱちゅん、ばつん、と音を立てて肉を押し入れ、フレデリックはめまいがしたままの世界にエンジェルの顔を捉える。
 エンジェル=K=クロイツという青年は恐らく全ての人類を魅了してあまりあるものを持っている。あの人見知りの気があるアリアでさえ、出会ったその日にエンジェルを気に入っていつの間にかメル友なんかやっていた。道行く全ての人は通りすがったエンジェルの姿に振り向き、彼が通い詰めていた図書館の司書は口々に読書好きの金髪美青年の噂話をしている。
 でもその中で、フレデリックは特別だ。
 キスをしてエンジェルの吐息を食べ、独り占めしたくてごくりと呑み込んだ。理由は知らないが、フレデリックは天使に選ばれた。そのはずだし、そうであってほしい。「すきなひととしかしない」セックスを彼が自ら奉じてくれたことを、都合良く解釈したい。
「ええ、私も。私はずっとあなたに会いたかった。あなたと会ってこうしたかった」
 己を貫く肉塊を食い締めながらうっそりとエンジェルが囁く。細くしなやかな両腕でフレデリックの身体を抱き、エンジェルは耳元へとろとろと言葉を流し込んだ。あなたに会えて良かった。腸壁が蠢き、ペニスを舐め回す。たくさん話して、たくさんの時を過ごして、あいしてもらえて、よかった……。
「あなたが愛した世界を知ることが出来て、本当に嬉しい」
 耳たぶを甘く噛まれ、触れるだけのキスが落ちてくる。その愛らしさに我慢が出来ず、がむしゃらに彼の内側を突き上げると、浅い絶頂を迎えて肢体がわななき、存在の全てでぎゅうとしがみついてくる。襞の動きは射精を促すような調子に変わり、盛んに精を搾り取ろうと動いた。どうも彼の身体は、小刻みに絶頂を繰り返し、射精を求めてそれと同時に一番深い場所へ辿り着くように習慣づけられているらしい。
「いいのか」
 尋ねるとエンジェルは唇を薄く開き、触れた場所の動きで秘密のメッセージを伝えてくる。気持ちよくなったら、いっぱい、出していいんですよ。何度でも。誘いは蠱惑的で甘い。とても逃れることが出来ない。
「ねえだから、ほら……奥まで……ふふ、上手に出来ましたね」
 びゅるりと派手な音を立てて、もう何度目かもわからない射精の時を迎えた。あまりにも多量の精を注がれたせいなのか、エンジェルの腹がたぷたぷと音を立ているような気がする。見せつけるようにエンジェルが再び腹をさすった。その様を見ているとまるで自分が天使を孕ませたかのような気がしてきて、あまりの背徳感に背筋を悪寒が走る。
「俺はおかしくなっちまったのかもしれない」
 ふわふわ浮ついた世界の中、急にぞっとして、フレデリックは首を振った。そうしている間も、引き抜きさえされていない陰茎はエンジェルのいやらしい喘ぎ声に喜び勇んでみるみる活力を取り戻していた。
「どうして?」
「お前の姿を見て、ひどく浅ましいことを考えた。けど俺は……」
「いいえ、いいんです、フレデリック」
「……エンジェル?」
「それでいいんです。ひとなんだから、浅ましくたって当然じゃないですか……」
 二人の身体がぴたりと密着する。手と手を触れ合わせ、肌を重ね、睦言を囁いた唇でキスを紡ぎ、穴と棒を擦り合わせる。
 触り心地のよい薄い皮膚が溶け出して己の肌に馴染む錯覚。フレデリックは不意に恐ろしくなり、エンジェルの腰を押さえつけた。そうやって確かめていなければいけないと思った。けれど同時に、これはまったく無意味な行為だという漠然とした不安にも襲われていた。やわらかくミルクのような滑らかさで、そして魂を燃しているように軽いこの肢体が明日も明後日も自分の腕の中にある保証なんか、思い返してみれば誰もしてくれてなんかいなかった。
「どうせ一夜限りの夢ならば、人生でいちばん素敵で幸せな夢を見てほしい」
 エンジェルが締め付けを強くして囁く。頭がぼうっとする。魔法のように意識に靄が掛けられていく。彼の声が耳に入ってきているはずなのに、言葉の意味が少しも理解出来ない。
「また会いましょう、フレデリック」
 フレデリックは朦朧としていく意識の中事切れるように頷いた。そんな中、もうろくに出るものもないのに、下半身にだけいやに力が籠もり、実らぬ種をしとどに吐き出した。


◇◆◇◆◇


「やることは終わった?」
 フレデリックの部屋を後にしてドアを閉じると、自分の部屋のドアに背をもたれて飛鳥が立っていた。
 ぎょっとして立ち止まると、彼がまっすぐに歩いてくる。そうして傍に寄ると目と目を合わせて臆面もなくそう尋ねてくるのだから、エンジェルは閉口してしまった。なんて底意地の悪い質問だろう。この家にはろくな防音設備もないのだから、今の今までフレデリックの部屋で行われていたことが何かなんて、訊かなくたってわかるだろうに。
「……悪趣味」
「別に聞き耳なんかたててないよ。でも君、僕に渡すものがあるだろう? 要らない手間は省いてあげようと思ったんだ」
 地を這うような声で罵ってやると、飛鳥がひらひらと手を振る。ああ、そうか、この時代でもか。エンジェルは額に手を押し当てて懊悩を深め、早々に色々なものを諦めた。二十二世紀でもそうだったが、この男は根本的な部分が何かとずれていて、フレデリック以外に何を言われてもそうそう響かないところがある。のれんに腕を押しているのと同じだ。
「……はあ。そりゃあ、確かに私はこれを渡すためにあなたを呼びに行こうと思ってはいましたがね……廊下に出てわざわざ待たれているというのは、ばつが悪いものです。こんなことをした後ですし」
「大丈夫、僕は君にこれっぽっちも興味ないから」
「あなたはフレデリック以外に興味がないんでしょう」
「アリアにもあるよ」
「……そうでしたね」
 エンジェルは「あなたの感情はわかりかねます」と息を吐き、これ見よがしに肩をすくめた。
 髪も着衣もぐちゃぐちゃに乱れていたが、エンジェルの動作はとかく美しく、憂いを帯びている。瞳には、後悔はしていないが、かといって無反省でいるわけにもいかないという几帳面さが浮かび上がり、溜め息はウィットで自己嫌悪にまみれ、歯切れも悪い。
 難儀なことだ。飛鳥は思う。心の底から同情する。だから軽い気持ちで「ともあれお疲れ様」と肩を叩いたのだが、直後、ぎょっとした顔と共に手を振り払われてしまい、飛鳥は眉を顰めた。
「ひどいな」
「私はあなたの思考回路の方がよほど気味が悪い。まったく理解出来ません。どうして平気な顔をして私に『お疲れ』なんて言えるんです。何故咎めないのですか、飛鳥=R=クロイツ。……私の行いは、あなたがひどくご執心のフレデリックとアリアの仲を引き裂き……不和を生じかねないものです。あなた、そういうものには人一倍敏感かと思っていたんですけど」
「まあね。君がアリアからフレデリックを奪おうとする猫なら、何かしたかもしれない」
「……かも?」
「でも君、はなからそんなつもりはないだろ。海へ行った時僕に言って聞かせた内容は間違いなく本物だ。僕はそれを信じていた。だから君に何かする必要は特別ない」
 口に出されてようやく何を訝しまれていたのかわかったらしく、飛鳥がぽんと手を叩いてべらべらと説明し始める。しかしどれほど飛鳥が理路整然と説明したところで、エンジェルの反応は一向に芳しくならなかった。彼は落胆しきったように肩を落とし、再び溜め息を吐いた。今度は濡れた吐息なんかでは全然なく、乾燥しきって、ただもうひたすら呆れ返っているという嫌味がたっぷり込められていた。
 しかし飛鳥にはそれが嫌味であることが知覚出来ないから、ただ自分勝手にぽんぽん話し続けるばかりだ。
「まだ説明が必要なのかな。あのね、アンジュ。先生は、君が二十二世紀の未来から来た使者だと言い切った。先生の言葉に偽りはない。あの人のなす事は善悪にかかわらず事実になる。だから君は未来からの来訪者だ。それも恐らく、未来でも僕らに何らかの形で関与している」
「……。百年以上あとの話ですよ。みんなもう死んでいます」
「抜け道を使えば、人が永久を生きる術はある。代償は伴うけれど。少なくとも先生はそれを選択するだろうし、僕やアクソスたち元老院もそうせざるを得ないはずだ。僕らは啓示と戦わねばならない。肉体を持たぬ不滅の存在である情報生命体と決着を付けねばならない。死んでる場合じゃない」
 あっさり飛鳥が言い切ると、エンジェルの薄い唇が小さく動いた。「きがくるってる」。まったくその通りだった。
「そのあたりのことを踏まえて、エンジェルはたぶん真夏の夜の夢に出てくる妖精みたいなものなんだろうな——と思ったんだけど、え、どうしたのその顔。全然違ってた?」
「いえ、まあ。間違っちゃいないんですけれど。もうじきに、私の存在はフレデリックやアリアの記憶から消えますしね。起きた時、フレデリックは私と過ごした数ヶ月の思い出を全て喪っています」
「電気でも通したの?」
「ご自分で解析でもなさっては? フレデリックの脳を取り出して電極突っ込めば、わかるかもしれませんよ」
「いや、それは出来ないな。……アンジュ、性格が悪いって言われない?」
「あなたほどではありません」
 エンジェルは目を覆う代わりに視線を逸らした。あと一秒でもこの男の顔を真正面から見続けていたら、自分が何をしでかしてしまうのか自信が持てない。
 飛鳥=R=クロイツは狂っている。恐らくは物心ついた時から。もしくは生まれたその瞬間から。だから彼は平然と友人を賭けに使った。あまつさえ愛したふたりをよかれと思って人ならざる身に堕とした。そのしわ寄せを人類に喰らわせた。そのくせ、自分の命一つでそれらの罪全てが贖えると考えた。
 吐き気がする。
 でもやはり、エンジェルが彼と同じ穴の狢であることに変わりはない。
「本当、あなたほどじゃありませんから。私も狂人の自覚はありますけれどね。あなたは度を超して重症だ。もう付ける薬もないほど」
「ものすごい言われよう」
「事実なんだから仕方ないでしょう? ……それより、これ。先生に渡しておいてください」
「……なんだい? アンプル?」
「あなたが私を待っていた理由ですよ。中身は企業秘密」
 首を振り、懐から小さなガラス瓶を取り出すと、なるべく目を合わせないまま飛鳥の手の中に押しつけた。乳白色の液体で満たされたアンプルは法術的なコーティングが為されており、「先生」謹製の解錠コードを用いない限り中を確かめることは出来ない。
 飛鳥もすぐそのことに気がついたのだろう。ふうんと不思議な顔をして小瓶を振ると、すぐに自分の懐へしまった。
 それで全ての役目を果たしきり、エンジェルは飛鳥に背を向けた。
 これでもう、この時代でやるべきことは全て終わった。過去に介入し、フレデリック=バルサラと親密になり、彼の信頼を得て大切な存在になる。そして彼からありったけの生体情報を手に入れる。遺伝子だけなら髪を一本引き抜けば良いが、「先生」の要求はもっと重い。だから時間を掛けて彼の全てに触れる必要があった。二十一世紀のアメリカでごくふつうの人間として生きていた彼の、ありったけ全てを採取せなばならなかった。しかしエンジェルはこれをやり遂げる。
 全ては、フレデリック=バルサラを完璧に殺害するために。
 エンジェルが愛した男を、地獄の中で生み堕とすために。
 廊下にスリッパの音がひたひたと響く。用が済み、お互いに背を向けて歩き出したところを、しかし不意に出されたエンジェルの声が呼び止めた。
「……飛鳥」
 己を呼ぶ声に引き戻され、歩みを止めて振り返ると、一度は向けたはずの背をぐるりと返し、エンジェルが立ち尽くしていた。薄暗い廊下の中で幽鬼のように立っている彼の足下に落ちる影は、ひどく薄い。
「最後ですから、もう一度訊いても構いませんか?」
 幽霊みたいな声でエンジェルが呟いた。
「うん、なんだい?」
「あなたが五人の使徒の中で唯一元老院の席を拒んだ理由は? 答え合わせぐらいさせてくださいよ」
 その問いかけに、飛鳥は数度の瞬きをした。
 長い前髪が窓から入り込んだ風に吹かれ、エンジェルと同じ色をした瞳が露わになる。彼は本当に驚き、きょとんとしてエンジェルのことを見つめた。それから、ふ、と微笑み、子供に諭すような顔をして人差し指を立てる。
「全部、型紙で作ったお月様だったんだ」
 そうして飛鳥は、謳うようにたったそれだけのことを告げた。
 魔法使いの告白は、どんな魔術よりも詭弁に満ちて雄弁だった。彼の声音は何よりも優しい。世界の全てに害を為す男が、世界の全てを愛おしむような声を出し、笑っている。
「僕はいつか、真っ当な人の道を踏み外す。だからこそ最後の時間を大事にしたい。僕にはアクソスたちと違って未練があった。大切な友人と過ごすなんでもない幸せを手放したくない、という未練。……僕は愛を知ってしまった。人になってしまった。これをすぐに手放すという選択は、僕には難しかった」
 エンジェルは絶句した。もはや何を言うこともエンジェルには出来なかった。飛鳥の紡ぐ一言一句が、エンジェルの予想と一つも違わない。ひとでなしが人間の愛に触れ、それをわかったような気になってしがみつく。同じだ。エンジェルは小さく呻く。同じだ。何もかもが。
「僕の見ている世界ではずっと、空は安っぽい絵の具で乱雑に塗られたキャンバスに過ぎなかったし、その上を見ても布きれの木がつり下げられてるばかりで、何もかもチープであってもなくても同じだった。昼下がりの月なんか最悪で、下手くそな図画工作と何も変わらない。ずっとそう思ってた。……二人と出会うまでは」
 ではこれが罪人の証明なのだろうか? 一人の男に人生をまるごと変えられてしまった男が謳う言葉に悪寒が走る。なんて非道いエゴイズム。身勝手な愛と信頼でやがてフレデリックを殺す男が、彼に最低最悪の嘘を吐く男が、愛を語っている。——でも。エンジェルも十二分に嘘を吐いた。エンジェル=K=クロイツには嘘しかなかった。名前も、家族関係も、年齢も、全部「先生」に与えられた嘘っぱちで、常にフレデリックを騙し続けていた。
「その瞬間型紙で作ったお月様は本物の三日月に変わり、青空は安いキャンバスではなくなった。理由なんてそのぐらいのことなんだ」
 飛鳥はそれをわかっている。
 だから臆面もなくこんな話をする。
 だからあの日、海辺で彼はこう言った。
『なんだかみんな嘘っぱちだけど、これだけは、君にもわかるんじゃないのかな』
 何もかもその通りだった。
 エンジェルもまた、一人の男に人生を丸ごと変えられた男。そして飛鳥と同じように、ひとでなしが人間の愛に触れてそれをわかったような気になっている。そのうえやがてはフレデリックを殺す。飛鳥が殺した死体を、もう二度と蘇って来ることがないように、今度こそ。
「僕の話はこのぐらい。……最後に一つ、僕も訊いていいかな?」
「……なんです」
 飛鳥の柔らかく呑気な声音に反して、エンジェルの声は冷え切って今にも泣き出しそうだった。自分がしでかしたことの重さに胃袋が全部引っ繰り返ってしまいそうだ。けれどもう立ち止まることは出来ない。エンジェルは世界を守らなければならない。自分の生まれた世界を、自分が愛する世界を、フレデリックの犠牲によって生まれる最も正しい歴史を、もうその道を選んでしまったのだから。
「君の本当の名前は、エンジェル」
 なんでもないふうに飛鳥が訊ねる。明日の朝食は? 僕はエッグベネディクトがいいな。昨晩そうやってリクエストした時とまったく同じ調子で。
「それは二十二世紀のあなたに訊くことです」
 エンジェルはただ、涙を堪えて静かに答える。
 こんなにも泣きたいのに涙一つ流すことも出来ないまま、最後の言葉を口にする。


◇◆◇◆◇


 けたたましい目覚ましの音が鳴り、八度目のベルでそれが止まる。法力の炎で炙っただけのトーストを囓りながら、飛鳥は壁に掛けられた時計を見た。午前七時十分前。秋学期の始業式にはまだ余裕で間に合う。
 それからのんびりとトーストを食べ終え、食後のコーヒーを淹れ終わった頃になって、ようやく、隣室の同居人が階下に降りてくる。家中に響くほどの爆音を鳴らし、パジャマのまま肩にバスタオルを担いでいかにも寝不足という顔で降りてきた同居人に「おはよう」と声を掛けると、彼はずかずかとこちらへ歩いてきて二つあるマグのうち片方を無造作に掴み取った。
「……はよ」
「全然聞こえないよ。すごい隈だけど、どうしたの」
「分からん……いつ寝たのかも覚えてない……。シャワー浴びてくる……」
 コーヒーをずるずると啜り、フレデリックが眠たげに言う。飛鳥は気のない相づちをうち、キッチンの上にフレデリックの分のトーストが残っていることを伝えた。フレデリックは曖昧に頷き、トースターを探してきょろりとあたりを見回す。
 それから彼は、ゆっくりと首を傾げて飛鳥の方へ向き直った。
「なんか……妙に広くなってないか? この家」
「そうかい? 昨日までと何も変わらないよ」
「……? まあ、そりゃ、そうか。昨日と今日とで急に家の面積が変わるわけないしな。でかいゴミを出したわけでも人が減ったわけでもないのに……」
 何か引っ掛かるところがありながらも一応は納得し、フレデリックは再びコーヒーマグに口を付けた。なにしろ昨晩の記憶が殆どないぐらいの見事な寝落ちをしているので、ちょっとぐらい記憶に不整合があったり違和感を覚えるのは仕方がない。どうやらフレデリックは、ふとした違和感についてそのような処理を終えたらしい。
 それを確かめ、飛鳥は空になった皿を手に取ると立ち上がった。それから、いかにも今思い出しましたという体でフレデリックに声をかける。
「ああ、そうそう。今日はちょっと放課後に寄るところがあるんだ。だから先に帰っててくれないかい?」
「始業式の帰りに用事?」
「うん。先生宛に天使の忘れ形見を預かっていてね。それでちょっと遅くなるかもしれない」
 飛鳥が朗らかにそう告げると、フレデリックはあからさまに変な顔をしたが、それ以上のことは何も訊いてこなかった。



 こうして二〇一〇年のよく晴れた秋の日、エンジェル=K=クロイツはフレデリックの記憶から完全に姿を消した。
 彼が再び歴史に姿を現すのは、それから五十五年先の冬。
 フレデリックが一度死に、名前のない復讐鬼に成り果てた、二一六五年の真夜中のことになる。