07 人に非ずとも、怪物に非ずとも
化け物に追いかけられている。
そこは無機質なリノリウムの白に支配された研究施設で、どこへ行けば逃げられるのかもわからないままひたすらに走り回っていた。化け物は様々な姿になり『俺』を追い縋る。見た目からして、多くは動物を素体にしているようだった。コンドルが肥大化した翼をはためかせているかと思えばグリズリー・ベアが異様に伸びた牙を剥き出しにして雄叫びを上げる。そのうち、グリズリーの背を突き破って無数の触手が飛び出し、暴れ始めた。悪趣味なキメラ。はっきりしているのは、どの化け物も『俺』を殺そうとしているということだけだ。
いやだ。死にたくない。生きていたい。こんな実験兵器共に惨殺されて終わりなんてまっぴらごめんだ。もつれて転びそうになるたび、己の足に叱咤を入れて走り続ける。前へ、前へ、前へ! 一秒でも早く、一インチでも遠く、ここではない場所へ!
そうしてどれだけ走り続けただろう。疲労し続ける肉体を引き摺って逃げる『俺』の足を止めたのは、乾いた発砲音。再起の日以来単純所持を禁じられたはずの銃が弾を発し、『俺』の額を穿とうとしたのだ。『俺』はついに立ち止まり、振り返った。ガラス窓の向こうに見慣れた男が立っている。背が低いやせっぽちの白髪。『俺』の親友。そいつが、『俺』に向かって人殺しの道具を突きつけている。
「さよならだ」
無機質な声に重なるように、再びの発砲音。執拗な銃声。ばかやろう、銃なんかろくに撃ったこともないくせに。銃弾は正確無比に『俺』の右手を狙う。直撃により態勢を崩し、支えを失った身体が、一時の浮遊感の後奈落へ落ちていく。
『俺』は叫んだ。穴の向こう、はるかかなたへ遠ざかっていく友だった男へありったけの力を込めて叫んだ。
「なぜだ!!」
「なぜかって? 決まってる。君が化け物だからだ」
すると冷徹な声だけが穴ぐらの底へ落ちてくる。『俺』は床に尻餅をつき、起き上がった。その途端すぐ背後に強い殺意を感じ、咄嗟に振り返る。
まだ追っ手が? 次は何の化け物だ? とうとう、恐竜やドラゴンでも出すつもりか。やけっぱちの思考で薄ら笑いながら顔を向けた『俺』の視界に映ったのは、しかしそのどれでもない。
「化け物」
そこには人間の男がいた。
散髪をさぼったせいでぼさぼさの黒髪によれた白衣、手には真っ赤に刃が塗られたマスターキー。××××××。オースティンで生まれ育った、人よりちょっと頭がよかっただけの科学者の男。
ああ、『俺』は、そいつをよく知っている。でも何故? 『俺』は思わず後ずさった。逃げようとする『俺』に、××××××が斧を振り上げる。それから××××××は震える身体で俺を睨み付け、そして——
「——この、化け物が!!」
怯えきった瞳で『俺』を糾弾した。
『俺』は言葉に出来ない苦しみに藻掻き、口を覆うために手を持ち上げた。しかしそこで気がついてしまう。己の手が、ひとの形をしていない。
両手とも、いや付け根から繋がる腕も何もかもが、およそ人のものとはかけ離れたかたちをしている。それはごつごつとした隆起を持ち、皮膚は真っ赤に腫れ上がり、びっしりと鱗に覆われ、爪は鋭く獲物を屠るのに適した形をしていた。『俺』は青ざめた。これはなんだ。これでは本当に、『俺』が化け物みたいじゃないか。『俺』が、恐竜やドラゴンにでもなったみたいではないか。
そしてふと刃物を振りかぶる青年を見つめ直し、絶句する。
……ああ、なんてことだ。
××××××のことを見知っているのは、当然のことだった。××××××は『俺』と同じ顔をした人間だった。正確には、『俺』が過去に喪ったひとの姿をしていた。では『俺』はなんだ。化け物の意識を懊悩が苛む。最早『俺』は××××××ではない、だとしたら一体、何者なのだ——
「……ああ、」
弾かれるように飛び起き、ぐっしょりと濡れた顔を右手で拭う。徐々にピントが合い、ぼやけた視界がクリアになった。冷や汗を拭った手のひらは、ごついなりをしてはいるが確かにひとのかたちをしている。
「大丈夫か」
隣で眠っていたはずのエンジェルが、両目をぱちりと開けて気遣わしげにこちらを見ていた。男は緩慢に首を振り、「大丈夫だ」と覇気のない声を返した。
「いつものやつだ。大したことじゃない」
「では、また悪夢か? ここのところ殆ど毎晩じゃないか。参ったな、私は医者ではないから、薬も出せないし」
「平気だっつってんだろ。こんな場所で寝起きしてりゃ、夢見が悪くなって当然だ。仕方ねえよ」
「……ということは、悪夢の責任はこの場所を提案した私にあるのかな」
「んなわけあるか。こういうのは元の持ち主が十割悪いと相場が決まってる」
エンジェルが本当に気まずそうに言うので、男はいっそ空々しいくらい冗談めいて嘯いてやる。彼は一瞬それに微妙な顔をして見せたが、すぐに顔色を改めて起き上がり、「おまえがそう言うなら……」と不承不承頷いた。
かつての親友に裏切られ、名前を失い、潜伏の時を過ごして四十九年。西暦二〇六五年に各地のギアを狩り始めて以来、いつしか男は「ギア狩りバッドガイ」と呼ばれ恐れられるようになった。派手な研究所襲撃のニュースが報じられる度に誰からともなく言われ初め、いつの間にか定着していた「バッドガイ」という名は、今や子供の寝物語に出てくる悪役に抜擢されるほど知れ渡っているのだという。
(ギア以外に用はねえんだがな)
まあ、八年間も世界中で大規模な襲撃事件を起こし続けているのにちっとも捕まらないのだから、人々の恐怖を煽るのは致し方ない。それにこれでいてなかなか、「バッドガイ」という名前は気に入っている。子供の頃から大ファンだったロックミュージシャンのニックネームもまた、「バッドガイ」だったからだ。
さてそんな男だが、実は最近何度目かわからない引っ越しを経て、スイスはマッターホルンの中腹に腰を落ち着けていた。今までは目当ての研究所を襲いギアを殺し尽くしたら別の土地に逃亡していたが、今回はしばらく夜逃げの予定もない。というのもここにはギアを破壊しに来たわけではないからである。このへんぴな場所に作られた設備は、かつてギアメーカーが用いていたラボの一つなのだ。
とうとうオラトリオ聖人が完成した男には、これを射出する装置の作成と起動実験を行う必要があった。しかし生半可な設備ではこの遂行は難しい。専門的な機器はどうしても必要になるし、街中で無限エネルギーの射出実験なんかやれば一発で怪しまれてしまう。その点、マッターホルンに密かに建造され、しかも中が綺麗なまま廃棄されていたこのラボはうってつけの物件だった。ゆえに男は三日間の熟慮を経て、あらゆる溜飲を呑み込み、エンジェルの提案を受け入れてここを当面のねぐらに決める。それが先々月のことだ。
「このラボは、ギアメーカーが廃棄してけっこう経つはずなんだが。それでも匂いとか、残っているのか」
「いや、別に残り香とかに反応してるわけじゃねえからな」
「ならいいんだが……」
呆れたように言ってやると、エンジェルは小さく唸った。六十三年前に忽然と姿を消し、八年前に突如として再び男の前に現れたこの青年は、男が変わり果ててしまったことと対照に何一つ変わりない姿を保っている。蜂蜜色の艶やかな長髪、見る者を惑わす深い海の双眸、そして白くなめらかな肢体。あの輝ける日々からそっくりそのままタイムスリップしてきたようなこの青年は、男が本当のことを訊ねると、いつも「私は未来人だから」とまじめくさって言うのだった。
だから、一応、男の中では「彼は二十二世紀の使者である」ということになっている。けれどそれ以上のことは特に知ろうとも思わない。極論、今の男にとって、エンジェルが本当に未来からやって来たのかとか、それとも過去から飛び出してきたのかとか、そもそも何故あの夏の日に存在ごと消えてしまったのか——とか、そういうことはあまり重要な情報ではない。大切なのは、エンジェルが自分のそばにいる限り、男にとって有用な存在であり続けること。ギア狩りの手伝いをし、日々の生活をサポートし、男の役に立ち続けているのなら……それ以外の全ては不問だ。
そしてこの八年、エンジェルは男が求める全てを満たし続けた。彼は男の殺戮を咎めず、復讐を諭さなかった。彼は常に心地の良い気分を男に提供し続けた。もしかしたら、エンジェルは男に惚れているのかもしれない。だとしたらこんなに好都合なこともない。何しろ、セックスにおいてエンジェルの果たす役割も馬鹿に出来ないほど大きいのだ。
「俺が反応するのはテメェの残り香だけだ、エンジェル」
「おまえ、それはな、そんな自信満々の顔をして言う事じゃない」
「顔だけじゃねえぞ」
「う、うん? …………ッ!! お、おまえ、ば、馬鹿か!! 下も自信満々にして言うな、この、けだもの!!」
「そりゃあ俺は化け物だからな、けだものには違いあるまい」
くつくつと喉を鳴らして笑えば、エンジェルが顔を赤くしてむくれる。そう、セックスは大事だ。今や変わり果てたモンスターとなった男は、常に抗えぬ強い衝動に苛まれている。何かを壊して壊して殺してやりたいという獰猛な獣の性、それに伴う強烈な性欲。しかしこの性欲は破壊欲に直結しているから、一人で自慰をしていてもなかなかおさまるものではない。それに常軌を逸して酷く凶暴だ。最中に柔らかい肉を喰らい、咀嚼し、嚥下してしまいたいと思ったことだって一度や二度ではない……。
しかしそれも、エンジェルを相手にしている限り心配無用だ。エンジェルは突出した法術の使い手であり、とりわけ、ギアによく効く拘束術式の達人だった。しかも男を受け入れることに慣れていて、ギア化して肥大化した男のものも平然と咥え込むし、その状態のまま法術でお仕置きをしてくることさえある。
とにかく、彼が相手なら大体のことはどうにかなるのであった。ついでに言えば、男が要求する大抵のプレイに迷いつつ応えてくれるくせして気持ちはいつまでも高潔なまま……というギャップがものすごく良くて、男はエンジェルをたいそう気に入っていた。
「けだものの流儀は肌に合わねえか、天使殿」
にやついた笑みと共に頬をなぞると、ぷいと顔を背けられる。昨晩も普通に性交渉を持ったあとなので、起きてまた盛るというのは、性格的に気が咎めるのだろう。彼は目を逸らしたまま、悪戯を目論む男の腕をぱんとはね除ける。
「私のことを天使なんぞと言うな」
それから不機嫌そうに小さく呟いた。またか。いつもの発作だ。男はやれやれと首を振り、大仰に肩をすくめて見せる。
「テメェがそう名乗ってんだろうが」
「その含みのある言い方は好きじゃない。私は……ただの化け物だよ。おまえと同じ、人を殺すことをなんとも思わない、殺人鬼だ。誰かの命を奪うことに躊躇いもない。物心ついた時から」
「またその話か。好き者だな、テメェも大概。本当のモンスターなんていうのは、自分がミンチにした肉塊に毛ほどの感慨も抱かねえもんだ。俺は同族
殺しを後悔したことなんか一度もないね」
昂ぶった腰を押しつけ、うなじに噛み付く。じゃれ合う程度のスキンシップ。本気でやるつもりがないとすぐ気付いたらしく、エンジェルは甘んじて男の悪戯を受け止める。
やがて犬歯が食い込んだ場所からたらたらと赤い血が流れ初めても、エンジェルはやめろと言わなかった。代わりに、「そんなに私の血がうまいか?」と不思議そうに尋ねてくる。男は頷いた。人間の血の良し悪しなんか知ったことではないが、エンジェルの血がそこらの酒より旨いのは確かだ。
「俺にとっちゃ、最高の馳走だ。たまらなくぞくぞくする。何せ世界で一番心優しい天使の血ときた」
「世界で一番心優しい? 私が? なぜ」
「俺みてえな化け物に心からの愛を囁くからさ。お伽話と違って野獣が王子に戻ったりするわけでもねえのに」
本気で言っているのだが、エンジェルはどうもこのウィットに富んだ台詞がお気に召さなかったらしい。彼は複雑な顔をし、眉根を寄せ、むう……と目を細めた。目つきがすごく悪い。それでもかわいいけれど。ベッドの上で組み敷かれ、蕩けた瞳でおねだりをする時と同じぐらい、どんな彼も愛おしい。
「でも本当は、人間に戻らなくたって野獣は心優しいままなんだ」
そんな男の心境など知ったふうもなく、エンジェルは窓の外に向かって独り言みたいに呟いた。
◇◆◇◆◇
備蓄の食料が心許なくなってきたのと人に会う約束とを兼ね、この日の午後は人里に下った。いや、約束の相手を「人」と呼ぶのはいささか語弊がある。相手は異種、それも最上位の吸血鬼。人間だった頃はびたいち信じちゃいなかったが、この手のもののけというものは本当に実在していたらしい。
「本当に私も同行しなくていいんだな」
両手にいっぱいの生活雑貨を持ったエンジェルが上目遣いに伺ってくる。チャーミングな視線に「やっぱり来てくれ」と言いかけそうになるのをぐっと堪え、男は首を横へ振った。今日ばかりはエンジェルが来ると困る。彼が記している人類俯瞰史がそろそろ佳境に差し掛かり、今日はある男がギアを憎むようになったいきさつを語らされる予定だったのだ。
「あのジジイ、どうも最近、ルポルタージュに凝ってるらしくてな。俺のことを根掘り葉掘り聞き出すのに、テメェは邪魔だろうと。どうも気を遣ってるらしい」
「ああ、前に彼がエリプマーブス手記とか言っていたやつ」
そのあたりを素直に白状すると、エンジェルは得心がいったというふうに頷いた。
「まあ……そうだな。確かに、おまえが私に隠し事をしながらでは、面白い話も出てくるまい」
「本当にな。しかし、エリプマーブス手記、なあ。言いづれえ。あいつのセンス、多少はどうにかなんねえのか」
「そうか? 私は悪くないと思うけれど。『ヴァンパイア・S』のアナグラムというのは、いささか素直にすぎる気もするけどね」
「そういうとこが嫌なんだよ。なのにあのジジイ、『君と話す際に不便だから、近々名を贈ろうと思っているのだがね』とか言い出す始末だ。俺としちゃ、どんなクソ寒い名前を付けられるか今から戦々恐々ってわけだな」
おちゃらけて言ってみると、エンジェルは「いいじゃないか」と真面目な顔をして返してくる。とたんにしらけてしまい、男はごきごきと首を鳴らすついでに周囲を見回した。ごつい大男と目を惹く美人の組み合わせなので、麓に降りると衆人環視の注目を集めてしまうのはいつものことなのだが、今日はその中に勝手の違う視線が混じっている。
「じゃあ、あとでな」
「え? ああ、なるほど。わかった」
その意味に気付いた男は急に手を振り、さっさとエンジェルを追い払った。エンジェルは一瞬呆気にとられたような顔をしたが、すぐに真意を悟って男から離れ、街角の人混みへ消えて行く。
なにかと目を惹くエンジェルがいなくなったことで、人々の注目が男から逸れる。程なくして、入れ替わるようにして人ならざる者の気配が男の隣に現れた。
「——おや。歓談はもういいのかね」
「ねぐらに帰りゃいくらでも出来る。それよか、いやに早いお出迎えだな、スレイヤー」
忍び寄ってきた気配の正体こそ、異種の中の異種、この世に生き残った最後の吸血鬼が放つものだった。スレイヤーと呼ばれた壮年の男は微笑を浮かべるとパイプを吹かし、仰々しく肩をすくめて見せる。
「ああ、昨晩、今にも世を儚みそうなお嬢さんに血を分けて貰えてね。今日はすこぶる調子がいい。すると寝ているのにも飽きてしまい、こうして迎えに来たわけだな」
「は、テメェの従者か死体になるかわいそうな女がまた一人増えたってわけか。早く不老不死のパートナーでも見つけろよ、ジジイ」
「ふむ。いるのなら、是非出会いたいものだ。君のエンジェルのような女性がいつか私の前に現れることを願うばかりだよ」
スレイヤーは冗談めかして嘯き、ふわりと赤いマントを広げて男を自らの屋敷へ誘った。
雑踏をひたすらに掻き分け、町外れの教会までやってきたところでやっと人混みから解放され、エンジェルは買い物袋をベンチに置くと大きく息を吐いた。日曜礼拝もすっかり終わった後で、教会の中にはほとんど人影もない。中詰めの神父ぐらいはいるだろうが、軽く防音結界を張れば話し声も聞かれずに済むだろう。
エンジェルは展開されっぱなしの魔法陣を再度可視化し、耳元へ当てるとおもむろに口を開いた。
「……飛鳥? 聞いていましたね。しばらく、彼は戻ってきませんよ」
そうして彼が口にしたのは、名前を棄てた男が復讐を誓い、いつの日か殺してやると心に決めた人間のものだ。「ギアメーカー」という名で呼ばれるようになって久しい彼は、今やギア細胞研究の陣頭指揮を執る代表責任者であり、のほほんと大学に通っていた頃の甘ったるい夢を失って久しい。行動範囲を制限され、国籍も抹消され、アメリカ政府と国軍から自由の全てを剥奪されている彼に連絡を取ろうなどとは、誰も夢にも思わないことだろう。
ただしそれは、エンジェルを除いてのことだ。
『ああ、了解した。ラボの使い心地はどう?』
「まあまあと言ったところですね。物資の収納スペースが少なすぎる。あとは、雪山の中腹なんてへんぴな場所にあるせいで配送サービスの対象外になっているのが少々ネックかな」
『そのへんは勘弁してほしいかな……。あそこ、けっこうな額を設備投資に使ってたから、軍部に廃棄を認めさせるのにすごく骨を折ったんだよ』
「あなたの骨なんか何本折れたところで私には関わりがありませんね」
ぴしゃりと言い棄て、エンジェルは溜め息を吐いた。ぐさぐさと言われている割に応えていないというか、逆にはしゃいでいるところのある飛鳥の声にちょっと辟易しているのだった。ちなみに、ドクターとか主任とかしか呼んでもらえなくなって久しい中、エンジェルだけが本名で呼んでくれるので嬉しくなってしまう……というのが彼の弁である。
『あのラボが使えれば、アウトレイジの製作も随分捗るだろう。軍は、何かが起こらない限りそこに辿り着けないようにしておくし。まあ逆に、要請さえもらえればすぐにでも一個小隊を送り込めるんだけどね』
「そんな要請、するとは思えませんけど」
『どうかなあ。アウトレイジが出来たら、もう潮時だろう。ミッションコンプリートの手助けぐらいは出来ると思うよ』
「はあ、まあ、考えてはおきましょう」
エンジェルが気のない返事をすると、飛鳥も特になんでもなさそうにふうんと喉を鳴らして返事をする。彼はすぐさま軽い調子で「それにしても」と話題を転換した。ミッションコンプリートの条件、つまりエンジェルがこの時代で為さねばいけない最終目標が何なのかを飛鳥は先生から聞き知っていたが、それは今この場で掘り返すべき内容ではない。いずれ嫌でも彼自身が思い知ることだ。
『それにしても、この遣り取りにも随分慣れてきたな。一番最初に君が通信入れて来た時は、本当にびっくりしたんだけどね。だって交換手も通さずに個人回線直結だったし。アンジュ、知ってる? 実は僕、存在自体が特A級秘密事項に抵触してるんだ。いまどき僕に法力通信なんか飛ばしてくるやつ、君しかいないよ』
「まったく、六十三年前にフォンナンバーを聞き出して直結通信のやり方を教えたのは何のためだと思ってるんですか。フォンナンバーなんていうのは、結局のところ個人の生体法紋を一律暗号化した数字の羅列ですからね。それさえわかっていれば、受け手が生きてコールに出る気がある限り、通信が繋がります。軍の秘密回線なんかより余程信頼出来るホットラインですよ」
『うーん。君の先見の明、ちょっと未来予知じみてるよね。ああいや、未来人なんだから当たり前か……』
通話先の声がどんどん独り言めいたトーンになっていく。ぶつぶつした呟きが原因究明を求め始める前に口を挟み、エンジェルは話題を誘導した。
「アリアはどうしていますか」
『——! ああ、うん。そうだった。本題はそっちだったよね』
誘導の効果は覿面だった。飛鳥は一瞬で現実に戻って来て、六十三年前の夜と同じようにひとりでにぺらぺらと喋り始める。
『ユノの天秤は、依然として調整段階のままだ。あと数年はかかるな。背徳の炎の時はぶっつけ本番だったから賭けに出るしかなかったけれど、今回は時間の余裕がある。必ずアリアに適合するようにしてからじゃないと移植できない』
その返答にエンジェルはほっと胸を撫で下ろした。
ここまでは、エンジェルが聞き出した歴史の通りに動いてきた。願わくばこれからもそうであってほしい。オラトリオ聖人が先日やっと完成したばかりで、アウトレイジはおろか神器なんか構想すらまだ存在していない。しかしそれでは困る。正しい歴史を導くためには、アリアが狂い、聖戦が始まるより早くアウトレイジが完成している必要があるのだ。
しかしそれにしても、いつ聞いてもぞっとしない話だ。この男がまともな神経をしていると思ったことなんかないが、彼のしでかす綱渡りは世界規模なので尚のことたちが悪い。
「その話を聞く度思うんですけど、もし彼が適合しなかったらどうするつもりだったんですか」
『それはその時さ。そもそも、種が適合しなかったらアダムが暴走して世界ごと終わってたかもしれないし。フレデリックが死ぬか、フレデリックがトリガーになってみんな死ぬか、どっちかだったんじゃないかな』
「ああ、まあ、暴走した背徳の炎がユノの天秤に接続すれば、絶対確定世界が起こりますからね。現行人類はこれによる情報負荷に耐えきれない。よくもまあやってくれたものですよ……」
飛鳥があまりにあっけらかんと言ってのけるので、エンジェルには最早溜め息を吐くことしか出来なかった。善意からなる悪が最も恐ろしいということを、この男はきっと生涯理解し得ないだろう。そういう回路が積まれていれば、友人を生体兵器に改造し、あまつさえ司令塔機能を積んだりなんておぞましいことはとても出来まい。
『でも僕は、賭けに勝つ自信はあったよ。だって君、未来から来たんだろう? 未来人がいるということは、人類は存続しているということだ。たとえそれがどんな形だったとしても』
「私が信じられないと謗っているのは、友人を賭けに使うその性根ですよ」
『え、したことないの? 君が? 人生の半分ぐらい、何かをベットしてそうな顔してるのに?』
一切の情けも容赦もなく罵ってやっているというのに、通話先から聞こえてくる声は相変わらずふわふわ浮ついている。現実を見ろと言ってやりたい気持ちをぐっと堪え、エンジェルは忍耐強く彼の話に付き合った。言ったって疲れるだけだ。それに人生の半分ぐらいベットし続けているというのもあながち嘘ではない。
幼く、戦禍の最中にいた頃、確かにエンジェルは常に命を賭け続けていた。あの無法者が現れて馬鹿阿呆と罵られるまで、己の命とはそういう使い方をするものだと信じていたぐらいだ。
「私は自分の命以外ベットしない主義です」
『……。君の方がよほど病的だよ、アンジュ』
「戦中育ちの人間なんてみんなそんなものですよ」
すると飛鳥に気遣うような溜め息を吐かれる。
なかなかに腹立たしかったが、エンジェルが病人であることもまた、嘘だと言い切ることは出来なかった。
そこは無機質なリノリウムの白に支配された研究施設で、どこへ行けば逃げられるのかもわからないままひたすらに走り回っていた。化け物は様々な姿になり『俺』を追い縋る。見た目からして、多くは動物を素体にしているようだった。コンドルが肥大化した翼をはためかせているかと思えばグリズリー・ベアが異様に伸びた牙を剥き出しにして雄叫びを上げる。そのうち、グリズリーの背を突き破って無数の触手が飛び出し、暴れ始めた。悪趣味なキメラ。はっきりしているのは、どの化け物も『俺』を殺そうとしているということだけだ。
いやだ。死にたくない。生きていたい。こんな実験兵器共に惨殺されて終わりなんてまっぴらごめんだ。もつれて転びそうになるたび、己の足に叱咤を入れて走り続ける。前へ、前へ、前へ! 一秒でも早く、一インチでも遠く、ここではない場所へ!
そうしてどれだけ走り続けただろう。疲労し続ける肉体を引き摺って逃げる『俺』の足を止めたのは、乾いた発砲音。再起の日以来単純所持を禁じられたはずの銃が弾を発し、『俺』の額を穿とうとしたのだ。『俺』はついに立ち止まり、振り返った。ガラス窓の向こうに見慣れた男が立っている。背が低いやせっぽちの白髪。『俺』の親友。そいつが、『俺』に向かって人殺しの道具を突きつけている。
「さよならだ」
無機質な声に重なるように、再びの発砲音。執拗な銃声。ばかやろう、銃なんかろくに撃ったこともないくせに。銃弾は正確無比に『俺』の右手を狙う。直撃により態勢を崩し、支えを失った身体が、一時の浮遊感の後奈落へ落ちていく。
『俺』は叫んだ。穴の向こう、はるかかなたへ遠ざかっていく友だった男へありったけの力を込めて叫んだ。
「なぜだ!!」
「なぜかって? 決まってる。君が化け物だからだ」
すると冷徹な声だけが穴ぐらの底へ落ちてくる。『俺』は床に尻餅をつき、起き上がった。その途端すぐ背後に強い殺意を感じ、咄嗟に振り返る。
まだ追っ手が? 次は何の化け物だ? とうとう、恐竜やドラゴンでも出すつもりか。やけっぱちの思考で薄ら笑いながら顔を向けた『俺』の視界に映ったのは、しかしそのどれでもない。
「化け物」
そこには人間の男がいた。
散髪をさぼったせいでぼさぼさの黒髪によれた白衣、手には真っ赤に刃が塗られたマスターキー。××××××。オースティンで生まれ育った、人よりちょっと頭がよかっただけの科学者の男。
ああ、『俺』は、そいつをよく知っている。でも何故? 『俺』は思わず後ずさった。逃げようとする『俺』に、××××××が斧を振り上げる。それから××××××は震える身体で俺を睨み付け、そして——
「——この、化け物が!!」
怯えきった瞳で『俺』を糾弾した。
『俺』は言葉に出来ない苦しみに藻掻き、口を覆うために手を持ち上げた。しかしそこで気がついてしまう。己の手が、ひとの形をしていない。
両手とも、いや付け根から繋がる腕も何もかもが、およそ人のものとはかけ離れたかたちをしている。それはごつごつとした隆起を持ち、皮膚は真っ赤に腫れ上がり、びっしりと鱗に覆われ、爪は鋭く獲物を屠るのに適した形をしていた。『俺』は青ざめた。これはなんだ。これでは本当に、『俺』が化け物みたいじゃないか。『俺』が、恐竜やドラゴンにでもなったみたいではないか。
そしてふと刃物を振りかぶる青年を見つめ直し、絶句する。
……ああ、なんてことだ。
××××××のことを見知っているのは、当然のことだった。××××××は『俺』と同じ顔をした人間だった。正確には、『俺』が過去に喪ったひとの姿をしていた。では『俺』はなんだ。化け物の意識を懊悩が苛む。最早『俺』は××××××ではない、だとしたら一体、何者なのだ——
「……ああ、」
弾かれるように飛び起き、ぐっしょりと濡れた顔を右手で拭う。徐々にピントが合い、ぼやけた視界がクリアになった。冷や汗を拭った手のひらは、ごついなりをしてはいるが確かにひとのかたちをしている。
「大丈夫か」
隣で眠っていたはずのエンジェルが、両目をぱちりと開けて気遣わしげにこちらを見ていた。男は緩慢に首を振り、「大丈夫だ」と覇気のない声を返した。
「いつものやつだ。大したことじゃない」
「では、また悪夢か? ここのところ殆ど毎晩じゃないか。参ったな、私は医者ではないから、薬も出せないし」
「平気だっつってんだろ。こんな場所で寝起きしてりゃ、夢見が悪くなって当然だ。仕方ねえよ」
「……ということは、悪夢の責任はこの場所を提案した私にあるのかな」
「んなわけあるか。こういうのは元の持ち主が十割悪いと相場が決まってる」
エンジェルが本当に気まずそうに言うので、男はいっそ空々しいくらい冗談めいて嘯いてやる。彼は一瞬それに微妙な顔をして見せたが、すぐに顔色を改めて起き上がり、「おまえがそう言うなら……」と不承不承頷いた。
かつての親友に裏切られ、名前を失い、潜伏の時を過ごして四十九年。西暦二〇六五年に各地のギアを狩り始めて以来、いつしか男は「ギア狩りバッドガイ」と呼ばれ恐れられるようになった。派手な研究所襲撃のニュースが報じられる度に誰からともなく言われ初め、いつの間にか定着していた「バッドガイ」という名は、今や子供の寝物語に出てくる悪役に抜擢されるほど知れ渡っているのだという。
(ギア以外に用はねえんだがな)
まあ、八年間も世界中で大規模な襲撃事件を起こし続けているのにちっとも捕まらないのだから、人々の恐怖を煽るのは致し方ない。それにこれでいてなかなか、「バッドガイ」という名前は気に入っている。子供の頃から大ファンだったロックミュージシャンのニックネームもまた、「バッドガイ」だったからだ。
さてそんな男だが、実は最近何度目かわからない引っ越しを経て、スイスはマッターホルンの中腹に腰を落ち着けていた。今までは目当ての研究所を襲いギアを殺し尽くしたら別の土地に逃亡していたが、今回はしばらく夜逃げの予定もない。というのもここにはギアを破壊しに来たわけではないからである。このへんぴな場所に作られた設備は、かつてギアメーカーが用いていたラボの一つなのだ。
とうとうオラトリオ聖人が完成した男には、これを射出する装置の作成と起動実験を行う必要があった。しかし生半可な設備ではこの遂行は難しい。専門的な機器はどうしても必要になるし、街中で無限エネルギーの射出実験なんかやれば一発で怪しまれてしまう。その点、マッターホルンに密かに建造され、しかも中が綺麗なまま廃棄されていたこのラボはうってつけの物件だった。ゆえに男は三日間の熟慮を経て、あらゆる溜飲を呑み込み、エンジェルの提案を受け入れてここを当面のねぐらに決める。それが先々月のことだ。
「このラボは、ギアメーカーが廃棄してけっこう経つはずなんだが。それでも匂いとか、残っているのか」
「いや、別に残り香とかに反応してるわけじゃねえからな」
「ならいいんだが……」
呆れたように言ってやると、エンジェルは小さく唸った。六十三年前に忽然と姿を消し、八年前に突如として再び男の前に現れたこの青年は、男が変わり果ててしまったことと対照に何一つ変わりない姿を保っている。蜂蜜色の艶やかな長髪、見る者を惑わす深い海の双眸、そして白くなめらかな肢体。あの輝ける日々からそっくりそのままタイムスリップしてきたようなこの青年は、男が本当のことを訊ねると、いつも「私は未来人だから」とまじめくさって言うのだった。
だから、一応、男の中では「彼は二十二世紀の使者である」ということになっている。けれどそれ以上のことは特に知ろうとも思わない。極論、今の男にとって、エンジェルが本当に未来からやって来たのかとか、それとも過去から飛び出してきたのかとか、そもそも何故あの夏の日に存在ごと消えてしまったのか——とか、そういうことはあまり重要な情報ではない。大切なのは、エンジェルが自分のそばにいる限り、男にとって有用な存在であり続けること。ギア狩りの手伝いをし、日々の生活をサポートし、男の役に立ち続けているのなら……それ以外の全ては不問だ。
そしてこの八年、エンジェルは男が求める全てを満たし続けた。彼は男の殺戮を咎めず、復讐を諭さなかった。彼は常に心地の良い気分を男に提供し続けた。もしかしたら、エンジェルは男に惚れているのかもしれない。だとしたらこんなに好都合なこともない。何しろ、セックスにおいてエンジェルの果たす役割も馬鹿に出来ないほど大きいのだ。
「俺が反応するのはテメェの残り香だけだ、エンジェル」
「おまえ、それはな、そんな自信満々の顔をして言う事じゃない」
「顔だけじゃねえぞ」
「う、うん? …………ッ!! お、おまえ、ば、馬鹿か!! 下も自信満々にして言うな、この、けだもの!!」
「そりゃあ俺は化け物だからな、けだものには違いあるまい」
くつくつと喉を鳴らして笑えば、エンジェルが顔を赤くしてむくれる。そう、セックスは大事だ。今や変わり果てたモンスターとなった男は、常に抗えぬ強い衝動に苛まれている。何かを壊して壊して殺してやりたいという獰猛な獣の性、それに伴う強烈な性欲。しかしこの性欲は破壊欲に直結しているから、一人で自慰をしていてもなかなかおさまるものではない。それに常軌を逸して酷く凶暴だ。最中に柔らかい肉を喰らい、咀嚼し、嚥下してしまいたいと思ったことだって一度や二度ではない……。
しかしそれも、エンジェルを相手にしている限り心配無用だ。エンジェルは突出した法術の使い手であり、とりわけ、ギアによく効く拘束術式の達人だった。しかも男を受け入れることに慣れていて、ギア化して肥大化した男のものも平然と咥え込むし、その状態のまま法術でお仕置きをしてくることさえある。
とにかく、彼が相手なら大体のことはどうにかなるのであった。ついでに言えば、男が要求する大抵のプレイに迷いつつ応えてくれるくせして気持ちはいつまでも高潔なまま……というギャップがものすごく良くて、男はエンジェルをたいそう気に入っていた。
「けだものの流儀は肌に合わねえか、天使殿」
にやついた笑みと共に頬をなぞると、ぷいと顔を背けられる。昨晩も普通に性交渉を持ったあとなので、起きてまた盛るというのは、性格的に気が咎めるのだろう。彼は目を逸らしたまま、悪戯を目論む男の腕をぱんとはね除ける。
「私のことを天使なんぞと言うな」
それから不機嫌そうに小さく呟いた。またか。いつもの発作だ。男はやれやれと首を振り、大仰に肩をすくめて見せる。
「テメェがそう名乗ってんだろうが」
「その含みのある言い方は好きじゃない。私は……ただの化け物だよ。おまえと同じ、人を殺すことをなんとも思わない、殺人鬼だ。誰かの命を奪うことに躊躇いもない。物心ついた時から」
「またその話か。好き者だな、テメェも大概。本当のモンスターなんていうのは、自分がミンチにした肉塊に毛ほどの感慨も抱かねえもんだ。俺は
昂ぶった腰を押しつけ、うなじに噛み付く。じゃれ合う程度のスキンシップ。本気でやるつもりがないとすぐ気付いたらしく、エンジェルは甘んじて男の悪戯を受け止める。
やがて犬歯が食い込んだ場所からたらたらと赤い血が流れ初めても、エンジェルはやめろと言わなかった。代わりに、「そんなに私の血がうまいか?」と不思議そうに尋ねてくる。男は頷いた。人間の血の良し悪しなんか知ったことではないが、エンジェルの血がそこらの酒より旨いのは確かだ。
「俺にとっちゃ、最高の馳走だ。たまらなくぞくぞくする。何せ世界で一番心優しい天使の血ときた」
「世界で一番心優しい? 私が? なぜ」
「俺みてえな化け物に心からの愛を囁くからさ。お伽話と違って野獣が王子に戻ったりするわけでもねえのに」
本気で言っているのだが、エンジェルはどうもこのウィットに富んだ台詞がお気に召さなかったらしい。彼は複雑な顔をし、眉根を寄せ、むう……と目を細めた。目つきがすごく悪い。それでもかわいいけれど。ベッドの上で組み敷かれ、蕩けた瞳でおねだりをする時と同じぐらい、どんな彼も愛おしい。
「でも本当は、人間に戻らなくたって野獣は心優しいままなんだ」
そんな男の心境など知ったふうもなく、エンジェルは窓の外に向かって独り言みたいに呟いた。
◇◆◇◆◇
備蓄の食料が心許なくなってきたのと人に会う約束とを兼ね、この日の午後は人里に下った。いや、約束の相手を「人」と呼ぶのはいささか語弊がある。相手は異種、それも最上位の吸血鬼。人間だった頃はびたいち信じちゃいなかったが、この手のもののけというものは本当に実在していたらしい。
「本当に私も同行しなくていいんだな」
両手にいっぱいの生活雑貨を持ったエンジェルが上目遣いに伺ってくる。チャーミングな視線に「やっぱり来てくれ」と言いかけそうになるのをぐっと堪え、男は首を横へ振った。今日ばかりはエンジェルが来ると困る。彼が記している人類俯瞰史がそろそろ佳境に差し掛かり、今日はある男がギアを憎むようになったいきさつを語らされる予定だったのだ。
「あのジジイ、どうも最近、ルポルタージュに凝ってるらしくてな。俺のことを根掘り葉掘り聞き出すのに、テメェは邪魔だろうと。どうも気を遣ってるらしい」
「ああ、前に彼がエリプマーブス手記とか言っていたやつ」
そのあたりを素直に白状すると、エンジェルは得心がいったというふうに頷いた。
「まあ……そうだな。確かに、おまえが私に隠し事をしながらでは、面白い話も出てくるまい」
「本当にな。しかし、エリプマーブス手記、なあ。言いづれえ。あいつのセンス、多少はどうにかなんねえのか」
「そうか? 私は悪くないと思うけれど。『ヴァンパイア・S』のアナグラムというのは、いささか素直にすぎる気もするけどね」
「そういうとこが嫌なんだよ。なのにあのジジイ、『君と話す際に不便だから、近々名を贈ろうと思っているのだがね』とか言い出す始末だ。俺としちゃ、どんなクソ寒い名前を付けられるか今から戦々恐々ってわけだな」
おちゃらけて言ってみると、エンジェルは「いいじゃないか」と真面目な顔をして返してくる。とたんにしらけてしまい、男はごきごきと首を鳴らすついでに周囲を見回した。ごつい大男と目を惹く美人の組み合わせなので、麓に降りると衆人環視の注目を集めてしまうのはいつものことなのだが、今日はその中に勝手の違う視線が混じっている。
「じゃあ、あとでな」
「え? ああ、なるほど。わかった」
その意味に気付いた男は急に手を振り、さっさとエンジェルを追い払った。エンジェルは一瞬呆気にとられたような顔をしたが、すぐに真意を悟って男から離れ、街角の人混みへ消えて行く。
なにかと目を惹くエンジェルがいなくなったことで、人々の注目が男から逸れる。程なくして、入れ替わるようにして人ならざる者の気配が男の隣に現れた。
「——おや。歓談はもういいのかね」
「ねぐらに帰りゃいくらでも出来る。それよか、いやに早いお出迎えだな、スレイヤー」
忍び寄ってきた気配の正体こそ、異種の中の異種、この世に生き残った最後の吸血鬼が放つものだった。スレイヤーと呼ばれた壮年の男は微笑を浮かべるとパイプを吹かし、仰々しく肩をすくめて見せる。
「ああ、昨晩、今にも世を儚みそうなお嬢さんに血を分けて貰えてね。今日はすこぶる調子がいい。すると寝ているのにも飽きてしまい、こうして迎えに来たわけだな」
「は、テメェの従者か死体になるかわいそうな女がまた一人増えたってわけか。早く不老不死のパートナーでも見つけろよ、ジジイ」
「ふむ。いるのなら、是非出会いたいものだ。君のエンジェルのような女性がいつか私の前に現れることを願うばかりだよ」
スレイヤーは冗談めかして嘯き、ふわりと赤いマントを広げて男を自らの屋敷へ誘った。
雑踏をひたすらに掻き分け、町外れの教会までやってきたところでやっと人混みから解放され、エンジェルは買い物袋をベンチに置くと大きく息を吐いた。日曜礼拝もすっかり終わった後で、教会の中にはほとんど人影もない。中詰めの神父ぐらいはいるだろうが、軽く防音結界を張れば話し声も聞かれずに済むだろう。
エンジェルは展開されっぱなしの魔法陣を再度可視化し、耳元へ当てるとおもむろに口を開いた。
「……飛鳥? 聞いていましたね。しばらく、彼は戻ってきませんよ」
そうして彼が口にしたのは、名前を棄てた男が復讐を誓い、いつの日か殺してやると心に決めた人間のものだ。「ギアメーカー」という名で呼ばれるようになって久しい彼は、今やギア細胞研究の陣頭指揮を執る代表責任者であり、のほほんと大学に通っていた頃の甘ったるい夢を失って久しい。行動範囲を制限され、国籍も抹消され、アメリカ政府と国軍から自由の全てを剥奪されている彼に連絡を取ろうなどとは、誰も夢にも思わないことだろう。
ただしそれは、エンジェルを除いてのことだ。
『ああ、了解した。ラボの使い心地はどう?』
「まあまあと言ったところですね。物資の収納スペースが少なすぎる。あとは、雪山の中腹なんてへんぴな場所にあるせいで配送サービスの対象外になっているのが少々ネックかな」
『そのへんは勘弁してほしいかな……。あそこ、けっこうな額を設備投資に使ってたから、軍部に廃棄を認めさせるのにすごく骨を折ったんだよ』
「あなたの骨なんか何本折れたところで私には関わりがありませんね」
ぴしゃりと言い棄て、エンジェルは溜め息を吐いた。ぐさぐさと言われている割に応えていないというか、逆にはしゃいでいるところのある飛鳥の声にちょっと辟易しているのだった。ちなみに、ドクターとか主任とかしか呼んでもらえなくなって久しい中、エンジェルだけが本名で呼んでくれるので嬉しくなってしまう……というのが彼の弁である。
『あのラボが使えれば、アウトレイジの製作も随分捗るだろう。軍は、何かが起こらない限りそこに辿り着けないようにしておくし。まあ逆に、要請さえもらえればすぐにでも一個小隊を送り込めるんだけどね』
「そんな要請、するとは思えませんけど」
『どうかなあ。アウトレイジが出来たら、もう潮時だろう。ミッションコンプリートの手助けぐらいは出来ると思うよ』
「はあ、まあ、考えてはおきましょう」
エンジェルが気のない返事をすると、飛鳥も特になんでもなさそうにふうんと喉を鳴らして返事をする。彼はすぐさま軽い調子で「それにしても」と話題を転換した。ミッションコンプリートの条件、つまりエンジェルがこの時代で為さねばいけない最終目標が何なのかを飛鳥は先生から聞き知っていたが、それは今この場で掘り返すべき内容ではない。いずれ嫌でも彼自身が思い知ることだ。
『それにしても、この遣り取りにも随分慣れてきたな。一番最初に君が通信入れて来た時は、本当にびっくりしたんだけどね。だって交換手も通さずに個人回線直結だったし。アンジュ、知ってる? 実は僕、存在自体が特A級秘密事項に抵触してるんだ。いまどき僕に法力通信なんか飛ばしてくるやつ、君しかいないよ』
「まったく、六十三年前にフォンナンバーを聞き出して直結通信のやり方を教えたのは何のためだと思ってるんですか。フォンナンバーなんていうのは、結局のところ個人の生体法紋を一律暗号化した数字の羅列ですからね。それさえわかっていれば、受け手が生きてコールに出る気がある限り、通信が繋がります。軍の秘密回線なんかより余程信頼出来るホットラインですよ」
『うーん。君の先見の明、ちょっと未来予知じみてるよね。ああいや、未来人なんだから当たり前か……』
通話先の声がどんどん独り言めいたトーンになっていく。ぶつぶつした呟きが原因究明を求め始める前に口を挟み、エンジェルは話題を誘導した。
「アリアはどうしていますか」
『——! ああ、うん。そうだった。本題はそっちだったよね』
誘導の効果は覿面だった。飛鳥は一瞬で現実に戻って来て、六十三年前の夜と同じようにひとりでにぺらぺらと喋り始める。
『ユノの天秤は、依然として調整段階のままだ。あと数年はかかるな。背徳の炎の時はぶっつけ本番だったから賭けに出るしかなかったけれど、今回は時間の余裕がある。必ずアリアに適合するようにしてからじゃないと移植できない』
その返答にエンジェルはほっと胸を撫で下ろした。
ここまでは、エンジェルが聞き出した歴史の通りに動いてきた。願わくばこれからもそうであってほしい。オラトリオ聖人が先日やっと完成したばかりで、アウトレイジはおろか神器なんか構想すらまだ存在していない。しかしそれでは困る。正しい歴史を導くためには、アリアが狂い、聖戦が始まるより早くアウトレイジが完成している必要があるのだ。
しかしそれにしても、いつ聞いてもぞっとしない話だ。この男がまともな神経をしていると思ったことなんかないが、彼のしでかす綱渡りは世界規模なので尚のことたちが悪い。
「その話を聞く度思うんですけど、もし彼が適合しなかったらどうするつもりだったんですか」
『それはその時さ。そもそも、種が適合しなかったらアダムが暴走して世界ごと終わってたかもしれないし。フレデリックが死ぬか、フレデリックがトリガーになってみんな死ぬか、どっちかだったんじゃないかな』
「ああ、まあ、暴走した背徳の炎がユノの天秤に接続すれば、絶対確定世界が起こりますからね。現行人類はこれによる情報負荷に耐えきれない。よくもまあやってくれたものですよ……」
飛鳥があまりにあっけらかんと言ってのけるので、エンジェルには最早溜め息を吐くことしか出来なかった。善意からなる悪が最も恐ろしいということを、この男はきっと生涯理解し得ないだろう。そういう回路が積まれていれば、友人を生体兵器に改造し、あまつさえ司令塔機能を積んだりなんておぞましいことはとても出来まい。
『でも僕は、賭けに勝つ自信はあったよ。だって君、未来から来たんだろう? 未来人がいるということは、人類は存続しているということだ。たとえそれがどんな形だったとしても』
「私が信じられないと謗っているのは、友人を賭けに使うその性根ですよ」
『え、したことないの? 君が? 人生の半分ぐらい、何かをベットしてそうな顔してるのに?』
一切の情けも容赦もなく罵ってやっているというのに、通話先から聞こえてくる声は相変わらずふわふわ浮ついている。現実を見ろと言ってやりたい気持ちをぐっと堪え、エンジェルは忍耐強く彼の話に付き合った。言ったって疲れるだけだ。それに人生の半分ぐらいベットし続けているというのもあながち嘘ではない。
幼く、戦禍の最中にいた頃、確かにエンジェルは常に命を賭け続けていた。あの無法者が現れて馬鹿阿呆と罵られるまで、己の命とはそういう使い方をするものだと信じていたぐらいだ。
「私は自分の命以外ベットしない主義です」
『……。君の方がよほど病的だよ、アンジュ』
「戦中育ちの人間なんてみんなそんなものですよ」
すると飛鳥に気遣うような溜め息を吐かれる。
なかなかに腹立たしかったが、エンジェルが病人であることもまた、嘘だと言い切ることは出来なかった。