08 けだものの理屈
※若干のR-18描写を含みます。高校生含む18歳以下の方は閲覧をご遠慮ください。
「——と、まあ、いきさつにするとこういう感じになるな。……自分で話していて思ったが、本当に面白いのか? こんな話が?」
「いやいや、実に興味深いとも。間違いなく、ヒトの歴史、その趨勢を決める重要な出来事の一つだ。感謝するよ」
さらさらと走り続けていた万年筆をそこで止め、スレイヤーはにこりと紳士的な笑みをたたえた。男は両腕を後ろ手に組み、「どうだか」と鼻息を漏らす。片目が笑っていても、モノクルの奥、レンズに隠された方の瞳がどんな色をしているのかは分かったものではない。
何しろスレイヤーは吸血鬼だ。人とは違う枠組みの中で生きているし、人間の観測者を気取っているがために人の歴史がどう動こうとそれに干渉はしない。彼は人間の敵ではないが、人間の味方でもない。そんな彼が唯一人間と交わるのが吸血の瞬間だが、大概の場合吸った相手が死んでしまうので、結果的に彼の存在は人界に残らない。
だからこそ、スレイヤーはプロトタイプギアの喧嘩友達なんぞをやっていられるのだ。吸血鬼ゆえ、そこらの山一つ軽く消し飛ばす力を持っている男に釣り合う実力を持つのは勿論だが、何より彼からは情報漏洩の心配がない。もし彼が人と交わって生きる異種であれば、スレイヤー本人にその気がなかったとしても、彼を通じて全世界へ「ギア狩り」の情報が伝わってしまうだろう。
そういった細々とした心配もなく、たまに全力で力試しが出来る相手として、男はなかなかにスレイヤーのことを気に入っていた。まあ、腐れ縁になってきているなという自覚もある。そうでなければルポルタージュ執筆のためのロングインタビューなんて面倒な誘いは引き受けない。年代物の上等な酒とつまみがたっぷり提供されるというのを鑑みても割に合わなくなる。
「で、いつ頃完成しそうなんだ、その手稿は」
「進捗はぼちぼちだが、完成にはまだ至らないな。何しろ君の名前を決めかねている。いや、いい候補は思いついたんだ。〝ソル〟と言うのだが、アメンやホルスとは最後まで拮抗している。どれも捨て難い」
「……相変わらずひでぇセンスだな。んなもん、決まらなくても書けるだろ」
「いやいや、名前こそが最も重大なピースなのだよ。名は体を表す、と東方の言葉にもあるだろう。名前というのは人物を縛る枷だ。その名の通りに在り方を定められてしまう。このくびきからは、異種である私も逃れられん。人語を介すものは全てこの誓約に縛られていると言っていい。だからだな、君がかつての生き方を棄てようと思った時に、名を棄てた行為を私は評価している。それこそ、かつての己に決別するために必要なイニシエーションだったのだから」
「……へいへい……」
いやに熱っぽく語り始めたスレイヤーを横目に、男は辟易した調子でワインをがぶ飲みした。この話になるといつもやたら熱弁をふるい始めるというのも、男がスレイヤーの名付けをあまり快く思っていない理由の一つだ。
「第一なあ、名前を棄てたことを評価してるんなら、その俺に新しい名を付けようっていうのは矛盾してねえか」
「とんでもない。名を棄てたまでは良いが、その新しい自分に名を与えていないから、君は未だ宙ぶらりんなのだよ。謂わば再定義が終わっていないのだ。しかし君には名をくれる親がもういない。そこで僭越ながら、私がHAIKUで鍛えた腕を披露させて貰おうと思ったわけだな」
「テメェの理屈はわかんねえな、相変わらず……」
スレイヤーの俳句の腕に関しては知ったことではないが、このネーミングセンスからしてお察しというところだろう。それ以上の藪を突くのは避け、空になったグラスをテーブルに戻す。するとスレイヤーの従者である蝙蝠達がどこからともなく現れ、無尽蔵にかわりのワインを注ぎ足していく。再びそれに口を付ける。今度のワインも美味い。スレイヤーの持つ言語センスには甚だ疑問が残るが、味覚に関しては誰よりも信頼が置ける。
であるからこそ、わからない。人を超越した生き物が、何故人の生き死にに関心を持つのだろう。超越者故の驕りか。しかしそう断じるには、彼はどうも、人に寄り添いすぎているようにも思える。
男はワインを一度止め、口直しをするべく琥珀色の液体が注がれたグラスを新たに手に取った。
「……わからねえと言えば、手稿なんかつけてることそのものが、俺には理解出来ねえ。人間の歴史なんか本にして何が楽しいんだ? 人間なんか何千年経っても同じこと繰り返してるだけだろ。どこを切り取っても醜い内ゲバの連続だ」
「いやいや、これでいてなかなか、歴史の転換点というものは興味深いのだよ。人間とて、似たり寄ったりの英雄譚を幾つも並べて好むだろう。あれと同じだ。魔法時代に突入してからは特に面白い。ギアをめぐる物語は、これからより壮大なスケールに広がっていくことだろう。興味は尽きんよ」
「覗き魔のオッサンかテメェは」
「はは! そうとも言えるかもしれん。なに、老いぼれのささやかな愉しみだ。ヒトの理を歪めるでもなし、多めに見て欲しいものだね。それとも、君もヒトだから気に掛かるのかな」
「人? 俺が? 馬鹿言うんじゃねえよ」
コニャックを一息に飲み干し、男がせせら笑う。顔面に浮かんだ隠しもしない嘲りに、スレイヤーは「ふむ」と唸った。モノクルの向こうはやはり光が反射してよく見えず、男の嘲笑だけがそこに映り込んでいる。
スレイヤーはワイングラスを揺らしながら己の顎に手を添え、真っ直ぐに男の顔を見据えた。
「何もおかしなことは言っていないとも。君はヒトだよ、
「はあ? 俺はギアだぜ、ジジイ。モンスターだ。その気になりゃあ、山は吹き飛び海は消し飛び、街は一面瓦礫の山と化す。こんな怪物、どこの人間様なら仲間に迎えてくれるってんだ。馬鹿は休み休み言え。マジでな」
「ううむ、どう言ったらいいものかな。ネームレス、私はね、そういう基準で君をヒトに分別したいわけではない。ただこれは事実なのだよ。純然たる……あまりにもはっきりとした。ふむ、とはいえ、そうだな。これ以上のヒントは無粋に過ぎる。君がそのままでいる限り、いつかは直面することだ」
言いたいことだけ言い棄て、「敢えて多くは語るまいよ」と吸血鬼が締めくくる。男は舌打ちをし、いつの間にか力を入れて握り締めていた己の手を見た。つるりとした表皮に覆われた、人間の手だった。夜毎見る夢でいつも最後に目に入る悪魔の腕とはまるで違う。しかしこれはかりそめのものだ。男の本性は、最早醜い怪物と成り果てた。人間社会の中で息を潜めるため、外見だけ取り繕っているにすぎない。
ギア細胞抑制装置であるヘッドギアを付けている限り、この身体は人の外見を保ち続ける。ギアの破壊衝動を少しだけ緩和し……本当に少しだけだ……連れ添う男と愛情を酌み交わしながら房事に及ぶ程度には理性を担保してくれる。
でもそれは、かえって、抑制装置がなければ剥き出しの獣と何も変わらないことの証明に過ぎない。今朝方エンジェルに罵られた通り、男は、本能の衝動に苛まれるけだものだった。満月が近づけばがぶりと犬歯を突き立て、パートナーの生き血を啜る、モンスターだ。
「人間様がヒトの血を美味いと思ったりするかよ」
ぽつりと漏らされた独り言に吸血鬼は答えない。男は再び手のひらを握り締めた。この身体を流れる血は未だ赤い。しかしそれは男が人間である証明になりはしないのだ。天使の血は赤く、吸血鬼の血も赤く、ならばギアの血も赤く、化け物も血は赤い。所詮それだけのことにすぎない。
◇◆◇◆◇
書斎にはランプの明かりが灯っていた。魔法使い並にあらゆる法術を使いこなすエンジェルだが、夜の読書にはいつもオイルランプを愛用している。ネオンサインがぎらぎらと街を埋め尽くしていた頃から生きていた男にとってはいささか古風で不便に過ぎ、男自身はいつもジールランプで手軽に済ませてしまうが、オイルランプのぼんやりとした明かりに照らされて読書を嗜むエンジェルを見ているのは悪くない。それに月明かりが合わさればなお格別だ。
けれどそれは、月が丸くなければの話。
「お帰り。なんだ、随分機嫌が悪いな。忘れていたかった昔話でも掘り起こされたのか」
男の足音に気がつき、本を閉じたエンジェルがこちらへ振り返る。彼は男の顔を一目見るなり眉を顰めて苦笑し、手招きをした。男は素直にその手に従う。椅子に腰掛けた彼の背に覆い被さるようにもたれると、「重いぞ」と少し楽しそうな声が顔の下から聞こえてくる。
「いやに甘えただな。どうした? 変なものでも食べたか」
「スレイヤーのジジイが出す変わり種なんぞせいぜいがチーズぐらいのもんだ」
「ああ、あの方は美食家だから。では青カビにでも当たったかな」
「そんなやわな胃袋してねえよ」
うなじに噛み付き、犬歯を食い込ませる。朝方にも同じ場所を噛んで血を啜ってやったはずだが、エンジェルの皮膚はつるりと滑らかで、傷跡一つ残っていない。また法術で強引な治癒をしたのか。男は舌打ちの代わりに犬歯の食い込みをより深くする。あれほどやめろと言っているのに。
人間だった頃から汚部屋を作成するのに長けたところのあった男と正反対に、エンジェルは几帳面で潔癖症だ。そんな彼が抱える悪しき慣習の一つが、過剰なまでの法術治癒だった。何日か自然治癒力に任せていれば勝手に消えるような傷跡でも、彼は法術の力ですぐさま塞いでしまう。噛み痕も、擦り傷も、何もかも。一度など骨折さえそれで誤魔化してしまったので呆れながらも叱ったほどだ。
法術による治癒は万能ではない。研究室時代にあまり有り難がるなよと釘を刺されていたエナジードリンクと同じで、結局、それは本人が持つ生命エネルギーの前借りに過ぎないからだ。いざという時のために身体が蓄えているエネルギーをがばがば浪費してしまうため、あまり続けているといつか木乃伊になってしまいかねない。バックヤードから対価となるエネルギーリソースそのものを奪い取るギア細胞とはわけがちがう。
ましてやこの、華奢で脆い身体では……。
一族郎党軍人だったという彼の親族が大丈夫だったとしても、エンジェルの身体に掛かる負荷は尋常ではないはずだ。
「今日はいやに噛むな。狼男にでもなったか」
男の考えごとを遮り、エンジェルのくすくす笑いが耳に届く。こっちは真剣にお前のことを考えてやってるのに——という文句を押し殺し、男は耳元で低く囁く。
「そうかもな。今日は満月だから」
「そうか。そういえば、満月だな。ふふ……昔は月の満ち欠けなんて大して気にしたことがない、と言っていたのに」
するとエンジェルはからかうように古い過去の話を持ち出してくる。男は聞こえよがしに息を吐いた。もしかしたら意趣返しのつもりなのかもしれないし、たちの悪いことにその目論見はそれなりによく効いた。
男が月の満ち欠けにろくな興味も持っていなかった頃、すなわち棄てざるを得なかった人間としての過去。それは苦い思い出の連続であり、同時に輝ける栄光の日々でもあった。「あの男」と「死んだ恋人」と過ごした幸福な数年間。そして数ヶ月の間だけ現れ、夢見るように消え失せた天使の足跡。
あの頃男の手には全てがあって、そして今はその全てが喪われていた。変わらないのはエンジェルだけだ。彼は一時の幻が終われば記憶からも消え去ってしまう代わりに、男の傍にいる間だけは絶対に裏切らない。
あの男とは違う。
「野生に還っちまったんだよ。ギアの身体は満月のサイクルに影響されすぎる」
「お隣で飼われていたシベリアンハスキーのように」
「俺は吠える代わりにテメェを抱くがな……」
「なおたちがわるいな」
昨日したばかりだろう、とあまり咎める気のなさそうな声でエンジェルがのんびり呟く。犬歯を引き抜き、口を離すと、新鮮な血液が出来たての傷口からぼたぼたと零れ落ちた。エンジェルの白いワイシャツに鮮血が染みを作っていく。それが満月の夜に行うセックスのサインだ。真新しい紅の染みが乾いた赤茶色に成り果てるまで、男はけだものの欲求に身を任せる。
「いいよ、おいで」
振り返り、エンジェルが両手を広げて男を歓迎する。無言で抱きしめると今度は男のうなじにエンジェルがキスをした。吸血鬼のまねをして立てられた歯は丸く、甘噛みのこそばゆさが肩口に広がる。
了承のサインを確かめ、男はエンジェルの身体をゆっくりと抱え上げるとそのままの格好で寝室へ向かって歩き始めた。
「ぁ……あ、んう……」
ベッドの上で遠慮なく乱れ、放埒な交わりにふけり、エンジェルが持ち上げた足をぴんとつま先までのけぞらせる。彼が言うには、強すぎる快楽を逃そうとすると、自然とそういう態勢になってしまうのだという。そして満月の夜はいつも、彼はつま先までを震わせて快楽に浸るはめになる。ギアになって体力同様底なしになった精力が満月の凶暴性に合わさるせいで、男の与えるものが大きすぎるのだ……といつかエンジェルがぶすくれていた。
「ああ、もう。またこんなに出して……」
出すものを出し切って満足してきたところでずるりと男根を引き抜く。入れる前ははちきれそうなぐらいに膨らんでいたそれが、やっとのことで落ち着きを取り戻してきていた。エンジェルが汗や飛沫でべたついた指でそれをつつき、「ふにゃふにゃしてる」と締まりのない顔で呟く。言うほど柔らかくはないはずだが、にへらと笑う顔がかわいいので口には出さない。
「出るもんはしょうがねえだろ」
「うん。もう慣れたし」
「俺に優位を取られるのに、か」
男がはじめてエンジェルとセックスをした日は、男が童貞だったせいもあるが、エンジェルに殆ど全てをリードされていた。初心な男に比べてエンジェルは卑猥なまねに慣れていて、体力にも余裕があり、そのせいで先に寝落ちて(たぶん)記憶まで改竄されてしまったのだが、今同じ事をしようとしてもそうはならないだろう。人間とギアでは体力に差がありすぎる。プロトタイプギアとして出力の調整もなにも受けていないので、そのあたりはもっとひどい可能性が高い。
「んー? んん、私はどちらかというと好きにされるほうがしっくりくるぐらいだけどね。その……自分からああいうのをねだるのは気恥ずかしい。自分が自分でなくなるみたいで……」
「はん。テメェを仕込んだ男は随分な欲深だったと見える」
「そうだなあ。たぶんお前と同じぐらいには欲深いだろう」
暴かれて広がり、閉じきっていない穴からとろとろと精を掻き出しながらエンジェルが上の空で答える。男は気のない返事をし、エンジェルの上から身体をどかすと隣に腰を落ち着けた。それからベッドサイドに常備してある改良型ジールランプの火を灯し、「あのな」とエンジェルへ視線を戻さずに話を始める。
「テメェが知りたがってた不機嫌の理由なんだが」
「うん」
「あの野郎、俺のことをヒトだとか言いやがった」
「……え、」
「そいつがどうにも引っ掛かってな……。…………おい、どうした」
そっぽを向いたままジールランプに聞かせるように話すと、エンジェルがヒュッと小さく息を呑んだ。
何事かと思って振り向けば、先ほどまでの淫蕩に濡れそぼり高揚した面持ちはどこへやら、エンジェルが顔面蒼白になり、男の逞しい腕を震える手で掴んでいる。男がぎょっとして「なんだよ」と問うと、気まずそうな呻き声が漏れ聞こえる。
「ええと……つかぬことを聞くんだが。もしかしておまえ、スレイヤー卿に血でも吸われたか」
「は? んな気色悪ぃことされてねえよ」
「そ、そうか。びっくりした……」
びっくりしたのは男の方だ。だいたい何をどうしたら、男がスレイヤーに血を吸われる事態に陥るというのだろう。一体何を心配しているんだこいつは? しかし少し考えているうちにもしかしたらという答えに思い当たり、男は唸った。なるほど、エンジェルは、潔癖症の上に心配性だ。
「別にやっこさんも俺の血の色だけで人間呼ばわりしてるわけじゃねえだろ。そもそもだ、喧嘩の最中にお互い血まみれになった時、赤以外の血は流れてなかった。ギアが赤い血なら吸血鬼も赤い血だ。血の色ぐらいで化け物かそうでないかは決まらねえ、そのぐらい俺だってわかってる」
「あ……ああ。ギアは、生体兵器だからな。血液型が変質することから、組成の転換が起こっている可能性はあるが……基本的にはベースになった素体のそれを引き継ぐ。血が赤くないギアがいるとすればそれはイカをベースにしているだろう」
「触手型か。最悪だな」
あの運命の日に襲い掛かって来たグリズリー・ベアのことを思い出し、男はうへえと悪態を吐いて閉口した。ギアについての資料を集め、大量のギアを殺すようになってから、ああいう「素体が持っていない機能を備えている」ギアは「複合型」と呼び習わされるキメラであるとわかったのだが、それまでは漠然と「ギアになったら触手が生えてくるんじゃないか」と思っていた時期があり、触手型ギアにはいい感情がない。男自身、ギア細胞を抑制していなければ身体が二足歩行のドラゴンみたいになってしまう体質であるため、いつか自分の背中を突き破って触手が生えてくる可能性を否定出来なかったのだ。
だから、仮にヘッドギアが壊れたとしても、自分の背から触手が生えることはまずないだろう——と分かった時は大層安堵した。安堵した勢いでヘッドギアを外してエンジェルに襲い掛かったら、やってる最中にどんどん皮膚は硬くなるわ角は生えるわ翼は生えるわで、おまけに外性器がおよそ人のものとは思えないほどグロテスクな形に変貌してしまい、ものすごい顰蹙を買うと同時に雷のゼロ距離砲撃で気を失わされた。以来、ヘッドギアを外してのセックスはよほどのことがなければ御法度になっている。
「にしても、マジで納得いかねえ」
しかしながらそういったことを考えれば考えるほど、スレイヤーの言動は不可解だった。体表は固くて赤い鱗に覆われ、角が生え、尾が生え、挙げ句の果てに生殖器はアダルトグッズ顔負けのかたちになり、パートナーにさえ「痛いしいぼいぼが引っ掛かるし嫌だ」とか言われてしまう生き物の、一体どこが「人間」だというのだ。人間の真似事をしているという誹りには甘んじるとしても、眼鏡の度が合ってないんじゃないかとしか思えない。モノクルに度が入っているのかどうかは知らないが。
「テメェはどうだ? こんな姿になりはてて、それでもまだ俺を人間だと思ったことはあるか、エンジェル」
だから薄笑いを浮かべ、冗談半分でそう訊いた。ひ弱な運動不足の科学者だった頃からはとても考えられないほどみっちりとぶあつい筋肉に覆われ、抑制装置を付けなければ理性と自我を保ち続けられないほどの凶暴性と破壊衝動をその内に秘め、パンチ一つで山を削り取ってしまうような男の、一体どこが人間なのか。それを口々に挙げ連ねて笑いながら否定して欲しくて、そう訊いた。
「——。わた、しは」
けれど予想に反して、エンジェルの口からは歯切れのいい答えが返ってこない。彼ははっとして目を見開き、それからすぐ口を噤んでしまう。海色の双眸が揺れている。男をヒトと呼ぶか化け物と呼ぶか、その狭間で揺れ動いている。
「……わからない。おまえは確かにギアだ。肉体は、もはやヒトではない。あと起き上がりの早さと持続力と精力を人並とは言いたくない」
「抜かずに五発ぐらい普通にやるしな」
「そう。そういう恥知らずなまねは、人間の体力では無理だ。まむしを飲むにしても限度がある。……でも、そういうことじゃなくて……私は……」
頬を片手で掴み取り、揺れ動く瞳を己のそばに引き寄せた。エンジェルは躊躇っていた。自分自身の考えがうまくまとめられずにいた。彼はさざ波の中に立ち、男の瞳を見た。水面に二つの月影が落ちる。金色に変色した、男の双眸が。
「わたしは。おまえがひとでなければいいのにと……祈っているんだ」
そうして狼の金色を見つめる彼の声は、まるで姿なき神へ悔いるようだった。