09 ロック・スターの悲劇
「何故だ! 何故だ、××! 何故殺した!! 私の見ている前で。何故!!」
丘の上で死者が踊り狂っていた。燃え上がる業火に飲まれ、意図せぬタップを踏み、生きながら全身を焼き尽くされ、踊っていた。
私はそれを呆然と見ていた。もはや彼らは助からない。彼らは確かに罪人だった。私にはそれを裁く義務があり、手錠を掛け、署まで連行し、然るべき手続きの後、裁判に掛けるつもりだった。
「何甘ったれたこと言ってやがる。敵は殺すものだ。だからそうした。何故は俺の台詞だ、小僧」
「……殺す必要はなかったはずだ。相手はギアじゃない。人間だ。法の下の平等で庇護されているし、話し合えば、きっと……」
「アホか。こいつらがテメェをどうするつもりだったか知ってて、んな寝ぼけた口きいてんのか? 奴らはな、さんざんぱらテメェを犯し、薬物に漬けて、食い物にしたあとは稼ぎを巻き上げ、最後には殺すつもりだったんだよ」
「……な、う、そ、」
「テメェだけじゃねえ。テメェみてえな見目のいい人間を片端から見繕い、再起不能にして食い散らかしていた極悪人共だ。当局から出された要請は〝可及的速やかに処分せよ〟。生死問わず以下の扱いだ。当然だな、奴らは被害者の人権を踏みにじった。その上で自分たちだけ人権を保障しろなんて言い分、テメェみてえな脳味噌お花畑のクソガキにしか通らねえよ」
は、と嘲りの色が奴の顔に浮かぶ。奴は私を嘲笑し、また一方的に憐れんだ。この上ない屈辱だったが、言い返せる言葉が何もない。奴の言うことは筋が通っていた。因果応報。それはけだもののルールではあったが、聖戦を経た私の世界では、旧時代に比べてシンプルなルールがまかり通っていた。長い戦争で人類は疲弊し、困窮し、心も財布も、罪人をのうのうと養っておけるほど豊かではない。ゆえに裁判を待つまでもなく明らかな咎がある人間には〝生死問わず〟の手配が掛けられる。
火柱はごうごうと燃え盛り、焔の中に揺らめく人影が薄くなっていくたび、断末魔も萎んでいく。しかしそれに相反して炎の美しさはいや増し、凄惨なほど華麗だった。「人の肉は脂が多いからよく燃える」奴が言う。「特にこういう、肥え太った豚共はな。せめて末期の花火ぐらい俺の目を愉しませてくれねえと、割りに合わねえ」。
「野蛮——この、けだもの——」
「ああ、そうとも。俺の炎は野蛮で俺は化け物だ。人を殺すことなんかどうとも思っちゃいねえ。テメェが、ギアを殺すことをなんとも思ったためしがなかったみてえにな。だが、けだものは、一体どっちだろうな?」
人肉が焦げ付き、むせ返るような臭いが私達を包み込む。酸っぱいものが食道を競り上がってきて、私は思わず手で口を押さえ、下を向いた。覆った指の隙間から吐瀉物が漏れ出る。ろくに胃袋にものが入っていなかったらしく、透明な胃液ばかりがびちゃびちゃと地面を濡らしていく。
「化け物を殺すのに躊躇いは要らねえ。テメェがそうであったように。そして化け物が人を殺すのにも理由は要らねえ。人を助けること、人を慈しむことに、理由が要らないように。けだものの理屈はシンプルだ。気に入るか、気に入らねえか、それだけが全て。そしてこの豚共には心底吐き気がした。だから俺が手を汚してやる」
唇から犬歯が覗いている。私はその顔に恐怖した。奴は嗤っていた。この光景を愉しんでいた。人が焼ける臭いを味わい、舌なめずりをし、けだもののルールで動いている。
「大人になれよ、坊や。いつかテメェを殺しにきた奴がいたとして、テメェはそいつに無抵抗で殺されてやるのか? 俺はやられる前に殺る。死にたくねえからな。たとえ敵が人間のガキの姿をしていようと迷わない。そんな良心はもうとっくに棄てちまった」
ジッポーライターの形をした剣が振り上げられ、火の中を抉り取る。焔の中で踊る罪人達の喉を、それで抉り潰したのだった。僅かに聞こえていた断末魔がそれで全て掻き消えた。凶悪犯罪者たちはこれでこの世から消え失せた。後には骨も残らない。
私はその時、はじめて、彼が怖いと思った。人と同じ規範の中で生活し、人と同じように感情を表し、人と同じように振る舞い、人と同じように暮らしている彼の中に、確かに、人間を逸脱した思考のスイッチがあるのだということを目の当たりにして怯えた。
けれど同時に、頭の奥から微かな声が聞こえてくる。私も同じではないかと。私もギアに同じ事をしてきた。ギアの女王に私の正義の歪さを指摘されるまで、それが正しいと信じて疑ったこともなかった。
人は、気が狂わなければ同族を殺せない。けれど化け物は殺せる。
その理屈が導く答えが……私は怖い。
「おまえは……本当に、もう自分を人間だと思っていないんだな」
私は届かぬ手を伸ばして嗚咽した。天へ向かって伸びる劫火は美しい。人の死を吸い、奴の人間性を喰らい、化け物の心を砕き、燃やし続けているから……この世の終わりの炎
は美しい。泣きたくなるほどに。
◇◆◇◆◇
「——あ、」
はっと目を見開き、エンジェルは浅い呼吸を繰り返した。視界に飛び込んでくるのは無機質な白一色の壁、申し訳程度のカーテン。炎はどこにも燃えておらず、静かなものだ。
寝室のベッドの上だった。ここにいるのは罪人を燃やし殺すギアに相対して胃袋の中身を吐きくだしてしまった警察官ではなく、ギア狩りの生活を補佐する共犯者だ。むくりと起き上がるとかぶりを振り、思考を整理する。すると長く伸びたブロンドを引っ張る手があり、エンジェルはそちらへ振り向いた。
「痛い」
「物思いが深すぎて、こうでもしねえとこっちを見てもくれなさそうだったからな。どうした? 随分、うなされてたぞ。今日の悪夢は、俺じゃなくてテメェの方に行ったか」
「どうも……そのようだな。頭痛がひどい……」
額を押さえて俯いていると、寝転がっていた男も起き上がり、エンジェルの背をさする。「大丈夫か」彼の声は気遣わしげだった。大学生だった彼の家に住み着いていた頃、よく聞いた声に似ていた。
「頭痛は法術じゃ抑制しづらいからな。錠剤がまだ残ってただろ、出すか」
「いや、平気だ。放っておけば治る。満月の前後は、体調を崩しやすいところもあるし」
「……セックスを我慢するべきか?」
「ううん、こうしていてくれ。人肌を感じている方が気が休まる」
珍しく殊勝な提案をしてきた男に追い縋り、身を預ける。彼は「本当かよ」と困ったふうに眉をしかめたが、エンジェルに身を寄せられること自自体はまんざらでもなかったらしく、穏やかに頬や髪を撫でた。
「テメェの言葉は嬉しいが、ここに来てからやたらとやってばかりだったのは確かだからな。少しは休め。俺もギアを狩ってねえからそっちにばかり体力回してた自覚はある」
「まあ、もう何ヶ月も山ごもりだからなあ。スイスからアメリカは私の転移では遠すぎるし」
「今んとこ、アメリカ国外にギアが恒常配備されたって話は聞いてねえしな。何度か国外へ実験部隊が送り込まれてるって噂はあるが……まだ尻尾も掴めてない」
だからここでアウトレイジの製作をしている限りはどうにも、と男がぼやく。とうとうアウトレイジを完成させねばという段取りまで来たので、無理を押して国外へ出てきたのだ。これで身体がなまりそうだからアメリカに戻るなんて言って完成が伸びてしまったら本末転倒もいいところである。
「オラトリオ聖人」及び「アウトレイジ」は、兵器運用目的のギアが各地に配備され出したのを切っ掛けにギア狩りを始めるまでの間、男が持てる全ての知識とエネルギーを注いでいた、無限エネルギーとその小型携帯式射出装置だ。オラトリオ聖人側の理論構築が難航したため長らくシーケンサの製作は後回しにしていたのだが、理論さえ組めてしまえばあとは装置を作らない理由がない。
ゆえにギア細胞がもたらす本能的な破壊衝動を無理矢理抑え込み、ここ数ヶ月は雪山の中でコツコツと大嫌いな努力行為に励んでいた。その甲斐あり、アウトレイジは完成の目を見つつある。もう少しでこんなへんぴな地とはおさらばだ。
しかしだからといって、鬱憤がたまらないはずもなく。
「とはいえここまでの運動不足は久々だ。スレイヤーがこっち住まいで、ちょくちょく手合わせしてくれるのには実際助かってる」
男は積もる欲求を二つの手段で無理に消費していた。ひとつは、エンジェルとのセックス。そしてもう一つが吸血鬼スレイヤーとの喧嘩である。元はと言えば、ルポルタージュ執筆に伴うインタビューなんか引き受けたのもそのあたりの謝礼を兼ねてのところがあった。そのために頻繁に会っていたから、スレイヤーも気安くなって「やはり名前がないというのは、不便なものだな」とか言い始めたのだ。
「ああ……そうだ。そういやジジイ、とうとう俺に贈る名前が決まったとか言い出したぞ」
そこまで考え、男は嘆息した。思い出してしまった。己は人か化け物か、みたいな話が最後に出てきてその衝撃で話そのものを忘れていたのだが、前回既に、彼は男への贈り物を用意していた。
それを口にすると、エンジェルが「どんな?」と妙に勢いよく食いついてくる。男は溜め息を深めた。
「〝ソル〟だとよ。通名とくっつけて、フルネームで〝ソル=バッドガイ〟。なあエンジェル、正直に言ってくれ。……どう……思う?」
「どうって」
「ださくねえか」
「いや。すごくかっこいいと思う」
「……本当かよ?」
思わず手を掴んで疑わしげに尋ねてしまったが、エンジェルは「本当にかっこいいと思うよ」と言葉を重ねるばかりだ。握り締めた手のひらから伝わる心拍数も平常通りで、気を遣って嘘を吐いているというふうでもない。そうか。エンジェルの基準では、かっこいいのか、この名前は。それにほっとしたようなそうでもないような不可思議な気分になり、男は唸る。
ソル=バッドガイ。敬愛するロック・スターの愛称に太陽。スレイヤーのネーミングというだけで疑ってかかっていたのだが、言われてみれば、それほど悪くないような気もしてくる。ただ、自分が大昔に棄て去った人間の頃の名前と並べるとどうも馴染まないのも確かだ。ソル=バッドガイという名は、野蛮で、自由で、獰猛で、放埒だった。ヒーローになんかなれっこないと思い込み、憧れたことさえなかった人間の男の子には似ても似つかない。そんな名前だ。
「今おまえが何を考えているのか当ててやろうか」
男の百面相を見て、エンジェルがくすりと笑う。挑発するように「やってみろよ」と返せば、エンジェルはもぞもぞと動き、男の股ぐらに乗り上げてくる。
「ソル=バッドガイなんていかにもな名前が自分に似合うのか、ちょっと自信がないんだろう。科学者の卵だった大学生は、銀行強盗を懲らしめた私の行動をヒロイックだと糾弾し、ヒーローなんて遠すぎて、自分には関係ないと言っていた。なのにこんなヒーローみたいな名前が似合うものか、迷ってるんだ」
「ああ、正解だ。少しわかりやすすぎたか」
「うん。それに……確かに、運動不足の人間の科学者では、こんな強すぎる名前はもてあましてしまうだろう。……なあ。スレイヤー卿は、何か他にも言っていなかったか」
「あ? ああ。『この名は、君が再誕を迎えたその時に名乗るのが相応しかろう』とかなんとか、言ってやがったな。確か……」
よくわかるなと聞けば、ずっと一緒にいたからね、なんていう甘ったるい返事。昨晩の名残で何も身に纏っていない剥き出しの身体を押しつけ、エンジェルはじゃれついてくる。指先が男の身体を這う。男のかたちを確かめるように。今ここにいる名前のない男、未だソル=バッドガイとは名乗っていない、かといって人間の名も名乗れない、何者でもない男の輪郭をなぞるかのように。
(再誕……再誕か。まあ、そうなるのか)
一度死んで化け物になった男が、世界から与えられた敬愛するロック・スターのニックネーム。剣も魔法も使えないけれどギターとマイクがよく似合う、人間の男の子にとって間違いなくヒーローだった彼の愛称を、人をやめてからもらうというのは、なんだか奇妙な心地がする。
(だが……なんか、引っ掛かるんだよな……)
折り重なったエンジェルの柔らかい身体をいやらしい手つきで撫で回し、男は首を捻った。人として死んでロック・スターの名を手に入れるというのはなかなかにヒロイックな成り行きだ。それも本名じゃないニックネームの方は、世の中に憎まれている犯罪者が名乗るにはうってつけだろう。スレイヤーが新しいファーストネームに象徴的な名前を選んだのも、それを踏まえての事なのかもしれない。ソル。ラテン語で太陽。シンプルで、ただ純粋に力強く、それはまるでフレディ=マーキュリーの歌声のようで。
でも本当は。
「きっと……歴史が、動く。その時が、近づいて、来て……ん、あ、あぁっ……」
男が親から与えられた名前も……敬愛するロック・スターの名前だったのだ。
◇◆◇◆◇
寝室を出て、誰もいない廊下をひたひたと歩く。このラボに来てもう数ヶ月。アウトレイジは完成間近で、スレイヤーはギア狩りに贈る名を決めた。あらゆる条件が揃い始めていた。先生が最初に決めたタイムリミットが、もうそこまで来ている。
この八年間、エンジェルは名前を棄て去った彼といくつもの施設を潰し、彼の生活の全てを支援した。全てのギアを殺し尽くすという男の復讐に手を貸すふりをして、再び彼の信頼を手に入れた。全てが順調に進んでいる。エンジェルの心を除いて、全てが。
「……やっぱり。フレデリック
は、人間を殺したことがないんだよな……」
書斎に入り、個人的につけていたノートを取り出してぱらぱらとめくる。目当ての項目を流し読みして、誰に聞かせるでもなく独りごちた。男は寝室で二度寝を決めている最中だし、防護結界を張っているので独り言が漏れ聞こえる心配はない。結界のたぐいを張ることに関しては、子供の頃からエキスパートの自負がある。そんなことを続けていたら団でまことしやかに「守護天使」と呼ばれ初め、そのうち本当に最年少で守護天使の役職に就けられてしまったのだが、それはさておき。
「……もう、いいじゃないですか、先生。いえ、第一の男
。フレデリックは死にましたよ。あれほど心優しく、不器用で、友達思いだった彼が。自分から名前を棄て、過去を棄て、悪鬼修羅のような生き方を選択して……ギアメーカーのやったことだけで、もう十二分に彼は死んでいるじゃないですか……」
分厚いノートをぱたんと閉じ、エンジェルは力なく首を振った。
ノートには、「ギア狩り」がこれまでに行ってきた全ての破壊活動の詳細が記されていた。シカゴで起きた第一の事件から、一躍世界の有名人になるきっかけとなったセント・ジョージの大爆発、そして最新の事件であるベセスダの火災に至るまで。事件の規模、犠牲者の数、殺害を確認出来たギアの数、それら全てが事細かに記されている。
エンジェルが引っ掛かっているのは、そのうちの人間の犠牲者に関わる項目だ。ギアを殺すという大目的を遂げるため、どの事件でも、巻き添えで犠牲になった人間は出ている。ギアを守ろうとするならば人間であろうと容赦は出来ない。それが男の言い分で、彼は度々、研究施設丸ごとを火の海に変えていた。
けれどそれだけだ。施設炎上の巻き添えをくらって死人が出ることを除けば、彼は人殺しをしたことがない。その剣で、腕で、人を屠ったことはない。彼が殺すのはいつも、わかりやすい化け物の形をしたギアばかり。ここまで八年間、二人が遭遇したあらゆるギアは動物かそれをベースに改造されたキメラの形をしている。
思えば男は人間に対していつも寛容だった。「頼むから助けてくれ」と泣いて命乞いをしてきた科学者たちへ唾を吐きかけることはあったが、しかし必ず、男は彼らを生かしたまま逃がした。恐怖を刷り込んで口外しないことを約束させた上で、情報提供の見返りとして逃がしてやるのだ——という体を取ってはいたが、言われてみれば確かにそれは、殺人鬼の理屈ではない。
「……何を考えているんだ、私は」
そこまで考えてふるりと首を振る。殺人鬼の理屈などなくたって当たり前じゃないか。彼は復讐者ではあるがシリアルキラーではない。復讐に必要のない命を殺める理由なんかどこにもない。ギアさえ殺せれば、人間を殺す必要はない。ギア狩りの行動理念は別に破綻していない。
そう思いたいのに。
「本当に私までおまえを殺さなければいけないのか、フレデリック」
スレイヤーが男に告げたという言葉がいつまでも脳裏に響いてしかたなかった。それを切っ掛けに、今まで考えないようにしていた可能性が堰を切ったように頭の中であふれ出す。ギア狩りバッドガイは未だヒト。身体を化け物のそれに変生させ、復讐鬼に成り果て、数多のギアを惨たらしく血祭りにあげてまわっていたとしても、彼はまだ人間のくびきから逃れられていない。
世の中を俯瞰して生きる吸血鬼、正真正銘の異種が口にした言葉が、酷く重たい意味を持ってエンジェルにのしかかってきていた。彼が「新しい名は再誕の時に」と告げたらしいことが、ほとんど全ての答えを指し示している。エンジェルが蓋をしてきたものが詳らかにされる。モラトリアムはもう終わる。未来へ進もうとする歴史の力が、世界が、エンジェルの逃避を許さない。
わかっていた。狂気に堕ちねば人間は同族を殺せない。弱肉強食に支配されたけだもののシンプルなルールとは違う。しかしその一方、同族以外は平然と殺す。子供であろうと、「己と違うもの」には躊躇いを持たない。かつてエンジェルがそうであったように。
「……あいつは、人間を、殺していた。嗤いながら。嗤いながら……己の手で火炙りにし、人肉の焼ける臭いを愉しみながら喉元へ刃を突き立て、殺してみせた。私の見ている前で……!」
だからもし、ギア狩りが自分の意思で人間を殺せないのだとしたら。
それにも関わらず、ギアを殺すことに躊躇いがないのだとすれば……。
エンジェルは目を閉じる。いやだ。そんなことを考えたくない。信じたくない。いやだ! あんな男と同じ罪に手を染めるのは、もう懲り懲りなのに!
でも現実は非情だ。エンジェルの心を待ってなんかくれない。
もし——フレデリック=バルサラがまだちゃんと死ねていなくて、動く死体のように、ギア狩りの身体を引き摺っているのだとしたら。
エンジェルは彼を殺す。ギア狩りの身体を棺桶に、墓の下の死人を押し込める。そして死体を材料に新しい生き物を呼び起こす。それこそがこの時代で課せられたエンジェルの使命。歴史を導き、エンジェルが愛した世界、愛した人々、愛した男を、生み堕とす。
「ああ、それでも私は、止められないのですね。願うことも、祈ることも、無責任に希うことでさえ。十字架の先には誰もいないのだと知りながら……」
エンジェルは己の予感に涙した。この八年間、出来ればギア狩りの男を殺したくはないと思い続けてきた。共に過ごし、睦言を交わし、彼の愛を受ける度、その想いはいや増していった。もう、いいじゃないですか、神様。どこにもいない神様
。このシナリオを思い描き、啓示を打破する道を造り出してしまった
神様
! エンジェルは男を愛してしまった。いいや、ずっと昔から、彼と出会った幼い少年時代のあの日から、彼を愛さなかった時なんかないというのに。
「確かめないと、いけないのでしょうね。そう、過去へ来ることを了承した時点で、決めていたはずだ。私は逃げない。終わりの瞬間がどれほど恐ろしくても」
それでもエンジェルは、男を殺すのだろう。
耳元で法術通信の魔法陣を開き、生唾を呑み込む。たとえどんな感情が働いていようと、エンジェルは一度決めたことを完遂出来てしまう。どこまでも非情になれる。六十三年前、フレデリックをたぶらかしてまんまと生体情報をせしめ、背徳の炎が必ずフレデリックに適合するよう仕向けた
時のように。そうやって必ず世界を守るだろう。
何故なら。
「——飛鳥。話があります」
二一七二年の未来、エンジェルは……カイ=キスクは、あのどしゃぶりの雨の日に彼と出会ってしまったのだから。
丘の上で死者が踊り狂っていた。燃え上がる業火に飲まれ、意図せぬタップを踏み、生きながら全身を焼き尽くされ、踊っていた。
私はそれを呆然と見ていた。もはや彼らは助からない。彼らは確かに罪人だった。私にはそれを裁く義務があり、手錠を掛け、署まで連行し、然るべき手続きの後、裁判に掛けるつもりだった。
「何甘ったれたこと言ってやがる。敵は殺すものだ。だからそうした。何故は俺の台詞だ、小僧」
「……殺す必要はなかったはずだ。相手はギアじゃない。人間だ。法の下の平等で庇護されているし、話し合えば、きっと……」
「アホか。こいつらがテメェをどうするつもりだったか知ってて、んな寝ぼけた口きいてんのか? 奴らはな、さんざんぱらテメェを犯し、薬物に漬けて、食い物にしたあとは稼ぎを巻き上げ、最後には殺すつもりだったんだよ」
「……な、う、そ、」
「テメェだけじゃねえ。テメェみてえな見目のいい人間を片端から見繕い、再起不能にして食い散らかしていた極悪人共だ。当局から出された要請は〝可及的速やかに処分せよ〟。生死問わず以下の扱いだ。当然だな、奴らは被害者の人権を踏みにじった。その上で自分たちだけ人権を保障しろなんて言い分、テメェみてえな脳味噌お花畑のクソガキにしか通らねえよ」
は、と嘲りの色が奴の顔に浮かぶ。奴は私を嘲笑し、また一方的に憐れんだ。この上ない屈辱だったが、言い返せる言葉が何もない。奴の言うことは筋が通っていた。因果応報。それはけだもののルールではあったが、聖戦を経た私の世界では、旧時代に比べてシンプルなルールがまかり通っていた。長い戦争で人類は疲弊し、困窮し、心も財布も、罪人をのうのうと養っておけるほど豊かではない。ゆえに裁判を待つまでもなく明らかな咎がある人間には〝生死問わず〟の手配が掛けられる。
火柱はごうごうと燃え盛り、焔の中に揺らめく人影が薄くなっていくたび、断末魔も萎んでいく。しかしそれに相反して炎の美しさはいや増し、凄惨なほど華麗だった。「人の肉は脂が多いからよく燃える」奴が言う。「特にこういう、肥え太った豚共はな。せめて末期の花火ぐらい俺の目を愉しませてくれねえと、割りに合わねえ」。
「野蛮——この、けだもの——」
「ああ、そうとも。俺の炎は野蛮で俺は化け物だ。人を殺すことなんかどうとも思っちゃいねえ。テメェが、ギアを殺すことをなんとも思ったためしがなかったみてえにな。だが、けだものは、一体どっちだろうな?」
人肉が焦げ付き、むせ返るような臭いが私達を包み込む。酸っぱいものが食道を競り上がってきて、私は思わず手で口を押さえ、下を向いた。覆った指の隙間から吐瀉物が漏れ出る。ろくに胃袋にものが入っていなかったらしく、透明な胃液ばかりがびちゃびちゃと地面を濡らしていく。
「化け物を殺すのに躊躇いは要らねえ。テメェがそうであったように。そして化け物が人を殺すのにも理由は要らねえ。人を助けること、人を慈しむことに、理由が要らないように。けだものの理屈はシンプルだ。気に入るか、気に入らねえか、それだけが全て。そしてこの豚共には心底吐き気がした。だから俺が手を汚してやる」
唇から犬歯が覗いている。私はその顔に恐怖した。奴は嗤っていた。この光景を愉しんでいた。人が焼ける臭いを味わい、舌なめずりをし、けだもののルールで動いている。
「大人になれよ、坊や。いつかテメェを殺しにきた奴がいたとして、テメェはそいつに無抵抗で殺されてやるのか? 俺はやられる前に殺る。死にたくねえからな。たとえ敵が人間のガキの姿をしていようと迷わない。そんな良心はもうとっくに棄てちまった」
ジッポーライターの形をした剣が振り上げられ、火の中を抉り取る。焔の中で踊る罪人達の喉を、それで抉り潰したのだった。僅かに聞こえていた断末魔がそれで全て掻き消えた。凶悪犯罪者たちはこれでこの世から消え失せた。後には骨も残らない。
私はその時、はじめて、彼が怖いと思った。人と同じ規範の中で生活し、人と同じように感情を表し、人と同じように振る舞い、人と同じように暮らしている彼の中に、確かに、人間を逸脱した思考のスイッチがあるのだということを目の当たりにして怯えた。
けれど同時に、頭の奥から微かな声が聞こえてくる。私も同じではないかと。私もギアに同じ事をしてきた。ギアの女王に私の正義の歪さを指摘されるまで、それが正しいと信じて疑ったこともなかった。
人は、気が狂わなければ同族を殺せない。けれど化け物は殺せる。
その理屈が導く答えが……私は怖い。
「おまえは……本当に、もう自分を人間だと思っていないんだな」
私は届かぬ手を伸ばして嗚咽した。天へ向かって伸びる劫火は美しい。人の死を吸い、奴の人間性を喰らい、化け物の心を砕き、燃やし続けているから……
◇◆◇◆◇
「——あ、」
はっと目を見開き、エンジェルは浅い呼吸を繰り返した。視界に飛び込んでくるのは無機質な白一色の壁、申し訳程度のカーテン。炎はどこにも燃えておらず、静かなものだ。
寝室のベッドの上だった。ここにいるのは罪人を燃やし殺すギアに相対して胃袋の中身を吐きくだしてしまった警察官ではなく、ギア狩りの生活を補佐する共犯者だ。むくりと起き上がるとかぶりを振り、思考を整理する。すると長く伸びたブロンドを引っ張る手があり、エンジェルはそちらへ振り向いた。
「痛い」
「物思いが深すぎて、こうでもしねえとこっちを見てもくれなさそうだったからな。どうした? 随分、うなされてたぞ。今日の悪夢は、俺じゃなくてテメェの方に行ったか」
「どうも……そのようだな。頭痛がひどい……」
額を押さえて俯いていると、寝転がっていた男も起き上がり、エンジェルの背をさする。「大丈夫か」彼の声は気遣わしげだった。大学生だった彼の家に住み着いていた頃、よく聞いた声に似ていた。
「頭痛は法術じゃ抑制しづらいからな。錠剤がまだ残ってただろ、出すか」
「いや、平気だ。放っておけば治る。満月の前後は、体調を崩しやすいところもあるし」
「……セックスを我慢するべきか?」
「ううん、こうしていてくれ。人肌を感じている方が気が休まる」
珍しく殊勝な提案をしてきた男に追い縋り、身を預ける。彼は「本当かよ」と困ったふうに眉をしかめたが、エンジェルに身を寄せられること自自体はまんざらでもなかったらしく、穏やかに頬や髪を撫でた。
「テメェの言葉は嬉しいが、ここに来てからやたらとやってばかりだったのは確かだからな。少しは休め。俺もギアを狩ってねえからそっちにばかり体力回してた自覚はある」
「まあ、もう何ヶ月も山ごもりだからなあ。スイスからアメリカは私の転移では遠すぎるし」
「今んとこ、アメリカ国外にギアが恒常配備されたって話は聞いてねえしな。何度か国外へ実験部隊が送り込まれてるって噂はあるが……まだ尻尾も掴めてない」
だからここでアウトレイジの製作をしている限りはどうにも、と男がぼやく。とうとうアウトレイジを完成させねばという段取りまで来たので、無理を押して国外へ出てきたのだ。これで身体がなまりそうだからアメリカに戻るなんて言って完成が伸びてしまったら本末転倒もいいところである。
「オラトリオ聖人」及び「アウトレイジ」は、兵器運用目的のギアが各地に配備され出したのを切っ掛けにギア狩りを始めるまでの間、男が持てる全ての知識とエネルギーを注いでいた、無限エネルギーとその小型携帯式射出装置だ。オラトリオ聖人側の理論構築が難航したため長らくシーケンサの製作は後回しにしていたのだが、理論さえ組めてしまえばあとは装置を作らない理由がない。
ゆえにギア細胞がもたらす本能的な破壊衝動を無理矢理抑え込み、ここ数ヶ月は雪山の中でコツコツと大嫌いな努力行為に励んでいた。その甲斐あり、アウトレイジは完成の目を見つつある。もう少しでこんなへんぴな地とはおさらばだ。
しかしだからといって、鬱憤がたまらないはずもなく。
「とはいえここまでの運動不足は久々だ。スレイヤーがこっち住まいで、ちょくちょく手合わせしてくれるのには実際助かってる」
男は積もる欲求を二つの手段で無理に消費していた。ひとつは、エンジェルとのセックス。そしてもう一つが吸血鬼スレイヤーとの喧嘩である。元はと言えば、ルポルタージュ執筆に伴うインタビューなんか引き受けたのもそのあたりの謝礼を兼ねてのところがあった。そのために頻繁に会っていたから、スレイヤーも気安くなって「やはり名前がないというのは、不便なものだな」とか言い始めたのだ。
「ああ……そうだ。そういやジジイ、とうとう俺に贈る名前が決まったとか言い出したぞ」
そこまで考え、男は嘆息した。思い出してしまった。己は人か化け物か、みたいな話が最後に出てきてその衝撃で話そのものを忘れていたのだが、前回既に、彼は男への贈り物を用意していた。
それを口にすると、エンジェルが「どんな?」と妙に勢いよく食いついてくる。男は溜め息を深めた。
「〝ソル〟だとよ。通名とくっつけて、フルネームで〝ソル=バッドガイ〟。なあエンジェル、正直に言ってくれ。……どう……思う?」
「どうって」
「ださくねえか」
「いや。すごくかっこいいと思う」
「……本当かよ?」
思わず手を掴んで疑わしげに尋ねてしまったが、エンジェルは「本当にかっこいいと思うよ」と言葉を重ねるばかりだ。握り締めた手のひらから伝わる心拍数も平常通りで、気を遣って嘘を吐いているというふうでもない。そうか。エンジェルの基準では、かっこいいのか、この名前は。それにほっとしたようなそうでもないような不可思議な気分になり、男は唸る。
ソル=バッドガイ。敬愛するロック・スターの愛称に太陽。スレイヤーのネーミングというだけで疑ってかかっていたのだが、言われてみれば、それほど悪くないような気もしてくる。ただ、自分が大昔に棄て去った人間の頃の名前と並べるとどうも馴染まないのも確かだ。ソル=バッドガイという名は、野蛮で、自由で、獰猛で、放埒だった。ヒーローになんかなれっこないと思い込み、憧れたことさえなかった人間の男の子には似ても似つかない。そんな名前だ。
「今おまえが何を考えているのか当ててやろうか」
男の百面相を見て、エンジェルがくすりと笑う。挑発するように「やってみろよ」と返せば、エンジェルはもぞもぞと動き、男の股ぐらに乗り上げてくる。
「ソル=バッドガイなんていかにもな名前が自分に似合うのか、ちょっと自信がないんだろう。科学者の卵だった大学生は、銀行強盗を懲らしめた私の行動をヒロイックだと糾弾し、ヒーローなんて遠すぎて、自分には関係ないと言っていた。なのにこんなヒーローみたいな名前が似合うものか、迷ってるんだ」
「ああ、正解だ。少しわかりやすすぎたか」
「うん。それに……確かに、運動不足の人間の科学者では、こんな強すぎる名前はもてあましてしまうだろう。……なあ。スレイヤー卿は、何か他にも言っていなかったか」
「あ? ああ。『この名は、君が再誕を迎えたその時に名乗るのが相応しかろう』とかなんとか、言ってやがったな。確か……」
よくわかるなと聞けば、ずっと一緒にいたからね、なんていう甘ったるい返事。昨晩の名残で何も身に纏っていない剥き出しの身体を押しつけ、エンジェルはじゃれついてくる。指先が男の身体を這う。男のかたちを確かめるように。今ここにいる名前のない男、未だソル=バッドガイとは名乗っていない、かといって人間の名も名乗れない、何者でもない男の輪郭をなぞるかのように。
(再誕……再誕か。まあ、そうなるのか)
一度死んで化け物になった男が、世界から与えられた敬愛するロック・スターのニックネーム。剣も魔法も使えないけれどギターとマイクがよく似合う、人間の男の子にとって間違いなくヒーローだった彼の愛称を、人をやめてからもらうというのは、なんだか奇妙な心地がする。
(だが……なんか、引っ掛かるんだよな……)
折り重なったエンジェルの柔らかい身体をいやらしい手つきで撫で回し、男は首を捻った。人として死んでロック・スターの名を手に入れるというのはなかなかにヒロイックな成り行きだ。それも本名じゃないニックネームの方は、世の中に憎まれている犯罪者が名乗るにはうってつけだろう。スレイヤーが新しいファーストネームに象徴的な名前を選んだのも、それを踏まえての事なのかもしれない。ソル。ラテン語で太陽。シンプルで、ただ純粋に力強く、それはまるでフレディ=マーキュリーの歌声のようで。
でも本当は。
「きっと……歴史が、動く。その時が、近づいて、来て……ん、あ、あぁっ……」
男が親から与えられた名前も……敬愛するロック・スターの名前だったのだ。
◇◆◇◆◇
寝室を出て、誰もいない廊下をひたひたと歩く。このラボに来てもう数ヶ月。アウトレイジは完成間近で、スレイヤーはギア狩りに贈る名を決めた。あらゆる条件が揃い始めていた。先生が最初に決めたタイムリミットが、もうそこまで来ている。
この八年間、エンジェルは名前を棄て去った彼といくつもの施設を潰し、彼の生活の全てを支援した。全てのギアを殺し尽くすという男の復讐に手を貸すふりをして、再び彼の信頼を手に入れた。全てが順調に進んでいる。エンジェルの心を除いて、全てが。
「……やっぱり。
書斎に入り、個人的につけていたノートを取り出してぱらぱらとめくる。目当ての項目を流し読みして、誰に聞かせるでもなく独りごちた。男は寝室で二度寝を決めている最中だし、防護結界を張っているので独り言が漏れ聞こえる心配はない。結界のたぐいを張ることに関しては、子供の頃からエキスパートの自負がある。そんなことを続けていたら団でまことしやかに「守護天使」と呼ばれ初め、そのうち本当に最年少で守護天使の役職に就けられてしまったのだが、それはさておき。
「……もう、いいじゃないですか、先生。いえ、
分厚いノートをぱたんと閉じ、エンジェルは力なく首を振った。
ノートには、「ギア狩り」がこれまでに行ってきた全ての破壊活動の詳細が記されていた。シカゴで起きた第一の事件から、一躍世界の有名人になるきっかけとなったセント・ジョージの大爆発、そして最新の事件であるベセスダの火災に至るまで。事件の規模、犠牲者の数、殺害を確認出来たギアの数、それら全てが事細かに記されている。
エンジェルが引っ掛かっているのは、そのうちの人間の犠牲者に関わる項目だ。ギアを殺すという大目的を遂げるため、どの事件でも、巻き添えで犠牲になった人間は出ている。ギアを守ろうとするならば人間であろうと容赦は出来ない。それが男の言い分で、彼は度々、研究施設丸ごとを火の海に変えていた。
けれどそれだけだ。施設炎上の巻き添えをくらって死人が出ることを除けば、彼は人殺しをしたことがない。その剣で、腕で、人を屠ったことはない。彼が殺すのはいつも、わかりやすい化け物の形をしたギアばかり。ここまで八年間、二人が遭遇したあらゆるギアは動物かそれをベースに改造されたキメラの形をしている。
思えば男は人間に対していつも寛容だった。「頼むから助けてくれ」と泣いて命乞いをしてきた科学者たちへ唾を吐きかけることはあったが、しかし必ず、男は彼らを生かしたまま逃がした。恐怖を刷り込んで口外しないことを約束させた上で、情報提供の見返りとして逃がしてやるのだ——という体を取ってはいたが、言われてみれば確かにそれは、殺人鬼の理屈ではない。
「……何を考えているんだ、私は」
そこまで考えてふるりと首を振る。殺人鬼の理屈などなくたって当たり前じゃないか。彼は復讐者ではあるがシリアルキラーではない。復讐に必要のない命を殺める理由なんかどこにもない。ギアさえ殺せれば、人間を殺す必要はない。ギア狩りの行動理念は別に破綻していない。
そう思いたいのに。
「本当に私までおまえを殺さなければいけないのか、フレデリック」
スレイヤーが男に告げたという言葉がいつまでも脳裏に響いてしかたなかった。それを切っ掛けに、今まで考えないようにしていた可能性が堰を切ったように頭の中であふれ出す。ギア狩りバッドガイは未だヒト。身体を化け物のそれに変生させ、復讐鬼に成り果て、数多のギアを惨たらしく血祭りにあげてまわっていたとしても、彼はまだ人間のくびきから逃れられていない。
世の中を俯瞰して生きる吸血鬼、正真正銘の異種が口にした言葉が、酷く重たい意味を持ってエンジェルにのしかかってきていた。彼が「新しい名は再誕の時に」と告げたらしいことが、ほとんど全ての答えを指し示している。エンジェルが蓋をしてきたものが詳らかにされる。モラトリアムはもう終わる。未来へ進もうとする歴史の力が、世界が、エンジェルの逃避を許さない。
わかっていた。狂気に堕ちねば人間は同族を殺せない。弱肉強食に支配されたけだもののシンプルなルールとは違う。しかしその一方、同族以外は平然と殺す。子供であろうと、「己と違うもの」には躊躇いを持たない。かつてエンジェルがそうであったように。
「……あいつは、人間を、殺していた。嗤いながら。嗤いながら……己の手で火炙りにし、人肉の焼ける臭いを愉しみながら喉元へ刃を突き立て、殺してみせた。私の見ている前で……!」
だからもし、ギア狩りが自分の意思で人間を殺せないのだとしたら。
それにも関わらず、ギアを殺すことに躊躇いがないのだとすれば……。
エンジェルは目を閉じる。いやだ。そんなことを考えたくない。信じたくない。いやだ! あんな男と同じ罪に手を染めるのは、もう懲り懲りなのに!
でも現実は非情だ。エンジェルの心を待ってなんかくれない。
もし——フレデリック=バルサラがまだちゃんと死ねていなくて、動く死体のように、ギア狩りの身体を引き摺っているのだとしたら。
エンジェルは彼を殺す。ギア狩りの身体を棺桶に、墓の下の死人を押し込める。そして死体を材料に新しい生き物を呼び起こす。それこそがこの時代で課せられたエンジェルの使命。歴史を導き、エンジェルが愛した世界、愛した人々、愛した男を、生み堕とす。
「ああ、それでも私は、止められないのですね。願うことも、祈ることも、無責任に希うことでさえ。十字架の先には誰もいないのだと知りながら……」
エンジェルは己の予感に涙した。この八年間、出来ればギア狩りの男を殺したくはないと思い続けてきた。共に過ごし、睦言を交わし、彼の愛を受ける度、その想いはいや増していった。もう、いいじゃないですか、神様。どこにもいない
「確かめないと、いけないのでしょうね。そう、過去へ来ることを了承した時点で、決めていたはずだ。私は逃げない。終わりの瞬間がどれほど恐ろしくても」
それでもエンジェルは、男を殺すのだろう。
耳元で法術通信の魔法陣を開き、生唾を呑み込む。たとえどんな感情が働いていようと、エンジェルは一度決めたことを完遂出来てしまう。どこまでも非情になれる。六十三年前、フレデリックをたぶらかしてまんまと生体情報をせしめ、
何故なら。
「——飛鳥。話があります」
二一七二年の未来、エンジェルは……カイ=キスクは、あのどしゃぶりの雨の日に彼と出会ってしまったのだから。