10 夏への扉




※R-18描写と若干のグロ描写を含みます。高校生含む18歳以下の方は閲覧をご遠慮ください。




 ——もう、十分、罰を受けたじゃないですか、先生。
 どうして彼ばかりが、こんな苦しみを受け続けなければいけないのですか。
 どうして世界は、私の愛した男を、楽園に住む新人類の雛形に選んでしまったのでしょう。

「君の問いに答えるのはとても難しい」
 箱庭の楽園で先生はそう言ってカイに目配せをした。天使になる男の子はそれに不満げな表情を返したが、先生の答えは揺らがなかった。
「因果律に関わる問題は、不変の結論が付けられない。いくつもの変数が定義に必要とされ、演算結果は常に変動し続ける。そのためにバックヤードがあり、ゆえにこそ君が生まれた。だから或いは、こう答えることしか私には出来ない。君が生まれ、君が愛したから、彼は背徳の炎に選ばれたのだと」
 チェス盤の上に置かれた白のクイーンをつまみ、ぶらぶらと手慰みに弄ぶ。続けて先生は黒のキングをつまみとった。これが君だよ、そしてこれが彼だ。白のクイーンと黒のキング。決して相容れず、クイーンはキングを屠るために動く。残酷なたとえ。
「そんな馬鹿な、という顔をしているね。しかし事実は変えようがないものだ。コロンブスの卵は破滅を招く。飛鳥を介し未来の私から託されたのだというメッセージが本物である限り、この答えは揺らがない。君に出来ることは、裏切るその瞬間まで、せめて幸せな時間を過ごさせてやることだけだ。無論タイムリミットはあるが、そこまでは、チェックメイトを焦らせようとは思わない」
 その頃私はもう盤上を降りている頃合いでもあるだろうからね、と先生は言葉を結んだ。
 西暦二〇一〇年の春。オースティンの街へ向かうその直前、エンジェルはたった一度だけ先生と相まみえ、会話を持った。二十世紀最大の天才にして二十一世紀最悪の鬼才、人類の永遠に続く幸福などという気の狂った命題を掲げ、慈悲なき啓示を生み出したその父。そして元老院を創設した使徒達が崇めた男。彼はエンジェルが想像していたより若々しい外見をしていたが、頭脳は、エンジェルの想像を遙かに超えて彼岸へ到達してしまっていた。
「……何故、私だったのです?」
「私は啓示を打破するためにいくつもの種を蒔いた。それが芽吹けば、君のような完成形がいつか必ず生まれると確信していた。それだけのことだ。正しく結ばれた紐の形に何故や何は必要がない。1+1は必ず2になり、小数点は割り切れることがない。事実に理屈は存在しない。歴史は正しい形に向かって進もうとする力を持つ。慈悲なき啓示が現行人類を滅ぼそうとするのならば、それに対抗しうる者が生まれる。それが君であり、背徳の炎であり、ユノの天秤であった。それだけのことだ」
「だからアダムとイヴを種に閉じ込めた」
「然り、それは事実を導く為に必要なプロセスだった。絶対確定世界に耐え得る人類が生まれ始めるまで。——そう、君のような」
 二つの駒がチェス盤に戻る。空っぽになった手のひらは、エンジェルの頬をなで上げた。ぞっとしない温度だった。
「君は優秀だ」
 先生が言う。エンジェルは目を瞑る。逃げ場はない、けれど。
「私の望みに応えてくれるね、エンジェル」
「……私は、私の願いと祈りのためにのみ、命を賭けます」
「ならばそれで構わない」
 答えはせめて自分で選び取りたい。辿り着く場所が定められた予定調和であったとしても、彼に掛ける指先には、己の血を通わせていたい。


◇◆◇◆◇


 終わりの日は、マッターホルンに引っ越してきてギア狩りを半隠居し、数ヶ月が経った頃になってようやく訪れた。あまりにギア狩りの襲撃が起こらないので、ラジオ・ニュースでは「これほど平和な日々が続いたのは本当に久しぶりで、記録はなおも更新され続けている」なんて内容がコメントされはじめたぐらいの頃だ。世界の終わり、歴史の転換点、そういったものはいつも水面下で密やかに進みある日突然やってくる。その場に立ち会わなければ、世界の存亡がいつどの場所で賭けられていたのかなど、誰にも分かりはしない。
「あ……ぁ、ん……。いいよ……ずっと、奥まで……きて?」
 その日のキスはとびきり甘ったるかった。もう間もなく終わりの瞬間が訪れるということを、エンジェルはうっすらと悟っていた。どれほど目を背けたくとも、覚悟は決まっている。飛鳥に連絡を入れたあの日、停滞していたエンジェルの使命は再び動き始めた。覚悟は決まっている。いつかそんな日が来るということを、最初からわかっていた。
「ああもう、こんなに舐めて。乳首……たったまま、戻らなくなったら、どうしてくれる……」
 でも、夢を見たかった。奇跡に賭けてみたかった。ご都合主義と罵られてもいい、陳腐なSF小説のラストみたいに、何一つ失うことなく全てを手に入れられたらという夢想を棄てきれなかった。
(けれど猫のピートは、私のそばには現れなかったから)
 歯を食いしばり、痛みとそれを凌駕する快楽に溺れる自分を叱咤する。ヘッドギアがずり落ち、ドラゴンインストールの侵食によって竜のかたちに変化した男の身体を受け入れながらエンジェルは喘いだ。滅多なことがなければ御法度にしているヘッドギアを外した状態での交わりを、今日は彼に許した。表向きには、アウトレイジが完成の目処を見た祝いとして。その実は……彼に手向ける、最後の晩餐の代わりに。
 固くとがり、グロテスクな外見になった外性器が荒々しい抽挿を繰り返す。鈴口も亀頭と竿の境目もわからないぐらいごつごつして盛り上がった赤黒い肉が、エンジェルの柔らかな肢体を蹂躙し傷つける。思えば、過去へきた当初からわたしはけだものだった、とエンジェルは思う。王の責務を忘れ、天使を名乗る淫魔のようにフレデリックに対して振る舞い、彼の精液を啜り取り、でもそれが使命だから、警察なんかしてた頃には考えも付かなかったような卑猥な真似に及んだ。
「やだ、そんな、おっきいの、はちきれちゃう……」
 フーッ、フーッ、と盛りの付いた犬のように男が吐息を漏らす。キスをする度に口の中がいろいろなものでいっぱいになって、何の味がしているのかもよくわからなくなる。彼の精液を最初にしこたま飲まされた。それから唾液をべちゃべちゃになるまで注ぎ込まれた。ドラゴンインストールをすると彼の身体は獣に近づき、唾液の量が多くなって、粘着質になり、キスはどろどろとしたものに変貌する。だからこの状態でキスしながら射精なんかされた日には本当にとんでもないことになる。全てがどうでもよくなり、快楽の波にだけ身を任せ、自分が壊れてしまってもいいとさえ、思ってしまう。
 最後の交わりにこの形を選んだのには、そういう理由もあったのかもしれない。竜になった彼の陰茎が入り口に引っ掛かって浅い場所ばかりをごりごりに押し潰され、真っ赤に腫れあがった顔で、鱗に覆われごつごつした身体を抱擁した。狼と同じで、この姿だと、性器のとっかかりが膨れあがって栓をしてしまうらしい。精巣の中身をありったけ吐き出すまで抜けてしまっては困るというわけだ。そんな行為に生身の人間の身体で付き合っていたら、きっと命がいくつあっても足りなかっただろう。
 エンジェルは傷だらけの両腕をふらふらともたげ、鋭く伸びた犬歯を覗かせる男の額を撫でた。そこに灯るのは、忌まわしきギアの刻印。エンジェルのはじめてを根こそぎ奪っていった男と同じ呪いの印。しかしそこに灯る色は、心なしか、はじめて見たそれよりも薄いような気がする。あの、破壊神ジャスティスの亡骸を踏み締め、立っていた彼のものよりも……。
(おまえはまだ人間か? 今もまだ私の介添えが必要か、フレデリック。……むごいまねを、強いることになる。けれど確かめさせてくれ。もし、おまえが——)
 尾てい骨から生え伸びた尾がゆらりと持ち上がり、エンジェルの四肢を絡め取る。直腸を肥大化した竜のペニスで抉られながら、太く固い尾で身体の隅々を更に犯される。浅い裂傷が身体中をまんべんなく覆い尽くす。その度勝手に始まりそうになる自己再生を無理矢理押さえつけ、癒えぬ痛みを全身で感じながら人間の成れの果てに抱かれ抱きしめ返す。
「ぁ——ああ、ぅ、ぐ、うぅ……」
 男を受け入れる行為に慣れきった身体が痛みを次々と快楽に取り替えていく。しかしそれでも全ての痛みがなくなることはない。人には負担の大きすぎる竜との交わりが熱に浮かされたエンジェルの意識をこの世へ押し留める。きもちいい。いたい。すき、だいすき、いたいいたいいたい、全部忘れてしまいたい、でも、いたいから、痛みが、全てを縛り付け、忘却を許さない。
「出して——おまえのありったけ、持てる全てを、わたしに——」
 その声を合図に、けだものの欲望が洪水のようにあふれ出す。勢いよく放たれた白っぽい液体は、ほどなくしてエンジェルの腸をだぷだぷになるまで満たすとどばどばと零れ落ち、シーツの上に滴り広がった。生臭い液がしっちゃかめっちゃかになったシーツに海を作る。エンジェルは鱗が深く刺さり絶えず生傷が増え続けることにも構わず男を抱いた。男がこちらを気遣ってくる。大丈夫か、俺も治癒を掛けるか、そんなふうに声を掛けてくる。
 エンジェルは黙って首を横へ振った。化け物の身体に造り替えられた男の心は、しかしその身と同じぐらい暖かい。その温もりがエンジェルに涙一つ許してくれやしない。


「……で、出来上がったとは聞いたけれど、どのくらいの状態なんだ」
 一度自室に戻ってシャワーを浴び、身体中に出来た傷も全て治し、服を着て奥の工房を覗くと、既に男も身支度を整えた後だった。ヘッドギアを外した反動でほうぼうへ好き勝手に伸びていた長髪も、元通りの量に切りそろえられている。
 男は設計図を手に持ったままエンジェルの方へ向き直り、「さっきはどうも」とひらひら手を振って見せた。
「ガワは作り終わった。中に入れるシーケンサの調整も大方終わってる。あとは可能な限りメモリを積み足して、実稼働に耐えられるかどうかのテストを繰り返して調整、だな。どっかで試し撃ちをする予定だ」
「そうか。良かった、間に合って。……しかし、これが〝アウトレイジ〟の全貌か。ようやくだな」
「ああ、ここ最近ずっとコアの作り直しばっかしてたが、これでようやくひとまずの完成だ。長かったな」
 壁一面に貼られた設計図を見ながら男がぼやく。このラボに越してくる前から使っている図面など、一部経年劣化が生じているものさえある。およそ六十年あまりを掛けた研究は、男が生身の人であったならば到底完成しえなかっただろう。法術は決して万能の魔法ではない。リソースが革新的だっただけで、呪文一つで海を割れるわけではない。そういう当たり前の事実が体系化されたのも、ほんのここ十年のこと。
「もう実戦投入出来るんだな?」
「理論上はな」
「設計図を見ていた時からずっと不安だったんだが、要求法術適性値がとんでもないことになってそうなのは大丈夫なのか」
「平気だ平気。俺とテメェなら起動出来る……と思う。恐らく」
「不安だなあ」
「そんな顔すんなよ。最悪動かなかったら八個ぐらいにでもバラすさ。何しろこの俺が全身全霊を込めて製作した、この世に現存する最高スペックのシーケンサだ。八分割ぐらいまでなら、米軍が持ってるスパコンの数倍のパフォーマンスが出るぜ」
 自慢げにボディを撫で、男が胸を張る。実際に八分割された後のものがどれほど途方もない武器として扱われていたのかを知っているエンジェルは曖昧に頷いた。だからたぶん、このアウトレイジも手に余る。期待した通りの出力が出せないのか、それとも術式の発動がまず不可能なのかは使わせてみるまでわからないけれど。
 それより……今日は、とびきり危険な賭をしているのだ。エンジェルは緊張を悟られないよう努めてポーカーフェイスを形作り、軽口を叩いた。
「で、結局どの程度の威力なんだ? オラトリオ聖人なんてたいそうな名前が付いているんだ、下手したらこの山ごと吹き飛んでしまいそうな気もするけど」
「あー、まあ、無限っつっても持続の方に大幅に割いてるし……そこんとこは、実際に使ってみねえとなんともな。殺してもいい身の程知らずがここまで来てくれりゃあ、その手間も省けそうなもんだ……が……」
 来るわけねえよな、こんな山間に。そう言いかけた男の言葉を、突如けたたましいビープ音が遮った。
『——緊急警報、緊急警報。第一区画に侵入者あり。各員は速やかに所定の位置につき、迎撃態勢にシフトせよ。繰り返す、緊急警報——』
 来た。エンジェルは冷や汗の流れる手を握り締める。ラボのセキュリティに搭載されているオペレーションシステムが、大音量で施設中に警告を発しはじめた。このラボをねぐらに改造する際、警告・迎撃のシステムも「何かの時のために」と一応残しておいたのだが、実際にこれが鳴るのは初めてだ。なにせ、ここは深い雪に覆われた標高四四七八メートルの山中。よほどの目的がなければ、外部の人間はやって来ようがない。
「……来たみたいだぞ、身の程知らずが」
「せっかく最高の気分を味わった後だっていうのに余韻に浸る暇もねえのか」
 エンジェルは息を潜めた。強張った顔は、男が今まさにボルトを嵌め終えたアウトレイジに向けられている。
 男は突然の事態に驚き、しかしエンジェルの顔を見ると頷いた。恨みは山ほど買っている。その自覚がある分、冷静になるのも早かったらしい。
「動けるか?」
「テメェこそ、腰は動くか」
「おかげさまでね。おまえに付き合っているうちに私の腰はどんどん頑丈になる……。ちなみに……警報システムが誤作動したという可能性は、どのくらいだと思う」
「テメェがメンテしてんだ。限りなくゼロに決まってる」
 仮稼働に耐えうる状態になったアウトレイジを引っ掴み、椅子から立ち上がる。ラボの心臓部であるこの部屋は、入り口から最も遠い第八区画の中枢だ。メインマシンに接続しているコンソールを操作して隔壁は降ろしたが、警報が本物である以上時間稼ぎにしかなるまい。
「CIAがとうとうギア狩りのねぐらを嗅ぎつけたってワケか。あの野郎、舐め腐りやがって」
「すまない。まさかここがばれるとは」
「元々、あの男の持ち物なんだろ。回線は完璧に遮断してシステムも書き換えたが、相手が世界最高の魔法使いじゃあ、何が起きたっておかしくはない。それより武器持て、武器。俺はコイツの試運転としゃれこむが、テメェは……」
「この前鍛冶屋で用立てた剣がある。ないよりはましだろう」
 パーツの一部として確保したものの結局使われなかった剣を手に取り、エンジェルが答える。実用重視の長剣は、フェンシングに用いられるような突剣より無骨だったが、鞘に差して腰に吊り下げると妙にさまになった。まるで随分と長い間そこにあったかのように、彼のたたずまいには長剣がよく似合う。
 男が瞬きをして再び見た時には、エンジェルは、戦に出る覚悟を決めた中世騎士の面差しをごく自然に見せていた。
 

◇◆◇◆◇


 隔壁を突破し乗り込んできた敵勢力とは、早くも第三区画でかち合った。防護シェルターとなんら遜色のない鋼鉄製の壁は、法術の炎で炙られ、ギアの怪力でねじ曲げられている。
「チッ、ウィザード混じりか」
 男は舌打ちをし、肥大化した四肢で地を蹴り飛び上がった狼型ギアを拳で殴り落とした。
 ウィザード——魔法使い型は、ここ一年でちらほらと見られるようになった新型ギアのことだ。男が勝手にそう呼んでいるだけなので正式名称は知らない。ここ数年は続々と新規コンセプトに沿って開発されたと思しきギアが出てくるので、正しい名前を調べてやるのは諦めた。覚えきれる量ではない。
 そんな中、ウィザードだけを適当なコードネームで区別しているのは、それらが単純に驚異的な存在だからだ。奴らは狼や熊なんかの通常なら法術を使えるだけの知能が備わっていない生き物を素体にしているのにもかかわらず、平気で炎や水を生成し攻撃してくる。ただでさえ人を遙かに凌駕した暴力性を備えた生体兵器が、更に法術を使ってくるのだ。米軍のギア研究は、一体どこを目指しているのか。次はどんな兵器を生みだそうというのか? それを考えるだけで胸糞が悪い。
「全員、死んどけ——」
 両目を血走らせ、涎を垂らしながら突進してくるモンスター達を続々と捌きながら入り口目指して進み続ける。しかしそれにしてもすごい量のギアだ。四足歩行から逞しい翼を広げるものまで、ラボを襲いに来たギアの種類は多岐にわたった。今米軍が所有している全てのタイプを、試験運転を兼ねて投入されているようなそんな感覚だ。
 ——なら、見たことのない新型ギアが出てくる可能性も……。
 数十体目のギアを縊り殺し、ふとそんなことを考える。しかしすぐに首を振って雑念を払った。だからなんだ? どんな敵が出てきても殺すだけだ。化け物は殺す。道を阻む物は殺す。それ以外に必要なことは何も無い。たとえ、どんな姿をしていても、殺さねば……。
「——は?」
 だが、目の前に広がった光景を見た瞬間、とりとめのない考えは足の動きと同時に止まってしまった。
 第一区画内、ラボ玄関ホール。コンテナが隅に放置されている以外何も無いだだっ広いエリアに二つの人影が立っている。金髪碧眼の、双子だった。身長は百五十数センチあまりで、でかでかと星条旗が縫い付けられた白軍服を身に纏い、突っ立っている。
「なんで、ガキが……」
 アウトレイジを持った手が僅かに震えた。子供達と男との間は数メートル離れていたが、人間より遙かに優れた視力を持つ男には、何の生気も宿っていない少年少女の瞳がはっきり映っていた。敵か。こんなところにいるんだ、敵に決まってる。そう認識するがアウトレイジが持ち上がらない。敵? こんな、小さな、子供が?
「——馬鹿、構えろ!!」
 背後からエンジェルの鋭い叫び声が上がる。男の両脇を太い雷が走り抜け、子供が立っていた場所に焼け付いた。子供達は異常なまでの身体能力で飛び上がり、それを回避する。その直後、何事かを確かめ合い、猛烈な勢いで男の方へ迫ってくる。
 はっとしてバックダッシュでその場を離れ、エンジェルと肩を並べた。肩で息をする男に厳しい視線を向け、エンジェルが早口でまくし立てる。
「何してる! 早くアウトレイジを撃たないと」
「い、いや、それより。なんで、子供がんなとこに……」
「何を言っているんだ? どう見ても米軍の工作兵だろう。生体兵器に手を出している奴らだぞ。子供を兵にするなんて非常識だ、という言い分を棄て去っていたっておかしくはない」
「なんでそんな冷静なんだよ、ああくそっ!」
 舌打ちをし、震える両手で無理矢理アウトレイジを持ち上る。通路を走る間ずっと頭の中を渦巻いていた、シンプルで野蛮な考え方はいつの間にか消えてなくなっていた。男はそれでもアウトレイジの照準を合わせようと試みた。それに合わせてエンジェルが詠唱を開始し、法術の光で子供達を空中へ磔にする。
(一発だ。一発撃てば、それで終わる)
 コアに法力を流し込み、術式の起動を試みた。オラトリオ聖人は理論上上限値のない超エネルギー。心臓を狙わなくとも、発射さえ出来てしまえば、半径一メートルを優に超える超巨大エネルギー波が子供達を襲い、二人を跡形もなく蒸発させることが出来る。
 だが。
(相手が子供だろうが、そうしなきゃなんねえんだ。奴らは俺を殺そうとしている。明確な殺意を持っている。俺が今まで殺してきたギア達と何が違う。殺されそうになったら、殺し返す。単純なけだものの理屈——なのに何を躊躇ってる。俺はもう化け物だってのに!!)
 怖い。
 その感情を認めたくなくて、男は己を叱咤して強引にトリガーを降ろした。怖い? 一体何が。子供を殺すのが怖いのか? 人間を殺すのが怖いのか? でも今まで、男はもう何人も人間を殺してきたはずだった。ギアが配備された施設を焼き払えば、大概の場合、逃げ切れなかった人間も一緒に焼け死んだ。中には子供もいた。男は既に殺人者だ。今更子供を二人殺したところで罪が増えるほど綺麗な身体じゃない。
(だが、この手に掛けたことは)
 カチ、カチ、と何度も撃鉄を降ろしたが、オラトリオ聖人は一向に射出されない。冷や汗が幾筋も頬を伝う。失敗だ。このシーケンサでオラトリオ聖人は射出できない。術式の負荷に耐えうるよう調整した結果、ハードウェア側の要求スペックに男でさえ到達していない。
 …… なら ・・ 殺さなくて済むのか ・・・・・・・・・
 ふと脳裏を過ぎったそんな考えを、エンジェルの切羽詰まった怒り声が掻き消した。
「まだか?! 拘束術式を破ろうとしてる!! そう長くは保たない!!」
「駄目だ、コイツじゃオラトリオ聖人は撃てない!! 要求スペックが高すぎて発動できねえ。俺で駄目なら誰にも動かせない!!」
「なら今すぐ奴らの首を取れ。——早く!!」
 エンジェルが彼らしくもなく声を張り上げて叫ぶ。ともすると懇願しているようでもあった。男は彼の言葉に従おうとし、けれどはたと立ち止まってしまう。首を取る。そのシンプルな言葉が、男の中にすとんと降りてこない。何故子供の首を取らねばいけないのか、理解が出来なかったのだ。
 理屈で言えば、エンジェルの言うとおりだ。敵を殺すのにオラトリオ聖人が必要なわけではない。そんなものが使えなくても、殺す方法なんかいくらでもある。この場所に来るまで幾体ものギアにそうしたように縊り殺してもいいし、心臓をぶち抜いてはらわたをぶちまけてやってもいい。あるいは脳を潰しても。どれもギア相手に何度もやったことのある殺害方法だった。男の並外れた膂力であれば、全て素手で実行可能だ。
 でも出来なかった。
 人間の子供にそんな残虐な真似をすることは、出来なかった。
「殺さないで済む方法はないのか」
「は? 何、言って、」
「子供だぞ。目つきだって異常だ、操られてるのかもしれない。何も殺さなくたって……」
「……おまえ、自分が何を言っているのかわかってるのか?」
 やつらの目が見えているのに、とエンジェルが厳しい語調で畳み掛ける。男には小さく呻くことしか出来ない。エンジェルにこんな荒い言葉を向けられる意味がわからない。そりゃあ、ギアは、殺さねばならない。やむを得ず人を殺すこともある。しかし今目の前にいる子供達は、ただ軍部に操られている被害者かもしれないのに……。
 ばちばちとはぜるエンジェルの拘束術式に抗い、子供達が金切り声を上げ続けている。そのあんまりにも地獄のような光景を見ていられず、たまらず目を背けると、いつの間にかエンジェルが男のことを見下ろしてきていた。それでようやく気がついたのだが、いつの間にか男は、腰が引けてへたり込んでしまっていたらしい。
 エンジェルはそんな男の胸ぐらを掴み上げると、ひどく厳めしい顔をして男を見据え、強張った声を上げる。
「それとも額が見えていないのか? あの、あかあかと灯る悪魔の印が。——奴らはギアだ。子供を素体にした人型ギアだ。ギアは全て殺す。それがおまえの復讐だろう」
「な……ギ、ア、? 子供が? んな馬鹿な話が……」
「…………。もういい、わかった。拘束術式が限界だ。あとは私がやる」
 そして絶望とも失望ともつかぬ悲しげな顔をすると、エンジェルは男を床に放り棄てて地を蹴り飛び上がった。

 そこからは、ほんの一瞬の出来事だった。空中から幾本もの雷を飛ばし、子供たちの四肢にそれをざくざくと突き刺す。少年少女は一層の痛みに藻掻き苦しみ、聞くに堪えない悲鳴を途切れることなく上げ続ける。まだ声変わりも迎えていないボーイソプラノと、それに綺麗に重なる少女のソプラノ。それにまったく動じた素振りもなく、空を切りエンジェルが急接近していく。
 そして近づくや否や、流れるような動作で腰の剣を抜き取った。子供達はその途端ぴたりと悲鳴を止め、かっと目を見開き、口を大きく広げた。有り得ない場所まで裂け広がった口内から鋭すぎる歯列が覗き、エンジェルの剣を噛み取ろうとする。しかしエンジェルはそれさえ意に介さない。その程度の抵抗には慣れていると言わんばかりに軽くいなし、右膝で少女を、左膝で少年の腹を思いきりどつき、隙を生んだところで剣を振りかぶった。
 途端、血しぶきが二つの噴水を形作った。ほんの数秒前まで子供の頭が乗っていた場所からとめどなく鮮血が迸っていた。夥しい量の返り血を浴びながらエンジェルが宙で返り、剣を下に構えたまま急降下する。剣先はまず少年の身体を抉り、真っ二つに切り裂いた。続いて、地に降りた剣が床を滑って下から上に少女の身体を切り裂く。身体を支えきれなくなり、肉塊となった子供達が床に倒れ込む。すると千切れた肉がうぞうぞと蠢き、急速に盛り上がっていく。
 ——身体を復元するつもりか!
 男がそう叫ぶよりも、エンジェルの冷え切った宣告が下る方が早かった。
「哀れな。せめて神の御許で安らかに」
 十字架のかたちに閃光が爆ぜ、続いて床に転がった肉塊が激しい炎に包まれる。たちまち、肉の焼け焦げる匂いがあたりに充満した。炎の中から掠れた断末魔が上がったが、それさえも燃え盛る炎の勢いに飲まれて消えて行く。
 それがどのくらい続いただろう。やがて法術の炎が消え去ったあと、床には、人の形に炭が積み上がっていた。骨さえ残ってはいなかった。未だ燻る、焦げ付いた人肉の匂いに酸っぱいものがこみ上げる。
 しかし男には、「何をしている」と叫ぶ権利がない。だってあれは、本来男がしなければいけなかったこと。そして男自身、何度もしてきた行為の末路だ。ただ普段は、建物の外から火を放っていたからこの光景に直面せずに済んだだけ。
 今更偽善者ぶる資格なんかどこにもないのに。
「……テメェは、なんで、顔色一つ変えやしねえんだ」
 けれど、やっとのことで開いた口からきれぎれに漏れ出したのは、そんな問いかけだけだった。
 尋ねられたエンジェルは、ただ泰然としている。子供達に対する容赦のなさといい、生まれからして、まるで男とは別の生き物であるかのように毅然としている。神の審判を告げに来た熾天使は、きっと今の彼と同じような顔色をして地上へ降り立ったのだろう。今のエンジェルには、信心深さを棄てて長い男にさえそう思わせるような威圧と拒絶とが取り巻いていた。蜂蜜色のブロンドから、白いワイシャツから、何から何までを返り血で真っ赤に染めたエンジェルは何にも動じていなかった。ただ冷徹な瞳で灰を眺め、ぞっとしない眼差しを男へ向けるばかりだ。
「……言ったじゃないか。私は人殺しの化け物なんだよ。慣れているんだ、命を奪うことには」
 平坦で抑揚のない、天使の宣告。しかしその中に確かに含まれている深い悲しみの色に、男はおののき、返す言葉を失ってしまう。
 色のない両目で男を見下ろしながら、エンジェルがつかつかとこちらへ歩み寄ってくる。どう見ても様子がおかしいが、とりわけおかしなことに、彼の放つ殺気が消えていなかった。もう殺すべき敵はどこにもいないはずなのに、エンジェルの殺気は消えず、ばかりか男の方へ向けられている。
「やはり……こうなってしまったか」
 エンジェル=R=クロイツは握り締めた剣の刃を指先でなぞり、放り捨てると、厳かな声を響かせた。
「これで全ての答えが出た。私の八年間にわたるモラトリアムが、たった今終わってしまった。残念だ。本当に。この生活が気に入っていたし、おまえのことを愛していた。でも——やっぱり、おまえは、『あいつ』じゃ、なかったんだな」
 男を間近に見下ろせる位置に立つと、ぴたりとエンジェルが立ち止まる。まくし立てるような口ぶりはらしくもない。まるで喋り続けていなければ立ってはいられないと言うように。自分に言い聞かせるみたいにして、エンジェルは嘯き続ける。
「あいつは、それが自分の行く手を阻む敵であるならば容赦はしなかった。女子供に優しくするという習慣は残っていたが、それは決して、女子供が敵ならば殺せないという意味ではなかった。おまえはあいつじゃない。……まだ、生まれ変わってなんかない……」
「エン……ジェ、ル……? 何、言って……」
「あの時の疑問に、今ならはっきりと答えが出せるよ」
 血まみれのズボンに手を突っ込み、おもむろに、エンジェルが無骨な黒い塊を取り出す。オートマチックのハンドガン。随分と昔に単純所持が禁じられたはずのブラックテック。
 人殺しの道具。
「そう、おまえが人か化け物か、という問いについてだ。結果から言って、おまえはまだ人間のままだった。でもそれではいけない。おまえはモンスターにならなければならない。だから……」
 エンジェルが朗々と読み上げる。全ては予定調和だったのだと言うように。最初から、男を殺すつもりだったかのように。昨日は男の下でみだらに喘いだその唇で、冷酷に死神の言葉を告げていく。
 男は本能的に命の危機を感じ、逃げ出そうとした。でも指一本身体が動かせない。四肢は凍り付いたように鈍重で、現実を受け入れられなくて、ただ、血に塗れてなお美しい天使の偶像を見上げるばかりで。
「死んでくれ、フレデリック=バルサラ。もう一度……今ここで!」
 銃口がぴたりと男の喉元に向けられる。
 その黒く光る無機質なボディを、ひとしずくの涙が伝い落ちた。