11 フレデリック=バルサラの殉教
天使になりたいなんて思ったことがあるわけじゃない。
鉄格子の向こうで、彼は笑っていた。アメリカの冷え切った独房の中、最悪の待遇を受けながら、褥で安らかに眠るように全てを見透かす目をして、私のことを見ていた。
「泣かないのかい」
フレデリック=バルサラという男と懇意になり、彼の心を痛めつけ、完膚無きまでに破壊し、モンスターを創造する。何も目新しいことではない。私はずっとフレデリックという名をあいつに対して用いたことがない。フレデリックなんて男のことを私は知らない、だからそうは呼ばない。たとえ近頃のあいつ自身が、己が棄て去ったはずの過去を訊ねて欲しがっていたとしても、私にとってあいつは、フレデリックなんていう過去の亡霊ではない。
それを、彼に渡されたこの拳銃ではっきりさせてくる、というだけのことで。
「涙など。とうに……なくしましたよ」
「……そうだね。君は泣かなくなった。生まれたばかりの頃もあまり泣かなかった、と聞いているけれど。……いつだったかは、しょっちゅう泣いて鬱陶しかった、ともフレデリックが言っていたよ……」
「ふ……ふふ。口が軽いな、あいつは。私は大人になったんです。自分のために涙を流す自由は、王の責務と共に封じました」
「なるほど確かに、王は涙を流さないものだ。けれど僕が知る限り、天使には涙の自由がある」
だからそんな顔をしないで、と咎人が私の手を取って言う。罪の温もりは甘い。己の指先と溶け合うかのように、でも当たり前だ、私も既に、咎人だったから。
「いつか聞いたことがあるよ。君は嘘だけは吐かない、とね。フレデリックの口からだ。彼は君のことを高く評価している。高潔で——友愛と慈愛に満ち、正義に実直。ちょっとばかり融通がきかないところが玉に瑕だったが、近頃は随分大人になり、そういうことも減ってきた。ゆえにフレデリックの中で君はそのような人種として結論づけられる。そう、正義に正直であるがゆえ、〝嘘だけは吐かない〟。正直者というレッテルだ」
でも君は本当はうそつきだよね。少年のかたちをした咎人は己の指と私のそれとを絡め合い、にこにこしながらそう言い含める。君はうそつきだ。本当のことを誰にも話さない。終わりの瞬間まで胸にだけ秘めて、だから残された人間を酷く傷つける。
あまりにも正鵠を射た言葉。何かを振り払うようにかぶりを振ったが、何ひとつ私から離れてはいかなかった。私は嘘を塗り固めるための虚偽を良しとしない。けれど全ての真実を人々に喧伝してまわるわけでもない。だから——私がギアだということを世界中の誰も知らない。
言えてしまえたら、と思ったことが何度あったかはもう数えていないからわからない。告白の誘惑はいつも甘やかで、私をじくじくと苛んだ。ああ、思いきり、吐瀉物を顔面にぶちまけるようにして言ってしまえたら。なあ、知っているか。おまえの隣にいるその男は、おまえの最も憎むべきもの。人の理を棄てたもの。私達があまねく星の数ほど殺戮してきたもの。忌まわしき生体兵器。おまえと同じ化け物、GEARなんだよ。そんなふうに言ってしまえたら。それはどんなにか……甘美で残虐な、悦びだろうか。
私は咎人の瞳を見据えた。私と同じ色の双眸を持つこの男だけは、醜い告白願望まで含めて、もしかしたら全てに気がついているのかもしれない。だからあんなふうに屈託のない笑みを浮かべて私の手を握るのだ。彼の笑い顔は、どこにも裏も表もないぶん、薄っぺらくて気持ちが悪かった。
「……それでもいいんです」
「本当に?」
「あなたの提案を呑んだ時点で、それが私の全ての答えだから」
「提案、提案か。殆ど脅迫だと思うんだけど、君はなんというか、お人好しだな」
「あなたの言うとおり、他に選択肢がない。私は人間が好きです」
「そして世界が?」
「そう。あなたの脅迫なんかどうだっていいけれど。……人と、世界と、愛したもののためになら、私はなんだって出来る。……今までと何も変わらない」
そう、何も、変わりはしない。
私は今までにさんざ命を殺めてきた。全て愛したものを守るためだった。そのためなら心なんていらなかった。私は殺人人形でよかった。いくら謗られようと冷徹な法の守護者でいるべきだった。キスと愛情と肉の交わりとを教えられ、翼を奪われて地を這ったとしても、冷酷な為政者のふるまいを徹底するべきだった。
でも私は。
友人を信じたかった。あいつの前で自分の心に正直でいられない自分を許せなかった。あの日あの瞬間世界と天秤に掛けてあいつのそばをとった。もちろん、あいつが万が一にも失敗するとはこれっぽっちも思っていなかったけれど——それが私の、最初にして最大の、世界に対する裏切りだということは、わかっていた。
「けれど、結果的に世界は救われただろう? 実際のところ、君はひとかけらも世界を裏切っていないじゃないか」
「しかし……それは世界が私に望んだ姿ではない。この事実だけは変えられません」
「愚直だな。なにもそこまで自分を追い詰める必要があるかい? ……で、僕の手を取るのもその罪滅ぼしみたいなところがあるわけだ。君って本当、自己犠牲的だよね。昔ジャック・オーに言われたことがある。君と僕を足して二で割れば、ちょうどよかったのかもしれないのにって」
「さあ……どうでしょうね」
何て笑えない醜悪なジョーク。私と彼とを足して二で割ろうだなんて! 咎人と咎人を足して割ったところで、そこには咎人が残るだけだ。彼は既に罪を犯した。そして私も罪を犯し、私と世界はその二乗の罪の上に成り立つ。故に私が彼を許さないこと、許してはならないこと、それら全てを悉知して、飛鳥=R=クロイツは、カイ=キスクに手錠を掛ける。聖書の代わりに、十字架の代わりに、いばらの冠の代わりに。
「本当を言うとね、僕は全ての結末を知っているんだ」
そうして彼は、私の喉元を撫でさすって微笑む。だってそうだろう? ものわかりの良い子供に言い含める父親の面をして、私の首に鈴をつけるみたいに。
「過去の僕は、未来からやって来たという使者との仲介役を果たしていた。一度目の接触では僕も記憶を奪われたが、二度目の別れでは僕が使者の全てを引き取った。故に実際の歴史で天使が何を為し、世界の均衡を保ったのか、その正答を熟知している。だから君を過去へ飛ばす役割は僕が担うんだ。君を過去から引き上げる役割もね。
これから君が過去へ飛び、歴史を守り抜いたからこそ、今がある。君がこれから体験する未来は、しかし本当のところ、僕達全てにとって過ぎ去った過去の事象に過ぎない。再三言うが、気に病むことはひとつもない。卵が先か、鶏が先か。そんなものに意味はないんだよ。
「よくもまあ、平気な顔をして。あなたが殺したから、フレデリックという男は、
「いずれ君も実感する。フレデリックにソル=バッドガイという首輪を繋ぐのは
何が全ての罪はこの僕に、だ。心底吐き気がして顔を背けた。自分と同じ色の両の瞳をこれ以上見続けていたら、頭がどうにかなってしまいそうだ。
しかし彼の言葉は、私のささやかな抵抗も許さない。
「餞別だ。一つだけ未来の、いいや、過去のことを教えてあげよう」
どれほど狂っていても、どれほど気が違っていても、飛鳥=R=クロイツという男は、常に己の正当性を信じていた。それは盲信と呼ぶには厳かに過ぎ、狂信と呼ぶには筋道が立ちすぎていた。彼はろくでなしだったが、それゆえ第一の男が望む未来、即ち「永遠に続く人類の幸福」への橋を架ける任に誰よりも適していた。
人の心を持ったまま神にはなれないんだよ、カイ。いつか聞いた誰かの言葉が蘇る。ならそんなものまっぴらごめんだ。神様になんかなりたかったわけじゃない。人々が望む世界を守り、人類の守護者であり続けた果てに神様になれと言われたからそう為るだけであって、私は本当のところ、天使でさえ、人でさえ、なくていい。
けだものを裁けるのがけだものだけだとするのならば。
私はけだものになろう。天使とは名ばかりの、放埒に振る舞い、智恵の実を与え、最後には自分勝手に制裁を下す、フレデリック=バルサラにとっての死神になろう。
「最後の瞬間、君は僕を罵るだろう。それはもう強烈に、未だかつてないほどにね。しかしそれは僕の記憶にだけ残されるものだ」
さあ過去へ、先生が選び出した天使よ。ギアメーカーが嘯く。私にクロイツの呪いを掛け、エンジェルの枷で縛り、あらゆる傲慢さを発揮し、鉄格子越しに私の事を抱きしめる。親猫が親愛の情を込め、子猫の頬を舐めるように。
◇◆◇◆◇
「死んでくれ、フレデリック=バルサラ。もう一度、今ここで」
喉元に突きつけた銃口が鈍く光っている。男は怯え、そして怒りに震えていた。当たり前だ。今朝方二人は愛情を酌み交わしたばかりだったし、昨日の夜だってベッドの上でじゃれ合って眠りに就いた。その前の日も、更に前の日も、もっと前の日も、ずっとずっと、ずっと、共に暮らして愛を交わしてきた。二人の関係はすこぶる良好だった。エンジェルはパートナーとして男の全てを支えてきた。彼の心に入り込み、ギアに改造され友も恋人も失い自分自身さえ棄てた男が、喪うものさえなくなったはずの男が、再び大切なものを手に入れてしまうように働きかけた。
男は喪失を埋めるよすがとしてエンジェルを愛した。エンジェルも彼の愛に応えるふりをしようと振る舞い、しかし気がつけば、本当に彼を愛していた。
「出来ればこんなことはしたくなかった。そうする必要はない、とまで思っていたさ。おまえの肉体は既にギアだし、言葉遣いも態度もフレデリックに比べて荒っぽい。もう十分フレデリックは死んでいる。私の知っているあいつに成り果てた。……そう、信じ込んだ。でも結果はご覧のざまだ」
エンジェルが冷酷に吐き捨てた。
飛鳥=R=クロイツが友人の命をベットしたように、この八年間、エンジェル=K=クロイツは己の命をベットし続けていた。ギア狩りバッドガイがフレデリックの生まれ変わった姿なのだと信じたくて、自分自身を削り続けた。
けれどエンジェルはここ一番の勝負で賭けに負ける。もう一度彼を殺す必要はないのだという証明を立てようとして、彼を殺す必然性にぶち当たる。フレデリック=バルサラはまだ死んでいない。彼は死に損ないのアンデッド。過去へ送り込まれる前、アメリカの独房でギアメーカーが言った通り、ただのウォーキング・デッドだ。
「エンジェル? エンジェル。頼む、銃を降ろしてくれ。そんなもんはテメェに似合わない」
「いいや、駄目だ。私はお前を殺して棺桶に詰める。そして二度と地上へ起き上がってこないよう、地下深くに埋葬しよう。フレデリックという人間が息づいたままでは、背徳の炎は制御しきれない。やがて訪れる戦乱の世を生き抜くことさえ難しいだろう。それは世界の終わりを意味する」
「何言ってんだ……意味が……」
「これも、言ってあったはずだな。私は未来からやって来た。だから、これから先、世界に起こることを知っている。あと一年もすれば百年戦争が始まり、それにより世界総人口は半分以下に落ち込む。人々は生きるか死ぬかの日々を強いられ、価値観そのものが大きく変動してしまう。おまえの常識はもはや通用しなくなる。生き残るためのルールはより非情になり、人々はけだものの理屈を強いられる。生きるか死ぬか。ギアの身体は不死身ではない。おまえの身体はとりわけ頑丈だが、それは決して殺せないという意味ではない」
男の唇がエンジェルの言葉を上の空のようになぞる。「決して殺せないという意味ではない」。つまりそれは、ギアは殺せる、という逆説。今までギア狩りの男が有象無象の生体兵器を葬ってきたように、特別なプロトタイプギアである男もまた、殺すことが出来るという宣言。
でも誰が。〝あの男〟か? いや違う。男は首を振り、顔を見上げた。無慈悲な天使が銃を構えて自分に狙いを定めている。これは夢ではない。遅まきに訪れた理解が男を苛む。現実だ。エンジェル=K=クロイツは、確かに男を殺そうとしている。
男の脳裏にあの光景がフラッシュバックする。親友が銃を構え、こちらに向けているのだ。そいつは冷徹に銃撃を続け、フレデリックだった化け物を奈落の外へ叩き落とした。今目の前に立っている青年と同じように——フレデリックが知らない顔をして。
「殺す……? 殺すのか? おまえも、俺を?」
尋ねる声は震えていた。捨てたはずの過去を再演され、まともな気分でいられるはずもなかった。
「目を覚ませよ、エンジェル。俺の知っているお前は、そんなことはしない……」
「いいや、私はおまえを殺すよ」
「なぜ!」
「おまえがまだモンスターになりきっていないからだ」
吐き捨てるような回答に男の顔がみるみる間に青ざめた。唇は紫色になり、頬は蒼白で、とても見ていられたものじゃない。「ふざけるな!」男が叫ぶ。「ふざけるな。そんな理由じゃ、何一つ納得出来ねえんだよ、クソったれが!」
「では証明式が必要か? いいよ。簡単な理屈なんだ。おまえは、ギアを、殺せなかった」
銃を突きつけたまま立て膝を突き、エンジェルは目線を男に合わせてやった。そして男の顎を血でべとべとになった指先で掴み取り、ゆっくりと、子供に言い含めるように低く囁く。
「ギアを殺せなかった。ただ、子供の姿をしていたというだけで。でもそれで十分だった。たったそれだけで、おまえが人間だという証明には事足りた」
「どういう意味だ……」
「子供の姿をしていたところで、ギアはギアだ。兵器には変わりない。あの子供達は、命じられるまま無辜の人々を躊躇いなく殺害出来る、そういう存在なんだよ。私はね、人とギアが殺し合っていた未来からやって来た。そこでは当然、人型ギアが私達人間を殺そうと襲ってきた。日常茶飯事だ。そして私は躊躇いなく彼らを殺した。もちろん、あいつも」
「何の……話を、してる……」
「けれどおまえはギアを殺せなかった。何故? 優しさがそうさせるのか? ——ううん、そうではないんだ。フレデリック……いや、フレデリックの亡霊。化け物を殺すのに躊躇いは要らないものだ。それは自分と異なる生き物だから。羽虫を潰すのにさして良心の呵責が働かないのと同じように」
「何が言いたい、エンジェル!」
「ギアを殺すのに、躊躇いなんか要らないだろう? だってギアは人間ではない。そして人間を殺すのには理由がいる。だって人間はギアではない。同族殺しは、人間が本能的に忌避するものだ。おまえはギアは殺せる。しかし人間は殺せない。つまり……おまえはまだ、自分を人間だと思っていたんだよ。少なくとも深層意識下ではそう認識していたんだ」
罵りの締めににっこりと微笑んでみせ、男の顔についてしまった血をぺろりと舐め上げる。普段ならば、その動作だけで「勃った」とか言いながら襲ってくるような場面だったが、男は蒼白な面持ちを崩さず、当然下肢にも反応はない。
「まさか……この襲撃は、テメェが仕組んだのか」
尋ねる声は、かわいそうなぐらいに震えていた。世界で一番信じたくない仮説を、それでも尋ねなければいけないほど、彼は追い詰められていた。
「そうだ。私が飛鳥に一報入れて、おまえが人か化け物かを確かめるために部隊を送り込ませた。いるなら人型も出せ、と添えてね」
「内通してたのか。この八年ずっと?」
「もちろん。でなければ、こんなに都合のいいラボが手に入るわけないだろう。ああでも、まさか人型が子供を素体にしているとは思っていなかった。私が未来で相手取った人型ギアは大体大人だったからな。子供を素体にしてもすぐ死んでしまうらしいよ」
淡々としたエンジェルの言葉に、男の身体がわなわなと震える。青ざめていた顔面が次第に怒りで赤くなる。男の中で感情と理性とが争い、理性が勝り始めたのだ。そうだ、理屈としては、全て通る話だった。エンジェルはもともと「先生」と「あの男」の関係者として二〇一〇年のオースティンに現れた。それが二〇六五年ではさっぱり手を切っているなどという都合のいい話が、そもそもあるはずもないのだ。
だから最初は「怪しすぎる」と思ったし、「何かあったら殺して始末しよう」と考えた上で彼を招き入れた。エンジェルは最初から怪しかった。八年を共に過ごすうちに、その気持ちを勝手に忘れてしまっていただけで。
理解の横で感情が暴れ回る。男は歯ぎしりをし、唇を噛み、金色の双眸でエンジェルを睨み付けた。荒れ狂う己の感情を、自分でもうまく制御出来ない。
「裏切ったな。……裏切ったな! エンジェル!!」
叫び声はこの世の終わりに似て悲壮を極めていた。
「そうだ。私は最初から裏切り者だった。六十三年前も、今も、未来を……私の愛した世界を守るためだけに、第一の男によって送り込まれたスパイだ」
「ああ、くそ、クソッタレが! テメェも俺を裏切るのか。テメェも! 飛鳥と同じように。俺を裏切り、殺すんだな、エンジェル——!!」
そうして男は衝動のまま腕を伸ばし、怒りにまかせてエンジェルの胸を抉り取った。
乳飲み子のように吸い付きむしゃぶっていた彼の胸部から、白ではなく赤い飛沫が上がる。衝撃で、かは、とエンジェルが口から血を吐いた。銃を握りしめたままの手が、力なくだらりとぶら下がって身体ごと後ろに倒れる。心臓の位置を外しているとはいえ、人を遙かに超えた膂力で臓器を抉り抜いているのだ。傷は大きく、とても塞がるものではない。放っておいても出血多量で間もなく彼は死ぬ。これで全部終わる。男は一人になるが、それも単に元に戻るだけ。
そうだ。最初からこうするつもりだった。己の手で殺めてしまった青年の肢体をぼんやりと眺めながら自分にそう言い聞かせた。最初から、裏切ったら殺すつもりだった。だからエンジェルは悪くない。もう信じられるものなど何もないのに、身勝手に信じて……それでこんな気持ちになって、ひとりで馬鹿を見ただけだ。
でもエンジェルを愛していたのは、本当だった。身体の相性も良かったし、彼の全てが心地よかった。名前はもうないから、昔みたいに呼んではもらえなかったけれど、それさえもくすぐったいぐらいで、全てが愛おしかった。
せめて、死に顔だけでも見ておくか。そう思い、とどめを刺すことにも思い至らずエンジェルの顔を手で掴む。血まみれの身体は温かい。これから死にゆくものの温度とは思えないほど、心臓は確かに息づき、頬は鮮やかな薔薇色で——
そして「パン」と乾いた音を立てて、銃弾が男の喉を撃ち抜いた。
「……なん、で、」
何が起こったのかわからなかった。エンジェルが銃を撃ち、それが男の身体を貫通した。その事実を受け入れられない。
あれだけの深手を負えば、人間は瀕死になるはずだ。死に際の悪あがきか? でもそれにしては、手並みが鮮やかすぎる。それに……それに、目が死んでいない。強い生命力を感じさせるこの両眼は、今にも死に往こうとしている人間のものではない。
己の喉から血が吹き出る感触と、急速に再生していく肉の気色悪さに呻きながら、男は恐る恐る視線をずらす。ついさっき自分がぶち抜き、向こう側の壁が見えるほどぱっくりと空いたはずの穴がもうどこにもない。全身どこもかしこも赤色に染まった身体の中で、男が抉り抜いた部分だけが白く美しい素肌を晒している。
「ああ、これは言っていなかったな。私もギアだ」
そうしてエンジェルは、なんでもないふうな調子で、一番聞きたくなかった言葉を男の銃創にすり込んだ。
「ギア? テメェが? 人型の……?」
「そう。しかもおまえと同じく特殊な細胞でギア化させられたから、そこらのギアの数十倍はしぶとい」
「嘘だ……テメェは、傷がすぐ治るのは、法術で治してるからだ、って」
「ああ、それか。律儀に信じてくれていたから随分助かったよ。褒めて欲しいぐらいだな、セックスの最中なんかは、怪しまれないようにわざわざ再生能力を遅延させてたんだから」
エンジェルが乾いた笑い声と共に肩をすくめて見せる。フレデリックは声にならないものを喉からひねり出した。彼の裏切りを自覚した瞬間は怒りしかこみ上げてこなかったが、今度は衝撃が身体を揺るがすばかりで、自分がどんな顔をしているのかもよくわからなかった。
エンジェルがギア? いつから? もしや、二〇一〇年のあの夏から? 男がそれまで信じていたものが音を立てて崩れていく。最早棄て去った関係のない過去だと断じていたものが、まだ自分の中に後生大事に抱え込まれていたことを気付かされる。
うそだ。力ない吐息が喉からひゅうひゅうと漏れた。うそだ。うそだ、うそだ、嘘だ!! エンジェルが微笑んでいる。張り付いたような笑みをたたえ、男を見つめている。
急速に殺意がしぼみ、あらゆる力がどっと身体中から抜け落ちていった。自己治癒能力が勝手に傷を塞ごうとしていたが、それだけで、もう一度エンジェルの胸ぐらに穴を開けてやろうという気持ちになれない。彼を殺してやろうというけだものの衝動が、心臓からわき上がってこないのだ。
「嘘だ……んな、馬鹿なことが、あってたまるかよ……!」
「いいや。嘘ではないんだよ、フレデリック」
「俺は……俺は……友も恋人も失って……テメェにまで裏切られ……地面だと思っていたものが全て引っ繰り返って……もう、どうすりゃいいんだ。一体……! テメェは、俺から過去さえ奪うのか。がらくたになって壊れた写真立てを、元からなかったことにして!」
「……。ああ……」
エンジェルが嗚咽を漏らした。男はそのさまに慄然として、今度こそ、あらゆる全ての言葉を失った。
「ああ……そうか。おまえがちゃんと死ねていなかったのは。おまえを歩く死者にしてしまったのは、過去の……私だったんだな……」
エンジェル=K=クロイツは泣いていた。あれほど整った容姿を持ち、性交にふけって蕩けた顔をさらす中にもどこか毅然とした様子を失わなかったはずの彼が、子供のようにぐしゃぐしゃに顔を歪めて泣いていた。それでも彼は美しかった。滂沱と流れる涙、恥も外聞もなく朱に染まる頬、感情的に歪む相貌、その全ては確かに本物だと、男には信じられた。
確かにエンジェルは男を二度ならず裏切った。彼が自分に囁いた愛の言葉だって、どこまで本当かはわからない。全部嘘だったのかもしれない。けれどそれがどれほどの意味をもつというのだろう? 彼の泣き顔を見てしまうと、もう、彼をどのように罵ることも出来そうになかった。オースティンで過ごしたひと夏の季節も、二人で共に逃亡生活を送った八年間も、男にとっては全てが確からしく、そこには本当のものごとだけがあった。
そうして彼は今、泣いている。恐らくは男のためだけに、一度も見せたことのない涙を流している。
それでもう十分じゃないか。
これ以上の何を彼に望もうというのだろう。
「許してくれとは言わないよ、フレデリック」
奇妙な納得が訪れると共に、喉元に銃口が突きつけられる。けだものの肉体に僅かにこびりついていた人間の残滓が怯えて身を竦ませる。けれど男は——フレデリックの亡霊は、厳かに頷くとべたついた手のひらをゆっくりとエンジェルの頬に添えた。エンジェルはぐしゃぐしゃの顔で、それでも微笑みを返そうとした。昨日も一昨日も、それより前も、ずっと、ベッドの上でしていたことと同じように、彼は亡霊の指先に応える。
「さようなら」
再び、乾いた音がロビーに響き渡った。
どさりと大きな身体が倒れ込み、それから急激に変貌を遂げる。埋め込まれた喉元を刺激されたことで、背徳の炎が活性化したのだ。種子は暴走し、人の形を保っていた肉体を化け物に変生させた。赤い鱗に覆われた固い表皮、二本の角、そして尾。ドラゴンインストールが始まる。額の印はヘッドギアの下からでも分かるほどこうこうと輝き、彼の定義そのものを書き換えていく。
「……さようなら、フレデリック」
エンジェルはその様子を見守り、彼の身体をそっと抱き上げた。
「フレデリック=バルサラはこれで殉教した。彼はもうどこにもいない。たった今から、おまえはソルだ。ソル=バッドガイ。人々が渾名するバッドガイの名に、吸血鬼が与えたソルの名。それがおまえというモンスターの名前……」
赤き竜の肉体は灼熱を帯び、彼を抱えるエンジェルの身体を焼き続ける。己の肉が焦げては再生していく異様な光景と臭いに包まれながら、それでもエンジェルは彼を手放さなかった。再び目覚めた時、彼はもうエンジェルという男のことを覚えていない。六十三年前と同じように、元からいなかった人間として世界から処理される。だからこんな献身は無意味だ。皮膚が焼け爛れる痛みに耐え、彼の額に口を付けたところで、何の意味も残らない。
「私は結局、自分の決めたことを守り抜いた。私の愛した全てのためにおまえを犠牲にした。……ギアメーカーや先生の言った通りだ。おまえを犠牲にしなければ私は生まれない。私を取り巻く世界の全ては、おまえの屍の上に成り立っている。でも……私は守りたかった。私がこれまで守ってきたものを。私の信じる、正義を」
けれどそれでよかった。
エンジェルが彼の記憶に残らないから、あの日、カイ=キスクという名前の男の子はソル=バッドガイに救われたのだ。
「お疲れ様、アンジュ」
不意にコツコツという靴音が響きわたり、背後から声がする。どうやってここに、とは訊ねない。彼は世界最高の魔法使い。地軸を無視した空間転移の領域に既に達していても、何もおかしなことはない。
「……やっぱり私は、あなたの言う通り病的だったんでしょうか?」
振り返りもせずに尋ねると、魔法使いは悪びれもせず即答した。
「そりゃあね。でも君だって本当は天使なんかじゃなくて人間なんだから、そのぐらいの病気はあって然るべきだ。僕は君のそういうところを尊びたい」
「ふ……ふふ。心にもないことを」
どうしてか、唇から笑みが漏れる。思えば彼と意見が合ったことは一度もなかった。エンジェルと飛鳥は、友人に望むものも異なれば、主義も主張も何もかもそりが合わなかった。飛鳥は聖戦を引き起こした大罪人で、エンジェルはその最大の被害者でさえあった。どれを取っても正反対で、それなのに辿り着いた答えはまったく同じで、もう笑わずにはいられなかった。
「結局、私達は同じぐらい狂っていたということなんでしょうね……」
「信仰を狂気と位置づけるのならね」
「でも、あいしていたんです」
「フレデリックを? それともソルという男を?」
「さあ。どちらでしょうね。ただ、私にとっては、フレデリックという男の過去より、ソル=バッドガイの未来の方が大事だった。それだけのことなんですよ」
あなたが頑なにソルという名を呼ばないように、と嫌味っぽく付け加える。飛鳥は堪えたふうもなくふうんと頷き、エンジェルのうなじに手を掛けた。エンジェルがびくりと肩を跳ねさせる。何故? 彼がエンジェルに触れる理由が思いつかない。だってあとは始末を終えて元の時間へ戻るだけだ。今更飛鳥に干渉されるいわれなどないはず。
「……飛鳥。一体何のつもりです」
「言っただろう、賭けに勝つ自信はあった、って。五十七年前も、今もね。君は賭けに負けた。しかし僕は勝った。敗者がベットしていたものは、全て勝者の取り分だ。——わかるね、アンジュ」
「ッ……! まさか……まさかあなた、あの時、全ての罪を引き取ろうなんて傲慢を口にしたことを、本当に……!」
「さあ。未来の僕が君にした話のことは知らないよ。でも未来の僕は今から僕がやることを記憶として持っているのだから、まあ、そういことなのかな」
キン、と高い音がして魔法陣が展開される。それで、彼が何をするつもりなのかが改めて明白になる。
「神にでもなったつもりか、飛鳥=R=クロイツ!!」
エンジェルは叫んだ。彼の恐ろしい企みを、しかし自分にはもはや止める手立てがないと知って、叫ぶことしか出来なかった。彼は身勝手に奪うつもりだ。エンジェルの罪を。そして自分が全部背負った気分になって、最後の最後に、遠い未来では自分の命一つでそれを贖おうなんて言い出すのだ。
カイを過去へ送り込んだ彼が、そうしたように。
「いや、全然。むしろ不出来だからこうするしかないんだ。……君はたぶん、自分の罪を抱えて未来に帰るつもりだったんだろうけどね。うんまあ、確かに君の役者としての技量は大したものだから、決してフレデリックに真実を悟らせることなく墓まで持って行けるのかもしれないけど。でも駄目だ。それじゃ僕にとって不都合なんだよ。君が何事もなかったように元の時代へ帰る手助けをするのが、今の僕にとっての最善なんだ」
「こ、の——」
エンジェルは彼の法術を阻害しようとするが、うまくいかない。魔法使いとしての技量に差がありすぎる。唇を噛み、痛みを引き起こして薄れゆく意識を叱咤した。でも敵わない。魔法が弾ける。世界最高の魔法使いが、エンジェルを泡の中に包み込む。
「それでも、私は……! たとえフレデリックと過ごした全てを奪われたとしても、私はあなたを許しません。ソルを認めない、あなたを——飛鳥!!」
「甘んじて受けよう。だからどうか君は、幸せに」
ぱちんと音がして泡が弾け、天使の存在が跡形もなく消える。歴史に干渉し、人知れず「人類の永遠に続く幸福」への道行きを守った青年は、何事もなかったかのように未来へ戻される。
残されたのは、血まみれで蹲る背徳の炎ただ一人。
これから長い戦乱に身を置くことになる生まれたばかりの男が、音もなく静かに横たわっているだけだった。