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02


 ぶえっくし、という遠慮もへったくれもないくしゃみの音を聞いてラムレザルは顔をしかめた。くしゃみをする時は口を押さえなさい、と姉妹は「お母さん」に教えられていたからだ。無論それは知識としてのもので、本当の意味で教えられたことではないから、守る義理はない。けれどラムレザルはくしゃみをする時は手を添えるし、エルフェルトもそうだ。そうしたい、と二人とも思っている。
「くしゃみをするなら、手で押さえて欲しい」
 だからそう頼むと、くしゃみの主は悪ィ、癖で、と小さく言い訳をしてズボンで手を拭った。
 イリュリアを発ったのは昨晩のこと。シンの身体が急に縮んでしまい、その原因究明をするため、と言われて姉妹はソルに着いていくことを選んだ。理由は、どうやらカイが無理矢理にでも予定をあけるらしいということが彼の執事経由でわかり、シンに家族水入らずで過ごしてもらおうと思ったのが半分。そして、ソルがどこへ行くのか確かめてカイやディズィーに連絡出来るようにしておこうと考えたのがもう半分だ。
 自分たちも着いていく……と言った際に多少は渋られることを想定していたのだが、意外なことにソルは姉妹の同行をあっさり了承した。それは翻って彼の行為が決してカイ=キスクからの逃亡ではなく、何も後ろめたいことのない、本当の意味でシンを思っての行動だということでもある。
「それでソルさん、私達が目指している場所、どこでしたっけ?」
「一先ずの目的地として話を付けたのがケルンだな。その後の行き先は話をしてみるまでわからねえ」
「……誰と待ち合わせをしているの?」
 定期移動便を降り、発着場で周辺地図を見ながら手持ちの地図に印をつけているソルに、エルフェルトが尋ねる。どうも歯切れの悪い返事に疑問を持ち、ラムレザルが畳み掛けるように問うと、彼は非常に複雑な表情をして唸った。
「……〝あの男〟とだ。ケルン大聖堂で朝十時。日曜礼拝が終わった頃、中で合流する手はずになってる」


◇◆◇◆◇


 こんなに気持ちよく目覚めた日曜の朝は今までの人生になかったかもしれない。
 家族じゅう一番のりで目が覚めたシンは、跳ね起きるように上体を起こすときょろきょろとあたりを見回した。自分の右隣に母が、そして左隣に父が眠っている。二人ともまだ目を閉じて寝息を立てていて、しばらく起きる兆しがない。
 家族の朝食を用意するディズィーも大概早起きだが、朝も昼も夜もなく働きづめのカイはもっと早起きだ。そんな塩梅だからシンが目を覚ます頃にはもう二人ともとっくにベッドの外にいることが殆どで、こんな光景にはまず滅多にお目に掛かれない。
「……もっかい、寝ようかな……」
 両親の寝顔をまじまじと穴が空くほど見た後、時計を確かめてもぞもぞ布団の中に戻ろうとする。そうして横向きに寝返りを打った先にぱっちりと開いた青い眼を確かめ、シンはびっくりしてしまい思わず変な声を上げた。
「う、うわ! カイぃ?! 起きてたのかよ!!」
「いえ、たった今起きたところです。大丈夫ですよ、もう少し眠っていても。まだ早い時間ですし……ね? ディズィー」
 その名前にシンが「え?」と思うより早く、母の穏やかな声が「そうですね」と返事をする。慌てて反対に寝返りを打つと、ディズィーもカイと同じようにぱっちり目を開けて、幸せそうにふわふわ微笑んでシンの方を見ているではないか。
「母さんも起きて……」
「ちょっと前に。まだ少し、眠たいかな。……でも、私はそろそろ起きます。お弁当を作らないとでしょう?」
「手伝いますよ。たまに料理しないと、出来なくなりそうで」
「そんなこと言ってカイさん、私より上手なのに。でも、二人でキッチンに立つのも新婚さんみたいで楽しそう」
「お——オレを挟んでそういう会話すんのやめてくれよ! あとオレも手伝う!」
 頭の上でぽんぽん話をされるのにむずむずしてもう一度飛び起きると、二人が示し合わせたようにくすくす笑う。それにちょっと唇を尖らせ、自分をぺちぺち触ってそういえば身体が縮んだままなんだ、ということを思い出した。勢いよく手伝うなんて言ってしまったが、この身長ではキッチンに顔が届かないかもしれない。
 そのことに両親とも気がついていたのだろう。ゆっくりと起き上がった両親はぽんぽんとシンの頭を撫でると、とりあえず着替えてから後のことは考えましょう、と言ってベッドから起き出した。


 いつものかっちりした制服ではなく青色のラフなワイシャツに着替えたカイは、ディズィーの台所仕事を少し手伝うと、結局ディズィーの一言で暇をもてあましたシンの相手に回された。包丁も握れなければ踏み台なしではまな板の上の野菜も取れないシンは早々に台所から追い出されてしまっており、そのあと少しは娯楽番組を見ていたのだが、途中で飽きが来て、すっかりリビングのソファの上でごろごろするばかりになってしまっていた。
「こら、シン。お腹が出てる。こんな身体で風邪を引いたら、いつものようには治らないぞ?」
 だらしなく寝転がったせいでシャツがめくれ、露わになったへそをつっつくと、シンは「うひゃあ!」と素っ頓狂な声を出して跳ね起きる。
「や、やめろよくすぐってえ! あとオレ、風邪引いたことねーから! オヤジが……えっと、オレのこと、風の子とかなんとか、言ってた。確か」
「え。あの、それはもしや……なんとやらは風邪を引かない……いえ、やめておきましょう。とにかくお腹を出すのはだめです。私も昔、気を抜いていたら本当に酷い目に遭ったことがあって。五日寝込んだぐらいで済みはしましたが、それはそれはソルに馬鹿にされましたとも……」
 乱れた衣服を整え、膝の上に抱え上げてカイが過去を悔やむように呟く。その本気の後悔っぷりに思うところがあり、シンは恐る恐るカイに訊ねる。
「なあ……あのさ。オヤジって——いつからカイの友達なんだ? オレをオヤジに預けたのは、オヤジが母さんの父さんだったからっていうのは、関係ないんだったよな」
「ええ。あいつがディズィーの父親だとわかったのはつい最近のことですからね。……いつから、か。本当のところ、よく、わかりません」
「ええ? わかんねえの?」
「出会った頃、私は多分ソルから対等に扱われていませんでした。……シン、あなたは、ソルにとって『二度目』の子育て相手なんですよ。ソルにとって一度目の『子育て』は、私の世話をすることだったそうで」
 そのぐらい、私が幼稚だったという意味なのでしょうね——と言い置いて、カイはにこりと微笑んだ。
 その言葉にシンは驚いてしまう。てっきり、出会った時から、二人は友達なのだと思っていたのに。だって今の二人は、最初からそうであったのだとしか信じられないぐらい仲が良くて抜群に馬が合う。
 シンはゆっくりと首を振った。カイが話す内容は、どれもこれも、意外なようにシンには感じられた。なんでだかカイの口ぶりは、ソルに認められていなかった過去の自分を、皮肉っているように聞こえる。
 知らないことばかりだった。思えばこうしてカイとゆっくり話をすることは殆どなかったのだ。シンにとってカイは父親で、家族だったけれど、それよりも王様としてのカイの背中の方がずっと印象に多い。自分は多分、一年ちょっと前までは、カイとちゃんと家族になれていなかった。カイの父親としての背中のことは、ソルと旅をするうちに、努めて、忘れようとしていたから。
「なあ、カイ。家族って……なんだろ?」
「おや。難しい定義が入り用ですか?」
 ぽつりと尋ねるとカイが笑う。
 カイの微笑みは悪戯っぽかった。シンの考えていることは、なんでも、見透かされているような気がした。
「え。いや。そういうんじゃないけど……」
「なら、あなたが感じているものこそ、『家族』であるということなんですよ。今はどこぞへ行っているソルや、ついていったエルフェルトさん、ラムレザルさんも」
「ええ?! エルとラムもオヤジに着いてってんのかよ?!」
「気がついていなかったんですか?」
 カイがこてんと小首を傾げて見せ、それにシンがぶんぶん首を横へ振る。気がつかなかった。てっきり自分たちの部屋にいて、気を遣ってとかそういう理由で、こちらには来ていないだけかと思っていた。
「何か企んでいるようですね、どうも。でも悪いことではないでしょう。なので我々はそれに甘えて一日外出です。まずは公園へ行きましょうか。それからお昼過ぎまでピクニックをして、最後に、街で買い物をして帰りましょう。ここ数年あまり顔を出せていませんが、馴染みのお店が何軒かあるんです。……わざわざ、パリからイリュリアに店を移した方達がいて。結構、長い付き合いなんですよ。シンも一緒なら何かおまけしてもらえるかもしれないな」
 パリからイリュリアへ? 店ごと引っ越し? その言葉にふと思うことがあり、シンはううん? と記憶を手繰り寄せる。大昔にソルがそんなような話をしていたような……曰くカイのファンがなんたらどうたら……でも正確なところがわからない。
 思い出せないので、シンは思い切りよく考える事を止め、カイの身体にぎゅうと抱きついた。鼻をすり寄せた父の身体からは花の匂いがした。ずっと昔、洗濯をしていた母を手伝ったときに嗅いだものと同じ香りだった。
「母さんとカイっておんなじ匂いがする」
「そ、そうですか? まあ……夫婦ですしね。私達の服はいつもディズィーがお気に入りの柔軟剤で……あ。もしかしてシン、いつも自分が着ている服からはその匂いがしないから、ちょっと拗ねてますか?」
「拗ねてはないし!」
「はは。かわいいかわいい」
 にこにこしたままカイが頬ずりをしてきて、全身がぎゅうぎゅう密着する。小さくなったシンの頬は柔らかく、ふにふにして、その分カイの頬がちょっと堅く感じる。
(いつもなら、カイの頬の方が全然柔らかいのにな)
 奇妙な心地を覚えながらもカイがしたいように任せていると、カイはたっぷり何往復も頬ずりをやめなかった。やっぱり、今まで出来なかったことを取り戻したいのかな。シンは思う。カイだって本当は、仕事より、何より、家族と一緒にいたかったのだ。シンも。本当は……カイと、もっとずっと、一緒にいたい。
「じゃあ、今度洗濯するときは、シンの服も、それからソルの服も、同じ柔軟剤を入れて洗いましょう。それでみんな一緒です」
 ようやくのことで頬ずりをやめたカイは、目を細め、抱き上げたシンのおでこにキスをした。


◇◆◇◆◇


 ケルン大聖堂に足を踏み入れてすぐ、見知った人影が目に付いた。日曜礼拝が終わった後だからか、大聖堂の中は人気が少なくしんとしており、その人物は一際目立っている。
 男を見咎めたソルはずかずかと彼へ近づくと無遠慮に声を掛けた。
「あ? テメェだけかよ。ご主人様はどうした」
「墓参りをしてから来られるとのことだ。その間に貴様が着くと困るだろう、と私を置いて行かれた」
「要は目印役ってか? そもそも墓参りなんぞ……ああ、そういうことか。そういや故郷だったな、ここが」
 少ない問答の後一人で納得する。ここケルンはあの男の実家があった土地だ。そういえば大学生だった頃、そんなような話を聞いた覚えがある。実家があったぐらいだから、両親の墓もあるのだろう。
 それに、だ。お供にレイヴンを選んだ人選も納得のいくものではある。ジャック・オーが還元されてイノも何らかの目的があって動き出した今、墓参りに着いて来るような人員なぞ、この男ぐらいしかいないのだ。
「あのお方とて人の子だ。貴様がそうであるようにな、背徳の炎。そもそも啓示の件に片が付いてある程度時間が取れるようになったとはいえ、そう気軽に呼び出されて出て来られるほど暇ではない。貴様の件が墓参りのついでだ」
「構わねえよ」
「好意に感謝しろ。まったくあの方も、貴様の事となるととにかく甘い……」
 それ以降のレイヴンの言葉には耳を傾けず、ソルはじっと腕組みをして聖堂の天井を眺めていた。
 わざわざ、出来ればそれほど頼りたくない相手であるあの男を呼び出してドイツくんだりまでやって来たのには勿論根拠がある。一つはヴァレンタイン姉妹が考えているのと同じ理由だ。あの家族は長いことばらばらだった。一人息子は五年間も外へ出され、妻でさえ一年近く封印状態に陥り、カイは長く一人の時を過ごさざるを得なかった。ならこういう時ぐらい、家族だけにしておいてやろうと思う心はソルにもある。あの親子はソルも家族だと言うのだろうが、そこはそれ、だ。
 残る理由はあと二つ。手を尽くしても手がかりが掴めず、更にぱっと見深刻な影響が出ていないように思えても急を要する問題だったというのがもう一つ。
 そして残る一つが、友人としての「飛鳥=R=クロイツ」と、話をしてみたい、と思えるようになったことだ。
 ギアメーカーではなく、飛鳥から売られた喧嘩。自分はもうフレデリックの名を捨て、ソル=バッドガイでしかない。それでも「飛鳥」という個人との思い出には「フレデリック」がついてまわる。買い上げた喧嘩にどう臨むか考えているうちに、もう一度飛鳥と話をしておきたくなった。
 カイとディズィーがシンの家族なら、アリアと飛鳥は、フレデリックにとっては間違いなく家族に等しい存在だったのだ。
 大聖堂に静寂が続き、手持ちぶさたにこちらを見ていたヴァレンタイン姉妹が落ち着かない様子でそわそわしはじめる頃になると、ソルの考えごとも粗方整頓が済んでくる。奴はまだか? それほど我慢強くはないソルがそう考え始めた頃、あの男はひょこりとソルの背後から現れた。
「やあ、フレデリック!」
 突然後ろからぽんと肩に手を伸ばしてきたので、心臓が急落下したような心地になり、思わず変な声が出かかったところを咄嗟に堪える。努めて平静を装い、おもむろに振り向いた先にあの男が上機嫌で立っていた。
「お……お、遅ぇぞ、おい」
「すまないね、お待たせ。それで……ええと、君の孫のことだっけ」
「単なる養い子だ」
「アリアのお気に入りだったセーターにコーヒーぶちまけた時にも言ったと思うけど、事実から目を背けても何にもならないよ、フレデリック。……それで頼まれたことだけど、おおよそは調べてきた。とはいえまだ仮定の段階だ。バックヤードからある程度のログを遡って、怪しいところに少し目星を付けて、そのぐらい」
「もったいぶるな、さっさと話せ」
「なるほど、世間話は後回しか」
 いつも通り重たそうなローブに身を包んだあの男は、場所を考えているのか、フードを目深に被ったままこてんと小首を傾げる。どこかで見た仕草だ。が、そのことは考えないようにして向き合い、ソルは先を催促する。
「まず要点だけ言え。得意だろ」
「ああ、それじゃ、遠慮無く。では僕の見解を話すけれど、シン=キスクの肉体を幼児後退させている原因は、彼の父親だよ」
「……は?」
「こう言った方がわかりやすいかな。カイ=キスク、彼の信心深さが、多分今回の原因なんだ」
 するとあの男は、促されるままに淡々とその言葉を告げた。