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03


 ——悔しいけど、多分これ、人生で一番高い眺めだ。
「なあカイ、ほんとに重くないか? 大丈夫かよ。オレ確かに今ちっちゃいけど……かといってスッゲエ軽いわけでもないんだぜ」
「平気ですよ。その気になれば、ディズィーにも同じことが出来るんですから」
「マジで?! うわー、ならオレ元に戻ったらカイにもおんなじことしてやるから!」
「……何がどうしてそうなったんですか?!」
 シンを肩車した態勢のまま、カイが頭を思い切り打たれたようなへんな声を出した。その様子を、半歩後ろを歩いているディズィーが見守っている。休日の父親と、お弁当箱を持った母親、そして肩車されている一人息子……どこにでもいる、ふつうの家族そのものだ。
 市街地を抜け、今は家族で自然公園がある方目指して田園地帯を歩いていた。カイは家を出てからずっとシンを肩車しっぱなしで、そのおかげなのか、すれ違う人々に呼び止められることもなくここまで来られた。通りすがりにぎょっとした顔をしたり、もしかしたら……とそわそわちらちら視線を向けてきた人達は少なからずいたが、流石に、ものすごくラフな格好で小さい子供を肩車してる人に「あなたは第一連王ですか? サインください」なんて言える人間はそうそういなかったらしい。
「もうすぐ着きますからね。よく晴れて絶好の行楽日和です。ピクニックも随分久しぶりのような気がします」
「最後に行ったの、結婚する前でしたっけ?」
「ええ。シンが生まれてからは目が回るような忙しさでしたからね。あの頃もそこそこ忙しいような気がしていましたけれど、警察の仕事は国家運営に比べたら楽だったかもしれないな」
「俺が生まれる前は母さんと二人で行ってたんだ。どのへん?」
「あの頃はパリ住まいでしたからねえ。リュクサンブール公園とか、プティ・パリとか……まあ、定番のデートスポットが多かったかな」
「ふーん……」
 どのあたりが「デートスポット」として「定番」なのかいまいちよくわからないシンは曖昧に頷いた。
 一家が向かっているのは、イリュリア王都で一番広い国営公園だ。王城からもほど近く、帰り道には城下町の商店街が含まれている。カイが考えた「よくばりお出かけコース」によると、午前はのんびり公園へ向かい、原っぱでピクニックをし、みんなでお弁当を食べ、シンの気が済むまで公園で駆け回ったら買い物をして帰り、夜はカイが中心になってご飯を作る……という予定になっているらしい。
「ん?」
 そのような調子で予定を反芻していたシンは、視界に気になるものが映って思わず首を傾げた。
 通り道に、石造りの大きなレリーフが立てられている。右手にギアらしき巨大な化け物、それにわらわらと立ち向かっていく人達。そうしてその先頭に、ショートヘアの小柄な青年が彫り込まれている。
 ——先頭の青年はカイだ。ということは、このレリーフは聖騎士団の戦いを讃えるためのものか。
 王都中央広場には前々からカイを象ったモニュメントが建っていたが、こんなレリーフは初めて見た。最近出来たものなのだろうか。シンが尋ねようとカイの方へ顔を上げると、彼は既に息子の言わんとすることを察していたのか、「ええ」と小さく頷いた。
「先月、施工完了したものだそうで。聖戦と、それを終わらせるために戦っていた人々のことを忘れないために——という主旨のものだそうです。人の記憶がうつろうのは、我々が思っているより遙かに早いですからね。平和な時間が十年も続けば、確かに、その前の過酷な百年のことなどあっという間に薄れていってしまう」
「……そうなのか?」
「ここ数年で、戦後生まれの子供達が随分増えました。戦争が終わってベビーブームが来たことも含めて、世代の交代が始まってきている。我々は戦時下を知っている人間として、出来たらその橋渡しになりたいですね。……とはいえ、何も難しいことばかりではないんです。例えばこうして息子を肩車して公園に行くことも、立派な橋渡しの一つ。私は、適切な時期にあまりシンにそうしてやれませんでしたが」
 適切な時期を逃した——という言葉に、はっきりとした後悔が滲み出ている。シンは唇を尖らせた。カイが思い詰めたようなことを言うのは、和解する前のシンがそのことを思いっきり詰ったせいだと分かってしまうからだ。カイはものすごくきまじめな人間だから、息子にそう思わせてしまったことを重く受け止めて、過去を悔いている。
 バプテスマ13の時、そういえば言っていた。自分は至らぬ親だったと。六生を生きても、その過ちを正せるかは解らない、と……。
「だからこそ、今こうしてあげられて嬉しい。私が良き父でなかったということは変えられませんが、もう一度橋渡しをするチャンスに恵まれたのだから。ね、シン……あれ? ど、どうしたんですか? 私の髪を引っ張って……」
「べつに! ただ、今からやり直そうがそうじゃなかろうが、カイは俺の自慢の父親だし。それを忘れられちゃ、困るんだよな!」
 まったく本当に真面目一辺倒だ。バプテスマ13が過ぎて、ディズィーも目覚め、啓示との戦いが終わった後になってもまだこんなことを言ってるんだから。「なあ、母さんもそう思うだろ?」と母の方を振り向けば、彼女も楽しそうに微笑んで「そうですね」と答えてくれる。ほらな。カイはいつまでも難しく考えすぎなんだ。王様をやるにはそういうのも必要なのかも知れないけど、少なくとも、シンの父親をやるだけならもっとシンプルな考え方だけ持っていれば事足りる。
 昔は大嫌いだったこのカイにそっくりな容姿も、今は褒められるとちょっとこそばゆい。「カイ様みたいね」と言われるのが微妙に癪なのは変わらないが(だってそれはシンを通してカイを見ているだけということで、シンを見ているわけではないんじゃないか?)、カイに似ていること自体は悪い気がしない。本当に小さいときは、なんでディズィーみたいな青髪かソルみたいな茶髪に生まれてこなかったんだろうとしょっちゅう思っていたけど、今はもうカイ譲りの金髪以外考えられないってぐらい、気に入っているのだ。
「カイと一緒の金髪も青眼もお気に入りだし。ま、体格は育った俺の方がワイルドだけど。ていうかカイほんとほっそいよなあ……ちゃんと母さんの飯食ってんのかよ。なあ……」
「え。自慢の……父親? ………………ソルよりも?」
「オヤジは自慢のオヤジ。カテゴリが違うの!」
 驚きと共に告げられた言葉はワンテンポずれていて、シンの二の句をまったく聞いていた様子がない。そんなに、自信がなかったんだろうか。シンはちょっと呆れてしまって、カイの肩に掛かっている足をばたつかせた。
「だいじょーぶだって。無理して今から、理想の父親像を追いかけ直さなくてもさ。そんなことしなくたって俺はカイのこと好きだぜ。母さんを好きなのとおんなじぐらい。オヤジにだって負けねーよ」
「シン……」
「あら、私もシンやお父さんに負けないぐらいカイさんのことが大好きですよ?」
「……母さんにも負けない!」
 シンが意気込んで答えると、そこでようやくカイの顔にも笑いが戻ってくる。カイはなんだか涙混じりになるぐらい笑うと、抱えているシンの身体にちょっとだけ頬をすり寄せてみせる。
「あはは。どんなに張り合っても、きっとみんな、競ってもわからないぐらい家族が好きですよ。……ほら、話をしているうちに、公園の中心部に着きました。ここから少し北上したところに丘、右手に歩いて行くと庭園、左手は湖だそうです。まずはどこから向かいますか?」
「うーん。俺はまっすぐ! って言いたいところなんだけど……」
「けど?」
「母さん、花とか好きだよなー。だから右!」
「なるほど。では右へ、ディズィーも大丈夫ですか?」
「もちろん」
 右手でシンの身体を支え直し、あけた左手でカイがディズィーの手を取る。そうしていると、家族三人がカイの手のひらを通して一つになっているみたいで、不思議なぐらい落ち着いて穏やかな気持ちになってくる。
(オレはちびで、カイは仕事が休みで、母さんは弁当持って一緒に笑ってて。……居心地良すぎて、ずっとこうしてられたらいいのになって思っちゃいそうになるな、これ。俺だけかな。母さんや……カイも、そんなこと、考えちゃってんのかな……?)
 でもこの心地よさはちょっと危険だ。シンはカイの肩の上でいち早くそんな危機感を覚えた。この生活は心地がよい。けど、シンはもう、カイを追い越して百八十一センチまで育ってるし、ギアの成長速度に不満もない。子供の頃にかえりたい、小さかった頃に戻りたい、なんてことは、本当のところシンは思ったことがない。
 過ぎた時間は元に戻らないのだ。それなのに、今のこの状態は、その「戻ってはいけない時間」が歪められてしまっている。どんなに居心地が良くても……この状況は異常だ。
 そうでなければいけない。


◇◆◇◆◇


「で?」
 ソルの声は辟易した調子だった。とても信じられないという呆れが五割、しかし残りの五割には、認めたくないが有り得るだろうという諦観が滲んでいる。
「本当なのか、そいつは」
「大方の所はそうだろう。現実に反映された理屈まではなんとも言えないが、シン=キスクの幼児後退を引き起こしたトリガーはカイ=キスクの信心深さと、そして後悔の念で間違いない。生真面目さが災いしたな。その後の実現プロセスまで含めて正直百万分の一の奇跡を引き当てたような確率の話だけど、ないわけじゃない」
「はー……そりゃあカイなら百万分の一ぐらい余裕で引き当てるだろうよ。まず十歳で聖騎士団に入って死ななかった時点で百万分の一だし、その後の経歴をなぞるだけで一千万分の一をゆうに超える。ギアと結婚して子供が出来た段階で一億分の一を軽くオーバーだ。奇跡のバーゲンセールみてえな男だからな」
「君にそこまで言わせるあたり相当だよねえ」
「テメェほどじゃねえ。一兆分の一を引き当てて百年戦争を起こしたテメェよかマシだ」
 ソルが毒づくと、飛鳥は「いやあ、恨まれてるなあ〜」とまったく堪えたふうもなくけらけら軽い調子で笑った。
 飛鳥のマイペースさに真面目に付き合っていると身がもたない。この男を長時間相手していられるのは、専門分野について学術的な討論をしている時だけだ。それならば一晩でも二晩でも語り明かせるが、私生活となるとアリアも頭を抱えるほどの不思議ちゃんな面がどうしても否めない。この前酒飲みついでにアクセルから聞いた話によると、突然饅頭を勧め出すとかいう暴挙にも及んだらしい。致命的な空気の読めなさはどうやら健在、ということだ。
 ソルはしつこく溜め息を吐きながら本題を進めた。
「正確な絡繰りの目処は付いてるのか」
「僕なりの仮説は立てているが、まだ穴抜けで不十分な箇所が多い。完璧に立証するには材料が足りない」
「バックヤードは噛んでるのか?」
「それは勿論。カイ=キスクが意図的にアクセスしたのか、それとも無意識のうちに何らかの幸運——あるいは不運が積み重なって繋がってしまったのか。そのどちらなのかは、わからないが」
 飛鳥が人差し指を口元に当てて唸る。バックヤードへのアクセスは並大抵の所業ではない。習得している人間は非常に少なく、よしんばアクセス出来たとしても大抵は情報の引き出しが精々だ。意図的な書き換えレベルになると、飛鳥でもどのくらいの精度で可能なのか怪しい。
 カイが飛鳥レベルの変態魔法使いに育っていたという記憶はソルの中にない。シンが縮むという現象を起こすには、バックヤードの上書きが必要なはずだ。だから恐らくは後者、なのだろうが。
 そうとも言い切れないのが近頃のカイの恐ろしいところでもある。腹をくくることにして、ソルは飛鳥の助力を求める覚悟を決めた。
「検証はどのくらいで出来る」
「解決策をいくらか挙げるだけなら、そう難しくはない。確実に効く具体案を捻出して実行に移すにはもういくらか必要だ」
「ふん……まあ、いい。付き合う。どこでやってる」
「ここから十分もしないところにラボが一つある。ケルン大聖堂を指定したのにはその意味もあったからね」
「しゃあねえな……まあ積もる話があるのは俺も同じか。問題といえば、着いて来ちまったヴァレンタインどもだが」
「レイヴンがいる。ああ見えて面倒見がいいんだ」
「……本当かよ?」
 立ち話は済んだとばかりに飛鳥が礼拝堂の外へ歩き始める。少し離れた位置でソルと飛鳥を見守っていた姉妹に「行くぞ」と声を掛け、ソルもその後を追った。
 奇妙な話だが、ある程度の因縁が片付いたからなのか、こうしていると学生時代に戻ったような心地がする。無論ソル——フレデリックは、己を何の了承もなく生体兵器に改造したことを許していないし、アリアをジャスティスへ変えたことも承伏しかねている。たとえそれが彼女の命を救うためだったとしてもだ。聖戦を引き起こして多くの犠牲を出したことも。
 ただ、それら全てを踏まえても、飛鳥=R=クロイツという名を百五十年ぶりに口にした時点で、この男はソルの中で「怨敵・ギアメーカー」から「過去の悪友」に戻りつつあるということが否めないのだ。こういう事態が起きた時に、頼ってもいいか、なんて思ってしまうほど。
 そんなことを考えてしまうのは歳のせいなのだろうか。どんなおぞましい手段を使っているのか、ギアに変貌していないくせして子供の姿へ戻り、若い姿で生き長らえている飛鳥も、フレデリックと同じ時代から生きている数少ない存在だ。飛鳥の傍を影のように着いているレイヴンはともかく(聞いた話では十字戦争の頃から生きているらしいし)——他に親しくしているカイやレオ、ガブリエルでさえ、まったくの年下なのだ。それ故に価値観が異なることだって少なくない。
 ぼんやり考えごとをしていると、スキップでもするような調子でうきうき先導していく飛鳥が不意にソルの方へ振り返る。まだフードを目深に被ったままで表情は見えない。
 ただ、ろくなことを考えていない時の顔をしているのではないかという予感が強く走った。
「でも、嬉しいな。君とこうしてゆっくり話が出来るのは、随分、久しぶりのことだ。啓示の時も、その前のバプテスマ13の時も、忙しなかったからね。喧嘩の約束した時は本当に約束だけで帰っちゃったし」
「子連れで長居出来るか」
「まあね。……ところで、フレデリック。僕達は今、きっと同じように過去を懐かしんでる。それはいわゆる老人の特権としてだ」
「おいテメェ、誰が老人だ」
「事実を述べたまでさ。僕と君の実年齢が百八十を過ぎているのはもう誤魔化しようがない現実だからね。ただ——ね? 老人の思い出話に、それ以上の意味はないものさ。あの頃は良かったなあという感傷も所詮一過性のもので、過去に戻りたいとかそういうことを本気で考える熱量はもうない。今の人生にある程度満足してしまっているから。だけど」
 飛鳥のまなじりが下がる。声のトーンも控えめになり、秘め事を囁くように、不穏な言葉を吟遊詩人のようになめらかに紡ぐ。
「若者が今の人生に満足出来ず、過去を悔やんだり過ぎ去った時に思いを馳せすぎるのは危険なものだ。熱量を伴う願いは尚のことね。フレデリック、僕はね、純真な祈りほど恐ろしいものもない、と常々思っている。真っ直ぐで、裏表がなくて、眩しいぐらい敬虔だから、神様が奇跡を起こしてあげてもいいかななんて思う瞬間が、出来てしまうのかも……」
 飛鳥は密やかに言った。声音はまったく笑っていなかった。


◇◆◇◆◇


 ブランコを漕いで、シーソーに乗って、ジャングルジムを登って、思いつく限りの遊具を制覇したらカイがボールを取り出して投げて寄越した。公園中の遊具をこんなにワクワクしながら遊んだのはシンの人生ではじめてのことだ。シンがまだ親元を離れる前、何回か公園には来ていたけど、たまに父親と一緒に遊んでいる子供がいたりして気分がくさしてすぐ帰ってしまっていた。一度そういうのを見てしまうと羨ましい気持ちがいつまでも燻って駄目だった。それに……ソルとブランコに乗りたいと思ったことはあんまりない。
 でも今日は対面にカイがいる。横で写真を撮ってるディズィーもいる。そうしているとどんどん童心に返っていくみたいで、それはもう夢中ではしゃぎまわった。
 ボール投げなんて普段の体格でしたらカイに圧勝してしまいそうな気がしているシンだけど(いや、よく思いだしてみるとジャスティスを素手で引っ張っていたあたりカイも相当な怪力の可能性があるけど)、この体格だと、やっぱりそこそこの力しか出せないらしい。気になって手伝って貰いながら試したけど、雷の法術もイマイチ技にキレがなかった。もし今、急に世界の敵とかが現れたら、シンはろくすっぽ役に立てないと思う。
「あーっ、ずりぃぞカイ、自分だけなんか法術使ってるだろソレ!」
「ふふふ。悔しいと思うなら自力で風属性の法術を勉強することです。父さんはこう見えて全属性ちゃんと勉強して修めたんですからね」
「知ってるし!! つか、風とかオレ的にはあんま使い道ないだろ。雷とそんな相性良くないじゃん」
「まあ、反属性ですからねえ。そういえばディズィーも、風はあまり得意ではないんでしたっけ」
「はい。私はもっぱら、水と炎が多くて」
「炎は父親譲りでしょうね……今度雷の練習しますか?」
 カイはよそ見をしながらディズィーと談笑している。こんなのに絶対負けたくないとシンも気張るが、よそ見で軽々と打ってくるわりにカイの一撃はなかなかえぐい。
「ほらシン、受け身をちゃんと取って」
「うわっ、あっ、だーっもう!」
 手加減されているので痛みとかはないものの、強烈なスパイクの直撃をまともに喰らってしまい、ギリギリボールは捕まえたものの、そのまま柔らかい芝生にごろんと転がってしまった。
 シンはふてくされて起き上がると、もう、ボールをカイに向かって撃ち返さなかった。
「母さん、腹減った。もうそろそろお昼じゃないかな」
「そうね、今午後一時と少し前ぐらい」
「ちょうどいい時間ですね。手を洗ってからシートを広げてお弁当にしましょう。シン、水飲み場は向こうだぞ」
「わかってるって! 元に戻ったら絶対負けないからな!」
「力押しだけじゃ多分戻っても勝てないぞ。技術が伴わないと。ソルの最大の欠点だからな、その戦闘スタイル」
「オヤジ、カイとボール遊びとかすんの?!」
「それは……しないが……いや昔したことがなくはなかったような……」
 父子は近くの水飲み場で手を洗い、駆け足でディズィーの方へ戻る。既にピクニックシートを広げていたディズィーに手招きされ、靴を脱いで上に上がり、巨大な弁当箱に手を掛けた。
「おお……スゲエ……」
 三段造りの弁当箱には色とりどりのおかずとサンドイッチが入っている。どれもシンの好物ばかりだ。一部見慣れないものが入っているのは、たぶん、カイの好物なのだろう。
 いただきますの挨拶をしてハムサンドを手に取る。ちらりと横を見ると、カイはまだ手を合わせたままだ。なんとなく気に掛かって、カイの言葉によく耳を澄ませた。すぐに、大昔カイに教えられたものの、ソルと旅をしている最中に全部抜け落ちてしまった、食前の祈りを唱えているのだとわかった。
(——綺麗な顔)
 アーメン、まで唱え終わってようやくカイが弁当に手を伸ばす。鳥のフリットをスティックで刺しつまみ、口元まで運ぶとゆっくり咀嚼する。カイの食べ方は一々が丁寧だ。ディズィーの女性らしい仕草とも股違うそれは、なんというか、「上品」という言葉がしっくりくる。
「オレ、昔、カイと母さんにテーブルマナーとか行儀作法とか、一通り叩き込まれたよな」
 半ば独り言のように呟くと、カイが口の中のものを全部嚥下してから口を開いた。
「ええ。ソルの大雑把な教育のせいで大半が……あー、消えてしまったようで大変悲しいです」
「ゴメンて。いや、もう、直りそうにないけど……でもなんというか、とにかく、最初はこういうの親に習うじゃん。カイのその上品な食べ方も、やっぱ親が上品だったからとかなのかなって思って」
「……それは……」
 「ソルのせいで」なんて言ってたときはむくれていたカイの顔が、見る見る間に萎んで、どこか悲しそうな顔つきになった。
 その顔を見てシンはかなり「しまった」と思ったが、もう手遅れだ。「今のやっぱナシ!」なんて言う暇もなく、カイは寂しそうな顔をしたままシンの顔をじっと見て、それから頬を優しく撫でた。
「私には、両親がいないので。正確には記憶にないだけと言った方が正しいのかも知れませんが、とにかく、父母というものが曖昧なんですよね。だから余計に、シンにとってはいい父親でいたかったんですけど。……まあ、栓のない話です。ですから私にマナーを教えてくれたのは、両親ではありません。教本と騎士団の大人達です」
「……ご、ごめん……」
「謝らないで。その代わり——そうですね。こっちにおいで」
 「セイザ」をしている膝をぽんぽんと叩き、カイが手招きをする。請われるままにそこに寄っていって、膝に載ると、そのままカイの左腕で抱き抱えられた。
 生まれて半年ぐらいの間、ディズィーに抱き抱えられることはしょっちゅうだったけど、カイにそうされるのは殆ど経験がない。肩車されている時とはまた違う、圧迫感というか、「カイ」という存在の近さにシンは内心どぎまぎしてしまった。ぴったりとくっついて、心臓の音さえ聞こえてくる。規則正しく脈打つカイの心音。でも嫌じゃない。どこか、懐かしい気持ちになる。
「オレ、昔もカイにこうしてもらったことがある気がする」
 恐る恐る顔を上げてそう言うと、カイは優しく「そうですね」と答えてディズィーと微笑み合った。
「物心ついてからのあなたは、なかなか私には抱っこさせてくれませんでしたが。まだ生まれる前……母さんのお腹から出て、卵の殻を割るのを今か今かと待ちわびていた頃、私達夫婦はベッドの中で一緒にあなたが入った卵を温めていました。私が仕事に出ている時はディズィーが、帰ってきてディズィーが家事をしている間は私が、眠るときは二人で。そうしてかわりばんこに暖めていたある日、あなたが頭突きするように卵を割って出てきたんです。ですから、もしかするとその時の記憶が朧気に残っているのかも」
「……そうなんだ。じゃ、オレが生まれた時は、カイも一緒だったんだ? 仕事じゃなくて?」
「幸いにもね。月末の金曜日だったので、有給をもらっていました。あなたが生まれてくる日が待ち遠しくて、あんなにそわそわしたお休みの日は後にも先にもあの一度きりだった」
 カイはシンを自分の顔の高さまで抱き上げ、頬ずりをした。シンが小さくなってからのカイはなんだか頬ずりが好きみたいだった。
(……もしかして、昔のオレがカイに抱っこも頬ずりもさせなかったから?)
 そんな理由で……と思うが、両親を知らず、ディズィーと結婚してようやく家族が出来たカイにとって、はじめての子供とのスキンシップというのは、何にも代えがたいものだったのかもしれない。でもその大半は、シンが生まれてものの数ヶ月で子供の方から拒絶されはじめた。カイはものすごくショックだっただろう。でも、「父さんの愛情をわかって」と押しつけがましいことは何も言ってこなかった。フォローはいつもディズィーの役割だった。
(悪いことしたかな、オレ……)
 押しつけがましいことを言わない代わりにべたべたした愛情表現もしてこないものだから、シンはすっかりカイのことを誤解したまま育ってしまったのだけれど、こうして小さくなって振り返ってみると確かに、カイはずっとシンに確かな愛情を注いでくれていたんだということがはっきりわかる。
 シンはもぞもぞと身体を動かし、頬ずりしてくるカイからちょっと顔を離した。
「シン?」
 急にシンが顔をのけたのでカイがへんな表情になる。虚を衝かれたようになっているところに、シンはすかさずキスをお見舞いした。
「ん。お返し!」
 このぐらいの体躯だと、人目を憚らないで父親の頬にキス出来る。誰も怒らないし、ディズィーはニコニコしているし、カイはなんだか感極まったような顔だ。まわりの、ピクニックをしに来た他の家族とかも微笑ましい感じで見守っている。シンは気を良くしてもう一度カイの頬にキスをし、それからディズィーに手招きをした。シンが何をするつもりなのか察したディズィーはすっと寄ってきてシンに頬を差し出してくれる。
「母さんにも!」
 ディズィーの頬にキスをすると、今度はディズィーとカイが順番こにシンの頬へキスを返してくれる番だった。そうして息子の頬にキスしたあと、二人でキスをする。どこからどう見ても仲の良い家族だ。それ以上かもしれない。昔はシンが一方的に父親を嫌ってたなんて、そんなことには今周りで見ている人達は誰も気がつかないだろう。
(……こういうのが出来るなら、まあこのサイズも悪くはないかも……)
 不意に、またそんなことを考えてしまう。シンは雑念を振り払うためにぶるぶると首を横へ振った。駄目なのだ。それでも早く元に戻らないと、今の状態は、シン=キスクにとっての「平常」ではないのである。