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04


 昔、幼いカイに言い棄てたあとに「しまった」と思った言葉がある。その時カイは別段気にしたふうではなかったが、それも含めて、ソルの感覚としては、「やっちまった」類の出来事だった。
「親の顔が見てみてえもんだな」
 口にしたソル自身、苛立ちが隠し切れていない嫌味ったらしい一言だったと思っていたが、受けたほうのカイはというと、きょとんとしてソルの方を伺ってきている始末だった。ソルの言わんとすることが、言葉の中に込めた嫌味という嫌味が、まったく伝わっていないのだった。
「……親の顔、ですか」
「ああ、そうだ。一体どんな親に育てられたら坊やみたいな鬱陶しい上に諦めを知らないガキに育つ」
「その言われ方は心外ですけれど。……親の顔を見てみたい、という思いに関しては、わたしも同じです」
「はあ?」
「知らないんです。わたしの、両親のこと」
 カイの言葉は淡々としていた。感情のこもらない、百科事典に書かれている事実を読み上げているせいでそうなっているというような、血の通っていない口ぶりだった。
 カイが孤児だという噂は聞いていた。というより入団する前にクリフから聞かされていた。ただそれは、戦時下にありがちな戦災孤児としての意味だろうと勝手に思い込んでいたのだ。まさか親の顔も知らないなどと思いもよらなかった。
 親の顔どころか、十歳以前、クリフに拾われて団に入る以前の記憶がないと知ったのはもっとあとのことだ。カイはわりと「両親」という存在に対してさっぱりしていて、名前も顔も知らないならわからないままで別にいい、とあっけらかんと言い放つようなところがあった。その頃にはもうディズィーやシンといった家族が出来ていたというのも大きかったのだろう。とにかく、ソルの記憶の中にあるカイはあまり両親というものに頓着を覚えていない、ように見えた。
 ——ではなぜ、ソルは今になってもしつこく、あの時のカイの声音を、表情を、一挙手一投足に至るまで全て記憶しているのだろう。
 何か忘れられない要素があるのだ。それは「知らないんです」と言い切った少年の口ぶりの、あまりにも淡々としたさまが心に引っ掛かったからなのか。それともソルの嫌味が通じなかったことが遺恨になっているからなのか。
 或いは……その心さえ死んでしまっているかのような機械的な受け答えに、感じるものがあったからなのか。
「いいですよ。親なんかいなくたって構わないんです。私は、物心ついたときには十歳になっていました。庇護と愛だけを一身に受けていればそれで何もかもが許される時期はとうに過ぎ去っていた。だからこそ、私は対等な関係を望みます。全ての団員に、そしてあなたにも、ソル=バッドガイ」
 いつだったかカイはソルに言った。
「私は子供ではいられなかった。大人になるしかなかった。……大人でなければいけないんです。あなたのようなひとと対等でいられるぐらい。だから子供扱いなんて要りません」
 けれどそう告げるカイの姿は、悲しいぐらい、必死に背伸びをしている子供にしかソルの目には映らなくて。
 よほどあの時抱きしめてやればよかったのだ。けれどソルにはそれが出来なかった。そうしてはいけない気がした。口に出して「ガキが」「坊やが」と罵るよりも、ただ一度父親ヅラをして抱きしめる方がよほどカイ=キスクという少年を傷つけてしまうような気がして仕方なかった。
「……でもソル、わたし、本当は……」
 幻の中のカイ少年が上目遣いにソルを見上げてくる。見られていると気がついた瞬間ソルは己の姿を自覚した。白と赤を基調にした重苦しい法衣。両腕を覆うぴっちりした黒いインナー。聖騎士団時代の己の姿。それを庇護を求める眼差しで見上げてくる十四歳のカイ=キスク。
「本当は、わたしだって、あなたに——」
 これは夢だ。ソルは己を諫めた。夢だ。現実のカイはこんなことを言わない。こんな都合のいいことは全部妄想だ。過去の記憶だけが真実。夢なのだ……。
「……今更、んなことしたって、テメェは喜ばねえだろうが」
 ソルはかぶりを振った。幻のカイはそれで霧散する。あとはゆっくりと目を醒ますだけだ。


◇◆◇◆◇


 ピクニックを存分に楽しんだあとは予定通り商店街へ寄った。カイの馴染みだという八百屋や肉屋に立ち寄り、手際よく夕飯の材料を買い集める。
 商店の主たちは、カイが手を引いているシンの姿を認めるとみんな訳知り顔をして、あれこれと買い物におまけを付けてくれた。なるほど。パリから店ごと引っ越してきた筋金入りというだけはある。誰一人として「おやカイ様、いつ結婚したんだい」とは言わなかったし、「カイ様いつ子供が」なんてもってのほか、どころか「その子何歳」も「名前は」も「幼稚園はどこに」のどれも言わなかった。ただ、「おかわいらしいねえ。ほらこれ、持ってお行き」と林檎や総菜をそっと包んでシンに持たせたがった。
「これだけ買えば、ちょっとしたパーティが出来そうですね」
 真っ直ぐ自宅に戻り、家の電気を付け、ダイニングへ買い物袋を運ぶ。さっさと手を洗って戻って来たシンは踏み台にぴょんと載り、テーブルに広げられた食材を眺めた。
「オレも手伝える?」
「では母さんの方を頼みます。包丁は危ないからなし。いいですね」
「うん。それはまあ、しょうがないよな。カイは何作るんだ?」
「まずポトフを。それと並行してローストチキンかな。ディズィーは、キッシュとデザートをお願いしますね」
「キッシュ?! オレ、母さんのキッシュだとほうれん草とサーモンの奴が一番好き!」
「そう言うと思って、ほうれん草とサーモンも買ってきたの。シンもよければ覚えてみて」
 にこにこ笑顔の母に手を引かれてダイニングテーブルの方へ駆けていく。キッチンの調理台は腕まくりをしてエプロンを着けたカイが独占しているから、もう一枚まな板をダイニングに出してこっちでやりましょう、とディズィーが微笑んだ。
「そういやカイって、料理出来るんだよな」
「ええ。カイさん、一人暮らしもそれなりに長かったから。私のお料理も、カイさんに教えてもらったものが幾らかあって……」
「でも大方はジェリーフィッシュで習ったんでしょう? 私が教えたのなんて、あなたに作ってもらいたかった料理のレシピぐらいで、基礎はしっかりしてましたからね」
「ジェリーフィッシュでは、事務と厨房のお手伝いを主にしていましたからね。リープさんに色々教えていただいたんです。あ、そういえば、味付けがちょっと濃いのは、ジョニーさんの好みらしいですよ」
「な……なるほど……」
 鶏に下味を付けながらカイが唸った。微妙に扱いに困る情報を聞いてしまった時の声だった。
 カイの昔のことを、シンはよく知らない。周囲の大人達が話している内容から断片的に推測がついたことまでだ。カイはあまり過去の話をしたがらない。シンもカイに興味がなかったから、そんなことは聞きたがらなかった。ずっと家に一緒にいたディズィーの昔話はそこそこ知っていると思うが、こればかりはさっぱりだ。
 シンがカイについて知っているのはおおまかに三点ほど。小さいときから聖騎士団にいて、聖戦が終わったら警察になって、シンが生まれたあとぐらいに王様になった。余計な情報が何もない。ソルがそれ以上教えてくれなかったというのもあるが、多分ソルの方も、カイの過去や私生活といった方にはあまり介入していなくて、単純に知らなかったのではないだろうか。
 ただその分、ソルはカイの性質といったものについて辞書が書けそうなぐらい詳しかった。二人旅の最中でも、何かにつけて、ソルはカイの話をよくした。几帳面な性格だとか、嘘は吐かないとか、あとは……誰よりも家族のことを大切に思う人間なのだとか、そういう話をだ。
「カイは料理でも基礎をしっかりって言うんだな」
「おや。その口ぶり、もしや料理でも雑な手順をソルに教えられましたね」
「えっ、いや、まー、うん。オヤジは何でも血抜きして塩付けて火を通せば食えるってのが口癖だからなー」
「ち、血抜き……狩猟生活前提の単語じゃないですか……」
「だって、オヤジがそういうの教えてくれるようになった頃には、オレもそこそこ大きくなってきて街から離れたとこにいた方が多かったし。ま、賞金首がそうそう街にいるわけないしな」
「う、ううーん……シン、いい機会ですから、料理の基本も覚えましょう。包丁が使えなくてもそれらは身につけられます。まずは調味料のいろはからですね……」
 ソルがカイの話をシンに聞かせようと努めていたのは、ソルなりに少しでも親子間のわだかまりを解消してやりたいと考えていたからなのだろう。聞かされていた当時から薄々そんな気はしていたが、まあ結果としては逆効果だった。だから一度、シンはソルに向かって言ってやったことがある。——「オヤジはそんなにカイが好きなのかよ。カイの肩ばっか持って、カイの親かなんかかよ!!」
 その時のソルの顔が、シンはずっと忘れられない。ソルは苦虫を噛み潰したようにまなじりを伏せ、歯ぎしりをし、シンから目を逸らしたのだ。ソルがやましいことでもあるふうにシンから目を逸らすなんて! はじめての経験だった。いつだって堂々としていて我を通すと思い込んでいた、ソル=バッドガイという男への憧憬がほんの少し揺らいだ瞬間だった。
 ソルは目を逸らしたまま、小さく、だがはっきりと、「そんなんじゃねえよ」とばつ悪く言った。ともすると懺悔しているようでもあった。口ぶりは、必死に否定するとか、馬鹿言えと冗談まじりに言っているのとは程遠く、親になることさえ出来なかったと悔やんでいるようで、シンはもう二度と、そういうことを言わなくなった。
「ん。一から、な。カイの性格って、オヤジとはホント真逆だよなあ。オヤジは結果が出りゃいいみたいなとこあるし。セーカシュギ? って前聞いた時言ってたな。途中計算式なんか間違ってたって答えが出るときは出るってさ」
「計算式が間違っていたら、答えが合っていても何かおかしいということです。まったく……私が子供の頃から何も変わっていないな……」
「そーかな? 教え方とか、オレに合わせて随分変えたって言ってたけど。カイに教えてたのと同じやり方だと、オレには大分難しすぎて」
「なら多少丁寧になったということでしょう? いいことだ。人の親になるには、大雑把すぎるところがありましたからね。頭はいいのに自己完結してしまうから、行間を三回ぐらい読まないと伝わらないんですよ、あいつの言うことは」
「ふーん……」
 なめらかな指先で野菜を押さえ、綺麗にカットしていくカイの横顔は優しい。ディズィーに指示された通り流しでほうれん草を洗い、カゴに入れて渡し、ふとシンは思うことがあって父の方へ身体を向けた。
「なあ、カイ」
「なんでしょう」
「オヤジは、オレにとって、カイと順番付けられないぐらい大切な父親だけど。……カイにとっても、親代わりとかそういうのだった時期とか……あったのか? だって、オレが二度目の子育て……なんだろ?」
 尋ねられると、カイは一瞬置いてから、手を止めて包丁をまな板の横へ避けた。それからゆっくりと振り返り、中腰になって、努めてシンと目線を合わせた。
「……。ふふ、困ったな。ソルがどういう意味でその言葉を使ったのかは、私も知りたいぐらいなんですけどね」
「それは……わかんねえけど。ただオレが四歳ぐらいになった時、面倒見てた頃のカイもこのぐらいの大きさだったなって、なんか懐かしそうに言ってたこともあったぜ」
「ああ、あなたは四歳であのぐらいの身の丈になっていたんですね。こればかりは写真ではわからないなあ。その時も一緒にいたかったけど、過ぎたことを言っても仕方ないか。……ええまあ、ほんの一瞬、の話ですけど。私の方が、あの男の後をひな鳥のようにくっついていた時期がありました。くっついていたというか……追い回していた、の方が正しいのかもしれませんが。だって必要書類を期日になっても出さないんだもの。……でもね……」
 細められたカイの眼差しは遙か遠くを見つめていた。シンと目を合わせているはずなのに、シンのことをちゃんとは見ていなかった。ずっと遠く、ここではない場所、ひょっとするとどこにもない場所——過去を寂寞の表情で見つめ、カイはシンの頭を撫でた。
「当時、ソルが私に対して親ぶったことは殆どありませんでした。結果的にそういう役回りがあったというだけで、あの男がそうなろうと思っていたことはないでしょう。あなたに対してのものとは違ってね」
「え……」
「だから私に親がいるとして、でもそのひとは、ソルじゃないですよ。そうだと胸を張って言うには、受け取ったものが少なすぎました。恐らくあなたがソルから受け取ったものの十分の一も私は手に入れていないんです。ソルが一番父親らしいことをしたのは間違いなくシンに対してなんだから。ディズィーでさえシンには及ばない」
 シンは何も言ってやれなかった。カイの表情はどことなく硬くて、カイが普段、ソルについて話す時の顔つきからは想像も出来ない顔をしていた。
「……カイさん」
 それを見かねてか、それまでずっと聞き役に徹していたディズィーが後ろへ振り向く。パイシートを両手に持ったまま、ディズィーはウンディーネの翼でシンを撫で、ネクロの翼でカイを撫でた。
 カイがそれに驚いたように顔を上げる。
「ディズィー?」
「確かに、そうかもしれません。ソルさんは私に良くしてくれたけど、お父さんらしいことはあまりしないようにしていたみたいですし。そういうの、出しゃばりじゃないかとか、気にしてたみたい」
「やっぱりですか?」
「はい。けれどカイさん、それは昔の話ですよ。思い出も、優しい温もりも、足りないなら今からもっといっぱい作れば大丈夫です。お父さんもきっと、家族サービスとか、これからはもっとしてくれますよ」
 きっとね。ディズィーがはにかむと、カイもつられて相貌を崩す。堅苦しい表情が元の柔らかいものに戻って、まるで魔法みたいだ。
 母さんは魔法使いだな、とシンは思った。それもいわゆる法術使いの専門家を指す意味でのそれではなくて、もっとお伽話に出てくるみたいな。カイを笑顔にして、家族を幸せにしてしまう、そういう魔法使い。
(……でもカイも、母さんに負けないぐらい魔法使いなんだよな)
 ディズィーがみんなを笑顔にする素敵な魔法を使えるのは、カイがディズィーを見つけたからだ。
 それなら、カイが魔法を使えるようになったのは、一体どうしてなんだろう。
 シンがディズィーやソルに教えられたように、誰かがカイにそれを教えたのだろうか?


◇◆◇◆◇


「シンたち、今頃何してるんだろ。ちゃんと家族団らん出来てるのかなあ。出来てるよね。だってカイさんもディズィーさんもとっても素敵なご両親だもの。あー、ちょっと混ざりたかった……」
「駄目。水入らずにしたいからってこっちに着いてく話を最初に持ちかけたのは、エル」
「それはそうなんだけど! うーんと、ほら、私達、お母さんはいるけどお父さんはいないし。そういうの憧れるところがあるっていうか……あとちっちゃいシンすごくかわいくて……」
「それは……うん。わかる。でもシンにそう言うと、きっと傷付くね……」
 お茶請けに出された「ひとくち温泉饅頭」なる菓子を口の中に放り込み、ラムレザルは曖昧に頷いた。
 ケルン大聖堂から移動し、一行は現在ギアメーカーが所有するラボの一つに滞在している。ソルは何かずっと難しい話を飛鳥としており、このラボに辿り着いた途端「いい子にしてろよ」と言い残して奥の部屋に消えてしまった。
 無理矢理着いていったところで、自分たち姉妹が役に立てる内容ではない。そう判断したラムレザルとエルフェルトは大人しく客間で待っていたのだが、特にやることがないので暇で暇で仕方がない。そのうち話題はループし、エルフェルトは本末転倒な話をし始める。
 しかし彼女の気持ちはわからなくもない。ラムレザルは、部屋の壁と同化でもするように佇んでいるレイヴンに目を遣り、一息吐いてから尋ねた。
「向こうへ行っては駄目?」
「あのお方と背徳の炎がいる方にか」
「そう。邪魔はしないから」
「ふむ。その言葉自体は、信用出来なくもないが……」
 レイヴンは考えあぐね、低く唸る。例の件で助けられて以来、ラムレザルはレイヴンへの認識を大幅に改めていた。彼は話せばわかる相手だし、思っていた以上に人間らしい側面を持っている。それから、どうもラムレザルに対してちょっとした負い目があるらしい。お願い事をする場合は、エルフェルトがするよりもラムレザルがやった方が勝算が高い。
 しかしそれでも、レイヴンはまだ決めかねている様子だ。すぐには結果が出ないと見て、エルフェルトが話題を切り替えた。
「……ちなみに、ソルさんたちは一体何の研究? 調べもの? をしているんですか? バックヤードがなんとかって言ってたような気がしますけど」
「バックヤードに介入した者のログを辿り、シン=キスクの後退現象を上書きして決定づけたフラグメントの特定を行っている。とはいえそれ自体はあの方にとってさほど難題ではない。問題はその解消方法の模索だ」
「同じように正しいデータを持って来て上から重ねてしまえばいいというわけにはいかないの」
「今回のケースでは困難だろう。事象のプライオリティに差がありすぎる。……本来、歴史というものは、正しい形を維持しようとするものだ。私自身がバグのような存在だからこそ強く言える話だが、バックヤードにあらゆる事象の可能性が眠っているにしては、世界が辿る道筋は予定調和に過ぎる。それは、最終的に『丸く収まる』ように繋がる因果こそが優先度の高い事象に設定されているからだ——というのがあのお方の持論の一つなのだが」
 ヒトであるまま全ての時を止められ、死ねなくなった男が言う。世界は何度も危機に見舞われてきた。過去には幾度も大量絶滅が起き、人類史を数え始めてからも未曾有の大災害が度々あった。しかしそれでも生命の連鎖は止まっていない。かつてギアメーカーがその話をした際、人々の生に対する渇望から生まれた魔器たるイノは「結局、生命の願いが明日へ続く未来を選択させたにすぎないわ。ガイアとの共鳴とか、それらしい屁理屈はいくらでもあるでしょう? 全部結果論よ」とつまらなそうに言い棄てたが、レイヴンとジャック・オーはそれだけに留まらないと感じている。
 つまりそれは、飛鳥=R=クロイツが過去に「ミッシングリンクを起こす元凶である啓示」と定義したものが我々の知覚外にいることの示唆。
 今現在の世界をセーブアンドリセットで無数に試行させているイノも、元を正せばバックヤードの擬人化だ。バックヤードには世界の辿る道筋を調整するシステムが組み込まれており、それをギアメーカーにでさえ知覚出来ない超上位存在が何らかの目的に沿ってコントロールしているのではないか、というのが飛鳥の持論である。
「それでも時の流れを歪める要素は出現する。不死の肉体になってしまった私やおまえたちヴァレンタインのような、本来存在するはずのなかったフラグメントたち。何かの弾みで高プライオリティを設定されてしまい、正しい時の流れに干渉しているものは、大抵の場合、どこかにその歪みを作った何者かが存在している」
「何者か……私達の場合は、お母さん……慈悲なき啓示が?」
「そうだ。シン=キスクの場合は、その父カイ=キスクではないかというところで仮説は止まっているそうだが……」
 レイヴンがそこで言いよどむ。しかし情報生命体として作られた慈悲なき啓示がバックヤードの割り込みで干渉出来たことには説明がつくが、カイの場合は論理的な根拠が存在しない。飛鳥の見立てでも、彼は「神様にちょっと愛されているだけ」で、普通の人間のはずだ。
「——だから『奇跡』という言葉をあの野郎は使ったわけだ。説明が出来ないからな。或いは純粋にすぎる願いは理を歪めるとも。オルレアンの聖女にしろ、聖書に語られる神の子にしろ。ま、今回はスケールが小さすぎるが、そういう奇跡も伝承には山ほど残ってる。システムにはバグが付きものだ」
 そこまで話が進んだところで、割り込んでくる声がある。その方向へ振り返り、エルフェルトは素っ頓狂な声を上げた。
「あ、ソルさん! どうしたんですか……って、ぶほぁ、は、白衣ッ!!」
「あ? なんだその顔は。テメェらに用事が出来たから呼びに来たんだよ」
 客間に突如現れたソルは、レイヴンの話に合いの手を挟むといきなり鼻血を噴き出して倒れてしまったエルに怪訝な眼差しを向けた。ラムレザルが反射的にエルを抱きとめてから声のした方を振り向くと、そこに立っているソルは確かに、普段からがらりと印象を変えた装いをしている。
 黒いワイシャツに白衣をまとい、いかにもな研究者然とした姿だ。知識として彼が研究職に就いていたことは知っていたが、ちょっと驚いてしまってラムレザルはぱちぱちと瞬きをした。
「その服……どう……したの?」
「あの野郎に着せられた。まあ俺の普段着は精密機械が多い部屋に入るには汚れが多いから仕方ねえ」
「……私はいいと思う……」
「は? いいから来い。バックヤードへの干渉には、俺や奴よりもバックヤードで生み出されたテメェら姉妹の方が適性が高いんじゃねえかと結論が出たんだ。だから……」
 だが、ラムレザルの手を借りてエルフェルトが起き上がり、そちらへ手を伸ばしたところで、ソルの言葉が不意に止まる。
 ソルが個人で携帯している法力通信装置が突如けたたましい着信音を鳴らしはじめたのだ。通常のコール音に設定されているアラームではなく、緊急コール用の爆音アラート。突然の大音量に思わずその場の全員が耳を塞ぐ中、ソルが装置に手を掛ける。
 緊急コール用の番号はカイとシンにしか教えていない。ではイリュリアで何かがあったのだ。自然と緊張が高まり、冷や汗が伝った。シンに何か起こったのだろうか。最初よりもっと縮んでいって、胎児にまで還元されてしまったとか? 端を成しているであろうカイの「願い」の内容からしてそれはないと信じたいが……。
「俺だ」 
 脳裏を埋め尽くす「嫌な予感」に眩暈を感じながらコールを取ると、爆音アラートにひけを取らない大音量があたりに鳴り渡った。
『——ッ、オヤジ?! オヤジか?! オヤジィ!! 聞こえてたら返事してくれ、オーヤージーッ!!』
 シンだ。声はやはり声変わり前の幼いもののままだったが、流暢に喋っているあたり、心配していた更なる幼児退行は起こっていないらしい。
 ソルは努めて平静を装ってシンを問いただした。シンに何も起こっていなくて、その場に居合わせているはずのカイではなくシンが掛けてくる時点で誰に異変が起こっているのか薄々勘付いてしまったが、実際に告げられるまでは認めたくない。
「やかましい!! 一度でわかる。何の用だ」
『あっ、オヤジ、オヤジだな?! 良かった! 大変なんだ。カイが……カイが……!』
 思った通りだ。カイの「願い」がそっちの方向だとすればあり得ない話ではない。
 話がややこしくなってきた。量を増した冷や汗を感じないふりで押し流しつつ、だめ押しで最後の確認を取る。
「あ?! カイがどうした?!」
『——カイが縮んじまった!! しかも中身も!! それで……オレ達のこと、わかんなくなっちまったみたいで……!!』
「ああ、クソ、やっぱりか!!」
 そうして最後に、ソルは大きな声で悪態を吐いた。
 なんてことだ。
 考えられ得る限り最悪のパターンに陥ってしまった。