05
我慢が得意な子供だった。
それこそ飛鳥の弁ではないが、「神様が奇跡を起こしてあげてもいいかなと思ってしまいそう」なくらい、大人達が美徳とするものを全て兼ね備えているような、絵に描かれた「いい子」だった。
「あっ、あ、ああ、そ、ソル——!」
居間に入るなり駆けてきた何かがソルの腰にしがみつく。短く切りそろえられた金髪は上向きにちょっと跳ね、エメラルドブルーの瞳は涙に潤んでいる。
「や、やっと……やっと私の知っている人に会えた……」
「落ち着け。全員テメェの知ってる人間だ、ここにいるのは」
「で、でも。私にはわからないんです。ここは一体どこ? パリじゃ、ないですよね。それに……多分、年代も違うでしょう。ここは物資が豊かすぎる。ラジオもついていない。最初はどこぞに誘拐でもされたのかと思いましたが、私腹を肥やしている貴族豪族の屋敷でも、ラジオぐらいはどこかで鳴っているものです。……戦争中なら」
いきなり飛びついてきたカイを、ソルは自分から引き剥がすことが出来なかった。カイは実際、過去に何度か誘拐されたことがある。目が醒めたら知らん貴族の豪邸に囚われており、そこからソルが助け出したとか、パトロンとの交渉に行ったらそのまま帰してもらえなくなりかけたことが一度や二度ではない。そのカイがこんなことを言うと嫌に重みがある。
随分と心細かったのだろう。触れた小さな身体は震えきって、怯えていた。この家に残っていた家人、カイの家族——ディズィーとシンはギアだ。外見がほぼ人間と変わらないシンはともかく、ディズィーがギアだということはカイも一目で気がついただろう。仮に精神年齢ごと価値観も巻き戻っているのなら、恐くて怖くてたまらなくて、殺したくなっていたはずだ。
このぐらいの背丈だった頃のカイはそういう生き物だった。
「おい坊や、テメェの所属は?」
「聖騎士団第三小隊……その小隊長だったと記憶していますが」
「守護天使だった頃か。ならいくつだ? 十五か?」
「十四、です。……あの、戦争はもう終わりましたか?」
「十二年前にな」
「ではここは?」
「ローマだ。今はイリュリアと呼ばれている」
「……あのふたりは?」
カイがシンとディズィーの方をちらと見て、ソルにだけ聞こえるように小声で尋ねた。本人達に聞かなかったのか、或いは二人が混乱を招くと思って伏せたのか。もしくは、申し出が信じられなかったのか。
そのどれだとしても、ソルが来た以上隠す意味はない。しがみついてくるカイの身体を持ち上げるとゆっくりと背中をさすり、ソルは耳元で答えを囁く。
「カイ=キスクの妻と息子だ。坊やは二十三で結婚した。まさかと思うが、自分の妻子に危害は加えてないだろうな」
「……してない、です」
「そうか。ならいい」
ぶかぶかのワイシャツを心細そうに被ったままのカイを抱き抱え、ソルはかぶりを振った。あの口うるさいカイが、ソルの普段とは異なる装いに何も言わないのは、動転しきっているからなのだろう。それでも自分が置かれている状況からここが「自分が認識している通りの年代ではない可能性」に思い至ったのは大したものだが、逆に言えば、どのような状況下でも「正しい思考が出来てしまう」ということの証明に他ならない。
歳を重ねて落ち着いた今のカイと比べて、十四、十五のあたりのカイはあまりにも危うい。戦場に最適化されすぎているし、兵器としてチューニングされすぎている。人類守護の剣と言えば聞こえはいいが、結局の所、殺すことに特化しすぎているのだ。
飛鳥の手を借りてでも飛んで帰ってきたのは正解だっただろう。あと少し遅ければ、カイは何より大切なものを、取り返しの付かない形で失っていたかもしれない。
ソルは深い息を吐いた。もうケルンに戻る暇はあるまい。なるべく早く、イリュリアで事態を解決する必要が出てきた。
「……もし俺の娘に手を上げたとなれば、テメェ相手でも叱らなきゃならねえところだった」
ぼそりとした呟きは、カイの耳には聞こえていないようだった。
シンの連絡を受けてすぐ、ソルは飛鳥に長距離転移法術の使用を要請した。借りを作る形にはなるが、ケルンからイリュリアまでの帰路を普通に手配すると、どれほど急いでも日をまたいでしまう。カイはギアの殺戮に特化した技能を備えている。ディズィーもシンも決して弱い存在ではないが、騎士道を棄てて不意を討ち、確実に息の根を止めるという、カイの「敵」に対する戦い方を彼らは知らない。
レイヴンを留守番に置き、ヴァレンタイン二人を伴ってイリュリアの邸宅に戻るとソルは大急ぎで居間に走った。その時点で三人ぶんの生体反応は感知していたが、実際に目で見て確かめるまではとても安心出来たものではなかった。
「……とても信じられません」
カイに目線を合わせ、中腰になって事態の説明をするソルの話を聞き終わると、ベッドに腰掛けたカイは力なく首を横へ振った。
居間でソルに抱きすくめられたカイは、その後安全のためディズィーとシンに断ってからカイの自室に連れ込んだ。とにかく、カイが落ち着いてある程度理性を持って事態を受け入れられると確信が持てるまで、二人とは引き離しておきたかった。
「私が……もう大人だとか。ギアと結婚して……子供がいるとか。うまく理解が出来ない。だって私は昨日もギアの討伐に出掛けて、そうして騎士団のベッドで眠りに就いたはずなんです。そうでなきゃいけないのに」
「過去と未来の自分が入れ替わったとでも? なら訊くが、昨晩ベッドに入った時間を思い出せるか」
「そりゃあ、もちろん…………あ、あれ? わからない? なんで……」
「……だとしたら、やはりテメェは過去からやって来た存在じゃねえってことだ。もしそうなら、時間にうるせえ守護天使様は日々の起床時刻と就寝時刻を完璧に自己管理していて即答出来たはずだからな。テメェの就寝時刻記憶が乱れ始めたのは騎士団が解体されて寮を出て、一人暮らしを始めた頃からだった」
第一、ソルの記憶ではあの頃の聖騎士団に未来のカイ=キスクとやらが現れたこと自体ない。
そう淡々と告げるとカイは押し黙った。
身の丈百六十数センチほどまでに体躯が縮まったカイ=キスクは、ソルが聖騎士団に所属していた頃見知っていたものと完璧に同じ姿形をしている。この体躯でまともに着られる服が、カイが私室に残していた聖騎士団時代の制服しかなかったことも相まって、まるでソルがタイムリープをしてしまったかのような錯覚に陥りそうになるほどだ。
ハイネックのインナーを身につけ、しばらく俯いて思案に耽っていたカイがぶるぶると頭を振ってソルを見上げたのは、壁にもたれていたソルが白衣のポケットから手慰みに煙草を取り出そうかと思い始めた頃だった。カイはソルの喫煙を咎めようとはせず——団の外では聖騎士団の規則も効力を持たないと判じたらしい——ただまっすぐにソルの方を見て、ぽつりぽつりと事実確認を始めた。
「ここは『私』の部屋ですか?」
「そうだ」
「ああ、やっぱり。調度品の趣味が私とあまりに似通っていたので。ということは、ここは別に貴族豪族の屋敷ではなく……」
「テメェの家だな」
「でしょうね。聖戦が終わったのが今から十二年前、ということは、少なく見積もって今は二一八五年頃?」
「二一八七年だ」
「ああ、では、私は本来なら二十九歳か。まあ、それなら、あのぐらいの妻子がいても……おかしくは……」
おかしくはない、と言いつつもカイの顔がかーっと赤くなる。初心で奥手で、女性との色事など欠片も縁がなかったような少年だ。色目を向けられることは多かったが、団の人間やソルの手によってその全てから最終的には守られていたし、潔癖症のカイはそういう俗っぽい話題には首を突っ込もうとしなかった。シンが生まれたと聞いた時は、正直ソルでさえ、まさかあのカイが人の親になるとは……といった類の驚きを禁じ得なかったぐらいだ。
今のシンは六歳前後の子供の見た目だから、「二十三で結婚した」というソルの言からも納得がしやすかったのだろう。実際はもう父親を追い越す背丈にまで成長しているということは伏せ、ソルはカイの言葉を継ぐ。
「ああ、何もおかしいことはねえな。それより、何故あの二人を殺そうとしなかった? 俺もなるべく急いでは来たが、それなりにタイムラグはあったはずだ。その間に坊やの腕なら『人型ギア二匹を殺す』ぐらいわけなかっただろう」
「あ、あなたの言うとおり彼らが私の妻子なら、そんなことしていいわけないでしょう」
「俺が言うまでは知らなかっただろ。……ギアを畏れよ、そして迅速に殺せ。騎士団の教えを、誰より徹底していたのは坊やだ」
ギアを侮るな、ギアに情けを掛けるな、ギアに猶予を与えるな。聖騎士団に入った人間が、生き残るためにまず真っ先に教えられる事柄だ。その教訓が誰よりも身体に染みついていることは、自他共に認める事柄のはず。
しかしそれでも、カイは苦しそうに首を振るばかりだった。
「……誰かの声がしたんです。駄目ですよ、と。それに剣も持っていなかった。法術を使えば或いは出来たのかもしれませんが、でも……話を、しなきゃと思って。彼らとは会話が出来たし……私に対する殺気がなかった。だから……」
「ふん……声、か」
それで一応の納得をして、ソルは煙草に火を点けた。
セーフティが掛けられていた以上、カイを幼児後退させたのがカイ自身だろうが、第三者の意図だろうが、カイの意思を尊重している可能性が高い。これら一連の騒動が、直接的な危害を加えることを狙ったものというセンは薄そうだ。
「本当に彼女は私の妻で、あの子は、私の子供なんですね」
ややあってから、カイが控えめに尋ねた。
煙をくゆらせ、口から煙草を離す。吐き出した吐息は思いっきりカイの方へ降りかかるが、慣れ親しんだ香りでもあるからか、文句は言われない。
「疑ってるのか」
「いいえ。それに、素敵な人だと思います。私は殺気を隠さずに彼女と会話をしましたが、彼女はそのことに気分を害した様子がなかったし、辛抱強く私とのコミュニケーションを望んでいるように思えました。子供の方も、母親を守ろうとしていた。私に気を遣いながら。……いい母親に育てられたんでしょう」
「両親の躾が良かったんだよ」
「まさか。私がいい父親になんて、なれたものでしょうか?」
だって私は「いい母親」も「いい父親」も知らないのに。
そう寂しそうにぼやくカイの顔が自嘲の色に歪む。そんな顔を見せられると、あまりカイとシンの親子関係には干渉しないようにしようと思っていたソルも再び煙草を咥える気にさえなれず、知らず眉間に皺を寄せる。
「いい父親であろうと努力はしていた。子供に持っている愛情は本物だったと思うが」
「……そう、か。……へんなの。親のことなんか何も知らない私がひとの親だって。ねえソル、人は、知らないものになれるんでしょうか。私にはわからないな……」
それでカイは、所在なさげに、縋り付くような眼差しをソルヘ臆面もなく向けた。
弱り切った子供の表情に息を呑む。そんな面構えなどもう何年も目にしていなかったから、ソルも、カイがそういう顔もできたということをすっかり忘れてしまっていた。いつからかカイは当たり前のように強くなって、当たり前のように弱音を吐かなくなり、当たり前のように誰かを支える側になった。けれどソルが聖騎士の制服を身に纏っていた頃は、まだ、僅かにそういった側面を覗かせることがないわけではなかった。
十五年前、露呈されたカイの弱さに触れ、ソルはどうしてやったのだったか。
それを認めて無条件に宥めてやっただろうか? 本物の親のように? そんなことがうまく出来た記憶はない。カイはソルに対等な関係を求めた。だからソルもカイのそういう意思は尊重しようとしたし、ある種の子供扱いをしても、子供だからという理由で甘やかしはしなかった。
「人は、何にでもなれるよ。神にも悪魔にもね。人類の歴史がそれを証明している。人の中には全ての可能性が眠っているのだから、知らずとも、親になることもあるだろう」
そんなソルの葛藤を遮り、ふと、部屋の戸が開く音がする。振り返った先にはフードを脱ぎ素顔を露わにした飛鳥の姿があった。
見知らぬ第三者の登場にカイが目を白黒させ、言葉を失う。
「だ、誰……?」
「……チッ。おい、何の用だ」
「カウンセリング。実際に接触しておいたほうが、解析も早いだろう。本人に直にコンタクト出来れば、どういうパスを繋いでバックヤードにアクセスしているのかもわかるかもしれない」
剣呑なソルの言葉を笑顔でかわし、飛鳥はつかつかとカイの方へ歩み寄ってくる。よもやこの男が、幼いカイの認識の中でも絶対悪の象徴である「ギアメーカー」だとは思いもよらぬカイは、純粋な驚きから首を傾げ、恐る恐る尋ねた。
「……あなたは?」
「こんにちは、カイ。僕は飛鳥=R=クロイツ。フレデリック……そこの彼の古い友人。まあちょっとわけありで、彼の手伝いをするためにここまで来た。……さて、単刀直入に訊かせてもらうけど」
自分の正体は伏せたまま、にこにこ笑顔をしたまま飛鳥がソルを指さす。指を向けられた瞬間背筋に言い知れない悪寒が走り、ソルはおいやめろ——と口走ったが、間に合わない。
飛鳥はぴとりとカイの頬に触れ、心の底から楽しそうに微笑むと小首を傾げた。
「君は彼に、父親になってほしかったと願ったことはあるかな?」
◇◆◇◆◇
気がついた時には、カイが縮んでいて、そこにはシンの知らない誰かがいた。悲しいことだけど、まあ勘はいい方だったから、こちらを見る怯えた眼差しに、シンはすぐ「そこにいるのは自分が見知った父親ではないのだ」ということが分かってしまった。
食事を終え、ディズィーが片付けに入り、カイは居間で新聞を手に取っていた。そんなカイとひとしきり雑談をしてから、シンはカイを一人で残してディズィーの方へ行ってしまったのだ。あの時一人残してしまわなければ。そう思うが、でも、過ぎた過去は変えられない。
「母さん、ごめんな」
ソファの上で膝を抱え、シンは小さく呟いた。カイに拒絶されて一番辛いのは、シンではなくディズィーだ。ディズィーをはじめて認め、受け入れてくれたひとに、怖々と「あなたは誰ですか」と訊かれる。しかも、殺気が漏れた状態でだ。シンは背筋が凍ったようになって、動けなかった。
「ううん、大丈夫。カイさんが昔どういうものと戦っていたのかは知っています。……私がまだ生まれる前、戦争の最中は、ジャスティスに統率されたギアはみんな、人間を殺そうとしていたから。それでも言葉を交わそうとしてくれただけ、よかった。ネクロは随分怒っているみたいだけど、カイさんにこの力を向けなくて済んだことも嬉しいの」
「でもオレ、母さんのことちゃんと守ってあげられなかった」
「どんな姿になってもカイさんはシンの大切なお父さんでしょう。ねえ、シン。カイさんを信じてあげてね。あの人はとっても優しくて、誰より思いやりが強くて、だけど本当は繊細な人なの。我慢しすぎて、かさぶたを重ねて傷を忘れようとしてしまうところが、あの人の唯一の欠点なんだから」
「……うん。そうだよな」
慰めようと声を掛けたはずなのに、逆にシンがディズィーに慰められてしまう。オレ、ほんと、駄目だなあ。ぼやいてから、素直に母の腕へ身を寄せた。
ディズィーは強い母親だと知っていたはずだが、シンが思っているよりも遙かに、強い妻でもあったらしい。ディズィーは決してカイに失望していなかったし、むしろカイの身を案じていた。その上でシンを宥め、だいじょうぶよ、と囁き続ける。
なら結局、一番焦ってたのはシンか。ちょっと不甲斐ない。
「あー、エル、ラム、ゴメンな、変なとこ見せて。そっち立ってないで、ソファの空いてるとこ座ってくれよ。オレも……冷蔵庫からなんか取ってくるし。飲み物とか」
「あ、うん。手伝うよ」
「私も。ディズィーさんは座っててください。そのあと、お話にしましょう。私達が知ってることはあまり多くないですけど、でも何かの役に立つかも」
入り口付近で母子の動向をうかがっていた姉妹に声を掛け、ぴょんとソファから跳ね降りる。勝手知ったる動きで姉妹を冷蔵庫に先導して飲み物を取るべく扉をあけ、作り置きの自家製茶が入っているポットを取ろうとし……そこでぴたりと動きを止めた。
「……嘘だろ……届かねえ……」
普段は難なく出し入れしている冷蔵庫上段のポケットに手が届かない。そんなシンを見て、後ろに着いてきていた姉妹が顔を見合わせる。
「仕方ないよ。シン、いつもの半分ぐらいの身長だから。その……ちょっと嫌だろうけど、その間は私達に手伝わせて」
「そうそう……あ! あのねシン? あとでだっこさせて……?」
ラムレザルの言うとおり、「ちょっと嫌」ではあるのだが、「あとでと言わず今すぐにでもっ!」なんてエルフェルトに両手を合わせて頼まれると「ええ、嫌だけど……」なんて言うことも出来ない。シンがはいもいいえも言わないでいると、エルフェルトはその場を都合良く解釈したのか、ぱっとシンを抱え上げてぎゅうとシンの身体を自分の胸元に抱き寄せた。ものすごい密着具合だ。息が詰まりそうなくらい、エルフェルトの胸が近い。
「……ずるい……」
その様を横から眺め、何故かラムレザルは不満げに頬を膨らませた。
「——というわけで、なんというか……解決の糸口はバックヤードにあるみたいだって話を、向こうではしてました。それで、バックヤード生まれ? っぽい私達がお力になれるかも〜みたいな感じになっていたんですが」
「その最中にシンから連絡が来て、保留になってる。だから詳細はまだ知らない」
一息に話し終え、ヴァレンタイン姉妹は揃ってストローに口を付けた。氷たっぷりのグラスに注がれたオレンジジュースが見る見る間に吸い上げられていく。「今の状態でも出来るだけ背を伸ばす」ことを目標にして牛乳を飲んでいるシンは、やや名残惜しそうにオレンジジュースのグラスたちを眺めると、ぶるぶる首を振って雑念を吹き飛ばす。
「バックヤードかあ。バプテスマ13の時、オレとオヤジと、それからパラダイムのオッサンとイズナとで中まで行ったな。その時オレ達は、中でちゃんと行動出来るようにギアメーカーに加護? 掛けてもらって突入したんだけど、確かにあん時、ヴァレンタインは平気な顔して中に入ってた。エルとラムもアイツとおんなじなら、なんかやっぱ適性があるのかも」
「あー、私達の前任者かあ。その人のことはあんまりよく知らないんだよね。ラムのルシフェロはその人と一緒だったらしいんだけど……なんにも話してくれないし」
「続柄的には……私達にとって、姉、にあたるのかなと思うんだけど。感覚としてはほとんど赤の他人……」
「まー、俺もアイツとエルとラムはそんな似てない気がするな。アイツ、なんか、急にオレのこと好きとか言い出したり、かと思ったら怒り出したり、不安定でよくわかんなかった。二人みたいにまともに会話、成立してなかったし」
はじめてシンとソルの前に現れた「ヴァレンタイン」を名乗る少女のことを思い出す。結局彼女はなんだか暴走めいた感じに陥ってしまい、最後はソルが一人で片を付けたらしいのだが……それ以上のことはそういえば知らない。
シンは考え込み、少女二人に挟まれたまま牛乳を飲み干すとグラスをテーブルに戻して両腕を組みながらうんうん唸った。
「バックヤードは、世界の全部が書いてある本みたいなもんだ——って前にオヤジとイズナが言ってた。で、人間には読んだり書き込んだりがそうそう出来ないんだって。でも、オヤジ達の見立てでは、カイはその本に書き込んで——ただ書き込むんじゃなくて、オレの情報を書き換えて——だからオレもカイもちびになっちまった、って感じなんだよな」
「うん。たぶん」
「オレもさあ、カイが天才だってのは知ってるけど。天才なら、バックヤードの書き換えが出来るとか、そういう理屈じゃなかったよな?」
「同じようなこと、ソルさんも言ってたなあ」
「前にパラダイムのオッサンと雑談してた時、オッサンでも閲覧と索引がせいぜいみたいなこと言ってたんだよな。それが出来るだけでも相当すごいって胸張ってた。実際オヤジは、そういうのはからきしらしいし」
シンが知っている限りでは、カイも天才だがソルも相当な博識だ。知識は多岐にわたるし、専門分野のことになると、シンの頭では到底追いつけない難しい理論を難しい言葉で早口にまくし立てて一人納得してしまうところがある。そのソルでさえバックヤードへの任意アクセスが出来ないのだから、それは最早頭がいいから出来るとか、法術が得意だから出来るとかではなく、何か一定の条件が必要な物事なのかもしれない。
「うんまあ、だから僕は最初に奇跡って単語を選んだんだけどね」
四人が考え込み、居間が静まりかえってしまったタイミングで扉が開き、男が入ってくる。すっかり素顔を隠すつもりもなく、フードを取り払った彼はつかつかとこちらへ歩み寄ると人差し指を一本天井に向かって立てた。
「とはいえ奇跡にも種類がある。人間が自助努力の結果その意思で起こしたものが奇跡と崇められるようになるか、或いは上位存在のきまぐれな介入のどちらか、だ。僕の見立てでは、今回は後者」
「……あんたは……えーっと……飛鳥=R=クロイツ?」
「気さくに飛鳥って呼んでくれて構わないよ」
背後に忍び寄るように現れた飛鳥は、にこにこ微笑んだままシンたちのそばに耳を寄せる。それから、すっと声のトーンを変えると低く静かな声音で「彼の前で『ギアメーカー』という名前を出すと不味いことになるからね」と耳打ちをした。
上を向いていた人差し指が扉の方を指し示すと、少年が男を伴っておずおずと入ってくる。だぼだぼになってしまったワイシャツを着替えた幼いカイと、急いで戻って来たせいで見慣れない黒シャツに白衣を羽織った格好のままのソルだ。「カイ!」シンが思わず立ち上がって名前を呼ぶと、少年は気まずそうに「は、はい」と小さな声を出した。
「あの、先ほどはすみません。不快な思いをさせてしまって」
「ううん、大丈夫ですよ。私はいつだってカイさんの味方ですもの」
「……あ、ありがとう。それから……あなたも」
「気にすんなって。あとシンでいいから。呼び捨てで。親は子供のこと、呼び捨てとか、テメェとかオマエとか、そういうふうに呼ぶもんだろ」
「うう。恥ずかしながら、私があなたの親だと、今はまったく自覚が出来なくて。……だってその、どっちかというと兄弟みたい。それはそれで楽しそうなんて思ってしまうところもありまして……」
恐る恐るといった調子で歩み寄り、カイはソファの上に立っているシンを抱き上げると、自分はソファに座って膝の上にシンを載せた。幼くなったとはいえ十五歳そこそこの体躯であるカイの膝上に、幼児並のシンはすっぽり収まってしまう。シンのすべらかな頬に少しだけ頬をすり寄せ、カイは「あったかいですね」などと呟く。
「家族って、みんな、こんなふうにあったかいんでしょうか?」
それから、カイは神様に祈りを捧げる聖処女のような面持ちで言った。
囁き声はあまりにも無垢で、なんのてらいもなく、本当に何も知らぬ、愛に飢えるという感情さえ知覚出来ないゆえの純粋さに満ちていて。
シンはぞっとして己を膝に抱く少年を見上げる。
「……カイ」
「不思議ですね。団の皆さんとは、どんなに近くで接していてもこういう暖かさは持ったことがなかったのに。一番近かったのは、きっとソルだけど……でも、ソルは……」
シンの知らない少年。知らない誰か。父親とは違うひと。
それでも確かに同じ地続きで繋がっている人間のはずなのに、蛹が蝶へ孵るまえの幼生態というだけで、これほどまでに人は異なるものなのだろうか。
(いや、違うんだ。そうじゃない。……ソイツは多分、間違ってる。カイはカイで、それ以外何者でもなくて、だとしたら……カイが隠してたもの……)
たとえばそれは、数時間前に感じた違和感。
遙か過去を寂寞の表情で見つめ、自分にもし親がいるとしても、その相手はソルではないのだと言い切った時のあの眼差し。
奇妙なまでに居心地が良すぎた家族の団らん。
カイが理想とする、どこかからか拾ってきたはずの家族像。良き父としての姿。その断片はどこからやってきたものなのだろう。聖書か。養育書か。或いは仕事で関わった人々からか。でも本当はそのどれでもなくて、カイ自身が幼い頃に抱いた夢物語のように美しい憧憬の中から抜き取られた切れ端なのだとしたら。
「……すみません、なんでも。それで、ええと……そうです。お二人にお願いをしに来たんです。ソルと飛鳥さんが話すことには、明日は別行動になるそうなので、迷惑でなければ……今晩は一緒にいさせてほしいなと思って」
シンをテディベアのように抱きしめたまま、「いけませんか」、と伺いを立ててくる。シンはディズィーと目配せをしあい、一も二もなくその申し出を受けた。ここで断りでもしたら、もう二度と、シンを肩車してくれたあの父は帰ってこないのではないかという不安が脳裏を過ぎって仕方なかった。
「もちろん! 昨日の夜だって、オレたち親子で川の字になって寝てたんだ。カイと母さんで、オレのこと挟んでさ」
「……本当ですか?」
「トーゼン、あ、オヤジも今日は一緒な!」
「ハア?!」
「えっ、ソルも?!」
突然名前を挙げられてつっけんどんな声を上げたソルも、直後にカイが目を輝かせて嬉しそうにはにかむのを真正面から見てしまい、そこで口を噤む。カイにぬいぐるみよろしく抱かれているシンが、眼差しで切々と訴えかけてきているのも無視出来なかったのだろう。ソルはディズィーの方をちらと伺い、「いいのか」とぼそぼそ尋ねた。ディズィーがそれに「お父さんが来てくれるのは、とっても嬉しいです」と答えると、いよいよ進退窮まってかぶりを振る。
「坊や……」
「ソル、お願い」
「……。煙草と寝酒は」
「だめです。こんな小さい子もいるのに」
三対一だ。ソルはとうとう縋るように飛鳥やラムレザル、エルフェルトの方も見たが彼らは何の助け船も寄越さなかった。ヴァレンタイン姉妹は気を利かせて「じゃあ私達は二人で休みますね!」と言うばかりだし、飛鳥など、「わかってるね?」と目線で言い含めてくる始末だ。
「……仕方ねえな……」
ソルは腹をくくった。まずカイの上で丸くなっているシンを左腕で掴み上げ、次いでカイを右腕で掴んだ。両腕に子供を抱え、ディズィーの方へ振り返った。