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07


 まどろみから目覚めた頃にはシンとディズィーの姿はなかった。慌てて壁に掛けられた時計の方を見ると、既に午前十時を回っている。常にあらざる大寝坊。そのことにぎょっとして反対側を振り向くと、下着一枚の格好をした寝ていたはずのソルは、既に支度を調えてベッドサイドに腰掛け、新聞を捲っていた。
「な、なんで起こしてくれないんですか!」
「祝日の朝だ。俺もそこまで残酷じゃねえ」
「ばか! 二人が朝早く出掛けるのなら、見送りに立つのが礼儀というものでしょう!」
「あの二人はそんなもん気にして生きてねえよ。出掛ける時に寝ているテメェを起こさず出て行ったのは気遣いの証拠だ」
「ぐ、ぐぬぬ……」
 またもや見慣れないワイシャツ姿のソルが、困ったふうにカイの方へ目を遣る。ヘッドギアさえなければどこにでもいそうな休日の父親の服装だ。カイはベッドから降り、ぶかぶかの服ばかり納められているクローゼットに勢いよく上半身を突っ込むとやけくそみたいに背中で尋ねた。
「ソルは……なんで、普通というか、ありきたりというか、そういう格好してるんですか」
「聖騎士団にいた頃は服の選択肢がなかっただけだ。逆説だな。あとは……まあ、シンを育ててる道中で思い知ったことだが、俺の普段の格好で子供を連れていると職質されやすくてかなわん」
「ああ……」
 いかにもな無頼漢丸出しのファッションに賞金稼ぎの肩書きだ。まず真っ当な人種には見られない。それが幼い子供を連れて歩いていたら、どんなに子供の方が懐いていたとしても人さらいに間違われる確率はうんと跳ね上がるだろう。
 あの幼く愛らしいシンを連れたソルが、道行く先々で警察官に捕まって職務質問されている姿というものは、幼いカイの脳裏にもありありと思い浮かんだ。「ボク、怖かったね、もう大丈夫だぞ」などと言い始めた警官の腕がシンに噛み付かれたところまで想像し、カイは妄想の中のかわいそうな警察官を脳裏から追いやる。
「パリにいた頃は俺も聖騎士団の制服だったから、まあ、坊やと歩いてても問題はなかった。だが、こと治安の良さがウリの首都イリュリアを今のテメェと普段着の俺で歩こうものなら、テメェの部下に俺が捕まる。そいつは勘弁願いたい」
「私も勘弁願いたいです、それは。いやですよ、あなたの保釈手続きに行くの……でも……その」
「なんだよ」
「…………。ソルは格好いいんだから、普段からそういう装いにしててもいいのに……」
 ハンガーからつり下げられた、柔軟剤の匂いに包まれた服達に囲まれながらカイがぽつりとそんなことを言う。でも口にしてすぐ、しまったなと思った。だってソルが何の反応も寄越さないのだ。「阿呆か」も「馬鹿野郎」もなければ「冗談は顔だけにしろ」みたいな罵倒もないし、「正気か?」という批難の声もない。ただひたすらに無言。クローゼットの外に突きだしたままの尻にかかる部屋の空気が随分凍えているような気がしてくる。
「……あの。いえ、なんでもないです。なんでも!!」
 カイは泣きたい気持ちになりながら怖々と顔を出し、ソルの顔を探した。でもすぐには見つからなかった。ソルは新聞を降ろし、何故か顔を右手で覆い、俯いて固まっていたのだ。
 カイは慌てて駆け出した。
「そ、ソル?! ソル!! どうしたんですか、一体……!」
 飛びかかり、がくがくとソルの肩を揺さぶる。でもソルは顔を上げない。頑なに俯いたままだ。
「ソル、ソルってば……!」
 こうなるとカイも引くに引けなくなってくる。ソルがここまで頑固になる理由が、彼の秘密のようなものが、覗き込めばわかるかもしれないのだ。カイは好奇心に負け、意を決して彼の顔と膝の間に潜り込んだ。小柄な体躯としなやかな肉体が、これ以上なく役に立った瞬間だった。
 でも多分、見るべきではなかったのだ。
「あ」
 カイは無理矢理潜り込んだ変な態勢のまま、ソルと同じように固まった。それからソルとそっくり同じような顔色になった。顔中が赤らんでしまったのが、かっかする頬の温度で見なくても分かる。
 ソルは必死になって何かに堪えていた。多分、彼の中に芽生えた何かに。それに必死に抗い、何とか、今日はカイの望む者であろうとしているのだ。聞かなくてもわかる。今日という日はそのために設けられた時間だ。
 ——ソルは、カイの父親として持つべきではない感情を、心臓の奥へ押し込んでいたのだ。


◇◆◇◆◇


 かみさまを信じたことは。
 そう聞かれて、その方がきっと楽しいし素敵だから神様はいた方がいいなって思うと答えたら、サディスティックなネコミミの生えたその男は「君は父親とは真逆だな」と神妙な面持ちで言った。
 シンの生体法紋とディズィーの生体法紋を採取し、それに予めソルから預かっていたカイの生体法紋データを掛け合わせ、ギアメーカーは即席の「鍵」を精製した。インスタントで、数回使ったら露と消えてしまう魔法の鍵。ただこれさえあれば、今回の騒動を起こした元凶が潜むはずの「秘匿領域」には行けるはず、らしい。
「それじゃアンタ、今回のもろもろにはかみさまが関係してるとか、そういう結論に至ったわけ?」
 何の気負いもなく、そう尋ね返す。あたりは真っ白で、ブロック状の物体が積み重なったりこぼれたりしてとりとめがない。
 だだっ広いバックヤードの内部、そのどこかを歩き始めてしばらくが経っていた。基本的にはギアメーカーが道行きを先導し、時折彼は、シンの手を握ったり(コンパス代わりにされているらしい)独り言めいた言葉を漏らしたりした。
「いや、なんて言えばいいのかな。最初にフレデリックには、カイのことを『神様が奇跡を起こしてあげてもいいかなと思ってしまうぐらい敬虔』と説明したけど、それは別にゴッドの存在論に噛んだ話じゃないんだ。この話、すごい長くなるし。ただ、理解出来ない超常の力や現象を神と呼ぶ意味でならそうだと思う。絡繰りは読めたが、論理が破綻している。どこかで奇跡の力を担保していなければ、辻褄が合わない」
「奇跡……確かに、カイさんはとても信心深い人ですけれど」
「ああ、言いたいことはわかってるよ。彼の為してきた偉業は別に奇跡じゃなくて彼本人の努力の賜だ。これまではね。カイの努力と才能、信心、機運、そういったものをリソースにしてきたと説明出来る。でも今回の書き換えは、そうじゃない。カイの権能を超えている。バックヤードから普通に引っ張ってこれる可能性も凌駕している。何らかの方法で無理に帳尻を合わせたとしか考えられないんだ」
 そこまで言ってギアメーカーが立ち止まる。三人の行く手を阻むように巨大な扉が現れたのだ。またかよ、とシンがぼやくとギアメーカーがなだめるように振り向いた。意識せずにふと見た時の彼の横顔は、ソルのところへ置いてきた幼いカイの相貌にちょっとだけ似ていて、シンを何度もどきりとさせる。
 懐からインスタント・キーを取り出して扉に差し込む。するとたちまち扉が霧散して、再び道が開けた。
 シンはまだ変なリズムで鼓動を打っている心臓をなだめすかす代わりにギアメーカーへ問いかける。
「この扉と鍵って何なんだ?」
「黒幕からの拒絶が扉になって現れている、と思ってくれれば。僕がバプテスマ13の時にキューブを配置したのと原理は同じだ。モチーフがちょっと悪趣味だけど。鍵には、君達父子の生体法紋をベースに暗号化されたものが用いられている。あの時キューブの鍵はジャスティスの因子そのものだったが、入手難度が低い代わりに小細工が効いているな」
 ギアメーカーは前を向いたまま淡々と答えた。
「……なんでカイとオレ?」
「それは多分、もうすぐわかる。今の扉で五枚目だ。恐らく十三枚目の扉を抜けたあたりでご対面と相成るだろう。そうだな、ちょっと覚悟しておいた方がいいかもしれない」
「だからなんで……」
「最初に僕は、この事態の原因はカイ=キスクの信心深さだと考えた。彼の思いが何らかの理由でバックヤードに非正規アクセスを起こし、書き換えを起こしてしまった、程度に考えていた。単に適性があったとかでね。でも多分、本当はそうじゃないんだ。そのぐらいなら、対処療法の影響が出る。それなのにうんともすんとも言わなかったということは……カイの『お願い』が実現するよう力を与えた『何か』がいるということ」
「ソイツが今回の、オレ達の敵?」
「そうだね。そう言えるだろう。ただそれと、話が通じるなんてことは望まないことだ」
 錫杖を掲げた男が彫り込まれた扉を振り返り、でもじっと見ていることも出来なくてシンは慌ててギアメーカーの後を追う。
 これまでに通って来た五枚の扉には全て異なる図柄が彫り込まれていて、何かの暗示をしているようだ。シンは嫌な胸騒ぎを覚え、心臓に手のひらを当てる。布越しに伝わる指先の形は悲しいほどあどけなく頼りない。くそ、こんな時に、どうしてこんな身体に。カイに望まれたからだとわかっていても、そのカイの力になりたい時に全力が出せないかもしれないことがすごくつらい。
 カイは——シンに、どんな子供でいてほしかったんだろう。
 やっとお互い、認め合うことが出来た、と思っていたのに……。
「扉はまだ八枚ある。現実の方でフレデリックが行っている仕込みが終わるまではあと半日というところだ。それまでに、君達は何を信じているのか、ということをよく思い出しておいてくれ」
 ギアメーカーの言葉をそぞろに聞き流して、シンはここ数日の出来事を出来るだけ正確に思い返した。
 朝起きたら身体が縮んでいたから、ソルにつままれてカイに引き渡され、そのまま自宅に送り戻された。カイはその日、少し早く仕事を切り上げて戻り、久しぶりに親子三人で一緒になって眠った。本当に久しぶりだった。ソルに預けられる少し前はもうカイが家に殆どいなかったし、和解した頃には、シンは一緒にベッドに入れる大きさではなかった。
 次の日はのんびり起きて家族三人でピクニックへ行った。昔、いくらしたくても出来なかったことをたくさんした。夕飯の手伝いだってした。カイの料理はディズィーに負けず劣らず美味しかった。すごく楽しかった。幸せだった。
 小さくなってよかったこともあった。カイが自分を愛してくれていることが、いつもよりずっとはっきり、伝わってくるようだった。
 ……けれどそれは、永遠にそのままでいたいという思いには繋がらなかった。
 シンがカイと離れ、ソルと一緒に旅をした数年間は、シンにとってかけがえのない時間だ。カイと過ごした或いは過ごせなかった時間も。それが全部あるから今の自分がいる。なかったことにはしたくない。
 守られるだけじゃなくて、大切な人を守れる自分に誇りも持っている。
「なあ、母さん」
「どうしたの、シン」
「オレ、カイと公園行けてすごい嬉しかったんだ。カイの手料理ももっと食べたい。でもそれってさ、たぶん、オレが元の——今の成長したオレでも、出来ることだと思う。別にオレが縮まなくたって。カイもそうだ。わざわざ十四歳の姿にならなくたって、オレ達は家族だし。……オヤジも、とっくに……カイの家族じゃん」
「ええ」
「簡単なことなんだ。全部。カイだってそんなことはわかってる。だからオレ、言ってやらなきゃ。カイの小さな願いを勝手に叶えたつもりになってるやつに、余計なお世話だって」
 六枚目の扉。裸体の男女とそれを見守る天使が描かれたレリーフ。シンは両手のひらを握りしめた。たとえ身体が小さくて、雷の法力がいつもみたいに使えなくたって、家族が大好きだという気持ちは絶対に負けない。


◇◆◇◆◇


 イリュリア城下町のどこもかしこも、カイの目には新鮮に映った。カイの記憶にある街というのは概してみな清貧で組み上げられており、不要なものがそぎ落とされている。けれど目の前に広がる景色はその正反対だ。富んだ街を幸せそうな人々が歩いている。目を疑うほどの裕福さは、カイを驚かせるに足るものだった。
「ここ、ローマなんですよね?」
「ああ」
「じゃ、ゆっくり観光名所を巡りたいな。前にソルとローマへ来た時は……ほら、それどころじゃなかったし」
 ソルは曖昧に頷く。この年頃のカイとローマに行くことがあるとすれば、十中八九遠征でギアを殺しに行く用事以外有り得ない。観光地巡りは確かにしたことなどないだろうが。
 目立つからという理由で聖騎士団の制服を着替えるよう求められたカイは、ひとまずの応急処置としてインナーとズボンだけ身につけ、街の洋服屋へ向かった。ソルが普段着ているメーカーの洋服が自分も欲しいとカイはねだったが、あれは安物なので、なんとか言い聞かせてもう少し上等なブランドの店舗へ押し込んだ。
 服屋の店員は「こいつに合う服を一式」と言ってカイを預けると目を輝かせてあれよこれよという間に三セットほどの洋服を見繕ってきた。あまりに乗り気なのでまさかカイの正体がばれたのか? と不安になるほどだったが、単に見目のいい少年に服を用立てるのが好きな店員だっただけらしい。提示された洋服はどれもこれもお上品を絵に描いたようなデザインのもので、ソルにはものの良し悪しがわからず、結局カイに好きなものを選ばせてその場で着替えさせた。
「ソルとお揃いとか、ちょっと着たかったんですけど」
「騎士団の頃はいつも揃いの服だったろ」
「制服ですよ、あれは。……まあでも、今日のソルの格好なら、この服でもいいセンいってると思います。……私達、何に見えるのかな」
「さあな。とりあえず誘拐犯に見られてることはなさそうだ」
 バルカッチャの噴水が見えると、ソルの言葉に相づちを打つこともそぞろにカイが飛び出して行く。少年の足取りはそのままスペイン階段へ向かい、石階段を駆け上がり始めた。
 飛鳥の要求で、カイとの一日旅行はなるべくイリュリア城から離れたエリアからのスタートになっている。そのためにわざわざ自宅から馬車を走らせて旧ローマエリアへ足を伸ばしたのだ。そこから徐々に徐々に王都イリュリアへ戻る道を辿り、夕刻、十七時頃にイリュリア城内大聖堂に着く手はずで合意した。飛鳥曰く、バックヤードの内外を強制的にパスで「繋ぐ」には、その時間と場所が大切らしい。ベルナルドを通じ、既に人払いも済ませてある。
 ソルは一つ息を吐き、カイの後を追った。
 カイを元に戻すにあたって、飛鳥が立案した最後の手段。バックヤードに直接侵入し、フラグをリセットする。そのために、タイミングを合わせて現実で活動しているカイの意識を止める必要がある。ベッドマンが夢を介してバックヤードの権能を利用していたように、眠りに就き、自我意識を現世から切り離した方が、事象への干渉がしやすいからだ。
 それを満たすだけならば別に所定の時刻にカイをぶん殴ればすむ話だが、飛鳥はその考えを拒否した。もし無意識下での望みが助長されてこの事態になってしまったのならば、出来る限りその望みを叶えてやった方がいい。そうすることで願いの力が弱まるかもしれない。つまりソルがカイの望みを叶えれば叶えるほど、バックヤードに潜む何者かの力を奪うことに繋がるかもしれないという。
「ねえソル、ジェラート! 五ドルだって。あれ、食べたいな」
 それにしたってけったいなことだ。「あの頃に戻りたい」という願望がカイの中にあったということが、ソルにはまだ受け入れ難かった。ソルが知る限りカイの少年時代は最悪の時代で、物資も余裕も未来もなかった。
 それでもなお、手に入らなかった時間を渇望するのか。
(……両親に何一つ不自由なく育てられた俺がそれを問うのは傲慢か)
 カイが我慢しきれないというふうに手を引く。ソルは違和感に首を傾げた。劣悪な時代環境を凌駕して、カイはソルを求めていたという。ソルはいつまでも親の顔を知らないと言い切った少年の相貌が忘れられない。感情の灯らぬ瞳。あの機械のように血の通っていない言葉達。
 けれど今目の前にいるカイは……親の顔は知らないが、感情があって血が通っている。
 この差は、一体どこからやってくる?
(ならやはり、カイの望みが歪められたのか)
 知らぬ間に、いつの間にか大人になってしまったかれ、その少年時代の残影は、息を呑むほど鮮烈で儚く、強烈で淡く、泡沫の花のように咲き誇る。
 財布から五ドル紙幣を取り出し、ジェラート屋の店主に渡した。カイは既に物色を終えており、すぐに目当ての味を店主に申しつけた。ブラッドオレンジソルベとピスタチオ。盛りつけられた品物を受け取り、礼を言って立ち去ろうとすると、店主が不意に口を開く。
「ちょいと、お父さん。おまけだ。こいつも持ってってくれ」
 耳慣れない言葉にソルは目を見開いた。
 ソルの驚きなど意に介した調子もなく、店主はソルの手に菓子を握らせた。ウエハースのパック。——数に余裕がある、ジェラート食べて頭がキンときたようだったら子供に食べさせてやりなよ、あんた不器用そうだからさ。余計なお世話だと言い返す暇も与えない早口。
「……おとうさん」
 握らされたウエハースを手にしたまま、無言でソルが店を後にすると、くっついてきたカイがおっかなびっくりその名前を口にした。昇りきった太陽はぎらぎらと照りつけ、ソルの影を色濃く石畳の上に落とし込んでいたが、カイの影法師はソルのそれに混ざり合って途中で途切れてしまっていた。


 それからのローマ観光はひどく奇妙な調子で進んだ。
 ソルがカイの父に本気で間違われていたことに関して、カイは難色を示さなかった。私とソルのどこが似ているっていうんでしょう。まったく失礼しちゃいますよね、そういった台詞を一度も吐かなかった。その代わりに喜んだりもしなかった。「お父さん」という存在しない偶像に宛てられた名詞をいつまでも舌の先で転がしていた。
 ジェラートを食べている途中で何回か頭がキンときたので、そのたびにソルからウエハースを受け取ったり、必要最低限の会話は交わした。でも出がけのような気安い会話はなくなった。然るに、彼のあの距離感は、聖騎士団における同僚へのものであり、或いは友人然とした誰かへの感覚であり、この年頃のカイは多分、同僚と友人と、それから尊敬する目上の人間への三種類の接し方しか分からないのだ。
 幼いカイにとり、ソルは尊敬に値する人間ではなかった。かといって彼自身が友人と認めるにはあまりに力量差があり、またカイの中で、友人とは相互にそう認め合うことで成立する関係だという決まりがあった。ソルに友人と認められる気がしないので、カイは自然と、同僚としての距離をソルに対して選んでいた。
 でもジェラート屋の店主が発した言葉で、十四歳のカイの世界は崩れた。ソルに宛がうべき距離感が、カイの中でわからなくなってしまった。
「ソルにはご両親がいたんですよね」
 ようやく、カイが意を決してそう尋ねたのは夕刻も近くなってからのことだ。イリュリア市街を観光馬車でぐるぐる巡り、いよいよイリュリア城の方へ戻っている最中のことだった。
「ああ、両親揃ってた。一応な」
「ソルにとってご両親は……お父さんって、どんな人でした」
 ソルは一旦口を噤んだ。もう百年以上前に縁が切れてしまった家族のことを思い出して言葉にするには、少なくない時間が必要だった。
「……親父か。まあ、ごく普通のどこにでもいるようなオッサンで、よく思い出してみれば煙草好きだった、ような気がする。しかし、まだキンダーガーデンに通っていた頃の俺にとっては、絶対の庇護者だった。落ち着きのある人格者だったってのは、ある。子供や妻に暴力を振るったことはなかったからな。荒々しい余所の父親があげたという華々しい武勇伝を他人に聞かされる度、うちの親父は臆病なのかと思ったこともあったぐらいだ。
 だが……そうだな、一度暴漢に俺と母親が襲われかけたことがあって、その時初めて、怒りに手をあげる親父の姿を見た。臆病者だと思っていた親父は、思慮深く心優しい男だった。親父は怪我を負いながら暴漢を撃退し通報を済ませた。その時俺は、親父のような男になろう、と思った」
「……父親の背中を見て、というやつですか。小説によく出てくるような」
「誰にでもあるもんだ。親がクズならああはなるまいと誓い、親が出来た人間ならああなりたいと憧れる。親っていうのは、一番身近な他人だ。決して自分ではないからそこに未来の投影をする」
「未来の投影……」
 イリュリア城の裏通りを歩くカイの足がはたと止まる。彼は押し黙り、立ち尽くして、俯いた。
「ねえソル、あの、大人になった私がもうけたという彼のことですけれど」
「シンか」
「はい。私は……彼の、立派なお父さんになれたのでしょうか。それがどうしても……わからない……」
 カイの影法師は建物の影に吸い込まれて、相変わらず茫洋としていた。ソルには、それがどうも、彼という存在の危うさを表しているような気がしてならなかった。二一八八年のこの世界には、十四歳のカイはいてはならない。異物は世界に馴染まない。いずれ世界につまはじきにされるものを無理矢理押し留めているから歪みが生じる。
 それに、だ。
 立派な親になれたかどうかをソルに問うなんて、そんな弱さを露呈するようなことを、あの頃のカイならプライドが許さなかっただろうに。この弱さはまるで、あのシンをソルに預けた頃のカイから引き剥がしてきたかのような……。
「そんなことはシン自身に聞けよ。俺がはかることじゃない。親が子供にとって本当にいい親だったのかどうかは、子供にしか決められない」
「かれに」
「そうだ。坊やがそうであるように、シンはそういうくだらない嘘は吐かない。いつでも単純だから常に明快だ。悩む間もなく答えが出てくるだろうさ」
 一般公開されている道を進み、大聖堂へ戻ってくる。普段ならそこそこの人が入れ替わり立ち替わり入ってくるはずの空間に、今は二人以外の誰もいない。
 ソルは中央に掲げられた聖母像の前にカイを立たせた。カイは何も聞かずに十字を切り、祈りを捧げ始める。
 耳元で通信をオンにした。そうして敬虔に神へ祈祷を捧ぐ少年の背後に近づくと、後ろから覆い被さるようにしてカイの息を奪った。


◇◆◇◆◇


 十三番目、大鎌を掲げた髑髏のレリーフが彫り込まれた扉を抜けると、シンは弾かれたように走り出した。
 そこにあるものを見て、立ち止まってなんかいられなかった。
「——カイ!」
「えっ? ああ、待って!」
 扉の向こうにあるものを見た瞬間、ここがバックヤードの中だとか、だから何が起こってもおかしくない危険な場所だとか、ギアメーカーが「待て」と言っていることだとか、とにかくあらゆる全てが頭の中から滑り落ちていく。
 走る。まっすぐ、一直線に。振り返っている余裕なんかない。脇目を振っている時間も惜しい。一秒でも早く確かめたくて、自然と手が前へ伸びていく。
「カイ——なんで、こんな——」
 扉の向こうは開けた円形の空間になっていて、その中央に大きな聖像があった。否、聖像のように見えなくもないというだけで、それは磔にされた人の姿だった。巨大で無骨な十字架、それに両手を広げた態勢でつり下げられた見慣れた姿。長く伸びた髪をポニーテールで結わえ、聖騎士団の制服をアレンジした衣装に身を包んだ成人男性がまなじりを伏せ意識を手放し、十字架に掛けられている。
 カイだ。見間違うはずもない。シンが大好きな——家族。
 たった一人の父親がそこにいる。
「危険だ! こんな見え透いた罠、何があるかわかったものじゃ、」
 後ろでギアメーカーが叫ぶ。でも、罠だとしても構わなかった。どういう状況かはわからないが、目の前にカイがいるというだけで、突き進む理由には十分だ。
 全速力で走っているのに、身体が小さいせいでなかなか辿り着かない。それでも生来の運動能力の高さで無理矢理速度を出し、最後は大きく地面を蹴ってカイに触れようとする。
 けれど伸ばした指先は、柔らかく、小さな何かに払い落とされ、ついぞカイに届くことはなかった。

「だめですよ、触っちゃ。彼は寝てるんです。そっとしておいてあげなきゃ」

 いつの間にか、磔にされたカイとシンとの間に何かが浮かんでいる。すごく小さな——今のシンと同じぐらいの身の丈で、姿形も、今のシンとよく似ている。
 何かは人の形をしていた。男の子だ。金色のショートヘアに、まだシンが小さかった頃カイが用立てていたような、品のいい服を身につけ、あどけない天使みたいな顔をして笑っている。
 だけどその笑い顔がこの上なく場違いで、シンは本能的に距離を取り、身構えた。
「……なんだよ、おまえ……」
「なんだ、とはご無体な。さっきからずっと大声でわたしの名前を呼んでいたじゃありませんか」
「テメェじゃない。奥の……オレの父さんにだ」
「ふーん。まあ、どっちでもいいですけど……」
 シンに遅れて、ディズィーやギアメーカーも追いつく。二人——特にディズィーが、男の子の姿を認めて息を呑んだ。当然だとシンも思う。この得体の知れない子供の姿をした何かは、あまりにも、幼いカイ=キスクの姿に似すぎている。
「それはさておき、カイは返しませんよ」
 男の子が嗤った。口まで裂けそうなその笑みは、あまりにもカイの姿をした顔に似つかわしくなくて、反吐が出そうだった。