『季節には色があるって、どこかで聞いたんだ。どこでかは上手く思い出せないんだけど。ねえ君、この不可解な言葉の意味がわかるかい?』
「色?」
『色だよ。僕にはとても手に負えないんだ。だっておかしいよ。季節って目に見えないものなのに』
ファルロスが「もうお手上げ」といったふうに両肩を竦めた。この影時間の間にしか現れない奇妙な子供が一体どこでそんな哲学や謎かけのようなことを聞いてきたのか僕にはわからなかったけれど、そういえば僕も大昔に誰かからそんなことを聞いたような気がする。季節。色。デザイン的な、視覚記号化されたもの、そういう感じだろうか。
色もそうだけど、におい、あると思うんだけどな。そうこぼすとファルロスは更に不思議そうな顔をする。
『におい? だってそれって形のないものなんでしょう?』
「でも、ある、ような。……気がしてるだけなんだけど。たとえば……秋はおいしいにおいがするし」
『それは君の食い意地が張ってるだけだと思うよ……』
ファルロスが苦笑した。
季節とひとくちに言ってもその分別は様々だけれども、色があるというのは僕にはなんとなくわかるような気がした。秋は燃え盛る最後の炎のような、豊穣の季節。赤色。冬はしんしんと雪が降り積もって街を染め上げる。白色。春は桜が咲いてあちこちで生命が芽吹く。桜色。夏は海が青く、からからとよくかわいて暑い。青色。
「夏が好きだな……」
『どうして?』
呟いたらファルロスが興味津々で聞いてきた。
「あおいから。夏は青い。主観だけど」
『それじゃ君は例の、季節に色があるっていうのに則ってそう感じてるってわけ』
「そうなるんじゃないの。僕にとって、夏は青かった。それだけだよ。それだけ」
それで黙ってしまうと、ワンテンポ遅れて、『ふうん?』とあまりしっくりきていなさそうなファルロスの唸り声が耳に届く。「納得できない?」尋ねると首を傾げた。
『よくわからないよ』
囚人服の少年はあおいろの目を光らせてそうぼやく。僕の与えるもの、知識、言葉、声、繋がり、そういったものが好きだし嬉しいと言った彼はその僕の言うことを素直に受け取って噛みしめることが出来ないのが、あんまり面白くないようだった。別に僕の言うことを何でもそうだそうだって感じる必要はないのに。母親の言うことを全部聞いたって、変な子供になるだけなのと同じだ。
まあ聞かなくっても正しくは育たないけど。子供は難しいのだ。
『だけど君がそう言うのなら、夏はあおいし美しいんだろうね』
見てみたいね、きみと夏を。ファルロスが叶わない夢を口にする。今は夏と言えば夏の時期なんだけれども彼がそういうことを言っているわけじゃないっていうのは僕にもわかった。影時間にはあまり季節は関係がないんだ。
確かに体感温度は変わったりするけれど……それぐらいだ。春だからって桜色にならない。夏も青くない。だからこの先の秋もきっと赤くはならないし(そりゃ影時間の水は常に緋色だったけれどそういう問題じゃない)、冬も白くはならないのだろう。影時間はいつも濁った月の色。爛々と光る月は深緑に街を照らし出し、やがて闇に溶かしていく。
ファルロスが僕の好きな青い夏に出会えない。触れ合えない。それを思うとすごく切ない気持ちだった。僕だって彼には、数少ない大事なものやうつくしいと感じたものを出来るだけ分けてあげたかった。まず第一に昼の光を彼にあげたい。それから僕のお気に入りの音楽。影時間には機械は動かないからあの携帯音楽プレイヤーから聞かせてあげることさえ出来なかった。
そうしたら、次は、季節だ、とそう思った。もしも夏が無理でも。その次の秋や、更にそのまた次の冬を彼に教えてあげられたら。春でもいい。
そうして巡り巡って、夏に帰る。
「僕は青が好きだけど」
『うん?』
「夏だけが青じゃない。僕のウォークマンもそうだし。普通に空だって青いし。海も青い。青い花も結構ある。そこらじゅう、探せばいっぱい、好きな色が転がってる。それは勿論ファルロスの目の色も。……だから、あんまりそのことで落ち込むなよ」
『え、そ、それは。急に、なんだい、もう……そっか。僕の目の色、好きって言ってくれて嬉しいよ。青……あおね……ふふ』
「……何?」
『僕も、君が好き。湊』
「——え」
今度は僕が固まる番だった。
してやられた、と思った。こんな不意打ちにやられてしまうなんて。ファルロスは「どうだ」と言いたげな、悪戯が成功した子供みたいに無邪気な顔をしてニヤニヤしている。「すき」という二文字の言葉が僕の頭の中でリフレインして、跳ね回って、ばらばらにぴょんぴょん飛んでいるのだ。
どうしてこんなにおかしな気分になるんだろう。そういえば、僕は、今まで誰かに面と向かって「好き」と言われたことがあるだろうか。どうだろう。思い出せない。僕のことを無条件に愛してくれていたかもしれない両親は十年前に死んだ。その後は、あんまりいい思い出がない。ここにきて数ヶ月、ようやくまともな思い出が出来たけど、でも、どうだろう。
もしかしたらなかったんじゃないか。
「ファルロス」
『なんだい』
「ファルロスにとって僕って、何なのかな……」
『それはとても難しい質問だね』
『何故って僕自身はっきりとは自覚していないから』。ファルロスは僕と隣り合った身体を少しもたれかけさせるようにしてそう言った。ファルロスが何者なのか、どうして影時間の間にしか現れないのか、どうして僕としか関わりを持たないのか、その一切は確かに謎に包まれたままではっきりしない。僕もいつか彼の正体というものには辿り着いておきたいと思っているけれど、それは暴きたいという気持ちではない。ただ知りたい。「ファルロス」という夜の子のことを。
この不思議で、近しいような気分になって、安心する少年が誰なのか。
『君は不思議な人だ。僕の世界の大体全てを君が占めている。君の隣が落ち着く。君の声で安堵する。君の指先と唇から世界を知る。僕は君に予言をもたらすけれど、だけど僕自身はなんにも知りはしないんだ。僕が持っていたものは曖昧で、ぼんやりしている。けれども君がくれたもの達は違う。君がくれたものはきちんと形を持ってはっきりと君と結びつけられて僕の中に存在し続けるんだ。
例えば、君は僕に知識をくれたね。それから感情を。君を好きだって思う心をくれた。君から何か一つ貰う度、僕は君に近付いて行くような気がしているんだ。君に近くなりたい、最近ではそう思うようにさえなった。君をもっと知りたい。そして、君にも僕を知って貰いたい……』
「……僕も、知りたい。ファルロスのこと」
『一緒だね。嬉しいよ』
「ファルロスにとって、世界は?」
『君と僕の秘密の部屋さ』
僕達は自然、手と手を握り合ってその奇妙な会話を続けた。不思議の国のアリスみたいに。いかれお茶会の三月ウサギと帽子屋みたいだった。僕達は二人で、二人にしか通じない遣り取りをした。指先が触れ合っているから、それでもちゃんとお互いの伝えたいことは伝わっていく。『星だよ』ファルロスがそんなことを口にするので僕は答える。「それじゃあ、××か」。
『また少し、思い出したことがあるんだ……』
その折に、タイミングを図っていたようにファルロスがそう切り出した。僕は口を一度閉じて、ベッドからぴょこりと降りたファルロスの姿を注視する。
何を思いだしたの、と促すと彼は芝居がかった仕草で話を再開した。
『あのね……《終わり》は、どこかの誰かが、引き起こすわけじゃない、ってことなんだ。それは、大勢の人達に望まれてやって来る……まるで最初から決まってた事みたいにね。でも変だよね……《終わり》を望む人が居るなんてさ』
「別に……変じゃない」
『そっか……』
何かおかしいっけ? そう思って答えると珍妙な顔をされる。だって、終わりがないだなんて、苦行もいいところだ。不老不死者の話なんかだと必ず皆最後は終わりを、死を望む。僕だって授業時間が永遠に続いたりなんかしたらきっとうんざりして早く終わらないかなって思うだろう。停滞はとても苦しい。どんなに戦ってもペルソナが強くならないのだったら、戦うことに意味さえ見いだせないのだとしたら、タルタロスなんか見向きもしないかもしれない。
『確かに、イヤな事なら早く終わって欲しいもんね。たとえ……全てがイヤになったんだとしてもね……』
するとファルロスは意味深長なことを漏らして、そのくせ「ま、いいや」なんてさらりと流すとすぐに次の話題に話をずらした。次の話は、「毒のある花」についてだった。向かいの花壇に三つ、そして僕の庭に一つ。全部で四つ。
『また、何かわかったら知らせに来るよ』
「そう」
『君のことを知りたくなっても、来る。だって僕達友達だもんね』
「うん」
『じゃあ、またね、バイバイ』
手を振ってファルロスが影時間に溶けて消えていく。友達はこうやって別れるんだって一度言ったら、必ず最後にするようになった。ファルロスは不思議な子供だったけれど、おおむね素直でいい子だ。
次にファルロスに会えるのはどの影時間になるだろうか。ファルロスと出会ってから僕は影時間をちょっと楽しみにするようになっていた。元々はどうでもよかったのに、変なの、何でだろう。
◇◆◇◆◇
京都を訪れるのは初めてだった。集合場所で点呼を取る声を聞きながら、そのガラス張りに似たコンコースの天井を見上げている。有名な近代建築家の斬新なデザインがどうたら、と誰かが蘊蓄の講釈を垂れているのが耳を通り抜けていった。僕はへぇ、となんでもないふうに息を漏らして隣の男に向き直る。
屋上で約束した通り、綾時は僕達と同じ班に配属されることになった。班構成は僕・順平・友近・綾時・ゆかり・アイギスの六人。鳥海先生が「あんた達仲いいわねえ。青春ね。羨ましいわ」とよくわからないことをぶつくさいいながら許可をくれた。
青春。鳥海先生のその何気ない言葉を僕は何度か口の中で弄んだ。青春っていう言葉が、僕には実感として上手く理解出来てないせいもあってなんだかもやもやしていた。
ゆかりとか順平とか、友近もそうだ、彼らは思春期というもののまっただ中にいて、僕は友人としての立場やらからそれを見聞きしていて「ああいうものも青春として定義するのだ」ということはぼんやりわかっている。ゆかりは母親に反抗をし、順平は父親への反発と、チドリへの恋慕を抱いた。友近は、教師に恋をして、で、弄ばれて棄てられたりして、それを乗り越えて強く生きる決意をしたらしい。
(青い春……)
熟する前の果実を若者に例えて、まるで僕達ティーン・エイジャーが青リンゴであるかのように僕らの国ではそう言う。アドレッセンスなみずみずしい彼ら、と遠い日の自分を懐かしむように。鳥海先生のあの口ぶりとか、どこか遠くを見るような眼差しはきっとそういうことなんだろう。鳥海先生の、通り過ぎた思い出を僕達に重ねているのだ。
(確かにゆかりや順平、友近は、そうかもしれないけどね……)
でも僕にはそれは当てはまるのだろうか。そもそも僕ってそういう人との関わり方で繊細に傷付いたり、思い悩んだりしたっけ? 悩みどころか何を考えているのかさえ定かではなくそのくせ悩んでいたら死んでしまう、ぐらいに斜めに振り切れた思考で(これは、誰だろう、そう言ったのはもしかしたら山岸だったかもしれない)生きているらしい僕は、背中を押されたり前に引っ張られたりするままに、無我夢中で走っているだけで。
(また青)
少し前にどこかへ行ってしまった僕の青色の季節のことを思った。「夏」のことだ。あおあおとして、蒸し暑くぎらぎらと太陽が照りつけていた。それでも空は青く世界もまた青かった。
(あの季節にはまだあの子がいた……)
そのことを考えると、随分ブルーな気分になった。
季節に本当に色なんてあるのと訊ねた少年は消えた。ファルロスはもういない。満月の後に僕を訪ねて来ない。影時間の秘密の会合は二度と開かれず、僕は彼を無駄に待つことが増えた。タルタロスに行かない日は、もしかしたらってちょっと期待してみていたけれど、ファルロスは最後に僕に贈った言葉に決して背くことなく、僕との約束をしめやかに守り続ける。
僕とファルロスは、本当に不思議で綱渡りみたいに危うい関わりを持っていたんだってことにあの後、ファルロスが消えた日の夜に僕はようやく悟って、むしろこれまで交流が続いたことに感謝をしなければならなかったのだと知った。掻き抱いた身体は細く儚く、ぶるぶると震えた。空を抱き締めると酷く虚しい。一度試してから、もう二度と、ファルロスの幻に縋るような真似はしないようにしようと誓った。
『そうしたら、今度は愛情を僕に教えてよ。いつかね』
ファルロスは僕から様々なものを得て、そうして同時に奪っていった。僕は持てる限りあらゆる答えを惜しみなく彼に与えたし、彼はそれをとても喜んで僕のことを好きだと言った。僕がしっかりと正しく彼に「愛情」というものについて伝達できたかは定かではないけれど、僕がファルロスから「愛情」を教わって受け取っていたのは確かだった。
僕はファルロスを愛していた。猫を愛するように。歌を愛するように。鳥を愛するように。ひとを愛するように。子守歌を口ずさむ母親のように。あおいろをみつめるように。
世界の全てをあげたって構わないような気がしていた。
「クラスごとに別れて、観光バスに乗って——」
「静かにして! 班行動は目的地に着いてからです。いいこと、勝手なこと、しないでよ。困るのは私なんだから」
「ほら出発するぞ。いつまでもお喋りしてないで!!」
教師達の注意の後、のろのろと隊列が動き出す。幾らかに別れた列の先頭で、ツアーガイドがぱたぱたと旗を振っていた。クラスごとに色が異なっている。黄色、赤、ピンク、白、そして僕達のクラスの水色。
「なんだかワクワクするねえ。こうやって皆で一緒だと、すごく新鮮だ」
「そーかそーか! 大いに旅を楽しみたまえよ綾時クン!!」
「了解であります伊織大佐!! ……あれ? 湊君、どうしたの?」
「……なんでもないよ。ただ綾時って、脳天気そうでいいなあって思って……」
思い詰めたように息を吐くと順平が神妙な顔をする。つられて綾時も変な顔をした。
順平が帽子のつばを深くかぶり直して僕に詰め寄ってくる。
「……ありあり? リーダー、な〜んかお悩み中なの? それまた珍しい。っつか、綾時のこと、名前で呼んでたっけ。いつから? いつの間にお前ら仲良くなってたん?」
「この前。綾時が名前で呼んで欲しいって」
「へ〜え。全然知らんかったわ」
「それで、何よ。恋のお悩み?」いきなりしゃがみ込んだと思ったら順平が割と真剣な声で耳打ちをしてきたので僕は首を横に振って「ぜんぜん」とそれを否定する。恋の悩みってしたことないからいまいち分かりづらいけど、順平とか友近を見ていて結構精神にきたすことなんだろうってことは理解していた。けれどそんなものとは全くの別で、遙かに異なる次元のことで、多分比べちゃいけないことなんだろうって僕はファルロスのことを思っている。
ファルロスは友達だ。同時に、恋よりももっと深いところで結びついていた僕の唯一無二だった。
「なーんか、珍しいもの見ちまったわ……」
ぼそりと順平が言った。順平にとって、僕って一体何なのだ。珍種の熊とかなんだろうか。
「ほんと、阿呆なんだから……」
横たわっている屍二つを放って、ゆかりが僕を、美鶴先輩が真田さんの手当てをしていた。影時間に入ったからディア系が使えるらしい。順平と綾時は気絶状態で手も付けられていない。まだ氷の中でカチンカチンだ。
例の露天風呂での処刑後、何らかの協議が女性陣の間で交わされたらしく、情状酌量の余地ありということで僕と真田さんの二人は氷の中から助け出して貰うことが出来た。真田さんなんか、まあ確かに八割は巻き込まれただけの被害者であると言えるだろう。彼はしきりにその危険性を説いていたし、そんなに乗り気ではなかった。残りの二割ぐらいは多分ちょっと期待してたんだろうけど。
僕は……女性陣四人が全会一致で「なんか気の毒よね」という合意に至り、助け出されたらしかった。
「有里君、良かったね。私達の中で株が高かったってことよ、結局。ある程度信頼がおけるっていうか。君、女性の裸に強い興味関心ってなさそうだもん」
ゆかりが言った。
「でも……それもそれで健全な男子高校生の発育をしてないってことのような気はするっていうか、まあ、あの二人の方がお馬鹿だけど普通のような感じはするよね。あ……そういえばさ。もう大分前か。ラヴァーズの時はちょっとごめん。あの時も君はすっごい冷静だったよね。……なんかこういうこと聞くの、あれかもしれないけど君ってそういうの興味ないの?」
「……順平や綾時みたいに進んで見たいとは思わない。特にこういう、後で何があるか予想がついてる時は」
「ま、それも冷静で当たり前の判断だよね……。……はい、治ったよ。どう?」
イシスが引っ込み、ゆかりの五指が僕にそっと、腫れ物に触れるように置かれた。凍傷を起こしかけていた肌もすっかり元通りですべすべしている。
「有里君って、肌、すっごい綺麗ですよね……。何を食べたらこうなるんだろう……あれ? でも同じもの、食べてるはずなのに」
「元の肌は綺麗かもしれないけど、裂傷とか、細かい生傷はちょいちょい出来てるわよ。最初はほったらかしだったから全部私が治してたんだから……最近は自分でちゃんと治してるみたいだけど」
「はあ……ペルソナってなんでもありですね……」
「今更ね……それ」
山岸とゆかりがそんなことを話し合っているのを横目に聞き流しながら四肢の動きを確認する。良かった。特に問題はなさそうだ。真田さんも、美鶴先輩に溜め息を吐かれながら身体の動きを調整しているようだった。素振りとかしている。元気そうだ。
傷のない僕の素肌。ゆかりが治療する前は、戦闘の後遺症のような傷がまだいくつかまばらにあった気がするけどすっかりなかったことにされている。ゆかりの治療は他のメンバーに比べて念入りで、潔癖症に近いところがあって、なんかちょっと奇妙な感じだ。
神経質なお母さんみたいだ。
「いいわよ、もう大丈夫」とゆかりが手を振ったのを合図に綾時と順平が収まった氷塊を眺めていたアイギスがこちらへ寄ってくる。そろそろあの中から出さないと命に差し障りそうなんだけど、その辺、女性陣はどう思っているんだろうか。
「お怪我はもう大丈夫でありますか」
アイギスは僕の手を取り、それからちらりと後ろの二人、いいや、綾時をはっきりと見た。アイギスが綾時を嫌っているのは、もう随分はっきりとしていることで、僕はそのことを残念に思っているしそう僕が思っていることをアイギスも知っている。
それを踏まえた上でだろう、「ごめんなさい」とアイギスが俯く。
「湊さん。私は、やはりあの人はダメだと思います」
やっぱり、案の上だ。「どうして」と問うと、「どうしてもです」とまなじりを下げた。
「まずあの人は私達の裸を見ようという順平さんの企みに荷担しました。ダメすぎです」
そこは確かに否定出来ない。そんなに女の子の裸を見たがって、どうするんだろうと僕も思った。
「それに……上手く言葉に出来ないのですが……あの人……綾時さんは……ダメですし、変なんです。私にとって無視出来ない違和感があります。今もそうです……影時間なのに、彼は象徴化していない。やっぱり変です」
「あ……」
「私はあの人が苦手です……」
象徴化していない。その言葉に僕ら全員がはっとした。アイギスに指摘されて初めてそのことに思い当たった。影時間には耐性のない人間は象徴化する。その直前に何をしていてもだ。象徴化しない場合は、その人間にペルソナの適合性がある可能性が高い。
「じゃあ、綾時がペルソナを使える可能性があるだけじゃないの」
「そうかもしれません。……そうだと、いいです。でも私は彼にペルソナやシャドウのことを話したいとは思っていません。彼はあくまでこのまま、このままで……いるべきだと」
はっきりと言える理由はないのですけど……と言葉端を濁してアイギスはそれで押し黙ってしまった。山岸がアイギスの身体を支えて「あまり無理しないでね」と耳打ちしている。彼女は綾時のこととなると、思考野を使いすぎてしまう傾向があるみたい、と山岸が前に言っていた。
「だが確かに、有里と望月は、どうも対照的だな。性格然り、嗜好然り。彼は確か甘いものが好きだと言っていたが、有里、お前は辛いものが」
「何でも好きです」
「はぁ……まあそれはそうなんだが……。ともかく。私は、君達は似て非なるもの……だと感じているんだ。今言ったように全く正反対かと思えば、ふと並んでいる君達を見て兄弟のようだと思ったこともある。まあ、人から受ける印象など得てして移ろい易いものだ。今はとにかく、影時間が終わる前にこの氷を溶かして彼らを寝かせてやろう。主犯の伊織には説教がまだ足りていないがな……」
美鶴先輩が自分で凍らせた氷塊をコツコツ叩いてにこりと笑った。「あ、順平にお説教私もやります。賛成」とゆかりが諸手を挙げている。僕は象徴化して部屋の隅に転がっている(寝相が悪すぎる)友近をちょっとだけ見てから溜め息を吐いた。いつまでやるつもりなんだろう、明日もあるのに、元気なことだ。
この部屋、僕と友近と、順平、綾時の四人部屋なんだけどな。
◇◆◇◆◇
「なんだかあっという間に終わっちゃったねえ……」
「ソウダネ。今日ハ朝カラオ説教モ凄カッタシネ」
「……順平、大丈夫?」
帰りの新幹線の中。向かい合わせに動かしたシートの反対側ではアイギスが仮眠を取るために休眠モードに移行して瞼を閉じている。順平は肩がアイギスの枕にされてしまっていて、はじめの頃こそ「やべえ……美少女が添い寝……」などとぶつくさ言っていたものの今はもうすっかりご覧の有様だ。アイギスの重量がきついんだろう。
美鶴先輩とゆかりが主となって行われた「お説教」は、早朝五時に中庭へと呼び出されて行われた。綾時は何のことかわかっていなかったらしく、うきうきした足取りで中庭へ向かっていくものだから心配になって僕もついて行ったのだが、まあ、これが苛烈だった。
事が済んだ後、順平なんかは燃え尽きた灰のようにげっそりとしていたのだけれど、それでも綾時は「怒ってる会長さんも素敵だね!」とはしゃいでいたのでまあ大したものだと思う。まったく見習いたくない。僕だったら美鶴先輩にあんなに怒鳴られるのはごめんだ。
「綺麗な街だったね……」
「そうだね」
「青色はあまりなかったけれどね。秋の街、って感じがしたよ。えんじ色だっけ……? 街中、ああいう奥ゆかしい色ばかりで」
「うん」
「舞妓さんに会えなかったのはすごく残念だな。この旅で青かったことといえば、会長さんに絞られて青くなった順平の顔ぐらいだ」
「……綾時も一緒に怒られてたんだよ」
「え? そうなの?」
……溜め息が知らず漏れた。
僕の隣には綾時が座っていて、このボックスにはアイギスと順平、僕と綾時の四人ってことになった。ゆかりは美鶴先輩の方へ行ってしまったし、友近はアイギスが休眠に入ってどうも動かなそうだということを悟ると気を利かせて別の男子グループの方へ混ざっていった。
それで綾時は今、上機嫌でにこにこしながら僕と一つのイヤホンで音楽を聴いている。僕が普段聞いている音を知りたいっていうから半分貸してやった。
「京都、楽しかったねえ。金閣寺って本当にあんなにぴかぴかなんだ、僕びっくりしちゃった。あちこちで紅葉して綺麗だったなぁ。清水の舞台から一望したら真っ赤だったものね。秋が赤いって本当だったんだ」
「秋が赤い?」
「うん。僕が子供の頃にね、お母さんがそんなふうに言ってた。季節には色があるんだって。秋は実りの赤色。お母さんは夏の青色が好きだって言ってたけど」
「へえ……」
綾時の口から「お母さん」という言葉を聞くのは、そういえばこれが初めてだった。そうか。綾時にもお母さんがいるんだ。当たり前か。親がいるから子供はこの世に産まれてくるのだ。僕にも昔は両親がいて……だから綾時にも母親がいる。
そのことが、何故かちくりと僕の胸を刺した。
「綾時はお母さんのこと、大事に思ってるんだ」
「そりゃあ勿論さ。お母さんは僕にとってすごく、すっごく大事な人だから。僕はお母さんに一番大切なことを教えて貰って、それからもっともっとたくさんのものを教わった。僕はお母さんにすごく感謝してる。僕の一番大切な人だ」
「そうなんだ……」
綾時のお母さんってどんな人なんだろう。そんな、どうでもいいようなことがすごく引っかかって気になって、ちくちくちくちく僕を苛む。夏の青が好きだという綾時の母親。僕と一緒だね、と言いそうになってそれを喉の奥に押し込む。
美鶴先輩が言っていたことを思い出した。正反対のようでいて、兄弟のようにも見える、似て非なる僕ら。僕のイヤホンと君のマフラー、前髪とオールバック、携帯音楽プレイヤーと泣きぼくろ。アシンメトリの象徴の数々、それらが僕と綾時を緩やかに結びつけているようなそんな気がしている。
僕の右目の下の泣きぼくろのこと、いつかは綾時に打ち明けなきゃ。いつだろう。いつ言えばいいんだろう。
泣きぼくろの話を、僕は一度、たった一人にだけ、話していた。ファルロスだ。ファルロスにだけはこのことを伝えておいた。左目の下の泣きぼくろを、あの子が一度むずがっていたからだ。「だって泣いてるみたいで」と言うあの子に前髪をまくり上げて見せてあげた。お揃いだって言うと、はにかんだ。
「ねえ、この歌、何て言うの?」
そんな僕の葛藤なんかまるで知らないと言った様子で綾時が暢気に尋ねてくる。僕の好きな曲達は、とりたててメジャーなバンドやグループのものじゃないし、日本語の歌でもない。わからなかったんだろう。
「変わった曲だね。まるで熱く燃え滾って行こうとするみたいな曲だ」
「『Burn My Dread』」
「……うん?」
「恐怖を焼き尽くせ。怯えを燃やし尽くせ。悉くに。——そういう、歌」
だから教えてやると、綾時は首を傾げて「ふうん?」と言った。それからイヤホンから流れてくる曲に合わせて歌詞を口ずさみはじめる。「I will burn my dread……This time I'll grapple down that god of fear……And throw him into hell's fire」流暢な発音で、聴き慣れた音楽を歌うように、瞼を伏せて歌う。——「恐怖を燃やすんだ。今度こそあの恐怖の神を掴み倒して、地獄の業火へ投げ入れてやる」。
「君みたいだね」
歌い終わった綾時が、感心したふうに言う。僕みたい? 何でだろう。僕って綾時にこんなふうに思われていたのか。神様の胸ぐらを掴んで、地獄の業火の中に投げ入れようだなんて考えたこともないけど。
「うん。君ってこんな感じがする。苛烈な……うーん、普段学校で、そんな過激なわけじゃないんだけど、何でだろうね。君は静と動が混在している。……わびさび?」
「……意味が違うと思うけど」
綾時の青色の瞳が、きょとんとして「そうかい?」としょんぼり形を変えた。その目の中に僕の過ぎ去ってしまった、失われた季節を幻視する。綾時は夏だ。夏の色を身体中身にまとっている。黄色いマフラーが向日葵によく似ていて、これがぱたぱた太陽の方角へ向かって靡いて僕についてくるんだ。
僕の好きな色で出来た君。奇妙だね。普通、そんなにぴったり偶然でもあるものだろうか。そうやって自問して、きっと彼の母親のための装いなのだろうと結論付ける。母親の好きな夏の装いを綾時はしているのだ。
「綾時」
「うん。なんだい、湊君」
「綾時は、どれが好き。季節と色」
「え。そりゃ、全部好きだよ。冬の雪、白色も楽しみだし春の桜だって。……でも、もし一つだけ選ぶのだとしたら……」
少し間を置いて、人差し指を唇に添えた。内緒話のポーズ。君だけに教えるんだからね、と囁いて綾時は僕の目をまっすぐに覗き込む。
「夏かな。お母さんの好きな青色だから」
そうしてみずいろの瞳で、そう、彼は言った。
僕らの生涯は青い春の中で終わる。
そのことを、この時僕らはまだ知らない。