まず初めに妙な既視感があった。注文を取りに向かった先の男は伊達臭い眼鏡を掛けていて、理系っぽいなあと理由もなく思ったことを覚えている。優男と言っても通りそうなわりと「かわいい」顔の造りをした男で、そいつはボールペンを持った十代と目が合うとぱちぱちと数度瞬きをした。
変な奴、と内心で思いつつも表には出さず営業スマイルで接客の構えを取る。にこにこしていれば問題ない、と初日に言われたのもある。客の立場からすれば店員には愛想が必要という主張はよくわかったし、異存もない。ただそれ以上に危機感を覚えていた。この男に丸め込まれたら、何か厄介なことになってしまいそうなそんな気がした。 「ご注文がお決まりでしたら伺いますが」 「十代?」 「……は?」 「あ、やっぱり記憶喪失ルートか」 何故か名前を当てられた上に記憶喪失であることまで看破され、その上落胆される。わけがわからない、と喉までせり上がってきた言葉を無理矢理抑えこんだ。どんなに意味不明なことを言われたとしても相手は客だ。お客様は神様です。少なくとも仕事をしている間は。 そう言い聞かせている十代に男はなんだか気の抜けたにへらとした笑い顔を返し、「オーダー、頼める?」と振ってくる。どうやら先の台詞は一人ごととして処理され、特に十代に関して言及してくるつもりはないらしい。その方が楽なので十代は男の言葉を水に流してやることにしてにこにこと営業スマイルを貼っ付け、気を取り直してボールペンを握り直した。 「ご注文をどうぞ」 「エスプレッソとローストビーフサンドを一つずつ」 「畏まりました」 「うん。よろしく」 オーダーを取り終わり晴れて解放される。オーダーを伝えるために厨房へ向かう道すがら、なんだったんだろうかあの変な男はと考えた。嬉しそうに目を細めて自分の名前を呼んだ男。懐かしいにおいだなあ、と思う。 でもそれで終わりだ。十代はそのままつつがなく仕事をこなしたし、男も食べ終わったら店を出て行ったし、普通ならそれで男との関わりはばっさりと絶たれて記憶にすら残らず消えていくはずだったのだ。 なのにこれである。 「……なんであんた、ここにいるんだよ」 「うん? だって、君を待っていたから」 さもそれが当然のことで、なんら間違ったことなどないのだとでも言うように男はのたまった。相変わらずにこにこと笑っている。 「ずっとそこに立ってたってことか? ただのストーカーだな」 「いや、流石に俺がずっと立ってるわけにもいかないだろ。見張っててくれたのはルビーだよ。こいつ」 「ルビー?」 「ルビー・カーバンクル。伝説上の生き物さ――精霊だよ。レベル三、天使族光属性。十代のハネクリボーと一緒」 『くりくりぃ?』 『るびー』 どこからか紫色の小動物が現れてハネクリボーと挨拶を交わして十代の方に寄って来る。ルビー、と呼ばれたそれはリスか猫のような姿形をしていたが体躯はやや小さく四つの耳を持ち、更にしっぽと額に煌めく紅玉が埋まり込んでいた。精霊であることに間違いはないだろう。こんな動物は現実の世界では見たことがないし、それはいい。問題はそこではない。 ルビーは十代の体を身軽な動きで伝い登ると肩に所在を定め、頬に自らを擦り寄せてきた。小動物の温もりを感じる。だがおかしいではないか、精霊は人間に触れることは出来ないのだ。 「あんた……サイコ・デュエリスト、ってわけじゃあなさそうだよな。ディスクを持ってるようには見えないし」 「持ってないよ、ディスクは。十代とおんなじ。精霊界とちょっと結び付きがあってさ、まあ特異体質みたいなもんかな、一応」 「一応、ね。そんじゃ俺も一応聞くけど、あんたは俺のことをどこまで知ってる?」 張り詰めた声で問い正すように低く鋭く尋ねると男はびっくりしたのか一瞬変な顔をした。それから「警戒されてるなぁ……」とぼやいてハネクリボーを抱っこする。男の服にしわを作っている様子からしてハネクリボーもまた男の意志で実体化をしているようだった。 「遊城十代、ヒーロー・デッキ使いでフェイバリットはフレイム・ウィングマンとネオス。相棒はハネクリボー。カードの効果やモンスターを現実世界に干渉させることが出来る異能を持つ。口癖は『ガッチャ』、このぐらい」 「このぐらいって詳しさじゃないんだけど」 「込み入った事情があるんだよ。――どう? これから一緒に飲みに行かない?」 「はあ?」 「酒ぐらい飲めるだろ、二十歳とっくに超えてるんだから。男同士で積もる話って言ったら飲み屋は定番だと思うけど。不動ともよく行くし」 何を言っているんだこいつは、とますます警戒の色を強める自分の傍らで、そろそろと男に興味を持ち始めている自分もまた確かに存在している。敬遠する一方で惹かれている。十代はどうして良いのかわからなくなり、男にホールドされたままのハネクリボーに視線を合わせた。ハネクリボーは男の腕の中に非常に心地良さそうに収まっており、時折羽根を楽し気にはためかしている。随分と懐いている様子だった。ものの数秒であっさりと懐柔されてしまっているらしい。 この裏切り者、という意味を込めた視線を送ってやると逆にくりくりと鳴き声が返ってきた。『この人優しいから十代もこっちに来ればいいのに』、翻訳するとこんなような意味になる。更に肩に乗りっぱなしのルビーもるびるび加勢してきた。こちらを翻訳すると『いいからおいでよ。お酒キライ?』こんな塩梅だ。 味方はゼロだった。項垂れて男の顔を見上げると、端正な表情の中からきらきら輝く瞳がサンタクロースのプレゼントを待っている子供のようにワクワクして十代が承諾するのを待っている。嫌いになれる表情ではなかった。少なくとも十代には好ましいし、好きだな、と思えるものでもある。 「ああ、もう、そういうの弱いんだよぉ……」 勘弁してくれ、とぼやきながら男の手を取る。男は満面の笑みで「そうこなくっちゃ」と答え、十代の手を引いて歩き出した。悪戯好きな少年のように。 ◇◆◇◆◇ 「名前、まだ聞いてない。だからあんたのことなんて呼んでいいかわからない。俺のこと、一方的にあんただけ知ってるのは不公平だと思う」 「あれ、そうだっけ。なんかもうすっかり言った気になってたよ――すみません生一つおかわり」 ドン、と勢いよく音を立ててビールジョッキをテーブルに戻すと男はのらくらと返答をしながら追加注文をした。男のジョッキにはまだ液体が残っているから恐らく気を利かせて十代の分を頼んでくれたのだろう。誘い方は随分と傍若無人だったが、案外そういう気遣いは出来る人間であるようだった。 飲み屋だというからもっと煩雑とした居酒屋のような場所でカウンター席あたりかと想像していたのだが、実際に連れて来られたのは小洒落た落ち着いた雰囲気の店の個室である。はたして男同士で訪れるような場所なのだろうかとやや心配になったが(十代はごく稀に女と見間違えられることがある。肩幅と背が若干足りないらしい)、男同士で個室に入っている客や女同士で入っている客が案内されるまでの通り道にちらほら見られた。店員曰く「あまり他人に聞かれたくない話などをする時にうってつけ」とのことで、失恋して泣き明かす同僚を慰めるとか、結構そういうパターンがあるらしい。 「そうだ、先に言っておくけど調子に乗ってあんまり飲み潰れるなよ。帰りに困るのは自分なんだから……はいこれ、名刺」 「余計なお世話だって……」 差し出された名刺は簡素なものだった。名前と、それから勤務先。連絡用の番号。至ってシンプルだ。 「ええと……『ヨハン・アンデルセン。インダストリアルイリュージョン社日本支社勤務』。……ヨハン?」 「そう。誕生日は六月十一日」 ジョッキに残っているアルコールをすすりながらヨハンが答えた。 『俺もだ。初めて会った気がしないぜ』――そんな声が、少年の手のひらの幻と共に脳内に蘇る。十代はぱちくりと目を見開いた。わけもなく懐かしく、切なくて、気を許すと感傷的な気分になってしまいそうだ。 目の前の男に視線を合わせると少年の幻は消えた。正面に座っている「ヨハン」はどう見積もっても少年ではなかった。 「Yシャツ着てると、変な感じがする」 「袖にフリル付いてた方がよかった?」 「え?」 「なんでもない。何か食べるものも頼もうか」 フリル? と疑問に思ったがメニューを開き出したので黙っておくことにする。ヨハンとフリル。響きが似ているような気がしなくもない。 「お前は五杯ぐらいが限度なんだから、ちゃんとコントロールしろよ。ご飯何がいい? 米か、小麦粉か。寿司もある」 「どうせその寿司ってカリフォルニアロールとかだろ」 「似たようなもんだ。ニューヨーク握りだって。じゃあパスタでいっか」 頷いていないのに、インターホン越しにどんどん注文していく。ただ十代の嫌いなものはなかったので特に文句は付けないことにした。横顔が薄暗い店内の照明に照らされてくっきりと浮かび上がると、存外、ヨハンという男は美形であるのだなということがわかった。好きな人の雰囲気に似ている。でもその好きな人の顔は思い出せない。 (好きな人、か。今初めて考えたな。いたんだ好きな人が) 記憶喪失になる前の事柄は、遊星達と暮らし出してしばらくが経つが未だにはっきりとは思い出せずにいる。体験として理解出来た事柄はあったが(例えば、精霊を実体化させる能力や料理の腕前とかだ)明確に「以前はこれこれこうだったのだ」と言えることは殆どさっぱりだ。 家族のことも、友人のことも、もやがかかって不鮮明なままである。カードの代金をかけて店長のおじさんとデュエルをした時にサイバー流のすごく強い知り合いがいた気がするとは思った。融合デッキを使っていたのだろうということも覚えているし、カード名や著名人の固有名詞なんかは記憶している。それに関してはアキが「思い出記憶だけ失ってしまったのね」と言っていた。記憶には思い出、知識、体験の三つの種類があって、記憶喪失と一括りに言っても大抵は思い出記憶のみの喪失に留まるものらしい。ブルーノもそういう状態なんだそうだ。 そんなことを思いながらこめかみに意識を集中して好きな人の特徴が思い出せないかどうか少しだけ試したが、ものの三秒で飽きてしまった。情報が出てくる兆しがない。相変わらずぼんやりしていて、不明瞭だ。 「好みねえ……」 おかわりで来た数杯目のジョッキからアルコールを胃に流し込みつつ考える。話の合う奴が好きだな、という発想の次に青のイメージが現れた。青いイメージと言えば、空から落ちてきたその日以来十代が探している人そのものだ。 「じゃ、俺は恋人を探してるのか」 「なんだって。恋人募集中ってどういうことだ」 「いや募集してるわけじゃない。記憶喪失になってから探してる人がいるんだけど、名前も顔も思い出せなくて――でも多分そいつが俺の好きな人なんだろうなって。だから恋人を探してるって表現になったんだよ。というかなんでお前が食い付くんだ」 「いや個人的な事情で聞き捨てならずにだな……気にしなくて、いい。うん」 「わかったって。ああでも、やっぱりお前は似てるな」 俺の好きな人の印象に。ぽそりと漏らすとヨハンは嬉しいような悲しいような複雑な表情で「そうか」、と相鎚を打った。タイミングよく店員が運んできたメニューを十代に勧めて薄紫色の液体の入ったグラスを差し出す。ルビー・カーバンクルの毛のような色だ。一瞬何かと思ったが、添えられていたレシピカードでそれが何かはすぐにわかった。『バイオレット・フィズ』。リキュールをベースにクレーム・ド・バイオレットやレモン・ジュース、砂糖にソーダで割った爽やかで口当たりの良いカクテル、らしい。 カードに印字された文字を追っていくと一番最後の行にイタリックでカクテル・メッセージがこう記されていた。――『私を覚えていて』。 「なんだよ。女々しいの」 「悪かったな。どうせ俺は女々しいよ」 「いや否定しろよ」 軽口を叩きながらバイオレット・フィズのグラスに口を付ける。直後、どっと酩酊感が襲ってきた。体中が上気して視界がぼんやりとする。切迫した様子の声が遠くで響いている。ヨハンだろうか、だが何と言っているのか、もしくは叫んでいるのかわからない。 『パパ、ママ、だらしないわ。二人してお酒を飲みすぎてリビングで潰れてるってどういうことなの? ねえ××、××も酷いって思わない?』 『うん。流石に俺もこれは酷いと思う。すごいお酒臭いし。ねえ××、二人ともどうしようか――』 意識が遠退いていく最中で聞き馴れた子供の声が聞こえた。またパパとママ二人で怒られちまった、と苦し紛れに呟く。娘が『ママって、駄目な大人』となじるのを甘んじて受けていると、閉ざされていく視界の奥にちらりと端正な男の顔が映り込んだ。サファイアブルーの髪にきらきらしたエメラルドの海みたいな、十代の好きな瞳がこちらを覗いていた。 ◇◆◇◆◇ 小鳥のさえずりで目を覚ました。カーテンの隙間から光が差している。寝起きの瞳にはやや眩しく、目を擦る。 「……ああ、朝か」 埋まっていた顔をベッドから起こしてぼんやりとした頭でひとりごちた。時計を見ると午前八時を指している。少しのんびりし過ぎてしまったようだ。 「朝ご飯……何がいいかな。卵、冷蔵庫にいくらあったっけ。野菜の買い置きしてた気がしないなぁ」 もそもそとキッチンに向かい、無雑作にかけてあった赤いエプロンを着込む。フライパンを適当に取り出してコンロに置いてから冷蔵庫のドアを開けた。卵は残り四つ、牛乳一パック。つまみのチーズがいくらか。ビール缶二つ。使いかけのベーコンのブロック。えらく殺風景だ。 とりあえず卵二つとブロック肉を引っ張り出してコンロの方に戻った。朝食を作る材料ぐらいはなんとか足りている。 「ヨハンは黄味固焼きの方が好きだもんな……あとベーコン厚切り。俺半熟が好きなんだけどなあ、目玉焼きは」 未だ覚醒し切っていない意識のままで腕は手際よく朝食を作っていく。程なくしてトーストも焼け、朝食の準備が整ったので十代は元来た寝室へと足を向けた。そこではたと気付く。この状況はおかしいんじゃないか、ということに。 十代は段々と冷えわたってきた脳味噌を自覚して、自らの体を見下ろした。着た覚えのない半袖のシャツに赤い無地のエプロン。買った覚えのないジーンズ。恐ろしいことに、サイズは十代の体ぴったりである。 それから朝目を覚ましてからの行動を順を追って脳内で再生した。微睡みから目を覚ました自分は顔を埋めていた――一体何に埋めていたのか? 少なくともハネクリボーではないことだけは確かだ――ものから顔を上げ、着替えもそぞろにキッチンへ向かった。住み慣れた家の使い慣れたキッチンのように、物の置いてある場所に困ることはなかった。エプロンは赤と青の二種類用意されていたから赤を手に取った。十代は赤色がとみに好きだ。 冷蔵庫の中身を物色して、朝食のメニューをベーコンエッグに決定する。ヨハンは固焼きの卵と厚切りのベーコンが好きだからそのように作った。しかしその情報は一体どこから得たものなのだ? 寝室の扉の前で突っ立ったまま更に昔の記憶を手繰り寄せる。そういえば深夜まで妙に小洒落た店に連れ込まれて酒を飲んでいた気がする。入ったのは同意の上だが、出た記憶がない。ついでに代金を払った記憶もない。その更に前は、バイトをしていた。ブルーノに昼飯を作り置いていつも通りに出掛けて―― 「……思い出した。わかった。そういう、ことか?」 バイト先で遭遇し、丸め込まれた男の顔が蘇る。ヨハン・アンデルセン。つまりこの家はおそらく、 「ん……じゅーだい? いい匂いするけど、なんか作ってくれた?」 十代の仮説の裏付けは問い正すまでもなくなされた。突然開いた寝室のドアの向こうに立つヨハンは、上半身剥き出しの下着姿で寝ぼけ眼を擦りながらそんなことをのんびりとごく自然に言ったのだった。 冷めてしまっては勿体ないというふうに無言のうちに協議が決まり、話し合いは朝食を囲んで行われることになった。あの後すぐに着替えさせられたヨハンはまたあの伊達臭い眼鏡を掛けて英字新聞に目を通している。新聞の日付は最後に十代がポッポタイムで確認したものの一つ次の日になっていた。 十代と自分の二人分のコーヒーを手際よく煎れたヨハンは優雅なブレックファーストを摂る態勢に入っているが、十代の方は何がなんだかいまいちわからない上に気が気でない。それを知ってか知らずかハネクリボーはレタスを齧っていたし、ルビーは家猫用にペットショップで売られているようなミルク皿に舌を付けてぴちゃぴちゃとミルクを舐めている。ヨハンはしばらくの間まるでいつもの朝食の通りであるかのようにコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたが、十代がじっとりとした目で睨んでいると流石に思うところがあったのか新聞とコーヒーカップを置いて小さく溜め息を吐いた。 「そう睨むなよ、折角美味しいご飯作ってくれたのに、作った本人が駄目にしてどうするんだ」 「……俺は、まだ納得がいってないんだ」 「そんなこと言われたって説明出来ることは全部したけど」 「大体なんだよこれ、まるで俺が奥さんみたいじゃんか!」 叫ぶと、「あー、あぁ……」とヨハンが寂しそうにばつの悪い顔をした。十代は男である。だから覚えのない服をヨハンに着替えさせられたであろうことには文句を言わない。しかし、エプロンを付けて朝食を用意し、男の正面に陣取るこのポジションはいかがなものか。 大体ベッド一つの男一人世帯に何故色違いで赤と青のエプロンがあるのか。通い妻でもいるというのか。もしこの赤いエプロンがヨハンの彼女の起きものだったら謝罪必須である。 ヨハンの説明は簡素で、そして腑に落ちないものだった。飲んでいる内に十代が潰れ、深夜零時をとうに回った時刻であったため十代の住まいに連絡を入れるのも気が引け、やむを得ず自分の自宅に連れ込んだ。酒の匂いが酷かったのでせめてもの処置で服は替え、ベッドが一つしかないから二人で同じベッドで寝た。以上。 服を着替えさせるくだりまではまあいい。問題はそれ以降だ。まず第一にどうして十代のサイズの服が用意してあったのか。次にどんな理由があって大の男二人が同じベッドで寝なければならないのか。リビングに鎮座している立派なソファでどちらか寝れば良かったのだ。 「このエプロンとか服とか、ヨハンが着れるサイズじゃないだろ。彼女さんとかのだったら俺、謝らなきゃ駄目じゃんか」 「いや俺別に彼女がいたことないし。彼女いない暦イコール年齢? って言っても半分ぐらいは嘘じゃないかも」 「いねえの? ならなんでこんな、明らかに他人用の服があるんだよ。食器とかもペアセットで仕舞ってあったぞ」 「そりゃ、奥さんはいますから」 「なんだそれ」 十代はあからさまに眉を顰めた。 「奥さんいるんなら一人で住んでるのは変だろ。単身赴任ならこんなに物を置いてく必要もないだろうに」 「うん。奥さんがいつ帰ってきてもいいように準備してあんの」 「……逃げられたのかよ。ださいな……」 「逃げられた、じゃないといいなあとは思うよ。俺はすっごい愛してるのにさ、それこそ一万年と二千年前から」 随分と沸いてる……脳内お花畑というかメルヘンというか、馬鹿丸出しの台詞を恥じることもなく吐いてのける。こんなんで勤められるのか、と少しインダストリアルイリュージョン社のことが心配になった。しかしきっと夢見がちなだけで仕事は出来るのだろう。こういう奴に限ってそうなのだ。デュエル馬鹿のくせして筆記が驚異のほぼ満点だったりする。理不尽だ。 よく見ると、ヨハンの左手薬指には細い指輪が一つ嵌っていた。赤みを帯びたシルバーの簡素なリング。ぴかぴかの新品ではなかったが丁寧に扱われているのであろうことは一目でそうとわかる。ああ、こいつは本当に奥さんのことが好きなのだなあと思うと少しだけ胸が痛くなった。 「いや待て、おかしいだろ」 胸が痛くなる理由なんてどこにもないはずだ。十代は気を取り直して胸が痛んだ過去をごみ箱に放り捨てた。こういう過去は忘れておくに限る。 「あのさ、この服なんだけど」 「うん」 「今の流れを総括するとこれは女物ってことになるのか?」 「ん。ジーンズは女性用だけど上は男女両用フリーサイズ。ペアルックだから」 「ふーん、ペアルックね……ペアルック?」 ペアルックというのはつまり親密な二人がペアで着用する揃いのデザインの衣服のことだ。仲の良い友人同士でやることもなくはないだろうが、普通は男女ペアで着用する。親子ペアにしようとすると年頃の娘には高確率で嫌がられる。嫌がられた時は結構ダメージが入る。 着せられたまま着替えていないポロシャツは胸元に刺繍のワンポイントが入っているシンプルだが高そうな一品だった。このエムブレムには見覚えがあって、確か結構な高級店のマークだったはずだ。それからふと視線を映すとヨハンが着ているのも色違いの同デザインのものだった。これは一体どういう趣旨の元行われていることなのだろうか。奥さん用のペアルックシャツを出会って一日の男に着せるという行為はそうとう酔狂というか変態じみているのではないか。 「なんで奥さん用のを俺に着せるんだよ!」 「うーん、まあ、問題はないんだけどな。お前が嫌なら着替えればいいよ。昨日脱がせた服、もう乾いてると思うから。シャワーは廊下少し行って左」 「問題ないって、そんなんだから逃げられるんだよ……洗濯、悪いな。ありがとう」 「大したことじゃない」 ヨハンは当然のことだから、と返してから皿に最後まで残っていた固焼きの目玉焼きを口に運んだ。咀嚼して飲み込み、ミルクを飲み終わったルビーの背を撫でてから「おいしかったよ、ごちそうさま」と十代に満面の笑みを向けてくる。ルビーもハネクリボーもヨハンに同調してにこやかにしていて、見惚れるぐらいに綺麗な表情だと掛け値なしにそう思った。大事なものだな、とも。 「随分と嬉しそうな顔をするんだな、目玉焼き一つで」 わけもなく恥ずかしくなってきて、照れ隠しに俯きながらそう言ってやるとヨハンはあっけらかんと笑う。顔は、やはり「かわいい」というカテゴリに属するものだった。奥さんに逃げられた男から受ける印象ではなかったし、ましてや男が男に対して感じるものでもないはずだったが、ただ漠然とそう思う。 「そりゃ、俺のために十代が作ってくれたものだから。誰かが俺のために作ってくれた手料理を食べるのなんてもう何年振りかわからないよ」 「――え、」 「ごちそうさま、十代」 呆然としてハムが突き刺さったままのフォークを落としてしまった。カラン、と音を立てて跳ねたフォークを反射的に拾い上げながらヨハンの顔をまっすぐに見遣る。愛おしいものを遠くから静かに見守っている時の表情だった。対岸から川向こうの孫の姿を見ているかのような。凪いでいて静かで、穏やかな姿。 テーブル越しに聞こえてくる「じゅうだい」、と名前を呼ぶ声がどうしようもなくくすぐったく、そして無性に嬉しく感じられた。 まるでそれが魔法か手品であるみたいに。 |