作業中のディスプレイに覆い被さってくる影に気付いて遊星は顔を上げた。十代だ。コーヒーマグを手に遊星の顔をまじまじと覗き込んできている。顔の細胞一つ一つまでがこの人に見られているようで、僅かに粟立った。
「遊星、機嫌悪いんだって」 人伝で聞いたニュースキャスターの天気予報をまた他人に流布していくような、そんな調子で問われる。事実それは誰かに伝え聞いた情報なのだろう、歪曲していることは否めないし問うている十代本人にその実感はなさそうだ。彼は極めて軽い口調で、「ブルーノがさ」とルームメイトの男の名を口にした。なるほど妙な誤解をされるわけだ。 「ヨハンのこと調べてたんだって? なんでまた。遊星があいつに興味を持つようなこと、あったっけ。そういや父親の博士と友達だとかなんとか言ってた気もするけど」 「機嫌が悪いとかそういうことはないです。アンデルセン博士のことを調べていたのは、あなたが心配だったからで」 「心配ってなんでまた」 「……心配にもなりますよ。万が一のことがあってからでは遅いんですから」 「万が一って何が」 何もわかっていないらしく首を傾げられる。大雑把に袖を捲られて剥き出しになった二の腕や、美しく整った目鼻立ち、たわんで丸見えになっている鎖骨、そういったややセクシュアルな露出を無自覚にしながら、だ。 電話口の向こうから聞こえた会ったことのない男の声が遊星の脳内に蘇った。『誰にもってわけじゃない。当たり前じゃないか、そんなの』『……嘘じゃ、ないぜ』『だって俺は十代が好きだから』――偽りのない言葉であろうことは疑うまでもなく明白な事実だ。あの男は遊城十代を好み、慈しみ、愛している。紛れもなく。確定的に。 「あなたがそう無防備だから万が一のことが心配になるんです。……自覚、してください。あなたはきれいな人です。うつくしい人です。アンデルセン博士に下心がないとも限らないのに」 溜め息と共に本心をそう吐き出すと十代は一瞬呆気に取られたような顔をしてからすぐに大笑いし出した。何か妙なつぼにでもはまってしまったのかげらげらと爆笑している。遊星が渋い顔になると十代はまだ笑い声がおさまらないのか、くつくつと息を詰まらせるようにして遊星の頭を撫でる。年が上のきょうだいが撫でてくれているようだった。自分にはいたためしのない兄か、姉のような。 しかしすぐにそうとも限らないと考えを改める。目を細めて遊星を見降ろしてくる彼は、酷く優しい顔付きでそこに佇んでいた。その瞳を見ると、それは兄や姉というよりもむしろ母親の目付きのようだった。遊星の母と同じ顔だ。 「……きれい、って言われるのは悪い気分じゃねえけどさ。でもさ遊星、そういうのはアキちゃんに言ってやれよ」 「いいんです。あなたに感じているうつくしさは、アキに向けるものではないですし。アキもそれはわかってくれてると思います」 「ふぅん。そういうもんかねえ……じゃ、遊星はアキちゃんのことどんなふうに思ってるんだよ? 彼氏なんだろ? 幼馴染の延長なのか?」 半ばけしかけるように問うてくる。遊星は首を振った。アキは確かに幼馴染の少女だが、そういう中途半端で適当な思いで彼女に応える程遊星だって馬鹿ではない。アキのことは好きだ。だがそれは、十代に向ける好ましさとは根本的にベクトルが違ってくるものである。 「アキは、かわいいんです」 息をするように自然に言葉は口を突いて出た。相当に意外だったのか、その言葉を聞いた十代が目を丸くしている。だがそれが遊星の本心だった。遊星に見せる笑顔が、仕草が、声が、全て可愛らしく愛おしい。ずっと守ってやりたいと思っている。子供だった時から今でも、そして多分これからも。 あの気丈で意地っ張りで、本当はさみしがりな少女の手を離さないで握っていてやりたい。 「――あ、」 その時ふと思った。 「どうした、遊星」 「いえ、なんでも。なんでもないんです」 ヨハン・アンデルセン、あの得体の知れない男が遊城十代に向ける視線はひょっとしたら遊星がアキに向けるものと同質のものなのではないか。そんなふうに思う。やっと掴まえた大切な指を、手のひらを、もう二度と取り逃したくないと抱き寄せるのだ。 だが即座に首を振った。ヨハンのあの口ぶり、声音、それらから推察出来る十代への彼の感情は恋愛感情だった。少なくとも遊星はそう感じた。下心だ。遊星にとって気分の良くない感情だ。 ヨハンは危険だ。彼はきっと十代を遠くに連れて行ってしまう。ここから連れ去ってしまう。遊星は理由もなくそれを酷く恐れていた。十代が何処かへ行ってしまうのが、最悪、敵に回ることがこの上なく恐ろしい。怖い。 不動遊星にはどんな条件下でも、いかなる場合でも、遊城十代を敵に回しては敗北するより他に道なんかないのだ。 「遊星、暇なら気分転換にシティ案内してくれよ。そんな難しい顔してディスプレイ睨み続けてたら人相が悪くなっちまう。……俺さ、チームの皆と街に出掛けてみたいと思ってるんだ。今のところ龍亞、龍可、あとアキちゃんとは出掛けられたけど遊星はいつも忙しそうだから」 今はそうでもなさそうだし、駄目かな? そう尋ねられる。遊星は素直に頷いてディスプレイの電源を落とす動作に踏み切った。確かに、一度外の空気を吸っておいた方がいいかもしれない。 「気を遣わせてしまってすみません」 「ん、いや? 俺が単に遊星と出掛けたいだけだし」 「いえ……ありがとうございます」 白々しく言って口笛を吹くその人の横顔が少しだけ恥ずかしそうに染まるのを見て思わず笑んだ。この人はきっと記憶を失う前から、やさしい嘘を吐く人だったに違いない。 たとえその嘘が、自分自身にはちっとも優しくなんかなかったとしても。 ◇◆◇◆◇ 走行中のD・ホイールに入った無線通信を受信して遊星はやや考え込むような仕草をした。発信相手は父だ。父の端末は全て着信拒否に設定していたつもりだったのだが抜けがあったのか、それともまた知らない端末が増えたのか。尤もあの父がその気になればその程度の妨害工作など真正面から突破しかねないから考えるだけ無駄かもしれない。日頃遊星には親馬鹿な態度を取っていても別に馬鹿なわけではないのだ。むしろ類稀に見る天才である。 ヘルメットに内蔵されているワイヤレスホン越しに父の興味津々な様子の声が聞こえてきていた。遊星の後ろに乗っている十代の姿を認めるや否やハイになったテンションであれこれ探りを入れてくる。正直に言えば鬱陶しかったが、ここで適当にあしらおうとすると余計に面倒なことになるのを遊星は熟知していたので真面目に取り合ってやることを決めた。 「十代さんは確かに今ポッポタイムで生活しているが、チームメイトじゃない。彼はドラゴンのカードを持っていないし、ライディングも出来ない。そもそもD・ホイールがないし……記憶喪失で行くあてがないというからブルーノが同じ境遇の者同士協力してやりたいというから住む場所を提供している。ギブアンドテイクだ」 『うんうんそうなんだ、父さんはゆーくんがやっと友達を増やせたんだなと思うと嬉しくてねぇ、遊星号に触らせてあげるほど気を許せる人、最近はそう増えなかったでしょう』 何故か涙ぐんでいるみたいな声でそんなことを言われる。確かに大分長い間、遊星には友人はそう増えなかった。気を許せる間柄のチームメンバーは小学生の頃にはもう集まっていたし、特に彼ら以外に親交を持つ必要も感じなかった。中学の頃に鬼柳の元に集まり、その後はブルーノをメカニックに迎え入れ、そして、十代。改めて振り返ると随分淡白な人間関係である。 しかしそれにしたってこの大仰な反応はいかがなものか。 「遊星号を特別扱いしていることは否定しないが、触れられることを極端に拒絶しているわけじゃない。俺が好きになれない奴と父さんぐらいだ、嫌うのは」 『父さんをわざわざ別枠にしてくれるってことは、父さんのことは好きだってことだよねゆーくん!』 「そういうことじゃない」 『ほんとつれない息子だなぁ。まあいいや、ゆーくん今外出てるんならちょっと家に帰っといで。いい加減にゆーくんを撫で撫でしておかないと父さん寂しくって――』 「断る」 『――うそうそ冗談。そこの彼に会ってみたいんだ。それと職場で作った新型モーメントエンジンの試作品が余分に一つあってね』 ね、ゆーくん。父さんのお願いわかるでしょ? いい年をして可愛子ぶった仕草を見せた後、父からの無線は切れた。通信履歴には「アドレス非通知・ゆーくんのパパより、愛してる」と表示されている。あの人は自身の技術力を無駄な方向に発揮しすぎだ。 今まで遊星の後ろで大人しく口を噤んでいた十代が、通信が切れたことに気が付いて口を開いた。 「今のが親父さん? 何喋ってたんだ」 「不本意ながら。あの、十代さん、今から俺の家に向かっても構いませんか」 「遊星の家」 取り敢えずそう切り出すときょとんとした声でもって返された。遊星が普段住んでいて帰るのはあの賑やかなポッポタイムだから、生家のことを指しているということに気付くのにタイムラグが生じていたらしい。ややあって十代はぽんと両手を叩き、理解が下りたというふうに「ああ」と息を漏らした。 「トップスにあるって龍可が言ってた」 「はい。……あの、父が、あなたに興味を持ったようなんです。嫌なら無視しますが」 「いや悪いだろ、親父さんに。それに俺も遊星の親父さんにはちょっと興味あるなあ。似てるのか?」 「はあ、外見は瓜二つだとよく言われます」 「……その髪型にとなると、うん、これは期待せずにはいられないな」 何やら興味深げに頷いている。嫌がられなかったことに内心少しだけ安堵して遊星は進路を自宅の方面に変えた。 遊星号に無理矢理二人乗りをして街道を走る。無理矢理と言っても、元々アキぐらいなら背中に引っ付いて乗れないこともないように設計してあるから細身の十代ならばなんとかなるような、そんな具合だ。 進路を変更してしばらくした頃に、えらく上機嫌な声が聴こえてきて遊星の耳を柔らかくくすぐった。透き通って美しい声音だった。 「……じゅうだいさん、」 流暢な英語の歌声で歌詞が流れていく。振り向きざまに目に入った彼の横顔には郷愁や懐古の感情、ややふわふわとした色味が沈み込んでいる。少し意外に思って率直にその旨を伝えると十代は歌を中断して「ん、まあ」と気の抜けた返事を寄越した。 「珍しいですね」 「かなあ。やっぱ薔薇の雫とか子猫のヒゲとか、そういうの俺の柄じゃないよな。あったかいミトンとかは結構好きなんだけど」 「いえ否定しているわけではないんです。ただあなたが歌を、それも英語で歌うとは思っていなかったもので」 「遊星号に乗って、遊星の父さんのこと考えてたらちょっとさ。俺赤色大好きなんだ。それに家族って言葉も懐かしくて、好きだな……だから『私のお気に入り』が口を突いて出たんだろ。ヘンかな?」 「いいえ。……あの、もしよろしければ、続けてくれませんか」 頼むと十代はいつものからりとした声で「いいぜ」と快諾し、再び口を開いて息を吸い込む。バラの雫に子猫のひげ、磨いたケトルにふんわりミトン、ちょうちょ結びの贈り物、みんな大好きmy favorite things。十代の透き通った声は、今度は日本語で紡がれた。この歌をアカデミアの初等部で習った時に開いていた教科書のページが記憶の中で蘇る。夢見る少女がたくさんの「お気に入り」を思い浮かべてピンクの背景の中で歌を歌っているのだ。 慣れた様子で紡がれていたメロディラインは、曲が一周したところで止まった。十代の横顔に映り込んでいた何かの面影も、その時どこかへ消えていってしまった。 不動家は、一見すると隣接する十六夜の邸宅と比べればこじんまりとした、ごくありふれた個人宅である。比較対象がまさに邸宅と称するに相応しい豪奢な家なのでより一層ありふれた家に見える。外見は普通の一戸建てだ。物置きの屋根裏まで含めて四階までフロアがあるので、そこが珍しいと言えば珍しい。 しかし内実に焦点を向けた場合は、下手をすると十六夜邸よりも奇妙な箇所がそこかしこに散見されたりもする。わかりやすいのがセキュリティシステムだ。家長が技術者なのをいいことに一般発表されていない最新鋭テクノロジーが好き放題搭載されている。しかも定期的に更新される。おかげで泥棒などの被害にあったことは越して来てから一度もないという。 実家に帰るのは正月ぶりのことだった。元旦は無理でも、三元日のうちに一度は母に顔を見せに帰るようにしているのだ。おっとりとした母は遊星に口煩く干渉することがなく、父のように遊星に妙な執着を見せることはなかった。ただ、時折ぽつりと「あの人も、遊星のことがかわいいだけなのよ」と言った。 今年の正月に、父は家にいなかった。 「……でけえのな」 「そうでもないですよ。アキの実家に比べれば」 「代議士で、しかも旧家のお嬢様なんだったな、そういや。そういう家系と比べちゃ駄目だろ」 「知ってるんですか」 「アキちゃんに聞いた」 バイクを降りてヘルメットを遊星に寄越した後、十代がまず漏らした感想はそんなものだった。感嘆の声を上げて家を眺めている。門を抜けた先の植え込みや庭の花々に、小さな声で「これいいなあ」「あ、ガーベラ」「カモミール収穫したら料理にも使うのかな」などと一人言をこぼしていて、意外と可愛い趣味を持っているのだなと遊星は一人で素直に頷いた。 十代は記憶喪失だから、割合色々な物事が曖昧だ。それでも時々垣間見える「体に染みついている以前の彼らしい動作」であろうものがあって、それは家庭的な料理の腕前であったり、子供好きな側面であったり、または天然ボケのような不可思議な発言であったりした。 「ちょっと、昔のこと思い出したような気がする」 十代がぽそりと言った。 「花がたくさん咲いてる庭があった。そこに家族で住んでて……手入れするの、結構好きでさ。いろんな花を育てたもんさ。ガーベラもカモミールも育てたことあると思うぜ。またなんか世話するのも楽しそうだな」 「なら、鉢植えにいくらか貰っていきましょうか」 「いいのか?」 「ええ。十代さんが好きなものを」 母はガーデニングの同士が出来ると喜んでくれることだろう。そう伝えると十代はうきうきして、「サンキュー、遊星」とはにかんで見せた。つられて遊星も柔らかい顔になる。向日葵の花のような、というフレーズが過って、遊星の中で金色の花が快晴の空の下見渡す限りに広がっている光景が思い浮かんだ。 十代は、太陽の花に象徴されるような人だと思う。いつもからっとしていて気持ちの良い人だ。遊星や共にいる人間に元気をくれる。それでいて花のような、華も持ち併せている。アキは薔薇のような少女だとよく表されるが、それに則って言うとすれば遊城十代はサンフラワーのような青年だった。 本当の彼自身が掴み辛いという意味でも。 話している内に辿り着いた玄関の戸を開ける。懐かしい生家の玄関は遊星が最後に訪れた日、またそれ以前に自活を始めるために家を出た日からあまり変わることなく清潔に保たれている。飾られている風水グッズだけが知らないものに取り替えられていた。 「……ただいま」 「お帰りゆーくん」 耳敏く聞き付けた父が手を振りながらやや急ぎ足で階段を下ってくる。彼はそのまま十代に駆け寄って来ると、「いらっしゃい」と胡散臭い笑みと共に手を差し出した。 「遊星の父です。はじめまして」 「こちらこそ。遊星にはお世話になってます」 「いえいえ。うちの息子は多少無愛想なところもありますが、あなたにはよく懐いているようで、寧ろご迷惑をお掛けしてやいないかと……おや」 十代に愛想の良い表情で喋りかけていた父はそこではたと口を動かすことを止めてまじまじと十代の顔を見る。遊星はただでさえ渋い表情を更に苦く変じさせた。自分の父親が年若い男の顔をじっと見つめるのを後ろから眺めているこの状況が面白いわけがない。 「……以前にどこかでお会いしませんでしたか?」 「いつの時代の口説き文句だ、いい年をして」 あまりにテンプレートな聞き文句に思わず口を挟んでしまった。問われた当の十代はきょとんとして首を捻っている。彼は「さあ……」と生返事をして険悪な雰囲気になっている不動父子を見遣った。 「遊星、なんでそんなにカリカリしてんの」 「……あなたが不快になったんじゃないかと思いまして。すみません、父が妙なことを口走って。忘れてください。むしろ父の存在そのものを忘却してください」 「酷いなぁゆーくんってば、父さんが母さん一筋二十五年なのを知っていてそんなこと言うなんて。本当に、どこかで会っていないかなって思っただけだよ。おかしいな、彼ともう一人……話したような気がするんだけど」 「思い出せないのか」 「思い出せないや。息子の言う通り忘れて貰って構いません」 「じゃ、なかったことにします」 十代はにこりと、世渡り上手な大人の顔で応対した。 平素は子供みたいに龍亞や龍可とはしゃいでいるのに、いっそ奇妙な程に大人びたそつのない顔をしている。それは遊星がぞくりと背に何かを走らせるぐらいに、整って隙のない表情だった。 「今日は俺、遊星の父さんと母さんに挨拶するつもりで来ただけですから。――家族思いなんですね、博士は。あなたが奥さんと遊星のことをとても大事にしているんだろうなってことは、見ていればわかりますよ」 「ええ、家族は私の誇るべき宝です。察するに、あなたもそうなんでしょう? 私の友人も同じことを言っていましたよ。……似てますね、彼と」 誰とは言わなかったが、その友人というのがアンデルセン博士のことを示しているのだろうということは遊星には何となく理解出来た。五年前に離ればなれになってしまった奥方をずっと一人で待ち続けているというかの男は、寂しいことは寂しいが浮気などとんでもないと言ってかつて躊躇いがちに尋ねた父にきっぱりと答えたのだという。「家族は守るべきもので、慈しむべきもので、愛すべきものであるけれど裏切るものじゃない」とアンデルセン博士は続けて語った。二人の博士の間柄を決定づけたのはその言葉がもたらした共感の深さなのではないかと父は呟いていた。 家族を愛する人間に根っからの悪者なんていない。それは知っている。 「俺も、あなたが俺の知人によく似ていると思いますよ。正義感に溢れて、家族思いで、……白い光の中に呑まれて死んでしまったけれど」 言葉を受けた後、十代は目を伏せってそう言った。 「……十代さん。何か思い出したんですか」 長い睫毛が瞳を覆い、明らかな憂いの表情を形作る。いつもころころとよく表情が変わる人だが、こんなふうなネガティブな変遷はそうそうないものだから驚いて思わず声を出した。邪気のない笑みを見せない十代はそれだけでどこかおかしなもののように思えた。まるで彼が空から落っこちてきた青年と少し趣を異にする、知らない、別の人間であるかのような。 「いや……それだけな。それだけだ。あいつがどんな顔で、どんな声で、俺達に語り掛けてきてくれたのかさえさっぱり思い出せない。すごく悲しいことだった気がするんだけど……」 首を振って遊星の問いを否定してから不動博士に向き直る。黙って耳を傾けていた彼は突然視線を向けられて少し瞬きをしたがすぐにわかったふうに頷いた。 「止めましょう。よそ様の家に来てまでする話じゃないですね。忘れてください、これでおあいこでしょう?」 「敵いませんね。……奥にどうぞ。妻がお茶を用意してくれていると思いますので、ほらゆーくんも」 「その、『ゆーくん』という呼び名はどうにかならないのか」 「じゃ、『せーくん』? なんかしっくりこないなぁ」 「……ゆーくんでいい」 父に改める気がさらさらないのだということを再確認して遊星は再び溜息を吐いた。十代がくすくす笑っている。やはりいつもの彼らしくない。どことない違和感があって引っ掛かってしまうのだ。 父に対する十代の態度が外ゆきの、借りてきた猫に似ているのだと気が付くまでには結構な時間を要した。 ◇◆◇◆◇ 手のひらをどこぞの司令官のように組んで、意味ありげな笑みを口端にだけ浮かべてその男は言った。 「うん、あけすけに言いますとそういうことになりますね」 目が据わっている。ちっとも笑ってやなんかいない。十代は生唾を飲んで唇を結んだまま呼吸を整える。一体なんだっていうのだ。 不動博士が息子と奥方がいる前で堂々とそう言い切って見せた時、ああこの男は本当に食えない奴だと十代は直感した。遊星はとんでもないものを見るような、ある種の蔑みの視線を父親に投げ掛けている。一方で奥方はあらあらうふふ、という絵に描いたかのような天使の微笑みで控えていた。この夫にしてこの妻ありだ。夫妻揃って一筋縄ではいかない人達だと心底思う。 猫を被ったような態度を取っていたことは認める。息子に迷惑を掛けている手前、多少なりとも好感度を稼いでおきたいという打算があったのも確かだ。だが、それにしたって、この不動という男は食えなさすぎた。なかなかどうして鋭いではないか。 「非常に強く、あなたに関心を持っています。遊星をわざわざ新型エンジンで釣っておこうと思うぐらいにはね。……そんなに身構えないで大丈夫ですよ。何も取って食おうっていうわけじゃない」 「条件反射ですよ、多分。なにぶん記憶がないものだから」 「ん、『食えない』のは、お互いさまじゃないかなーって私は思いますけどねぇ」 その言葉に十代は非常に渋い顔になる。博士の言葉は否定せずに黙っていたが、なんだって腹の探り合いみたいなことになっているのだろう。不可解極まりない。 リビングに通されてはじめの内は、奥方の出してくれたお茶にお茶請け菓子を美味しく頂いて、主に遊星のことを話題に上げていた。遊星がどんなふうな学生生活を送っていたか、はたまた今はどのような活動をしているのか。彼の中で何が流行っているのかと聞かれ「バイクとカードじゃないですか」、と答えると彼は「ゆーくんは、もうずっとそればっかりだね」と親馬鹿な笑みでくしゃりと笑った。その時は確かにほのぼのと会話をしていたはずなのだ。 話に機転というべきか、変わり目がちらちらと見えたのは遊星が幾度目かに「十代さん」と名を呼んだ時だったか。流石に「十代さん」「十代さんは」「十代さんが」と続けば博士にも思うところがあったのだろう。遊星の態度に尊敬や崇拝が幾分か混じっているのは十代も感付いていることではある。ただ、彼にそのような態度を取られる覚えはこれっぽっちもないので尋ねられたらしどろもどろになるだろうことは明白だった。 「私も一応研究者のはしくれですから、好奇心と興味関心は人一倍強い方なんですよ。うちの息子はご覧の通りちょっとばかり愛想が足りないし、そのあたりが不器用で多少捻くれているから純粋に誰かを尊敬対象に定めることが稀なんです。もしかしたら生まれて初めてかもしれない。そうするとあなたの人となりがやはり気に掛かる」 「あらあなた、それじゃまるっきり彼氏が出来た一人娘に対する反応ですよ。大昔に私のお父さんが同じようなことをあなたに言っていたわ」 「母さん、それを言われるとなんだか恥ずかしいね……」 「父さんは大概において恥ずかしい。今更だ」 この空気にか父親の無遠慮な発言にかはわからないが流石に耐えかねたらしい遊星が辟易した様子で口を挟んでくる。彼が自らの父親を見ているその瞳は度々十代にヨハン・アンデルセンへの警句をしてくる時のものと一緒だった。ああこれは恐らく牽制を含んだものなのだなぁとその時気が付いた。 「俺が十代さんを尊敬しているのに、そんな込み入った事情はないんだ。宗教じみた理由もない。ただ十代さんには圧倒的な強さがあって、魅力がある。それが父さんにとってそんなに『面白い』ものなのか?」 「面白い?」 遊星の言葉に十代が首を傾げる。遊星は小さく「はい」と頷いた。 「俺の父は根本的にそういう人種です。『面白い』こと、『面白い』人間に対して貪欲な好奇心を発揮する。多分今の十代さんは二重の意味で面白いんです、父にとって」 「うん、だろうな。君と君の親父さんはよく似てるよ」 溜め息混じりにぼやくとそんなつもりはなかったのに責めているような声音になってしまった。十代が慌てて「そんなつもりじゃ」、と言う声と遊星の「すみません」という謝罪がぴたりとタイミングよく重なる。なんだか余計にばつが悪くなって二人で顔を見合わせた。変な空回りをしている気がしてならない。 「……不動博士、俺、今妙な気分です。あなたとはもうちょっとフレンドリーに接することが本当は出来たんじゃないかってそんな気持ちになってる。こんなに年が開いてて、図々しいって思うかもしれませんけど」 「年の離れた友人がいますし、そういうのは問題じゃないと思いますよ。……そうですねぇ、言われてみればそんな気もしなくはないかなあ。遊城さんは記憶喪失なんですよね。もしかしたら今あなたが思っているよりも案外長く人生経験を積んでいたのかもしれませんね」 「そればっかりは俺にもわからないですよ」 自分の実年齢すら定かではない。自分が以前にどんな人間でどんな場所でどんな生活を送っていたのかまるでわからない。誰と共に暮らしていたのか。誰を愛していたのか。割合得意な料理だって、誰かのために作っていたはずなのに。 不動博士は先に「あなたもそうなんでしょう」と家族のことに関して十代に述べたが、今の十代には家族のことがわからない。 「遊城さん、一つ厚かましい頼みごとをしてもいいですか」 そんな十代の心境にはお構いなく博士がおもむろにそんなことを切り出す。遊星が何か言おうとしてだろう、口を開いて自らの父親に食ってかかりに行きそうになったのを静止して十代は静かに面を向ける。 「はい。なんですか」 「遊星をお願いします。この子は自信過剰ではないけれど、挫折の経験がない。友人には恵まれているのかもしれないけれど、人付き合いは得意じゃない。そんなこの子があなたをこうまで信頼して、尊敬しているということが私は嬉しいんです。でも、だからこそ」 差し出された手のひらを素直に握り返すと、その中には確かな感触と温もりがあった。父親の温度だと漠然と思う。昔も知っていた温かさだった。幾度か触れたものだ。 「あなたを待っている人が、あなたが忘れてしまっている人がどこかにいるのだということも、片隅にでも気に留めておかれることを私はお勧めしますよ」 下手くそなウインクと共に締めて、博士は意味ありげに笑った。 最終的に、この何とも気まずい場は不動博士の「あまりお引き止めしても悪いですね」という言葉でお開きの流れとなった。 その頃には、時計の針が午後四時を回ろうとしていた。 「遊星」 玄関口から遊星号が停めてある場所へ向かおうとした遊星の背を父親の声が強く引き止める。間伸びした「ゆーくん」ではなく、ぴっしりとした堅い「遊星」という響きで名を呼ばれて遊星は思わず足を止めて振り返った。十代は先に遊星号の方に辿り付いて遠目にやんわりとその様子を眺めている。なるべく他所の親子間に干渉を起こさないようにしようとして距離を置いてくれているのだとすぐに悟った。 「――とうさん」 十代に聞こえないようにやや弱く父を呼ぶ。改めて見た父の顔は笑っていなかった。いつものニコニコ顔も直前までの笑顔もなく、ただシンプルに息子を見てきていた。そこに一切の遠慮はなく、久方ぶりに見る父の真面目な顔が怖かった。 この男が自分を溺愛していて、大抵は優しい言葉をくれるのだということは誰よりもそう育てられてきた遊星自身がよくわかっているのだ。それでもこんなに怖さを感じるのは、父が息子に良かれと判断した時は決してやさしい嘘でオブラートに包まず、直球で警告をしてくることを経験則として知っていたからなのだろう。 不動博士が小さく唇を開く。遊星はやにわに背を強張らせた。 「きっとね、彼はいずれ遊星の前から姿を消すよ。別れの日がくるということを覚えておきなさい。彼はアキちゃんとも、ジャック君やクロウ君とも違う」 ――案の定だ。 「わかっているだろう? 彼は、君のものじゃないんだ」。釘を刺すような言葉の裏にそんなふうな声なき言葉を聞いて遊星は言いようのない恐怖と悪寒を覚えた。じくじくと遊星の心の隅を苛んで侵入していくその言葉は、消すことのできない呪いのようだった。 |