「やあゾーン。これは一体どういうことなんだ? この世界軸における『三皇帝』は休眠中だって、俺はそう君に聞いたように思うんだけど」
『申し訳無いのですが、私にも判然としかねているのです。イレギュラーそのものですよ。大変笑えることに、私には彼らを動かした記憶がない。インプラントマシン直結の私の記憶回路がショートでもしたというのならその限りではありませんが』
「まるで笑えないよその冗談は」
 ヨハンは首を振った。ホログラムディスプレイの向こうのゾーンもまた途方に暮れたように浮かび尽くしていた。
 事の発端は十数分前、ゾーンが空間の歪みを発見したことに起因する。時空間の局所的なコールド・スリープ現象が例の十代とヨハンが送り込まれた世界軸で発生したのだ。ゾーンの解析の結果現象を引き起こしたのはどうも「イリアステルの三皇帝」らしいということが発覚した。しかしおかしい。ルチアーノ、プラシド、ホセ、彼らは活動不要と判断されてパラドックス諸共活動停止状態でどこぞのカプセルに放り込まれているはずなのである。
「それじゃゾーン、つまり今回の件は休眠中の彼らのボディが突如として稼働を開始し、君の預かり知らぬところで活動をしていたってことになるのか?」
『わからないのです。少なくとも、私が今存在している時空のアーククレイドルから損なわれているアンドロイドはアンチノミーのみで、アポリアもパラドックスも、変わりなくそこに存在しているのですよ。……非常に不可解なことに』
「なんだって?」
『断っておきますが、冗談の類ではありませんよ。……尤も時空跳躍能力を兼ね備えた何者かが、歴史修正に動き回っているとなれば話は別ですがね』
 合成音声のくぐもった溜息が漏れる。ゾーンの表皮を生命維持の目的も兼ねて覆う文字通りの鉄面皮も今日ばかりはまったくの無表情というわけにはいかないようだった。仮面から唯一覗く左眼、しわがれた皮膚の中央に填め込まれた英雄のコピーアイは深い藍色をたたえている。
 遥か昔に「俺はあの藍色が好きだけど、きっと彼は好きじゃないね」と言い切った誰かのことを思い出す。彼、というのはがらくたの創造主にその全てを転写された正史の不動遊星のことを指していて、またその遊星を思考パターン、人格アルゴリズムまで全て含めて複製したゾーンのことをも示していた。理由を尋ねると誰かは寂しそうに、「だって、青は、つめたい色だから」と笑った。
 《ゼロ・リバース》、英雄の正史で彼を英雄たらしめた破滅の光、イリアステルが画策した粛清にして不動遊星の心に永遠に刻み込まれた消えない罪の証は薄暗い藍色に包まれたまばゆい閃光のもと起こった。あらゆる生命を消し去った光は偽善者が流す涙のようにほの昏く、しかし確かにカラー・サークルの青に属する空の色の下に降り注いだのだ。英雄はその地獄の中を生き延びた。生きて、生きて、生き続けろという呪い。父の罪を背負う意識を、もしかしたら彼は青色の中に見出していたのかもしれない。
 青色は、そういう意識で見れば確かに冷たい。真人間のヨハンが死んだあの海も、透き通って突き放すように冷たいあおいろだった。冷やかな色だ。しかし涼やかと形容すればその冷たさは心地の良いものになる。そう言うと、赤い英雄は頷いた。「俺は、遊星の青もヨハンの青も、とても清廉で綺麗なものだと思ってる」と。
「結局、見る方の意識一つなんだよ」
 彼は言った。彼が好む赤色だって、一面では情熱の色であり生命の色であるが、また一面では殺戮の色であるのだと。絶望の色であり、恐怖の色であり、……孤独の色なのだと。
「色ばかりじゃない。歴史だってそうさ。ユダヤ人大虐殺のアドルフ・ヒットラーは同時に壊滅したドイツ帝国における救世主だった。誰かの敵は誰かの味方で、誰かの絶対悪は誰かの絶対崇拝対象だ。俺は昔皆のヒーローになりたいと思っていたけど、でもやっぱりダメだったんだ。あの世界で、畏怖され崇拝され傅かれ恐怖され嫌悪され憎悪され俺はわかったんだ。万人のヒーローなんていない。あるのは弱者の英雄気取りか、強者の加担者か、そのどちらかでしかない」
「――十代、お前は、」
「だからせめてヨハンを――俺の仲間達を守れるものであろうとそういうふうに決めた。今もそう思ってる。それでいいって、遊戯さんも、俺を撫でてくれた。やさしいんだ、あのひと」
 遠い過去に天寿を全うして召された英雄の英雄は、「黒」の人だった。全てを塗り潰す常夜ではなく、全てを抱擁する夜闇だった。そしてその中にあまねく照らし出す「金」を抱いている、そういう不思議な人だった。誰もが憧れずにはいられず、敬愛をもって「初代決闘王」と呼んだ。面白いことに、彼が纏う黒を不吉だと言う人間には随分と時間が経つが未だに出会ったことすらない。
「なあゾーン。俺は君の守ろうとする歴史が最もスマートな形で、言い変えるならば正統な歴史だと思ってる。遊戯さんは名もなきファラオと離別すべきだし、十代はユベルから目を背けるべきじゃない。遊星も、きっと、そうだ。《ゼロ・リバース》を安易に肯定するつもりはないが、遊星がああいうふうに成長するのにあの事件は大きく貢献した。歴史は下手に歪めちゃ駄目なんだ。確かにその中で彼らは辛い思いをしたけれど、それを取り除いてしまうのは否定に他ならない。悲しみのない世界なんかただの欺瞞だ」
『……ヨハン・アンデルセン』
「もし、世界に干渉して《ゼロ・リバース》を消し去った奴が確固たる意志の元動いているのだとしたら、正史の『救われた未来』がそいつにとっては許し難い歴史なんだろう。モーメントに滅ぼされない歴史を、滅びない人類を憎悪しているのだろう。《Z‐ONE》、君はそう名乗っているが厳密には最後の一人じゃない。一人生き延びた人間の君の心の中には、志を共にした友達が生きていたはずだ。だから君は最後に世界の可能性を、英雄を信じることが出来た。そうだろ?」
 だが朋友の想いすらもなく、徹底して一人で悠久の時を、それも歴史を造り変えてしまえる程の驚異的な力と共に過ごしたのだとしたら。そいつは決してまともではいられないはずだ。世界に絶望し、憎悪し、破滅を――自らに課せられた永遠という地獄を終わらせることの出来る最期を求めることは想像に難くない。
「この世界は誰かの見ている夢だよ。機械仕掛けの理想郷さ。美しいばかりで嘘臭い。オートマの人形達からゼンマイを抜き取ったらきっと全てが止まって崩壊してしまうんだ。儚くて――脆くて、遊戯さんが守った世界よりも、十代が守った世界よりも、遊星が守った世界よりも。もっとずっと虚しい」
 《ゼロ・リバース》を奪われた世界は確かに不動遊星にとって一番幸せな世界で、遊城十代にとって一番やさしい世界で、武藤遊戯にとって一番温かい世界だった。不動遊星は両親に愛され家族の温かさに包まれて育つ。遊城十代は両親に疎まれることなく、妙な事件を起こして脳味噌を弄くられることもない。武藤遊戯とアテムは、最愛の「もう一人のボク」「相棒」と別れることなく「ずっと」が約束されている。しかしそれらは不自然なことだ。
 ゾーンはヨハンの意見に納得と理解を示すと巻貝に似た装置を僅かにくゆらせ、彼に今後の出方を尋ねた。今まともに実動出来るのはヨハンだけなのだ。制御不能のアンチノミー、記憶喪失の十代は元より今回の件で迂闊にアポリアとパラドックスを動かすわけにもいかなくなってしまった。
『それで、貴方はどう動くつもりです』
「決まってる。十代と会うよ」
 ヨハンは大真面目に言った。そのまま、「まだ告白の返事を貰ってないんだ」と続く。
『……呆れましたね。まだ悠長に恋愛ごっこをするつもりなのですか』
「馬鹿だなゾーン、人を愛するってそういうことだ」
『私にはわかりかねます』
「遊星君は恋愛が苦手だからな、ま、君がそうなってしまうのもしょうがないとは言える」
 腕組みをして講釈を垂れるような構えになる。ゾーンが『今は遠慮しておきましょう』と機先を制して告げると「そうか。それもそうだ」と非常に残念そうに腕を解いて下ろした。
「それに十代がいつまでも記憶喪失のままじゃ話にならないだろ。あいつの力と励ましが今の俺達には何よりも必要だと、そう思うんだけどね」
『能力は必要ですが、励ましを欲しているのは貴方だけでしょう。巻き添えにしないでいただきたい』
「どうかな。遊星だったら、十代に激励なんてされた日には空回りするか実力以上を発揮するか――とにかくとても喜ぶと俺は踏んでるけど」
 意味ありげに笑う。不動遊星は遊城十代に弱いが、また同時に遊城十代に似通った性質を持つヨハン・アンデルセンのことを苦手にしているのだということをゾーンは思い出した。どこの世界でもそれは変わらない。



◇◆◇◆◇



 地面に膝をついてくずおれている龍亞を必死に揺さ振る誰かの手のひら、名前を呼ぶ声、それらに現実へと引き戻されて龍亞は二度三度瞬きをした。荒い吐息を漏らすと、安堵からかどっと汗が噴き出てきて不快な感触が肌を襲った。視界の中に、あの気持ちの悪い赤褐色を纏った少年はもういなかった。
「……るか」
「龍亞、気が付いた?! 龍亞!」
「……だいじょうぶ、だと思う。うん。立てるから」
 幻のように現れて消えた件の少年の姿がまだ脳裏にちらつく。幻影だったらいくらか気が楽だっただろうが、それが恐らく確かなことなのであろうことは龍亞を心配そうに見つめている遊星やアキ、龍可の表情が雄弁に語っていた。あの少年が龍亞を心底憎たらしいという表情で睨め付けていたことは夢でもなんでもない。ただの現実なのだ。
「ごめん。私、動けなかった」
「なんで龍可が謝るんだよ」
「だって……龍亞なら、絶対、私を助けてくれるもの」
 私の、ヒーローだから。ごく小さく呟く。龍亞は困ったように顔を顰めて妹の手に触れた。
「いいんだよ、龍可は龍可で。それに俺が龍可のヒーローだってんならさ、龍可に助けられてたらかっこわるいじゃん?」
「もう……かっこつけないで。私、龍亞に何かあったら落ち着いてなんかいられそうにないわ」
「へへ。……ごめん。でも大丈夫だから」
 龍可の言葉に嬉しくなって、龍亞は少し照れながらもはにかんだ。龍可は薄い涙を指で拭っている。遊星とアキは二人を少し離れたところから眺めていた。顔を見合わせて安堵の息を漏らす。二人を預かっている以上、何かあったりでもしたら双子の両親に顔向け出来ない。
 そんな中、少しして龍亞がおもむろに首を傾げた。
「あれ? 向こう……」
 根拠はないが、何かが近付いてきているようなそんな気がしたのだ。慌てて周囲を見渡した。赤毛の少年がいなくなったからか、止まっていた時間はすっかり元通りになってまたひっきりなしに人が街路を行き来していた。
 幸い、龍亞は尻餅を付いた時に滑って壁際に座り込む形になっていたために著しく往来の邪魔をする羽目には陥っていないようだ。龍可と話している間も、時折龍亞に視線を向ける人はいるにはいたが、大半の人々は気にも掛けずに一目散に各々の目的地へと駆けて行っていたようだった。そんなものだろう。知り合いでなきゃ、龍亞だってそういうふうにする。
 そんなことを考えているうちに、視界の端に大変な勢いで駆けてくる人影がちらりと映り込む。人影はどんどんこちらに迫ってきて、妙にくっきりとした赤色を視認させた。やっぱり見知った人だ、確認するまでもない。ああやって赤を翻して走る人なんて、いくら世界が広くっても一人しかいないのだ。
「遊星! 龍亞! 龍可、アキちゃん、無事か?!」
 龍亞に駆け寄って来たのは遊城十代だった。酷く焦燥した顔付きで名前を呼んでいる。彼はアキと立ち尽くしている遊星、それからなんとか立ち上がった龍亞をそれぞれ一瞥してほっと胸を撫で下ろした。
「良かった……」
「十代さん?! 何故ここに……」
「え、うん。ちょっとお尻打っちゃったけど平気だよ」
「なんか、ヨハンからすごい焦った電話来て。遊星達が危ないって。それで急いで来たんだけど、本当に無事で良かった」
「……アンデルセン博士?」
 急にぴくりと反応して遊星の眉根がつり上がる。彼は眉間に皺を寄せて「どうして、そんな人からの電話を受けているのだろう」という苦い表情をしていた。しかし十代はそれに気付くそぶりがなく、よしよしと双子の頭を撫でている。
「尻打つって、誰かに襲われたりしたのか」
「うん。名前はわかんない。変な奴だった。信じられないかもしれないけど、時間を止めて……俺のこと、すごく憎んでるって。『あいつら』の血族は特に嫌いで、だから俺のことも大嫌いで大嫌いでたまらないってそう言って睨んできた」
「憎んでる?」
「わけわかんないんだよ。初対面のはずなのに悪意剥き出しで、俺も、あいつのこと好きじゃないってはっきり思った。嫌いだって口を突いて出た。……怖かった。『あいつらの子供だから』って言い掛かりみたいに……俺のパパとママが、一体何したって言うんだよ?」
「うん」
「それから『敵だ』って言った。でも、あいつ、なんか可哀相で」
「うん」
 十代は静かに頷いて龍亞の言葉に耳を傾けている。その最中に少しだけ遊星を見やってアイコンタクトを送って寄越した。遊星は龍亞の吐露を邪魔しない程度の音量で「わかりました」と了承する。この様子では、もう今日のところは龍亞を連れ回すのは難しいだろう。本人も妹も、勿論遊星やアキだって無理矢理は望んじゃないない。
「……名前は言わなかった。代わりに自分達は《イリアステル》だって」
「イリアステル、か」
 反芻して、十代はああやっぱりなと呟く。
 あの男がどこまで何を知っているのか、敵なのか味方なのか、それはさっぱりわからないが少なくともこれで十代達より情報が早いのだろうということははっきりしてきた。
「ヨハンが言ってた名前だ」
 イリアステル。もう一度繰り返してみたが、奇妙な心地だった。その言葉に嫌悪は感じない。しかし、どこか粘ついて絡まってくるような不快感がある。脳味噌がちくちくと蟻に食まれるような痛みに瞬間苛まれ、その不快感を煽った。
 十代が黙ってしまったのを確認して遊星がすっと進み出てくる。彼は十代に「気分は」と短く尋ね、龍亞の肩に手を触れた。「心配すんな」と返して龍亞の正面を空けてやると、遊星はスムーズにその場所に入ってまっすぐに青の瞳で龍亞を見据える。
 龍亞はぱちくりと瞬きをした。遊星に見つめられると大概の人間はどこかしらを正してしまうのだ。龍亞以外にも、今まで何回かそういう光景を見たことがある。
 以前覗き込んだ遊星の瞳は真青な空のようで、それでいて、沈み込んでいく海のようだったとふと思い出した。
「大体落ち着いたか、龍亞」
「あ……うん」
「なら、今日はもう帰ろう。そのイリアステルとやらについても話し合いたいし、龍亞が今日は外にいる気分じゃなくなってきてるだろう。いつものケーキ屋にでも寄ってポッポタイムで食べないか。龍亞がどうしてもというのなら海馬ランドを巡るのに付き合うが」
 龍亞は首を振った。ケーキを食べる胃袋は空いているが、とても今からブルーアイズ・コースターやらをハシゴしたりするようなそんな気力は残っていない。
「ううん、ポッポタイムに行く。確かに、正直遊園地ではしゃげる気分じゃないや。……ごめん、遊星、アキ姉ちゃん。俺のせいで駄目にしちゃって……ごめん。折角、久しぶりに二人で出掛けたのに」
「いや、龍亞が謝る必要はない。幾らか曖昧な部分があるが、龍亞に危害を加えようとしていた何者かの台詞はこちらにも聞こえていたんだ。奴は覚えておけと、『チーム・ファイブディーズ』を指して言った。だからこれは俺達チームの、家族の問題だ」
「遊星……」
「龍亞が一人で背負い込む必要はどこにもない。いいか龍亞、俺達はチーム――ファミリーなんだ。……まずは情報整理がしたい。アキ、すまないが」
「ええ、わかってる。また今度、連れてきてね。私も今はそっちの方が気になるわ。丁度全員が揃ってるらしいし」
 手持ち無沙汰になっていた十代を捕まえて簡単な状況整理と情報の共有を行っていたアキは頷くとくすりと笑む。遊園地に突入してきたのは十代だけだが、外で一緒に外出していたブルーノ、クロウ、ジャックが待機しているのだという。チームのメンバーが一人も欠けることなく祝日に揃っていることは稀だった。プロの仕事の中には試合以外にもマスコミ露出やファンサービス業も含まれるから昼間からジャックが暇している日は滅多にないのだ。大概、そういう時彼はスケジュールを調整して待っているカーリーのところへ出掛けてしまう。
 本当に久々に、大規模な作戦になりそうな予感がある。
「作戦会議、するんでしょ。こんなの随分と久しぶりな気がするわ」


 ガレージの中央に巨大な簡易テーブルが鎮座している。普段はガレージでその存在を主張しているD・ホイールはガレージの隅に追いやられ、窮屈そうに身を寄せ合っていた。テーブルの上に人数分のタブレット端末が用意されており、遊星は別席のコンピュータ前に陣取っている。彼はモニタを食い入るように見つめていたが、同時に両手は高速でキーボードの上をひらめいていた。
「なんていうか、本格的だな……あと、遊星は暫く意志疎通図れなさそうだな。なんだってあんなにガタガタキーを叩く必要があるんだ」
「マウスに手を伸ばすのが嫌だって、急いで情報収集をする時は全部キーボードで入力しちゃうんだよ。コンピューター言語で直接指示してるんだ。完全に物好きの取る手段だけどね、遊星はそっちの方が速いんだって」
 せっかちだよねえ、とブルーノは笑うが十代にはそもそも彼が何を言っているのかも理解出来そうにない。もし自分がこの時代よりもずっと前の世界に住んでいたのだとしたら、今とんだオーバーテクノロジーを目の当たりにしているんじゃないかと的はずれな思考が頭の隅を掠めた。
「病気なんだ。仕方がない。遊星はジュニアスクールの頃からあんな奴だったよ」
「お父さんそっくりなのよ。昔、遊星のお母さんが『うちの旦那と息子は時々機械語で会話してる』って私のお母さんに話してくれたって聞いたことあるもの。本人曰く、多少は人語に近くしてあるらしいけど」
「多少では大した差にならんだろうに」
 ジャックが息を吐きながらそう結論付けた。胸元に「KING」とでかでかとした刺繍がされたエプロンは壊滅的に似合っていなかった。
 ここまで似合っていなくても着用しているということは恐らく例の彼女お手製の品なのだろう。なんだかんだで優しい男なのだ。美しい情愛。いいよなあ、と内心一人ごちる。
「ねぇ十代、準備手伝ってよ。スクリーンパネルを倉庫から取ってこなきゃいけないんだけど俺と龍可だけじゃ重たそうでさ……十代?」
「龍亞、パネルなんて持って腰は大丈夫なの。さっきしこたま打ち付けてなかった? ……あれ?」
 変な表情をして、双子が顔を見合わせる。十代がジャックのエプロンを見て何でだか呆けていたからだった。懐かしいものを見付けた両親が「ねえ龍亞、龍可、ちょっと来て見てみて」と手招きしている時と同じ顔だ。失われた記憶に呼び掛けるものが何かあったのだろうか。
「ジャックのエプロンがどうかしたの?」
「似合っていないのは皆思ってるのよ。でもカーリーが……カーリーって、ジャックの彼女さんのことね、嬉しそうに『ペアルックなんだから!』ってニコニコしてたから、ジャックはこの際似合ってるとか似合ってないとかそういうのを気にしないことにしたらしいわ」
「他の皆もね。だからあのデザインに関しては何も言わないことになってるんだ……ねえ十代、ほんと、なんでぼーっとしてるの?」
 まだ意識ここにあらずといった風体の十代の手を握ってぶんぶんと振る。それでようやく十代は何か気付いたようで「あ、ああ、ごめん」と覚束無い返事を寄越した。それからさっと視線をそらし、俯いて唸る。不思議に思って龍亞が覗き込んだ顔は赤かった。
「うわ、十代真っ赤」
「うるせー……」
「龍亞、デリカシーなさすぎ! なんでわざわざしゃがんでまで見ようとするの」
「だって気になるじゃん」
 悪びれるふうもない龍亞に龍可の鉄拳が飛ぶ。「いってぇ!」と叫んで龍亞はじっとりとした目を龍可に向けたが仕返しをするような真似はしなかった。シスコンなのだ。レディは大事にしなきゃいけないという家訓のたまものなのだと本人は言っているが。
「……ペアルックで、やなこと思い出したんだ」
 十代が一人言のように漏らした。
「やなこと」
「うん、微妙な気持ちになったこと。……已むを得ず外泊した時に着る服なくて、結局ヨハンとペアルック着ることになってさ。男女両用フリーサイズ。なんて無神経な野郎だって思ったけどあいつお構いなし。そのうち、いつだったか誰かにペアルックを嫌がられた時のガッカリ感もついでに思い出して、すげなく断ったのが誰かは全然わからないんだけど……」
 不意に口火を切り、十代がぽつぽつと話し出す。「女の子に嫌がられたんだ、確か」と言うとじっと龍可を見た。龍亞が十代の視線の先に龍可がいることに微妙な顔をして慌てて腕を振り、わざとらしく話題をそらそうとする。
「へ、へぇー、十代とのペアルックを嫌がるなんて、その子は大分かわいい子だったんだね?」
「さあ……龍亞、なんか動転してるぜ? どうしたんだよ」
「いやぁーははは、そんなことないってー。ほら、十代ってさぁ、結構イケメンじゃん? 実はモテモテだったんじゃないかな? って。十代がペアルック持ち掛けるってことは少なくとも親しい相手ってことだし、それで断るってさぁ……」
 少なくとも、俺なら多分断んないし。妙に必死になって弁明を終えると龍亞は恥じるように体を縮こめた。隣で龍可が胡乱な表情で立っている。なんだか可愛くって、十代は龍亞と龍可を両腕でぎゅうと抱き締めた。双子の体は思いの他大きかったが、それでも、両腕に収まらない程ではない。
「うわ、十代どうしたの?!」
「ちょっと、苦しいかも……」
「うん。龍亞と龍可は仲が良いんだなぁ。仲が良すぎると、まあそれはそれで問題だけど」
 一人で頷いてまたぎゅうと腕を寄せて来る。少し苦しかったけれど龍亞も龍可も不思議と嫌な気持ちにはならなかった。代わりに安心感があってぽかぽかしてくる。十代の腕の中は春の陽だまりか、もっと別の大きなものに似ていた。
 優しい匂いがする。
 くすぐったさに身を震わせていると十代は更に頬ずりをしてきて、柔らかいもみあげの先が龍亞と龍可の頬を撫でた。こうして三人で丸まっているとリスみたいだと考える。リスの母親が、子リスに頬ずりしているのだ。
「わぁ、なんだか三人とも熊の親子みたい」
 すると十代のハグ攻撃に気が付いてブルーノが少し離れたところから他人ごとのように言う。それを耳に挟んだクロウもあー熊ね、と適当なことを言いながら双子と十代の方に視線を向けた。途端、十代は悪戯が見付かった悪餓鬼のような顔付きになる。エプロンを着けて働いているクロウに睨まれるとそれこそ肝っ玉母ちゃんに目を付けられたかのような気分になってしまうのだ。
「ああそうそう、春先の。……ってちげーだろ! おい三人ともあんまりじゃれあってねぇで準備手伝ってくれよ。飯も遅くなるんだからさ」
「あ、あー、うん。遊星はまだ画面に集中してるみたいだし。……悪ぃ。息、大丈夫か」
「へーき。十代って、思ってたより体温高いんだね。なんかクールっぽいからもっと冷たいと思ってた。子供みたい」
「大人ってなんだか冷えてるのよね。うちのママも冷え症が酷いって。……でも、なんでかしらね、お母さんの腕の中ってあったかそうなイメージがあるわ」
「へぇ……」
 双子の会話を横に聞きながら十代は意外そうな顔をする。記憶喪失というのもあって十代には家族の記憶がないのだが、それでも朧気な家族のイメージ、家族像というものは残されている。元気でかわいい子供達と仲の良い夫婦のイメージだ。仲違いをしている夫婦は、あまり近辺にはいなかったのかもしれない。
 それから更にぼんやりとしたイメージを追い掛けてみる。だが、どこにも父と母のイメージは見付からなかった。龍可が言うように「パパ」や「ママ」と呼び掛けていたはずの人がまったく印象として残されていないのだ。以前の自分は、親のことが嫌いだったのだろうか。
 温かい母の腕というのは一体どんなものなのだろう。遊星が母親にだけは素直なのもそういうことなのだろうか? 知りたいという気持ちと、そんなものはどうだっていいという気持ちがどうしてだかせめぎあって、次第にない交ぜになってごちゃごちゃとした沼の中に消えていく。最後に、ただ、「ああたぶんそういうことじゃないんだ」という思いだけが燻って残される。
 きっと自分の母親に会えることなんてもう永遠にない。
「……俺は、子供の方が、あったかいと思うけどなぁ」
「そりゃあ生物学的には、小さな動物ほど体温が高いから……あら?」
「え、どうした龍可、俺の鼻にゴミとか付いてる?」
「ううんそうじゃないの。ほんの少しだけど、十代がおじいちゃんみたいに見えて。失礼よね、十代は若いのに。かっこいいし……」
「お、俺は、龍可ぁ」
「龍亞はお子様。かっこいい人ってね、遊星とか十代とか、それから外ゆきのジャックとかのことを言うのよ。鏡見て出直してきたら?」
「うわ強烈……くそぉ、俺だってそのうち龍可が目を見張るぐらいかっこよくなるんだから」
 十代が「かっこいい」と龍可に評されたことに反応して龍亞が急に対抗してくる。この様子を見るに、彼は昼頃の「襲撃」から随分と回復してきているようだった。そのことに安堵して表情を緩ませていると振り返った龍亞に「あっ、十代何余裕そうに爽やかな笑顔とかしてるんだよ! ねえ、ちょっと龍可酷いと思わない?!」と真剣な顔で尋ねられる。
「え、えーっと……でもほら、二人とも仲、良いじゃん?」
「それとこれとは別の問題なんだよ。男として譲れないとこっていうか」
「龍亞はこれから成長期だしまだまだだと思うけど……」
 どうも龍亞はむきになってしまったようで、話が並行線になってかなわない。仕方ないのでクロウに言われた通りに仕事を済ませるべくスクリーンパネル等を取るため倉庫へ方角を向けると、双子もやるべきことを思い出したらしくぱたぱたと走り出して十代を追い越し、先に倉庫の扉を開けて中に進んで行った。遊星達がポッポタイムをたまり場に借りた頃――高校在学中だったというから、今から三年程前になる――からここに通っている双子の方が、住み出して二ヶ月やそこらの十代よりも物の配置には詳しいのだ。



◇◆◇◆◇



「まあ、当たり前なんだが『イリアステル』なる組織の情報はそうそう簡単に見付かるものじゃないらしい。セキュリティ、シティ市役所、そのあたりじゃかすりもしなかった。海馬コーポレーションの方はちょっと厳重すぎて潜り込める気がしないのでパスした。……インダストリアルイリュージョン社は、まあもっての他だ」
「市役所に潜る時点で大概だっつの。ネオドミノ市役所はそこらの国の総督府に値する機関なんだからな……それで、バレてないんだろうな」
「多分な。向こうにブルーノ以上のハッカーがいるのなら危ういが」
「……ならひとまずは心配ねえか」
 相変わらず穏やかでない会話のキャッチボールだ。ドッジボールでないだけましなのかもしれないが、しかしそれにしたって健全な市民の交わすものではないと思う。
 会話内容には耳を瞑ることにして十代はタブレットに表示されている資料をパネルタップで捲る。――《イリアステル》。まず大見出しで強調されたその単語が目に入って生唾を呑んだ。
 「イリアステル」とは、稀代の錬金術師パラケルススが提唱した概念であり、その本質は「森羅万象の根源」であると言われている。あらゆる全ての可能性を内包する、原初から終末までの世界を生み出す神秘。――言うならばそれは世界を変える力そのものに相違ない。
 続くレポートには会話を横聞きしていた遊星の簡潔なまとめが記されていた。謎の赤毛の少年が口にした言葉の中で特に意味が深そうなものがいくつか赤字で抜粋され、列挙されている。イリアステル、母さん、偽善者、それから向こう側……
(……《母さん》)
 その一ワードを胸中で呟くと胸がちくりと痛んだ。陥没した、失われてしまった記憶が十代をせめぎたてているようだった。母さん、というその呼称が引っ掛かって抜け落ちていかない。
(母親って、なんなんだ?)
 胸にぐにゅぐにゅした塊がつっかえているようだった。母親というのは誰にだって絶対に存在するはずのものだ。生まれ落ちたからには必ず関係のある存在だ。母がいなければ子は生まれない。十代だって例外なくどこかの母親の胎内から生まれ落ちたはずなのだ。
(でも、ママとか母さんって、一体何回呼んだことがあるんだろう?)
 当然のようにその疑問に答える声はなかった。十代は考えることを止めて遊星の資料をまた捲る。考えれば考えただけ泥沼にはまってしまいそうだ。ポッポタイムの中にその答えをくれる人はいない。自分は空から降ってきた部外者なのだから。
「結局、得体が知れねぇ、まるでさっぱり、ってのが結論なんだな」
「そういうことになる」
「遊星とブルーノ二人がかりでか。これは真っ当な組織ではないか、そもそも実在しないか、その二択だな」
「んー、僕正直ね、龍亞がそういう目に遭ってたって聞いてなかったら悪質なジョークの類いじゃないかって判断してたと思うよ。びっくりするほど手応えがないんだ。それこそ、幽霊でも相手にしているみたいなそんな感じ」
「ゴースト、か。洒落にならないな」
 遊星は冗談を言うふうでもなく淡々と言葉を紡いでいく。姿の見えない敵を相手取ることほど厄介なこともない。遊星は過去、チーム・サティスファクションで情報・ネットワークを駆使してその方面から敵を潰す裏方工作を得意にしていたが、それはやはり相手の正体がわかりやすかったからこそ取れる手段でもあるのだ。過去に潰した組織はごく小さな不良コミュニティからそこそこ大きな違法グループ――サイコ・デュエリストを集めて洗脳し、世界征服なんてものを目論んでいたちゃちな男が指示する新興宗教まがいの集団だった――まで様々なケースがあったが、そのどれもが簡単に尻尾を出してチームの突入を許し壊滅に至った。
 要は、その組織の影でも掴めてしまえばいいのだが今回はどうもそう上手いこといかない。国際規模の、それも国家を丸め込むようなそういう集団である可能性ですら要検討の範囲内だ。
(しかし、だとすれば)
 であるならば問題となるのは、何故そんな強大な組織がたとえ末端だとしてもチーム・ファイブディーズ、ひいては龍亞に接触を図ったのかだった。チーム・ファイブディーズは確かにそこそこ名が売れているがそれだって至極ローカルな範囲でのものだ。龍亞に至っては、ごくありきたりの一少年でしかない。どこにだっている普通の子なのだ。
「私怨の類いだったとしたら相当面倒だな。こちらからでは一切向こうの思惑が見えない」
「ああ。チーム・ファイブディーズを指名してきたという割にこちらには関わった記憶が一切ない。特定には時間がかかりそうだな、正直猫の手も借りたい……と言ったところか」
「それより、私ここが気になるのよ。『母さん』が来るから時間がないって……まさか額面通りに母親が迎えに来たから帰ったっていうわけでもないでしょうし」
「……。あいつは、その母さんって呼んでる人のこと、嫌いそうだった。俺よりも、何よりもその人が憎いって。好きの裏返しの大嫌いみたいにそんな顔で言ってた」
 不意に今まで黙っていた龍亞が口を開いた。少年と唯一顔を合わせて相対していたのは龍亞だ。自然、最も接触が多く敵なる存在に近いことになる。
 龍亞は一人言を鏡に向かって吐くように淡々と言葉を続けた。それは溜まってしまった膿を吐き出してしまおうとする一種の通過儀礼にも似ていて、妨げることが憚られた。
「あいつは多分、俺のことを知ってた。龍可のこともチームの皆のこともきっと知ってる。……世界を操ってきた、って言ってたけどそれってもしかしたら歴史を弄るってことなんじゃないかなあ? 俺は知らないのに向こうが知ってるってことは、パラレル・ワールドから来たのかもしれないじゃん」
 丁度双子が読んだばかりの、ありふれて陳腐なSF小説のように。滅亡寸前の近未来世界で主人公の男はタイム・マシーンと歴史改革パラドクスの証明に成功する。男はそれを駆使して滅びの未来を回避するために過去のターニング・ポイントを一つ一つ訪れて歴史の修正を試みていった。幾つもの困難を経てとうとう歴史の改変は終了する。しかしそれは「新しい未来の可能性」の一つに過ぎず、結局男が元いた世界は滅びを免れることが出来ないのだ。
 結果、複数の「様々な未来」がこの世の中には並列して存在することになる。可能性はねずみ算式に爆発的な増殖を繰り返し、やがて宇宙はパラレル・ワールドで溢れ返ってどうにもならなくなってしまう。
「でも龍亞、それは小説の話よ。そんな……荒唐無稽な」
「だってそうとしか思えないんだよ」
「どうして?」
「……名前。僕の名前なんか忘れちゃったんだろう、ってあいつ寂しそうに俺に言った」
 根拠なんてそれぐらいしかないけど、と龍亞は俯いた。赤毛の少年が言った「四つの絶望」が頭の中で蘇る。愛してくれるものを失った絶望、愛するものを失った絶望、愛さえ要らなくなった絶望……そしてこの身すらままならぬ絶望。
 四つの絶望を抱え込んだ少年はそう宣告した上で確かに「恵まれた子供は嫌いだ」と明言したのだ。少年の話を聞いていると確かに龍亞は恵まれすぎているんじゃないかというぐらいに恵まれていた。愛してくれる人がこんなにたくさんいて、愛する人もたくさんいる。愛が要らないだなんて思ったことも考えたこともない。好きなことを割合自由にやらせて貰える。
 龍亞は自由だ。だが例の少年には不自由しかない。
 龍亞が俯いたまま口をぴったりと閉ざし、黙り込んでしまうとポッポタイムの中にはぴりぴりとした静けさが訪れた。誰も彼も黙りこくっている。空気は重たいことこの上なく、今度ばかりはブルーノも憂い顔でじっと龍亞を見ていた。
 それからしばらく、各々がパネルをタップする音やスライド音、溜め息、そういったものばかりが飛び交い場を支配する。どう足掻いても手詰まりで、施す手段が思い当たらない。この場の誰もが正直なところではお手上げ状態だと思っているのだ。だが、どうにかしないといけないという直感もあってそれが焦りも呼び込んでいる。そのせいで普段は居心地よくのんびりした空気が流れているポッポタイムが酷く殺伐とした空間に成り果ててしまっている。
 十数分にわたるしんと張り詰めた静寂を破ったのは無粋な機械音だった。
「――あ、」
 初期設定そのままのいかにもな機械着信音がピリリ、ピリリと鳴って静まり返ったガレージの静寂を切り裂く。びくんと飛び跳ねてからそれが自分の携帯の着信音であることに気付いて十代はポケットから携帯を引っ張り出し、ディスプレイを見てそのまま舌打ちをした。
「十代さん、電話……」
「悪い、遊星。ちょっと部屋で電話受けてくる。何か話が進んだら後で教えてくれ」
「いえ、どうせ行き詰まってますし……でも、十代さん、電話って一体誰から」
「知り合い!」
 面倒になってそれだけ言うや否や十代はシェア中の部屋へ駆け込んで容赦なくばたんと戸を締め、施錠した。なんとなくこの着信相手の男との会話をチームの皆に聞かれるのが恥ずかしかった。
 あの男は本当に何を仕出かすのかわからないのだ。


「また掛けて来たな。何の用だよ」
 努めてぶっきらぼうに、つっけんどんに言葉を口にしながら乱暴に携帯電話を口に近付ける。不機嫌極まりなくそれを隠そうともしない第一声に何を思ったのか電話の向こうの男は楽しそうに爆笑していた。まったく、なんなのだ。
「悪いけど、こっちは今大変なとこなんだ。情報をくれたことには礼を言うけどお前のどうでもいい話に付き合ってやる暇なんかないぜ」
『うん、ま、お察しの通りこっちの用件は君と話がしたいってことだ』
「断る。どうせろくでもないんだろ」
『ばっさりだね、つれないなぁ。大事な話さ。イリアステルと、その他諸々に関して情報交換をしたい。悪い話じゃないだろ?』
「は?」
『その調子だと君達は今、情報不足で行き詰まってるって感じだよな。何しろあの組織は国家秘密というレベルの存在ですらない。……そこでだ、俺の知っている情報を開示してあげようかっていうそういう提案だ。尤も期待しすぎは勘弁して欲しいけどね』
 十代は息を呑んだ。胡散臭いことこの上ないが、悪い話でないのは確かだ。妙に良いタイミングで連絡を寄越してきたこと、ろくに情報のない「イリアステル」という名前を彼が初めから知っていたこと――それらから考えてヨハンが結構な情報アドバンテージを握っているであろうことは想像に難くない。あの遊星ですら手詰まりだと言っていたのだ。ここで情報を引き出せるのならしておくに越したことはないだろう。
 だが、タダより高いものはない。世の中そうそう上手い話が転がっているということはないのだ。十代は警戒がちに唇を開いた。
「……なんか、あるんだろ、要求が。言っとくけど俺が対価として出せる情報はないぜ」
『そんな無茶なものは要求しないよ。簡単なことを一つ二つ、ね』
 念のため鎌を掛けてみればドンピシャである。こういうことを言ってくる奴ほど大概は信用がならないのだ。口先では無茶じゃないなどと言いながら、無理難題をしれっとした顔で指し示す。神経が図太いったらない。
『十代の作ってくれた晩ご飯が食べたいなぁ。一晩身柄を貸してくれれば最高だね。……いや、勘違いしないでくれよ。妙なことはしないさ。遊星君を敵に回すのは俺としても避けたいところだ』
 この通話がテレビ電話で行われているものだったら多分ディスプレイを叩き割っていたんじゃないかとそう自信を持って言える。画面の向こうであの男がどんな顔をしてこんなことを言っているのか、手に取るように想像出来た。童話の王子様のような整った笑顔で何のてらいも屈託もなく、酷く純真な顔をして笑っているのだ。恋する姫君に恋する少年のようにきらきらした目を嬉しそうに細めて、そして少し恥ずかしそうに頬なんか染めているに違いない。ひょっとしたら、受話器を持っていない方の手でぽりぽりと頬を掻いているかもしれない。
 頭の中に思い浮かんできたその光景だけでもなんだか複雑な気持ちなのに、余計に腹立たしくなってきてしまうのは嬉しそうに照れているヨハンの顔にこちらまで恥ずかしいような胸がきゅうと締め付けられるようなそんな心地になってしまうからなのだった。そもそもどうしてそんな、ばかみたいに、あの呑気な男の顔が思い浮かんでともすると離れなくなってしまいそうなのだ?
「……なんで、そこで遊星の名前が」
『彼は君にちょっとばかり執着してる気があるからね。ま……俺から守らなければという気持ちは理解出来ないでもない。彼の方に誤解があるとはいえ』
「誤解ぃ?」
『いい年した妻帯者の男が中性的な美丈夫に手を出そうとしてるとかなんとか、そういうふうに遊星君の脳内劇場が繰り広げられてるって俺は不動に聞いた』
「…………はぁ?」
 思わず、間の抜けた声を漏らした。
 それはなんというか、斜めに飛びすぎだろう。言葉の意味がすぐには理解出来ずに十代は目を剥いた。数秒遅れて素頓狂な叫び声が口を突いて出てくる。だってそうだろう。そんな、まさか、馬鹿らしい。
 ヨハンが十代に興味を持っているというのはまあそうだろう。自分で言うのも何だが好意もあると思う。しかしそれにしたってその脳内劇場とやらは曲解に過ぎるのではないか。いくらなんでもあんまりだ。
「ないない、ないないない、ないって、たぶん、うん、遊星がそんなアホなこと考えてるなんて」
『だといいよな』
「不安を煽るようなことを言うな! 頼むから!」
 『俺も心底思うぜ、ほんと』。あまり冗談に聞こえない声で答えたヨハンについ興奮してきてしまう。そんなことあるわけない、あってたまるか、とそのままろくに頭を働かせずに続けると『さあどうだろうな。真相は神のみぞ知るって奴だよなぁ』、どこか楽しんでいるふうにも思える返答が返ってきた。
 かちんとくる。
「馬鹿やろ、遊星がそんなこと考えてるわけないだろ! ――飯でもなんでも作ってやるよ、料理は得意だからな。一晩枕になってやるぐらいなら妥協したっていい。それで遊星の潔白も証明出来るだろ、多分!!」
 勢い任せに口走ってしまってからしまったなんてことを言ってしまったのだろうとはっとした。途端、みるみるうちに顔面が蒼白に染まっていく。
 撤回しようとしたが既に遅く、相手方に聞き入れる気などさらさらないであろうことは愉快そうな鼻歌が電話の向こうから流れてきたことで知れた。
『約束、取り付けたからな。それじゃ明日』
「な、おまっ、――はめたな?!」
『まさか、人聞きの悪い。おやすみ十代』
 電話は一方的に切れた。十代の絶叫と扉の向こうの誰かの声が重なって、ポッポタイムの中を走り抜けて行った。
「機械仕掛けのアルカディア」‐Copyright (c)倉田翠.