左手の薬指に、指輪をはめていた。
 隣り合った二人が揃って身に付けている赤みを帯びた銀のリングはさりとて高価なものではなかったが、しかし大事にされていて美しかった。ルームランプの柔らかな光を照り返して慎ましく光っている。
「キスしてもいい?」
「どの口でお伺いを立ててるんだ。初めての間柄でもねーのに」
「うん、ちょっとね。新婚夫婦ってどんなものなんだろうかって」
「ばか。そういうの、恥ずかしいんだっていつも言ってるだろ」
 男が言うとぷいと顔を背けて拗ねて見せる。「かわいい」とくすくす笑われて『誰か』は決まり悪くまなじりを下げて、男の方に向き直った。
 男がつう、と優しい手付きで誰かの腹部を撫でる。
 誰かの腹はふっくらと丸みを帯びて、マタニティのスウェットを押し上げている。腹には、隣に座る男の血を分けた子が宿っていた。出産まであと数週を数えたところで、その誰かは明らかに妊婦であった。
 子供の名前はもう決まっていた。昔出会った優しく、強い青年にゆかりを貰った名前だ。
「男だったら、××。女だったら、××――」
「双子だったら?」
「そりゃ、勿論、両方さ」
 誰かは言った。



◇◆◇◆◇



「……ちょっと待てよ。前も、そんなこと言ってたけど俺にどうしろって言うんだよ」
「特にどうとも。今すぐに返事をくれとかそういうことは言わない。まあ、明日帰るまでに少し考えてみてくれ」
「んなこと言われたって。わかんない。わかんねぇって……そんな、」
 突拍子もない話。しかし思うだけでそう言葉が続くことはない。ヨハンはちっとも冗談を言う顔付きではなかったし、この場での思い付きというふうでもないようだった。十代だけが取り残されているようだった。二人分の調度が揃えられたこの家とヨハン、それらから一人だけ置いてけぼりにされている。
「第一、俺は男で……」
「そうだな。知ってる」
「お前も、男なんだろ……?」
「事実だ。肯定しよう」
「なのに、す、すす、すき、だとか、何の冗談だよぉ……」
「冗談じゃない。厳然たる事実で本心だよ」
 まるで悪びれる素振りもない。頭の中がぐちゃぐちゃになって混線して、わけもわからないままなし崩し的にことを運ばれてしまいそうな危うささえ覚える。「理解出来ない」とエマージェンシーを発令している隣でぼんやりした意識が「まあそれも悪くないかも」と首を傾げている。
 まっすぐに向けられる素直な愛情に弱いのだなとどこか遠くで思った。ヨハンの手がぶしつけに十代に向けて伸ばされる。その迫りくる太い指のリアルさにはっとして、慌てて払い退けようとして失敗し十代はワインレッドのソファに仰向けに倒れ込んだ。眼前にくっきりと、ヨハンの青い髪と端正な顔が浮かんでいた。上から覆い被さってきているのだということに気が付くのに数秒を要した。
 ヨハンは真剣に十代を見つめている。
「キスしてもいい?」
 昔どこかで聞いたのと同じ言葉を同じ声、同じトーン、同じ目で十代に投げ掛けてくる。何も答えられなかった。この問いは事務的に処理される免責事項のチェックボックス付けのようなもので、何と返そうがヨハンが次に取る行動は変わらないのだという確信があった。
 ヨハンの顔が触れてしまいそうなぐらいに近くなって十代を圧迫する。あの宝石のような海のような瞳が近付いてくる。間を置かずに皮膚と皮膚が触れ合ったことを感じても目を瞑ることが憚られた。こんなにふざけたことを言っているくせに濁りのないヨハンのエメラルド色から目を逸らすのが嫌で、いっそ焼き付けておきたいと思った。
「んっ……」
 初めの口づけはほんの一瞬だった。唇はすぐに離れていってしまって余韻の残る隙もない。正面でヨハンが唇を拭おうともせずに舐め取っている。妙に艶かしいその動作にぼうっと倣ってみると、皮膚の味がした。唇の味だ。それ以外の何物でもない。
「……ファーストキスはレモンの味って、あれ、やっぱ嘘だな」
「ま、嘘だろうな。はじめにそう感じた奴は直前にレモンを食べていたかレモネードを飲んでいたかだろうさ」
「すきやきの味がしたら濃かっただろうな」
「濃いなぁ、うん。……マジな話をすると、キスの味なんてものは皮膚の味だって相場が決まってるもんだ。だってそうだろう? 一応、皮膚が含む味覚情報は人によりけりで個人差があるとは思うけどな。そこらへんはよくわからないよ。何しろ俺は君の皮膚の味しか知らないから」
「……知るかよそんなの」
「君もきっと、俺以外の唇の味は、知らないと思うよ」
 どこに根拠があるのかと問いたくなるぐらいに自信満々にそんなことをのたまう。知ってたとしても忘れちまったよ、と返す間もなくまた塞がれた。唇と唇が触れるだけのキスを数十秒も続けられる。唇の皮がふやけてふやふやになってしまったらヨハンのせいだ。時間が止まってしまったみたいに長く感じられて、呼吸を求めて小さく喘ぐ。
 それでも嫌悪感が訪れることはなかった。圧迫感に伴ってやってきたのは胸を塞ぐかのような安堵感で、温かく、いっそ奇妙なまでに性欲なんかの生々しさとは無縁だった。
「――……っ、う、はっ……」
「どんな、味が、した……?」
 聞くまでもないくせに、途切れ途切れの呼吸でそう尋ねてなんかくる。舌で舐めた唇は皮がふやけていて、唾液の味がした。誰の味かなんてわからなかった。考えている余裕がどこにもない。
 覚束無い思考の中でそれでもなんとか話をまとめようとする。ことのあらましを整理しないと、「君が好きだ」の一言で何もかもを持っていかれてしまいそうだ。事実今、こんなにも混乱しているのだから。
 ヨハンは最初に「好きな人の話」だと言った。それから「五年前に離れ離れになってしまって、ずっと探していた」のだとも言った。そして最後に「それが誰かって言うと、君のことだ」、そう、締めた。
 五年前にヨハンが事情があってひとり身になってしまったらしいということは伝え聞いている。ずっとひたむきにその人を待っていたらしいと。そう言えばヨハンの行動には常に何らかの確信めいたものが含まれていた。もし彼が「遊城十代」の失われた過去を知っているのだとしたら。十代が絶対にヨハンを嫌わないという確証があったのだとしたら、あの強引に過ぎるやり方にも彼なりの担保があったのだということになる。
「――お前は、俺を、……遊城十代をどこまで知っている?」
「さてね……随分と昔からだ。君と俺が馬鹿丸出しの学生だった頃から知ってるよ」
「学生」
「そ。デュエル・アカデミア本校、あの海馬瀬人御自らが建設した孤島の最高学府。あの頃遊城十代は本校一番の問題児にして天才決闘者だった。そしてヨハン・アンデルセンは分校のアカデミア・アークティックからの留学生。同い年だ。『精霊が見える』という類稀な能力を共通して持っていた二人はすぐに意気投合して親友になった。そしてそこから沢山の出来事があって――」
 頭上から降ってくる言い含めるような言葉を甘んじて聞く。アカデミア本校、というのは懐かしい響きだった。海馬社長が建学したというあたりもふぅんと聞き流す。そういえばそんな話があったようななかったような。
 同い年の留学生、なるほど設定としてはありだ。精霊が見えるっていうのはかなりレアな特殊能力だしそれを切っ掛けに仲良くなるのは別段ありえない話でもない。
「――結婚した。花嫁姿がとても綺麗だったよ」
 そんな塩梅でうんうんと頷いていた十代だったがしかしこれは受け入れられなかった。
「一足飛びにも限度があるって、お前実は知らないだろ」
「確かに間にいくらか決定的な出来事があったけど、それを言ったら十代は多分何も信じてくれなくなると思う」
「心配するな。結婚の時点で信じるも何もない」
 十代が毎日見ている自分の体には女性特有の膨らみがなく、骨張っていた。無骨な男の体だ。シャワールームで見たヨハンの体は十代以上に男らしかった。あの時ヨハンだって十代が紛れもなく成人男性なのだとこの目でしかと見たはずだ。もし、もしもだ、記憶を失うまえの十代が本当の本当にヨハンと愛を誓い合った仲で、酔狂にもオランダやベルギー、同性間での結婚が認められている国の籍を取ったとするなら話は別だが。そう考えて内心首を振った。現実的に考えて無茶が過ぎるのだ。十代は純日本人だし、それならヨハンが国籍を持つデンマークでパートナーシップ法に則る方がまだ現実味がある。
 そんな知識がすらすらと出てきたことが嫌になって十代は未だ覆い被さる態勢のままでいたヨハンを両腕でぐいと押し上げた。ヨハンが一切抵抗の姿勢を見せなかったために圧迫感は呆気なくどこかへ行ってしまう。今までぴっちりと詰まっていただけに、距離が空くとなんとなく落ち着かない。二人で体を起こしてソファにもたれ、どちらからともなく無言のまま隣合って距離を詰めてようやく安堵が十代に訪れた。
「……結婚、とかさ、」
 指と指を重ね合わせて息を漏らした。
「夢物語だ、そんなのは」
「そうだね。夢だ。紛うことなく」
「……驚いたな。肯定するのか」
「ただしこの世界が、だけど」
 ウインクする。十代はぱちぱちと目をしばたかせて、わざとおどけるような仕草をして見せた男に向き直った。この上なく愛おしいものを見る時の儚い表情だ。重ねていた指を絡め取って今にも消え入りそうに微笑む。
 卑怯だ。ついさっきまで肉食獣のように獰猛な目付きで唇を食んでいたくせに。息をするような自然さで簡単に雰囲気を変えて十代を揺さ振ってくる。十代は何がと問うことも忘れて目を瞑り、かぶりを振った。目を開けなくても、ヨハンがどんなに優しい顔をしているのかということは気配だけで十分に察せられた。
「十代」
 頭を撫でながら「泣きそうなの」と尋ねる。慣れた手付きで髪に触れられてふるふると首を振る。泣きたいわけじゃない。悲しいわけじゃない。初めっからずっとそうなのだった。……わからないのだ、ただ。
 ここにきて、蓄積された情報から見えてきたことは確かにある。だけどそれを丸ごと受け入れられるかというとそれはやっぱり難しい。忘れてしまった過去は所詮思い出の幻影に過ぎない。昔はどうだったのだ、ということは「今これからどうしようか」という判断には何も影響を及ぼさない。
 今、不動遊星率いるチーム・ファイブディーズのメンバーと暮らしているこの世界に存在する遊城十代は一体ヨハンの何になりたいのだろう?
「俺のこと、嫌いかい?」
 俯いたまま十代は握られた手を強く握り返した。手のひらの温かさ、誰かの人肌の温もりを確かに十代は知っていた。この熱量は遊星のものじゃないし、ブルーノのものじゃない。ジャックでもクロウでもアキでもない。双子は、もっと熱っぽい。宥めるような温度はヨハンだけのものだ。抱き締めて貰えたら、きっと体じゅう全部がこの心地良いぬるま湯のような温みに染められてしまうに違いない。
「嫌いなら嫌いって突き放してくれたほうが俺としても今後の態度を決め易い」
「……不確定なんだ」
「うん?」
「お前の言うこと、嘘じゃないかもしれないって思ったりもする。だって俺、変だ。俺は『ヨハン・アンデルセン』に詳しすぎる。その逆も。殆ど初対面でさ、卵は固焼きが好きなんだろうなとか、知ってるはずないじゃんか。キッチンの間取りも。赤いエプロンを備えておくのは偶然で済む範疇かもしれないけど、俺がどのくらい酒に強いとか弱いとか当てずっぽうであんなこと言うかって」
「まあそのへんは実経験に基づいてるから」
「そしたら、俺の探してる誰かがヨハンだっていうのが確かにしっくりくる形かもしれない。……でも駄目だ。そんなん気持ちの整理が追い付かねえよ」
「それは嫌いじゃないってことかな?」
「……かもしれない。ちょっとだけ、お前でもいいかなって思う」
「そっか。それなら安心だ。だってこれから好きになって貰えるように努力すればいいってことだろ? 結婚してもいいってぐらいに好きにさせて、惚れさせればいいんだ」
 簡単なことだよ。また自信たっぷりにそう言ってヨハンは三度目のキスを寄越した。拒む気もしなくて甘んじる。皮膚と唾液の味のキス。そう考えると味気ないどころか噎せてしまいそうだが、今度はやんわりとヨハンの味を感じた。確実に絆されている。「男だから」という拒絶の意思よりも「悪くない」というなあなあなことなかれ主義の方が声高になっていく。
(……だめになっちまいそう)
 そんなふうに流されていく自分を感じる一方で一つの予感を覚える。
 ヨハンは十代を裏切らない。たとえ誰と違えたとしても、世界を敵に回して一人ぼっちになってしまったとしても。この好き者の男は絶対に現れて十代を救ってくれる。
「なあ十代、あのさ、もし君が良ければなんだけど……」
「なんだよ」
「俺の恋人になってくれないか?」
 部屋の隅でルビー・カーバンクルとハネクリボーが何かをショートさせた。



◇◆◇◆◇



 ぐったりとしていた。遊星はアキの体に頭から沈み込んだまま意識を手放したっきりだし、そうじゃない面々もどうしたものかと非常に渋い表情をしている。クロウは盛大に溜め息を吐いて早々に双子を床に就かせた自らの行為を一人賞賛した。あれは子供に見せるものじゃない。
 あのまじりっけなく強靱な精神力を持っていて、疑いようもなく男として十分以上の魅力をも持っているはずの十代をあんなふうにしてしまえるなんてヨハンというのは一体何者なのだろう。遊星にプライバシーをハックされて同情していた数時間前が正直なところ懐かしい。少なくともヨハンは同情されるようなタマじゃないということを今のクロウは理解しているつもりだった。
「……十代は」
「ああ」
「熱でもあるのか」
「今朝はそんな素振りはなかったな残念だ」
「あの男は衆道趣味なのか」
「知りたくもねぇよそんなこと」
「結局十代はどう返事を返したんだ?」
「神のみぞ知る、だ。もしオーケーなんか出しててみろ。遊星は後一週間寝込むぞ」
 遊星が負った精神的ダメージは酷いものだった。食事風景を見ている時に下った彼の精神バロメーターはイリアステルの情報スライドを流している間に多少回復の兆しを見せた(自分達が写った学生時代のアルバムに眉を顰めていたがそれは大した問題じゃない)。だがその直後一気に下降し今はこの有様だ。二度目のキスの時点で遊星は意識を手放し脱落した。
 正直、懸命な判断だと思う。
 何か猫の尻尾のようなものに叩かれてカメラが破損してしまったためヨハンの空恐ろしい問い掛けのところで映像は途切れてしまったが、そこまででも十分に嫌な破壊力があったし何より見えないからこその恐怖がある。明日帰ってきた十代に果たしてチームの皆はいつも通りの顔で接することが出来るのだろうか? 甚だ疑問だ。少なくとも遊星は挙動不審になるはずだ。
「恋する女の子の目だったわ、彼」
 端正な気絶顔を晒している恋人の髪を梳きながらアキがぽつりと言った。
「私が遊星のことを気に掛け出して、恋なのか気のせいにすぎないのかドキドキしながら見ていた時と一緒。まだ決めかねてるの。……多分ね、あの人嘘はついてないわ」
「アキさん、それってもしかしなくても女の勘っていうやつ?」
「そうね、根拠はないわよ。でもジャックなら少しはわかるんじゃない?」
「微妙なところだ」
「じゃ、カーリーに聞いてみるといいわ。女の子と男の子って恋の仕方が違うのね。十代は女の子の方。ポジション的にも反応的にも」
 それからアキは遊星を寝かせなきゃ、と困ったふうに首を傾げた。暗に「女の子の細腕で運べると思ってるの?」と瞳が言っている。時計の針は既に深夜二時を差そうとしていた。確かにもう寝る時間だろう。
「うーん、遊星は確かに重いからなあ。僕とジャックでベッドまで運ぶよ。アキさんは今日はどこで寝るの? 十代のベッドには龍亞と龍可が寝てるし」
「あとは俺とジャックとブルーノの分丁度しかねえぞ。ソファーって感じでもないだろ、アキは」
「それは勿論、ソファで寝るなんて有り得ないわよ。腰が痛くなるじゃないの。私は遊星のところで寝るわ、お気遣いなく」
「……狭そうだな」
「一緒の布団で寝るぐらいのこと、物心付いた時からずっとそうだったわよ。遊星の家でも私の家でも」
 遠回しなクロウの心情に気が付いてアキはそんな台詞を返す。「あなた達は知らないでしょうけど」と付け足した彼女の声の中には誇張も優越も余計な感情は一切なくて、彼女は自然体そのままで女王然としていたし、遊星の隣にいることに自信を持っている様子だった。その泰然とした態度が先程モニタ越しに見たヨハンの姿と被る。彼もまた自分が十代に最後には選ばれ、手を取ってキスを交わし愛し合う未来に何の疑問も抱いていない様子だった。
「お前は驚かないんだな」
「別に。女々しいとは少し思うけど。好きになる気持ちって、個人の意思で決定されるものじゃないわ。恋は自由なのよ、打算も欺瞞もないのならそれを諌める方が野暮ってものじゃない?」
「あー……、まあ、だな」
 クロウはばつが悪そうにもごもごと口籠もった。
「俺は一生女には理屈で勝てない気がするよ。アキにもマーサにも、ゾラにもだ」
 ――だけどまだ十代をどちらに「分別」すればいいのかその踏ん切りが付かずにいる。遊城十代という人間を、一体どう定義すれば正しいのだろう?


「眠れないの」
「うん。さっぱり。ぐるぐるしてるんだ。色んなことが、喉まで迫り上がってきてるのにそこでつっかえて……」
「その上、途切れ途切れに妙なことが聞こえてくるものね。私も気になって仕方ないわ」
 もぞもぞと動く兄を暗がりの中で薄ぼんやりと見ながら龍可は頷いた。これで兄は今晩十二度目の寝返りを打ったことになる。忙しない、邪魔よ、と普段なら愚痴の一つでもぶつけているところだが、今夜ばかりは兄に同情気味だった。
 昨日の襲撃事件に対してだって納得出来ていないことがいっぱいある。赤毛の少年がどうして龍亞だけを狙って傷付けたのか、その理由はさっぱりわかっていない。龍亞よりは龍可の方が珍しい能力を持っているし、どう見積もったって龍可の方が龍亞より色々な意味で障害になり易いのだ。だというのに少年は明確に龍亞を狙い、確実に龍亞に殺意を向けていた。龍亞は馬鹿だが、誰かの恨みを、まして殺意を買うような人間じゃない。
 見当の付きようのない私怨めいたものが赤毛の少年からは感じられた。正体不明の《イリアステル》という組織そのものよりも、今の双子にとってはあの少年の方が恐怖だった。
「俺、あいつのこと知ってるのかな。ほんとは知ってたのかな。友達とかライバルとか、そういうのだったのかな」
「でも、今は知らないわ」
「だけどあいつは『知ってたはずなのになんで』って糾弾するんだ。非難がましい目で見るんだ。『この裏切り者、お前なんか』、そういうふうに俺を見る。怖い。怖いよ龍可、俺が一体何したって言うんだ? パパやママが何したって……」
 怯えた様子で頭を抱え込んで縮こまった後にはっとしたように「そうだ……」と漏らす。龍可は兄がイエローブラウンの瞳を見開くのを正面から見ていた。夜の闇の中に、兄の明るい光彩は一際目立って浮かび上がっていた。
「パパとママだ。ねえ龍可、俺最近変なんだよ。ママに『どうしたの龍亞、ご飯もう出来るわよ』とか優しい声で言われると時々あれっ? って思うんだ。ママがこんなふうな喋り方をしたっけかってほんの一瞬だったとしても考えちゃう。でも当たり前にママは昔っからそういうふうに柔らかく喋る人だったはずで……パパだっていつもどっしり構えてて言葉は厳しいけど心は優しい人で、そうであるはずなのにパパはこんなんじゃないって考えちゃう時がある。俺だけ違う世界から来たみたいに違和感だらけの時があるんだ」
「……パラレル・ワールド?」
「わかんない。だけど確かなのは、ママはざっくばらんな言葉遣いなんかしたためしがないしパパは妙にフレンドリーだったりしないってこと。俺と龍可は、生まれてからずーっとパパとママと一緒だったってこと。でも恐怖が抜けない。もしたくさんの世界にたくさんの俺がいたとして……」
「龍亞……」
「正しい俺はどこにいるの? この世界の俺は正しいの? それがわかんなくて、怖くてたまらないよ、ねえ龍可」



◇◆◇◆◇



 夢をみたと思う。家族の夢だ。双子の息子と娘がそれぞれに頬を膨らませて喧嘩をしているのだ。お互いにお互いを指差して、「だって××が!」と同じ主張をしている。おかしくなって吹き出すと、「ママ、笑いごとじゃないのよ!」「そうだよパパ、こっちは真剣なんだから!」と凄まれてしまった。
「パパとママにはわからないのよ。本当に大事なことなんだから」
「パパとママって実は喧嘩したことないんでしょ。じゃなきゃそんなにきょとんとした顔なんかしてるもんか」
「いやぁ、喧嘩ぐらいなら何度かしたことはあるはずなんだ」
「嘘でしょそれ」
「ほんとだって。ちょっと仲違いして、山を削りそうになったり」
「あとは十二異世界が纏めてビックバンしそうになったこともあったな。あれを喧嘩に含めるか微妙なところだが」
 大真面目に二人で頷き合っていると子供達はみるみる内に熱意を削がれてしまったようで、胡散臭そうな眼差しでこちらを見上げてきていた。無理もない。
「それは嘘でしょ……」
「呆れた。今時そんな話したって、幼稚園児だって信じるかわからないわ」
「なんか、あんなことで喧嘩してたのが馬鹿みたいだ」
「私も。くっだらないわ、疲れちゃった」
「うん、そりゃよかった。ところで今晩のおかずは何がいい?」
 夢はそこで終わる。目を覚ますとそこには子供の姿なんかなくって、彼らがどんな背格好でいたのかも思い出せない。
 現実の眼前にはヨハンの寝顔だけがあった。だらしなく頬を緩めてすやすやと寝息を立てていた。

 あれから、結局二人で寝たのだった。だって寝床が一つしかないのだ。ヨハンは床でもソファーでも眠りたくないと主張するし、この家の家財の持ち主がヨハンである以上十代がそれに異を唱えるわけにもいかない。しかし冬にもうすぐ差し迫ろうかという時分になって布団をろくに被らないで眠ることは推奨された行為であるとは言い難い。
 従って元々「枕にぐらいなってやる」と啖呵を切ってのお泊まりであったことから、十代が先に折れる運びとなった。それを伝えた途端満足そうに顔を綻ばせたヨハンを見て、これは最早後戻りが出来ないのではないかと一抹の不安を覚えたが既に後の祭だ。今更何を言っても仕方がない。
「幸せそーに寝てやがんの……」
 抱き込まれてあまり自由に身動きが取れないので、まだなんとか動かせる左手でつんつんとヨハンの頬をつつく。彼は瞬間眉間に皺を寄せて表情を険しくしたが、すぐに元の安らかな寝顔に戻って呑気に寝息を立て始めた。図太い。
 こうも無防備な顔を晒されると悩んだりしているのが馬鹿みたいに思えてくる。わけもなく楽しくなってきてくすぐってやるとむず痒そうに唸った。
「うーん……じゅーだい……好きだよ……ん……」
「寝言かよ」
「じゅうだい……俺が……絶対、きみを、守る、から……」
「……本当に寝言か?」
 ぼやいた直後にいびきが入る。一応まだ寝ているらしい。むにゃむにゃと不明瞭な言葉を漏らしてヨハンは一層強く十代を抱き寄せた。顔が近い。
 吐息が鼻に掛かって反射的に片方の目を瞑った。その直後、唇に覆い被さってくる厚い皮膚の肉を感じる。昨日三度程経験したものと同じだ。十代は呼吸を整えながら思考した。案の定だ。
「狸寝入りってわけか」
「……うん? どうだろ……。おはよう、十代。俺の恋人」
「おいまだ返事してないぞ。勝手に決めるな」
「俺が恋しく思ってる人、って点では間違っちゃいないさ」
 図々しくも言い放った。呆れるよりも先に吹き出してしまう。面白い奴だ。決して嫌いなタイプではない。
「そう、愛してるんだ。何よりも誰よりも愛しいと思ってる。世界中敵に回したって二度と手を離さないって誓った。あの日、君が俺に返事をくれたその時からずっと」
「――え、」
「愛してる」
 ベッドの中で確かな温もりを腕に抱きながら、ヨハンは繰り返し、繰り返し、愛を囁いた。
「機械仕掛けのアルカディア」‐Copyright (c)倉田翠.