めざしと納豆、味噌汁、炊きたての白米。いつだったか「質素な好みだよね」と評されたことがあるが、十代はそのありふれた朝食のメニューが本当に好きだったし、馴染んだものだった。「めざしはちょっと……」「納豆は臭いが苦手っす」と言う友人達に「なんだよ、もったいねぇなぁ」と本心からそう言ってやったものだ。めざしじゃなくったって、ししゃもも、アジの干物も、なんだって好きだ。十代は食べることが好きだった。誰かと談笑しながら取るご飯はもっと好きだ。
 ただ今日ばかりはその気持ちと一緒に気恥ずかしさがついてまわって、消えなかった。
「平気な顔して納豆食う外人は初めて見た」
「確かに最初はそれなりに抵抗があった。でも好きな人が朝食に並べてくれたもんは食べたいだろ? 一年ぐらいで慣れたよ、苦手意識さえ取っ払えれば美味しいもんだ」
「……その口で、キスしてくんなよキス魔」
「やんないって。これ以上嫌われたらたまったもんじゃない」
 俺はこんなに愛してるのに、と口を尖らせながら箸でつまんだめざしをぷらぷらと揺らす。見方によっては、めざしに愛を囁いているようにも見えてどうにも間抜けだった。
 たぶんこのヨハンという男は、巷の女の子達に言わせれば相当に「かっこいい」部類に入る顔の造りや声をしているのだろう。実際至近距離まで近付いて、息がかかるぐらいに密着されるとどきどきする。拒絶でなく、期待がわきあがってくる。「きもちわるい」と否定することが出来ない。めざしを豪快に放り込んだ目の前の男に視線をやると、飾りっ気もなにもなくてなんだかおかしくって、笑ってしまいそうだ。

『愛してる』

 行儀良く箸を置いてから味噌汁を飲むヨハンの顔に、柔らかな愛を囁き、満たされた表情で十代を抱き寄せた明け方の彼の表情が覆い被さって幻視された。思い出すとまた恥ずかしくなってきて、かぁっと頬が赤くなる。「息が苦しい」と訴えるとあろうことか舌を滑り込ませてこようとしたので精一杯の抵抗として抱きすくめられた中で肘を打ち込んでやった。悶絶という程ではないにせよそれなりに痛がっていたので、その時はそれでまあよしとしたのだったか。急所に膝を叩き込んでやったらしばらく再起不能になるんじゃないか、と良からぬことに考えが至ったが同じ男としてそれはやめておいてやった。感謝してほしい。
(ああ、もう、わっけわかんね……)
 こんなんでも立派な社会人だなんて世の中絶対間違ってる、と内心で悪態をつく。こんな奴どう見積もっても中身は変態なのに。酷いキス魔だし、と掠れた声でぼやいた。昨日から今日にかけて尋常じゃないぐらいにキスされた気がするが、向こうは平然としている。やりなれてるってのか畜生と思うと無性に腹が立ってきた。むかむかする。
 ヨハンはどうにも、キスが好きなようだった。唇を重ねる時何故だかひどく安堵した表情になる。十代の体を柔らかく抱き寄せる仕草、唇が触れ合う時目に映る長い睫毛、鼻にかかる吐息。その端々から言いようのない悦びと安らぎを感じるのだ。愛するひとを腕の中に抱いている喜びというものを彼は包み隠すことなくさらけ出していた。世界一大切なのだと言って十代を扱った。
 多分そこに嘘も偽りもないんだろうってことには薄々気付いている。
「……お前は強引すぎるんだ」
「うん?」
「一方通行だ。ヨハンばっかりああだこうだって俺に押し付けてくる。俺が知ってることよりよっぽど多く俺のことを知ってる。不公平だと思う。俺の気持ちはどうなるんだよ? まるで俺がヨハンを好きになるってそう決まり切ってるみたいに扱うの、やめろよ」
「でも嫌いじゃないんだろ?」
「そういうしたり顔は嫌いだ」
 憮然として言ってやるとふて腐れる子供を見るような表情で微笑ましげに笑われた。こういう余裕ぶったところも好きじゃない、と思った。
 ヨハンのことは、友達になるのだったらすごくいいやつなんだろうなぁ、というのが十代の見解だった。遊星やジャック達と同じように騒いで馬鹿やったりする気の置けない面子としては申し分ない。でも恋人にどうですかと聞かれたら、そりゃはいそうですねと答えるわけにはいかないのだ。まず道徳観念が邪魔をする。それから、危機感が。
 この男に恋をしていると認めたら大事なものを取りこぼしてしまうのではないか? 十代が手に入れた愛おしいものたちが、どこか遠くへ離れていってしまうのではないか――ポッポタイムの仲間達の顔が浮かんでは消えていく。出会ってそんなに月日が経ったわけではないが、そんなことは関係ない。皆大事な仲間で友達だった。彼らに家族だと言われて嬉しかった。
 家族という言葉の響きが好きだ。母親の記憶がいま一つ希薄であったことを思い出す。きっと記憶を失う前の十代にとっても、「家族」はふわふわして温かで、欲しくて失いたくなくてたまらなかったものに違いない。だってこんなに胸が苦しい。こんなに辛い。
 こんなに、痛い。
「十代。俺じゃ、君の家族には足らない?」
「……そんなのわかんねえ」
「遊星君は家族でも俺は駄目なんだ?」
「……遊星は弟みたいなもんだもん。十代さん、十代さん、って。あれが弟じゃなかったらペットの犬だ。お前は、兄弟とかじゃないんだ。弟なんてもっての他、かといって兄だったらむかつくし、父親ともまったく思えないし、」
「なるほど。そりゃそうだ」
 親友から夫だったからね。味噌汁を飲み終わって口周りを手拭きで拭い取って、そのままの温度で平然と言った。十代はまだ飲みかけだった味噌汁を噴きそうになる。そうだった、ヨハンの頭の中では十代は生き別れた妻なのだ。それに関しては絶対他人の空似だとそう思っている、いや思いたいのだけども。
 十代が噴きそうになるのを見越していたかのようなタイミングで差し出された手拭きを受け取って、下方から睨め付けるように恨めしげな視線を送ってみたが堪える様子がまるでない。平然としている。出会った時からずっとそうだ。何があってもこの男は平然と構えていた。全部知ってると言わんばかりに。
 それが腹立たしくて、酷く悔しかった。
「一個、今わかったことがある」
「うん。なんだい?」
「やなんだ。女の子扱いされるの。俺は俺で、そりゃ立派で逞しくはないかもしれないけど、一人の男でいるつもり、っていうかそういうふうに遊星達も見てくれてる。なのにお前だけそうじゃなくて、それが気に入らない。友達の好きじゃなくて恋の好きだって。そう言われて、なんだか弱く思われてるみたいだ。そんなに俺が女々しいかよ。だから、別にお前のことが嫌いなわけじゃないと思うんだけど……」
「うん」
「嫌だ。すごく嫌だ。友達じゃ駄目なのか? 女の子みたいにふわふわ扱われなきゃ駄目なのかよ。だって最初の日に言われた『いい友達になれそう』ってのは俺もそう思ったし嬉しかったんだ」
 ヨハンはやはり余裕のある表情で十代を見ていた。「なあ」、と言うと「ごめん」などとのたまう。「なんも、わかってねえ」という泣き言めいた声には「うん。ごめん。君を困らせたいわけじゃなかったんだ」と答えて申し訳無さそうに十代の手に触れた。綺麗な指だった。薬指の結婚指輪がちかちかして目に映る。
「あのさ、十代。女の子扱いしてるつもりはなかったんだ。ごめん。でもそうだよな……奥さんが、なんて言われたらそう思ったって仕方ないよな」
「……なにが言いたいんだよ」
「愛するって言葉の意味はそんなに狭義じゃないと俺は考えてる。不動は奥方を愛しているが、それと同じぐらいに遊星君を愛しているだろう。大切に思うってことに男だとか女だとか、……そういう区別は瑣末なことだ。俺は博愛主義者ではないけれど愛する人を条件付けしたいとは思わない。初めから視野を狭めようとは思わない。電撃的に恋に落ちることも否定しないし、変わらない愛もまた一つの真理だと思ってる」
「……詭弁だ」
「自分に正直なんだよ」
 儚く笑った。まっすぐで、左手の薬指に嵌っている指輪と同じぐらいに眩しかった。
「正直君の恋人になりたいと思ってる。でも強制はしないし、無理矢理とか無理強いとかそういうのもやらない」
「あれだけキスしておいて何を白々しく」
「キスは親愛の表現さ。フレンドにもするもんで……ああ、まあ、うん、唇はその……やましい気持ちはない。それだけは信じてくれ」
 十代の視線が険しくなるのを受けてヨハンはたどたどしく弁解した。こういうふうにこの男がたじろぐのを見ると、一応相手を慮る気持ちとかあったんだなぁと他人事のように思う。
 ヨハンはよくわからない奴だ。改めてそんなことを思う。自信満々で強気な態度でいるくせ、意外と細やかに局面を見ている。神経が図太いのは確かだが、時折すごく儚くて繊細そうな一面を見せる。けれど矛盾しているのかというとそれもどうなんだろうと思う。根底のところでこの男は一貫していた。揺るがない信念を持っていた。
 ――誰か一人を愛してるってことだ。
 ヨハンはその「誰か」が十代なんだっていう。十代にはそれがわからない。それだけじゃない。何もかもが行先不透明で暗欝としている。深い深い海の底に突き落とされてしまったみたいに手が届かない。視界が狭まって光が遠くなる。
 記憶を失う前の自分にも、多分好きな人がいたのだと思う。青色の人だ。その人は遊星みたいに現実的なことばかり言っているわけではなかったし、ブルーノのようになんだかふわふわして可愛いわけでもなかった。遊星のように深い藍色ではなくブルーノの気持ちの良い空の色でもない。海の色だ。美しい海の色だった。
 ヨハンの瞳が、いつか見たエメラルドの海のようであったことを思う。そういえば髪の毛も多少双子みたいに緑がかってはいるけれど青と言えなくもない色だ。ヨハンは間違いなく「青の人」だった。ただそれを、十代が認められなくて戸惑っている。
 話が怖いぐらいに符合してしまう現実を怖がっている。
 ふと伺うとヨハンは穏やかな顔で十代を見つめていた。燃え上がるように情熱的な恋の視線ではなく、それは連れ添った片割れを愛おしむ眼差しだった。
「……食事、終わったんなら下げたらどうだ」
「ん? まあ、それもそうだな。ごちそうさま。それじゃ片付けは俺がやっておくからシャワーでも浴びてくるといい。遊星君もその方が喜ぶだろ」
「は? 遊星?」
「そ。清潔であるにこしたことはない」
 突然遊星の名前を出されて一気に思考が返ってくる。そういえばこの後ポッポタイムに帰るのだ。遊星はきっちりした性格だし、あまりだらしないことをするわけにもいかない。
「遊星君はねえ、多分俺のことをすごく敵視してる。だからちょっとでも隙を残しておくと面倒なことになると思うんだ。十代から俺の匂いがするとか、変な難癖付けてくるかも……」
「やめろよ、そんな浮気を疑ってる昼ドラの奥さんみたいな。第一遊星にはちゃんと彼女がいるじゃんか。俺は遊星の友達、仲間、家族、それだけだぜ」
「その最後の家族ってのが厄介だよな。十代、世の中には兄弟姉妹への執着に狂ってしまう面倒な人達がいてだな」
「あーもう、知らん、そんなことは」
 十代は食器を流しに下げるのもそこそこに慌ててシャワールームへと歩を向けた。背筋を悪寒が撫でていく。何故かヨハンの話を否定することが出来なくてあまり良い気分ではなかった。


 そう多くない荷物を纏めて玄関口に立つとヨハンが見送りをしにやってくる。彼はやや嵩張った紙袋を十代に差し出すと「どうぞ、お土産」と胡散臭い笑顔で言った。
「お中元の余りで悪いんだけど、一人で食べ切れる量じゃなくってさ。フルーツゼリーの詰め合わせだよ。龍亞と龍可は好きだろこういうの」
「いや知らないけど。一応貰っとく」
「道は大丈夫?」
「大丈夫じゃねーの、いざとなればナビもあるし」
「それもそうか。なんたって俺が樹海に迷い込まないで済むぐらいだからな」
「ルビーとナビさまさまだろ。良かったな」
 受け取った紙袋は見た目よりもずっしりと重かった。そういえばこいつは会社のお偉いさんなんだったか。こういうしっかりしたものをそれなりに貰ってそれなりに返して、そして余らせている姿は用意に想像出来た。四人家族でなんとか捌けるぐらいの量で、とても一人身の手に負える量じゃない。保存がきかない分の幾らかはどこかで分配しているに違いなかった。
 そんなとりとめのないことを考えているとヨハンが引き留めるような視線を寄越して、「さて」と勿体ぶった言葉を出す。なんだ、と視線で応じると「昨日の話の続き」と言って表情を堅くした。
「君を遊星君のところに返す前に言っておかなきゃならないことが一つあるんだ。本当は昨日話すべきことだったんだけどね、この話の後じゃ俺の告白なんて耳に入ってこないだろうと思って省かせて貰った」
「そんな理由で省くなよ」
「勿論遊星君達に内容を伝えてくれて構わない。いや寧ろ伝えるべきだろう。これから先襲撃がある確立は決して低くない」
 十代の嫌味は通じなかったらしく、ヨハンはまったく動じることなく流して話を続けてくる。ここまで露骨だといっそ清々しくて十代はもう何も言わないことに決めた。ヨハンの堅い表情が、決して悪ふざけのためではないと悟ったからでもあった。
 「襲撃」という言葉はリアリティを持って十代の中に響いていた。
「昨日、イリアステルは未来人だって言っただろ」
「……ああ。正直まだ半信半疑だけど」
「十代。未来人が過去に干渉する理由ってなんだと思う?」
 おかしなことを尋ねてくる。十代は首を傾げて、少し唸った。未来人が過去に干渉する。そんなものにそうそう幾つもの理由は存在しないだろう。幾多のSFで描かれてきたそのシチュエーションにおける動機は大体この一つに集約されていたはずだ。
「そりゃ、過去を変えるためだろ。他になんかあるのか」
 だからそう答えた。するとヨハンは短く頷いて、更に問いを投げ掛ける。
「そう。過去を変化――変貌させんと彼らは活動をしている。考えてみてくれ。『もし、この世界が、既に彼らによって手を加えられている不自然な世界』だとしたら十代はどうする?」
 思わず、息を呑んだ。
「…………まさか、それって……」
 恐ろしいことに、ヨハンの目はちっとも笑ってなんかいなかった。その瞳を見れば十代だってわかる。一体彼が何を言っているのか。何を十代に言わせようとしているのか。
 何が、チーム・ファイブディーズ、いやそれだけじゃない、この世界に提示されようとしているのか――
 ぞわり、と鳥肌が立って、反射的にヨハンの手を握った。ぬくもりに触れていなければそのまま直立の態勢で凍ってしまいそうなぐらいに心臓が冷えびえとしていた。
「そんな……それじゃお前は、俺達が今いるこの世界こそが『間違った』世界だって言うのか。チーム・ファイブディーズも、遊星も――俺さえも、何もかもが『そうあるべきでない』ものだと」
「今の君にその質問の答えを渡すことは出来ない」
「お前は知ってるんだな。何で知ってるのかは聞かない。だけど腑に落ちない。どうしてそんなことを俺に言うんだ。俺を混乱させるんだ」
「きたるべき時のために。何故なら俺は、過去から未来まで永却に君だけの味方だから」
 言葉の意味ははっきりしなかった。はっきりさせたくなかったのかもしれない。「君が大事だから、」ヨハンはそう繰り返した。「大事だから、一番辛い現実を、事実を、伝えておかなきゃならない」。
 ヨハンはさらりとそう言ってのけて、それから少女にそうするように手を取って唇を近付けた。目を瞑って受けると、やはり、皮膚の味がした。ヨハンの味だと思った。
 十代を愛してくれるひとのくちびるの味がした。それは酷く優しい味だった。



◇◆◇◆◇



 ただいま、とポッポタイムの玄関戸を開けると幾つもの視線が一斉にこちらに向いて十代に突き刺さる。びっくりして思わず変な声を漏らした。よくよく見るとクロウの顔に隈が出来ている。一体何があったというのか。
 十代が玄関口で硬直してしまったことを受けてブルーノがぱたぱたと駆けて来て、十代の目の前で足をつまづけて転んだ。ブルーノには悪いが何か救われた気持ちになった。
「だ、大丈夫かよ」
「うん……ちょっと痛いけど平気……。そ、それより十代。大丈夫だった? 何か変なことなかった? 嫌なことなかった?」
「え、ああ、昨日今日にかけて? いやそんなには。なんだよブルーノ、お前まで遊星みたいなこと言うのか」
「実はその遊星の伝言……いやジョークで言うなら遺言的なもので頼まれてたんだ。『十代さんにまず聞いてくれ』って」
「は?」
 疑問符が浮かんで、頭の中を埋め尽くした。遊星の伝言? 遺言じみた? ジョークだと付けたからには本当に遊星が死んでいるってわけではないのだろうが、あの遊星がちょっと頼りないブルーノにそれを頼むという状況が上手く想像出来なかった。まさか、何らかの事情で動けないのか。
「遊星に何かあったのか」
 少しきつい口調で問うと、ブルーノは目を泳がせて言い淀む仕草をした。
「言葉に出来ない程酷い状態、ってことなのか?」
「ううん、そういうわけじゃないよ。ただ気絶してるだけで……アキさん、ずっと付いてるし。でも、気絶の理由がちょっと……」
「ちょっと?」
「遊星の沽券に関わるかもしれなくて、僕の口から言うのがはばかられるなーって……」
「なんだそりゃ……」
 意味が良くわからず、かぶりを振った。沽券に関わるような気絶の理由って一体何なのだ。何かものすごく間の抜けた行動でしこたま頭を打つはめになったとか、気絶するほどまずい何かを口に入れてしまったとか、そういうことなのだろうか? あの遊星が、と考えるとそれらの想像はおしなべてシュールなものだった。けつまづいて悶絶する遊星とか。
「遊星のことは、まあ詮索しねーことにするよ。そんで、クロウとジャックはなんであんな顔してんだ。苦くて酢っぱいもん食ったみたいな顔して」
「え、えっと……苦くて酢っぱいものを食べちゃったんだよ。苦々しい瓜とか」
「ほんとかぁ? なーんか怪しいぜ、今日の皆」
 ブルーノとの遣り取りはそこそこ大きな声でやっているのにクロウからもジャックからも茶々一つないのだ。クロウが黙りを決め込んでこちらをじっと伺っている様というのもまたおかしな光景だった。調子が狂ってしまう。
 どうしたものかと考えあぐねてしまって、十代は目を細めてよくよくもう一度二人の様子を伺ってみた。なんだかやつれたような顔のクロウはしきりに言葉を口から出そうとしてはまた喉の奥に流し込んでいるようで、怪しい。ジャックは例のブルーアイズマウンテンコーヒーを飲みながら必死に表情を消している様子だった。無心になろうと努めているのだということが伝わってくる。
「……あのさ、ブルーノ」
「なに? 十代」
「もしかして俺なんかやらかしたのか」
「いや、ううん、どうだろ。十代が悪いってことは全然ないんだけどね……」
「もしかして遊星がまた、ヨハンのこと、過敏に警戒してるとかそういうの」
「あ、……うん。実は」
 ブルーノが肯定する。ジャックがコーヒーを噎せて噴いた。
「それでなんだか疑心暗鬼、っていうのもなんか違うかな。十代に何をどういうふうに尋ねて良いものか皆考えあぐねている感じ。遊星は、考え過ぎてショートしちゃった。心配で心配でたまらないって」
「……何、あっさりバラしてるんだよ……」
「う、うわごめん。僕またまずいことやっちゃったんだね」
「はー……ったく。あーもういいよ。吹っ切れた。まどろっこしいのは止めだ止め、鉄砲玉のクロウ様にそういうちょこざいな真似は似合わねーんだよ! ――おい、十代」
「なんだよ?」
 うろたえるブルーノを横目にクロウが妙に重々しく腰を上げて、玄関の方へ寄って来る。ジャックはテーブルにこぼしてしまったコーヒーを眺めながら落ち着かない様子で布巾を探しつつちらちらとこちらの様子を伺っていた。
 クロウの口がそれでもまだ遠慮がちにやんわりと開かれる。
「あー、その、なんだ。ヨハン・アンデルセンは……あれだ、そっち系だったりすんのか、あの、割とマジで」
「いや知らないけど」
「お前は」
「そういうのよくわかんねえ。家族とか友達の好きはわかるけど、誰か一人に向ける好きは全然。そりゃ女の子がかわいいなーって思うことはあるけどさ、それで終わるし」
「……案外普通にそういうとこ見てたんだなお前」
 クロウは意外そうな顔をして、それからほとほと困り果てたふうに手のひらをひらひらさせた。対処しあぐねているジャックに振り向かないまま「台拭きは台所の籠の横だ、さっさと拭け」と指示を送ってまた十代の方へ意識を返す。「遊星が」クロウが言った。
「お前に変に執着してる」
「ヨハンもそんなこと言ってた」
「俺から見ても、明らかだ。アキに対するそれよりももっと切迫して余裕がねえ。泣き喚く子供が財力だけは持っていて振り回してるみたいになりふり構わないでいる。正直、今のあいつは変だ。だが俺達から見ても――俺と、ジャック、それからアキも――『ヨハン・アンデルセン』の態度はもっと変だと、そう感じてる」
「それで、そういうのじゃないかって?」
「まあ要するとそういうことになる」
「そりゃ、多分違うな」
 ヨハンの態度を思い浮かべて十代は短く答えた。ヨハン・アンデルセンは奥方を愛している。不動博士のようにだ。それだけは確かなことだと十代も感じていた。ヨハンはその人を忘れたりなんか絶対にしない。
「あいつの薬指には指輪が填ってた。大事そうに手入れされた結婚指輪だ。家は、両親とその子供達が暮らしているような場所だった。普通の人間だったよ、ちょっと常識が抜けてるけど」
「……ま、お前がそう思ってるんなら俺はもうなんも言わねーけど……遊星は、俺には抑えられないぜ。俺っていうか誰にも。唯一なんとか出来るとしたらお前ぐらいだ。あいつは昔っからそうだったけどよ、思い込むと真直でいっそ愚直なぐらいに一本気で、融通ってもんがきかねえんだ」
「それは、なんとなくわかるぜ。不動博士も同じようなことを言ってた。……それで遊星が起きる見込みはまだないんだな。そしたら、話は後にするか」
 いい加減玄関先に立っているのも辛くなってきたので荷物を持ったのと逆の方でガレージ中央を指して歩き出す。泊まり込みの為に持っていった着替え一式が詰まったデイパック、それから押し付けられた余りものの中元を揺らしてジャックがコーヒーの後始末をしているダイニングに向かった。デイパックを椅子に降ろすとようやくの解放感が訪れる。妙に肩が凝っているような気がした。気疲れが原因の一つになっているのだろうと思われた。
 ここのところ、疲れることばっかり連続で襲ってくるなあとぼんやり思う。龍亞が襲われた日から、いや、ヨハンと出会った日からそうだ。遊星はなんだかおかしなことになるし、ヨハンは好きだなんて言う。チーム・ファイブディーズはよくわからない奴らに狙われる。一時に考えようとすると頭がパンクしてしまいそうで、十代は小さく息を吐いた。少なくとも、ヨハンのことは後回しにしたい。
「十代、話って」
「おいクロウ、俺が何のためにヨハンのとこ行ったと思ってんだよ。イリアステルの話を聞きに行くためだぜ。あいつに飯を作りに行ったわけじゃないんだ」
「あー、そういや……」
「しっかりしてくれよ。遊星はヨハンが絡むとからっきしだし、お前がしっかりしてくれなかったらどうなるんだよ」
「わり。んじゃ、一旦この話は止めだ。どうせ人員が足りてねーし、その紙袋何が入ってんだ?」
 ゼリーを指して尋ねられたその問いに十代が答えることは出来なかった。突如、がらりと大きな音を立てて扉が開く。遊星の部屋の戸だ。戸口には寝起きと思しき遊星が慌てたような顔で立っていて、十代を見ていた。
 寝癖が酷い。服は、いつもの作業用のシャツ一枚。変なしわがついている。目が覚めて本当に間がないようで少し顔が赤い。まるでいつもの、あの冷静な遊星らしくなかった。加減を知らない子供が慌てて飛び出して来たのだ、と言われたら素直に頷いてしまいそうだった。
「――十代さん!」
「って、え、遊星?! お前、気絶してたんじゃ、」
「あなたの声が、聞こえましたから。アキが看ていてくれたから体調に問題はありません。それより俺は心配なんです。あなたが、」
「遊星」
「あなたが……」
 切羽詰まって捲したて上げるような声が急激に尻窄みになっていく。遊星は振り絞るように「じゅうだいさん、」と名前を呼んだ。母親や姉を誰か知らない男に取られていく子供のような声だった。
「どこかに、行かれるんですか。あなたは。どこか遠くに。誰も手の届かないような場所に」
「……お前は、変な方向に考え過ぎだ」
「俺はきっと、それを怖れている。十代さんが俺の世界から消えてしまうことを。俺の憧れがいなくなってしまうことを」
「考え過ぎだって、遊星」
「いつかあなたが敵に回る日が来るかもしれないということが怖ろしくて恐ろしくて、……畏ろしくて」
 なんで、俺、こんなこと。遊星の声が震えて小さくなる。縋り付くような、情けない瞳で彼は十代を見つめていた。泣き言のようにぽろぽろと息を漏らす。遊城十代の眼前に今立っている「不動遊星」という人間は、ちっぽけでわがままな少年だった。剥き出しの子供じみた感情を抑えることが出来ないでいる。
 遊星は別に「変」なわけじゃない。ただ、自分を上手くコントロール出来ていないのだ。
「なあ、遊星。お前は怖がりすぎるんだ。俺はお前が好きだよ。お前だけじゃない。チーム皆のことを家族みたいだって思ってて、大好きだって思ってる」
「……そういうことじゃ、ないんです」
「それじゃどういうことだって言うんだよ」
「きらいなんです。アンデルセン博士が」
 遊星はひとつひとつ言葉を確かめて選ぶように言った。余計な言葉を口にしてしまわないように慎重になっている。その動作一つとっても「嫌われたくない」という意志が露骨に表れた過度の防衛反応だ。
「きらいです、アンデルセン博士がきらいです。憎いとかじゃない。きらいなんです。苦手と言った方が近いかもしれない。あの人はきっと何でも知ってるって顔で俺の世界からあなたを連れ去ってしまう。見透かして、把握して、その上であなたを奪っていく。それが悔しい。だからあなたがもし、いつか――……」
 また、尻窄みだ。「忘れてください」遊星はか細い声で言った。「こんなの、気持ち悪いだけだ」。やはり泣きそうな声だとそう十代には感じられた。許しを請うていた。紛れもなく。
 「わすれてください」という言葉は「きらいにならないでください」という言葉とイコールだ。
「身勝手だ。自分がこんなに馬鹿な生き物だとは知らなかった」
「そうかしら。あなたは、多分そんなに昔から変わってないわ。困ったことがなかっただけよ」
「アキ」
「クロウ、ブルーノ、ジャック。ちょっと十代を借りてくから遊星をもう一度寝かせておいて。ショッキングなのはまあわからないでもないから」
 遊星の独白を遮ったのは、今まで彼の後で沈黙を保っていたアキだった。アキが遊星に目配せをすると、遊星は緩慢にだが頷く仕草をする。遊星はアキに弱い。それは彼女が遊星の弱点であるという意味でもあり、彼女の言葉、頼みといったものを決してないがしろに出来ないという意味でもあった。アキが大事なのだという。
「それじゃ、よろしく」
「おい、どこに行くつもりだ?」
 わかった、と頷く遊星の隣でクロウがよくわからないといった表情をする。アキは愚鈍さを詰るような顔で盛大に溜め息を吐いた。まったくもって彼女には容赦というものがない。
「野暮ったい男衆のいないところによ。こういう話は女の方が向いてるの。文句があるわけ?」
「……え、いや、ねーよハハハ……」
 ブラック・ローズ・ドラゴンに串刺しにされたいの? とでも言わんばかりの冷たい視線にクロウが曖昧な乾いた笑いをする。十代の腕をぐいと掴んでアキが「行くわよ」ときっぱり言い切った。そこで初めて十代は自分がその件の当事者にされていることに気が付いたが既に後の祭だ。選択の余地がどこにも見えなかった。
「話があるの。多分、私にしか出来ないから。あなたがどう思っているかの話よ。恋をしているのか、そうじゃないのか」
 知りたいの。アキの言葉がエコーになって頭の中で反響する。酷く馴染みのない言葉だった。縁なんかないと思っていた言葉だ。「恋」。恋情。心のどこかで怖れている言葉だとも思う。遊星がヨハンを怖れるように、十代が怖れているものだとその時ふと理解した。だけどもうどうしようもない。逃れる術も、道も、塞がれ尽くしてしまっている。
「機械仕掛けのアルカディア」‐Copyright (c)倉田翠.