夕暮れ時になるよりも早く、ポッポタイム内を支配していた沈黙が破られた。閉められていたガレージの扉が開いて人が入ってくる。だが行きよりも随分と頭数が少ない。子供二人を引率して出て行ったはずの十代とヨハンの姿がそこには見当たらなかった。
 陰鬱な表情に疑念を映して遊星が訝しみの眼差しを投げ掛ける。彼はどうも、宿敵と十代が二人で視界から消えてしまったことに複雑な念を抱いているらしい。
「……龍亞、龍可。アンデルセン博士はともかくとして十代さんはどこにいるんだ。一緒に出たはずだろう」
「……」
 遊星の問い掛けにいつものようなきびきびとした返答を寄越さず、双子は俯いてガレージの入口に立っていた。自分の機嫌が良くないからだろうかと遊星は勘繰ったが、追ってどうやらそれが原因ではないようだと思い至る。龍可の顔が彼女らしくない憂いを帯びていたからだ。遊星は未だかつて彼女のこのような顔を知らなかった。それはこの場の誰とて同じはずだ。
「……二人なら、沈んだわ。海に。土実野埠頭のそばにある海浜公園の高台から」
「どういうことだ? あの二人と別々に別れて帰って来たとかじゃないのか。龍亞や龍可が意味もなく嘘をつかないことは俺も知っているが、しかしだからといってそれは、流石に冗談だろう」
「違うよ! 冗談なんかじゃなくて本当にあいつに襲われたんだ。それで俺達を庇って海に突き落とされて、すぐに姿が見えなくなった。でも、絶対生きてる。あの二人がそんなことで死んだりするもんか」
 龍亞がいつになく強情に捲したてる。遊星はかぶりを振り、クロウやジャックらと目配せをして首を横に傾げた。意味がわからないのだ。
「二人がそんな簡単に死ぬわけないよ」
「なあ、一体何が二人にあったんだ? 俺はもうここ数時間ついていけないことばかりで、頭が上手く回らねえんだが」
「簡単なことよ、クロウ。パパとママはルチアーノに襲われたの。パパが話してたこと、イリアステルについての話は遊星達も聞いてたでしょ? イリアステルの機械人形、龍亞をしつこく狙ってたあの男の子よ」
「パパって、もしかしてアンデルセン博士のこと、龍可」
 アキが慎重に尋ねる。それはそうだろう、突然龍可が何の繋がりもないはずの人を父と呼び出したのだから困惑しているのだ。何かよからぬことでもあったのでは、と邪推してしまうのも無理はない。
「そう。あのね、今の遊星達は多分鼻で笑うでしょうけれど……私と龍亞はパラレル・ワールドでのことを全部思い出してしまったの。チーム・ファイブディーズの皆と一緒に戦っていたこと。WRGP優勝を目指す傍らでイリアステルと何度も何度もぶつかって、負けたり、勝ったりして、一番最後に遊星はこのネオドミノシティを救ったの。なんだかこの境遇で話すと嘘か夢みたいだけど。でも本当よ。本当に、ここと並行した世界があって」
 そこで龍可は一度言葉を途切れさせてしまう。それから俯いてしまって、「ほんとうなの」、か細い声で嗚咽を詰まらせた。見かねた龍亞が妹の手を握り締めて彼女の言葉を代弁する。
「――その世界で、遊城十代とヨハン・アンデルセンは俺達のパパとママだったんだ」
 そうして泣き出してしまった龍可の代わりにぽつりぽつりと事のあらましを語り出した。


「まあ変な感じがするのは確かにそうなんだけど。今家に帰ってただいまを言ってくれるパパとママだって確かに俺を生んで育ててくれた血の繋がった両親だから。でも、それと同じぐらい二人が俺を愛してくれたことも確かだってそう思うんだ。俺も龍可も、いろいろあったけど家族のこと、大好きだったよ」
「それじゃ、龍亞はアンデルセン博士が十代に関して言ってた結婚云々は、冗談でもなんでもなく本気のことだったって思うの?」
「冗談も何も、元々結婚してるんだし。俺の知ってるパパとママより少し老けてたから二人とも結婚して随分長いこと経ってるんじゃないかなあ」
「老けてるぅ? あれでか?」
 クロウが素頓狂な声を出した。どう見積もっても二十代後半が関の山に見える(それでも大分さばを読んで嵩まししている)ヨハンに対して「老けている」という形容は最早無礼を通り越して笑えないジョークそのものだ。
 でも龍亞はちょっと笑いながら右手をひらひら振って、
「だってパパもママも殆ど不老不死みたいなもんだし」
 なんでもないふうにそう言った。
「は?」
「パパもママも昔ちょっとややこしい事情があって精霊と魂を半分に分けあったんだって。それで年を取るスピードがおかしくなっちゃったらしいよ。うんと、確か普通の人間の二十分の一とか、そのぐらいだった気がする。あれでも俺が記憶してる時よりは年、とってるよ」
「龍亞が覚えてるのってどの辺りまで?」
「正確に覚えてるのは、俺が二十一の時まで。あとはとびとびかな……でも最後の最後は、覚えてるよ。二十一の頃って、大学通ったりライディングデュエルの試合してたりした頃で……だから多分、その時の二人は百五十歳いくかいかないかぐらいじゃないかな。正確な年は教えて貰ったことないから俺も知らない」
「百五十……」
 さしものジャックも絶句して顔をひきつらせている。当たり前だ。普通ならもうとっくに死んでいるはずの年齢であの外見だ。驚かない方がどうかというものだ。
「その二人がどうしてこの世界に来たのか、ママがパパとはぐれちゃってた理由が何なのか、それは俺にはわかんないけど。二人が子供の俺達でも呆れるぐらいにべたべたのカップルだったってことは覚えてる。仲の良い夫婦の見本みたいな二人だった。喧嘩の真似事はよくしてたけど、俺はあの二人が本気で喧嘩してるとこなんて見たことなかった。いつも家族を大事にしてて……パパ、こっちでずっとママのこと待ってたんだっけ。そういうとこ変わんないなぁ」
 うんうんと頷く。どうも龍亞の中では、その記憶とやらが優先的に上書きされているらしく、彼はヨハンと十代が並んでいることの一番の違和感というものをすっかり失念しているようだった。あの二人が例えばカップルになるだとか、そういうことにチームの皆が難色を示さざるを得なかった理由はまだ残されているのだ。しかしそれは龍亞の供述と矛盾している。
 ブルーノがおずおずと手を挙げた。まさか並行世界の双子が拾い子だとかそういうことはない、と思いたいが十代の性別を考えるとそうとも言い切れないのは事実だ。
「あのさ、龍亞はしきりにママって呼んでるけど……十代って確か男じゃなかったっけ……?」
「ナイスブルーノ。俺もそいつが気になって仕方なかったところだ」
「え、なんで? それって何かおかしいかなあ」
 しかし龍亞は何もおかしなことなどないとすっぱり言い切った。その時ブルーノが抱いた思いは、イルカを魚類と間違えている人に、さも当たり前のように哺乳類であることを否定される気分に似ていた。
「ママはママだよ。向こうの世界で、俺と龍可を生んでくれたのも育ててくれたのも遊城十代で間違いない。なんか、色々あったんだって。俺も龍可もちゃんとママのお腹から生まれて母乳も飲んで育ったんだ。確かにママってめちゃくちゃ、男らしいけど……詳しくは本人に直接聞いてよ」
「そんなこと言ったって二人とも失踪しちまってるんだぜ」
「失踪でしょ。帰って来るよ。ルチアーノのやつがどんな卑怯な手を使ったって、パパとママが本当の本当にいなくなっちゃうことなんてない。ふらっと消えることは結構あるけど。でも、最後は必ず悪い奴らをやっつけて帰ってくるんだ」
「……龍亞?」
 声が次第にはっきりとわかる程に震えてくる。妹の手を握ったまま、龍亞は俯いて下を向いてしまった。注意を向けてみると体そのものが小刻みに震えている。黙り込んでしまった龍可よりは幾分も気丈なふうに振る舞っていたが、やはり彼もまた限界だったのだということを遊星達は思い知らされた。
 その様に、さしもの遊星も戸惑いながらも理解が追いついてくる。――遊城十代は失踪した。ヨハン・アンデルセンと一緒に。恐らくはパラレル・ワールドからやってきた失われた「大切な青い人」、彼の探し人だった伴侶と共に。
「あの二人はそうやって、何度だって世界を救ってきたんだから」
 小さな掠れ声で、自分自身にも言い含めるように龍亞が言った。消え入りそうに儚い声だったけれどもその言葉はガレージ中の人々の耳に確かに届いて、遊星の耳にこびりついてやまなかった。



◇◆◇◆◇



 海に沈むのは、何年ぶりのことだっただろう。
 とにかく久方ぶりの経験であることは確かで、ヨハンの記憶が間違っていなければそれは例の「五八七号便」事件以来のはずだ。あの頃ヨハンは二十歳になったばかりで、まだ精霊が見えるだけのただの人間だった。
 確か故郷に行こうとしていたのだ。ヨハンの母校であるアカデミア・アークティック、それから育った孤児院のあるデンマークへ。十代が二人目の子供を流産して消沈しているのを見かねたヨハンの発案で、滞りなく進めばそれは美しい思い出となって記憶の一つとして埋没していく予定だった。
 結果的にその事件でヨハン・アンデルセンは人を止めることとなる。遊城十代と同じいきものになる。ヨハンを奪われない為に遊城十代は禁忌を再び破った。超融合を人の体にあてがい、その力で魂を精霊と融合させ、超常的な能力を付加することでヨハンを死の淵から強引に呼び戻したのだ。
 十代はそのことを嘆き、幾度も、幾度もヨハンにそのことを懺悔した。ユベルが何度諌めても十代はしばらくの間そうすることを止めなかった。ヨハンは一度も十代を責めなかったが、今にして思えばそれが十代を余計に苦しめたのかもしれない。彼は取り返しのつかないことを無条件に許されることに不慣れだった。
 でも、ヨハンは十代と同じように半精霊の身となったことを後悔したことはない。むしろ良かったと思っている。遊城十代を一人世界に残すことを考えると、それは酷く恐ろしいものだった。
 十代は孤独と喪失に弱いのだ。とても。
(……さて。窒息死することもそうそうないだろうからいいけど、この深さは尋常じゃないな。どこまで沈むんだ……?)
 そうやって思い出を鑑賞し感傷に浸ってみたりしても一向に終わりが見えてこないのでヨハンは閉じていたまぶたをのろのろと開いて辺りを確かめた。暗い水底には光が入ってきていない。太陽光が届かない程の深海だ。水温も当然低く、まともな人間ならばもうとっくに命を奪われていたに違いなかった。
 腕に抱えたままの十代は目こそ開けることはないが、生命活動は問題なく維持出来ている。表皮の温度はヨハンと同じように下がっていたが、鼓動の心地良いリズムが触れあう肌を通して伝わってきていた。ルチアーノは悪魔の能力を抜かれて並の人間と変わらないなどと言っていたがこのあたりの基礎代謝には影響は出ていないらしい。
 そこまで思考を手繰ってようやくどうしてこのような事態に陥っているのかを思い出してヨハンは内心で溜め息を吐く。そうだ。ヨハンと十代はあの奇妙な機械人形の一体、アポリアが一つのルチアーノに海に突き落とされて今こうやってぶくぶく沈みゆくはめになっているのだ。普通に考えて押し負ける相手ではないはずなのだが、流石に十代と子供達を半ば盾に取られた状態ではヨハンとて無理があった。
 そして恐らくはそれだけじゃない。あの少年アンドロイドは妙なことを口走っていたはずだ。曰く、「チューニングされているから」どうの、と。
(っていうことはゾーンがくれたデータ通りじゃないんだな。思った通りだ。やっぱり俺達を支援しているゾーン以外に、イリアステルを動かしてるやつがいる。どこのどいつだか知らないが……けっこうな趣味をお持ちだってことは確かだ)
 悪趣味だ。ひょっとしたら、昔ヨハンの体を使って好き勝手にやっていたユベルなんかよりも、酷く。
 そもそもあの英雄に救われた歴史を書き換えてしまおうという行為が、そう望むこと自体が吐き気がするほどおぞましいことだった。歴史を未来から改変することがただでさえ良くないことだというのに、それをわざわざ破滅へ向けて軌道修正しようとしている。
 《ゼロ・リバース》のない世界。元々それはモーメントを人々が自ら棄てるように……と願ってイリアステルが引き起こした世紀の大災害だったわけで、ならばその事故を消し去ることは容易ではあっただろう。起こすために干渉するのを止めさえすればいいのだから。
 結果英雄となるはずの青年は平凡などこにでもいる恵まれたこどもになる。ありふれた天才に留まり、世界は救われず、遥かに早く滅亡を迎える。更にはそれを強引に押し進めることでパラレル・ワールドの正史も尽く駆逐し根絶やしにする。その周到さ、用心深さにはぞっとする。
 一体世界の破滅を願った誰かはどれほどねじ曲がった心を持っているのだろう? こうまでして救われる世界を許すことを厭うた誰かは、どこまで傲慢で愚かなのだろう。凶悪に狂ってしまったのだろう。
 まるで悪魔に魅入られでもしたかのように。
(悪魔……)
 眠ったままの十代を見る。ヨハンが魅入られ、また虜になってしまった一人の悪魔。だが彼は誰よりも誇り高く気高く、彼女は誰よりもやさしく美しい。ヨハンは、虹の神と一つになった男はこの世界で一番人間らしい悪魔を永遠に愛するだろう。その意味で、どこかの誰かとは同類なのかもしれない。そう思った。
 だが人生を狂わされても他人の、ましてや世界の行末を狂わせる権利が生まれるわけではない。
(冗談じゃない)
 ふと、深海魚か何かと思われるものがヨハンの視界を横切る。チョウチンアンコウのように発光する部位をぶら下げて、しかし姿形はヨハンの知るどんな生き物よりも奇怪で、グロテスクで、気味が悪い。
 そんなような生き物達が無数で群れになってどこかへ一直線に向かっていっている。暗視に自信があるわけではないが、目を凝らすと彼らの行き先に何かがあるらしいということが確認出来た。とても巨大なものだ。それはもういくらか下方にあるようで上から見降ろすようにするとがらくたに成り果てた玩具達がごみ捨て場で身を寄せ合っているのに似ていた。
 丁度重力に身を任せるのにも飽きてきた頃合だったのでレインボー・ドラゴンの力を借りて推進力を確保し深海生物達に倣って泳いでいく。
(……待てよ)
 そこで異変に気が付いた。中間地点を抜けたあたりでバチン、という鈍い音が次々にして先行していた生き物達が羽をもがれた鳥が空から墜ちるように、それまでとは比べものにならない速度で墜落していくのだ。見ようによってはあの件の事故に似ているとも言えた。《五八七号便》の自分達二人を除いた犠牲者達のように。
(ああ……)
 そこでヨハンは全てを悟った。
「そういうことか」
 最後の言葉はきちんとした声を伴って唇から吐き出されている。空気が突如辺りを満たしたのだ。どういう原理だかは知らないが、巨大なドーム状に空気の膜がその一体を包んでいて魚達はフリー・フォールを余儀無くされていたらしい。多分彼らは死んだのだろう。
 あたかも神に捧げる供物であるかのように厳かに当たり前に死んだはずだ。
「……なるほどね。こいつが『バミューダ・トライアングル』の正体ってわけか……」
 羽を用いて安全に着地した後にぐるりと周囲を見渡してヨハンはそうひとりごちた。
 広大な開けた空間が広がっていて、辺り一面に船や飛行機の類が山積していた。年代も様式も大きさも問わず、豪華客船と思われるものやジェット機、果ては大戦時の戦闘機らしきものまで無作為に脈絡なく積み上がっている。一部は地面に突き刺さっていた。だがそれよりももっと奇妙なことは、そのどれもがさしたる年月を感じさせずにいることだった。
 腐敗は勿論のこと、苔や蔦による侵食の類も一切見られない。だが、このポイントに飛ばされた時点でその機体に搭乗していたであろう人々は見る影もない白骨死体になって時々その姿を窓から覗かせるのみだった。飛ばされて来る間に経過する年月が有機物と無機物で幾百も差があるんじゃないかとそう疑わせる程その光景にはリアリティがない。つくり物のホラーゲームじみていた。しかしそれでも、この光景は現実だった。
 ヨハンと十代は殆どその不可思議な影響を受けずにいるが、それは多分二人の体がまっとうな人間じゃないからだろう。言われてみれば、もしかしたら一つ二つぐらいは肉体年齢が上がっているかもしれない。
『るびぃ』
「ああ、ルビー。こりゃもう疑うまでもなく決定的に、『異空間』ってやつだ。独立並行世界。おそらく一定ポイントに座標を取ってそこからこの座標に飛ばすようになってるんだろう。この飛行機やらが巻き込まれものだとしても、あれは確実に誰かが作ったものだろうし……」
『るび』
 ルビーが促した視線の先にあるのは、神殿か何かと思われる巨大建造物群だ。酷く悪趣味だった。そこかしこからいやな空気が漂ってくる。暗緑色の石像都市。不安を増大させる色の街。
 神殿にも腐敗や侵食は同様に見られなかったが、どうにもデザインが奇妙で、まるで醜悪を詰め込んだ廃墟のようだ。少しずつ歩を進めると、入口らしき場所が見えてくる。
「あー……」
 見上げたヨハンは嫌そうに息を吐いた。
「なんだい、こりゃ。名状し難いってやつか?」
 非ユークリッド幾何学的、という形容がちらりと脳裏を過った。なるほど確かに、これは仮に生還せしめたとしてもまともな精神ではいられないだろう。神殿入口の扉には翡翠色のプレートが嵌め込まれており、ご丁寧に英字体で文面が綴ってある。仕方なしに文面を読み上げた。内容は、悪意に満ちていた。

 ――アトランティスより別たれしオレイカルコスの泉。祝福を唱えよ。賛美歌を祈れよ。人心狂わすルルイエの聖女ここに祀る。我らがヴェルズの母を。

「やんなるね、まったく。わかりたくもないがピンときたぜ。つまり、ここに隠されてたってことか。そして利用していたんだな……」
『るび……』
「俺の予想が正しければだけど。でも残念なことに俺のこういう予感って外れたことがないんだ。本当に嫌になる。出来れば吐いてたに違いないぞ、ルビー。悪魔に魅入られたってのも、もしかしたらあながち間違いじゃないかもしれないな」
 扉を開いてすぐの場所にホールがあり、その行き止まりに翡翠色の水が湧く泉が設置されている。オレイカルコスの泉。
 オレイカルコスとは、かつて武藤遊戯が戦ったドーマの首領、古代アトランティス最後の王ダーツが魅入られた魔性の物質のことである。その形状は如何ようにも変質し万物を生み出す糧となりそして人の心を喰らう。心を喰われた人々は異形の怪物へと姿を変える。丁度、泉の付近に群がって何かを崇めるようにもぞもぞと蠢いている何かのようにだ。
 異形どもの崇め奉る対象であると思われるものは泉のすぐ上の十字架に張り付けられ、このルルイエの神殿には場違いな美しく精緻なバランスの取れた姿をしていた。ヨハンの立つ位置からそれまでの距離は大分開けていたが、それが「何」であるのかヨハンが見間違うことはない。舌打ちをする。あんまりだ。

「じゅうだい」

 磔の《ルルイエの聖女》は、ヨハンが震える声で名前を呼ぶと緩慢な動作でうっすらと瞼を持ち上げ、その瞳を覗かせた。互い違いの悪魔の瞳。見知ったものだ。
 それはユベル、かつて遊城十代と魂を分かちた精霊の持つものだった。
「機械仕掛けのアルカディア」‐Copyright (c)倉田翠.