Ph'nguli mglw'nafh Cthulhu R'lyeh wgah' nagl
(死せるクトゥルー、ルルイエの館にて、夢見るままに、待ちいたり)


――「クトゥルーの呼び声」より‐H・P・ラヴクラフト



 歩を進めると、《ルルイエの聖女》は、石像のように青白い肌の人形は、ゆっくりと笑んだ。異形どもは不愉快な呻き声をあげて崇拝する神の像が微笑んだことに歓喜している。吐き気がした。胸糞が悪い。
 ヨハンの腕の中で意識を落としたままの「記憶喪失の十代」とよく似た、しかし明確に別物の、雌雄同体のシルエットを晒す《聖女》は、そのいばらに括り付けられている剥き出しの裸体を身じろぎ一つさせることなく視線だけをヨハンに向けてくる。ぞくりと肌が泡立つのを感じる。それは紛れもなく、恐怖から来る生理的反応だ。
 雌雄同体の体を見慣れていないわけじゃない。それは十代がユベルと融合してからずっと、ゼロ・リバースのない世界にやって来るまでは持っていた姿だった。しかしこの世界に来てから十代は記憶と一緒にその奇妙な身体特性を失っていた。その理由をなんとなく察してげんなりした心地になる。
 十代を抱えたままずんずんと前へ進み、後退る異形のものどもを掻き分けて泉の元まで辿り付いて今一度磔の裸体を見つめた。縛り付けてある十字架は薄く翡翠に発光している。オレイカルコスの結晶なのだろうか。あの欲望の石だ。
 しばらくそうしていると、おもむろに『よお』、と《聖女》が口を開いた。ヨハンは答えず、ただじっと趣味の悪い姿似を見つめ続けていた。
『やっと来たな、ヨハン。星辰が正位置に定まった時に、と聞かなかったのか? ここに来るやつは誰だって大抵はそれを知っているぜ。それがルールだからだ。尤も知っていたところで、こうなっちゃお終いなんだけど』
 表情の昏いヨハンの様子に構わず、異形どもをそう指してくすくす笑う。耳障りな音だった。口調だけは十代を真似ていたが、声にはあの心地良さが欠片もなくて、しゅうしゅうと息を吐く蛇のようでもあり男を誑かす魔女のようであり脳随を揺るがす邪神のようであり神経を侵す悪魔のようだった。
『また一つ生贄が増えるかと思ったんだけどなあ。ウロボロスが自分の尾を噛み千切るにはまだエネルギーが足りないんだ。……でもまあ、オリジナルがここに来たってことは、もうオレのここでの《マザー》としての役割は終わらざるを得ないってことだな。別に未練とかなんにもないからいいけど。ルチアーノのしかめっ面が二度と見られないってことだけは残念だな』
「……」
『心配すんなよ。オレは確かにオリジナルのデータをある程度入力されてるけどオリジナルには殆どなんもしてない。DNAと、記憶を採取しただけだ。凌辱も投薬もされてない。美しいものは美しいままにってね。あいつ、腐っても遊星の思考アルゴリズムで動いてるから愛しの十代さんにはそんな酷いこと出来ねーんだって。頭がイカれちまってもその一線だけは絶対に超えない。ねじ曲がってるよな。だからオレを造ったんだと。かつて崇拝していた神の姿を真似たロボット、量産工場機能付き。若干失敗したけど』
 ぺらぺらと聞かれてもいないことを喋り続ける。『量産工場って、ほんとはルチアーノみたいなのをもう少し増やしたかったんだ』。顔は相変わらずにこにこしていた。ヨハンに何かを喋りかけるのが嬉しくて楽しくて仕方ないってふうに。
 ヨハンの意志を確かめもせず捲したてる。でもそれは、ひょっとするとそれを咎められることを恐れたからなのかもしれない。
『量産出来たのはそいつらみたいな愚にもつかない役立たずどもばっかだったけどな。一応、ちょっとはエネルギーの足しになってるけど……毎日群がってくるし、きもいし、オレはあんま好きじゃないんだ。実を言うとな。結局成功したのはルチアーノだけだったよ。プラシドは中途半端。パラドックスもイマイチ。ホセは失敗。アンチノミーは、ありゃ流石にこんなとこまで連れてこれなかった。別機体だし因果律が崩れそうだったんだって。まあオレの知ったことじゃないんだけどさ……でも『生産実験』をやってる間は律儀に磔になってなくても良かったからそこは楽かも。神経が通ってたらやってらんないぜこれ』
「…………」
 ヨハンは黙ってそれを聞き続けている。この場において制止の言葉は意味をもたないのだということを理解していたし、この惨たらしい現実を事実として覚えておかなきゃならないということを、理解したから。
 つまりはこういうことだ。世界の破滅を願った誰かは、遊城十代から奪い取った悪魔の力を納めておく器に彼そっくりの紛いものを選択した。知性を与え、思考力を与え、人間と違わない心理パターンを模索することを許した。
 挙句の果てにそのボディにプラント機能、擬似的な出産の機能を埋め込んでいる。拗らせた聖女崇拝。処女を信奉する悪魔的な狂執を十代に投影されていたのだと思うと気持ち悪いことこのうえなくて、ちっとも、笑えやしなかった。
 処女懐胎をなぞって神の子でも造ろうとしたのか。ほとほと馬鹿げている。
 それも、遊城十代に、それを倒錯し重ねて。
『ヨハン、なんも言わねーのな。辱められたと思って屈辱にうち震えてるって感じ? でもさ、そりゃ、オレをこの造形に創ったやつに言ってくれよ。オレは遊城十代の姿形を模して造られた機械人形に過ぎないんだ。アポリアやアンチノミー達と同じさ。遊城十代を出来る限り無力化するためにひっこ抜いた記憶――悪魔ユベルとしての中核を守るための抜殻だよ。怒ることないのに』
 言葉を返す気力もなくて、ヨハンは無言で自らに宿る精霊を呼んだ。究極宝玉神レインボー・ドラゴン、ヨハンのフェイバリットにしてヨハンの魂そのもの。宝玉獣を束ねる究極の宝玉の神はヨハンの背後に顕現してその翼を震わせる。
 『やっぱ、きれいだ』。レインボー・ドラゴンを見た《聖女》はクリスマスのイルミネーション・ツリーを見た子供みたいに無邪気に言った。
『きれいだ。怒ってても、こんなにきれいなんだ、ヨハンは』
「……怒るというより、呆れてものも言えないんだ。なあ、十代を象った人形、お前は可哀想なやつだな」
『かわいそう? オレにはわかんないよ。オレは機械だ。機械は使われる為に存在してる。どんな時も』
 前にも同じこと言ったやつがいるんだ、彼女は俯く。
『ルチアーノはオレを批難した。あの子は、随分人間らしくなってしまったなあって思うんだ。オレのせいなのかな。オレがあの子を、きちんと愛してやれなかったから駄目だったのかな。……ヨハン、こういうことを考えてるってことはさ。オレ、ちょっとは人間らしくなってる?』
「機械仕掛けの神の台本通り、だとしてもか。お前を造った神の理想像は陳腐で腐敗してる。愛を覚えたのならそのぐらいはわかるんじゃないか」
『やっぱりルチと同じこと言うんだなあ。でも機械の役割は、変われないんだよ』
 出来れば、人間に生まれたかった。腕の中にいる本物を眺めて羨むように口にした。人に生まれればヨハンに愛して貰えたかもしれない、人に生まれれば、未来があったかもしれない。人に生まれてさえいれば、こんな思いはしなくて済んだのかもしれない。
 でもしか論だ。机上の空想論はどこまでいっても叶わない夢でしかないのだ。それは機械人形自身が一番よく知っている。
『オレは機械だ。きれいなヨハンと、美しいオリジナルの正反対の醜いアンドロイド。……オレのモデルが何なのか、大体は見当付いてるよな。遊城十代に何を掛け合わせたキメラなのか』
「ああ……」
 ヨハンは緩慢に頷いた。海底都市ルルイエに祀られているとなればその答えは一つしかない。
 創作神話クトゥルーの混沌の神だ。決して美しい姿はしておらず、形容し難いおぞましい容貌で眠り続け、時折目を覚ましては呻いてその声を聞いた者達を尽く狂わせていってしまう。ひょっとしたら彼女を造った誰かは実際にそういうことを起こして、創作神話の元となる事象を戯れに起こしていたのかもしれない。そこらじゅうに転がっている成れの果て達がそれを示唆している。
 だが確かに、それは曲解された《ヒーロー遊城十代》の側面であった。彼はあまりに他者に及ぼす影響力が強すぎたのだ。アカデミア時代からそうであったのだということはヨハンも身を持って知っている。十代から聞いた佐藤教諭の刺すような言葉をヨハンは覚えていた。『大いなる力には大いなる責任が伴う。だが君はそれに気付きもせず、無気力と自堕落さを振り撒いた。……君は、あまりに無責任にすぎる。周囲に影響力を持つ者は模範的でなければならない。君のせいだよ。十代君、君のせいでアカデミアの生徒達は堕落したのだ』。
 佐藤教諭の講義を受けていた生徒達のさぼり癖が真実百パーセント彼の影響によるものなのかは教諭亡き今確かめる術がない。しかしまず疑いようもなく彼一人の手によって狂わされた数百万人を知っていると、それを笑いとばすことも出来ない。
 異世界での出来事。《精霊大虐殺》とそれを扇動した覇王十代。あの地で覇王に蹂躙された弱者も、覇王に心酔した強者も等しく遊城十代にその命運を狂わされていた。
 そして半人半精になることを余儀無くされたヨハンもまた、狂わされてしまったのだろう。
『極論、オリジナルさえ存在しなかったらオレもヨハンもここにいなかっただろうし、不動遊星の憧れが一人消える代わりに世界を滅ぼそうって思うやつも現れなかったって言えるんだ。イリアステルは邪な意思に侵食されることなく世界を救う道筋を模索してネオドミノの犠牲と引き換えにゼロ・リバースを引き起こす。英雄がそれを阻止する。それでお終いだった』
「無理だな。十代がいなきゃ、ネオドミノになる前にとっくに世界は滅んでしまっていたよ」
『歴史の伸縮特性ってやつで、ある程度のオルタナティブは現れただろうさ。もしかしたらヨハン、きみがその役割を振り当てられていたのかもしれない。世界ってのはうまく出来てる。ほら、歴史を曲げようとしたらこうやってヒーローが二人で断罪をしてくれようとしてる……』
「そんなにいいもんじゃない。俺はただ、こんな悲しいことは見たくないってだけだ。お前みたいな」
 そこで口籠もった。イリアステルの史観からして遊城十代は不可欠な要素だ。そうでなければそのデュエリストとしての存在そのものを抹消していてもいいはずなのにどんな世界線でも彼は彼として保たれていた。ならば、何故。
 造る必要もない代替品など、憐れなだけのオルタナティブなどどうしてこの世に生み出してしまったのだろう。
『不動遊星を模倣し過ぎた《Z‐ONE》は遊城十代に狂気的な崇拝と執着を示した。オレを造ったのは憧れて焦がれて仕方なかったからだ。ヨハンから一度本物を奪い、触れたはいいけどゾーンや遊星にとってオリジナルは眩しすぎたし熱すぎた。核爆発を繰り返してコロナをまき散らすフレアみたいだった。だから代わりにずっと持っていられるきれいなものを造ろうとした。それで、失敗した。それがオレ。……変な顔。知りたかったんだろ? 最期だから、それだけはヨハンに教えておくよ』
「ゾーンだって? そもそも最期って……」
 咎めようとしたヨハンを彼女の腕の動きが押し止めるする。『うんそう、ゾーンなんだ』。それだけには肯定を返して彼女は自らを束縛しているいばらを解いて十字架からひょいと降りてきた。一糸纏わぬ裸体はちぐはぐでおかしくて、物悲しいプラスチックの色を覗かせていた。
 眉をしかめる。ゾーンが? この間違ったものを造ったのか。どこかの世界で狂ってしまった科学者の男が……
 聖女が両腕を開く。「オレをあいしてくれなくても」、と唇が声なき言葉を形作った。
『ヨハンはいつだってすごくきれいだ。オレのこと、そういうふうに思ってくれるんだな。……なあ、ヨハン。ヨハン・アンデルセン。つくりもののオレが、きみのことが好きだって、あいしてるって言ったら、きみは首を振るかい?』
「……それはお前の意志じゃない。十代の記憶の残滓だ」
『でもオレは、それでもオリジナルと同じように、ヨハンのそういう潔癖症のとこ、好きだぜ。嘘も偽りもないオレの、夢見る機械人形のほんとの気持ち。オレの最期を見看るのがきみでよかった。つくりもんの造物主に壊されるのはまっぴらごめんだけど、ヨハンになら……』
 そう言って目を細める。伏せられた睫毛は、一番女性ホルモンが多かった時期を参照しているのか、今の本物の十代よりも少しだけ長かった。
『オレは壊されたっていい』
「そうか」
『そうだ。遊城十代は、例え片方がはっきりと偽者だとわかっていたって一人しか要らない。たった一人だけでいい。そうだろ?』
「……そうだな。オートマのゼンマイ人形なんか、そいつは造るべきじゃなかったんだ。神様気取りみたいに。よりによってろくでもないものになぞらえて」
『あはは。ヨハンがそう言うのなら、そうなのかもなぁ。ろくでもないかな、やっぱり。でもさ、ヨハン、オレ思うんだけどさ……』
 機械人形はもう一度だけ瞳を開いて、『ごめん。オレ、そういう機能ないから上手に泣けないけど』、と舌を小さく出して言い訳をする。「ばかやろう」と言ってやるとちぐはぐの瞳を瞬かせた。儚い。それは終わりを覚悟している目だ。
 ヨハンに「ころされる」ことを心底願っている、そういう顔だった。
 「オレをころして」、とまた声にならない請願がヨハンに向けられる。ヨハンはかぶりを振った。この人形に何をしてやれるのか、それはもう決まりきっている。

『オレは、きみがオレのために泣いてくれるとこを見れたから、捨てたもんじゃねーなって思うよ』

 ひかりがルルイエの鬱屈とした世界を覆い尽くした。




◇◆◇◆◇



 あたりはもうとっぷりと日が暮れ、ガレージの入り戸から見える空はどんよりと重たい星のない夜闇を映し出している。月も殆ど隠れてしまって、だけど誰も明かりを点けようとしないものだから(誰にもそんな気力が残っていなかったのだ)ガレージ内はとみに陰鬱な雰囲気だった。
「あのね。パパとママの話を、私、ちゃんとしなきゃいけないと思う」
「……龍可?」
「私も知っていることより知らないことの方が多いんだけど。二人が帰ってくる前に。質問責めにするわけにもいかないし、きっとその余裕もないだろうから」
 ずっと押し黙っていた龍可が口を開いたかと思えばそんなことを言う。遊星は異を唱えるという思考に辿り付くことも出来ずに彼女の言葉に圧倒されていた。今まで幼馴染として面倒を見ていた十二歳の少女とは違う、自分よりも長い時を生きている知らない「遊城龍可」の横顔がそこに見え隠れしている。
「話を聞いてる間にずっと考えてたの。それから、もうちょっと『もう一人の私達の記憶』をはっきり思い出せないかなって。私達がパパとママとどんなふうに暮らしていたのか、何を考えて二人の何を追いかけていたのか、あの人達が、何を守りたかったのか……」
 ガレージ内の暗さも相まって龍可の顔には濃く強く影が落ちている。顔の半分が闇に溶けてしまっているかのように暗い。それが不気味でもあり、また、神聖でもある。龍可が決して嘘を吐いてはいないということ、本当の本当に真剣なのだということ、それを暗に示して神託を降ろす巫女のように厳かに彼女は言葉を紡いでいる。
 この場で唯一龍可と同等の情報を持っているはずの龍亞でさえ、どこか気圧されているようだった。そんな状況で遊星が彼女に異を唱えられるはずもなく、話は淡々と進んでいく。
「それで、完全にじゃないんだけどわかったわ。二人が守りたかった世界のこと。ねえ遊星、アキさん、ジャック、クロウ、ブルーノ。聞いてくれる? 世界で一番強くて、かっこよくて、私と龍亞が愛していたパパとママの話」
「る、龍可、それってどこから話すつもり?」
「全部。私の知り得る全てよ。だってそうでなきゃフェアじゃないわ。帰ってきたらママは元通りのママになってるだろうしパパはパパだし。遊星が圧倒的に不利すぎるじゃない、情報は持っていて損はしないでしょ」
「そりゃそうなんだけどさー…………」
「なによ」
「え、ううん……」
 龍亞がバツが悪そうに口籠る。双子の妹に弱いというこの力関係は一切の変わりを見せないどころか並行世界では悪化しているらしい。彼はもぞもぞと指をいじって後にとぼとぼとブルーノの方へ歩いて行ってその袖を掴む。
「あのさ、皆、多分すっげー長くなるから。なんかご飯食べながらにしよう。俺準備するからさ、龍可は先喋ってていいから……」
 そうして申し訳なさそうに小さく呟いた。龍可がそれを受けて口火を切る。
「じゃあそうね、とりあえず私達がミュンヘンに引っ越したあたりから。その頃、私達は遊星達と別れて少しは成長して、パパとママと、それから家族の秘密をようやく知ったところだったわ」
「家族の秘密?」
「私達が何者であるのかってこと。半人半精の子供である私達がどんなふうに精霊と関わりを持っていたのかっていうこと」
 そうなんでもないことみたいに言って、龍可が嗚咽を漏らす。キッチンに入った龍亞がようやくポッポタイム全体の明かりを点けてそこで建物内部の全貌が露わになった。立ち尽くす四人と物が雑多に散乱したテーブル、飲みかけのグラス達。この場の人数よりも二つ多いガラスコップ。鏡を覗き込む代わりに視界に映る皆々の顔を確認したところ、誰もかれもが相当にやつれてくたびれた風体を晒している。
 それは話をしようとしている龍可も例外じゃないし、むしろずっと泣いて俯いていた分腫れていたりして、後戻りや予断を最早許さないという気迫がそこにあった。
「――きっと、パパとママも今頃そんな話をしているはずだから」



◇◆◇◆◇



 ヨハンが唇を噛み、命じた結果レインボー・ドラゴンの口から放たれた「オーバー・ザ・レインボー」は、七色の光でもって海底都市を貫いた。オレイカルコスの都の残骸、唯一現存していた古代都市の遺跡の残骸が光に染まっていく。レインボー・ルイン、虹の破滅が不整合でいびつな妄執の成れの果てを吹き飛ばす。ヨハンは泣きながら「ばかやろう」、そう繰り返した。遊城十代の姿をした人形は、しかしどうしようもなく、あのヒーローになりたかった少年の考えられ得るもう一つの末路を体現していた。
 ひとりぼっちのかいぶつになって、人の温もりに恋焦がれながら奉り上げられてしまう未来だ。もしヨハンがあの時十代と出会っていなかったら、もしあの時ヨハンが十代と同じ選択をしていなかったら。もし、ヨハンだけじゃない、幾つものターニング・ポイントで、どこかの誰かが選択を違えていたら――
 遊城十代は怪物になっただろう。世界を滅ぼす《マザー》に。
 神クトゥルーになぞらえて《ルルイエの聖女》と称し彼女を造った造物主気取りに、ヨハンは言いようのない哀しみを覚えていた。怒りや憎悪が全くなかったと言えば嘘になるだろうが、そんなものよりも、それを造ろうとした誰かの精神の在り様が哀れで仕方ない。
 そいつはきっと孤独に押し潰されてしまったのだと思う。絶望に呑まれてしまったのだと思う。信じられるものを全て奪われてついには自分にさえいつも疑念の目を向けるようになって。
 信じることを止めた。
「安心しろよ。俺の知ってる赤いヒーローは世界中全てを受け入れてしまうような懐の広いやつなんだ。なんたって、世界を丸ごと消滅させてしまおうとした悪魔を自分の魂の中に受け入れてしまうような馬鹿だからな。……だから、悪魔と一緒にアンドロイドの記憶を受け止めるぐらいはなんでもないさ」
 ひかりに貫かれてもの言わぬスクラップとなった《聖女》にそう囁き掛ける。彼女は、派生亜種として定義された意志を得た人形の知性は、悪魔と共に遊城十代に還っていく。腕に抱えたままの、寝息を立てている十代の姿を確かめてヨハンは目を瞑った。少し疲れた。体が重い。
「俺の奥さんは世界で二番目にかっこいいんだから」
『るびるび……』
「ああ、ルビー、大丈夫だから。体力使い果たすって程疲労もしてない。……大丈夫だって。十代もまだ少し起きなさそうだし、ルビー、一つ頼み事をしてもいいかな。俺は少し眠るから、三時間ぐらいで二人とも起こしてくれ。十代が元に戻るのに多分そのぐらい必要だ」
『るび』
「一人が嫌なら、ハネクリボー、ルビーと遊んでやってくれ。いるんだろ?」
『……くりくりぃ』
『るびぃー』
 二匹の精霊が心配気に覗き込んでくる。やんわりと手を振って、二人で亡骸のそばによりそって、横たわる。久しぶりに夢をみたいと考えた。何か幸福な夢だ。壊れてしまった人形が夢みていたしあわせな世界を。
 遊城十代が、ありふれたどこにでもいる人間と変わりなく子供達に囲まれて家族と暮らしていたあの頃を、せめて手向ける花の代わりに。
「頼むよ」
 愛らしい精霊達の姿をもう一度認めてから目蓋を閉じるとすぐに微睡みがヨハンに訪れた。やがてヨハンは夜の帳が降りるのと同じように滑らかに確からしく、眠りの夢に落ちていった。





《海底都市ルルイエ./END》
「機械仕掛けのアルカディア」‐Copyright (c)倉田翠.