『ボクがしわくちゃのおじいさんになって、獏良くんもいなくなって、いつかきみ達を置いてどこかへ行ってしまう時がいずれ来るんだ。だからボクは、もう一人のボクの心の中にボクを残していく。それはきみにとって重たいことかもしれない。それを申し訳無いと感じているけれど……』
 パラドックスとのデュエルの後、大人になり、けれど正しい別れを得ることがなかった武藤遊戯は名もなきファラオにそう告げた。その時、ファラオは彼の言葉の全てを分かったつもりで、「立場が違えばオレもそうした」と彼を慰めたが、あれから百年以上も経った今、彼の前にはまったく違う糸口が差し出されている。
 カードに触れようと指が伸びた。実体を伴ってものに触れるという行為は、遊戯が天に召されて以来覚えのないことだ。不意に、かつて秘密結社ドーマと戦っていた時、失意の中で道を見失っていた自らに遊戯が掛けた言葉が思い出された。『もうひとりのボク……どんなに苦しくても迷わないで。絆を信じて。きみは一人じゃない。いつもきみを信じている仲間や……モンスター達が……一緒に……』走馬燈みたいだ。洒落になってない。『離れていても……ボクは……そばに……い……る……』当たり前か。ここに至り、残された誰も彼もは本気で必死なのだ。
 数多の奇跡を掴み取ってきた指先で一思いにカードを抜き取った。《神炎皇ウリア》、《降雷皇ハモン》、《幻魔皇ラビエル》。カードがファラオに触れたそばから輝きを増し、溶け合い、新しいカードに姿を変えていく。
「《混沌幻魔アーミタイル》……いや、違う、これは……」
 カードの中から人影が浮かび上がり、瞼を見開く。実体を得た亡霊二人に反するように人影は薄く透き通っていた。魂が不完全で、実体を得るに至らないのだろう。何しろその一部をカードに封じていたに過ぎないのだろうから……
『やっときみに会えた』
 彼が微笑んだ。誰よりも優しく、強く、絆を信じて未来に託した、その姿で。


◇◆◇◆◇


『きみにあいにきたんだ』
 いつか空から降ってきた悪魔がそう言った。天使みたいに落っこちてきたヒーローは、赤いジャケットを翻し、美しい横顔で囁く。俗世じみた受胎告知。手垢のついた誰かの天使は、不動遊星の人生においては悪魔だった。疑いようもなく。
 停滞していた歯車が彼の来訪で再び回り始める。この「機械人形の夢見る世界」に降り立った異端分子は偏った方向に定着されようとしていた歴史を内部から紐解き、あるべき形に戻すべく並行世界を発っていたのだ。しかしてその干渉によってようやく回り始めたギアは、全てが逆回転。世界は緩やかに崩壊をはじめ、やがて音を立てて……その時を迎える。
 その最中に父の言葉の確かさを噛みしめたこともあった。確かに遊城十代は、あのひとは手が届くべくもなく遠い人で、遊星の手をすり抜けてどこかへ行ってしまった。ゾーンの狂執的な姿は、それでも伸ばした手を引っ込めることが出来なくて縋り付こうとして振り落とされた、その成れの果て――そういうふうに暗に言われて、理解出来てしまった。何故ゾーンが遊城十代を諦められなかったのか。
 遊城十代という悪魔は、あまりにも眩しく網膜の奥に焼けつく、太陽そのものなのだ。近付きすぎれば身を滅ぼすしかない。しかしよるべのない者にとってはこの上なく蠱惑的な食虫花だ。まるで彼が全てを救ってくれる全能神であるかのように救われたがってしまう。実際のところ、自らがヒーローに救われるような存在じゃなかったとしても。
 むしろそうであるからこそ惹き付けてやまない破滅の花。美しさにふらふらと吸い寄せられてきた羽虫たちを、そうして彼は気付かぬうちに一体どれほど殺してきたのだろうか?
 結局のところ、ゾーンもまた羽虫のひとつに過ぎなかった。ゾーンの破滅信仰への入り口はとても広かったのだ。ゾーンには希望がなかった。未来もない。荒廃した未来に残された最後の人類、Z−ONE。色のないスクラップの世界。そんな絶望的な現実に突如舞い降りてきた赤色の美しさは想像に難くない。
 だけど触れることは、手にしてあまつさえ辱めようなどということは許されない。何故なら、彼はゾーンが焦がれた英雄が、憧れた偶像だったからだ。
 
「コズミック・ブレイザー・ドラゴンでハルバート・マシンナーズ・ドラゴンを攻撃!」
 遊星の攻撃宣言は力強く、彼は今この瞬間も未来を、仲間を、ゾーンが取りこぼしていった全てを確かに信じていた。ゾーンが取りこぼしたものは、ブルーノが恐れているものとよく似ている。彼が少しずつ目を背けて忘れようとした、本当は、持っていたはずの何か。
「ハルバート・マシンナーズ・ドラゴンの効果発動! このカードがフィールド上に表側表示で存在する場合、一ターンに一度だけモンスターの召喚・反転召喚・特殊召喚を無効に出来る!」
「無駄だ。コズミック・ブレイザー・ドラゴンはカード効果では破壊出来ない。巻き戻しは無効になり、バトルが続行される」
「ッ……だけど、攻撃力は互いに四〇〇〇。相打ちで破壊されても、ハルバート・マシンナーズ・ドラゴンは「TG」と名の付いたモンスターを墓地から特殊召喚が可能だ。ボード・アドバンテージで僕が君を上回る」
「それはどうかな。限界を超え、絆が俺にくれた力……それで俺はお前を取り戻す。コズミック・ブレイザー・ドラゴンの効果発動!」
 シンクロは遊星にとって絆の形だった。言われてみればずっと、いつだって変わることなくそうだったのだ。シンクロ召喚とは、素材となるモンスター達をチューナーが繋いで呼び出す召喚。アドバンスのように生け贄に捧げるわけでも、儀式のように変質させるわけでもない。何かと何かを結びつけるかたち。
 コズミック・ブレイザー・ドラゴンの体躯が熱量と光量を増し、連動するように赤き竜の痣が疼いた。そしてこの痣もまた絆の証なのだ。これはあらゆる世界から託されたリレーの最後のバトンとなって、確かな意味を示し上げる。
 この痣は、全ての歴史の可能性を結ぶ虹の橋。
 そして同時に、全ての世界を生きた人々が、存在していた証明。
 正史に生きた不動遊星、チーム・ファイブディーズ、そこからやってきたヨハン・アンデルセンと遊城十代。存在するはずのなかったこの歴史に生まれた不動遊星、仲間達、空から落ちてきた悪魔。偽りの造物主となって遊城十代に焦がれたゾーン、彼に造られた機械人形達、未来に全てを託した武藤遊戯や名もなきファラオ、漠良了と盗賊王。今ここにいる遊星は知らない、もっとたくさんの数え切れない人々……。
 彼らのうち誰か一人でも欠けていたのならば、この痣はきっとここになかった。コズミック・ブレイザー・ドラゴンも。
 ……だから。
「バトルステップ時、除外されたドラゴン族シンクロモンスターの数×五〇〇ポイント、攻撃力がアップする。俺が除外したドラゴン族シンクロモンスターは五体! よって攻撃力は六五〇〇だ。……更に」
「なんだって……?!」
「相手モンスターとの攻撃力の差の分だけ、攻撃力をアップする。従ってコズミック・ブレイザー・ドラゴンの攻撃力は九〇〇〇になる。……受け取ってくれ、ブルーノ。これが俺のありったけの、持てる全て。お前に向けた俺の願い……!!」
 夢を見た機械人形が、ブルーノがいなければこの奇跡は最初から起こらなかった。奇跡の最も大きな片棒を担いだのはブルーノ自身だったのだ。彼がいなければ、そもそもこの世界の不動遊星そのものは存在するはずがなかった。
 だけど遊星は、その事実を彼に対する皮肉だとは思わないし、憐れだともちっとも思ったりなんかしない。
「スターダスト・コズミックバースト!!」
 だってブルーノはずっと遊星の友達で、親友で、それが変わったことは――なかった。ただの一度もだ。
 全ての宇宙に連なる銀河を丸めて放り出したような閃光が、コズミック・ブレイザー・ドラゴンの口から放たれ真っ直ぐに飛来していった。その光はハルバート・マシンナーズ・ドラゴンを貫き、包み込み、奔流の中に消してゆく。ライフが猛烈な勢いで減少していく音。やがて四〇〇〇あったはずの数字はゼロになり、ビープ音と共にデュエル・フィールドが消滅する。
「ブルーノ!!」
 ブルーノの乗っていたD・ホイールが運転を停止し、レーンアウトしてクラッシュした。スピードワールドが解除されたことでオートマチックからマニュアルに切り替わった遊星号のエンジンを踏み込み、加速して彼の元へ駆ける。D・ホイールが地面に叩き付けられた鈍い音に続いてその衝撃でボディが投げ出された。
 力なく地に横たわったブルーノのボディは衝撃をもろに喰らった影響か、ジャケットは焼け焦げ、表皮カバーははげ落ちてぼろぼろだった。そう言えば、結界を張った際にバクラが言っていたか。「闇のゲームの始まりだ」と。このデュエルで通常発生し得ない甚大なダメージはそのためなのだと、経験のない遊星でも理解する。何しろダメージ五〇〇〇のオーバーキルだ。
「ブルーノ……ブルーノ、ブルーノ!!」
「ゆ……う、せい……?」
 頬をゆすり起こすと、伏せられていた瞼が持ち上がってアイ・レンズが露わになった。ブルーノの瞳が自ら遊星の瞳を中央に見据える。彼とそうして見つめ合うのが、とてつもなく……それこそ幾数億年ぶりかのように思えて、嗚咽が漏れそうになる。
「やっと俺を見たな、ブルーノ」
 絞り出された小さな声は、些細な喜びに満ちていた。
「うれしい」
「……うん。やっとだ」
「どうして俺を見てくれなかった、とは聞かない。俺もここまで来て、やっとお前の心が見えた気がするんだ。心……ああ、心だ。お前は確かに、アンドロイドなのかもしれないが……でも……だから、その……」
「いい。わかる、遊星が僕に何を言いたいかってこと。……遊星はね、すごく、すごく眩しくて……痛くて、僕はずっと目を逸らしてたんだ。そうしないと押し潰されてしまいそうだった。僕の傲慢さと……浅慮……もう戻らない時間を渇望した愚かさ…………。でもね遊星、だけどやっぱり君は……君は僕の……」
 ブルーノの手が遊星の頬に触れた。コードが何本かはみ出しかけていて、遊星の滑らかな皮膚に引っ掛かる。しかし二人ともそれを気に留めることなく、今度は遊星の手がブルーノの穴の空いた頬パーツを撫でる。
「英雄なんだ」
 その言葉が、ブルーノが真に敗北したという合図だった。
 デュエルの終了に伴い、結界が音を立てて割れ砕けていった。硝子細工が散らばるようにひびが入り、しかし地に落ちることなく中空で溶けて消える。
 自らを阻んでいた結界の消滅にオレイカルコスの神が暴れ狂った。怒号に近い咆吼、そして耳をつんざくような、意味を成さない吐息の羅列。それがぐるりと視線の先を変え、寄り添い合うブルーノと遊星の方を睨め付けてくる。蛇に似たふしゅう、という音。
 オレイカルコスの神が今再び大口を開いた。ブルーノを取り込もうとしているのだと、遊星は触れた先の彼の震えから理解する。エネルギーを損なったアバターが、歴史を歪めようとしてオレイカルコスに魅入られた者を取り込むことでそれを補填しようとしているのだ。契約の代償。願いを叶える代償は、神への供物となること……。
「させるか……ブルーノは俺の友だ。やっと、お互いまた心からそう思えたのに。お前なんかに……与えられるだけの運命なんか、俺は、信じない……!」
「オレイカルコス……弱っているとわかるのに……なんておぞましさなんだ。遊星、君は、逃げて。これは僕の弱さが招いた結果だ。僕がきっとどうにかして、君だけは、」
「嫌だ。ブルーノを置いてなんかいけない」
「遊星……?」
「お前が……はじめ憧れた不動遊星は俺じゃないのかもしれないが」
 ブルーノの、もう殆ど動けるような力は残っていないであろうボディを強く抱いた。空からヒーローが落っこちてきて、関わるはずのない存在と出会い、来るはずのなかった歴史のゆりかごへ至って遊星が知った一番大切なものを守りたいのだ。
 遊城十代が世界を守ろうとしたように。ヨハン・アンデルセンが彼の愛したものを守ろうとするように。名もなきファラオが託された未来を守ろうとしたように、盗賊王バクラがパートナーの生きた証を守りたいと願ったように、そして少年アンドロイドが、恋焦がれた母を守ったように……
「今、お前と一緒に行けるのは俺だけだ」
 仲間達の元へ共に帰るという約束を、果たさなければ。
 不思議と恐怖はなかった。心は穏やかで、視界もとてもクリアだ。音声はノイズキャンセリングでも掛けてるみたいにはっきりと澄み、触れ合う鉄くずのボディ、その奥で規則正しく時を数えるモーメント・エンジンと永久発条の音だけが遊星の頭の中に響き渡る。世界はゆるやかに動き、時の流れの限界を突き破ったかのような感覚さえあった。
 オレイカルコスの神の吐く息が間近に感じられるほどに迫り来る。スローモーションで近付いてくるそれはぎらぎらとした欲を孕み、捕食対象を諸共に喰らい尽くさんとして息を吸い込んで――

 時が止まった。


◇◆◇◆◇


 神様みたいだと思った。
 見たこともない、鮮烈な赤と黄、そして青に彩られた圧倒的な存在を従えて「彼ら」はオレイカルコスと遊星達との間に降り立つ。三体のデュエルモンスターズの精霊だ。自分は今彼らによって守られているのだとすぐに分かったが、それでも息を呑んでしまう程のとんでもない威圧感と迫力がある。
「オシリスの天空竜、オベリスクの巨神兵、そしてラーの翼神竜……かつて名もなきファラオと武藤遊戯が従えた伝説の『三体の神のカード』」
 不意に後ろからそんな声がして、恐る恐る振り向いて姿を確かめた。赤いジャケットを翻した遊城十代と、眼鏡を掛け直したヨハン・アンデルセン。二人ともデュエル開始前に遊星を庇ったせいで満身創痍と言って差し支えないほど消耗していたはずだが、そんな場合じゃないとばかりに目を輝かせて三体の神を見上げている。
「実は俺も遊戯さんが本物を三体全部召喚しているところを見るのは初めてだ」
「俺なんか一体も見たことないぞ。人間長く生きてみるもんだ……」
『オレ様は嫌と言うほど見た。バトル・シティ終了以来三幻神と言やあ武藤遊戯の代名詞みたいになってる節があったからな』
 十代の台詞にヨハンが羨ましげに返し、バクラはうんざりとした調子で続ける。この異様なまでの威圧感をもってしても、同時代の人間にとっては見飽きた光景にすぎないらしい。恐ろしい話だ。
「十代さん――他の皆も」
「ん、お疲れ、遊星。あんまちゃんと応援とかしてやれなくてごめんな。何しろ遊星がデュエルに勝つだけじゃ、全ての解決にはならないよなって話でてんやわんやでさ」
「い……いえ。俺も、正直……デュエルの最中は十代さん達がここにいるってこと、あまり気に掛けてる余裕はなくて……」
「それじゃまあ、おあいこってやつだな」
 呆然として現れた同行者達に声を掛けると、十代が少しばつが悪そうに笑う。何がなんだかわからないままの遊星は慌てふためき、ブルーノと目配せをしあって、「あの」説明を求めた。デュエルに夢中だったから、彼らが何をしていたのか、どうしてこの状況に至っているのか、皆目検討がつかない。
「一体何が。俺達は、オレイカルコスの神に喰われる寸前で……それで……」
「遊戯さん……『達』が、間一髪それに間に合った。いや、でも本当びっくりしたんだ。まるで無茶苦茶だよな。そんなこと言ったら、そもそも俺や遊星がここにいることからしてイレギュラーなんだけどさ」
「間に合った……」
「三幻神さ。遊戯さんの魂に結びつけられていた三体を、この場所の力だか影響だかで呼び出したらしい。でもそれもあの人がいてこそだな。奇跡ってやつ?」
『馬鹿言え。人の手で計算された奇跡なんかあるか。マリクの野郎、姉上様と共謀してオレ様を謀りやがって。だが悪態をつけようにも既にくたばってるときた。あまりの用意周到さに反吐が出そうだ』
「……はい?」
 三人がわっと説明らしきことを言ってくれたような気がするのだが、やはり、うまく飲み込めない。間の抜けた声で反芻すると、ヨハンが顎に手を当てて「うん、これじゃわからないよな。そりゃそうだ」としたり顔で言ってきた。少しだけむっとしたが、それよりも、事の真相を早く理解してしまいたい。
「三幻魔のカード、あっただろ?」
 ヨハンが言った。
「結界張るのに使ったやつだ。千年リングと一緒に俺達の手元に渡ってきたやつ」
「ああ……それが何か? デュエルが終わった時、結界もなくなったし……」
『三幻魔の中には初代決闘王『武藤遊戯』の魂の一部が封じられていた』
「? それってどういう、」
「あー、ええと、つまり……」
 武藤遊戯の魂が封じられていたなどと言われても、武藤遊戯の名をお伽噺のような感覚でしか知らない遊星にはうまく納得して貰えなかったらしい。十代は言葉を詰まらせ、少し考えるように間を置いて、こう言い換える。
「遊星が繋いだバトンを受け取ったあの人が、最後の切り札を手に入れた。そういうこと」
 この絶望的な状況からでも世界を救って歴史を変えてしまえるような。そう言って名もなきファラオを指し示すと彼らが振り向いて親指を突き出してきた。


 三幻魔が寄り集まって現れた「彼」は、透き通った唇に指先を当ててそっと内緒話をするように囁いた。いつか十代が目にした少年の姿で、優しさと慈愛をたたえた眼差しをしている。『やっときみに会えた』彼の声音に名もなきファラオの動きが止まった。信じられないという本音をまるで隠せていない様子で、ともすると怯えるように誰よりも愛した彼の姿を目に焼き付けようとする。
『相棒……』
 武藤遊戯。パズルを解き、名もなきファラオを三千年の眠りから解き放った運命の人。正史ではファラオの名を取り戻し、歴史を正しい形へ押し進めた立役者。
 十代が名を叫ぼうとしたのを、ヨハンが押し留めた。バクラも腕を組んだままその光景を見守っている。余計な言葉など、要らないということなのだろう。例え今が感動の再会というにはあまりにも切羽詰まった場面であるとしてもだ。
『ボクが必要とされる時が、やってきた。そういうことで、いいのかな』
 柔らかな声が紡がれる。耳に心地よいその声に、ファラオはまなじりに雫をたたえ顔を振った。きゅっと唇を閉じ、言葉を身長に選ぶ。そうしないと、次に何を言ってしまうのか、自分でもうまくわからないのだ。
『もちろんだ』
 遊戯はそれに言葉ではなく仕草で応えた。彼が伸ばした手がファラオに触れることはなかったが、二人ともそれを意に介さず、抱擁の姿を取る。あの遊戯はもしかしたら彼の姿を模しただけの罠か何かなのではないか? とヨハンはやや疑っていたのだが、その光景に猜疑は露と消えた。疑いようもなく、二人は通じ合っている。
『あのね……もう一人のボク。わかってると思うけれど、今ここにいるボクはカードへ封印されていたボクという存在の一部分にすぎない』
『ああ。だが……何故相棒はカードの中に自らを封印させたんだ?』
『でも、魂の欠片だからこそこの場所でボクだけが出来ることがあるんだ。そのためだよ。ごめんね、だけどきみの心の中にボクを残してまでそうしなきゃならなかったから』
 いいんだ、とファラオがまた首を横に振った。
 短い抱擁の後、武藤遊戯が振り返ったのは十代のいる方だった。目線が合い、十代がしどろもどろに自分を指さして「お、俺? 俺ですか?」と確認を取るとこくりと頷かれる。『きみとヨハンくんだけ、違う歴史の人だよね』とさらりと言ってのけ、彼はこの空間そのものを指し示すように右腕を広げた。
『十代くん。この場所は、全ての歴史に繋がる、あらゆる可能性を内包した次元の狭間みたいなところだ。それは、合ってる?』
「ルチが確かそんなことを……ってなんで、遊戯さんがそれ知ってるんですか。そもそも俺とヨハンだけ違う歴史からって、どうやって」
『こんな身体だからこそね、それを感じ取れるんだ。実はね。今のボクはきれっぱしだから……ボクの魂の大元というか根源みたいなものにとても長いひもで繋がっているような、そんな状況にある。完全には切り離されていないんだ。それでね……この場でボクが感じられる『大元』、きれはしのボクが同調しているボクの魂は実はひとつじゃないんだ』
「それって。遊戯さん、あなた、まさか……」
『うん。今のボクは全ての可能性と繋がっている』
 全て。モーメントの暴走で人類がゾーンただ一人になってしまった歴史から、光の中にファラオが還っていく歴史、遊城十代がマスクド・ヒーローを操っていた歴史に、不動遊星が弟分のため決闘竜の持ち主達と競った歴史、そして本当は存在してはいけなかった唯一イレイティスへと至ったこの歴史……その他ありとあらゆる、星の数以上ほどもあるそれに、武藤遊戯がどこかに存在していた限り彼のきれはしは今その全てに接続されているのだという。
「最初から……それを目的に、あなたは自分の魂を切り取ったっていうんですか」
 一人ずつ僅かに異なる幾億人の武藤遊戯全ての記憶と体験。人の身に余る膨大な知識にリンクしているとは思えない表情で彼は言葉を続けた。
『タウクの未来予知は、完璧じゃないからね。全部が全部分かってたわけじゃない。だけど、覚悟を決める理由ならあった。……もう一人のボクに渡すものを見つけられるのはボクだけだったから』
『王サマに? この状況で? おい……まさかこの期に及んでそんなドッキリショーのための仕掛けを持って来たっつうのかよ。正気か遊戯。そいつぁ……『冥界を開く鍵』だな……?』
 バクラの口角がつり上がり、彼は興奮を抑えきれずに思わず笑んでしまう。冥界を開く鍵、闇の扉を開くためのキーワード。今となっては失われた正史で武藤遊戯と数人しか知らなかったはずのものが、よもやここで出て来ようとは。
『そう。きみの、本当の名前だ。名もなきファラオ』


「ファラオの真名……それが、切り札なんですか」
 十代の話が終わって遊星が口を開く。十代は誇らしげに頷いた。
「にわかには信じられないかもしれないけど事実だ。この場所には全ての可能性があるけれど、勿論由縁のないものとか、封じられたものとかを手繰り寄せるのは難しい。遊星がコズミック・ブレイザー・ドラゴンを創造出来てもシューティング・クェーサー・ドラゴンを呼び出せなかったのと同じ理屈。プロセスが違うんだ。何しろ王の名が封じている力は強大すぎた」
「それは……何となく。あの三体の神のオーラは尋常じゃ、」
「いいや。三幻神は序の口だってさ。……見てろよ遊星」
「は、はい」
「今から起こる奇跡は、お前が繋いだ未来なんだぜ」
 すっげーよな? 眼を細めて子供のように純真な顔で同意を求めてくる十代に遊星は思わず頷き、ブルーノもそれにつられたのか遊星の手を握って意を示す。バクラはやれやれと肩を竦め、ヨハンはじっと最後のバトンを託されたアンカーの姿を視界の中央に捉えた。
 あのバトンははじめ、ゾーンが持って来て、トップランナーにヨハンと十代が据えられていたものだった。バトンは二人の手を通じて不動博士やチーム・ファイブディーズ、龍亞や龍可、パラドックス、ルチアーノ、バクラ、様々な人の手を渡り不動遊星の元へ辿り着く。
 そうしてヨハン・アンデルセンとのデュエルを経て遊星が握りしめたバトンは、最後には武藤遊戯の元へ行き着いたのだ。終わりの白線が近付いて来てようやくこの壮大なリレーを繋げていた事実に思い当たるのだから、まったく人の力と言うのは度し難い。
 ファラオが遊戯に見守られる中、両腕を広げた。今や彼は名無しの亡霊ではない。『いい役持っていきやがって』バクラが呟いた。
『王の名のもとに、三体の神を束ねよう。我が名は……』
 ファラオの指先が僅かに震えている。それを後ろから遊戯が支え、彼は呼吸を整えて高らかに終わりの祈呪を宣言した。
『――我が名はアテム。現れよ、《光の創造神ホルアクティ》!!』
 神様みたいだと思った。
 不動遊星も、遊城十代も、ヨハン・アンデルセンも、盗賊王バクラでさえ、その感慨を抱かずにはいられなかった。呼び出された存在はそれほどまでに一線を画した存在だったのだ。
 オレイカルコスの神が発する暴風のようなオーラが掻き消える。三幻神全てを従えた光の女神は、ゆるやかにその姿を現し、悠然と《イレイティスの眠る地》に降臨した。両手のひらに光をたたえ瞳に奇跡を宿した女神を、その時誰もが「神々しい」という言葉で形容することしか出来なかった。ただ圧倒的な安堵による静けさと温もり、そして慈愛がその時世界にある全てだった。
『十代くん』
「はっ、はい?!」
 見とれていたがために、呼び掛けに対する返答がワンテンポ遅れた。遊戯はそんな十代に微笑みかけ、厳かに最後の問いをする。
『みんなに、もう一度だけ確認させてもらえるかな。まずは十代くん。きみは、何を願う? きみはどの世界を選び取るの?』
「……それはもう、最初から決まっています。俺とヨハンは正しい歴史を取り戻すためにここに来ました。俺が願うのは、俺達が守ってきた歴史です」
『そう、わかった。それじゃヨハンくんも同じだね。バクラ、きみは?』
『オレ様の目的が果たせる世界ならなんだって構いやしねえよ。この歴史に先はねえ』
『そっか。では最後に遊星くん。そして、ブルーノくん。きみたちの願いは? きみたちは、どこへ行きたい?』
「俺は、俺のいるべき世界へ帰ります。俺の友達を連れて、仲間達がいる、帰る場所へ」
『君の帰るべき場所は、正しいとされる歴史の中にはない。……その意味を理解したうえで、それを望んでいるんだね。……きみは?』
「僕は……」
 一度息を吸い、呼吸を整える。心配そうな眼差しを向ける遊星にきっぱりと首を振ってみせ、ブルーノは誰よりも強い意思を持って遊戯に答えた。
「遊星の守ろうとした場所へ」
『了解した』
 最後の答えを受け取ったのは遊戯ではなくアテムだった。アテムは遊戯と頷き合い、ホルアクティに応諾の意を伝える。女神は全てを受け入れるとでも言うようにその身を震わせて瞼を開いた。
『ならば最早、迷いはいらないな。光の創造神ホルアクティよ、オレ達をあるべき姿、還るべき世界へ導いてくれ。この絆と繋がりこそが人間の出した答えであり、願いであり、意思だ。――《光創世》!!』
 女神の両手が胸にあてられ、堂々たる仕草で広げられる。光という光がその指先から胸元から迸り、オーバーフローを起こし、歴史の全てを塗り替えていく。
 音がなくなる。光も闇もなくなり、色が消え、感覚が消え、何も感じられなくなる。やがてオレイカルコスの神も、武藤遊戯も、アテムも、不動遊星も、ブルーノも、遊城十代も、ヨハン・アンデルセンも、バクラも感じ取れなくなり、呑み込まれて消えていく。
 天空と太陽の名を持つ女神が世界を創造する。溶けてゆく感覚の中、最後に彼らが感じたものは、夜明けに白む空だった。



「機械仕掛けのアルカディア」‐Copyright (c)倉田翠.