Beautiful World

02:ファミリア(02) 家族団欒

「少し、よろしいですか?」
 遊星の見送りを受け、一日遅れで乗り込んだドイツ行きの飛行機の中で突然アキがそう切り出した。医師をめざして医療大国であるドイツに単身留学するのだという彼女は双子の隣にシートを構えていたのだが、何か話したいことがあるようで双子と席を入れ替えて十代の隣に寄って来たのだ。十代は耳に挿していたイヤホンを抜いてアキの方に向き直る。アキはぺこりと頭を下げた。
「昨日今日とお世話になりました。せっかくの再会なのにご迷惑をおかけしてしまってごめんなさい」
「いいっていいって。遊星の顔も久しぶりに見れたし。昔、まだ独身だった頃に未来からあいつが来た時以来だったんだ、遊星に会うの。俺は年取ったのにあいつはあんまり変わってなくて、ちょっと変な感じだったけど。でもまあ可愛い彼女がいることもわかったし先輩としては一安心ってとこだ」
 にやにや笑って「彼女」と言ってやるとアキは顔を赤くして「ち、違うんです」と首を振る。だが「でも好きなんだろ?」と問うと小さく頷いた。
「大丈夫、遊星の本命は絶対に君だから。君にだけちょっぴり態度が違うんだよなぁ。遊星はいい奴だよな。うちのヨハンと違って紳士だし」
「まだ言うか十代」
 黙って英字新聞に目を通していたヨハンが聞き捨てならないという形相で眉を寄せ十代の方に振り返る。アキは気圧されて押し黙ってしまった。やや茶目っ気が強いがヨハンも落ち着いた様相の紳士然とした男性であるというのがアキの中でのヨハンの評価なのだが、どうも妻である十代の中ではそうではないらしい。そういえば半陰陽であり、元々は男性として育っていたらしい十代を「女にした」のは自分だとヨハン自身が言っていたからもしかしたら過去に、そういう若さ故の過ちがあったのかもしれないが。
 ――そう。半陰陽、である。
 アキが少し疑問に思っているのはそこであった。今アキの目に映っている十代という人は男っぽくさばさばとした、ボーイッシュなイメージを抱かせる容姿ではあるが一目で女性なのだろうと判別出来る雰囲気を持っている。慎ましく膨らんだ胸をぴっちりと覆うスウェットのラインは柔らかく、健康な「母親」を思わせた。
 そして何より彼女は双子の母なのだ。腹を痛めて双生児を産み落としたからには体には女性として必要なものがすべからく備わっているはずである。だが遊星は言うのだ。「あの人は男らしい俺にとっての英雄であったのだ」と。
「いくらでも言うぜ。事実だ。事実を変えることは出来ない」
「このー、でも可愛い」
「そうなんだ。俺もそういうまっすぐな若さに憧れてた」
「……あの頃の十代は大人ぶってひねてたもんなぁ」
 一しきり惚気て夫婦は笑い合う。羨ましい程に仲睦まじい夫婦だ。アキがぼんやりと見ていると横から龍亞が呆れ顔で口を挟んで来る。
「あの二人、隙あらばあんな感じにいちゃついてるんだ。いいんだけどさ。ああいうの、アキ姉ちゃん的にはどうなの?」
「そうねぇ、私の両親もあそこまでではないけど仲の良い夫婦だから見慣れてるし悪いとは思わないわ。離婚寸前でぎすぎすしてるよりも遥かにいいじゃない」
「うんまあそうなんだけど。でもむずむずするんだ。いつまでも新婚とか付き合ってる最中のカップルみたいでさ」
 昔もああだったっけなぁ? 龍亞が首を捻る。その様子に少し驚いてアキは「覚えていないの?」と不思議そうに尋ねた。
「言ったでしょ、希薄なんだ。思い出が。でも二人が間違いなくパパとママだってことはわかる。二人とも正真正銘血の繋がった両親だよ。……なんていうか昔はこんなにベタベタしてなかった、ような気がするんだよなぁ。怖いことがあって子供に戻っちゃったみたい」
「心配しなくても龍亞の方がずっと子供よ」
「龍可ぁ、酷いよ」
「本当のことだもの」
 クリボンを抱き締めて龍可が言う。龍亞は弱り顔になってあわあわと慌てふためいた。龍亞は龍可に弱い。大抵は龍可に押し負けるし、龍可に辛辣な返し手を喰って困ったような顔をしている。だが龍亞は龍可のことを愛しているし、龍可も普段は龍亞のことよく心配していて優しい。
 親がなく、ほぼ二人きりの家族として過ごした五年間が二人の性質を決定付けてしまったのだろうということはアキにも容易に想像出来た。そもそも家族愛の強そうな両親だから兄妹愛も人並以上にあったのだろうが、それが「互いに互いを守らなければならない二人の世界」という外部要因によってやや強くなり過ぎてしまったのだ。病弱だった過去をもつ龍可に対して龍亞は未だに過保護なきらいがあったし、幼稚だった龍亞は苦難を乗り越えて成長した今でも龍可にはらはらされている。
 まるで二人で一つのいきもののように、龍亞と龍可という双子の兄妹はお互いを重んじていた。片方が欠けてはもう他方は生きてはいけないのではないかと思わせる危うさが二人の間には僅かにあった。とは言ってもほんの僅かなものだ。近頃では大分なりを潜めている。だが、それでもその危うさというものはゼロにはならないのだった。
 そしてその危うさというものは、彼らの両親の持つ形質なのではないかというのがアキの直感が告げるものだった。
 ヨハンと十代。双子の父と母。彼らは仲の睦まじい夫婦だ。龍亞が眉を顰めた通り、あの二人は少々仲が睦まじすぎる。彼らはどこでも構わずに二人だけの世界を作り出すことに長けていた。二人で世界を完結させることに恐ろしい程に長じていた。別に二人が、社会不適合の変人であるわけではない。常識もきちんと兼ね備えている。だが二人が異質かどうかと問われればそれを否定することは出来ない。
 世界は二人にとっての異端であり、二人はある種世界にとっての異分子である。確たる証拠のない妄言だ。だけれども、そのような気がしてならないのだ。
「ああ、そういえばアキ……ちゃん」
 不意を突く形で十代の声がヨハンに代わってアキに向けられる。アキははっとして彼女の方に顔を向けた。十代の手にはタブレット型の小型端末が握られていて、アキが視線を動かすと端末のモニタ部分が視線に合わせて提示される。モニタの中には一枚の画像が映り込んでいた。写真だ。
「君が不思議そうな顔をしてるから、とっておき。学生時代の俺とヨハンの写真だよ。うん、この頃はまだ男っぽかったなぁ」
「今の十代も綺麗だと思うけど。嫌か?」
「こんな女々しくなる予定なんてなかったもん。遊戯さんみたいなかっこいい人になりたかったんだよ」
「今の方向性は武藤遊戯っていうよりは孔雀舞だな。あれほどスタイルよくないけど」
「うるせー、そんなのどうだっていいんだ」
 子供っぽい拗ねたような声を出しながら十代はどうぞ、と端末をアキに手渡す。現在の姿よりも幼い十代とヨハンが肩を組んでカメラに眩しい笑顔を向けていた。似たようなジャケットは制服だろうか。どこかで見たことがある意匠だ。
 写真に映る若い十代は今の十代と違って女性らしい胸はなく、体型も子供らしい寸胴で少年然としていた。屈託なく笑ってピースサインをしている。疑うことを知らないような笑顔だった。
 十代の指がモードをスライドショーに切り替える。画面に映る写真が次々と切り替わり、過去の様々な十代の姿をアキに示した。学友達に囲まれて破顔している十代。ヨハンとデュエルに興じる写真。どの写真に写る彼女、いや彼も今の彼女の雰囲気とはあまり似ていない。
 その純粋そうな子供の姿が、ある写真を境に急激に大人びたものに切り替わった。すり替わったかのようだった。身長が伸び、目付きが切れ長になった十代の後ろ姿や望遠レンズの横顔。寂しそうに笑う目。胸がなんとなくざわつく。
「遊星と会ったのはこの頃かなあ。まだヨハンと結婚してなかった。というかヨハンとすれ違ってた頃だ」
 きりりとした姿が映った写真で一度スライドを止めて十代が懐かしそうに口を緩ませる。「遊星、俺の前で妙に縮こまっちゃってて可愛かった」そう言って十代は幼い子供の微笑ましい姿を見るようにからからと笑った。
「アキちゃんは女の子だもんな。不思議でしょうがないだろ? あの状況は男が男を好きになるってことだし。そして俺が龍亞と龍可を産んだのも正直なところ不思議だろ」
「それは……」
「遊星の記憶と現実の俺が噛み合わないのが不思議なんだよな。遊星すごい衝撃受けてたみたいだし。でもしょうがない。俺自身も今こうしているのは不思議な気がするもん」
 アキは押し黙る。なんだか見透かされているようだった。十代という存在の前で自分が小娘であることを知らしめさせられているような気分になる。十代という人の奥には深い深い深淵が広がっていて、その先を覗き込むことが酷く後ろめたいものであるかのような感覚だ。
 まるで底なし沼に映る幻影を見せられているような。
「男だとか女だとかそういうことの前にさ、俺、ヨハンが好きだったんだ。一緒にいたかった。家族になろうって言われて嬉しかった。産めるのであればヨハンの子供が欲しいって思った。確かに俺は男だと思って生きてきていたんだけど、そのためなら女の子になってもいいかなって最後に決めたんだ。やっぱすごく迷ったけどな」
 十代が過去を懐かしむように恋する乙女に似た表情をして言う。男であるというアイデンティティを捨て去る気持ちはアキにはいま一つぴんと来ず、理解出来ないものであったが彼が好きで一緒にいたいのだという感情は手に取るようにわかった。アキが遊星に抱くものと同じだ。遊星の家族になりたいという思いは確かにアキの中にあった。今は将来のために彼と離れることを決めたけれど、いずれは彼の隣に立ちたいという望みがあるのだ。
 そのために、成長しなければならないと思うからこそ今は別れたのである。
 十代の指が端末を操作してスライドショーを終了させる。アプリケーションを落としたことで現れたホーム画面には幼い双子の兄妹とその後ろで微笑む両親の家族写真が壁紙として設定されていた。
「そうそう、これ渡しとく」
 それから思い出したように言って十代の手がアキの携帯に触れる。渡すと十代はアキの携帯端末を自らの端末と触れ合わせてデータの送受信を行った。返された携帯の画面に「このデータを登録しますか?『新規登録*遊城十代』」と表示される。
「新居の住所と電話番号、それから俺の携帯のアドレスと番号。なんかあったら使ってくれ。メールは何もなくても使っていいぜ」
「あ、すみません」
「龍亞と龍可のことを書いたメールとか送るかもしれないけど、多分親馬鹿などうでもいい内容になってると思うから隙な時にでも開いてくれ」
「いえ、楽しみにさせていただきますね」
 世辞ではなくそう言う。十代という人に見える世界にアキはなんとなく関心を抱いていた。それに龍亞と龍可が元気かどうかわかるのは嬉しい。アキにとって双子は妹や弟みたいな存在なのだ。



◇◆◇◆◇



 空港から父の運転する車にいくらか揺られて龍亞と龍可が辿り付いたのは小綺麗な外観の一軒家だった。中に入ると、これまた小綺麗に内装が整えられている。龍亞はなんとなく疑問に思って両親に振り向いた。
「なんか、普通に綺麗。ちゃんと掃除されてるし。実は台所まで行くとしっちゃかめっちゃかとかそういうことなの?」
「龍亞、お前は母さんと父さんにどんな印象を抱いているんだ」
「ママは整理整頓があんまり得意じゃなくって、パパと龍可が片付けしてた。でもパパも時々ママと一緒になってデュエル始めちゃって、そうすると家が片付かない」
 だから着いたら俺と龍可で家の掃除するのかなって思ってた。龍亞が意外そうな声で漏らすと十代は愕然とした表情になって何故か拳を震わせながら握り締める。その横からヨハンが双子にこっそりと耳打ちをしてきた。
「父さんと母さんが日本に行ってる間に片付けのヘルパーさんを頼んでおいたんだ」
「ああ、なるほど。納得した」
「じゃあやっぱりその前は汚かったの?」
「龍亞や龍可が思ってるほどじゃない。母さんは母さんなりに頑張ってる」
「そっかぁ」
 龍亞は十代の手を取って背伸びするときらきらした無邪気な瞳で十代を見る。ヨハン譲りの瞳だ。龍亞はその屈託のない眼差しでもって母親を見つめ、慰めようと口を開いた。
「ごめんママ。俺もママと一緒に頑張るよ」
「龍亞……」
「ねえママ、パパ、それはともかく中に入っていいかしら。私お腹空いちゃった」
 やたらと感動的に抱擁を始めた母子の流れを切って龍可がそう冷めた目で言い放つ。十代と龍亞はなんだか勢いを削がれた形になってしまっておずおずと抱擁を解き家に上がり込んだ。三つの違った感触の足音が玄関から遠ざかって行く。玄関口には旅の荷を家に運び込むヨハンだけが残された。
「龍可はシビアだなぁ」
 ヨハンが誰に似たんだろう、とぼやいた後に思い立ったように手を叩く。
「ぐれてた頃の十代だ」
 世界の罪を一人で背負おうという勢いでやさぐれていた、あの異世界から帰還してしばらくの間見られた以前にも増してドライな態度を取っていた十代だ。その一方で龍亞の無邪気さ、ヒーロー願望なんかはもっと純真だった子供の十代に似ている。子供達は二人が二人とも母親似に育ったのかと思うとやや寂しかった。
『僕は、二人とも君に似てると思うけどねぇ』
 背後に唐突に現れたユベルは腕組みをして唸った。


 キッチンの奥から十代と龍可が大皿を持って出て来る頃合になってヨハンと龍亞はソファから起き上がった。点けられたテレビからはドイツ語のニュースが流れている。ネオドミノを出たことのない龍亞にはちんぷんかんぷんだったので隣に座っているヨハンがかいつまんで説明してやっていたのだが、それでも龍亞はよくわからないらしく首を傾げていた。
 ダイニングテーブルの上に母手製の料理が並べられていく。何が出るのかと思ったらエビフライとマッシュポテトにサラダ、そしてライスだった。カップからは馴染みのあるインスタントスープの匂いがする。味の濃いコンソメスープだ。
「もっとこう、ドイツ! って感じの料理が出るもんだと思ってた」
「お望みなら作ってもいいけど、ドイツの料理は質素だぞ。それに母さんは日本人だからこういう日本っぽいものの方が得意なんだ。龍亞は夕飯に黒パン出しても絶対残すだろうし」
「黒パン?」
「ドイツ名物酸っぱい麦芽パン。キャベツの酢漬けとかソーセージとかを併せて食べる」
 龍亞の口からうへぇ、という声が上がる。その隣で龍可も微妙そうな顔をしていた。二人とも酸っぱいものはあまり得意ではないと見える。
「だったらエビフライの方がいい」
「そう言うと思った。ちゃんと野菜食べるんだぞ」
 四人でテーブルに着いて「いただきます」と声を揃える。各々の前にはフォーク・ナイフ・スプーンと並んで箸も沿えてあって、双子はやや迷った後にフォークではなく箸に手を伸ばした。それから見てみると父も母も箸でライス……というか椀に入った白米を食べている。日本人らしい母はともかくどう見ても西洋人の父が美しい手付きで椀を持ち箸で米粒を口に運んでいる光景はなんだか奇妙なものだった。
「なんでパパとママだけお茶碗で俺達はお皿にご飯よそってあるの? 俺もお茶碗がいい」
「二人は学校に行ったら箸を使わないで食事する機会が増えるだろ。どうしてもって言うのなら茶碗も出すけど」
「あー、そっか学校かぁ。お弁当じゃないんだ。だったら慣れとかないとダメかな」
「それにしてもパパ、お箸使うの上手なのね」
「まあ父さんは日本が長いから。十七で日本に留学してから日本びいきなんだよ。箸ってかっこいいし」
 ニュースキャスターの早口言葉をバックグラウンド・ミュージックにしてそんな他愛のない会話が続く。家族で囲む家庭の食卓は実に五年振りのもので、あまり記憶になかった母の手料理も五年振りのものだった。見た目も味もごく普通の家庭料理だが、龍亞と龍可にはその料理が無性に懐かしいものに感じられた。
 両親と別れている五年間はヘルパーの用意する食事と、それから出来あいの惣菜とインスタント食品が双子の食事を占めていた。その一切に母親の愛情というものはなくて、勿論ヘルパーの用意したものが不味かったわけではないのだがとかくぼそぼそとした食事だった。遊星達のところに入り浸って食事までとってくることが多かったのはそのためだ。クロウや遊星、ブルーノ、そして時々アキが作って大人数で囲む食事には温かみがあった。
「やっぱりママのご飯がおいしい」
 龍亞がしみじみと呟く。
「クロウの大雑把な料理も、遊星の素朴な料理もアキ姉ちゃんの妙に気合いの入った料理も皆いいけどママの料理が一番ほっとする。こういうのなんだっけ、おくらの味? って言うんだっけ?」
「それを言うのならおふくろの味だと思うわ」
「あー、そうそうそれ」
 龍可の訂正に龍亞が手を叩いた。十代が「遊星の料理?」と話題に食いついてくる。聞きたそうな顔をしているので龍亞はかいつまんで事情の説明をしてやることにした。特に込み入った話でもない。
「遊星、WRGPっていう大会に出てる間チームメイトのクロウとジャックとブルーノの男所帯四人で生活してたんだ。ご飯は遊星・クロウ・ブルーノの持ち回りで作ってたみたいなんだけど、時々アキ姉ちゃんと俺達も顔を出してご飯の準備を手伝ったりご飯を一緒に食べたりしてた。皆で食べる時は殆どいつもクロウとアキ姉ちゃんが用意してたんだけど、たまーに遊星の作ったのも食べられた」
「炒めたパスタとか、チャーハンとか、そういうの。遊星って器用だから料理も結構上手いのよ」
 説明を聞いた十代はほほうと感心したような声を出して唸った。察するに遊星が料理を作れるとは思ってもみなかったのだろう。意外そうな表情がありありと見て取れる。
「流石遊星……俺があの年頃の頃はなんも料理なんて作れなかったな……」
「へー。そうなんだ?」
「昔の母さんの料理はまあすごかった。何か焼くと必ず焦がすし、揚げても焦がした。蒸すと鍋を焦がす。茹でると水の中に入れたものが変色してる。これだけ料理が作れるようになったのは父さんと結婚して二年ぐらい経ってからだ」
「パパ、その間ご飯何食べてたの」
「そりゃあ母さんの作ったものに決まってるだろ。十代が作ったものはなんだっていいんだ」
「嬉しいけど、今思うとヨハンはよくお腹壊さなかったよなぁ」
 十代が懐古しながら言う。自分でもあの頃の料理スキルの悲惨さというものはわきまえていて、あの数々の「食材の成れの果て」があまり食べられたものではなかったことぐらいは自覚していた。それでもヨハンは文句ひとつ言わず、顔色一つ変えずそれらを食べ切っていつも「いただきます」「ごちそうさま」「ありがとう」を欠かさなかった。何かの儀式と勘違いしていたんじゃないかと疑うくらいにだ。
「ファラオですら時々お腹を壊してたのに。ヨハンの胃袋、どうなってんだ?」
「愛する十代に最適化されてるのさ」
 ヨハンが真顔で言うと、十代が「ばか」と小さく俯いて顔を赤くする。龍亞と龍可はああまただと思って箸を動かし続けた。父は母に甘いし、溺愛していていつだって気恥ずかしいことを何の躊躇いもなく言ってのける。
「遊星がさ、パパぐらいストレートだったらアキ姉ちゃんはあんなに焼きもち焼かなくったってよかったんじゃないかって思う」
 龍亞がエビフライをタルタルソースにどっぷりと浸けながらぼやく。
「嫌よ。そんな恥ずかしい遊星見たくないわ」
 すると龍可は目を伏せてきっぱりとそんな返答を寄越した。幸いにも、惚気あっている両親の耳にその辛辣な一言は聞こえていないようだった。
 双子から見て、まあヨハンという人の言は実にストレートで気恥ずかしいものなのだ。西洋人だからというのはあるだろうし、母がそれを嫌がらずに好意的に受け入れることを知っているからであろうとも思う。だがそれにしたって恥ずかしい。二人の愛は強すぎる。
「新婚の頃とか絶対一緒にシャワー浴びてたタイプだよ。きゃーきゃー言いながらさ」
 エビフライを飲み込んでから横目で見ると、何故か母が父に頭を撫でられている。妙な若さも相まって冗談でなく新婚夫婦のように見えなくもなかった。だけど子供は十四歳だ。
「……俺達がいない間、ずっと二人でシャワー浴びててもおかしくないような気がしてきた」
 龍亞の言葉に、龍可もひっそりと同意した。



◇◆◇◆◇



 風呂にも入れ、とりあえず荷物整理は明日に回すことにして子供達二人は寝かしつけた。それぞれのベッドですやすやと寝入る子供達の寝顔を覗き込んで幸福そうに微笑んでから十代とヨハンは子供部屋を後にする。リビングの照明はルームランプ一つを残して全て落とされていて、薄暗かった。月明かりが窓から入ってきて二人を照らし出す。壁に映る人影に変化が現れていく。
 人肌の滑らかな皮膚から無造作に翼が生えだした。明らかに人の物ではなかったが、確かにそれは「ヨハン」のもので「十代」のものだった。二人の体の一部に相違なかった。異形だが、しかし半人半精の二人の存在を支えるものだった。
 十代の背からは、悪魔の翼。ヨハンの背からは、天使のものに似た純白の翼。まるっきり正反対の性質と外見を持つ翼が顕現する。それに引き寄せられるように、子供部屋から現れる精霊の姿があった。龍可のエンシェント・フェアリー・ドラゴンだ。
『……ドラッヘ。宝玉神。……お帰りなさい』
 「ドラッヘ」と呼ばれた十代――ユベル‐Das Extremer Traurig Drachen――と「宝玉神」と呼ばれたヨハン――究極宝玉神 レインボー・ドラゴン――が二人揃って「ああ」とエンシェントフェアリーの声に応える。二人は「ただいまエンシェント」と声をかけて妖精女王に微笑みかけた。
「エンシェント・フェアリー。五年の間子供達をありがとう。感謝してもしきれない」
『いいえ。龍亞と龍可を守ったのは私の力ではありません。龍亞と龍可自身が持った勇気と二人の仲間達の意思の強さが二人を守り抜いたのです。……そして、赤き龍も』
「赤き龍。シグナーの守護者か」
『ええ』
「……龍亞は、……ライフ・ストリームは目を覚ましたのか?」
 十代の問いにエンシェントは至極申し訳なさそうに頷く。精霊界の木々がざわめいた。精霊界の女王竜の悔恨を映しこんで風が凪いでいる。
『最後の、最後に。仕方なかったのです。龍可は死にかけていた。ライフ・ストリームが目覚めて龍亞がシグナーとしての能力を行使するほかに生き残る方法はありませんでした。申し訳ありません。あなた方との約束を果たし切ることが出来なかった』
「いや、いいんだ。それだけで十分だ。最後だったってことは、そう力を使う前に龍亞はシグナーの痣を失ったということだろう。あの子は自身に起こった異変にまだ気付いていない。であるならばまだ大丈夫だ。本当にすまない、エンシェント。女王であるその身に重責を負わしてしまって、すまない」
『……謝らないで。謝罪すべきは私の方です。一時期外的要因の介入で封印されていたとはいえ、力及ばなかったことは全て私自身が招いた罪。だからそんな顔をしないで、宝玉神、ドラッヘ。貴方達の誇り高く美しい心を痛めないで』
 エンシェントがそう言うとヨハンと十代はやや自嘲気味に俯き、寂しい笑顔を浮かべた。「よしてくれ、エンシェント」十代が冷めた声で言い放つ。
「俺達は半人半精の異物でしかない。精霊を束ねるお前が気を遣う相手じゃない。カードに描かれた時星が多いからなんだってんだよ。……お前の誇り高さに比べたら、俺なんか塵芥だ」
『あなたは、まだそうやって自身を卑下するのですね。ドラッヘ、遊城十代である自身もユベルである自身も否定するのですか? 私は、それはとても悲しく感じます』
「ユベルは卑下しない。彼女は高潔で美しい。だが俺という生命は酷く中途半端だ。俺は、君が言うように美しくない。子供達のそばにいてやることも出来なかった駄目な親だ」
『貴方達が受けた仕打ちを知ってそんな心ないことを言うものは居ませんよ』
「わからないよ」
 十代は吐き棄てる。
「人間ってそういうものだ」
 十代の言葉にエンシェントは返す言葉を失ってしまい、その美しい羽をしょんぼりと下げる。闇属性悪魔族の彼女は人の心の闇を読み取ることに長けていて、だからその分人の汚らしさを熟知していた。人間という生き物に希望を抱いている彼女はしかし誰よりも人間のおぞましさを目の当たりにしていた。
 だがそれは仕方のないことだ。もし全ての人に温かい心があるのだとしたらあのような痛ましい事件も、両親が子供と引き離されてしまうなどということも起こらずに済んだのだ。
 二人は人の持つ恐ろしさの犠牲者だった。誰よりも人の醜さに触れていて、それに傷付けられていた。
 だが二人はそれでも人を愛している。「人間の愚かしさこそが愛すべき点で、だから俺は、何をされたって人を嫌いにはなれない」。かつて十代がエンシェントに言った言葉が甦った。ドラッヘ、遊城十代は誰よりも気高く美しい魂を持っているのだった。
「……それで、龍亞はその後どうだ? ライフ・ストリームはどうしてる」
『龍可を助けるために出てきたあの子は赤き龍のコントロールを受けていましたから、暴走もなく赤き龍の消滅と共にエクストラに戻りました。今はパワー・ツールの殻と自身の寝床であるライフ・ストリーム・ドラゴンのカードの中を行ったり来たりして寝ています。あれ以来はっきりとライフ・ストリームが起きたことはありません。赤き龍が最後にあの子に微睡を与えて去って行ったからではないかと私は思っています』
「そうか。赤き龍がライフ・ストリームを抑えててくれたんだな……なあ、エンシェント。いつまでも龍亞とライフ・ストリームの力は俺達が押さえ込んでおけるものではないと思うし、抑え込んでおけるものでもないと思う。いい機会だと思うんだ。なんとか安全に二つを解放してやる術はないだろうか?」
 ヨハンが思案しながら問う。エンシェントはその問いにわからない、と言うようにゆっくりと首を横に振った。龍亞の能力は未知数だ。ライフ・ストリームの幼い無邪気ゆえの力の恐ろしさもまた同時に未知数で、それを引き金に何が起こり得るかわかったものではない。
 龍亞の能力暴走、《精霊暴走》が起こったから二人はよからぬものに目を付けられた。その悲劇をまた繰り返すべきではない。
『お忘れですか、あの件をきっかけにお二人が惨い目に遭われたのだということを。勿論龍亞にもライフ・ストリームにも負い目はありません。しかしそれが惨事の元であったことは事実なのです。私は一概に賛成することは出来ません』
「……あの組織はもう俺達二人で潰した。跡形もない。あの規模で再生するのは無理だ」
『ですが、万が一ということが有り得ます。何が起こるかわからないのです。人間一人一人ではあなた方の強大な力には及ぶべくもないでしょう。けれど結束された時、太刀打ち出来なくなっていることは十二分に有り得る。……私は、あなた方がまたあのようなことに巻き込まれる可能性を看過出来ません』
「……エンシェント」
『ドラッヘ、宝玉神。あなた方は、ご自身が思っておられるよりもたくさんの方々を心配させているのですよ。無理はなさらないでください。龍亞は、よくやっています。……今すぐにということもないでしょう。時間をかけてゆっくりでもいいはずです』
 エンシェントの言葉は次第に懇願と叱咤が混ざったものになっていった。彼女は精霊界を統べる女王で、そしてヨハンと十代の理解者の一人で二人の良き友だった。ヨハンと十代は顔を見合わせて頷く。
「わかった。お前の言う通りかもしれないな。……龍亞に本当に必要になってからでいい」
『私も、龍可を通じて龍亞を見守っています。あなた方も……』
「わかってる。ようやく社会復帰もままなってきたところだ。やることは確かに山積みだ」
 明日は休暇明けで出勤しなければならない。そろそろ重役会議という名の家族懇談会もあることだろうし、そうするとヨハンばかりでなく近いうちに十代も出掛けなければならない。
 大分昔に、十代が「専業主婦になりたい」と言っていたことを今更ながら思い出す。今の十代は半分主婦で半分は研究助手だ。このご時世、仕事があるだけ有難いのだから文句ばかり言っているわけにもいかないのかもしれない。
「まあ、一週間は子供達と一緒に俺は家にいるよ。異国風土に馴染ませとかないといけないし。ヨハンはもう仕事だっけ?」
「支社の方にな。本社出向はもうちょっと後。その時は十代も一緒にアメリカ行きだからちゃんと準備しておけよ」
「あー、マジか。ま、しょうがないか……そん時はエンシェント、悪いけどまた龍亞と龍可をよろしく頼む」
『ええ。勿論』
 エンシェントは快諾の旨を示して、そろそろお休みになったらどうです、と二人に就寝を促す。時刻は深夜二時を回っていた。十代がその事実に慌てだした。何事かと尋ねると「肌荒れが」なんて呑気な返事が返ってくる。
「夜更かしは肌に良くないって散々明日香に言われたのに」
「大丈夫。十代の肌はそんな簡単に荒れたりしない」
「ああもう、どこにそんな根拠があるんだよぉ」
「俺の胸の中に……」
「ヨハン、くっさい」
 騒々しくも微笑ましい遣り取りにエンシェントはくすりと笑む。あの陰惨な出来事の後でも、二人の人間性というべきか本質というものは変わっていないのだった。
 多分それは、二人が人間でなくなってしまった瞬間から焼き付いてしまったものなのだ。
「Beautiful World」‐Copyright (c)倉田翠.