Beautiful World

08:リチュアル(01) ボーイ・ミーツ・ラバー

 だからそれは、不可避の事故だった。

「あ……」
 あまりにも白い肌が、シャワーの雨に打たれて全身水濡れになっていた。強烈なコントラスト。眩暈に似た衝撃。襲いくる、背徳的な欲望。
 手を、伸ばしたいと思う。触れたいと思う。肌の柔らかさを、美しさを、その人の香りを確かめてその中に埋もれてしまいたい。指が蠢くのを止めることが出来ない。愛おしい。
「止め、ろ、」
 制止の声も何の抑止力にもならない。ヨハンはそのうつくしい裸体を晒す「親友」を腕の中に抱いて唇を奪い取った。シャツ越しに柔らかい右胸部と骨張った左胸部が擦れて触れる。閉じようとする唇を割ってただ本能のままに舌を差し入れると、その人は呼吸が苦しいのか顔を歪めた。そのまま貪るようにその人の口腔を、息を吸い取った。絡まった舌、漏れ出るくぐもった熱を孕んだ吐息。頬が赤く染まる。熟れていく。
「ぁっ……、あ、は、ぁ、」
 互いに息切れを起こしたあたりで解放すると、シャワールームに二人分の荒い呼吸音が満ちた。ある種扇情的な、だが薄らと毒を孕んだクランベリーの赤桃色。その人の体は酷く美しい黄金比のような精緻なバランスで構成されていた。ヨハンの知っているものではなかった。ひたすらに美しかった。ひたすらにおぞましく、蠱惑的で、魅惑的であった。
 その人の体は重心の存在する中心線を境として左右ではっきりと性別が分かたれて不思議に共存しているのだった。左半分は見慣れていた男の体。右半分が見知らぬ女の体。少なくともヨハンが出会ったころは間違いなく左右とも男の体を持っていたはずなのに、これはどういうことなのだろう? だがその疑問はすぐに泡となり弾け、奇妙な理解だけが降りてくる。ユベル。これはその人に狂質的な執着を見せるその精霊がもたらした変化なのだと、理由もなくヨハンは悟った。ユベルは半分の男の憎悪と半分の女の狂愛を併せ持つ雌雄同一の存在なのだった。
 ヨハンは堪らなくなってその人の体を掻き抱いた。頽れてしまいそうに華奢な体だった。少し握る力を強めただけでぽきりと折れてしまいそうだった。
「……ど、して、」
 こんなことを、しているんだ? 力なくもたげられた顔に嵌っている瞳がそう問いかけてくる。高潔な、気高い瞳。だがその瞳を持つ体は今ヨハンに支配されかかり自由に動かすこともままならない。ヨハンの指がその人の体を上から下へ隅々までなぞり込んでいく。柔らかな感触。心地の良い感覚。ヨハンは僅かに目を瞑った。どうしようもなかった。
 抑えようのない、堪えようのない衝動がヨハンの前身を隅から隅まで奔り渡った。
 一言で言ってしまえば、それは発情期の雄の欲情だった。紛れもなく。

 抱いた時、その人はこれといった抵抗も見せず非難の声も何一つ上げることはなかった。ただ高潔な瞳だけが無言でヨハンを見上げていた。時折、苦痛からなのだろうか、その瞳が痛ましげに細められる。その表情がヨハンを更に突き動かす。深みに堕ちていくスパイラル。きりがない。
 色付き起き上がった男性器の下に、慎み深く思慮深く逃げ惑う乙女のように隠された女性器が備わっていた。とても恐ろしいことに、それは本当に完全な女性器だった。昔は間違いなくなかったものだった。昔は、その人は完璧に雄に分類される生き物であった。中途半端に二つの性を併せ持ってヨハンを危うくするような要素などなかった。
 無言のまま、肉と衣が擦れる音、流れっぱなしのシャワーのザーザーという無機質な音だけが響き渡る。嬌声は殆どがヨハンの口と、そしてシャワーの音に吸い取られて何処か暗い所へ消えていった。不意に、その人の顔付きが危うくなる。儚く消え入りそうになる。一際強く抱き締めると、二人揃って果てた。
 その後はもう記憶にない。暗闇と排水溝が水を流す音、閉じられた目蓋、それらの断片的な記憶だけが刹那の奥底にこびりついている。



◇◆◇◆◇



 逃げるようにアカデミア島を飛び出し、当てのない放浪の旅を始めてから一ヶ月が経つ。途中でいくつか事件に巻き込まれたが、中でも一昨日のはとびきりのアクシデントだった。未来から来たという青年、不動遊星のかっこいいバイクに乗せて貰ってタイムリープした先にいたのはあの武藤遊戯。そして三人でパラドックスを打ち破り盗まれたカードを取り戻した。
「……で、どうしたもんかなこれ」
『一応返してやったら? まあ僕としてはそっちの白いのはどうでもいいんだけど』
 レインボー・ドラゴンとサイバー・エンド・ドラゴンのカードを交互に眺めて十代は溜め息を吐く。サイバー・エンドの方はまだいい。カイザーは居所も掴めているし会うにあたってやましい気持ちもない。問題はレインボー・ドラゴン、その持ち主のヨハンなのだった。
 卒業式の直前のあのシャワールームでの出来事は記憶に新しい。薄ぼんやりと浮ついてけれど生々しい記憶だ。「ヨハンの」感触。隅々を支配した彼の人のにおい。色情、荒々しい交わり、室内を満たすそれら全ての不純物を吸い取って洗い流していくシャワーの奔流――
 考えただけでくらくらとしてくる。一時の過ちとして流してしまうにはその出来事はあまりにも衝撃的で情熱的だった。予想だにしていなかったアクシデントで、だがこれといった感慨はないのだった。
 事態があんまりにも突飛すぎて一ヶ月経った今でも上手く呑み込めていないのではないかと思う。熱に浮かされたかのような覚束ない意識の中に残っているのは腹を圧迫する熱と脳随を溶かすヨハンのにおいただそれのみで、交わったのだという実感はあまり得られていなかった。そもそも十数年を男として過ごしてきて、今もそのつもりである十代の感覚の中には抱かれるという概念そのものが存在していないのだ。
 ユベルと自身を超融合する選択を取った十代は仲間達を現実に帰還させた後に「大人になる」ため十二異世界を放浪する旅に出た。現実世界に帰ってきてみたら僅か七日しか時が過ぎていなかったらしく逆浦島状態もいいところであったが、まあ不都合はない。むしろ七日では絶対に慣れることの出来ない事象に馴染むことが出来たという点において非常に貴重な一年あまりに渡る日々であった。
 女の性を得た十代がまず手始めに経験したのが第二次性徴の訪れだった。ある日突然十代を襲った、下肢の股割れから鮮血が漏れ出るという「異常事態」を察知してユベルはただぽつりと『初潮だよ』と言って君も名前ぐらいは知ってるだろ、と腕組みをした。
『月に一度女に起きる生理現象。子供を産むために必要不可欠な反応。君には必要ないと思うんだけど、まあ面倒なことになったねぇ』
「面倒なのか?」
『痛いしだるいし集中出来ないしでろくなことないよ。個人差はあるけど』
「……痛いのか」
『場合によっては男が股間を蹴られるより酷い』
「うえぇ……」
 ユベルの説明に十代は気怠い返事を返す。女性というものは忍耐強い生き物なのだなぁと考え、舌を巻いた。明日香やレイ、美寿知、ジュンコにモモエ、十代が知る女性達の姿が脳裏を過る。彼女らは毎月そんなものに苛まれていたというのか。頭が下がる思いだ。
「男って楽なんだな」
『まったくもってね。いつの時代も偉いのは子を生み育てる母だよ』
 ユベルが知ったふうに言った。十代の記憶が正しければユベルは人であった頃少女ではなく少年だったはずなのだが一体精霊になってからユベルに何があったのだろうか。
 そんな会話を交わした後、十代は身をもって月経というものの痛みを味わうことになる。月に一度、周期的に訪れる腹部の鈍痛。定期的な出血による鉄分不足が体調不良を引き起こすこともあった。自分に宿る「女」を、まざまざと自覚させられる。男を基準としているはずの体に確かに反対の性別があるのだと知らしめさせられる。
 とはいえ初めのうちこそあたふたとすることもあった十代だが、半年も放浪を続けているうちに慣れてわりと気に留めなくなっていっていた。面倒だが対処出来ないことではないし、とりたてて不便なこともない。そう思って放っておいたことがまさかあんな事態に繋がるとは思ってもみなかったのだ。
「……やっぱ、会うの怖い」
『そう』
「なんでだろ、嫌いなわけじゃないんだ。ただわからない。前はなんでもわかるつもりだったヨハンのことが、急に全然わかんなくなっちゃった感じ。ヨハンが俺に何を求めて見出そうとしてるのかさっぱり見当もつかない。俺はあいつの親友のつもりなのにヨハンの中ではそうじゃなくなってしまったのかなっていう疑問が頭の中を通り過ぎていって、ヨハンに会ってその仮定を肯定されることが怖い。……俺、多分さ。ヨハンの親友でいたいんだ。関係が変わってしまうのが怖い。俺の中の気持ちを確かめるのが怖い」
 手を握り締める。思い出すのはヨハンと出会った時のことだった。あっという間に意気投合して、二日と経たないうちに数年来の仲であるかのような親密な関係になった。お互いを分かり合っている気の置けない友で、大事な親友だった。
 あの頃の十代はなんにも知らない馬鹿だけど素直な子供で、世界は単純に自分と少数のものでまわっているのだと思っているような節があった。十代の世界の何割かはヨハンになった。世界を構築する要素であるヨハンのことは手に取るように理解出来るし、ヨハンの方も十代のことを分かり尽くしていた。二人は異様なまでに密接なツーカーだった。本当はあの時気付くべきだったのだ。そうあることの異常性に。それがもう友の距離ではないことに。
 失ってみて、初めてわかるものがある。十代はヨハンを失い狂乱する一方でごく僅かに、己の依存を冷徹に分析する自分を持っていた。十代はヨハンに縋っていた。ヨハンがいなければ駄目な性質に変貌してしまっていた。異世界で十代はその嘆きを暗い意志に変える。――仲間に拒絶されて居場所を失ったそのうえにヨハンがいなくなってしまったのなら、こんな世界は、要らない――。
 絶望と嘆き、虚無が覇王を十代の奥底から引き摺り出す。ヨハンへの依存は紛れのない事実だ。依るべがなくなってしまったのならば、依り添うものを必要とするこの世界そのものを破壊してしまえばいい。覇王はそう囁いた。ヨハンのいない世界に意味なんてない。
 十代は心を棄てた。手のひらの中に残ったのは冷たく凝り固まった力と、自身を理解しようとしない世界への拒絶、そしてそれでもなお忘れ得ぬヨハンを渇望する本能だった。
 あれが一体どういう感情だったのか、十代は未だにその判断を決めかねている。恋の感情なんて生易しいものではないだろう。片割れを失った双生児の心境だったか、或いはもっと悪質な何かか。考えようとすると乾いた叫び、悲鳴と嗚咽が今でも蘇ってくる。永遠に治らないかさぶたを無理矢理に剥がそうと試みているようなものなのだ。
「ヨハンが俺を女として求めているってことなのか? わかんないんだ。わからない。ヨハンにどんな答えを返せばいいのか、俺自身はヨハンの何になりたいのか。親友のままでいたい、本当にそれだけなのかなぁ? 答えを見るのが怖くて怖くて逃げ惑ってるだけなんじゃないかって思うんだ」
 十代が零す。ユベルは何も答えなかった。疑問の答えは十代の中にしか存在しない。
 ユベルはヨハンのことを嫌っていたけれど、でも十代にとってヨハンがどれだけ大事な存在なのかということをきちんと理解して弁えていたから、こういうことに水を差したり茶々を入れたりはしないのだった。十代が望むことに彼女は文句は言うけれど反対はしない。ヨハンも十代のことを大切にしているのだと彼女は知っていたし、そういう点においては信頼してもいる。
 それでもユベルがヨハンのことを快く思わないのはひとえに彼らが非常にそりの合わない性格をしているからだ。ヨハンの方はそうでもないみたいだがユベルはヨハンのあのきらきらした性質が大嫌いなのだった。綺麗ごとばかり言って現実を知らないんだとはユベルの言である。
『……そういえばさ』
「ん。どうしたユベル」
『あまり言いたくないけど、十代、最近君妙にオレンジが好きだよね』
「あー、そういやそうだな。なんか無性に食べたくなるんだ」
 十代がそれで返答を終えると沈黙が二人の周囲に降りる。表情からして、彼女は何やら心配をしているようだった。だが何をだろう。オレンジばかり食べていることで何の弊害が生まれるというのか。糖分の摂取過多あたりだろうか?
『一応、市販の検査薬か何かは試しておいた方がいい。陣痛が起きてからじゃ遅いし』
 ややあってから唐突にユベルが切り出した。
「ユベル、何の話をしてるんだ」
『だから!』
 十代がきょとんとして尋ねると我慢ならないようにユベルが叫ぶ。十代は驚いて目を見開いた。
『妊娠していないかどうか確かめておくべきだって言ってるんだよ十代! 君は最近嗜好が変わってきてる。オレンジばっかり買う。買ったら残さず食べる。……柑橘類を好むっていうのは妊娠初期のよくある症状なんだ。それに君の場合は心当たりがある』
 だが、その後に続いた言葉に爆笑してしまう。妊娠? 十代が? 突拍子がないにも程がある。十代はきりきりした表情を見せるユベルに笑いながら言ってやった。
「ないない、有り得ない。俺が妊娠? 男だぜ、俺。冗談にしたって面白くもない。たった一度っきりで、しかもよく覚えてもいないのに」
『でもね十代。雌雄モザイクで男に抱かれるっていうのはそういう可能性があるってことなんだ。君はわかってない。君は男のつもりかもしれないけど、あの時紛れもなくヨハンは君を女として抱いて欲情して、躊躇うことなく孕ませようとしたんだ』
 それでもユベルは食い下がる。十代は一笑に付した。
 いくらなんでも考え過ぎだ。


 しつこいユベルの言葉にとうとう根負けして恥を忍び検査薬とやらを買いに行ったのはカイザーにサイバー・エンドと一緒にレインボー・ドラゴンを託してから数日、つまりパラドックスとの決戦の日から十日が過ぎた日のことだった。なんでこんなものを、となんとなく納得がいかない気分のまま細長い箱を開封する。出てきたキットは薬というよりは体温計に近い見た目をしていた。
 説明書を適当に読んで指示通り使用する。インジケーターにラインが浮かべば陽性、何も出なければ陰性。シンプルだ。
「めんどくせぇなぁ……」
『大して面倒でもないから頼むよ十代、やって欲しいんだ。結果次第によっては僕にやることが出来る。そんな気がしてね』
「物騒なこと言ってるんじゃない」
 背後で腕組みをしてじっとインジケーターを覗き込んでくるユベルに溜息と共に呆れ声を返してやる。またヨハン嫌いが出ているのだ。結論が相変わらず一足飛びでおかしい。
 二人分の眼に凝視されたインジケーターの中に簡易検査の結果が現れるのにそう時間はかからなかった。円形の小さな窓の中に変化が起こる。ユベルがそれを見て息を呑むのがわかった。十代自身も間の抜けた顔をしてしまう。
 インジケーターには反応ありを示す紫のラインが浮かび上がっていた。
「……陽性」
 その結果が何を差し示しているのか、理解が降りてくるまでにたっぷり五分以上の時を要した。妊娠検査薬の結果が、陽性反応。それってつまりそういうことだ。
 腹の中に命が宿っているということ。
「嘘だろ、おい」
 思わずそんな言葉が口を突いて出る。ユベルは結果を覗き込んでしばらく固まっていたが、やがて全身をわなわなと震えさせてその後に背から生えた悪魔の翼を前振れなく大きく広げた。
『本ッ当に、やったなあのけだもの……ッ!』
「ゆ、ユベル?」
『十代を。僕の十代を。孕ませるなんていい度胸してるんじゃないかい、ねぇ? 決めたよ。地の底まで追い掛けて這い蹲らせて散々に蔑んだ上で僕の気が済むまで謝罪させてやる。それでもまだ温いよ。ああ、どうしたら僕のこの苛立ちは収まるのかなぁ!』
 気を完全に逆立て、荒々しく吐き棄てるとユベルはヨハンをどういたぶってやろうだとか、果てにはもういっそ抹殺してやるだとかそんなことを次々に捲したて始める。十代は慌てて彼女を押し止めるべく瞳を発光させて動きを縛った。放っておいたらどこにいるかわからないヨハンを見付け出して十代の知らぬ間に亡き者にしてしまいそうな勢いだ。
「やめろ、落ち着けユベル! 腹の子が産まれたらヨハンは父親になるんだぞ!」
『それが何……っていうか十代、まさか君産むつもりなのかい?!』
「え、ああ、うん」
 ユベルの筆舌に尽くし難い迫力に押されるようにこくこくと頷く。
「そりゃ、まあ。せっかくの命だし……」
 ヨハンの子だというのならなおさらである。そう付け加えてやるとユベルは激烈に怒りを露にして叫んだ。
『あ、ありえない。あんなの強姦とそう変わらないのに君ってどこまで人がいいんだろう』
「強姦……なのか……? 俺、別に嫌だと思わなかったし。よく理解が追い着いてなかっただけでさ」
 「そっか、ここに命があるんだ」。そう言って十代は腹をすっと撫でる。奇妙なまでに十代は落ち着き払っていた。ユベルが十代の分以上に騒ぎ立てるものだから十代の中の驚愕というものが軒並み吹き飛んでしまったのかもしれない。ユベルと十代は一心同体に相違ないのだ。
 一月前のシャワールームでの出来事はあいかわらず夢うつつで現実味がない。そこに妊娠というワードが覆い被さってくる。怒りはないし恨みもない。なんだかふわふわして嬉しいような気さえする。
 だがそれでも十代はヨハンに会う気はなかった。腹に命が宿るということは母になるということで、一般に母親というのは女性を示す言葉だ。ヨハンの前に子供を連れていけば必然「そういうふうに」ヨハンに接しなければならない。十代はそんな関係になることをまだ受け止められなかった。命に対する喜びと変化するかもしれない関係への恐怖がないまぜになって十代の足を押し留めていた。
『会わないって言っても、父親なしでどうするつもりなんだい。あいつは君のことを愛してる。それだけは僕も認めざるを得ないところで、だから多分無責任なことは言わないと思うけど』
「いいよ。一人で産む。……今はまだ、考えたくないんだ。そのうち答えが出るような気がして、それが逃げだってわかってはいるんだけど、この小さな命をないがしろにしたくないって気持ち以外ははっきりしない」
 それに子が出来たのだと言ったってヨハンも困るだろう。ヨハンはまだアカデミア・アークティックに在学している学生だ。卒業時期が日本の本校とずれている関係で彼は後二ヶ月と少しの間は高校生なのである。



◇◆◇◆◇



「なるほど、話は大体分かったよ。ファンタスティック、若さってのは怖いねぇ」
 吹雪が大袈裟に両腕を広げて肩を竦めて見せた。ヨハンはばつが悪そうに苦笑して、けれどその辛言に甘んじる。今吹雪に相談した内容は間違いなく若さゆえの過ちだ。言い逃れなんか出来っこない。
「僕もまだまだ若さを失ってはいないつもりだったけど君には負けたよ。完敗だ。……けれどその行動を君は後悔していないんだろう? だったら迷うことはあんまりないと思うんだけど」
「そりゃ、俺はいいですけど……向こうがどう思ってるのかさっぱりわからない。もしかしたらそれが原因で嫌われているかも……というか嫌われてしまっていると思う。現にあの後十代は何も言わずにアカデミア島を去ってしまったし、俺のレインボー・ドラゴンも取り戻してくれたけど返却はカイザー亮伝いで会ってくれなかった」
「ふむ。それはきついね」
「俺は十代のことが好きです。愛してる。もう四ヶ月会えていないけれどこの気持ちは変わりようがない。十代の代わりなんていない。……でも十代にとってはそうじゃないかもしれない。ライバルにしたって万丈目がいるし、カイザーもエドもいる。俺のことを恋愛対象としてなんか見てるはずもない。それどころか、あんなことの後じゃ友と思ってくれてるかどうかも怪しい」
「そうかそうか」
 吹雪は何故か楽しそうに頷いて向かい合っているテーブルの横の壁にかけてある小さなホワイトボードにマジックを走らせた。「胸キュンポイント」という大きな見出しの下に「加算十ポイント」と続く。
「……なんですか、それ」
「見ての通りさ。この恋愛マスター、愛の伝導師天上院吹雪の心にどれだけ君の想いが響いたかを数値で示す」
 「エンジョイン、テンジョイン!」吹雪がぐっと親指を突き出してハイテンションにウィンクした。そこに丁度紅茶の代わりをトレイに載せた藤原が通りかかる。藤原は流石に留年年数が多すぎるということで鮫島校長が特別措置を取り、筆記と実技の特別試験で九割を取ることで資格を認められ晴れて卒業の運びとなったらしい。
 かつて丸藤亮、天上院吹雪と並んで「三天才」と称された藤原にとってはそう難しい課題ではなかったのだろう。卒業後、彼は家事雑用をこなす代わりに吹雪の家に住み込んで何か研究をしているようだった。尋ねたが、守秘義務だと言われてしまったので内容は知らない。
「吹雪の趣味だよ。君は一年留学していただけだからあまり知らないと思うけど吹雪は重度のお祭り好きなんだ。とにかく騒動の中心にいたがる。僕も亮も、明日香ちゃんも随分苦労した。まあ物好きな相談しに来た分付き合ってやってよ。僕は遠くから見てるから」
 空になったカップに追加の紅茶を注ぎ込みながら藤原がそんなことを耳打ちしてくる。ヨハンは曖昧に笑った。話には聞いていたが想像以上だ。妹の明日香が落ち着いた性格で抑止力として動くことが多いのにはこの兄のもたらしたところが大きいだろう。時折明日香は融通がきかない時があってそれを不都合に感じたりもしたものだが、吹雪に十数年も付き合わされてきたのだと思うと納得せざるを得ない。
「藤原とカイザーはなんであの人と親友なんだ? 面白い人だけど、二人と性格が合うようには思えない」
「そりゃ、君と十代がどうして親友なのかって聞いてるようなものだよ。僕からすれば君達二人が同族嫌悪に陥っていないのが不思議でたまらない。……なんて言うかな、僕と亮は吹雪に自分にはないものを見出したんだ。違う存在だからこそ僕達は惹かれ合ってつるんでた。それにああ見えて吹雪はとても優秀なんだ」
 吹雪に聞こえないように小声で疑問を投げかけるとそんな回答が返ってくる。なるほどそういう考え方も確かにあるだろう。ヨハンの中にはないけれど。
 同族嫌悪、という藤原の言葉は実に的確にヨハンと十代が通常ぶつかるはずの問題を表していた。タッグでかかってこられた藤原はヨハンと十代がどれだけよく似た存在であるのか身をもって知っているのだ。
「でも本当に物好きだよね。こうなる可能性は低くはなかったけど本当にこういう運びになるなんて予想してなかったよ」
「俺自身もその自覚はしてる。一方通行だろうなと分析する自分もいる。でも一方で、俺が愛しているんだから十代も同じように愛を返してくれるんじゃないかっていう浅はかな期待もしてる……浅薄な思いだ」
「……君は頭はいいけれど夢みがちというか、馬鹿だよね」
 根拠もないのに自分の信じることを疑わない。そしてこと十代に関することにかけてはある意味天才的と言って差し仕えない程に盲目的で絶対の確信を持っていた。ダークネスの侵攻で全世界の人間が虚無の闇に呑み込まれていった時、ヨハンはそれをはねのけ生き残っている。盲目さが作用した結果だ。
「よく言えば一直線なんだろうけど、僕に言わせれば周りを確かめることを知らないうっかり者だよ。前提条件として、君にとっての十代は男なんじゃなかったのかっていう問題はあるけど――」
「ナンセンスだよ藤原。愛の前にそんな些細なことは問題じゃない。僕は昔翔君にも同じことを言ったけど、タブーを犯した禁断の恋ほど時には燃え上がるものさ。いやあ、あの時は男の醜い嫉妬の凄まじさをこれでもかと見せてもらってなかなかに面白かったよ」
「――相談に乗ってる吹雪はこういう奴だから僕も目を瞑っておく。ただ僕が思うのはね、君の行動はちょっと即物的すぎやしないかってことだよ。親友だと思ってた奴の体に胸が付いてたから……その、なんだ。襲った?」
 藤原が顔を顰めて躊躇いがちに確認してくる。ヨハンはしっかりと頷いて肯定した。藤原の顔が更に渋くなる。
「胸だけじゃなくて女性器もあった。多分、俺はそれを見てしまう前から十代のことを特別だと思ってたんだ。十代の半分が女になっているのを確認して、たがが外れてしまった」
「ヨハン君、それ僕らに言っちゃっていいのかい?」
 あけすけなヨハンの物言いに流石の吹雪もそんな心配をする。ヨハンは適当に思考を巡らせて構わないと返した。どうせ十代にはもう嫌われているだろう。
「吹雪さんも藤原も口は堅そうだし、だったら正確に話した方がいいと思って。……帰ってきた十代は以前のように子供っぽくなかったし、変に大人びてしまっていたからもしかしたら急に雌雄モザイクになってたとかそういうの関係なしに十代に欲情していたのかもしれない。とにかくここで大事なのは俺が十代を愛してて、何とかそれだけは知って貰いたいってことなんだ。何も考えずに抱いてしまったのは失敗だと思ってる。でも時には言葉よりも先に体が動いてしまう時がある。やってしまったことは仕方ない」
 ヨハンの演説に藤原は何とも形容し難い表情になり「いい加減すぎる」とぼやいた。その直後に「自分に都合のいいポジティブさはどこから湧いてくるんだろう」という疑問が続く。その横で吹雪は顔をきらきらと輝かせて手を叩いていた。叩き終わると右手がマジックを掴んでホワイトボードに新たな文字を描き込んでいく。――「加算五百ポイント」。
「ブラボー、素晴らしいよヨハン君! きょうびなかなか君のようにストレートな思いの丈を表現出来る人間は少ない。僕はいたく感動したね、実にワンダフルだ!」
「ど、どうも。ところで吹雪さん、あなたは明日香の兄ですよね?」
「勿論そうさ。明日香は僕の自慢の妹だよ。明日香より可愛い妹なんてものはこの世の中に存在しないね。目に入れてもいいよ」
「いいんですか? こんなに親身に俺の相談に乗って」
 ヨハンが吹雪の迫力に気圧されながら尋ねると吹雪は「ああそのことかい?」となんでもないように言う。その隣で藤原がこれから彼の言わんとすることを予期してかもはや表情を顔面から消して無表情のまま紅茶のカップの脇に置いてあった空のケーキ皿とフォークを回収してトレイに載せた。主の様子を見かねてか、筋骨隆々の天使族モンスター「オネスト」がふっと現れて藤原に何事か話しかけている。だが藤原はオネストの言葉に黙って首を振った。
「僕はね、恋愛は自由で誰にも開かれたものだと思っている。そこに性別の壁も人種の壁も年齢の壁も存在しない。あるのはただ一つ、どれだけその人のことを想っているか――さ。だから僕は特定の誰かを贔屓しない。一人の愛を見守る者として、明日香やレイちゃんのことも勿論君と同じように応援している。だけど今のところは君が頭一つ抜きん出ているかな。素直な評価さ。それだけのことだよ」
 一気に捲し立て、そしてウィンク。本当に愉快な人だ。あの寡黙なカイザーは、この人のアクティブさといい意味での傲慢さに振り回されることをむしろ楽しみとして受け取っているのかもしれない。そうでなきゃ友人なんてものがやっていられるとは思えない。
「必要とあらば僕は明日香やレイちゃんと同じように君の手助けもする。請われれば剣山君や翔君のこともまた同様に面倒を見るだろう。恋愛はやったもん勝ちさ、ヨハン君。十代君を……あー、抱いた、という点において君程さっさとやってしまったライバルもいない。文字通りに」
「剣山と翔? あいつらまさかそんな目で十代のことを見ていたっていうのか!」
「君が言えたことじゃないだろ、ヨハン」
 ヨハンが蒼然として叫ぶと藤原が耐えかねて口を挟んできた。一番「まさかそんな目で十代を見ていたなんて」と言われるのは今のところぶっちぎりでヨハンが相応しいのだ。罪状は「十代を犯した」この一点。性急すぎるし、直接的すぎる。
 気の置けない親友だと思っていたヨハンに突然襲われて抱かれた十代の心境は藤原にはわかりっこない。ただ確かなのはそれでも十代はその事実を四ヶ月間その胸の内に秘めていたということだった。やはり藤原にはその気持ちはわからない。
「剣山君はともかく翔君は手強いよ、ヨハン君。十代君のこととなると、あの子は実力以上のものを見せる。一度剣山君と十代君をアニキと呼び慕う権利を賭けて戦ったことがあるんだけどねぇ――」
「十代を勝手に賭けの商品にするなんてなんてことを」
「――翔君の勝利だったよ。しかも鬼畜無限ループに追い込んでの完勝だ。僕は昔亮に『怒らせた翔君は亮でも手が付けられない』って言われたのを思い出したよ。鬼気迫った何かが見えるんだ」
 何か言おうとして迷っている藤原を遮る形で吹雪は話を纏め上げ、静かに席を立った。ヨハンがあれ、という目をする。これで話が終わりになるとは思っていなかったらしい。
「勝手ながら、一先ず今日の相談はここまでにさせて貰うよ。僕の方にも色々と準備することが出来た。――また、二日後の午後三時にここにおいで。その時には、君のためになる返事を用意出来てると思う」
「わかりました。今日はどうもありがとうございます」
 物分かりよく頷いてヨハンは吹雪に礼を言い、立ち上がる。去り際にオネストがやって来て動く気のない藤原の代わりに以前ダークネスに囚われていた藤原と闘ったことへの礼を述べ出した。この精霊は実に良く出来た精霊で、思慮深い。七色の羽に全身の筋肉がミスマッチであることを除けば非の打ちどころがないのではないかと思う。
「じゃあ、また二日後にお邪魔します」
「ああ、楽しみに待っておいで。その間はこの街の観光でもしているといいい」
 からんころんとベルを鳴らして扉を開け、帰っていくヨハンに吹雪は爽やかな声でそんなことをのたまって手を振った。胡散臭い爽やかさだが、背を向けているヨハンにはもう見えない。藤原はヨハンの分まで胡散臭そうに目を細めて吹雪に「ねぇ」と声をかけた。
「……相変わらず君は酷い人間だよね、吹雪」
「んー? 何がだい?」
 吹雪がにやにやと意地悪く笑いながら藤原の問いに曖昧な返事を寄越す。藤原は盛大に溜め息を吐いた。この顔は間違いなく確信犯だ。
「だって、ヨハンに指定した二日後ってこの前電話で十代がこっちに着くって言ってた日時じゃないか」
「ああ、そういえばそうだったねぇ」
 楽しそうにけらけらと笑う。藤原はこめかみに手を当てて抑えた。
 本当に、天上院吹雪という男は人が悪い。
「Beautiful World」‐Copyright (c)倉田翠.