09:リチュアル(02) 半陰懐胎 |
「どうだい、藤原。君の研究に今日も僕の華麗なる閃きは必要とされているかい?」 デスクに向かってペンを走らせている友に向かって吹雪がそんなふうに声を掛けると、藤原は振り返らずに「ちょっとそこにいて」と返答をした。吹雪は機嫌を損ねるふうもなく「了解了解」と軽い調子でデスク横の簡易チェアに腰かける。藤原の手に握られた万年筆は猛烈な勢いで数式の羅列と叙述を続けており、この分だと今彼が書いている紙が黒インクで埋まり切るのもそう遠くはなさそうだ。 藤原は現在自身の体験から着想を得て闇のデュエルを軸としたデュエルを通じた精霊界と現実世界との交わりについての研究を行っている。精霊界そのものは間違いなく存在する。何故なら彼の持つカードの精霊であるオネストがその証言をしたからだ。 だが精霊の言葉では頭でっかちばかりの学会にそれを認めさせることは出来ない。そこで藤原が行きついたのが、アカデミアの生徒の半数以上が体験した異世界へのワープだった。その不可思議体験には多数の証言があるし、インダストリアルイリュージョン社ほか著名な研究者も関与して「異世界」であるらしい場所と通信を行っている。その際の記録が残っていれば有力な証拠となるはずだ。 ただ、その異世界が精霊界なのかという藤原の質問にオネストは煮え切らない返答しか出来なかった。そこに折よく吹雪が家事雑用の人手が欲しいと声を掛けて来る。藤原にとっては願ったり叶ったりの状況だ。吹雪は藤原にとっての数少ない親しい心が許せる人間であったし、彼は異世界渡航を経験している貴重な人財だ。 それになにより、彼もまた藤原と同じようにダークネスに取り憑かれていた過去を持っていて、そして藤原のことをよく理解してくれていた。その点で丸藤亮よりも天上院吹雪の方が藤原に近かったのである。 「吹雪の意見も、後で欲しい。そのへんのレポートを見ておいてくれ」 「オーケー。今は何について頭を悩ませてるんだい」 「ここのところずっと変わってない。精霊がこの世界に干渉するメカニズムその他」 「君のオネストに聞けばいいじゃないか」 在学中、主の藤原を探していたオネストからの物理的な干渉を受けたことがある吹雪が当たり前のようにそう言った。だが藤原は首を振る。 「あれはアカデミア島だから出来たことらしい。あの島には不可思議なエネルギーが満ちているんだそうだ。……いずれ、それも調べたいとは思っているけれど」 今はまだ仮説も立っていないから。そうぼやいて藤原はペンを走らせる腕を止めた。手首をぐりぐりと回して、ぼきぼきと骨が擦れ合う音を立てる。机にずっと向かっていたことで相当体が凝り固まっているのだ。 「また随分嫌な音を立てるね。実体化出来るのなら、それこそ君のオネストなんか慌てて肩を揉み出すだろうに」 「残念ながらそれは無理だ。吹雪、やっぱりマッサージマシンを買おう」 「僕には必要ないものだからね、要検討ってところだ」 「やっぱりそうか」 藤原が残念そうに肩を回した。肩もごりごりと音が鳴る。あまりよくないことだと分かってはいるのだが、しかし肩を回すことを止めることが出来ない。 明日香が休暇の際にここを訪れると気を利かせてマッサージを施してくれることもあるのだが、しかし今は北米のカレッジに通っていてとてもここに来れる隙はないだろう。従って藤原の肩は凝り放題というわけである。吹雪にそんな器用なスキルなどあるはずもないからだ。 「亮はいいな、と見当違いにも思わずにはいられないよ。僕も弟か妹がいれば良かった」 弟の翔に面倒を見て貰いながらある意味悠々自適に暮らしている親友の一人を思い浮かべながら藤原が息を吐く。カイザーにはカイザーなりの苦労や努力があるのは承知の上だが、それでも羨まずにはいられない。 カイザーの弟の翔は所々面倒な点が見受けられるものの(例えば、お上りなところや兄貴分として慕っている十代のこととなると目の色を変えて固執すること、ややおたくの気があること、美少女モンスターに目がないことなんかだ)、基本的には兄思いの面倒見のいい人物だった。カイザーの介護も日々きちんとこなし、兄と共にプロデュエリストの新たな在り方について日々模索を続けている。その傍らでバイトもしているし、家事もこなしているらしい。 自慢話など滅多にすることのないカイザーが嬉しそうに話すぐらいだ。相当よくやっているのだろう。 「翔君か。翔君と言えば、十代君だね。そういえば今日は十代君が来る予定になってるけど藤原、ここらで研究は中断出来そうかい?」 「問題ないよ。彼が着くって言ってたのは一時過ぎぐらいだっけ。連絡をしてから二日かかるってどれだけ離れた場所にいたんだろうね十代は」 「地球の裏側か、最果てか、或いはここ以外の世界かもしれない」 「……ここ以外の世界?」 「なんとなく、そんな気がするんだ。十代君ならどこまでも飛んでいくんじゃないかってね」 彼には無限の可能性が本当に秘められているのかもしれない――おちゃらけるようにそう言って吹雪が両手を大きく広げる。藤原は頭の中で十代という人間の特異性を反芻して確かに有り得なくもないかなという結論に至った。ちぐはぐに光る目、オネストの実体化した攻撃をネオスとディスクで防ぎきったらしい過去。オネストは一時期彼の魂に取り込まれていたいたとも聞く。それならば完全にないと言い切れる話ではない。 「それが本当なら、話に聞いてみたいもんだよ。研究が進みそうだ」 「そうだねぇ。相談に乗った後、機会があれば聞いてみたらどうだい。尤も今日は無理かもしれないけれどね」 十代が四ヶ月避けていた相手と不可抗力でブッキングさせてしまう予定なのだ。とてもそんなことを尋ねる余裕などないだろう。二人の関係に整理がついて落ち着いた頃合いならもしかしたらいけるかもしれない。それがどのくらい先のことになるかはわからないが。 「まあこの研究そのものが急ぐものでもないし。ゆっくり時間を取って聞くよ。十代には色々と言いたいこともあるんだ。彼はオネストとも会話出来るし……とりあえず、客人を迎える準備だけ済ませてしまおうか。吹雪はテーブル拭いておいてよ」 「紅茶には僕は手出ししないよ。君が一人で淹れた方が美味しいしね」 藤原は立ち上がってドアを開けるとキッチンに向かいながら背中で吹雪にそう指示をした。吹雪も分担を弁えているのでテーブルクロスを取りにキッチンに向かう。吹雪はあまり料理や家事仕事に向いていない。誰か雑用をやってくれる人間を募っていたのはそのためなのだ。 吹雪が料理を作ろうものなら、愛と言う言葉ではちょっと誤魔化しきれないものが出来上がってしまうのである。 ◇◆◇◆◇ 午後一時より三十分程早くドアが開く。ベルががらごろと大きな音を立てて吹雪と藤原の注意をそこに集めた。そこにはぜえはあと荒く浅い呼吸を繰り返す遊城十代の姿があって、そのあまりの「違和感」に吹雪と藤原を騒然とさせた。 「……吹雪さん」 現れた十代はどうしようもなく危うい顔付きをしていて、儚い表情を浮かべていた。眼差しは、異世界から帰ってきてヨハンを失ってしまった時のそれに似ている。大事なものを手のひらから取り零して失ってしまったことに対する動揺が隠し切れず露わになっている。 「どうしたんだ、十代君。藤原、何か鎮静作用のあるハーブティーを淹れてきてくれ。とにかく落ち着くんだ十代君。今の君はなんだか脆くて危なっかしい。そう、君が覇王になってしまったあの時に負けず劣らず」 「あの時は、ヨハンは帰ってきた。ヨハンは、今も、生きてる。それはいいんです。でも今度俺が失ったものはもう永久に帰ってこないんだ。俺の傍で笑ってくれることはこれまでもこれからも永劫にないんだ」 「……失った? 何をだい」 吹雪がぴくりと眉根を寄せて尋ねる。十代はふるふると首を振り、そして答える代わりに言葉にならない嗚咽を漏らし出した。あの遊城十代のものとは思えない程に儚く切ない涙声がぐしゃぐしゃと濡れ汚れた彼の唇から零れる。痛々しい嘆きだった。痛ましい叫びだった。 「俺の……うっ、中ぁ、で、生きてた……命がっ、あ、ぅ、死んで、しまった……っ!!」 「……なんだって?」 「あかちゃんがぁっ……鼓動が、もう、聞こえないんだ……」 その瞬間吹雪は状況を理解する。十代の動揺は、嘆きは、叫びは、子を失った母の激情なのだ。母親の本能的な愛が、子を失ったことで歯止めを失って十代を突き動かしていた。父親への愛を超えた子への情愛は遊城十代という人をどうしようもなく脆い女に変えてしまっていた。 十代はひっきりなしに喉を鳴らして泣き続ける。トレイにリンデンフラワーのハーブティーを載せて戻ってきた藤原がその様相にぎょっとして、トレイをとりこぼしそうになった。 「……十代君。まず落ち着いて、そして出来るのならば僕に話を聞かせて欲しい。無理にとは言わない。落ち着いたらでいい。……わかるね?」 藤原からカップを受け取って十代の傍のテーブルに起き吹雪は幼児を諭すように言う。泣きじゃくっていた十代は滂沱と涙を流しながらその言葉に頷いた。しばらくは話にならなそうだった。 「つまり十代君、整理するとこういうことになるんだね? 三ヶ月前に身籠っていることに気が付いて、だけどヨハン君には会う気がしなくて一人で産もうと思っていた。ヨハン君に会うことが何か以前までの関係を瓦解させてしまうようで恐ろしかった。日々育ってゆく生命を慈しんでいた君だが、ある時腹の中の子供の胎動を失ってしまったことに気が付く。それが二日前。僕に電話を寄越してきた日」 一つ一つ丁寧に辿って尋ねると十代はこくこくと吹雪の言に頷いた。気を静めさせようと思って用意したハーブティーが入れられていたカップは空っぽになっていて、既に三杯が飲み干された後だ。ハーブティーを飲んだ後十分近く背中を子供の用に擦られ続けてようやく十代は落ち着いてきたようだった。常のような乾いた平静さはないがとりあえず取り乱して泣きじゃくってはいない。 「ちなみに、子供が死んでしまったと気付いたのはどうしてだい?」 「……お腹の中で蠢いていた生命の気配がふっと糸が切れたように消えてしまったんです。ついさっきまで確かにそこにあったものがあっと思う間もなくなくなってしまった。しばらく何があったのかわからなくて、電話をして急いでここを目指して……その間に、ああ死んだんだってことをはっきりと理解した。命はもう戻ってこないんだって知った。それで、もう何が何だかわかんなくなっちゃって、」 「ああも取り乱してしまったと。……驚いたね。まさか君がそんな状況に置かれていたとは思いもしなかったよ」 十代は吹雪の気遣う言葉にただこくこくと頷いて、弱々しいその眼差しを投げ掛けた。それを受けて吹雪ははあ、と曖昧な感覚を覚える。視線は何とも言えぬ魅力を孕んでいた。 (ヨハン君が……簡単に落とされるわけだ。まあこれはヨハン君限定の顔なんだろうけどねぇ) 口には出さずにそんなことを考える。危うさすら内包する今の十代の物憂い表情には、男をくらりと呆気なく陥落させてしまいかねない何かがあったのだ。少なくともそれは活発な少年でしかなかった昔の十代には絶対になかったもので、まず間違いなく彼が複雑な身体上の理由を抱えてしまってから起こった変化であろうと思われた。 その魅力は非常に女性らしいもので、そして毒気を孕んでいるのである。 「さて、回りくどい手段を取るのも何だから単刀直入に聞くけれど、今君はヨハン君のことをどう思っている?」 「……吹雪、いくらなんでももうちょっと物言いってものがあるだろう」 「いや、このぐらい直球でいかないと駄目だよ。藤原、君はまだまだ惚れた腫れたの色事にはてんで気が回らないみたいだね」 ゆーくんの胸キュンポイントはマイナス三百点だよ、などと勝手なことを言って吹雪は大仰に肩を竦めて見せる。それからレディを丁重に扱うようにそっと十代の肩に手を乗せた。十代の肩がびくりと震える。無理もない。藤原は十代に同情した。吹雪に迫られているみたいで怖いのではないだろうか。 だがその次に十代の口から飛び出てきた言葉から考えると、どうやらその発想は間違っていたようだった。 「……ヨハンの、こと、……今どう思っているか?」 「そう。嫌いになったかい? それとも好意的な感情があるかい? 君にとってのヨハン君は今どういう位置を占めている。親友のまま? それとも、」 十代が躊躇いがちに声を震わせて「あ」、と息を漏らして目を伏せる。今にも泣きだしそうなその姿にかつて親友と二人がかりで藤原を苛め……もとい、果敢に立ち向かって蹂躙したその気丈さは見い出せそうにもなかった。あの遊城十代が、酷く女々しい存在になっている。 藤原は「恋は女を変える」という有名な言葉を反芻した。――この場合十代を女というカテゴリにカウントしてしまって良いのだろうか? 「ヨハンの……ことは……嫌いじゃ、ない。そういう気持ちとは多分……違う。赤ちゃんが。赤ちゃんが、いなくなってしまって寂しくて、苦しくて、悲しくて、悔しいんだ。産み育てるはずの命が消え入ってしまったことが切ないんだ。だから、俺はヨハンが……」 ああ……と悟ったような声が零れる。十代は腫れぼったい面を上げると自分でもやっとそれが理解出来た、というふうにぽつりと漏らした。 「ヨハンが、欲しいんだ」 全て今解明されたのだと言わんばかりに十代の口からするすると言葉が滑り落ちてくる。つっかえていた文字の並びが堰を切ったように流れ出た。 吹雪も藤原もじっと押し黙っている。 「ずっと会わないでいたのは、どうすればいいのかわかんなかったからで……どんな顔してあいつに会えばいいのか全然考え付かなかったんだ。だって赤ちゃん出来たって、どうやって伝えればいいんだよ。ユベルはいい加減な対処はしないはずだって言ったけどやっぱ怖かったんだ。拒絶されたらどうしようっていう怯えがあった。今でもそれは変わんない。でもそれ以上にぽっかりと開いてしまった穴が大きくて、どうしようもなくて、きっとこの穴はヨハンにしか埋められないんだ」 「……十代君」 「すごく女々しい気持ちになってる。ヨハンに抱き締めてもらって、『大丈夫だよ』って言ってもらって、それから……それから、俺、……ヨハンに言うんだ。何か、俺、お前のこと好きみたいなんだって。あいつ、今、いないけど……」 けど、という言葉の先は続かなかった。よく通る綺麗な声が十代の言葉を遮ったからだ。吹雪と藤原はその声の主に気が付いて驚きにやや目を見開いたが名前を呼ぶことはしなかった。二人は空気の読める大人なのだ。 「『大丈夫だよ』、十代」 「……え?」 十代が聞こえた声に慌てて振り向く。そこにあるはずのない顔が見えて、とうとう幻を見てしまったのかと考えた。今ここにその人はいるはずがない。エメラルドの優しい眼差しが現実であるはずがない。 だが、伸ばされたその人の腕と顔に触れた髪の毛があまりにもリアルで、十代は言葉を失ってしまった。そこに儚さはなくって、確かな感触だけがあった。四ヶ月触れていないもので、今どうしようもなく渇望していたものだった。 すごく欲しいと願っていたものだ。 「大丈夫……大丈夫だ。泣かなくっていい。俺はここにいる。ありがとう十代、俺も君のことが好きだよ」 柔かな声が鼻腔をくすぐる。心地良くて、放心しそうになりながらその人の温もりに甘んじた。くったりと何も言わず、腕の中に落ちた十代の頭を撫でてヨハンは「吹雪さん」、と十代と向い合せに座っていた吹雪を呼ぶ。 「……君は、本当に不思議な子だねぇ。十代君のナイトか何かなのかい? 予定ではあともう一時間は後に来るはずじゃなかったっけ」 「十代が泣いてる気がしたんです。でもそれだけですよ。……ダークネス事件の時もそうだったんですけど、十代がどうしようもなく困ってる時ってなんとなくそれがわかるんです。レーダーか何か付いてるのかもしれない。とにかく十代に俺が必要な時は絶対に伝わってくる」 「訂正しよう、君はナイトではなく王子様だよ。しかしびっくりした。君達は赤い糸じゃなくて赤い糸電話で繋がってるんじゃないかな」 冗談めかして吹雪がそう言ってやるとそりゃいいや、とヨハンが苦笑する。いつの間にか十代は眠りに落ちていた。精神的にも肉体的にも疲弊していたのかもしれない。 「何と言うべきか……良く出来てるよね、まったく」 「褒め言葉として受け取っとく。――それで、吹雪さん。十代に何があったんです?」 「ちょっと想像を超えてたことさ。度肝を抜かないように心して聞いてくれたまえ」 十代の髪を撫でながら藤原の溜め息を流し、ヨハンが尋ねる。吹雪は人の悪い笑みを浮かべながら先日書き込んだままになっているホワイトボードを取り出し赤のマジックで「加算四八〇〇ポイント」と書き入れると、努めて然り気なく十代の身の上に起こった事実を述べた。 「君の子供を身籠もって、でも流産してしまったんだ。それで酷いショックを受けていたのさ、十代君は」 ◇◆◇◆◇ ヨハンが幼い頃から漠然と夢見ていたものというのがいくらかあって、例えばそれは精霊とずっと仲良くしていたいだとか、大きくなったら可愛い女の子と結婚してこじんまりした家を買い、子供と慎ましやかに暮らしたいだとか、そういう薄ぼんやりとした類のもので、それらの夢、儚い希望というのは成長した今でもまだ意識の根底には根付いているものだった。精霊達という家族と、それから奥さんと子供の人間の家族。二つの家族とささやかな幸福を分かち合って生きることがヨハンの夢の一つだった。 遊城十代はヨハンにとっての大事な人で、その言葉は八割が親友、そしてもう二割程が文字通り「大切な人」という意味合いで占められている。何を差し置いても守りたい人。失いたくない人。……愛しい、人。 同性の、混じりっ気なく男らしい少年だと思っていた頃から十代に心惹かれているふうなところはあった。よく笑う快活な少年はヨハンにとって非常に居心地の良い場所を提供してくれる。いつの間にか十代はヨハンの中で飛び抜けて大きな位置を占める存在になっていた。そして、四ヶ月前のあの出来事でヨハンは完全に自覚する。 自分は、遊城十代を愛しているのだ。友愛ではなく恋情でもって彼を求めている。 あの時ヨハンは白い裸体の奥に、見てはならないものを見てしまったのだ。蜜のように甘い、可能性だ。女としての性を手に入れた十代が、ヨハンの思い描く家族の理想像に置ける妻としてのポジションに収まるかもしれないという可能性に気が付いてしまった。彼を彼女にする可能性だ。 衝動のままに抱いた十代の体の柔らかさを、朧気に覚えている。女のかたちをした左胸が、細くくびれた腰が、温かな胎内が、ヨハンを包み込んで受け止めてくれたことへの心地良さだ。酷く気持ち良くて、夢を見ているようだった。狐に化かされていたのだとしたって、あの心地良さを味わえるのであれば気にならないような気がした。 一方で十代がそれをどう感じていたのか、ヨハンは知らない。ヨハンは間違いなく至福の感情を覚えていたが、もしかしたら十代は、嫌悪を覚えていたかもしれない。彼はあの出来事の後逃げるようにひっそりとアカデミア島を去った。それから連絡どころか足取りもままならなかったのだ。 だが、穏やかな表情で顔を埋め、体を預けて眠る様子を見た限り嫌われているという最悪の状況は回避出来ているようだった。 しかし、ヨハンの思考はそこでどん詰りに陥ってしまう。その後まで考えが至らない。吹雪の言に対してその先を上手く把握することが出来ない。こども? というふうに疑問符ばかりが浮かび上がって来る。――「身籠もる」という日本語は、英語における「got pregnant」という言い回しに相対するもので良かったっけか? 「あの、吹雪さん」 「なんだい、ヨハン君」 「身籠もるって熟語は……『妊娠』と同意義ですよね?」 「うん。そうだねぇ」 「あけすけに言うと『子供を孕んだ』ってことですよね?」 「本当にあけすけに言うね。そうさ、それで間違っていない。そして十代君は、間違いなく君の子供だとそう言っていたよ。三日前の様子じゃ、君自身にも思い当たるところはあるみたいだしそうなんじゃないかな」 吹雪は率直に答える。その後ろで藤原が皺を深くしているのが見えた。「自業自得だ、馬鹿」、そんな感じのことが顔に書いてある。 「……藤原、勘違いしないで欲しいんだけどさ」 「なにを?」 「別に俺、やっちまったとは思って……るけど、後悔とかしてない、と思う。多分。ただ事実確認に手間取ってるんだ。そうか、俺の血を分けた子供が……」 十代の薄い腹をゆっくりと撫でる。妊娠四ヶ月にしては膨らみが足りないような気がしたが、流れてしまったことを考えると未熟児だったのかもしれない。 「ここに、いたんだ。不思議な気がする」 だがその場所にもう生命はない。流産してしまったのだと十代は言ったのだという。だからそこに命の胎動はなく、産声を上げて生まれ出ることはない。母体にそのことが与えた衝撃と苦しみを思ってヨハンは眉を下げた。中で息づいていたものがある日突然死んでしまう。 酷く恐ろしいことだ。 「ありがとう、十代。俺の子を、生命を抱いてくれて。君を一人にしてしまってごめん。気を遣わせちゃってごめん。俺、まだ卒業してなかったもんな。そんなの気にしなくて良かったのに」 眠る十代の横顔、鼓動、そういったものが酷く愛おしく感じられる。安らぐ彼を見つめていると、キスをしたくてたまらなくなってきて、小さく音を立てて柔らかい頬に口付けた。 「……いつからかな、十代君が君に依存を始めたのは」 その様を見て吹雪がぽつりと漏らす。顔を傾げたヨハンに向けて彼は「そう、依存だよ」とその言葉を繰り返した。 「十代君がそうなってしまったのははたして出会ってから何日が経った頃だったろうね? ただ、異世界へ君を求めて旅立った時点で十代君の君への依存は完成してしまっていた。君は知らないんだよね、あの時の十代君を。あの時彼は、君が異世界に一人残ってしまったと知ってから殆ど君の名前しか口にしなくなった。必要最低限の受け答えの他は、いつも『ヨハン』と弱々しく名前を呼ぶばかりだった。それ以外のことはまるっきりノーさ。……僕は途中でリタイヤしてしまったから異世界でのことはあまり詳しくは知らない。ただ、亮と翔君が喋っていたことは覚えている。二人は最後まで十代君を見ていたんだ」 「……異世界で」 「そう。君がいなくなった十代君は精神を病んでしまっていたんだ。その末に、果てに『覇王』になってしまったのだと二人は言っていたよ。『覇王十代』。恐怖と圧倒的な力で異世界を支配し、蹂躙し、逆らう者もへつらう者も役立たずは分け隔てなく見境なく殺した。大虐殺を平気で敢行して、血まみれになっていく世界の上に孤独に君臨していたそうだ。彼が以前まで信じていた絆や友情、そういった温かい心を棄てて純粋な力のみを信奉した。冷たい氷のような瞳と声音で行く手を遮る全てを惨殺する姿は、とてもあの天真爛漫な遊城十代の姿とは似ても似つかなくて――『黒く塗りつぶされたE・HEROのカードがデッキに入っていた』と言われなければ亮もとても信じる気にはなれなかったそうだ。あまりにもおぞましく、『到底人に出来る所業ではなかった』とね」 ヨハンは絶句して、淡々と語り聞かせる吹雪と寝入る十代の顔を交互に見比べた。吹雪の顔にはいつもの冗談をいっているふうな軽さはなかったし、悪質な嘘を吐いて驚かせてやろうという悪意もあざとさも感じられない。十代はただ穏やかな寝顔を覗かせていた。吹雪の言うような言葉とはまるで結びつかなかった。 覇王、という言葉は厳めしく武骨で、余計に大きすぎる装飾のようで十代には似合わないような気がした。 「翔君は、こう言っていたよ。それでも、友を棄てた覇王にも君を想う心だけは残っていたとね。あの姿は君のためなんだろうって翔君は言った。君が死んだという言葉から目を背けて君を取り戻すためにこそ恐怖支配は存在したのだろうと。まあ確かに、異世界中を焼き払っていけばいつかは君に行き当たるだろうからね。――なりふり構わず、手段を問わず、君を求めていただけなのかもしれない。それが亮と翔君が最後に辿り着いた答えだ」 「……そんな」 「事実さ。それ以上のことを僕の口から話すことは出来ないけれど――知らないからね。ともかくそれは嘘じゃないんだ。十代君が話したがらないのなら、無理に聞くべき話ではない。ただ、これは恐らく君が知っておくべき話だよ」 「俺が、十代にそれをさせたのだと?」 「でもそれは、十代君から君への愛なんだ」 自称愛の伝道師は「愛だよ、愛」と三度言葉を繰り返しこくこくと頷く。愛という言葉で片付けるには重すぎやしないかと考えたが口に出さずに飲み込む。愛情が時に人を凶行に走らせるというのはそう珍しい話ではない。ヨハン自身、十代が突然目の前から消え失せてしまった時に冷静でいられる自身はなかった。人類大虐殺まではいかないと思うが、軽い人間不信に陥るだとか十代のこと以外考えられなくなるだとかそういう可能性は大いに有り得る。 依存、という吹雪が前置いた単語が頭を過った。十代はその気がやや強すぎたようであったが、ヨハンも十代に依存しているのかもしれないとやにわに思う。帰国した先のアークティック校に当然ながら十代はおらず、ぽっかりと欠け落ちてしまったような物足りなさが終始ヨハンを付いて回っていた。オブライエンの連絡を受け、ろくに考えもせず即座に返事を返したのは十代に会えるという下心めいたものの力も大きかった。 十代がもしもヨハンがいなければいけないいきものになってしまったのだとしたら、ヨハンもまた、十代なしでは生きられないいきものになっているのだと思う。表面上では取り繕えても、何ヶ月かは我慢出来てもどこかでぼろが出る。 息が出来なくなる。 「お前達二人は、見ててなんだか危ういよ」 ぽつりと、今まで黙っていた藤原が漏らした。 「僕は二人に叩きのめされて以降のことしか知らないけど、ヨハンと十代、二人は波長が合いすぎているんだ。嫌になるぐらい良く似てる。そっくりさ。歪んだ鏡で映したみたいに、少しを除いて似通っている。時々電波で会話してるんじゃないかって疑ったけど、もしかしたらそんなに生易しいものではないのかもしれない。――もっと、歪な何かが、」 「でも、俺達は別人だ。双子でもない。血が繋がってすらいない。俺達が繋がってるのはきっと魂の方だよ。似通ってる、っていうのはわかるんだ。藤原、この前も話したよな。違いを認めたからこそ惹かれ合ったお前や吹雪さん達と違って俺と十代は似ているからこそ惹かれ合った。……一人ぼっちだったんだ、俺達。孤独だったんだ」 アカデミア・アークティックにおけるヨハンの姿も、アカデミア本校における十代の姿も、当人達以外は決して「孤独であった」などとは評さないだろう。十代の周りには常に人がいたし、それはヨハンも同じだ。二人が物理的に孤独だったことはあまりなかった。 だけど、いくらたくさんの人に囲まれていたって理解してもらえなければそれは孤独と同じことだ。十代の本質もヨハンの本質も、飾り立てられたオプションに遮られて多くの人には見えなくなってしまっていた。ヒーロー使いの十代、宝玉獣のヨハン。煌びやかな装飾に誤魔化されて二人のシニカルな部分や、ドライな部分、マイナスの部分はぱっと見では塗り潰されていた。 二人は精神的に孤独だった。理解者はどこにもいなかった。 「誰もわかってくれなかったけど、十代だけは俺のことをわかってくれた。俺も、十代のことはすぐにわかった。本当はあいつ傷付きやすくて、繊細でナイーブな奴なんだ。無敵のヒーローなんかじゃないんだ。人間だもんな。でも、皆そういうふうには見てくれなかったんだって。ヒーローであり続けることが、どれだけ重たいことであったのか……わからないよな、藤原。あんたには」 出会ったあの瞬間、二人はお互いに理解した。本能的に気が付いた。互いこそが、唯一にして最大最高の理解者に成り得る存在だと。一方を認めることが、この孤独からの脱出に繋がるのだと。ヨハンと十代はどちらからともなくその手を取り合った。抱き締めあった。心を咽び泣かせた。 それは喜びの涙だった。 「俺、だから十代が好きだよ。世界で一番愛しい。俺が守ってやらなきゃって、あの日からずっと思ってる。なあ藤原、吹雪さん、それはいけないことかな。寄り添いあって慰め合うことは無様なことかな」 「……どうだろうね。価値観は様々だ、僕には一概に君達が間違っているとも、正しいとも、言い切ることは出来ないよ。ある側面から見れば――藤原のような、『皆違って皆いい』という思考の持ち主から見れば君達の関係性は毒であり罪に似たものだ。だが、そうでない人達もいる。同族嫌悪ではなく同族に安らぎを求めるパターンだ。そういう手合いから見れば君達の存在は眩しいぐらい羨ましく映るだろう。理想中の理想形だ」 「……吹雪さんから見たら、どうです?」 「胸キュンポイント、プラス四八一〇万点さ。純粋なる愛のかたちという点に置いて、君は大いに評価されて然るべきだよ。……ただね」 もうあまり余白のなくなったホワイトボードに「加算四八一〇万ポイント」と書き込み、花丸で囲みながら吹雪は言った。 「十代君を若さに任せて襲ってしまったことだけはやっぱり簡単には評価出来ないね。理由は言わなくてもわかるだろ?」 「あー、はい。こう、つい、うっかり……多分俺の中に驕りがあったんです。十代なら何やったって許してくれるはずだっていう。傲慢ですよね。そこはわかってる」 「そう。なら、いいんじゃないかな?」 ホワイトボードを壁に掛け直しやんわりとお茶のお代わりを藤原に促して吹雪は微笑んだ。全てを見透かされているような笑みだ。ヨハンは曖昧に笑い返す。この人は、言動はふざけているくせに本当は全然笑えない、鋭い人なのだ。藤原が「ああ見えて頭がいい」と言っていたが、ある意味一目瞭然の聡明さではないかと思う。 この人はあまり敵に回したくないタイプだ。厄介極まりない。 「さてヨハン君、君が一人十代君を独占したいという気持ちは分かったが、そう簡単にいかないこともある。十代君に惹かれている人間が少なくないということは君も知っているね? 君が十代君を娶るなどと言おうものなら烈火の如く怒り出す人達のことさ。僕としては、そこの折り合いをきちんと付けてしまうことをお勧めするよ」 良く出来た家政婦のように即座に代わりの紅茶を持ってきた藤原から優雅にカップを受け取り、嗜みながら吹雪がウィンクする。そういえばこの人の自称は愛の伝道師だけではなく、まだもう一つ有名なものがあったのだということをヨハンは思い出した。「ブリザード・プリンス」。なるほどと思う。 この人は言葉端一つで相手を凍り付かせることに長けすぎている。 「特に翔君、明日香、二人は強敵になるだろうねぇ。僕明日香には弱いから、明日香に睨まれたら君の方には付いてやれないかもしれない。怒った明日香は怖いんだ」 平等に応援すると言っていたくせに、そんなことを平然とのたまう。だが吹雪らしいといえばらしいのでヨハンは押し黙った。のらりくらりとしたこの生き様そのものが吹雪の世渡り処世術なのだ。そこは、ヨハンも素直に感嘆せざるを得ないところだった。ヨハンも十代も彼に比べたら随分と生きることに不器用なのだ。 |