10:リチュアル(03) 硝子細工の太陽 |
「……ヨハン」 目を覚ましてまずヨハン、と名を呼んだ。なんだか夢みたいだった。幻のように儚かったらどうしようかと疑った。 顔に出ていたのだろう、ヨハンが優しい手のひらを十代の手のひらに合わせる。温かい鼓動が皮膚越しに伝わってくるようだった。幻ではない。 「そこにいるんだ、ヨハン」 「ああ。当たり前だろ? 俺がそばにいてやらなきゃ、お前、駄目だもんな」 「ばっかやろ……でも、安心する」 形だけの弱々しい悪態をついて十代は腹をさする。妊娠していることに気が付いてから幾度となく繰り返してきた動作だった。だがそこはもう空っぽだ。数日前まで感じられた胎動はない。 「ごめん、ヨハン。ヨハンの赤ちゃん死んじゃった。きっと俺達に良く似てたのに、死んじゃった」 「謝るなよ。誰も悪くないんだ。赤ん坊はお前に愛想をつかして死んだわけじゃない。しょうがないんだ」 「……生みたかったんだ。命、可愛いじゃないか。赤ちゃん産んで、それで、俺……なんだろ。もう言葉にならねえよ」 「十代」 「ヨハンの大切な人になりたかった」 「……なに言ってんだ。馬鹿はお前だな、十代」 十代の腹を彼の手のひら越しにつうと撫で、ヨハンは穏やかに目を細める。 「お前はもうとっくに俺の世界で一番大切な人なのに」 ヨハンが囁くと十代はさっと顔を赤らめ、俯いて小さく一言「うるせー。恥ずかしい奴」と照れ隠しをした。 ◇◆◇◆◇ 「それで? 君は一体今なんて言ったのかなぁ。僕聞こえなかったよ。うん、都合の悪いことは聞こえない耳なんだ」 「随分はっきりと言い切るなぁ……翔のそういうところはなんというか、十代の悪影響混じってるんじゃないかって俺は思うよ」 ヨハンは翔の嫌味ったらしい言葉に眉ひとつ顰めず逆に肩を竦めて言葉だけで褒めた。この弟分は兄貴分から随分と要らないものを受け継いでしまっているんじゃないかと思う。実の兄のカイザーを見習えば良かったのにと思うが、吹雪の話だとカイザーに対しては実に良く出来た弟、人間であるそうだ。こうまで人が変わるのは十代絡みの時だけだとも聞く。 「もう一度言ってやるから、今度はちゃんと聞いてくれよ。――俺、十代と結婚するつもりなんだ」 「ハッ、聞こえないね! というか聞きたくないね!」 「……しっかり聞こえてるじゃないか……まあ耳を疑いたくなる気持ちは俺様もわからんこともないが……」 「万丈目君何か言った?」 「……いや」 翔に笑顔で凄まれて万丈目もすごすごと押し黙る。この小さな体躯の同級生を怒らせるとどういうことになるのか、ということは何となく見当がつくからだ。 「僕は認めない。絶対に認めない。そんな、脳味噌フリルに僕のアニキが持って行かれるなんて、更にはいかがわしいことも平然とされかねないなんて絶対に許せない」 「い、いかがわしいことだとぉ?!」 もうとっくに高校を卒業した社会人であるくせに酷く純粋な男である万丈目がその台詞に素っ頓狂な声を上げた。翔は鼻息を荒くして「そうだよ」と断言する。 「アニキとあんなことやこんなことをこのフリル男は躊躇わずやりやがるかもしれないんだ。アニキは聖域なんだよ、いかがわしい妄想に使われるだけでも我慢ならないのにもう本当僕ちょっと落ち着いてられないよ」 「いや、お前は一度落ち着いて深呼吸をするべきだと思うが……」 「ああもううるさいな万丈目君僕すごく怒ってるんだよ。憤ってるんだ。僕が今ここでこいつを阻止しなければアニキはあられもない姿にされてしまうんだ。有り得ないよ。こうなったらもうこいつを倒すしかない。デュエルで!!」 「……無理だな。俺には止められん」 何か悟って万丈目は壁際で眉を顰めだんまりを決め込んでいるエドとカイザーの方に寄って行く。今この場で翔を抑制出来る人間など一人もいないだろう。十代だって無理だ。 そんな翔の激昂を半ば他人事のように眺めながらヨハンは、既に十代は翔の言うあられもない姿にされ、あまつさえ妊娠を経験した後だと言ったらどうなるのだろうかと考えたが口には出さなかった。無用な火種を燃え盛るオイルの海にぶち込むわけにはいかないからだ。ヨハンはそこまで酔狂じゃない。 それにそんなことをうっかり漏らしてしまえば、今はただ静かにこちらを見てきている明日香がどのように反応するかもわかったものじゃないのだ。 (……怖いぐらい、今のところは静かだな……現実が受け止められてないとか、そういうクチか) 十代は今はこの場にいない。藤原を世話役に付けられて隣の部屋に押し込まれているからだ。かつて自身を容赦なく絆と友情、愛の力だと謳いこてんぱてんにのした相手の世話役を密室に一対一で申しつける吹雪の性格の悪さにやや同情心が湧いてこないこともないが、そこらへんはきっとオネストが上手く取りなしてくれることだろう。 見慣れたオシリス・レッドの制服を脱がされてお仕着せの綺麗な服(見目麗しいという意味ではなく、文字通り汚れがなく綺麗だという意味だ。十代なりに気を遣って着ていたのだろうが、やはり正真正銘の一帳羅であった例のジャケットは汚れていたので洗濯機に押し込んだ)を着せられた十代はいかにも男子といった装いではなくなったせいか雰囲気が中性的なものになっている。やや厚手のインナーを着てはいるが、右胸の僅かな膨らみも凝視すればわかってしまうだろう。それにもう一ヵ所の膨らみは恐らく隠し切れるものではない。 表情が読めないカイザーや馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの様子のエドがどう反応するかはわからないが、初心丸出しの万丈目、異常な執着を見せている翔が大仰に驚きかねないことは明白だ。 「まあまあ翔君、デュエルするならするでもう少し落ち着かないと、ヨハン君は結構手練だよ?」 吹雪が取りなそうと思ったのか口を挟んでくる。どうせこの人は沈静化しようがしなかろうが面白ければいいと思っていることには間違いないのだろうけれど、これで翔が少し冷静になってくれれば儲けものだ。だが現実はそう甘くなく、その期待は翔の荒い鼻息で押し流されたのだった。 「怒れる僕のサイバー・ビークロイドはそんなにヤワじゃないよ。そんな顔だけが取柄みたいな外人野郎にそうそう簡単にやられてたまるかってんだ」 「別に顔だけが取柄ってことないぜ、酷いなぁ。まあ不細工ではないというふうに自負してはいるが」 「うわあ、それ普通自分で言うかな。遠回しに顔もそれなりにいいと思ってるって宣言してることになるんだよ。自意識過剰なんじゃないの。意を決してアニキに愛を叫んで一秒と保たずに振られちゃえばいいのに」 「残念ながらそれはないんじゃないかなぁ」 告白にはもう成功しているようなものだ。十代はヨハンの大切な人になりたいのだと言った。腹に宿った子を産み落としたかったのだと言った。好かれてこそいれ、嫌われていたのならばあのような言葉は出てこないだろう。 だが、その余裕綽々といった様子が余計に気に入らなかったらしい。翔はそもそも歪んでいた表情に更に禍々しい気迫を纏い、ケースから勢いよくデッキを取り出すと恐るべき速度でディスクに収めた。アカデミア・オリジナルディスクがうぃんと聞き慣れた駆動音を立てて展開される。翔が苛立たしげな視線で早くしろと促してくる。ヨハンは素直にデッキを取り出してディスクを装着した。 「付けたからには、もうデュエルからは逃げさせない。サレンダーはなしだ。僕か君かどっちかが消し飛ぶまで勝負は終わらない!」 「……おっかないな」 昔似たような台詞を聞いたような気がするが、はてどこであっただろうか。デッキからカードを五枚ドローしてから辺りを見渡すと、明日香はやはり口を一文字に結んだままであったがこちらを注視しているようだった。どうすればいいのかと思ってウインクを飛ばしてみたら溜め息を吐かれた。どうも失策であったらしい。 「僕のターン、ドロー! 魔法カード『融合』を発動、手札のサイバー・ドラゴン三体を融合する。現れよ、サイバー流最強のモンスター『サイバー・エンド・ドラゴン』!」 「……え?」 ヨハンはちょっと待て、と内心呟いて今の状況を振り返った。デュエル開始の宣言から僅かに十数秒、翔の先行一ターン目。つまり翔は初期手札と初手ドローの計六枚の手札の内にサイバーエンド召喚に必要なカードを揃えたことになる。カイザーだってそこまで露骨な手札の揃い方はなかったはずだ。いや、ヨハンの知らないところでもしかしたらあったのかもしれないが。 「先行一ターン目で攻撃することは出来ない。首が吹き飛ばなくて良かったね。僕は更にモンスターを一体裏守備表示で出し、カードを二枚伏せてターンエンド」 「……俺のターン、ドロー」 やにわに騒ぎ出した心臓をよしよしと慰めてヨハンは手札とフィールドを交互に見た。レインボー・ルイン、それから抹殺の使徒、聖なるバリア‐ミラーフォース、サファイア・ペガサス、金科玉条、虹の導き。びっくりするぐらい緑色な上に本当に困った時にと思って一応入れておいた「破壊カード」が手札に来てしまっている。 特に抹殺の使徒なんかは普段ヨハンが避けている「相手の可能性を潰すカード」なのだが、そこまで考えてちらりと翔の顔を見てヨハンはなりふりかまってはいられないということを再認識した。翔の可能性はこれから計らずとも一ターン目の暴挙で既にわかっている。 甘いことを言っていたらやられるのは自分だ。 「……日頃、俺はカウンター以外の破壊カードを使わないことを信条にしているんだが今日ばかりはその信条を見て見ぬ振りをさせて貰う。卑怯だとか汚いだとかいくらでも言ってくれ。俺は負けられないし、あと十代もミラフォとか神宣とか積んでるしたまにはガチカード使ったっていいと思うんだ。言い訳だけど。――時に翔、そのモンスター『メタモルポット』だろ」 「……だとしたら、何?」 翔がそれがどうかしたのかという態度で返答を返す。その余裕は恐らく看破されてしまっても目的であるリバース効果の発動を阻止されるのが難しいという点にあるはずだ。攻撃されてリバースしても効果は発動するのである。 あからさまにメタポを狙っていますと言わんばかりの陣形を隠そうともしないのもその自信ありきのものに違いない。翔の手札は現在ゼロ。手札を捨てて五枚ドローの効果を最大限に活かすために全伏せなのだろうとういことはわりと容易に想像出来た。 だがそう簡単に目論見を通してやるつもりはさらさらない。今日は本当に容赦してやる余裕がないのだ。 「手札より『抹殺の使徒』発動。悪いがリバース効果は使わせない」 「……そう来たか!」 翔が舌打ちをしたが意に介さないように努めてヨハンはサファイアを召喚し、ルビーを呼び出した。それから金科玉条でコバルトとアンバーを呼び、最後に宝玉の導きでトパーズを召喚する。 「手札よりフィールド魔法カード『虹の古代都市‐レインボー・ルイン』を発動。更にカードを一枚伏せてターンエンド」 手札はこれですっからかんになってしまったが気にしない。布陣はそう悪くない。 「僕のターン、ドロー。……バトル! サイバー・エンドでサファイア・ペガサスを攻撃。エヴォリューション・バーストォォォ!」 「――それも通さない!」 予想通り翔は攻撃をしてきた。だが大丈夫だ。問題はない。 「罠オープン、『聖なるバリア‐ミラーフォース』! サイバー・エンドを破壊する!」 サイバー・エンドがミラーフォースの効力で砕け散り、そこで初めてギャラリーの驚愕の視線がヨハンに向けられた。エドが壁際でにやついているのが見える。 「くっ……モンスターを一枚セットしてターンエンド!」 「俺のターン、ドロー! さあ翔、こうなったからには俺も止まらないぜ。そして勝った暁には聞きたいことがあるんだ。吹雪さんは君が一番そのことについては詳しいと言っていた……教えてくれ、異世界で十代に起こったことを。覇王十代のことを! トパーズ・タイガーで裏守備モンスターにアタック!!」 そこで初めて、翔の顔が慄いたようにヨハンには見えた。それは負けることへの恐怖だったのか、それとも覇王の名を聞いた驚き、後ろめたさだったのか。恐らく後者ではないかと思う。 ◇◆◇◆◇ 「今日は何も言わないんだね、明日香」 「何を言う気にもなれないのよ。何から言っていいのかわからないんだもの。……ヨハンがそういう……同性に興味関心を抱く人だとは思ってなかったわ。だからもう、びっくりしてしまって……」 そこまで呟いてから明日香は「彼を焚き付けたのは、兄さん?」と小さく口に出した。吹雪は「半分正解」と曖昧に答える。 「皆にきちんと公言した方がいいんじゃないかって言ったのは僕さ。でも、十代君に対するあれこれを決めたのは僕じゃない。ヨハン君自身だよ」 「……そう」 なら、しょうがないのね。明日香は端正な造りの顔を疲れたふうに顰めて息を吐いた。吹雪はふざけたふうでもおちゃらけたふうでもなく、割合真面目な表情で妹の隣に並ぶと「明日香」と柔らかく名前を呼ぶ。 「明日香は本当のところどう思っているんだい? 十代君への愛を大っぴらに口にするヨハン君にどんな感情を覚えたかな。驚きだけじゃないだろう。嫉妬? 呆れ? それとも憧れかい?」 「全部かもしれないし、そのどれでもないかもしれない。ただ、確かなのはヨハンは私が出来なかったことをやったもしくはやろうとしているってことよ。私はあの時、言えなかった。あの自由という言葉を形にしたような人に『好き』だって言うことが出来なかった。たった一言なのにね。彼を縛ってしまうことが恐くて怖れ多かったのよ。馬鹿みたいだけど」 「別に馬鹿馬鹿しいことじゃないさ。誰しもがぶつかる壁の一つだ。時に愛は強く人を縛り付ける」 「そう。そうよ。知ってるわ……だから余計に怖かったのね、だって私は知っているもの。十代がかつてどんなふうにヨハンへの感情でがんじ絡めに縛られてしまっていたのかを」 明日香が昔見た十代の姿、あれは本当に酷いものだった。ヨハンを失ったことで自分を責めるだけでは飽き足らず狂執的にヨハン・アンデルセンという人間を求めた。雛を失った親鳥よりも悪質なその行為は、世界の半分を破壊されたかのようですらあった。 ヨハンを失った十代は壊れていた。あれは親友同士の距離の中でありえる反応ではない。その時僅かに明日香は考えてしまったのだ。 「結局、負けるのが怖かったんだわ」 十代は既にヨハンを究極の優先位置に置いてしまっているのではないかという恐怖に明日香は「あなたのことが好き」だというタイミングを逃した。口は勝手に「あなたに会えて良かった」と紡いでいた。あの時もし告白をしていれば状況は変わっていたかもしれない。でももう手遅れだ。「もしも」という言葉には未来を変える力なんてないのだから。 「もし十代がヨハンに好意的な返事を返したのだとしたら、私はあの時既にヨハンに負けていたのよ。完璧な敗北。……だから、今更翔君のようにああだこうだ言う気分になれないの」 「なるほどなるほど。まあ翔君が言いたいこと全部言ってくれちゃってるしね」 「私達では、本当の意味で十代に近付くことは出来ないのよ。昔、十代のことを誰かが太陽みたいだって評したことがあったのを覚えてるわ。氷を溶かすんだって。でも、それだけじゃないの。太陽が持つ熱が熱すぎて、光が眩しすぎて、傍に寄れないの。近付き過ぎると溶け過ぎてしまうから。十代という強烈な太陽に溶かされてしまうから。……私はきっとそれも怖くて、」 自分という存在が遊城十代の持つ輝きに掻き消されてしまうのではないかという恐れが明日香を押し止まらせた。その唇を噤ませた。言葉を喉の奥に押し込んだ。だけど、ヨハンはそうじゃなかった。彼は明確に「十代を愛している」と断じた上で「結婚する」と言い放ったのだ。 あの「太陽」に恐れることなく真正面から向き合った。 「……だから、ヨハンも酷く眩しい」 きっとヨハンはいつもと同じきらきらとした瞳のまま、十代の隣に我が物顔で座り込むのだろう。さもそれが当然であるのだと言わんばかりに堂々と。それはどれだけ凄まじく、とんでもないことだろう? 太陽に正面から張り合うなんてことが自分にも出来るようにはとても明日香には思えない。それでも昔の十代ならまだ少し違っただろう。あの無邪気で暗い感情なんて何一つ信じていなさそうな子供のままだったとしたらだ。 だが、今現在の遊城十代がそうだとはとても思えない。もう卒業してから一年近くが経つが、卒業が間近に迫った頃の十代の酷い無気力さ加減と人を避ける冷えた態度、そして「戻りたくても、戻れないこともある」と呟いた凍り付いてしまいそうに果敢無い声音は忘れるべくもなかった。 あの戻れない、という言葉も余計に明日香を怖気付かせる要因の一つになっているのだ。 「性別とかの問題は大きいような気がするけれど、それを言ってもなんだか負け惜しみのようで空しいだけだしもういいわ。もし十代が本当に彼を選んだのだとしたら、私の初恋は男に掻っ攫われたっていう情けないことこの上ないオチが付いてしまうけれど仕方ないと思う。私があの人を振り向かせるよりも速くヨハンがそれに成功したというだけ。しょうがないから空拍手でも送ってあげようかしら」 「案外あっさり引き下がるんだね。僕の予想では翔君といい勝負になるぐらいには食い下がるんじゃないかと思ってたんだけど」 「馬鹿な賭けにでも使ってたのならお生憎様ね。私はあんなに子供じゃないわ。双方が納得しているのなら個人の感情で暴れたってしょうがないじゃない」 「ん、ま……それは正論なんだけども」 吹雪が何事か顎に手を添えて悩んでいると、丁度レインボー・ドラゴンのアタックが決まったようで翔が大仰に叫んで倒れたところだった。ヨハンは額を拭うと「俺の勝ちだな」とやや息を上がらせながらも宣言し、右手を翔に向かって突き出す。――「ガッチャ」のポーズ。明るかった頃の十代が好んでしていた仕草だ。 「でもね……もし、十代君が……だったとしたら、明日香、どうする?」 吹雪の口が明日香の耳元に寄せられてぼそぼそとある言葉を囁いた。明日香以外には聞こえないように留意された音量で告げた後「一応秘密にしておいてね、まだ」と注意事項が続く。明日香はその文字の並びに目を見開き、眉をつり上げて「……前言撤回するわ」と極低い声で漏らした。 「それが冗談でないのだとしたら、やっぱりヨハンのこと一発は殴っておかないと気が済まない」 ◇◆◇◆◇ 「翔って怒らせると怖ぇんだ。気を付けよう。カイザーでもあれはなかなかないぜ」 「君って本当色んな意味で、中心人物だよね。何を呼び寄せてもおかしくないんじゃないかって思うよ」 「ああ、まあな。災いだけでも腐る程呼び集めて来たぜ、藤原お前も含めてだ。俺自身が災いになったこともあった。同じ穴の狢……嫌な響きだよ」 肘を付きながら平然とそんなことを言ってのける。藤原は十代の過去である覇王とやらの話は知らない。だがそれがろくでもないものだろうということは想像出来る。元は自分で言うのも何だが人畜無害だった藤原でさえ心の闇に囚われた後は酷い方向に暴走していた。その状況に、素の状態でもあまり無害であるとは言い難い十代が陥る。絶対に酷いことになっていたに違いない。 お茶請けを食べ切って手持無沙汰になってしまったらしい十代は特に意味もなく腹部を自ら撫でて笑んだ。黒いインナーがシルエットをシャープに描き出しているせいで、その部分が普通とは少し違う様子であることがはっきりとわかってしまう。藤原はそれを見て今日何度目になるかわからない溜め息を吐いた。なんというか……あんまりだ。 「ヨハンは男としてあまり良くない部類に入るんじゃないかっていうのが僕の持論なんだけど。割合、最低に近い部類なんじゃないかって」 「いいんだよ。お互い好き合ってるんだから別に文句言われる筋合いはないぜ」 「それにしたって早すぎる」 「流産の処置をした後医者に言われた期限は守った。二ヶ月駄目っていう奴」 だって子供、欲しかったんだもん。悪びれるふうもなく明けっ広げに言って十代はにやにやと笑う。純な感想を抱いているらしい藤原を弄ぶように目を細める様は女らしいもので、あまりヒーローに憧れていた少年に似付かわしいものではなかった。悪女とか、毒女といった単語が藤原の脳裏を掠める。 「欲しかったもんを手に入れたいと願って何が悪いんだよ。なあ? どーていのゆーくん」 「ゆーくん言うな。全く、ただでさえ性質が悪かったのに余計に酷くなったんじゃないか。男を弄ぶすれた女のふりをするのは止めろ、ろくでもない。寒々しいし嘘臭い」 「ありゃ、バレてるか。そうだな、ゆーくんって言うと遊星と被りそうだし。今後遊星に会えるかわかんねーけど……藤原は真面目だからからかい甲斐がなくてつまんねえ」 「……万丈目君とか翔君とかにするのは止めといた方がいい。というか、頼むから止めろ」 万丈目は生真面目な男だし、翔はご覧の通りだ。今は壁際で吹雪と静かに話し込んでいる明日香だってどう反応するかわからない。彼女は女だから、男である方のヨハンを糾弾し出すかもしれない。藤原としてはざまあみろというか、むしろそれはそれで来るべき展開であるように思わなくもないのだが。 「なんだよ、万丈目なんてからかったら絶対に面白いと思ったのに。つまんねえこと言うなあ……なあ藤原。そんじゃからかうのを止める代わりにお前に聞くけどさ、さっきの面白がってふざけてるだけだって何で気付いたんだ? これでも演技力にはちょっとばかり自信があるつもりだったんだ。前はころっと騙されてくれたじゃないか」 「あの時の僕はちょっとトんでたから騙され易くなってたんだよ。それに、あの時は二人がかりで妙な連携してただろ。あそこまで互いのライフを削り合っておきながら最後に演技でした、っていうのは反則だ。実はお互いの手札を知っていた上で話合いましたって言われなきゃ普通はわからないよ」 「あははっ! お互いの手札なんて呼吸を合わせれば見えなくてもわかってるようなもんだぜ!」 「そりゃ、お前達が異常なだけだ。そうほいほいわかられてたまるか。……とにかく」 藤原は溜め息を吐く代わりに咳払いをして十代を遮る。二人が常識の埒外にいるなんてことはわかりきっていたことだ。今更何を驚こうと言うのか。そんなことを一々していたら身が保たないに違いない。 「精霊と深い関わりを持つ人間は多少の程度の差こそあれ基本的には純粋なんだ。精霊という存在それそのものがまっすぐに出来ているから感化されてしまうのかな。万丈目君は勿論、ヨハンや君自身も突き詰めればそうだよ。ただ、純粋すぎるあまりに方向を誤ってしまった時の影響は凄まじいけどね」 「んー。そう言われるとユベルもそうだし、オネストもそうだよな。主を思うあまりに暴走して人間にリアルアタック仕掛けてきたもんな」 「オネストのことは今は置いておいてくれ。オネストも反省してるんだ。……それで僕が思うのは、追い詰められたらきっとヨハンもなりふり構わなくなるんじゃないかって、そういう危機感だよ。やっぱりお前達は、似過ぎている。あまりにも同質すぎる。つがいっていうのは通常お互いを支え合って補い合うものだけど、果たしてお前達二人にはそれが出来るのかってことが心配になるんだ。二人は似通いすぎているから足りない部分も一緒で止めてやることが出来ないんじゃないかって」 「……ああ。そういう?」 藤原が本当に身を案じてそう言ってやると十代はけらけらと軽い調子で笑った。優介は心配症だなぁ、などと言ってぽんぽんと肩を叩く。どうしてだかは知らないが名前を呼ぶものだから、もういない両親のような感触を覚えてはっとする。 見上げた十代は大人びて、いやそれすらも飛び超えて、老成した表情を浮かべていた。 「ヨハンがいれば俺は迷わない。躊躇わない。ヨハンが死んでしまっても、昔みたいな無様は晒さないさ。俺はもうまともな体じゃない。いつか必ずヨハンは俺よりも先に死んでしまうんだから。ヨハンを受け入れた時にその覚悟はきちんと決めた。理不尽な運命が、ろくでなしの神が俺からヨハンを奪わない限りもう取り乱さないよ。きっとな」 「……そう、だといいけどね」 だが藤原はその老成の奥に隠し切れない子供の未熟さを見た気がしてすっきりしない言葉しか返せない。話に聞く異世界での出来事の際ヨハンが十代の前から姿を消したのはヨハン自身の意思によるもので、確かにそれは「ろくでなしの神が定めた理不尽な運命」ではないだろう。だが、本当にそうでなければ大丈夫なのか? ヨハンが寿命で死ねば十代は納得するのか? 寿命で死ぬとも限らない。もし病や、事故や、その他不可抗力の原因で死に至ったとしたら? それは奪われた、というカウントに入ってしまうのではないか? 「でもやっぱり……僕は心配なんだよ」 「はは、さんきゅ」 声が震えてしまったのではないでもかと思う。幸せの絶頂にいるであろう十代はその可能性に気付いていないのだろう。彼は知っているはずだ。人という生き物がどれ程脆い存在であるのかを。どれ程呆気なく散ってしまうのかを覚えているはずだ。だけど目を逸らしている。ヨハンが事故死する未来、病気で急死する未来、理不尽に彼を奪われてしまう可能性を度外視している。 改めて、ヨハンはとんでもない怪物を手懐けてしまったのだということを再認識して藤原は彼に同情をした。十代はヨハンが思っている程可愛らしい存在ではない。その生命が秘めている破壊能力足るや大抵の人間が恐怖に脱力して何もかもを諦めてしまう程だろう。十代は決して愛らしい愛玩動物ではなく、鋭すぎる牙と爪を器用に仕舞い込んでいる猛獣だ。 一度押さえが弾き飛べばどうなるかわからない――。 狂乱に泣き叫ぶ十代の姿が、見えたような気がした。だけどその未来予想図が現実になる日が来ないことを祈るしか藤原に出来ることはない。 |