11:リチュアル(04) 覇王と呼ばれた子供の話 |
ピピピピピピ、という機械音が響いて翔のライフがゼロになり消し飛ぶ。キメラテックオーバーの猛攻をレインボー・ドラゴンで凌ぎヨハンは勝利した。だが紙一重の差であったように思う。いつも十代の後ろにくっ付いていた翔がここまでの強敵だとは正直なところヨハンは思っていなかった。 「ガッチャ……いいデュエルだった。お前強えな翔、結構苦しかったぜ。だが俺の勝ちだ。十代に関してこれ以上口出しはさせない。そして試合中に俺が言ったこと、覚えてるよな?」 「覚えてるよ。覇王のことを教えてくれって君は言ったよね。別にいいけど、聞いてから後悔したりしないでね。本当はあんまり人数のいる場所で話すようなことでもないんだ。……まあ、この面子なら大丈夫だとは思うけど。皆あの頃アニキがどういうふうにおかしかったか知ってるから、聞かれても問題ない。お兄さんやエドは実際に覇王も見てるし……まあいいよね」 翔がサイバービークロイド・デッキをディスクからホルダーに戻しながら言った。それからやや声のトーンを落としてあたりを一度見回し、ギャラリーの反応を確かめてからヨハンの方に歩み寄って来る。今まで雑談をしていた面々も皆示し合わせたかのようにしんと黙り込んでしまって異様な空間がそこに出来上がっていた。部屋中の空気が張り詰めているようだった。 「覇王の話をしてあげよう。でもこれ、ちょっと込み入った話なんだ。結構長いし、暗いばっかりでこれっぽっちも楽しくない。だけど、君には知っておく権利と義務があると僕は思う。アニキのことが本気で好きなのならアニキが持つ最大の暗部であるこのことから目を背けるわけにはいかないんだ。……まずはどこから話そうか。とりあえず、君がいなくなったあの日のことから話そうか」 君が無責任にアニキを放り出した日だよ、と厭味な補足が続く。そう言われるタイミングは一つしかない。タッグ・デュエルの途中でレインボー・ドラゴンの力を使って自分とユベル以外を元の世界に戻したあの時のことだ。 「あの日、アニキはおかしくなってしまった。アニキの中で君が、ヨハンが消えてしまったから――」 翔が顔に陰りを帯びさせてそう切り出した。 ◇◆◇◆◇ 「元の世界に帰って来て、皆が浮かれ上がっている時にアニキが一番最初に言った言葉はなんだったと思う? アニキの口から漏れた言葉は『やった』という歓喜の声でもなく、『よかった』と胸を撫で降ろす安堵の声でもなかった。『ヨハン』、あの人はまずそうやって君の名前を呼んだ。それから『ヨハン? おい、ヨハン、どこにいるんだヨハン、……ヨハン? 返事をしろよ、ヨハン!』そんなふうに続いた。でもいくら見回して探したって君はいないんだ。異世界に居残ってしまっていたから。アニキのヨハン病は君と別れてしまったその瞬間に発病してそれ以降どんどん良くない方向に進んでいった。ずるずると悪化していった。君を取り戻すと言ってもう一度異世界に自ら飛び込み、異世界での残酷な現実を全て自分一人の中に押し込めて必死に君を探した。 あの時、敵の策略とはいえアニキに付いてった僕達が随分無責任だったってことは自覚している。でも、そうなってしまっても仕方ないぐらいにアニキは追い詰められてた。あの時のアニキは暴走していた。君という存在があまりにも大きすぎて欠落したという事実を受け入れられなかった。異世界は弱肉強食の世界だ。負けた方は問答無用で死んでしまう。……アニキには面と向かって言えなかったけど、僕達はもう君は死んだと思ってた。あの状況で生き残ってるはずないって。だけど、アニキがあまりにも鬼気迫っていてただひたすらに君だけを求めていたものだから誰もそれを指摘してやれなかったんだ。本当は多分、言ってやるべきだった。アニキに、落ち着いて一度考えてみるべきだって」 翔は淡々と述べたてる。あのいつも明るくて大抵のことでは動じない十代が追い詰められているところというのは、現実にあったこととして言葉で並べたてられてもいま一つしっくりとこないものだった。上手い具合にそういう十代を想像出来なかった。ヨハンの中の遊城十代は向日葵みたいな少年だった。少なくともダークネス事件で再会するまではそうだと信じて疑ったことがなかった。 「ある時、とうとう抑え込んでいたアニキのリミッターが外れてしまう。暗黒界の狂王ブロンはアニキに禁断の一言を遺して死んだ。最悪の遺言だった。『ヨハンとかいう少年は、死んだよ』――その言葉にアニキは初め向き合うことが出来なくて、『……うそだ。嘘だ、嘘だ、嘘を吐くな――』そう叫んでその言葉から目を逸らした。臭いものに蓋だ。それから、僕にこう言ったんだ。『皆死んでしまったけれど……敵は取った。だから……』。でも、だからなんだっていうんだ? そこで僕はアニキの最後のトリガーを引いてしまう。……僕は、言ってしまったんだ。『敵なんて取ってくれなくてよかった』。今思うと、本当に心ない言葉だとは思う。でもその時の僕には、そうとしか思えなかったんだ。アニキは勝手だった。一人でどんどん先に行ってしまった。それで最後に、僕はこう叫んだ。『お前なんか、もう、アニキじゃない!』」 翔が、感情の昂った声で本当に叫ぶ。演技では有り得ない激情がその叫びには込められていた。彼は実際に寸分違わぬ感情をその時持っていたのだ。だからこんなにも叫びが苦しい。 ヨハンは無言でそれを聞いている。口を挟む気分にはなれなかった。 「そしたら、アニキは壊れちゃった」 ぽろりと涙と共にそう吐露した。「壊れてしまった」、ではなく「壊れちゃった」のだと言った。 「アニキは心の奥底に閉じ込めていた深い深い心の闇の中に閉じ籠もって、悪意と敵意と絶望を鎧にして身に纏った。覇王十代の誕生だ。ヨハンの死という現実を直視せざるを得なくなったアニキは世界に絶望して自分を絶望させた世界を呪った。居場所もなく依るべもない世界なんか必要ないから、力で屈服させて手下を作り、その力で異世界を蹂躙した。弱きを挫き、強きを粉砕した。村々には火を放って焼き殺した。抵抗するものも殺した。服従するものも、気に入らなければ気まぐれで殺した。覇王はありとあらゆる残虐非道を行って恐怖を振り撒いた。精霊大虐殺。失った君が最も嫌う行為に手を染めて血だらけになって、もう血が付着するところがなくなっても覇王はそれを止めなかった。連れ戻そうとしたジムも、最後にはやっぱり殺した。無感動で冷徹な瞳で」 「……そんな馬鹿な……ジムまでも?」 「でもこれが現実。事実だよ。アニキがどれだけ君を渇望していたか、それがどれ程恐ろしいものだったか、聞いてしまったからには君にはもう目を背ける権利はないんだ。すべてが確かな過去なんだ。悪い夢だったらどんなにか良かっただろうね? でも夢じゃない。紛れもなくあの時アニキは狂ってしまっていたんだ」 ヨハン、君のために。翔の氷のような声がヨハンの心臓を撫でる。君のためにアニキは悪鬼修羅になった。アニキはヒーローを止めた。魔王になった。翔の言葉がざくざくと抉り取って、エコーになり反響する。 「覇王には心がない。慈悲もない。それらを持っていては、苦しみから逃れることが出来ないからだ。痛みを忘れることが出来ないからだ。心があるから誰かを求める衝動が生まれる。心があるから、失って悲しいと感じる。辛いと思う。だったら全て捨ててしまえ。もう何もいらない。必要なのは力だけ。力さえあれば、不可能はやがて可能になる。多分そう考えてたんだ。あんなふうになってしまっても、覇王になってしまっても、あの人はきっとまだ君のことを考えていたんだ。力さえあれば君を取り戻せると思っていたんだ」 馬鹿な、と思うが声にならない。十代がそれ程までに思い詰め、追い詰められ、自身を渇望していたということを事実として受け止められない。向日葵のように笑う少年の姿が映った硝子が、派手な音を立てて罅割れ、粉々に砕け、飛び散っていくようだった。ぞっとしない。 「精霊を殺し続けてデュエル・エナジーを凝縮させることで一枚のカードが完成する。『超融合』。ルールを超越した力を持つために何万何十万、ひょっとすると何百万かの精霊の生命エネルギーを集めて造られたしろものだ。禁忌のカードだよ。そしてそれは純粋なる力の象徴でもあった。それさえあれば不可能はないはずだった。……だけど、完成させても君は還って来ない。当たり前だよ、死んでないんだから。ただユベルに体を乗っ取られていただけだもの」 不可能を可能にする覇王最強のカード、超融合。十代の狂気と悪夢が生んだ罪の形。彼が求めた純粋なる至高の力。あらゆる全てを屈服させ我が物とし、振り翳す。 狂気だ。 「そうまでしても君は返ってこない。でも、だからこそ最後に覇王は現実に回帰することが出来た。究極の力を持ってしても君を取り戻せなかったから覇王は揺れた。覇王十代が遊城十代に戻ったのは、オブライエンがある言葉を彼に囁いたからだ。オブライエンはただ単純に言った。『ヨハンはまだ、生きている』――たったそれだけだよ。でも効果はてきめん、動揺した覇王はデュエルで引き分けに持ち込まれて死んだ。闇の殻が瓦解して中からアニキが、遊城十代が出てくる。あの人にとって君の名前というのは、正しく魔法の言葉だったんだ。『ヨハン』という名前一つが、どうしようもなくあの人を左右する。絶望も希望も、等しく与え得る可能性を持っている。……ヨハン、君はね」 翔の表情は酷く陰鬱なものに見えた。顔には濃い影がかかり、重たい気分を喚起させる。鬱屈としたものだ。責任、といういやな響きの言葉がヨハンの脳裏を掠めた。 「そのことを、重々胸に刻んでおかなきゃいけないんだ。愛の言葉を囁くのは簡単だよ。愛することは簡単。難しいのは愛されること。それに伴うものを、理解すること」 「……」 「君は忘れちゃいけないんだ」 翔は淡白に言った。飾っていない分、その宣告は重々しかった。 ◇◆◇◆◇ ヨハンがいない世界。大切なものがぽっかりと抜け落ちて、根本から覆った地獄のような空間。その空虚な世界を、あらゆる「理由」が根こそぎ奪われてしまった虚無ばかりのむなしい世界のことを十代は今でも覚えている。とにかく、他のことはなんにも頭に入ってなんかこなくってそのことすらまともに思考できなくなっていた。十代の世界はあの時一度完璧に打ちのめされ崩壊した。あの時の自分というのは、狂人一歩手前か狂人そのものであったのだろうということを朧に思う。疲れ切っていた。 翔が淡々と語るのを聞いて十代は自嘲気味に笑む。他者の視点から語られる過去はあまり面白いものではなかったが、だが真実味がありあの時の傍観者たる翔の立ち位置もあって正確だった。あれは逃れようのない過去だ。ヨハンが望むのであれば知って然るべきものだ。翔が言ったように。 だが自身の口からあの狂気を、狂乱を語れるのかと考えるとそんな気はこれっぽっちもないのだった。大好きな人の前では綺麗でいたいという浅はかな欲求がそれを抑圧してしまう。だから聞くのは辛いが、翔が代わりに語ってくれるのならばそれに越したことはないのだろう。 あの日々を、ヨハンを失って世界を呪った日々を思い出すのも――辛い。今ヨハンは近くにいるとわかっているのにも拘らず圧迫されそうな苦しさがある。 世界に裏切られた十代は、軟弱さを、弱さを憎んだ。力があれば、こんなことにはならなかったのにと後悔した。そして蓋の下から這い出てきた覇王が囁くままに、一つの力を求める。「超融合」。あまねく事象を可能にする万能にして最強、絶対無敵のカード。 あの頃、弱い者の叫びや悲鳴といったものが嫌いだった。弱い者の媚びへつらい許しや命を乞う姿もたまらなく嫌いだった。弱者の偽善者ぶった顔が、哀れめいた声が、嫌いだった。力を持たないものの言い訳だと思っていた。何故へこへこと頭を下げる。何故、そこから先を思考しようとしない。 でくのぼうよりもどうしようもない。 だから殺した。弱者の嘆きは十代の弱さを映す鏡のようで、見ていることが辛かった。あんなごみのようなものになりたくなかった。思い出させないで欲しかった。 心が荒み、荒れ果ててもまだヨハンを求めている自身の心こそが弱きものであるということに気が付きたくなかった。 「よはん」 黒く、武骨で攻撃的な装飾が多い鎧を身に纏い覇王は時折消え入る少女のように儚い声でその名を呼んだ。「よはん」、繰り返される声音は幽玄の響きを帯びている。その名を呼ぶ度に、精霊が死ぬ。呼ぶ度に、覇王の強大な力でもって「弱者」が、「うそつき」が、殺されていく。 「よはんは、俺が、この手に」 ヨハンのことをどうでもいいだなんて言った「愚か者」も殺した。ヨハンとかいう少年は死んだよ、と言った「うそつき」は消した。死者は還ってこない、と言った「知ったかぶり」も自らの手で葬り去った。奈落の底から這い出てくることはない。だって死んだのだから。 「よはん……」 圧倒的な力で多くの魔物を従え暴力的に残虐に異世界を蹂躙制圧した覇王の、強固な鎧の下には柔らかで傷付きやすく、酷く脆い人の子の体が隠れている。刺突性のあるもので一突きしただけで呆気なく死んでしまいかねない虚弱ないきものだ。覇王という存在の在り方は、覇王の身を守る鎧とその中にある華奢な肉体の関係性に似ていた。遊城十代という小さく怖がりで寂しがりな少年の心を、ヨハンが帰ってくると頑なに盲信し続ける虚偽欺瞞の心とそのために力を求める覇者の闇が幾重にも堅牢に覆い守っている。 「お願い、俺を一人にしないで」 覇王は、いや、闇の中で絶望し弱い者の戯言に失望した十代は呟いた。俺を一人にしないで、ヨハン。ヨハンは、傍にいてくれなきゃ―― しんでしまう。 「一人にしないで……」 また、精霊が死んだ。たくさんの精霊が死んだ。村を呑み込み燃え広がっていく炎を覇王はただじっと、無感動な瞳で見つめる。炎は美しい。うそつきの口も、愚か者の手足も、知ったかぶりの役立たずの脳味噌も抗うことを許さない絶対の力で嬲り殺してくれる。悲鳴は何も偽らない。死も偽りを持たない。 それは安らぎをもたらしてくれる。 煉獄の中で黒い甲冑に籠った弱い子供と、それを守るように悪魔の翼を広げるインフェルノ・ウィング、巨躯を誇示するサンダー・ジャイアント、鋭い鉤爪を威嚇するように光らせるマリシャス・デビルだけが佇んでいる。血塗れに似た赤い裾を翻すインフェルノ・ウィングは母のようであり、サンダー・ジャイアントとマリシャス・デビルはそれに忠実に付き従う守護者だった。かつて正義のヒーローだった彼らは知っていた。覇王の本質は弱い子供でしかない。だから自らもまた悪魔に身を堕とし、覇王を守ってやるのだ。 ヒーロー達はどんな姿になってしまっていても、十代に忠実だった。彼らは十代を絶対に見限らない。見捨てない。異を唱えないし否定しない。ただ肯定して守るだけで、十代にどんな不愉快な思いもさせない。十代に、救いを求める弱き子供に仇なす全てを、不快さを喚起させる何もかもを排除してくれる。 ヒーローはいついかなる時も助けを呼ぶ子供の味方なのだ。例えその子供が世界を呪い、絶対者を奪った神を破滅させようとしていても―― 「面白くも何ともない話だろ」 自嘲を浮かべて十代が言う。藤原はそれに小さく頷き、包み隠すことなく「ひどい話だ」と本音を漏らした。 「僕も昔不信が募って世界中の人間をダークネスに引き込もうとしたけど君の方がもっとどうしようもないよ。酷いエゴイズムだ。普通じゃない。ヨハン・アンデルセンという存在に一体どれだけ依存していたんだ」 「自分じゃもう、上手いこと言えないよ。とにかくあの頃は――ヨハンが自己犠牲に走ってからは、俺の頭の中は殆ど全部ヨハンのことで埋まってた。それ以外のことはなんにも顧みなかった。ただ、もう一度あいつに名前を呼んで貰いたかった」 馬鹿だよな。わかってる。そう呟く声は儚げだ。薄い笑みは自らを皮肉ったもので痛々しい。藤原は溜め息を吐いてポットからどぼどぼと十代のカップに追加の紅茶を注ぎ入れると、仕方ない、と十代に返してやった。 「ちょっと度が過ぎてるとは思うけど、だけどそれが君の素直な感情だったんだろ。人間は弱い生物なんだ。一人じゃ生きていけないように出来てる。他人と支え合い寄り添い合って初めて、前を向いてこうって気持ちになる。心の闇は誰しもが持っているもので、君の場合はそれが外部からの意図的な誘導で誇張されてしまっただけだよ。勿論その弱さも遊城十代という人間を成すものの一つだから取って捨てることは出来ないけどね」 「……藤原、お前頭はワカメみたいだけど案外いいこと言うんだな」 「誰が、ワカメだ!」 「いや、冗談だ。あんま怒るなって」 ひらひらと手を振り、驚いたように十代が藤原の目をまじまじと見つめてくる。藤原は、そういえば昔十代はヨハンと手を握り合って「俺達の友情が」どうたら言っていたなあということを思い出した。二人の間にあったものが百パーセント純粋で美しい友愛であったかどうかということはさておき、少なくともその絆の力とやらが異常なまでに強固で強力なものであったことだけは確かだ。 お互いの持つ弱さを肯定し、認め合い、慰め合う。八ヶ月前、流産を経験してナイーブになっていた十代を腕の中に抱きながらヨハンは「寄り添い合って慰め合うことは無様なことか?」と藤原に対して問いかけた。問いの裏には、暗に傷を舐め合うことの何がいけない、という言葉があったのではないかと思う。同じ痛みを持つ者同士で保身を図って何が悪いものかと。 だが、はたして本当にそれだけであるものかという疑問も残る。二人が出会うまでの痛みは、それは確かに同質のものだったかもしれない。だが今はどうだ? 精霊研究をしている手前藤原にはわかる。オネストをその魂の内に受け入れることが出来、ユベルと一心同体になった遊城十代という生き物が決してただの人間ではないということを知っている。ダークネスを逆に跳ね返し精霊を現実に干渉させる異能を持つ彼がただの人であるはずがないのだ。 彼は純粋な人ではなく、精霊に近い。しかし精霊でもない。どっちつかずの半端者だ。その一方でヨハンは精霊が見えるというだけの人間でしかない。その溝は埋め難いもので絶対的なものだ。変えようがなく避けようがないものだ。 「ヨハンは、そんなことわかってるよ」 「……え、」 「あいつ、そういうの全部考えた上で言ったんだ。『それでも十代は俺の大事な人で唯一無二の存在なんだ』って。俺が何だって遊城十代には変わりないだろうって。先に死んじゃうことだけが心残りだって。……どんな化け物になってしまっても、悪魔になってしまってもヨハンは俺を愛してくれる。それがすごく嬉しくて、申し訳無くてさ。だから俺は決めたんだ」 藤原の心を読んだかのようなタイミングで十代が言う。実際に読んでいたのかもしれない。悪魔ユベルは人の心の闇を糧に変えることが出来る存在だ。心の闇を覗けるということは、その人のおおまかな心の在りようが伺えるということで疑念を抱いていることも伝わりかねないということである。 けれど藤原がもしかして、と尋ねると十代は首を横に振った。 「一応言っておくけど、いつでも誰彼構わず心の中を覗いてるとかそういうことはないぜ。藤原みたいな聡い奴が言いそうなことは決まり切ってるってだけだ。……吹雪さんにも同じこと言われたんだよ、『ヨハン君は君より早く死ぬだろうけど、君はそれをきちんと理解しているのかな?』って。でもそれでも、俺はヨハンが好きなんだ。もし俺を愛してくれるのなら、俺の全てを、持てるあらゆる愛をヨハンに捧げたいって。だから俺は、ずっと、永久に、ヨハンをあいしてる――ヨハンが死んでしまっても」 「愛が重たすぎるよ、それは」 「んー。俺も思うよ。ヨハンに言ったらなんだそのユベルみたいな愛、って笑われたもん。人のヨハンに俺の愛は重たいかもしれない。それでもそれを全部受け止めてやるってあいつ言ったんだ」 「……そうなんだ」 つくづくヨハンという男のことは理解出来ないとそう思う。思考回路の造りというものが常人とは違うふうに出来ているのだ。すごく夢見がちに、出来ている。でなきゃ花畑だ。 十代の常軌を逸した感情を受け止めて笑っているヨハンもまた、普通じゃないのだ。 共依存、狂依存。尋常じゃない依存関係で成りたっている危うい二人。藤原はあれからいくらか考えてみたが、やはり十代が狂乱する可能性というのを今でも捨て切れずにいる。ヨハンを失ったら、ひょっとするとそれこそ悪魔的な方法で彼を求めるのじゃないかと危惧している。最後にはヨハンを自分と同じように人の枠から外してしまうんじゃないかと疑っている。 「……十代」 「なんだよ。しょっぱい顔して」 「……いや……なんでもない。……そろそろ翔君の話も終わったみたいだけどどうする。隣に行く?」 「ああ、そうだな。万丈目とかが腰抜かしたりしたら面白いんだけどなあ」 そんなことを言ってから、モニター越しに壁にもたれて馬鹿馬鹿しいと言いたげな表情で腕組をしているエドを見て十代は面白くなさそうに眉を吊り上げた。それからなだらかに膨らんでいる下腹部を見つめてぽつりと漏らす。 「エド泣かねえかな。驚きのあまり」 泣かなくても泣かせそうな声だった。 ◇◆◇◆◇ 「――アニキ!」 「――十代!」 センサーでも付いているんじゃないかというぐらいに迅速かつ正確無比に二人は十代の方に振り返った。それに「よっ」と軽い調子で応えて十代がひらひらと手を振る。 「どうしたのアニキ、もしかしてずっと隣の部屋にいたの? それに気付かずにあのフリルに惨敗するところを見られちゃうなんて僕どうしよう。……ていうかアニキジャケットは、あのいつもの赤い奴。あと僕の見間違えでなければなんかちょっと太ってない? 食べ過ぎ?」 正しい反応だ。翔は十代のことをかっこいい兄貴分だと信じて疑っていないから腹部の異様な存在感を脂肪の付き過ぎだと解釈したのだろう。だが明日香はそうでなく、拳を握り締めて機を窺い出している。万丈目は栄養過多というよりは栄養不足による腹部の膨らみ方の方が近いんじゃないかと呟いていたが、その隣でカイザーは事の真相に薄々感付いている様子だ。エドは眉を顰めるに留まっている。 「駄目だよアニキ、節制しなきゃ。生活習慣病とかに繋がるんだから」 「いや、そうじゃなくて実は……」 「十代! 一人で歩いてきたりなんかして危ないじゃないか。藤原はどこ行った、あの役立たず。お腹にもしものことがあったらどうする、また流れちゃうかもしれないんだぞ。自分一人の体じゃないんだからもうちょっと気を付けないと……」 「え?」 翔が「何言ってるのかわからない」といった顔で変な声を漏らした。その横でヨハンの妙に切迫した演説は続いてる。「もう五ヶ月なんだから」、と聞こえた気がした。翔はとりあえず「何かの間違いだ」と自分に言い聞かせることにする。十代は男だ。きっとヨハンの気がふれているだけに違いない。とうとう頭がおかしくなってしまったのだろう、哀れな奴だ。 「また辛い思い、したくないだろ。頼むよ」 まだ変な妄想を語っているのかと翔が眼鏡の下に苛立ちを滲ませると十代が「落ち着けヨハン」と止まらない声を遮る。ほら見ろ、さっさと玉砕しろと翔は願った。だが、その次に耳に飛び込んできた十代の言葉は恐ろしく非情だったのであった。 「んな慌てなくたって大丈夫だよ。激しい運動してたわけでもないし。俺だってもう赤ちゃんが死ぬのやだもん。そういうのちゃんと気にしてるからさあ」 「そっか……ならいいんだけど……」 ヨハンがまだ渋々といった様子で十代の体から手をどける。室内にどよめきが走って、十代以外を視界から消し去っているらしいヨハンに視線が集中した。だがそれを感じて振り返った時にはもう遅く、次の瞬間平手が乾いた音を立ててヨハン・アンデルセンを張っ倒す。ヨハンは情けなく床に転がって、痛そうに頬を擦った。 「ってぇ、何するんだよ明日香」 「そう。兄さんの悪質な冗談では、なかったのね」 「おい、本当にどうした。顔がマジだ」 「どうしたもこうしたもないわ」 物凄い剣幕の明日香がその華奢なようで力の強い両腕を十代の体に回す。今でも身長は明日香の方が十代よりも高く、そして十代は中性的な見た目を持っているために倒れている男と対比させると親友を駄目男から守ろうとしているようにも見えた。女性が女性を守っている感触だ。 十代はほんの少しだけ居心地悪そうに身じろぎしたが自分の立場を悟ってすぐに大人しくなった。 「五万歩譲ってよ。十代と結婚するとか言い出したのは認めるわ。好きにしなさいよ。もう百万歩譲って十代が半陰陽だというのも納得してあげる。この人にどんな不思議なことが起こったって不思議ではないし、それに一々突っ込んでいたらきりがないわ。でも、これだけは頷くわけにはいかない。十代」 「あっ、はい」 「あなた妊娠してるの?」 「……うん」 「そこの駄目男の子供を?」 「い、イエスマム……」 「騙されたんじゃなくて?」 「……俺が、好きで……」 「結構。もういいわ」 厳格な教師が取調べを終えた時みたいなことを言ってから明日香は起き上がったヨハンから更に十代を遠ざけるようにぐいと動かす。ヨハンは明日香に反抗するのは得策ではないと判断してそこから無闇に動くことはしなかった。賢明な判断だ。 「ていうか明日香、何で十代が半陰陽だって知って……」 「さっき兄さんが言ってたわ。とても最初は信じる気にはなれなかったけどこの様子じゃ、本当みたいね。嘘みたいな話だけど」 十代の腹部を気遣いつつもじりじりとヨハンとの距離を開かせていく。ヨハンの頬も十代の頬も等しく冷汗が伝い落ちていく。「ヨハン・アンデルセン」、無慈悲な宣告者の声が部屋に響いた。 「しばらく十代は預からせて貰うわ。その間に何がどうしてこうなってしまったのか、ゆっくりと皆と話し合ってちょうだい。翔君なんかすごく聞きたそうな顔してるわよ。いいわね」 部屋中の誰もがその言葉に異を唱えることは出来なかった。 |