13:リチュアル(06) 海の底から |
あの日、翔は言った。 「アニキはずっと僕のアニキなの。やっぱり僕のアニキは一人しかいないんだって気付いた時からずーっと、それは変わらないんだ。だからアニキが人間じゃないとか女の子になっちゃったとか、どんなことを言ったっていいんだ。そんなの大した問題じゃないもん」 万丈目も言った。 「お前がどうなろうと知ったことか。だが迷惑だから騒ぎだけは起こすな。そこの好き者の外人と好きなだけ花畑を走り回っているがいいさ、俺様は今まで通り天上院君へのアプローチを続けるだけだ」 エドも言った。 「初対面から馬鹿っぽいと正直思っていたけど何も間違ってなかったってことだよ。お前らはまっすぐ馬鹿だ。前向きな点だけは評価するが、まあとにかく馬鹿だ。いっそそれがステータスだと言える程に清々しく馬鹿だ。精々幸せになりやがれ」 カイザーも言った。 「十代、お前はもう子供じゃない。だから決断の重さも何もかもわかっているはずだ。変わってしまったものはある。だが同時に、変われないものもある。お前はずっと危なっかしくて手が掛かって、だが大きな可能性を持っている自慢の後輩だ」 吹雪も言った。 「ブリリアント! 僕は愛の求道者として大いに君達を祝福しよう。エクセレント、僕もびっくりの展開さ――だけどね、これだけは覚えておいてくれないかな。皆君のことが大好きで、気に掛けずにはいられないんだよ」 明日香も言った。 「もうね、吹っ切れたわ。いいこと十代、幸せって受動的になっていては手に入らないものなの。ずっとそこにあると驕っているとあっという間に指の隙間からどこかに行ってしまうのよ。……それとね、ここ一番の時には泣いてもいいの。強い必要なんてないのよ、誰も馬鹿になんかしやしないわ」 そして、ヨハンも言った。 「大好き、愛してる、俺の十代。何よりも大切な人。もう絶対離すもんか、ずっと、ずーっと俺がそばにいてやるから、だから絶対にもう一人っ切りだとか馬鹿なこと言うんじゃないぞ。お前はこんなにも愛されているんだから」 真下にエメラルドの海を、真上に爆発した機体と相反して胸糞が悪くなるぐらいに美しく晴れ渡った青空を望みながら遊城十代は、理性を失った高位モンスターである悪魔はそんなふうな、懐かしい過去を回想した。腕の中で、思い出の中で愛を囁いてくれた最愛の男は瞼を閉じて鼓動を小さくしていっている。落下の重圧を背中から生やした悪魔の翼で気休め程度に相殺しながらその体を強く強く掻き抱いた。 「ヨハン」 乗客達は機体に必死でしがみ付いていたり、意識を失い強烈な重力になすがままにされていたりと様々だ。大半はその圧力に絶え切れず、或いは爆発に巻き込まれて致命傷を負い、既に事切れているようだった。たくさんの死体がコンクリートに叩き付けられて無残に飛び散るトマトのようにぐちゃぐちゃと海に投げ出され、死に様を晒し、やがて海の底に沈んでいくだろう。 だから、悪魔の翼をぎょっとした目で見た数少ないまだ生きていた人間達も、その馬鹿げた表情のまま悪魔とそのつがいよりも遥かに早くエメラルドの中に呑み込まれて消えていったのだった。きっともう生きてはいないだろう。どうでもいいけど。 「ヨハン……よはん……強くなくっていいって、一人じゃないから強がらなくっていいって、皆、言ってくれたよな……?」 腕の中の男は返事をくれない。最愛の妻のそばで息絶えようとしているその男は無情なまでに安らかな顔で、死んだように眠ったようにただただ押し黙っている。 悪魔は互い違いの橙と黄緑に光っている瞳を潤ませて神に今際の祈りを捧げる聖女のように泣いた。神なんてものを一度も信奉したことなんかないくせにその表情は神に処女を捧げた聖職者のように敬虔で美しかった。悪魔は腕の中の男にだけは、神を信仰するように敬虔で穢れのない思いを抱いていた。悪魔のくせに、悪魔を愛していると言った酔狂な人間のことを心底愛していた。 「俺の、ヨハン……」 緩やかに流れていく一秒と一秒の狭間で悪魔は願う。 なあ、だからさ、ヨハン。 今だけはみっともなく泣き叫んでても、皆俺のことを許してくれるかな―― ◇◆◇◆◇ 「ヨハンの母国?」 「そうそう。景色が綺麗で、いいとこだよ。ずっと泣いてるわけにはいかないだろう?」 結局二人目の子供も流れ落ちてしまって(大徳寺先生が言うには、十代の半分が精霊であるために人間の子供として生まれ落ちるための条件が難しくなってしまっているらしい。要するに半分の人間の部分が上手くくっ付かないと駄目らしいのだ)、酷く落ち込んでいる十代にヨハンはそんなことを提案してきた。そういえばヨハンの母国がどこであるのかもあまりよく知らない。それに思い至って十代はこくりと頷いた。ヨハンがそばにいてくれるから以前のようには取り乱さずに済んでいる。 「デンマークなんだけど、故郷に戻る前にアークティック校に寄っとくか。主席卒業生と本校伝説の遊城十代なら飛び入りでも問題なく入れて貰えると思うし」 「アークティック校か、行く行く。思えば俺本校以外のアカデミアは見たこともないんだよな。どんなとこなんだ?」 「古城を改築改装した校舎でさ、結構古めかしい感じ。やたら城の造りが複雑で卒業間際になっても迷子になりかけてたぐらいだよ。ああでも、内部は見た目程古くはないから大丈夫。城に住み付いてる精霊なんかもいてさ、面白いとこだと思うぜ」 「へー。どんな精霊がいんの? スノーマン・イーターとかいる?」 「スノーマン・イーターは真冬の庭にしか出ない。年中いるのは踊る妖精とか、そういうちっこい奴ら。……尤も俺ぐらいにしか見えてなかったわけだが……」 ああ後、伝統のデッキに入ってる奴らはいたと思う、と補足が入る。古城らしく華美な鎧を着込んだ騎士団のモンスター達やらがいるらしいと聞いて十代はなんだか胸が踊るようだった。ロマンが山と詰まっている。 そんなところで生活してるからロマンチックなんだなあと言ってやるとヨハンはいやあそれ程でも、と頭を掻いて照れてみせた。 「ほら、デンマークってハンス・C・アンデルセンの国だから。お伽噺とか日本に比べて身近なんだ。マッチ売りの少女とか人魚姫とかおやゆび姫、裸の王様、このへんは知ってるだろ」 「赤い靴とか、パンを踏んだ娘とか……即興詩人は昔結構読んだよ。勿論易しく翻訳されてる奴だけどな。知ってる知ってる」 「へえ、意外に物知りじゃないか」 「家には本とテレビと、ユベルしかいなかったから。手術でユベルの記憶を取り除くまでは俺人見知りだったから引き籠もってたもん」 言った後しまったと思って十代は閉口した。ヨハンが複雑な表情で十代の手のひらを握り込んできたのだ。ヨハンは「悪い」、と小さく呟いた。 「ごめん。嫌なことだった?」 「別に、大丈夫だけど。あの頃は確かに寂しかったけどでもあの人達が悪いわけじゃないし。仕方なかったんだ。ユベルがいてくれたから、大丈夫だよ」 「ああ、うん、ならいいんだけど」 「だから、いいんだ。……そういえばヨハンは? ヨハンの人間の家族の話、聞いたことない」 ヨハンが家族、と呼ぶのはいつも宝玉獣達のことで、十代はヨハンの両親の話を聞いたことがない。十代自身もあまり話さなかったから今までは気に留めていなかったが彼の故郷に行くとなれば話は別だろう。自分は彼の妻なのだから。 だが十代が聞くとヨハンは曖昧に笑った。あまり良くないことを聞いてしまった気分になった。 「いないんだ。孤児なんだよ、俺。アンデルセンっていう苗字はハンスにあやかって孤児院の院長先生がくれた名前さ。ヨハン、っていうファーストネームだけは握りしめてたハンカチに縫い付けてあったんだって。だから俺は人間の家族のことは何にも知らないんだ。十代が俺の初めての家族」 だからそんな顔しなくたっていいんだぜ? と今度は逆にヨハンに言われる。一瞬きょとんとしてしまって、それから二人揃ってくすくすと笑った。昔は、家族という意識が希薄だった。でも今はそうじゃない。誰よりも大切な家族が目の前に存在している。 飛行機に乗るのは初めてだ、と言うとヨハンは呆れ顔で「だったら世界中何を足に飛び回ってたんだよ」と尋ねてきた。背中の翼で、ということに薄々気が付いているのだろう。「ヨハンの思ってる通りだよ」と返してやると露骨に溜め息を吐かれる。 「若さに任せて無茶をするのは感心出来ない」 「身一つなら無茶出来る範囲だもん。疲れるけど。日本を出てからは殆ど陸を移動してたし……もうしないよ。二人一緒なら間違いなくこっちの方がいいもんな」 キスをすると、しょうがないなあというふうにキスを返された。後ろでユベルがじっとりとした目でヨハンを睨んでいるが、ヨハンは努めて気にしないことにする。十代と暮らすようになって数えるのが嫌になる程晒されてきた視線だ。今更どうということもない。 ユベルはヨハンの献身ぶりに渋々結婚を認めたのだが、今でも何かあるとヨハンを突っ付いてくる。近頃では大分マシになってきて態度も緩くはなっているが完全な和解には未だ至っていない。あともう五十年ぐらいはこの微妙にぴりぴりした関係が続くのではないかというのがヨハンの見立てだった。ヨハンはそうでもないのだが、ユベルはやっぱりヨハンのことを敵視していていけすかないと思っているみたいなのだ。 「ユベル、いい加減ヨハンのこと好きになってやれよ」 『無理だよ十代。もしかしたら許す日は来るかもしれないけど好きになる日、そればっかりは永劫に訪れない。僕の愛は君だけに注がれるものだから――』 「ああうん、わかったよありがとう」 『十代! やっぱり君の愛は、今はもうこのフリル野郎だけに向けられるものなのかい?!』 離陸してそう経たないというのに早速騒がしくなる。仲がいいんだろうからいいけど、と苦笑してヨハンは背もたれにもたれかかった。目的地までは結構遠い。途中で乗り換えもしなきゃならないしそうすぐには着かない。しばらくは眠っていようと決めてヨハンは瞼をゆっくりと閉じた。まさかあんなことが起こるなんて、思ってもいなかった。 ◇◆◇◆◇ エンジンのトラブルで機体が破損し、またどこかの空港に戻れる見込みもない。海面に不時着しようにも上手くいくとは限らないし、それに成功したから乗客が助かるとも思えなかった。機内は酷いパニック状態に陥っていて乗務員がまともに仕事を出来る環境ですらなかった。 人間の持つ利己的な側面が全面に押し出されている。十代の悪魔の部分が嗅ぎ分けて糧と出来る心の闇がこれでもかというぐらいに蔓延していて噎せ返ってしまいそうだった。純度の低い粗悪な、どうしようもないものばかりで呼吸が苦しい。息が詰まりそうになって小さく喘いだ。 「大丈夫、落ち着いて……大丈夫。俺の目が見えるだろ?」 ふと優しい腕に抱き締められて、十代はその腕の中で荒く浅い呼吸を繰り返した。不愉快なにおいの代わりにヨハンのにおいが体中を満たしていく。深呼吸をして言われた通りにその人の瞳を見上げるとほっとしたように細められた。 「大丈夫。一人にはしないから。絶対この手は離さないから」 「ヨハン」 「もうあと少しで、多分こいつは爆発する。空気摩擦とか原因は色々あるけど説明めんどくさいからパス。とにかく、絶対に、離れないでくれ。例え俺が死んでしまったとしても君だけはこの命に代えて守るから」 冗談なんか一つも言っていないという真剣そのものの顔でヨハンは自らの死の可能性を語った。さあっ、と顔が青くなったのが鏡もないのにわかった。ヨハンが、死ぬ? 覚悟していたことではある。だけどこんなに早く訪れるものなのか? ヨハンはいつもと何にも変わらない健康そのものの体で、表情も曇ってはいるがやつれているだとかそういうことはない。生きている。今十代を抱き込んでいる腕には、指先には確かに命が宿っていて温かく、生命を維持している。 心臓が早鐘のように聞き分けなくどくどくと脈打ち鳴る音がいやに大きく胸の内に響くようだった。そんな――馬鹿な。 「死ぬなんて言うなよ……なあ、頼むよヨハン。お前がいなくなったら、どうやって生きていけばいいんだよ。ヨハンがいない世界で、俺は何をすればいいんだよ。そんなの耐えられない。死ぬ時は、一緒だって俺……」 「男ってさ、馬鹿なんだよ」 「えっ?」 十代の泣き言を遮ってヨハンが言う。ヨハンは穏やかな顔で微笑み、十代に口付けた。死の間際の人間がする表情にしてはあまりにも凪ぎ過ぎていた。それが余計に、十代の焦燥を加速させる。 「大好きな子一人ぐらいは守りたいって思うんだ。最後にかっこ付けて見せたいって思うんだ。虚栄かもしれない。でもさ、俺はそれでも――」 十代に生きてて貰いたいんだ。 「――ヨハン!!」 たくさんの悲鳴が一斉に上がる。どこかで起こった爆発が切っ掛けとなって、ただでさえ少ない酸素を炎が奪っていく。十代を強く腕に抱いたままヨハンは宙空に投げ出された。咄嗟に十代は態勢を変えて背から翼を出すが、ヨハンとの釣り合いが上手く取れずバランスが悪い。 「ヨハン……?」 「十代……あいしてる……」 あいしてる、と繰り返してヨハンは目を閉じた。なんだか儚くなってしまったようで愕然として抱かれていた相手を逆に抱き返してやった。十代よりも鍛えられてしっかりとした体は、しかし今は十代よりも余程ちっぽけで頼りなかった。今にも消えてしまいそうだった。 「そんな……」 腕の中に伝わってくる鼓動の音が小さくなる。 やがて弱まった鼓動は、何処かへ消え入ってしまったようにその時十代には思えた。 「……うそだ」 世界中の誰よりも強靭な肉体を持ち、強大な力を持ち、その気になれば片手を動かすだけで全世界を蹂躙出来る半人半精のそれは、震える声でわなないた。伸ばされた手は頼りない子供のように怯えた手付きをしていて、壊れ物に触れるように繊細に男の顔を撫でる。 いつもきらきら輝いていて心地の良い言葉をくれた男はその手のひらに反応を返さない。「うそだ」、また小さな声が漏れた。世界が半人半精の悪魔に突き付けた現実はあまりにも残酷で冷え切っていた。 「うそだ……」 落下は続いている。悪魔が愛した「ヨハン・アンデルセン」は目を覚まさない。フリーフォールがもたらす強烈な重力がただの人間でしかないヨハンの体に深刻な影響を与え続けていた。悪魔と違って人間の体は脆い。落下する先が海だからまだましだったが、岸壁や、固い地面であったならば衝撃でぐちゃぐちゃに弾け飛んでいただろう。それこそ二目と見られない醜い姿に、血と臓腑が飛び散るグロテスクな姿に成り果てる。 悪魔にはそれが耐えられない。「レベル十二・悪魔族モンスター」である部分を人間の弱い心が侵食していく。嫌だ、嫌だ、いやだ。現実を受け入れられずに悪魔は頭を振った。いやだ。そんなのはいやだ。 「返事をしろよ、ヨハン。なあ、頼むよ。その目を開けて笑ってくれよ。いつもみたいに。なあ。俺のこと好きだって、言ってくれよ。そうでなくてもいい。愛の言葉じゃなくったって、なんだっていい。呪いの言葉だって、拒絶の言葉だって、ヨハンが喋ってくれるんならなんだっていいんだ」 ヨハンは答えない。だが、呼びかけとは関係なくぴくりと瞼が動いた。悪魔は息を呑む。――動いた。まだ死んでない。 青ざめていく唇の向こうに幻が覆い被さったような気がした。勢いよく沈み込んだ海の色に幻が染まり、水に揺られて拡散していく。真っ白な世界の中でエメラルドの美しい瞳を柔らかく細め、その人が「好きだよ」と囁いた。「愛してる」とも言った。「ずっと君のそばにいてあげる」「どんな姿になってしまったとしても」「君を抱き締めてあげる」「だから泣いたっていいし、強くなくったっていい」「人間だから、弱くっていいんだ」「例え半分が悪魔だとしても、君は誰よりも気高くて美しい人間の心を持っているんだ」「愛してる、十代」「もう絶対に君の手を放すもんか」。 幻が、儚い幻影が深い海の揺らめきに反響して悪魔に一つのヴィジョンを見せた。だけどすぐに夢幻だとわかった。その人の姿があまりにも優しくて、眩しくて、掴もうとしても触れることすら許されなかったからだ。けれど悪魔はその幻を見て壊れたステレオのラジオみたいに意味のない言葉を繰り返すことを止めた。その先に禁断の果実を見た。 聖書にこんな話がある。神の楽園とそこに住む愚かな女、嘯く蛇、そして禁断の知恵の実、血のように赤い林檎の寓話だ。蛇は囁いた。「その林檎を食べると、神が隠していた秘密を知ることが出来る」。女はいけないと知りつつその実をもぎ、口にしてしまう。その後に女は楽園を追放された。女だけではない。女に唆されて知恵の実を口にした男もまた共々楽園を追放される。創世記三章に記される楽園追放、堕罪のくだりだ。 知恵の実に納められていた禁忌とは、「善悪の知識」であったのだと創世記には記されている。 「ヨハンは、俺に嘘をつかない。絶対に俺を裏切らない。俺を一人にしない。……俺を、見限らない」 馬鹿で無知な子供のように、悪魔は呟いた。涙は海に溶けてしまってもう見えない。しょっぱい水が悪魔と死にかけの人間を包み込んで、底へ底へと引きずっている。 「なんにもしてくれない嘘っぱちの神様でも、俺に宿る悪魔でも、どうだっていい。もう何も構うものか。呪われた力を持っていても、歪で醜い体でもいいんだってヨハンは言った。綺麗だって、言ってくれた。神様が、本当にいるとしたら俺にとってそれはヨハンなんだ。ヨハンだけは俺に全てを与えてくれた。――あらゆる全てを。だから、」 悪魔の手のひらの中に一枚のカードが現れて存在を主張する。分類区分「速攻魔法」。何千何万の命を糧にして生まれた覇王十代の罪の証にして最強の力だ。揺るがない覇王の力。あらゆるイレギュラーをレギュラーにする悪魔の力。 正真正銘の悪魔、《ユベル‐Das Extremer Traurig Drachen》となった今これ以上に相応しい力がどこにあろうか? 悪魔は、覇王はその瞳と唇を、相貌を歪めてそのカードに触れた。 「俺のヨハンは誰にも奪わせない。俺の神様は、誰にも奪えない――!」 超融合を掴む手のひらの上にもう一枚のカードが現れて光輝いた。レベル十、ドラゴン族光属性モンスター「究極宝玉神レインボー・ドラゴン」。ヨハンのエースカード。美しい、宝玉を統べる神の名を冠したカード。 悪魔は笑う。これで全ては蘇る。 「発動せよ、我が絶対無敵最強無比の罪の象徴――超融合」 小さなカードが発動の言葉を受けて黄金に光り、くるくると回る。海の底に沈みながら覇王は叫んだ。冷たくなって死の向こうに今まさに連れ去られようとしている人間を腕に抱いてただ泣き叫んだ。 「俺にヨハンをかえして」 深い海の底から強烈な光が発生し、天までを貫く。悪魔は愛する男を腕に抱いて恍惚として目を閉じた。腕の中から、「十代」、という声が聞こえた気がした。心地の良い声だ。愛するひとの声。 「ヨハン……」 ぼやけた視界の奥に美しいエメラルド色を見て、悪魔は意識を落とした。 二〇〇九年に起きた「五八七便」の墜落事故は、死者三百名余り生存者ゼロ、最後の無線通信が行われた場所からして大西洋のどこかに墜落したものと報道された。機体は今日でも発見されておらず、死者の遺体を引き揚げることもままならなかった。最終的に彼らの葬儀は、搭乗者のたくさんの遺影に花を添えその死を悼む形で行われた。 その中にはアカデミア本校の落ちこぼれの少年と、アカデミア・アークティックを主席で卒業した青年の写真も含まれていたが彼らを知るものは盛大な葬儀には参加しなかった。 彼らは口々に言った。 「あの馬鹿が死んだりなんぞするものか。あいつは殺されたって死ぬタマじゃない」 「アニキが死ぬなんて、そんなはずないじゃないか。アニキのことだから僕達を驚かせようとして悪戯仕掛けてるに違いないんだ。きっと最後に、ひょっこり帰って来る。なんでもない顔してさ。そしてあの人は言うんだ。いつもみたいに安心させてくれる顔で、『驚かせちゃって悪いな』って」 だが涙に濡れたその瞳は、遊城十代とヨハン・アンデルセンの死に対するショックを誰よりも雄弁に語っていたのだった。 ◇◆◇◆◇ 薄く瞳を開と、自分を心配そうに覗き込んでくる誰かの顔が見えた。つい最近妻に娶った人のものだ。遊城十代。最愛の女性にして最高の友。 「じゅうだい……」 「よはん」 拙い声で名前を呼ばれる。間を置かず、ぼたぼたと水滴が顔に滴り落ちてきた。透明で温かい。涙だとすぐに知れた。ヨハンは不思議に思う。十代はあまり泣かない性質だ。 「なんだよ。どうして泣いてなんかいるんだよ」 「よはん、よはん、よはん、ヨハン……ッ!」 「なあ、泣くなよ十代。そんな顔お前には似合わないぜ。後ろ、向いてみろよ。太陽が眩しく光ってる。お前みたいにまっすぐに光ってる……」 陽光を背に受ける形で泣いているその人の顔は陰っていて、あまりよく見えない。 ふと、まぶしい光の奥に一瞬、深い海の色を見た気がした。 ヨハンは体を起こして、十代を腕に抱いてやる。かぼそい体だ。泣きじゃくる子供のような姿は頼りなく弱々しくて、守ってやりたいと強くヨハンに思わせた。キスをしてやると、また名前を呼ぶ。一体どうしてしまったというのだろうか? 「あんまり泣くな、十代。綺麗な顔が台無しだ。お前は笑ってる方がいいよ。何がそんなに悲しいって言うんだ?」 十代のぐしゃぐしゃに歪んだ瞳が橙と黄緑の互い違いに輝いてまっすぐにヨハンを見つめてくる。儚い眼差しにヨハンはもう一度キスを落として、耳元で「何を泣いてるのか知らないけど、大丈夫だよ」と囁いてやった。 「世界は今日も、こんなにも美しいんだから」 そう言ってやると十代はまたぽろぽろと新しい水滴を零して「ああ」、と力なく答える。 「ヨハンがいる世界は、今日も、これからも、ずっと、うつくしい――」 |