14:リチュアル(07) そしておしまいに |
ヨハン・アンデルセンは人を止める。妻と同じものになる。危惧していた通りの結果が出て、藤原は小さく息を吐いた。見た目には何も変わってやいない。だが、本質は大きくずれ込んでいる。 「まあ、こうなるだろうとは思ってた」 そう言ってやると「ふーん」と素っ気ない返事を寄越す。戯れに背から純白の翼を生やしているそいつはわざとらしく翼をはためかせて膝枕で眠りこけている伴侶の髪を梳いた。人間を取り巻く法則を尽く粉々にしてしまえる恐るべき超常の異能の持ち主である、かつて覇王と呼ばれた子供はすやすやと無害そうな顔で寝息を立てていた。だが藤原は知っている。そいつは決して可愛い生き物なんかじゃない。そんな感想を持てるのはヨハンだけだ。 「君は、それでいいのか」 「全然。むしろ何が悪いって言うんだ? 俺は十代が海の底で生きてるのなら脚を切り落として魚になったっていいし、俺が海の底で十代が砂の上で暮らしているというのなら声帯と引き換えに脚を貰ってそこに行くよ」 「……聞いた僕が馬鹿だった」 恥ずかし気もなくそんなことを言ってのけたその男は、そういえば北欧の童話の国出身だと言っていた。そのまま泡ぶくになって死んでしまったらどうするんだと例え話に思わなくもなかったがどうでもいいことではあるので黙っておく。こいつがなったのは魚ではないし、元々人魚だったわけでもない。 「君はさ、あの時言ったよね。もし十代が悪魔になってしまうのだとしたら自分も悪魔になって、或いは幽霊になっていつまでも憑いてるって。それを後悔したことはないのかい? これから後悔することは?」 「ないよ。あるわけないだろ。だってこんなに危なっかしくて可愛い奥さんを放っておけないじゃないか。十代は俺の天使で、絶対で、永遠なんだ。それに案外便利だぜ、この体。夢の飛行体験も出来るし精霊を実体化させられるからルビーもふり放題」 「どっちも興味ないよ、僕は」 悪魔になったっていい、と言ったヨハンは悪魔の手で悪魔と似たような生き物にされた。レベル十、ドラゴン族光属性。七体の宝玉獣を束ねる究極の宝玉の神様「究極宝玉神レインボー・ドラゴン」――それが今のヨハンが持つもう一つの側面だ。 自らのフェイバリットと一体になった結果、そいつは生還不可能なはずの飛行機事故からまんまと五体満足で生還せしめた。乗客数百人合同とはいえ大々的な葬儀までやったというのにだ。今は、どのタイミングで出ていって馴染みの面子を驚かせてやるかを考えているところらしい。ろくでもない。 戸籍上は死亡扱いになってるんじゃないか、と指摘してやるとヨハンはあっけらかんと「ペガサス会長が取り計らってくれたからあんま問題ない」とのたまった。権力と金、そしてコネクションの持つ力の恐ろしさである。まあ偽名で何年も逃亡を続けていたというニュースが時折あるぐらいだから衣食住さえ確保出来てしまえば戸籍などなくてもなんとかなるのだろう。 「……十代はさ」 「……うん?」 「あの時、泣いてた。俺はそういうのすごく嫌で、だから――だから、これでいいんだ。あいつは本当は泣き虫で寂しがりの子供だから、俺が付いててやらなきゃ。まだ赤ん坊の顔だって見てないんだ。夢だって叶ってないんだ。……俺が生きてるってことがすごく不自然で歪だってことは知ってる。でもさ……俺は十代と同じでいたかったんだ……」 十代と同じところにいたかった、と続く。本音を言えば、先に死んでしまうことが酷く気がかりだったのだとも。気にかけるのは、仕方ないことだと思う。当たり前のことで発想自体をとやかく言うことは出来ない。誰しもにある気持ちだ。だが度合いがおかしい。十代が異常だから、ヨハンもまた異常だ。 「僕が怖いと思ってたこと、恐れていたことが現実になってみて思うのがね、君達は――お前達は、いつか好奇の視線に晒される時が来るだろうってことだよ」 藤原はノートに半人半精のつがいの様子を記録しながらそう言ってやった。 「十代一人が『好奇心旺盛な異端者達』に目を付けられるのは、実のところあまり問題ないんだ。十代には弱味がない。強さという点に置いて十代は完全と言ってもいい程完成されている。だけどそれは孤独が前提のもので、遊城十代本来の強さ……単純な危機対処能力のことであって、世界を救うだとかそういう強さは、守るべきものがいてこそなんだけど。一人なら守る必要がないからね……とにかく純粋な強さというものは一人になって初めて発揮されるものだ。守らなければいけないものがなくなって完璧になる。覇王という形がそれを実証している。でも君が十代と同じものになって状況は変わった。まず狙われる対象が十代からつがいの二匹になって、その分守ることが難しくなる。子供が欲しいなんて言ってるけどそんなもの作ったら尚更だ。つがいの異常から生まれた子供もまた喉から手が出る程欲しい研究対象になる」 「随分はっきり嫌なこと言うんだな……」 「研究者である僕の立場からじゃなきゃ気付かないだろうから親切に忠告してやってるんだよ。二人とも子供を盾に取られたらほいほい己の身を差し出すような性格だろ。暮らす上では十分気を付けた方がいい。まず必要以上に自分達の異端を晒さないことだ。それから後ろ立ては確保しておけ。その辺の研究者では手出しが出来ないような強固なものを、だ。I2も申し分ないが欲を言えばもう二、三はあった方がいい。世界規模でなりふりかまわない変人共の標的になるということは、結構危ないことなんだ」 「なるほど。それはお前自身の意見か?」 「ああ、そうだね。もし僕が二人のことを『研究対象として非常に興味深いもの』としてしか捉えていなかったら、出来るならありとあらゆる研究観察をしてみたいと思うだろう。手段を問わないのならば、必要に応じて投薬で廃人にして、精霊との融合メカニズムや実体化のメカニズムを解き明かすためのモルモットにするかもしれない。勿論子供も観察する。――そんな顔するなよ。僕はしないけど、実際にそういうことをやろうとする馬鹿は恐らくそう少なくない」 藤原がそういう非道な真似をしないし、出来ない人間だと知っているはずのヨハンも具体例の陰惨非道さに表情を酷く険しくした。彼が言うまでそういうことは考えたこともなかった。 「俺、やっぱプロじゃなくて研究者になろう。精霊と人間の架け橋、って夢にはそっちの方が近いし」 「悪くないと思う。その手の輩への情報アンテナの確保にも繋がる」 「うん、その狙いもある。あと世界中遠征しないでいいから十代が楽なんだよな。それこそ子供が出来た時、仕事で出産にも付き合えないのは嫌だから」 「……子供はあくまで作る気なのか」 ヨハンは当たり前だろ、と大きく頷いた。元気なことだ。 二人がこの会話を交わしたのは、例の飛行機事故からそう経っていないある初夏の日のことだった。 藤原優介が長年研究を続け、その結実として学会に発表したレポートは精霊界と精霊の存在を学問の分野に知らしめた。人と精霊の共存の形は大きく見直され、示唆された未来に向けての動きを検討し出した企業も少なくない。 そして精霊の認識をがらりと変えたそのレポートには追加文書がある、というまことしやかな噂がある。ある者は興味本位から、またある者は学術研究のために、そしてまたある者は明確な悪意をもってその追加文書の公開を要求したが、それが呑まれることはなかった。 追加文書には、藤原の知人である一組の夫婦のことが記されているとされている。 その追加文書が彼の死後流出したことが、非合法研究機関《EX‐Gate》のそもそもの発足の切っ掛けであったのだと知る者はあまりいない。 |