15:ファミリア(06) 日常崩落 |
その日はいつも通りに学校へ行く予定で、だから二人で頑張って少し早く起きて、そしてトーストの朝食を取ったのだった。この数日間で龍亞は目玉焼きが作れるようになった。 それから学校へ行く準備をして、まだ時間に余裕があるから龍亞はリビングで録画したテレビを見始めて、龍可は如雨露を手にして庭や玄関口の植え込みに水を遣ろうと思ったのだ。水遣りをしたら龍亞を引っ張って学校。今日もいつも通りに過ごして、そしてもう何日かしたら両親が帰ってきて――そのはずだった。はずだったのに。 なのに、どうしてこんなことになってしまっているのだろう? 「龍亞!」 「龍可、前に出ないで! 俺が、俺が龍可を守るんだから。また、あの時みたいに苦しい思いはしたくないんだよ!!」 パワー・ツール・ドラゴンの偽者が腕を振り上げて放った衝撃波が自分達に迫ってくるのがスローモーションがかかったようにゆっくりと、しかし克明に見えた。龍可の前には龍可を守ろうと両手を広げた龍亞、そして更にそれを庇うパワー・ツールがいる。エンシェント・フェアリーもパワー・ツールと並び立っているが、向かいの偽エンシェントも既に攻撃モーションに入っていて、彼女はそちらに意識を向けているようだった。 「無駄無駄、馬ッ鹿なんじゃないのぉ?! お前らの中途半端な精霊で俺の攻撃を防げるわけないじゃん。呼び出しただけで半分体透けてるくせにさあ!」 (……半分、透けてる……?) 二体分のドラゴンの攻撃が間を置かず炸裂し、紛れもない本物の衝撃と痛み、爆煙に包まれながら龍可は半分、という言葉を反芻する。はんぶん。中途半端。二つのうちの、片っぽう―― 攻撃に押されるように後ろ滑りに地面に叩き付けられた。擦れて尻が痛い。だが、倒れずに踏ん張った龍亞の方が損傷は酷く、たった一撃受けただけだというのにもうぼろぼろになっていた。闇のデュエルで相当なライフを削り取られた時のダメージによく似ている。 「龍可、大丈夫……? 怪我、ない?」 「私よりも龍亞の方がよっぽど酷いわ! 自分の体を気遣って……」 「ねえ、お喋りしてる暇あんの?」 「!!」 龍亞に似た少年の冷たい声で二人して襲撃者の方へ振り向く。相変わらず酷薄な笑みを浮かべていて怖気がする。顔のパーツは殆ど自分達と同じなのにどうしてそんな顔が出来るのかわからなかった。そこには、あの天真爛漫な母が冷酷非情な表情をしていたり、優しい父が他人を馬鹿にして見下した表情をしているような違和感がある。気持ち悪くて目を逸らしたくなるが、目を向けなければいけないと思った。 あれが自分達と全く関わりがないものではないと直感が告げている。 ぼろぼろになった短パンのベルトに付けられたデッキ・ケースに手を伸ばして、龍亞が一枚のカードを取り出す。シンクロモンスターだ。だけどパワー・ツールのカードではない。エンシェントがそれに気が付いて振り返り、鋭く声を上げた。 『いけません、龍亞! シグナーの痣がなくなった今、その子をあなたが制御出来る保証はないのです!』 「エンシェント・フェアリー、何言ってるのかわからないけど今はそんな悠長なこと言ってる場合じゃないだろ! 龍可を守らなきゃ。俺が何とかしなきゃいけないんだ。だから……」 『ですが、』 「俺に力を貸して、ライフ・ストリーム・ドラゴン。龍可を守るための力を!」 エンシェントを無視し、龍亞が呼び掛けるとそれに呼応してパワー・ツールのボディが弾け飛びオレンジ色のドラゴンが姿を現す。エンシェントは尚も『龍亞!』と叫ぶが龍亞にそれを気にする素振りはない。ライフ・ストリームにも妖精女王の静止を気に留める様子はなく、主に催促をするように無邪気な瞳を輝かせている。 龍亞によく似た少年は殻を破って生まれた、生命の名を冠する見たこともないドラゴンに言葉による挑発を止めて後手に自身の妹の手を握った。 「……なんだよ、そいつ。なんなんだよそのドラゴン。そんなのドクターは言ってなかった。そいつもパパとママがくれたんだ? パパとママが。お前らだけに!」 「……は? 意味わかんな……」 「許せない」 呆けたようにライフ・ストリームを見上げていた少年が突然焦燥した声を出して、そして今までのハイテンションをそっくり引っ繰り返したような低い低い声で言った。目には先程までの嘲笑はないが、その代わりに明確で純粋な、悪意と憎悪がありありと浮かんでいる。混じりっ気のない敵意と害意がそこにあった。龍亞はこんな殺意を、呪いを、今までに浴びたことがない。 「なんでお前らばっかりパパとママに愛されてるんだよ。なんで、なんで、なんで! 僕達は愛して貰ってないのに! パパとママに抱き締めて貰ったことも撫でて貰ったことも、触ったことさえないのにお前達だけ全部持ってるんだ。僕達が欲しいものを全部奪ってるんだ!! ――機械竜パワー・ツール!!」 「やばっ……ライフ・ストリーム!」 二体のドラゴンが向かい合ってお互いにお互いの主とその妹を庇う位置で攻撃モーションに入った。くすんだパワー・ツールの腕が動くのと同時にライフ・ストリームは口を大きく開く。収束音が二重に響いてきんきんと不愉快な音を立てた。 「あいつらを消し飛ばせ、パワー・ツール!」 「龍可を守って、ライフ・ストリーム!」 『いけません、ライフ・ストリーム!』 エンシェントがライフ・ストリームに向けて叫ぶが、その叫びはライフ・ストリームにも龍亞にも届かない。二体の精霊の物理法則を超越した力がぶつかり合い押し合い、中央で一際派手な破壊を生み出した。ダメージのフィードバックがドラゴンのコントローラーである二人の龍亞にダイレクトに跳ね返る。龍可は目の前が真っ暗になっていくような心地になって、蒼白な面もちでゆっくりと倒れていく龍亞に駆け寄る。 「「龍亞!!」」 絶叫に似た悲鳴が二重に重なり、はっとして顔を見上げると向こう側でも自分と同じ造りの顔をした少女が倒れた少年に寄り添って自分を見返してきていた。頭半分を覆っていたフードは捲れて外れていて、自分とよく似た双眸がぞっとしない瞳で睨んできている。背中を寒気が走り抜けてぶるりと肩が震えた。片割れを傷付けられた怒りと憎しみを隠そうともしない表情は確かに恐ろしいものだったが怖いのはそこじゃない。その表情には、感情には強い既視感がある。自分の半分にも等しい存在である龍亞を痛め付けた相手への復讐心じみた敵愾心だ。恐らく、今鏡を覗けば龍可自身も同じ表情をしているだろう。 その時龍可はその少女が自分達を「お姉ちゃん」と「お兄ちゃん」と呼んだのが決して冗談の類ではなく本気で、本当のことなのだと理解せざるを得なかった。自分達の贋作、出来損ないのコピーは確かに本質を同じくするものだと察知せざるを得なかった。 お互いの、「自分の龍亞」を想う気持ちは何一つ変わらないのだ。 少女がぬいぐるみに手を突っ込んで端末を引っ張りだし、コールする。 「……ドクター。龍亞が倒れたわ。……うん、そう。お兄ちゃんにやられちゃった。だから寄り道する必要ないってわたし言ったのに……うん。わかってる。パパとママが本命だもの、龍亞もその頃までには起きるでしょ。お兄ちゃんの方は知らないけど」 「パパとママ」 「……そうよ、パパとママはまだなんにも知らないでいるわ。でも、あなたたちのところへは返さない。パパとママは一人一人しかいないもの。わたしたちはまだパパとママの顔だって見たこと、ない。恵まれたあなたたちとは違う」 少女は立ち上がり、道路に放り投げてあったぬいぐるみを拾った。少年は偽パワー・ツールの腕に抱え込まれ、少女もそれを確認してから偽エンシェントの腕の中に飛び入る。龍可はそれを呆然と眺めていた。 「あなたには、わたしと龍亞の怒りを、嫉妬を、憎しみを、苦しみを、嘆きを、憎悪を、呪いを、全部受けて貰うわ」 少女が言った。相変わらず声には抑揚が少ない。だけど感情が昂っている分きちんと色が付いていて、それが悪夢ではなくこれが現実だと声高に主張している。 「赦さない――大嫌いな人間のわたし」 その言葉を残して一瞬のうちに視界から二体のドラゴンが消え失せた時、固まっていた時が動き出したような錯覚を龍可は覚えた。褪せていた色が戻ってくる。あれだけの騒ぎを起こしたのにも拘らず街路には一つの損傷もなかった。腕時計をゆっくりと覗き込むと、リビングを出る時にテレビに映っていたのと同じ時刻を刻んでいる。まるで何事もなかったかのように世界は元通りを刻んでいて知らんぷりをしている。 だけど、龍亞は街路に倒れ込んでいて目を伏せっている。目を覚ます気配がない。 ◇◆◇◆◇ アキの携帯が着信したメールは差し出し人こそ見慣れた「遊城十代」という文字を映していたが開封したメールの中身は常とは全く違うものだった。最後にいつも入っている「遊城十代」のデジタル署名は「龍可」に書き改められ、普段なら世間話が連ねられている本文にはただ一言簡潔に「助けて、アキさん」と記されている。 龍可は真面目な子供で、しっかりした子だ。その龍可が切迫した文面を寄越したことに驚きアキは慌てて送信元の携帯に電話を掛けた。 『――アキさん!』 「龍可。一体どうしたの」 『大変なの。二人組に襲われて、龍亞が起きないの。昏倒したまま意識が戻らなくて、私どうすればいいかわからなくて……パパとママは出張中でいないけど、ママの携帯は家に置いてあったからそれでアキさんに電話を掛けたんだけど、』 「ちょ、ちょっと待ってちょうだい龍可、襲われたってあなたは無事なの?!」 一回のコールですぐに電話口に出た少女の声は平静さを欠いていて混乱しているようだった。要領を得ない言葉を追いかけて整理し、まずアキは状況把握に努める。双子の両親は出張で不在。その状態で朝も早くから二人組の襲撃を受け龍亞が昏睡してしまった。龍可はどうすればいいかわからずパニックに陥っていて、何故か十代の携帯は家に置き去り。長期不在の状況で自宅に連絡端末を置いていくのはどうなのかと思ったがそれが故意なのかうっかりの成せる技なのかは今は判別しようがない。 それよりも気になるのは襲撃者のことだ。二人組で、どんな容姿をしていて、どんな理由で双子を狙ったのかが重要だ。 『私は、大した怪我もしてないし平気……龍亞が守ってくれたから……。ごめんなさいアキさん、私今混乱してて、何が何だかよくわかってないの。怖くて、恐ろしくて、……龍亞がこのまま起きなかったらどうしようって考えたりして……』 「落ち着いて……と言っても、そう簡単には無理よね。わかったわ、私が今からそちらに行くから少し待っててちょうだい。そういう時に一人でいるのはよくないから。それと、これだけ教えてくれないかしら。その二人組は、どんな格好だったの? どこかの組織に属してそうとか、通り魔に近いとか……」 今日の講義は欠講するという連絡をひとまず入れることを決めてアキは気がかりを先に尋ねておく。今双子が住んでいる地区で通り魔が流行っているということはなかったはず、などとアキは考えたが、返ってきた返事は予想の斜めをいくものだった。 『ありがとう、アキさん。……あのね、容姿はそういう、アキさんが言ったのとは全然違うの。だから余計に私、わからないの。――二人組は、私と龍亞と同じ姿をした陰鬱な感じの双子の子供だったわ』 遊星の端末に連絡が来たのは日本時間の午前零時、職場に泊まり込んで行っていた納期直前の試作品製作作業の、最終アップ最中のことだった。登録しておいたことはしてあったが、今までかかってきたことのない相手からの着信だ。ディスプレイに並んだ文字は「ヨハン・アンデルセン」という名前を形作っている。 どうしたのかと訝しみながら電話に出て聞こえてきた声は聞き慣れた懐かしい少女のものだった。父親の端末を借りてまで伝えなければならない緊急の用でもあるのだろうか? 「……その声は、龍可か? 一体どうしたんだ。何があった」 平静でない声音に驚き努めて優しい声でそう尋ねてやると龍可は自分が今どんな状態なのかを取り乱しながらも説明を始める。まず、仕事で忙しい遊星に電話をかけたことを謝って両親不在の旨を話し、そして龍亞が昏睡状態のままもう十時間は目を覚ましていないのだと告げた。声が涙っぽくなってきて、泣きそうなのだと知れた。龍可は気丈な子だが、強いわけではない。双子の兄の危機ともなれば尚更だ。 『アキさんには、無理を言って来て貰ったんだけども……でもやっぱり龍亞、起きそうになくて。心臓の音はするから生きているわ。でもどんなに話しかけてもぴくりともしないの。私達と同じ顔の双子が変なパワー・ツールもどきとエンシェント・フェアリーもどきで襲ってきて、龍亞はそれにライフ・ストリームで応戦して私を庇って……それっきり』 「同じ顔の双子?」 『うん。そうとしか言い表しようがないの。本当にそっくり同じ要素で出来てた。身長も多分一緒。私達の弟と妹だって言って、私達を糾弾したわ。パパとママに愛されるのは自分達で十分だとかそんなことを叫んで本気で殺そうとしてた。でも私今まで龍亞以外に、それもあんなにそっくりの弟妹がいるなんて聞いたことない。全然何が何だかわからない。朝から筋道が通らないことばっかり』 龍可がごめんなさい、と繰り返すのを聞きながら遊星はヨハンに聞いた言葉を思い出す。――「もし龍亞と龍可が困るようなことがあったら手助けをしてやってくれ。なんとなく俺と十代では手が回りきらない気がするんだ。虫の知らせって奴かな、今話した内容を知っていれば何かしらその時対処に役立つだろう」――あの人はこのことを見越していたとでも言うのだろうか? 『……慧眼、と言う言葉では済まされないぞ』 「遊星? どうしたの?」 『いや……こっちの話だ。――龍可、龍亞は生きているのだろう。死んでいないのだろう。ならば、あまり気落ちするな。一人で抱え込むな。俺も出来る限り便宜を図ってそちらに向かう』 「えっ、そんな悪いわ。遊星お仕事忙しいんでしょう」 『今はそうでもない。プロジェクトが終わって丁度一段落してきたところだしな。それに俺とてあの人達と繋がりがゼロだってわけじゃない。これは勘だが、そう時間をかけずにそちらへ向かう段取りを手配出来ると思う』 尚も申し訳なさそうにぽろぽろと零れる龍可の声を静止して遊星は羽織りっぱなしだった白衣を脱ぎ去る。白衣の下のあまりにも適当なチョイスの私服だけはどうにかしなければと考えながら遊星は職場を出る用意して、有給申請の手続きをどうすればいいのかを考え出した。ただ、予感はある。恐らくこの申請は通るだろう。 何せヨハン・アンデルセン、もといY.Y.アナセン博士はKCが最も密な繋がりを維持しているI2の超重要人物なのだ。 ◇◆◇◆◇ 一瞬思考が固まってしまったのが、考えるまでもなく明らかに致命傷だった。だが、そう自省する一方でそれは仕方のないことだとも思う。 愛する我が子の顔をしたいきものに襲われて躊躇なく返し手を叩き込める方がどうかしているのだ。 「パパ、ママ…………」 振り払い切れなかった災厄である双生児の襲撃者は、鋭く簡潔にヨハンと十代の体に傷口を作り、何がしかの薬品を二人の体内に滑り込ませたようだった。体の動きが酷く緩慢だ。思う通りに動かない。 ヨハンと十代は精霊の体を持っているから外界からのショックには非常に高い耐性を持っているし打たれ強く、攻撃性も兼ね備え、通常なら相手に後れを取ることなどほぼ有り得ない。今回の奇襲が成功した要因の大部分は前述の通り襲撃者の顔の造りにあったが、もういくらかはその手口の特殊性にあった。わざわざ体精霊特化型の薬品を用意してきたのか、と内心で毒づく。それは普通流通しているものではないし並大抵の者には製作不可能な、本当に特殊なものなのだ。 覚束ない意識の中で、ぐにゃぐにゃと歪む室内とぼやけた人影が無数に並んで見えた。その人影のうち、特に背丈の低い二つが足早に駆け寄って来る。襲撃者の双生児だということはすぐにわかったが解せないことがいくつかある。 どうして、二人は自分達を襲ったくせ、あんなに嬉しそうに寄って来てそして幸せそうな手付きで自分達の肌に触れているのだろう? どうして、最愛の子供達と同じ体をして自分達のことをパパとママと呼ぶのだろう――? 「パパ、ママ」 「お前らは誰だ……?」 「やっと邪魔なものがなくなった。やっとパパとママに会えた。やっとパパとママに触れた。やっとパパとママが僕達だけのものになる」 「――?!」 襲撃者の方割れの少年が、龍亞に似たほの暗い声音で囁いた。言葉端から滲み出る狂気は隠しようのない異質だった。だがそれは、十代にとって未知のものではない。ちくりと痛みを感じる。これは誰かを狂おしく求める異常なのだ。紛れもなくこの子供達は今ヨハンと十代を、彼らが「パパ」「ママ」と認識する存在を欲している。 視界に映る人影らしきものの中で動いているものは小さな二つの異常しかなかった。「家族会議」の他の出席者達が動いていないということは、動けないということだ。彼らは十代達とはそれこそ生まれた時からの付き合いで義理堅く、非常時に声一つ上げない程臆病でも薄情でもない。 子供の小さな手のひらが不意に十代の頬に添えられる。サイズはほぼ自らが生み落とした子供達のものと合致していた。だが、感触は酷く不快なものだった。龍亞や龍可が十代にもたらしてくれる安堵と家族の温もりが一切ないその手のひらは死人のように冷たかった。 「龍亞と龍可をどうした……」 「パパ、何言ってるの?」 同じふうに触れられて一抹の不安を覚えたのだろうヨハンが、恐る恐るといった声を漏らす。すると襲撃者の子供達はあからさまに不機嫌そうに首を傾げた。尋常ならざる腕力でぐいと十代とヨハンの体を引き寄せて耳元で囁く。 「パパとママの子供は、ここにいるでしょ。龍亞と龍可は僕達だよ? 変なパパ」 その声に、十代は理解した。 「リリー! ドイツに残してきた子供達が危ない! 遊星だ、KC《MIDS》の不動遊星を何とかして捕まえてくれ。あの子達はきっと助けを求めてる。遊星なら事情を理解してくれる!!」 母親の持つ本能が働いたのかもしれない。十代の頭の中に鳴り響いたシグナル・レッドはただ子供達の危機だけを警告していた。「帰りを待っている」と笑ってくれた最愛の息子と娘のことだけが不安要素となって渦巻いていた。この状況で自分達夫婦が連れ去られてしまうことは多分避けられないことだ。だがそうするとやっと形を取り戻してきた家族がまたばらばらになってしまう。やっと埋まってきた親子間の溝が再び開きかねない。 私用に遊星を駆り出すのは悪いと思うし罪悪感がないと言えば嘘になる。だが頼れるもののいないこの異国の地で双子が心を許して心情を吐露出来る相手などそういないだろう。泣き付ける相手ともなれば尚更だ。 そして十代には確信があった。不動遊星ならなんとかしてくれる、という確信がだ。 何故なら、遊星は双子にとっての憧れのヒーローなのだから。 「頼む、リリー……」 「ふどうゆうせい? 誰それ。まあどうでもいいけど」 無感情な声が十代の言葉を上から掻き消す。襲撃者の背後に奇妙な感触の精霊が現れたのを感じて十代とヨハンはぶるりと体を震わせた。その精霊からは自由意志が感じられず酷く空虚で、しかし拘束されているといった様子でもない。元から何もないみたいだった。虚ろで、空っぽで、喜劇じみた雰囲気があった。 「僕達もう、死ぬまでパパとママと離れないよ。生まれた時からずっと願ってた。ずっと夢見てた。パパとママに愛して貰うこと」 「そう。だから『お兄ちゃん』と『お姉ちゃん』にはその報いを受けて貰うの。わたしたちが辛くって苦しくって寂しかった分、同じ思いをして貰うの……」 今一度触れられた氷のように冷たい温度は、もしかしたら死体というよりは無理矢理姿形を真似た精霊のものに近かったのではないかと思う。 ◇◆◇◆◇ 出頭しろ、との命令が下ったのは無事に試作品が納期内に完成し、それから所定形式の有給申請を書き終えて席を立った頃のことだった。特に最近何かミスをした記憶はない。だから突然の呼び出しにも焦りはなかったし、むしろ「やはり」という感覚の方が大きくあった。 日本時間にして午前九時前後、ミュンヘンでは今は時差の関係で同日の深夜二時を数える。付きっきりで見ていたアキから最後に「龍亞は目を覚まさず、龍可も疲れて眠ってしまった」と連絡がきたのは四時間前のことだ。遊星はアキにも一度睡眠を取るべきだと進言しておいたが、それが取り入れられているかは定かではない。 白衣を脱いである程度身だしなみを整え、呼び出しを喰った場所に向かう。そう時間がかからず辿り着いた威圧感のある部屋にいたのは驚いたことに、KC最重役の男だった。海馬木馬直系のCEOその人だ。 「突然呼び出してすまない。だが君を責めるわけではないので、落ち着いて聞いて欲しい」 「予想は付いています。十代さん、いや、I2のアナセン博士のことですね」 「……驚いた。どこでその情報を?」 「彼ら夫妻の子供達とは友人なんです」 CEOは遊星の答えにそうか、とだけ頷くと話の続きを切り出す。 「I2のリリアンヌ・J・クロフォード女史から――言うまでもなく、経営最高責任者の女傑だが――彼女から君に名指しで要請がきた。曰く、『不動遊星をドイツにいるアナセン夫妻の子供達の元へ借り受けたい』とのことだ。女史はそう言えばわかるだろう、と言っていた。それ以上の詳しいことは私も知らない。……言うまでもないが拒否権はほぼないものと思って相違ない。君にも、私にもだ」 「異論ありません。元よりそうするために有給申請届けを書いていたところです。行けと言うのならば喜んで行きます」 携えたままだった書類を暗に指してそう答えるとCEOは胸を撫で降ろした。先の台詞からして彼はリリアンヌ女史が苦手なのだろうか。KCだってI2にひけをとらない大企業であるはずで、それこそ伝説の海馬瀬人社長ならば当時あちらのトップであったペガサス会長と対等にやりあっていたはずなのだが。 「そう言ってくれると助かる。……諸経費は持つと先方から気遣いを頂いている。とにかく、出来るだけ早くあちらへ向かってくれ。それが彼女の望みだ。君の部署のプロジェクトは確か、先程区切りが一つ付いていたな? 向こうにいる間、君のことは出張扱いにしておこう。有給と変わらんよ、尤も彼女の様子からして休息が取れるとは思えないが」 「ええ、まあ、はい……十代さん……あの人絡みで楽な思いが出来るはずないと思っていますから問題ありませんが……」 「はは、この街の誰にも愛される君にも苦労する相手がいるんだな。私も彼女には随分と梃子摺らされたものだよ……蛇足だな」 CEOの様子は、何となくマーサに頭が上がらないハウスの子供達を連想させた。遊星は内心で首を振って思考を今進行しつつある事態の方に向ける。遊城十代、遊星が世界で最も尊敬する三人の内一人である赤いヒーローはいつだって何かしらの驚愕を遊星にもたらす人だった。パラドックス事件の時にのみならず、思いがけない再会を果たした数ヶ月前の空港での出来事にしたってそうだ。あの人は、誰かを巻き込んでしまったら平穏のままでは帰せない人だ。そんなことは元より承知である。 それでも遊星は遊城十代を尊敬しているし、その子供である双子のことは大切な仲間だと思っている。双子の父親のヨハンも、十代と双子にとって大切な人であるのだから遊星にとってもそれは同じだ。 その大切な人達が危機に陥っている。その状況で骨身を惜しみ傷付くことを躊躇う理由なんてどこにもない。 ◇◆◇◆◇ 家の外に、聞き慣れたバイクの音を聞いたのは夜も明けた頃のことだった。いつもみんなが期待と希望を寄せていた、ネオドミノの英雄が駆る赤いD・ホイールのものと思しき音を聞いて龍可は首を傾げ、それから眠たげな眼を擦ってのそのそと玄関へ歩いていく。アキは龍亞のベッドに前屈みに寄り掛かりながら眠っていたので、起こさず寝かしておくことにした。きっと彼女は自分が寝てしまった後もずっと、龍亞の様態を見ていてくれたのだ。 玄関の戸をゆっくりと開ける。その向こうでヘルメットを脱ぎぶるりと頭を震わせた人の顔を見て龍可はもう一度目を擦った。会いたいと思っていた人の姿だったが、常識的に考えて会えるはずのない人だったからだ。 「……遊星?」 「ああ、待たせた、龍可。アキと龍亞は奥か?」 「う、うん。二人とも子供部屋にいるわ。……なんだか私びっくりして、なんて言っていいのかわからない。本当に遊星?」 「一応、自分ではそのつもりだ。十代さんからのSOSを受けて、俺はここに来た」 青いライディング・スーツを身に纏った龍可の憧れの人は、彼の愛車である遊星号から制御キーを抜き取ってそう答えたのだった。 「I2のお偉いさんが俺を直々に指名して、何が何でも寄越せと上司に言ってきたらしくてな。すんなりここに来ることが出来た。……聞いた話では、十代さんが俺を龍可と龍亞のところへ、と言い残したんだそうだ」 「言い残したってそれじゃ遊星、パパとママは?」 「……襲撃者に不可思議な力で拉致されたと、俺は説明された。そして襲撃者は龍可と龍亞に似ていたとも、聞いた」 子供部屋に向かい、アキを揺り起こしてから遊星はすとんと彼女の向かいに座り込んだ。アキにこれといって驚いたふうはないから彼女はあらかじめ連絡を受け取っていたのかもしれない。そうでなくとも、きっと予感があったのだろう。遊星は確かに、ピンチにはいつだって駆け付けてくれる人だった。アキは誰よりも遊星を信じているのだ。 その遊星が切り出した話は衝撃的なもので、龍可は蒼白な表情になる。無理もなかった。彼女の横で双子の兄は未だ目を覚ます兆しを見せていないのだ。その状況で更に両親が拉致されて行方知らずだと聞いて平静でいられるはずもない。彼女は遊星の見立てでは、両親という存在に今は強い執着を持っている。一度失ってから再び手に入れることが叶った温かい家族の温もりをまた失うことを酷く恐れている様子だった。 それを受けてアキが気遣うように龍可の肩に触れる。遊星の知らない母親の手のひらといったものに似ているような気がした。小刻みに震えていた肩が少しずつ静かになっていくのを見ながら遊星はそんなことを思う。なんだかアキはしばらく見ない内に随分と母性が増してきたのではないだろうか。妙な予感がするので口には出さないが。 「龍可。昨日電話で龍亞はライフ・ストリーム・ドラゴンを召喚したのだと言ったな」 「うん、そう。エンシェントが何でだか必死に止めようとしてたけど龍亞はそれを無視してライフ・ストリームを呼び出したの。それで相手の攻撃を受けて……それっきり、ずっと眠ってる。私を庇ったばっかりに」 「……龍可」 「私、なんにも出来なかった。龍亞に守られるばかりでただ呆然としていることしか出来なかった。龍亞は私が守られたがりだって知ってるから、私のヒーローになろうとして無茶をするの。私がいけなかったのよ。私の弱さが……」 「龍可。そんなふうに自分を責めるな」 ヒーローになりたい、というのが龍亞の率直な思いであったことを遊星は知っている。そしてその「ヒーロー」は、誰のためでもない妹の龍可のためのヒーローであるのだろうということも知っている。ヒーロー願望。十代にどこか重なるところのある言葉だった。遊城十代は誰よりもヒーロー然としているくせに、英雄を求めているようなそんな空気があった。そのことを思うと、龍亞と龍可とは間違いなく血の繋がった親子なのだろうなと思う。きっとヨハンも、十代の英雄になりたかったのだ。彼は十代にとっての英雄なのだ。 「龍可は悪くない。だが、自分を責めることはよくない。今考えるべきはどうやって龍亞の目を覚ますかで、今龍亞の意識はどこにあるかだ。……俺は、もしかしたらこの件には精霊界が関わってきているのではないかと思う。丁度数ヶ月前にヨハンさんに聞いた話といくらか合致する符号があるんだ」 「パパから聞いた話? 私達のことを聞いたの」 「ああ。正確にはシグナーのドラゴンと、龍亞とライフ・ストリームの関係性についてだ。ヨハンさんはライフ・ストリームもまた俺のスターダストやアキのブラック・ローズと同じように造られたカードだと言っていた。だが、六年程前に起こった事故がきっかけでライフ・ストリームは已むなく十代さんとヨハンさんの手でパワー・ツールの中に封じ込められたんだそうだ。彼は、龍亞もまた龍可と同じように特別だったのだと俺に語って聞かせた。その言葉の中に嘘があるとは思わない」 「特別って……龍亞が? 私と同じように? 私、そんなのわからない。自分が特別だなんて思ったことないもの」 「精霊を見、心を通わせることが出来る。それは十分に特別足り得るものだ」 「……精霊が見える力は私の特別なんかじゃなかった。私と龍亞を隔てるもので、みんなと違うもので、昔はあんまり好きじゃなかった」 眉尻を下げてそう言う。確かに、精霊視の能力は異端を誰よりも鋭く感知して排除したがる習性のある子供の群れの中では邪魔な力だったかもしれない。それがために龍可は学校へ通わなかった。病弱だと昔龍亞は言っていたが、遊星達と出会い幾何の危機を乗り越えてきた少女は決して貧弱ではなかったから、きっとその異端が見付かるのが彼女は怖かったのだ。精霊のことを愛している龍可だがだからといって精霊視の能力を愛しているかと問われればそれはノーなのだ。 それは龍亞と自分の明確な違いでもあったのだから。 「龍可にとってはそうでなくても周囲にとって特別であったのは間違いない。ヨハンさんは、龍亞も同じようにかつては精霊を見ることが出来るのだとはっきり言っていたよ。確か、十代さんもそうだろう。覚えていないか、龍可。いつから龍亞が精霊を見なくなったのか」 「……そんなの、覚えてない。だって龍亞は、龍亞は……」 「……すまない。辛かったリ苦しいのなら別に答えなくっていい」 龍可の目の中に明らかな怯えの色を見て遊星は小さく首を横に振る。アキも遊星にやや難色の混じった視線を送ってきていた。どうやら遊星は龍可のタブーにべたべた触れ回ってかさぶたに辿り付いてしまったらしい。心の傷跡を抉じ開けるのは遊星とて本意ではない。 「遊星。龍可は疲れているわ。あんまり無理をさせない方がいいと私は思う」 「ああ……そうだな。だが覚えていたらこれだけは教えて欲しい。もっともっと二人が幼い頃、龍亞はどんな精霊がお気に入りだった?」 「……龍亞のお気に入りの、精霊……?」 「カードでもいい。ディフォーマーが出る前に龍亞が好んでいたものが……覚えていないか」 二人はその問いかけに訝し気な表情をした。どうしてそんなことを聞いているのだろうという表情だ。そんなことが今の問題をどうやったら打開出来るのかという不信。だが遊星には軽んじられる疑問ではなかった。かなり高い確立で精霊界を彷徨っている可能性のある龍亞を誰が案内しているかが分かれば捜索の時間が短縮出来る。龍亞が一番強くイメージする精霊がそばに現れると考えるのは不自然ではないはずだ。 「どう、かな……龍亞、昔はビークロイドとかが好きだったような気がする……あ。待って遊星、違うわ。一人だけ龍亞のお気に入りの中で変わった子がいるように思う。唯一男の子っぽくない好みだと私も思ったから。ちっちゃな、マジシャンの女の子のカードよ。名前はえっと、多分『カード・エクスクルーダー』。でも今思うと変ね、うちの誰も魔法使い族なんて使わないのに誰のカードだったんだろう」 「十代さんだろう、間違いなく。あの人自身は戦士族使いだがあの人がいたく尊敬していた遊戯さんは魔法使い族が多かった。――さて、今までの話は聞いていたな、エンシェント・フェアリー」 「えっ?」 遊星が虚空を振り仰ぎ唐突にその名を呼ぶと龍可が呆気にとられたような顔をする。だが遊星はお構いなしに現段階では独り言にしかならない言葉を続けた。遊星には精霊を見る力はない。とはいえ、エンシェント・フェアリーは特別だ。ヨハンの話が正しければ彼女はカードになる前からアンデルセン夫妻と親密な交流を持っていたことになる。夫妻からの信頼も厚い彼女なら遊星よりも多くのことを知っているに違いない。 だから遊星は見えない妖精女王への言葉を続ける。 「エンシェント・フェアリー。精霊界の女王であり十代さんとヨハンさんの信頼のおける友であったあなたなら知っているはずだ。龍亞がどこにいるのか。そして十代さんとヨハンさんが何者なのか。全てを隠し通したままでは、先には進めないと俺はそう思う」 |