16:ファミリア(09) 龍のこども |
目が覚めたら、そこはもうドイツの自宅ではなかった。でも懐かしいネオドミノでもない。全く知らない西洋の街並みのただ中でどこか神秘的な雰囲気さえ感じる。 「なんだここ。ていうか俺どうしちゃったんだろう。確か、わけわかんない奴らに襲われて必死で龍可を守ろうとして……龍可は、無事だったのかなあ?」 「きゅいぃ」 「あ、ライフ・ストリーム。お前も一緒だったのか! ……でもここ、マジでどこ?」 ていうかお前やけに鳴き声可愛いな、なんて言いながらぽんぽんと体を叩いてやるとライフ・ストリームはまた嬉しそうに喉を鳴らした。すりすりと体を擦り寄せてくる様は幼児が見知ったお気に入りの人間に甘える姿によく似ている。丸っ切り子供のようで、龍亞は背伸びして体を撫でてやった。それからはたと気付く。――どうしてライフ・ストリームに触れられるのだ? 龍亞が今まで生きてきて精霊に触れたことがあるのは、つい数ヶ月前に両親が精霊を実体化させた時一度きりだ。通常デュエルモンスターズの精霊には、龍亞は触るどころか目にすることも許されない。ソリッド・ヴィジョンはあくまでも投影された映像に過ぎないからだ。それはカードの絵柄を立体映像で映してはくれるが精霊の姿そのものではない。 改めて周囲を見渡してみると、ちらほらと人影らしきものを確認することが出来た。大きさも人種もぱっと見たところまばらである。ただ、共通しているのが皆一様に「それらしい」格好であるということだ。何がそれらしいかと言うと魔導士らしいのである。 龍亞はそのとんがり帽子であったり、裾がひらひら翻るローブであったり、はたまた何がしかの宝玉を嵌め込んだ杖であったりを身に付けている彼らをちらちらと見て何故か懐かしい気持ちになった。龍亞の周囲にも龍亞自身にもそういった姿、いわゆる「魔法使い族」のカードにはあまり縁はなかった気がするが、馴染んだものであるような気がした。ライフ・ストリームは何もわかっていないのか「きゅい?」と小首を傾げている。 「あのさ、悪いんだけどここがどこだか教えてくれない?」 ひとまず手近にいた少年を捕まえて龍亞は手短にそう言った。するとぼろい薄手のローブを羽織り奇怪な杖を持った少年は声を掛けられたことに驚いてやや肩を揺らし、自らを指差して「あの、もしかして、僕に?」などと間抜けな返事を寄越してくる。龍亞がどうしたんだろうと心配しながら「そうだけど、君大丈夫」と慮ってやると少年は感極まった表情になってぱっと顔を綻ばせた。少年の隣で蝙蝠型の一つ目の精霊もにこにこして全身で喜びを表現している。 「七年ぶりにこちらを訪れられた龍亞さまに一番にお声掛け頂けるなんて光栄です。見たところ、今回はアクシデントでこちらへ来られてしまったようですね。エクスクルーダーに連絡をしてみますから、その間しばらくお話の相手をさせて頂けませんか」 杖を抱えたまま器用に両手のひらを合わせて少年は目を輝かせた。だが龍亞には彼の言っていることがいま一つ理解出来ない。今回は、だとか七年ぶり、だとか。こちらという単語の意味もいまいち計りかねる。彼は龍亞を何だと思っているのだろう。 「う、うん。……見た感じ君って俺より年上っぽいのになんでそんなにかしこまってるの? 俺、ただの人間だよ」 「とんでもない。龍亞さまは『ただの』人間なんかじゃありませんよ。精霊界で龍亞さまと龍可さまを知らない者はそうおりません。お二人は僕達精霊にとってとても大切な存在ですから」 「……精霊界? 僕達精霊……? ……ってことはさ、もしかして君って精霊でここは精霊界なの? あの、龍可だけが見れた……」 「そうなります。申し遅れました、僕は『闇霊使いダルク』。ダルク、とお呼びください」 ダルクが爽やかな笑顔で会釈する。龍亞は事態を上手く呑み込むことが出来ずに目を白黒させてしまった。なんだって精霊界に来ることが出来てしまったのだろうか? 龍亞の世界は、人間が目まぐるしく動いている世界に相違なくてその中にはメルヘンもロマンも欠片程もなかった。ネオドミノは科学技術が素晴らしく発達した街で大抵のことは合理的に機械的に動いていた。それが当たり前で、悪く言えば無味乾燥だけれどもよく言えば急なアクシデントもそうない平穏な日々だった。 だけど妹の龍可は、そのせこせこした人間の世界と別にゆったりして広大で、いっぱいの夢で出来上がったファンタジーそのものの精霊の世界を持っていた。兄妹で龍可だけは鮮やかな色彩のその不可思議な世界と対話することを許されていた。龍亞は精霊界を龍可越しの話でしか知らない。赤き龍とのあれこれに巻き込まれてから確かに色々な体験はしてきたけれども、でも精霊と人語で会話をしたのはエンシェントだけであったように思う。 「龍亞さまは、覚えておられませんか? 幼い頃は僕達魔法使い族のことを特に好んでおられて、エクスクルーダーも奔放な龍亞さまを追いかけるために随分と奔走していたんですよ」 「ううんぜんぜん覚えてない。そもそも俺、精霊界になんて来たことないよ。今度が正真正銘初めて。精霊界を見たり出来るのは龍可だけだもん」 「うーん、やっぱり宝玉神ご夫妻のお力は凄いですねえ。あんなに懐いておられたのに」 「ダルクが言ってる人と俺、人違いなんじゃないの? 俺はただの人間だし……そもそもエクスクルーダーと宝玉神って誰?」 「カード・エクスクルーダーは僕と同じ魔法使い族の精霊で龍亞さまのお目付けを仰せつかっていた者です。宝玉神は名の通りですよ。究極宝玉神レインボー・ドラゴン、華美壮麗な外見の者が多いドラゴン族精霊の中でも特に美しいお姿をされています」 「お目付けって、それどこの貴族か王子様だよって感じなんだけど。ますます人違いっぽいし。……でもレインボー・ドラゴンってパパのカードだよね。エンシェントみたいにカードになって呼び出されてからもこっちで忙しいのかな」 レインボー・ドラゴンが父親のヨハンのカードであることだけは間違いがない。つい最近もデュエルで見せてくれたし、あの事件の時に奪われてしまったのだと母がぶすくれていたのもレインボー・ドラゴンだったはずだ。カードと精霊の関係性について龍亞は詳しく知っているわけではないがカードとして人間世界に呼び出されたらちょっと精霊界には帰り辛いんじゃないかなということぐらいは想像が付く。 しかし宝玉神ご夫妻っていうのは一体どういうことなのだろうと不思議に思って龍亞は考え込む仕草をした。そもそも精霊同士で結婚する、とか好き合う、ってことはままあるのだろうか。結婚したって、どうするのかもわからない。どうしても龍亞には姿形のまるで違う精霊二人が夫婦然としている姿を想像することが出来なかった。あの白くて大きくて綺麗なレインボー・ドラゴンの奥さんだか旦那さんだかがどんな精霊なのか予想も付かない。それこそ、目の前のダルクのような人型ならともかくレインボー・ドラゴンみたいな精霊に性別なんてあるのかどうかがまず疑問だ。 だがダルクはうんうん唸る龍亞の様子にくすりと微笑んで「龍亞さま、そんなに難しく考えなくても大丈夫ですよ」と言うのだった。精霊のダルクは答えを知っているからきっとそんなふうに言えるのだ。しかし龍亞は気になって仕方ない。 「だってさあ、気になるじゃん。あのレインボー・ドラゴンと夫婦? って一体どういうことなのかって考え出したらきりない」 「まあ、雌雄が不明瞭なドラゴン族で婚姻に至るのは稀というかお二方以外にはいなかったと思いますよ。精霊も生き物ですから、恋をするものもいます。僕の仲間の「霊使い」はあとはみんな女の子だからこちらではアイドルみたいな存在ですしそういうところはあまり人間と変わらないかな。ただ、精霊はどんなに人間のように好き合ったとしても子供が出来ないんですよ。精霊はそういうふうに増えないから。だから通常、仲の良い精霊同士でも夫婦と見なすことはないんですが――」 龍亞がダルクの説明を理解しあぐねているうちにダルクは話をひょいひょいと先に進めていく。そしてぐるぐると精霊と人間との違いを頭の中で巡らせている龍亞に至極なんでもないふうにあっけらかんとその言葉を落っことした。龍亞を硬直させるのには十分すぎる言葉だった。 「お二人のご両親は特別ですからね」 「……え?」 龍亞は心臓がいやなふうにどくんと鳴るのを感じた。なんだか信じていたものが、龍亞の世界がくらっと傾いてしまいそうな予兆があった。 ダルクはやはり、にこにこと屈託なく笑っている。 ◇◆◇◆◇ 「遊星、急にどうしちゃったの? エンシェント・フェアリーなら確かに私のデッキの中にいるけれど、そんな話を振ったってエンシェントが知ってるわけないわ。エンシェントは物知りの精霊界の女王様だけど何でも知ってるわけじゃないもの。パパとママのことはちょっと、隠してるみたいだったけど。でも龍亞の居場所を知ってたら教えてくれるはずよ」 両親と再会した日に交わした会話を思いおこしながらそう言う。あの時エンシェントは確かに「知っているが、伝えるべきではない」と龍可の疑問に答えることを拒否した。父と母が何者なのかとどうして五年もの間自分達を放っておいたのか事情があるのなら知りたいと申し出た時だった。そのことについてどうも両親が触れられがっていないようだと説明されて龍可は大人しく引き下がったのである。 それを今更またエンシェントに問い詰めるのは気が引けるし龍亞の居場所を知っているのなら彼女が隠す必要はないだろう。すごく大切な秘密にでも抵触しない限りだ。 だが遊星は龍可がそう告げると黙って首を横に振った。 「龍可、俺の予想が間違っていなければエンシェントは龍亞の居場所を大雑把には知っているはずなんだ。エンシェントは精霊界の女王なのだろう? ならば知っていない方がおかしい。……多分、龍亞は今精霊界にいる。呼び込まれたか……あるいはヨハンさんが危惧していた能力暴走が起こって引き込まれたのか、どちらが原因なのかはわからないが……」 「ねえ遊星、寝不足で疲れてるんじゃない? 龍亞が精霊界にいるなんてそんな、どうして……龍亞は精霊も見えないし、ちょっとお調子者だけど普通の男の子だってみんな知ってるでしょ。今はもうシグナーの痣もないのよ」 「そうではないと、俺はヨハンさんから直接聞いたよ。なんでだか皆龍可には隠したがっているが、そんなことはないんだ。龍亞と龍可は双子だ。本来は二人ともが等しく精霊と触れ合う力を持っている、らしい。エンシェントがライフ・ストリームを呼ぶのを止めたがったと言ったな。それは恐らくライフ・ストリームが龍亞の中のトリガーを引いてしまうことを恐れていたからなんだ。龍亞が自らの炎で身を焦がす可能性をヨハンさんは酷く恐れているようだった」 「……そんなの、嘘よ……だって龍亞は本当になんでもない普通の子だもの。私と違って変なところなんてないわ。年相応に夢を見てて、ちょっと馬鹿でおっちょこちょいで、私の……」 龍可は「龍亞に異端性を認められる」ことを極度に怖がっている様子で頼りなく言葉を繋いだ。自分が普通でない分龍亞が普通であることを望んでいるようだった。ちょっとおかしなぐらいに龍亞に「ふつう」を投影していた。 ヒロイン願望と別の龍可の龍亞への依存だ。龍可は今でこそ、龍亞がいなくっても一人で動くことが出来る。でもきっと昔はそうでなかったのだ。今は龍可の異端を周りが個性として認めてくれるが、昔は、なまじっか聡いばかりにそれが単に「異常」としてしか受け止められないと思っていたのに違いない。だから龍亞は龍可にとっては「自由なもう一人の自分」みたいなものだったのだ。二人の境界線が曖昧だったからそういう錯覚が起きた。 今はもうそれを無闇に恐れる必要はないのだと、きっと頭ではわかっているのだと思う。龍亞は龍可ではない。それに、龍可が自分の少し変わった能力を隠す必要もない。だが習慣づいた反応はそう簡単には変えられないだろう。 「……龍可。龍亞は、龍亞でしかないのよ。龍亞はずっと龍可のことを羨ましがってたわ。精霊を見る能力は歪なものではないの。だから龍亞に龍可の理想を押し付けてそこに安息を求める必要はないってあなたはもう知ってるでしょう」 「アキさん……」 「あなた達はやっぱり、ご両親によく似てると思うわ。私はご両親のことをそんなに知っているわけではないけれど、そう思う。ねえ龍可。だって、何がそんなに怖いの? 私のサイコ・デュエリストの能力だって結局は心の形が出たものだったわ。普通とか普通じゃないとか、必要以上に考えることないのよ。みんながみんな一緒なわけないしその方がよっぽど怖いと思う。それにそんなことを言ったら遊星ってすごく変で普通じゃないわよ」 スラムの孤児として育ちろくに学校も行っていないのに齢二十で世界有数の企業が有する研究機関の主任になり、世界の危機は三度ぐらい救っている。あまり寝ない。デュエルは滅茶苦茶に強い。実は喧嘩も強い。機械にも異常に強い。ここぞというところは絶対に外さない。……不動遊星という人の「普通じゃないこと」を挙げていくと確かにきりがないようだった。 エンシェント・フェアリーがヨハン・アンデルセンと長い付き合いであるのならば遊城十代とも勿論そうだろう。彼女は二人が半端なく普通ではないことを知っていたはずだし、龍可が兄と二人ぼっちになってしまってから異常を恐れていたことも知っているのだ。だからきっと両親が何者であるのかを教えたがらなかった。双子に混乱を与えたくなかった。 だが、それはそろそろ乗り越えなくてはならない古傷だ。完治寸前のかさぶたを凍結させてまで残生大事に取っておく理由なんてどこにもない。 「エンシェント・フェアリー。十代さんが……あの人達がそう簡単にやられるとは思えないが、拉致されて危険な状態にあることは変わりないんだ。あんまり黙り込んでる余裕はないんじゃないか」 ベッドの中でやはり龍亞は目を覚まさないでいるが、遊星の仮説が証明されればひとまず龍亞の昏睡はそこまで恐れなくてもいいことになるだろう。精霊界が理由もなく子供を傷付けることはまずないからだ。 龍可はぷるぷると首を振り、遊星とアキに向かってこくりと頷いて見せた。それから立ち上がって龍亞の寝顔を覗き込みまたゆっくりと頷く。 「……エンシェント・フェアリー・ドラゴン、私の守護龍。お願い、私、もうどんなことがあっても怖がらないし、目を背けたりしないわ。私は龍亞が好き。パパとママが好き。みんなが好き。だから、もう大丈夫。教えて、私達家族のこと」 龍可がはっきりそう口にすると光が集まって、見知った精霊が三人の前に姿を現した。精霊界の女王であり、龍可の守護者であり、十代とヨハンの友であるというエンシェント・フェアリー・ドラゴンだ。彼女は龍可の言葉に応えるようにゆっくりと頷き手を差し出した。 『あなた方の話は、全て聞いていました。龍可、あなたがそう望むのであれば、私はあなた方を精霊界でその件を預かる者のところへ案内しましょう』 ◇◆◇◆◇ 夢を見ている、と思う。 きらきらまぶしく光る世界の中で思いきり望むままに駆け回っていた。龍亞も龍可もまだあどけない顔をしている。幼い兄妹はばたばたと走り回ってお目付けのカード・エクスクルーダーとカード・フリッパー、それから統括のトルンカを困らせていた。それを少し離れたところで父のヨハンと母の十代、寄り添う女王龍のエンシェントが見守っている。その光景の中で兄妹は無邪気に笑って無数の精霊達と戯れていた。疑うことも不思議がることもなく、ただそれを当たり前として受け入れていた。 「フリッパー、また負けー。へっへーんどんなもんだい、俺の方が鬼ごっこは上手だよ」 「でも龍亞、ちょっと頭を使うことになるとフリッパーにもエクスクルーダーにも負けっぱなしよ」 「う、うるさいなあ。しょうがないだろ、二人とも魔法使いだからあったまいいんだもん……」 言い訳をすると大人びた妹は肩を竦めて「どうだか」とぼやく。龍亞は頭を使うのが苦手なのだ。苦手というか嫌いと言った方が正確かもしれない。昔母が「龍亞は余計なとこ、俺に似ちまったなあ」と弱り顔で言っていたのを覚えている。それに父も真剣な顔で「十代のまんまだとちょっとまずいかもしれないな……でもまあ俺の息子だからうん、なんとかなるって。多分」とか適当なことを返していた。あの母のことはとにかくべた褒めの父がそう言うぐらいだからよっぽど母は難しいことが嫌いな学生だったのだと思う。 「大丈夫、私とフリッパーは二人より長く生きてるんだからその分知ってることも多くて当たり前なの。こう見えても百歳超えてるんだから」 「ええ、俺達と背は変わんないのに?」 「そうそう。十代が学生だった頃からデッキに入ってたんだよ!」 腰に両手を当てて胸を張る仕草をすると、胸を張り過ぎてとんがり帽子が後ろにずれてそのままエクスクルーダーは後ろのめりに倒れ込んでしまった。慌ててフリッパーが彼女を抱き起こす。とても百歳を超えているようには見えない。 「嘘だあ……百歳超えてるのになんでそんなおっちょこちょいなんだよ……」 「お茶目なの! だって私はデッキのアイドルだもの!」 「エクスクルーダー、マスターは昔バーストレディ女史がアイドルカードだと明言されていたようですよ」 「その頃ってバーストレディしか女の子がいなかったじゃない。アイドルが駄目なら、マスコットって言い換えてもいいよ」 「クリ、クリクリィ」 「ハネクリボーがマスコットの座は譲らないってさ」 ハネクリボーに強気な態度を取れないエクスクルーダーはハネクリボーの主張にむうと押し黙り、場が不利になったと踏んで話題を次の遊びのことに無理矢理変えた。フリッパーは苦笑していたが龍亞と龍可は気にせず彼女の次の話題に食い付いていく。遠くで「あいつも大きくなったなあ」という母のぼやき声が聞こえた。「昔は、デッキのみんなにはらはら心配されてた」というふうにぼやきは続き父が「十代のデッキは騒がしくて楽しそうだな」と相鎚を打つ。 そういえばこんなことがあったかもしれないし、あったような気もする。だけどこんなに綺麗な草原はシティのどこにも存在しないし、こんなカードの絵柄そのままの子供もシティにいたような記憶はない。曖昧で朧気で、ぼんやりしている。兄妹二人っきりで生きていた時の両親の思い出に似ている。ふわふわしていて現実味がない。 「龍亞――……パパ、ママ、ねえ……」 名前を呼んで、手を伸ばしてみると風景が透けてしまった。右手を握ったり開いたりするとすかすかとした空気の感触だけが虚しく手のひらに残る。思い出の残滓で出来上がっているようなその景色は薄っぺらかった。大切なことが頭の中から欠け落ちているような気がする。 「遊星……アキさん……?」 ここはどこだろう? 「お目覚めかの、龍可ちゃん。二年ぶりじゃが覚えておるか? あの時は龍可ちゃん、名演技じゃったのう」 トーンの高い子供の声に遮られて龍可は目を覚ました。起き上がって辺りを見渡してみると木目の柔らかい木造りの壁が視界に入る。遊星とアキは龍可のちょうど真後ろに控えていて、正面には小さな緑色の魔導士がちょこんと立っていた。 「あなた、トルンカ」 「覚えててくれて何よりじゃ。久しく会っておらなんだったからちょーっと心配でのう」 「忘れないわよ、あんなに色々あったもの。苦労したし……」 「どうかの、記憶というものは案外曖昧で移ろいやすいもんじゃよ」 二年程前に猿魔王ゼーマンを出し抜き石版に封じられていたエンシェント・フェアリー・ドラゴンを助け出すだめ精霊界で龍可を助けてくれたのが魔導士のトルンカだった。その時は確かゼーマンとその配下によるマイナスの呪いで子供に逆戻りしてしまっていて、本来は相当なお年寄りの姿であったと記憶しているのだが今の姿は巻き戻された子供のものだ。 その小さな体躯をひょこひょこと動かしトルンカは龍可に意味深に笑いかけた。 「エンシェント様に、真実を知りたいと望んだんじゃな。じゃが真実というものは大抵良いものではないと覚悟の上でか? 龍可ちゃんも、後ろの青年とお嬢さんもじゃ。美しい出来事であれば真相を隠す必要などないのじゃから」 「そんなことはわかってるわ。龍亞と、パパとママと……家族で一緒にいるために私は知りたいの。私達を襲ったあの子達のことも、パパとママが何者なのか知らなければきっと何もわからない」 「なるほどのう、ふむ。承知した。龍可ちゃんはもう庇護されるだけの子供ではないからの。真実を知りたいと望むのならそれを阻む権利は誰にもあるまいて。――そう、誰にもじゃ。ヨハンと十代にも咎める権利はない」 「知ってるの、パパとママのこと」 「二人は有名じゃからの」 小さなベッドの上で掛け布にくるまったまま龍可は有名という言葉の意味を考える。二人は精霊を見て実体化させる異能をどういうわけか持っていて、そして父の夢は学生の頃からずっと変わらず「人間と精霊の架け橋になること」らしい。確かに変わった人だから精霊の間で話が広まっているのかもしれない。だがそれにしたって含みを持たせて「有名」とトルンカが言う程だろうか? 遊星が何か思い当たったようでぴくりと本当に小さく眉根を動かした。だが彼は龍可の視線に気付くと「なんでもないんだ」とでも言うふうに首を横に振る。胸騒ぎがするようだった。両親が幼い子供に隠しごとを持っているのは仕方のないことだとは思う。だが、トルンカが話そうとしている真実はそんな言葉では慰められないものなのではないかという予感が走る。彼はまず第一に「真実は大抵良いものではない」と断じたのだ。 「……ぁ、……」 身震いする。隣に龍亞がいないという事実も相まって今の龍可は少々ナイーブになってしまっていた。すぐそばに遊星とアキの手があることを感じていなければ泣きそうになってしまっていたかもわからない。それでも龍可はきゅうと目を瞑って耐えようと思った。きっと今、龍亞もどこかで戦っているに違いないのだ。 龍可の表情に迷いと怯えが表れたのを感じ取ってトルンカが「止めるか」と短く問いかけてくる。だが、それに逡巡の後「いい」と答えると彼はもう何も聞かなくなった。 「……のう、龍可ちゃん。精霊がどんなふうに生まれてくるのか知っておるか? 精霊はな、龍可ちゃん達人間のように両親から生まれてくるわけではないんじゃ。精霊は概念から生まれる。存在している、という状態情報が出来たその時に生まれてくる。古来に存在しておった人を精霊にする方法も神話を元に創造する方法もカードや石版を媒介にする方法もそうじゃ。わしの場合は『魔術師のトルンカ』がいるという概念が出来て生まれた。もう随分と昔のことになるが……とにかく、通常はそうやって精霊は発生する。じゃが」 「何?」 「龍可ちゃんと龍亞には両親がおるな。ヨハンと十代が二人の父と母じゃ。普通の人間と……そこの青年とお嬢さんと同じように二親から生まれてきた」 「同じって、当たり前じゃない。だって私と龍亞は人間だもの……」 「勿論その通りじゃ。龍可ちゃんも龍亞も人間であることには間違いない。じゃが不思議には思わなかったか? 今は女王であるエンシェント様のお力で青年とお嬢さんもこちら……精霊界に来ることが出来ているが、普通はそうもいかん。人間にとって精霊界は異世界と同じもので通常行き来は愚か見ることもままならんのじゃ。しかし龍可ちゃんは精霊界の声を聞くことが出来る。毎夜夢に見て戯れることとて不可能ではない。その気になれば自らの意志での渡航も勿論可能。じゃがそれが酷くおかしなことじゃとは――思わんかの?」 その言葉にはっとして龍可は目を見開き、肩を震わせた。口が自然と閉ざされて言葉にならない喘ぎ声が小さく漏れる。精霊界と龍可の関わりは確かにおかしなもので、端的に言えば異端だ。エンシェント・フェアリーを助けに行った時龍可は呼ばれたような感覚を覚えていたものの、確かに自らの意志で「行かなきゃ」と思い実行したのだ。特に何かすることもなく自然に精霊界に着き順応していた。初めて来たようなよそよそしさはなかった。 あの空気はむしろ懐かしさすら覚えるもので―― 「……なんで、私……」 「なんでかという質問に対する答えは簡単じゃよ。龍亞と龍可ちゃんが普通のごくありふれた人間ではないからじゃ」 「?!」 動悸がして息苦しくなってくる。ばくばくと自己主張の煩い音は鳴り止む気配を見せない。龍可が肩で荒く息をしていると両方から手のひらが伸ばされ、添えられた。少し無骨な手のひらは遊星のもので線の細い手のひらはアキのものだ。父と母の手のひらに似たその温もりに少しずつ動悸が鎮められていく。本当の父よりも少し骨張った遊星の指と、本当の母よりも細いアキの指が龍可を擦ってくれるのに落ち着きを取り戻しながら龍可は出来るだけ冷静な心で先の言葉を反芻した。龍亞と龍可は、人間じゃ、ない。 「龍可ちゃん、勘違いせんでくれな。それでも二人は正真正銘人間に属する生命じゃ。二人は精霊ではない。そこだけは確かなんじゃよ。……二人の両親はこちらの世界でも有名でな、よく慕われておる。じゃが二人を『ヨハン』や『十代』と呼ぶものはおらんのじゃ。それは彼らの人間としての呼び名であるから、精霊であるわし達は精霊としての呼び名で呼ぶ。『究極宝玉神レインボー・ドラゴン』、そしてその妻の『ユベル‐Das Extremer Traurig Drachen』。龍可ちゃん、これが龍可ちゃんが知りたがっていた真実、両親が何者であるか、なんじゃ。『ヨハン』は『宝玉神』であり『十代』は『ドラッヘ』である。人である側面と高位の精霊である側面を等しく併せ持っておる。じゃから龍亞と龍可ちゃんは特別なんじゃ。二人は本来子を成さないはずの精霊から生まれた王子と姫にも等しい存在なんじゃよ。例えるのならばな」 龍可はもう何も言えず、遊星とアキに支えられてただその言葉を享受していた。まったく何も、これっぽっちも話に着いていけない。 頭がおかしくなってしまいそうだ。 ◇◆◇◆◇ 「……やめてよ、変な冗談。そういうの趣味が悪いから好きじゃない。パパとママはパパとママ。究極宝玉神レインボー・ドラゴンはパパのフェイバリットだけどパパじゃない」 龍亞は努めて平静な声でダルクの言葉を否定しようと試みた。だが、口から零れた声はかたかたと震えていて頼りない。怯えて泣いている子供の声だった。少し踏み外したら脅迫観念から絶叫してしまいそうだった。 ダルクは無邪気な表情で「龍亞さま、どうしたんですか」などと聞いてくる。いつか龍可が「精霊は純粋でまっすぐな生き物なのよ」と言っていたことを意味もなく思い出した。ダルクは純粋な精霊だからきっとなにも悪気なんてなくて、だから龍亞がどうしてこんなに混乱しているのかわからないのだろう。 「俺は、なんだっていいんだ。でもそれを同じふうに言われたら龍可が……龍可が、パパとママのことを否定するかもしれない……。龍可は普通じゃないのが怖いんだ。自分だけ除け者みたいなのが嫌いなんだ。パパとママって、もう本当なんなんだよ?」 白衣を着て仕事をしているのだという父も、エプロンを着けて家事をしている母も、龍亞にとってはごくありふれた人間の父母だ。父は母のことを溺愛していて恥ずかしいことをさらりと言うし、母はちょっとおっちょこちょいだったりもするけれど、でもそれでも二人は龍亞の大好きな両親だった。人間の家族だった。人間の親が人間でない道理なんてあるはずがない。そんなの嘘だ。 「お二人は、お二人です。龍亞さまと龍可さまのご両親。違うんですか?」 「違わないよ! 俺が言いたいのはそういうことじゃないんだ!」 「十代はレベル十二、闇属性悪魔族の精霊。ヨハンはレベル十、光属性ドラゴン族の精霊。龍亞が聞いてるのはこういうことだよ、ダルク」 「――誰だ?!」 突然割り入って恐ろしい現実を突き付けてきた少女の声に龍亞は慌てて振り返った。随分と小さな体躯の魔法使い族らしき少女精霊がそこに立って龍亞を見上げている。見たことがある外見だ。でもどこで見たのか思い出せない。 「ダルクに呼ばれて君の手伝いをしにきたんだよ。私はカード・エクスクルーダー。君に会うのは随分と久し振り」 「手伝いって……何の」 「目を覚まして君の世界に帰るための手助け。龍亞は今アクシデントでこっちに来てるから、十代とヨハンが封じちゃった力を取り戻してコントロールしないと多分帰れない」 好き勝手意味不明なことを言ってエクスクルーダーは龍亞の手を握り、ダルクに「ありがとう」と礼を言う。ダルクはそれに会釈を返してそそくさとどこかへ行ってしまった。背中がすうすうとする。馴れ馴れしい少女と二人ぼっちで残されて龍亞はなんだか裏切られたような気分になってしまう。 「……手、放してよ」 「駄目。君はヨハンにちょっと似てるからこんなところで手を放したら迷子になっちゃうかもしれないもん。迷子になってそのまま倒れちゃうのは嫌でしょ」 「そりゃ嫌だけどさ。ああもう、何から考えていいのかわかんなくて頭がぐるぐるする」 「難しいことが苦手なのは十代と一緒よね。でも多分あんまり時間が残ってないから急いで龍可のところに行こう。龍可も今頑張ってるんだ。二人で両親を助けたいのなら今はちょっと我慢してね」 「……偉そうに大人みたいなこと、言わないでよ」 「君よりはお姉さんだもん」 馬鹿にされたと思ったのか、背を反り返ってふてくされた声を出す。だが元々小柄だったのが災いしてエクスクルーダーはひっくり返ってしまった。龍亞が言わんこっちゃない、といったふうな表情で彼女に手を伸ばしてやると彼女はにこりと笑う。その表情の中には毒気なんてこれっぽっちもなくてなんだか拍子抜けしたような気分になってしまった。確かに近所のお姉さんみたいな、そんなにおいがした。 「……ごめんね。本当にもうあんまり、時間がないの。ハネクリボーが教えてくれたんだけど、十代とヨハンは今身動きが取れない状態なんだって。ハネクリボーは変な顔で向こうに敵意はないみたいだって言ってたけどそうもいかないでしょ。十代はすごく強いけど、すごく弱いの。君達のことになると特にそう」 「すごく強いけど、すごく弱い? 変なの。ママ、確かにデュエルはすっげー強いけど、それだけだよ。普通のお母さんだもん。弱くったって当たり前じゃん。俺と龍可の前では結構ドジだし」 「子供を、家族を守るための強さと弱さだよ。それが親の愛なんだ。……君達のことが羨ましかった頃が私にもあるんだよね。やっと授かった子供だから二人は子供のことをとても大事にしてたの。精霊と人間、両方と仲良くやっていけるように色々と気も遣ってた。精霊には親がいないから、両親に愛されて育つのって妙な感じなんだけどその一方でとても素敵なことに思えて、私は憧れてたの。母親が大好きなマスターの十代ともなれば尚更」 エクスクルーダーは過去を懐かしむ年寄りみたいに目を細めて、少し郷愁を含んだ声で言った。彼女は遊城十代のことを本当によく慕っていて、そして龍亞達のことも気に掛けている。龍亞はああなるほどなあ、と合点がいって頷いた。マスターと呼ぶということはつまりそういうことだ。 「君は……えっと、」 「カード・エクスクルーダー。忘れっぽいところ、十代に似ちゃったのね」 「……逆になんか嬉しいな、ママに似てるって言われると。……エクスクルーダーはママのカードなんだね。それで、俺はなんでだか忘れちゃってるけど実は結構古い知り合いなんだ?」 「ん。そういうことになるかな」 エクスクルーダーが頷いて手を引く。龍亞はもう拒絶することをせず、その手が導くままに走り出した。妹のものとは違う少女の幼い手のひらを、そいえば龍亞はずっと昔から知っていた。 |