Beautiful World

18:ジェミニ(03) パンドラの箱

 パパ、ママ、と呼んでくれる舌ったらずな声を、十代とヨハンはとても愛しいと思っていた。愛する二人の子供、双子の龍亞と龍可は百年かけて授かったいのちだったのだ。
 十代は元々純粋な女ではなく、どちらかといえば男に近い生き物だったからたいへんに子供が出来にくい体をしているのだと昔大徳寺はそんなことを言った。十代が一度目の妊娠を経験した時、怒り狂い荒れていたユベルの隣でファラオの口から飛び出してきた十代の恩師は『これは、奇跡ですにゃあ』と静かな口調で漏らしたのだった。
『お腹に命を宿したことが、とっても尊い奇跡ですにゃあ。十代君は今半分が女で半分が男の、変わった体をしていますにゃ? そのうえ一つの魂の中に人間と精霊が入り混じって存在している。不思議で、奇妙で、そしてアンバランスな生命です。本当は子供なんて望むべくもない体をしている』
 少しお節介で下世話な話になりますが、と事前に断って大徳寺は話を続ける。
『十代君の体は急速に今の形に成長しましたから、ところどころに不完全で未熟な成長をした箇所が見られるんですにゃ。女の左胸部は、融合したユベルよりも小さい。それに現れるように十代君の中の女の部分は発達しきっていない可能性が非常に高いのです。つまりそれは胸だけでなく子宮にも言えることなんですにゃ。――恐らく通常よりも小さなその子宮はより受胎を困難なものにしている。それでも、ヨハン君の子を身籠もったという事実は先生から見れば驚愕に値しますにゃあ』
 身籠もったことがすでに奇跡ですから無事に出産出来たとしたらそれはもう天文学的な数値ですにゃあと冗談を言う時の笑い顔ではなく至って真面目な顔で「忠告」して、その時大徳寺はその話を一度締めた。ユベルが鬼のような形相で振り返ったからだ。そしてその後、大徳寺の忠告通り腹の子は流れ落ちる。ユベルは三割ぐらい「ざまあみろ」という顔をしていたが母性の部分で十代の焦燥に共感してくれて、その時ばかりは十代の前でヨハンを悪く言うのを止めた。
 それからもう一度妊娠したが事故で流れ(大徳寺は『愛は確立学を揺るがしかねないですにゃ……』と苦笑していた)、ヨハンが十代と同じいきものになり、妊娠はますます困難を極める。そもそも十代が身籠もることを恐れるようになってしまったのだ。どうせ生まれることのない命なら孕むだけ辛いとある夜十代はヨハンに泣いた。叶わない希望を見せられることがきりきりと痛んで十代の精神を苛んだ。
 ヨハンは十代を責めなかった。彼は十代を柔らかく抱き締めて「無理はしなくていい。十代の好きにするのが一番いい」と、そう呟いたのだった。本当はヨハンは子供を欲しがっていたし(それこそ、十代の何倍もだ)年頃の男だから人並に性欲を抱えていたはずだが、それ以来二人はぷっつりと性交渉をしなくなった。ただ、悩める時は隣に、病める時はそばに、すこやかなる時は向かい合って、慎ましく生きた。
 それこそプラトニックの手本のようにだ。
 もう一度子供を産みたいと思えるまでには、百年近い歳月を要した。

「なあ、ヨハン。折入って話があるんだけどさ」
「どうした、そんな改まって。変な壺でも買わされたか、リコールは任せろ」
「そんなもん買うかよ! 何年生きてると思ってるんだまったく……そういうんじゃなくてもっとすっげえ真面目な話だよ。ほら、俺、ずっと避けてたことがあるだろ」
「実家の墓参り?」
「いや確かにそれもそうだけど!」
「わかってるよ。子供のことだろ」
「……うん」
 十代は下腹部に視線を移してこくりと頷く。歳月は心身共に痛みを和らげる。まったくもってその通りだ。日に日に、「恐ろしい」という思いよりも「赤子を腕に抱けたらどんなにかいいだろう」という思いの方が強くなっていくのである。諦めてしまっていたことではあるが、絶対に不可能なことではないのだ。そう考えるとふつふつと欲求がこみあげてくる。大昔に、レイが「人間には子供を残したいっていう遺伝子レベルの本能があるんですよ」と教えてくれたことを思い出してあとは一直線だ。次世代に子孫を残していきたいという強烈な生殖本能。
 普通の人間なら、三十代か四十代あたりで迎えるものらしい。十代は御年百十二歳を数えるが、人間と精霊が入り混じった不安定な生命であるゆえにその時期はいつ来てもおかしくないものであるらしかった。
「でも、そっか。十代の口からもう一回そういう言葉を聞けるとは実は俺、思ってなかったよ」
「理屈じゃないんだよ。本能ってやつ。まっすぐに、そう思ったんだ。それからはもう、街で赤ちゃん見る度に浮き足だっちまって……そんで極め付けがあれだ。この前会った不動んとこの息子。ベビー遊星」
「なんだよベビー遊星って」
「だって俺十九歳の遊星知ってるもん。区別だよ。ともかく遊星見てピーンときたわけ。赤ちゃんすげー可愛い。遊星も可愛いけど、これでもしヨハンに似てたらって思うとワクワクしてきちまって、いてもたってもいられなくなったんだ。だから俺は今強烈にヨハンの子供が欲しい。わかるか」
「よくわかった。俺も本当はずっと十代の子供が見たいって思ってるからな。あとはお前次第だし、それと……ユベル次第かなって俺は思ってるよ。結婚して以来ユベルはお局か姑みたいな対応をわりと俺に取るからな……」
 ユベルのヨハン嫌いは徹底している。口を開くとまず「あのいけ好かないフリル」と言われ、そもそも名前で認識して貰えない。次に、十代との仲に文句を付けてくる。朝食を作っても、出掛けようと提案しても、夜一緒のベッドに入っても、いちゃもんを付けられる。すごく理不尽だ。
 だけどそれはユベルなりの愛情表現の一つなんだろうなというふうに思うのでヨハンはユベルに対して怒らない。ユベルは十代を守りたいだけなのだ。最初に妊娠させた時の彼女の対応はまあ酷かった。時も場所も手段も選ばず殺気を向けてきたあの頃に比べれば彼女は随分と態度を軟化させたと思う。
 ヨハンがそんなことを考えながら十代の背後を寛容な表情で眺めると視線を向けられたユベルはぷいと表情を背けてまず毒付き、しかし意外な返答を寄越した。
『さあ、もう僕知らないから好きにすれば。純潔は守りたくても君に貪られた後だし。ああ、そのこと考えたらちょっと腹立ってきたけど……でもいいよ。百年我慢出来るぐらいに君が成長したってことはいくら僕だってわかるさ』
「……ユベルにそう言われると逆に怖いな」
『素直に喜んだらどうなんだい? 脳味噌まだ腐らせてんのかい。僕が許すって言ってるんだ――百年に一度あるかないかなんだよ』
「おお珍しい。ユベルが俺以外にデレてる」
「十代、これはデレてるって言わない」
『文句があるって言うの?』
 ユベルが睨んできたのでぶるぶると首を横に振って否定の意を示し、ヨハンは力なく笑って見せた。ユベルのことは、特に苦手だと言うわけではないがさりとて得意なわけでもない。ここ百年で彼女から敵意は消えたが悪意は残っている。だがヨハンは彼女を嫌いではないし好ましいとも思う。十代を愛しているという点に置いて、彼女はヨハンと同じ立ち位置にいる存在なのだ。
 十代は悪い奴じゃないから十代を好きな奴にも悪い奴はいない。
『まあ、先生は気長に焦らずとだけ言っておきますにゃあ』
 ファラオ五世(祖先と一緒でふてぶてしい顔をしているやしゃごの猫だ)の口の中から出てきて大徳寺はのんびりした声で言った。五世はげっぷを吐き出すと庭の方へ消えていく。相変わらず気ままな猫だ。
『昔も言いましたが、望む望まないに関わらず十代君が出産を成功させる確立は天文学的なものですにゃ。期待のしすぎは良くありません。のんびりゆっくり待つのがお薦めですにゃ』
「そのことは十分考慮するよ、先生」
「まあなあ。五年の間に生まれたら、御の字だな。ま、心配しなくてもその分時間だけは有り余ってるんだから気楽でいいもんじゃないかな? あと三、四百年は閉経も来なさそうだし」
「その間ヨハンも枯れないのかと思うと何故かぞわっとするな……おいヨハン。実はお前ベッドの下にえっちいビデオとか置いてないだろうな」
「いやあ、俺十代の寝顔があれば十分だから」
「え? いや……変態?」
 そんなふうなやり取りをしてから子供達が生まれるまでに七年かかった。その間にゼロ・リバースが起こりシティは二分され、不動遊星は天涯孤独の身となる。モーメント・エンジンの操作のため最後まで爆心地に居残った不動博士の顔を十代もヨハンもいつまでも忘れることはないだろう。「せめて遊星だけでも」と言いながら死んだ博士を残して動くことは二人には出来なかった。十代の知っている歴史の通りなら不動遊星はこの惨事を生き残り成長する。未来の遊星は十代を知らなかった。ならば十代は遊星を育てなかったということだ。それにどうせヨハンも十代も死にやしない。だからただ、一人の父親の姿を目に焼き付けて佇んでいた。その晩はあまり眠れなかった。
 いのちを繋ぐという言葉の意味がその時初めて体の中を降りて伝っていったように思えた。
「――でも、それでも俺は、産みたいってそう思うよ」
 瓦礫でぐちゃぐちゃになった「モーメント一号機・ウル」の残骸の元で十代は言った。
「不動のしたことは無駄じゃない。遊星に受け継がれて、あの子は立派な青年になった。子供を産んで、育てるってそういうことだ。いのちを繋いで次の世代に渡していく。精霊にこの概念がないのは、精霊が純粋で突き詰めた一つの完成形であるからなんだけど……人間ってすごく歪で不完全なんだよな。だから子供を残してもっと良くしてこうって思うんだ。全てをかけて愛して、親の持てる全てを注ぐんだ。俺はそれがすごく愛おしいと思う。うつくしいと思う。だから俺も一人でいい、持てるものを伝えておきたい」
 俺は、精霊の心も持っているけど。言い訳をして悪魔族レベル十二の人間は隣に振り向いた。ドラゴン族レベル十の人間は頷いて「死の光」を吸い込んだ大地を踏み締める。地の下に、光と一緒にたくさんの命が吸い込まれていることを足先で感じた。いのちと、嘆きと、絶望と、失望と、それら思い付く限りあらゆる種類の「死の間際の負の感情」、そしてその中に紛れて希望が眠っている。生き残った人類へ繋がれる希望だ。
「パンドラの箱みてえ」
「ちょっと、違うんじゃないかな。誰かが作って閉じ込めたわけじゃない。皆が生み出してしまったものだ……そう、だから希望も人間が作り出したんだろうな。不思議だよな、どうしてこんな相反するものを一緒に遺していくんだろう。俺の中のレインボー・ドラゴンはそれがわからないって。でも俺には少しわかるような気がする。きっとそれが生きてるってことだ」
「人間だから」
「ああ、そうだ。……なあ十代、子供の名前、今ここで決めないか?」
「え、ここでか」
 もっと落ち着いたところでも、と提言しかけて十代はそれを止めた。この場所には不動博士がいる。最後まで真剣な顔をして繋ぐことを考えていたヨハンの「生涯二人目の最高の友」が。
 十代は黙ってヨハンの声に耳を傾けた。耳慣れた心地良い声はいつもよりも、悼みと決意とで低くなっていたような気がした。
「遊星は、人と人とを繋ぐ遊星粒子のようにって名付けられたんだよな。だから十代、俺は子供の名前に『龍』って入れたい」
「なんでまた。龍の子供だからってか?」
「それもなくはないけど。不動博士に頼まれて作ったカードさ、五枚とも全部ドラゴンのカードなんだ。希望の光のシンクロ・モンスター。本来モーメントを制御するはずだったそれらの一枚が遊星の手元に渡ることは決まってる。俺はそれに特別な絆を感じるんだ。ライフ・ストリーム以外は全部散り散りになっちゃったけどそいつらは皆希望と絆を持ってる。最後に集まって奇跡さえ起こして見せるようなそんな気がして」
「あのなあ、俺らの子供が遊星と関わりを持つとは限らないぞ」
「いや、俺達が手を出さなくても出会うさ。ライフ・ストリームは持ってるし。俺は運命論者ではないがあのカード達からは柄でもなく運命みたいなものを感じる」
 真顔でそんなことを言うと十代は呆れたような顔になってしかし嬉しそうに「運命か」、と呟いた。二人とも定められた運命なんてなく、未来は切り開いていくものだと常から考えている。でも、遊星とまた巡り会う運命なら悪くはない。
「じゃあ、これでどうだ。男だったら、龍亞。女だったら、龍可。龍の字に、俺の好きな「赤」をばらして一文字ずつ。赤はいいぜ、力強く生きてるって色だからな。それに遊戯さんのオシリスの色だぜ!」
「はいはい。十代はいつまで経っても武藤遊戯にお熱だな。それどころか年々神格化していっているような気すらするよ」
「そりゃ遊戯さんはすげーもん。あの人も、死んじゃったけど……またもう一人の遊戯さんに会えてるのかな」
 ぽつりと漏らしてから「そんなこと考えたってしょうがないか」と息を吐く。死の後のことなんかわからない。わかるのは生まれてくる命の尊さと、美しさだけだ。ヨハンは十代の手を握った。百年昔から変わらない鼓動は力強い赤色を脈打っていて、その体の中にいのちを孕むことを願っている。
「生まれてくる子供達が誰かを守れる人間になりますように」
 十代は祈るように言った。まるで小さく無力な、ただの人間のように。
「遊星みたいな、優しくて強い子になりますようにって」



◇◆◇◆◇



 随分と長く昔のことを夢見ていたと思う。子供達が生まれる七年も前のことだ。ゼロ・リバースのあの日のこと。ヨハンが良き友であった不動博士と別れを告げた日であり、遊星が家族から引き離され声なき呪縛のように思っていた日であり、そして子供の名を決めた日のことだった。あの日自分はどんな顔をしていただろうか。ただ、不動博士の最後の顔に泣けなくなったことを覚えている。
「……そうだ。遊星は、子供達のところへ行ってくれたかな……」
 ぼんやりとした思考で直前の記憶を引きずり出す。確か自分達は奇妙な襲撃者に襲われ、意識を失ってしまったのだ。周囲を見渡すと、そこはやはり知らない密室であった。子供部屋のような造りをしている。可愛らしい壁紙に小さなベッドが二つ、山積みの玩具。だがどことなく悪趣味だった。乱雑に積み上げられた玩具はとても大事に遊ばれている様子ではなく、ねじが飛び出ていたり塗装がひん剥かれていたり、酷いものはもはや原型を留めない残骸になってしまっている。
 そして部屋の中央に、巨大なガラスの水槽のようなものが安置されていた。天井部分が無数のチューブに繋がれている。ガラスの中は今はもう空っぽだったが遠目にも陰惨な匂いを残していることが見て取れた。ガラス・ケースの隅にはところどころオレンジ色の溶液が乾いてこびり付いている。
 十代の中の嫌な記憶が否応なしに喚起される。オレンジの付着物は恐らくデュエル・エナジーのかすだ。精霊の培養液だ。胸糞が悪かった。そのガラス・ケースは例の実験で最後に十代とヨハンが入れられた「世界」、巨大な試験管に酷似していた。
「おいおい、どこだよここは……。ヨハン? ヨハン、どこにいる」
「いるいる。十代、目覚ましたか」
「ああ……って、」
 十代はヨハンの膝を指差して間の抜けた声を出した。
「そいつ、もしかして俺達を襲った子供か?」
「多分そうだろうな。でもそれ以上の害意はどうもないみたいでさ、遊んでって言ってきたんだよ。今は疲れて寝てるみたいだけど」
 ヨハンの膝の上で眠りこけているのは例の龍可に良く似た少女だった。眠っていると本物の龍可とあまり見分けがつかない。ただ、人でない十代には感じるものがある。それは絶対に本物の龍可にはないものだ。
「この子、人間じゃない。精霊だ。すごく人間に近いけれどこの感じは間違いない」
「それは俺も思った。そっちの、龍亞に似てる方もそうだな。二人とも人間に擬態した精霊みたいな感覚がある。しかしこの子らは一体何なんだ……?」
 十代はマットレスの床で眠り込んでしまった「龍亞もどき」の少年を抱きあげる。そして感触に眉を顰めた。触れた肌は凍り付くように冷たく、酷く不愉快な温度だった。
「……あ、ママ……」
 触れられたことに気が付いたのかぴくりと体が揺れて少年がゆっくりと目を明ける。眠たそうにごしごしと目を擦る仕草は本物の龍亞そのものと言ってもいいほど似通っていた。だが龍亞ではない。良く似てはいるが、しかし歪な贋作だ。
 不恰好な、偽者だ。だって遊城龍亞は世界に一人きりしかいない。遊城龍可も。そして子供達はこんな濁った瞳をしていないのだ。子供達はいつも、父親譲りのきらきらした目で十代を見返してくれていた。
「……起こしたか」
「ううん、そんなのいいんだ。ママだ。ママがいる。ママ、目を覚ましたんだね。パパは? ああ、龍可と一緒か」
 ヨハンにあやされている少女を龍可と呼び、少年は嬉しそうに目を細める。何もかもがちぐはぐだった。自らを「ルア」と称する少年も、「ルカ」であるという少女も、ずれていた。
「おい、お前……いや、ルア、なんだよな。お前の名前は。その名前は誰に貰った」「ドクターだよ。でもそんなのどうでもいい。ねえママ、僕のこと、抱き締めて欲しいんだ。僕ね、ずっとママにそうして貰うのが夢だったんだ……」
 請われるままに腕の中に入れてやる。ごろごろと喉を鳴らす猫のようだと思った。十代に体を擦り寄せ愛情を求めてきている。愛情に飢えた偽者の子供達は精緻な蝋人形にも似て、ぞっとしない感情を十代に与えた。だが拒むことが出来ない。どうしてだか庇護してやらなければという思いが生まれてくる。
 ルアは龍亞よりも甘えたがりな幼い表情で母だと信じている十代に体を埋め、一言ぽつりと「しあわせ」と呟いた。
「しあわせ。ママがここにいる。ママが僕を見てくれる。大好き、ママ」
「……ルア。ドクターって誰だ。俺とヨハンをどうするつもりなんだ? ここから俺達を出すことは出来ないのか」
「駄目。もうママもパパも離さないって決めたから。二人ともどうもしないよ。僕も龍可も愛して貰いたいだけなんだ。それは、駄目なことなの?」
 まるで無害で無知な子供のように首を傾げる。――いや、事実無知なのだろう。「いけないこと」「悪いこと」「駄目なこと」、そういったことの区別が付いていないのだ。何が良くて何が悪いのか。この子らは叱られたことがないのだ。
「……そういう強引な手段じゃ、愛情ってのは手に入らないもんだと普通はそう相場が決まってるんだ」
 だがそう思うと、哀れなような気がして逆に面倒を見てやらなくてはという気分にもなってくる。愛されない子供は惨めだ。叱られない子供は、愛されていないのと同じことでそれは切ないことだ。無関心が一番手酷いということを十代は知っている。無視されるぐらいなら鉄拳を喰らった方がいくらもましだというのは小学生ぐらいの時に思っていたことだった。
 ルアの龍亞よりややくすんだ色の髪を撫でてやるとくすぐったそうに目を細めた。赤ん坊と何も変わらない。胸がどうしてだかずきずきする。
「ルア、愛されたいなら段取りを踏まなきゃいけないんだ。甘えてるだけでいいのは赤ん坊だけ。お前は喋れるんだから、一般定義の赤ん坊じゃないよな。だからまずは『ごめんなさい』だ」
「……どうして?」
「俺達を拉致しただろう。本人の意志を無視して連れ去るのは『悪いこと』なんだよ。悪いことをしたら、謝らないといけない。それがせめてもの誠意だからな」
「悪いこと? パパとママに会うことは悪いこと?」
「方法が悪かったんだ。誰かを傷付けちゃいけないし誰かを不愉快にしちゃいけない。なあ?」
 十代は言い含めるようにゆっくりと教えてやる。ルアは難しいことを考えているみたいに変な顔をして「傷付けるのも、不愉快にするのも、悪いこと」と呟いた。言われてみれば確かにルアもルカを傷付けられるのは嫌だし不愉快だ。
「……ごめんなさいママ。パパも。ママもパパも、ここに来るの、嫌だったんだね……」
「まあ楽しくはなかったかな」
 ヨハンが渋い顔で言った後に「でも」、と続ける。
「わかればいいんだよ。ドクターとかいう奴はそういうことを教えてくれなかったのか」
「聞いたことないよ。僕達生まれたばっかりだもん。ドクターは最低限必要なことを教えるだけで手一杯だっていつもひいひい言ってたよ。ドクター、情けない大人なんだって」
「生まれたばかり? こんなに大きいのにか」
「……そう。生まれて半年も経ってないわ。お兄ちゃんとお姉ちゃんとは十四つ差があって……」
 ヨハンの膝の上で眠っていたルカがもぞもぞと起き出して兄に助け船を出す。本物の兄妹と同じように難しい事柄は妹のルカの担当であるようだった。ルアはルカが説明を代わってくれたことにほっとした様子だ。
 ルカがゆっくりと腕を伸ばして、子供部屋の中央で異様な存在感を放つガラス・ケースを指し示す。
「あのね、パパ、ママ。わたしたち、五ヶ月前にあの試験管の世界の中から生まれてきたばかりなのよ」
 眠たそうな表情のまま、しかししっかりした声でルカは告げた。
「Beautiful World」‐Copyright (c)倉田翠.