Beautiful World

19:ファミリア(09) 家族の憧憬

「……だって。……だって、私も、龍亞も……」
「龍可、落ち着くんだ」
「いや……そんなの、わからないわ……」
「龍可!」
 遊星は頭を抱えて首を振る龍可の肩を掴んで揺すぶった。龍可はそれでもまだぶつぶつと呟き続けている。顔にはわかりやすく恐怖が浮かんでいた。その言葉を酷く恐れているようだった。
 龍可が「普通になりたい」と思っていたこと、「異常」を恐れていたことは精霊界に行く前の反応で既にわかっている。だが龍可もいつまでもそれに固執していてはいけないと思っていたからそのことは何とか乗り越えた。とはいえそれは「龍亞も龍可と同じように何がしかの能力を持っているらしい」という程度のもので「両親は半分が精霊である」というものではなかったしましてや「自分達双子が純粋な人間ではないらしい」というものでもない。トルンカの話は突飛すぎた。龍可のキャパシティを超えていた。
「いやよ。私も龍亞も人間なの。当たり前の、人間なのよ。パパとママが精霊? わけわかんない。レインボー・ドラゴンは私のパパじゃないわ!」
「――龍可!!」
 名を叫ぶと今初めて遊星やアキの存在に気が付いたかのようにびくりと全身を震わせて力ない声を漏らす。上に向けられた龍可の目尻には涙が滲んでいた。ショックだったのだ。それこそ龍可の世界を壊されてしまったかのように強烈な衝撃だったのだ。
 無理もないとは思う。遊星だって、アキだって、ある日突然両親に自分達は人間ではないのだと告げられたら手酷い混乱状態に陥るだろう。
 だが龍可はそういった可能性も承知でここに来ているはずだ。
「落ち着け、龍可。泣いていても何にもならない。現実から目を背けては進めない。龍可はそのつもりでここに来たはずだ。龍亞を助けるためにいつまでも守られるばかりでは駄目だからと。……泣いていれば誰かが耳を塞いでいていいと言うかもしれない。だが、龍可はそれでいいのか?」
「……遊星」
「遊星の言う通りよ。女の子にはね、頑張らないといけない時があるの。それに龍可、あなたはこの話を聞いたからって家族を嫌いになったり出来るの?」
「……ううん……そう、だよね。どんなふうでも私は龍亞やパパとママのこと、嫌いになれない。あの五年間でだってパパとママを嫌うことは出来なかったもの。みんなかけがえのない家族。私の大切な」
 龍可の台詞は半ば自分に言い聞かせるようでもあったが一先ずはこれでいいだろう。ふとトルンカの方を見ると小さな老魔導士は何やら含み顔でこちらを見ていた。何となく面白くない心地になるが気にしないことにする。
「……ね、トルンカ。でも私わからない。人間でもあって精霊でもあるって一体どういうこと? 理屈が通らないわ。人間は精霊にはなれないしその逆も同じはずじゃない」
「わしも詳しいことは知らんが、昔十代自身は『精霊と人間の魂が融合している』のだと言っておったな。『人間十割の上に精霊が十割乗っかっている』感覚に近いらしいのう」
「魂が融合してる?」
 龍可はナンセンスだという表情をした。
「どうやったらそんなことが出来るのよ。そもそもどうしてそんなことを望んだのかしら」
「さあ、それは聞いてはおらん。プライベートな話そうだったからの。エンシェント様ならば御存じかもしれないが……」
「聞いてはおりますが、子供にする話ではないと思いますよ」
「……教育上よろしくない感じなの?」
「えぐかったり苦しかったりします」
「聞いちゃ駄目なのね」
 エンシェントの対応をはぐらかしと見て龍可は勢いを削がれて張り詰めていた息をふうと吐き出した。両親がすごく恥ずかしがっていることなのかもしれない。だが今の遣り取りの間に少しづつ緊張がほぐれてきて、さっきまでの衝撃と絶望感は薄れていた。
 よく考えてみれば、確かに父と母は若すぎるのだ。子供がもう十四歳であるというのに二十代の外見を保っている。若く見える性質だと言えば通らなくもないが、アルバムの十年前の写真と外見が殆ど変わっていないのは流石におかしいだろう。
「話を戻すがの、龍亞と龍可ちゃんが人間であることだけは間違いがないんじゃ。両親の人間の部分が合わさって二人は生まれておる。ただ先天的に精霊との適応力が非常に高かったんじゃな。滅多にない存在じゃから精霊界は盛大に二人のことを祝った。多くの精霊が二人のことをとても慕っておる。わしらにとっての二人は『特別な人間』であるわけじゃ」
「パパとママは」
「二人は非常に高位の精霊じゃ。レベル十とレベル十二。二人に並ぶ精霊、特に十代に並ぶものはあまりおらんな。精霊界の門番を務めるゲート・ガーディアンがレベル十一で、そこの青年の持っとるシューティング・クェーサー・ドラゴンがレベル十二だったの。あれはアステカの神の写し身みたいなもんじゃからの……基本的にレベル十というのが神の領域を示す数値なんじゃ。尤もそういう意味では神と呼ばれる精霊はありふれている……少なくないわけじゃが。実際それと融合するのが容易なことではないじゃろうということぐらいはわしにも想像が付く。やんごとない事情があったのかもしれぬのう」
 例えば、世界を救うだとかの。いたずらっ子のように声を潜めてトルンカは楽しそうに言った。世界を救うヒーロー、と言われて龍可の頭に真っ先に思い浮かぶのは遊星の顔だ。だが遊星をじっと見ると彼はやにわに顔を振り、「十代さんの方が俺よりも英雄らしい人だよ」と真面目な声で答える。
「あの人の伝説はいくらか知ってるし、戦いを共にした時に遊城十代という人の凄まじさは嫌という程思い知らされてる。武藤遊戯と並び立ってカードを繰っていたヒーロー使いのあの人自身がまぎれもない英雄だった。……まあ世界を救う傍らで大会を荒らしていたとかそんなことも聞いたが。両極端な人ではあるな」
「遊星、随分詳しいのね」
「憧れなんだ。あの頃からずっと」
 物怖じするどころかワクワクを隠し切れない様子で目を輝かせていた、在りし日の「赤いヒーロー」のことを思い出す。とても強い人だったが、少し子供っぽいようなそんな人だった。手札を全て伏せてしまうという豪胆なプレイング、そして期待を裏切らない場の展開。奇術師か何かだと言われたら頷いていたかもしれない。伝説中の伝説であるキング・オブ・デュエリスト武藤遊戯に引けを取らない手並の鮮やかさに息を飲んだものだ。
 その強さ、凛々しい美しさ、それでいて欠けることのない威圧感、遊星にはないものを備えている遊城十代の姿が眩しくて無意識に目を細めてしまったことを覚えている。あの瞬間遊星は見たのだ。十代という人が背負っている過去をだ。
 正真正銘本物のヒーローなのだとそう思った。自分などまだまだ及ばない。
「その人がまさか龍亞と龍可の母親だったとは思わなかったが。あの人は――素晴らしい人だ。龍可だってそれは知ってるだろう」
「……どうかな。私からしてみればちょっと間抜けな人よ。でも、そうね……優しいお母さん。ずっと小さな頃、絵本を読んでくれて……」
 アンデルセンの「人魚姫」を読み聞かせてくれた母の声をその時龍可ははっきりと思い出した。『最後、人魚姫は泡になって消えてしまっただろ? 母さんはあんまりこの最後は好きじゃないんだよな。だってこれ諦めちまったってことだぜ。その点リトル・マーメイドはすげーよな、変え過ぎだって意見は確かに尤もだけどあのアメリカライクなポジティブさは嫌いじゃない。龍亞も龍可も簡単に諦めたり決め付けたりしない大人になるんだぞ!』……満面の笑顔でそう言った後にぐりぐりと兄妹の頭を撫でる。龍亞は『ママ、痛いよぉ』と文句を言っていたが両親に触れられることを嫌がってはいなかった。
 龍可もそうだ。『父さんはあのラストも悪いだけじゃないと思うけどなぁ。国のだっていうひいき目はあるけど好きだって気持ちは痛いぐらい伝わってくるし。純愛ってやつ。なあ龍可、そうだろ?』そんなふうに話に入ってきて龍可を膝に乗せてくれた父に龍可は『そんなの、難しくてわかんないわ』と頬を膨らませたのだっけか。
 『でも、一緒じゃないのは、さびしいな』と両親の顔を見上げると龍亞も同調して『うん。四人が……精霊のみんなも一緒の、たくさんがいいよ』とあどけない表情で言う。すると父は龍可を、母は龍亞を抱き締めておでこにキスを落とすのだ。父のことも母のことも兄妹のことも、精霊達のことも、双子は好きだった。
「そう、私皆のことを愛していたわ。精霊を見る力も大切に思ってた。パパとママがいなくなってからそういうこと、忘れちゃって。怖かったんだわ、二人になってしまったこと」
 初めのうち、二人きりの家はがらんどうのようであった。家で一番賑やかなのは母だったからそれだけで何もかもを喪失してしまったかのようで、騒がしかった我が家は急にしんと静まりかえってしまった。龍亞は泣いていたし、龍可も泣いた。両親が帰ってこないのだと理解するまでに十日かかった。
「遊星、アキさん、ごめんなさい。二人をうちのごたごたに巻きこんじゃって本当に悪いと思ってるわ。私のこと、支えてくれてありがとう」
「こういう時に支えてあげるのが年長者の役目でしょう? いいのよ。私も遊星に助けて貰ったもの」
「うん。やっぱり遊星はヒーローだよ。色んな人を助けてくれるものね。……それに私のヒーローももうすぐ帰ってくる」
「?」
「わかるの。双子だからかな」
 龍可が言い終わらないうちに階段をばたばたと駆け昇る音が響いて、龍可がずっと見たいと思っていた顔が出てくる。驚く遊星とアキを横目に龍可は当たり前にその名を呼んだ。
「龍亞」
「――龍可!」
 龍可のたった一人の双子の兄、遊城・龍亞・アンデルセンは龍可の姿を認めるや否や真っ先に飛び寄って存在を確かめるように腕を回した。兄の腕は以前にそうして貰った時よりも成長して男の子らしくなっていてそれが少しくすぐったい。龍可はくすくすと笑い「龍亞、大丈夫」と言ってその腕をゆっくりと体から話した。
「ずっと走ってきたの? 息上がりっぱなしじゃない。私は大丈夫、龍亞」
「でも……龍可も聞いたんでしょ? パパとママのこと。龍可は、パパとママのこと……」
「大好きよ。私の大切な家族」
 微笑んでやるとようやく納得してくれたようで「なんだ。大丈夫じゃん」とこぼしてぱっと龍可から距離を置いた。そして遊星とアキの姿に気が付いて「うわあ!」と間の抜けた声を出す。
「なんで二人がここにいるの?!」
「龍可を一人にするわけにもいかないからエンシェント・フェアリーにサービスして貰ったんだ。だがそんなに心配することもなかったみたいだな。無事で何よりだよ」
「心配症だなぁ二人とも。俺が龍可を残してどっか行っちゃうことなんてあるわけないじゃん? でも心配かけてごめんね。俺、この通りもう全然元気だからさ!」
「そうだね。龍可と無事合流出来たし早く元の世界に帰らないとね」
 ピースサインをしてみせる龍亞の後ろからオレンジ色の衣装に身を包んだ小さな少女の魔導師が顔を出す。龍可は少女の姿に思い当たる名前があって「あ、」と声を漏らした。龍亞が昔お気に入りにしていた精霊だ。遊星によると母十代のモンスターなのではないかという。名前は確か、
「カード・エクスクルーダー」
「覚えててくれた? 十代のHEROデッキのアイドル、カード・エクスクルーダーです。今日はね、龍亞が心配で付いてきたんだよ。ハネクリボーからの伝言も預かってるしね」
「くりくりぃ」
 エクスクルーダーの後ろからひょこりと見なれた毛玉のような精霊が出てきてこてんと体を傾げる。十代の相棒である精霊ハネクリボーはくりくりと鳴いて何やら喋りかけてくれたが人間の遊星とアキにはいまいち通じていない。
 だが龍亞と龍可は意味がわかっているようでふんふんと頷いて手を打った。
「ねえ、ハネクリボーはなんて?」
「あそっか、アキ姉ちゃんと遊星は意味わかんないのか。あのね、パパとママがどこにいるか教えてくれたんだ。ドイツ郊外の北の森だって。ちょっと遠いね」
「ハネクリボーはこっそりそこから精霊界に抜け出してきたんだって」
 説明を終えて龍可は座っていたベッドから飛び降り埃を払う仕草をした。龍亞も慌ててそれに倣う。毛づくろいをしているハムスターが二匹並んでいるみたいであまり緊張感がない。思わずアキが笑むと遊星もわずかに笑んだ。
 龍可が龍亞の手を握り締める。龍可よりもやや大きな手のひらを感じているとほっとする。ずっとそうだ。二人でくっ付いている時安堵を感じるのは、母親の胎内を思い起こさせるからなんじゃないかと龍可は考えている。
「パパとママを助けなきゃ。家族がばらばらになるの、私はもう嫌」
「あったりまえじゃん。家族は一緒じゃなきゃって俺はもうずーっとそう思ってるんだから。それに、あいつらのことも気になるし。……俺達にそっくりの顔をしたあいつらのこと、もっと知りたい。なんだかちょっと可哀相な感じがするんだ。すっごく欲しいものが手に入らなくて泣いてる赤ちゃんみたい」
「かわいそう?」
 そう尋ねると龍亞はすごく真剣な顔で「うん、可哀相」と反芻した。
「ないものねだりなんだきっと。昔の俺達に似てる気がする。満たされなくて寂しくて、ずっと泣いてる。それってなんか、ヘンだよ」



◇◆◇◆◇



「ああそうか、移動の足か……あの人は俺の遊星号を便利なタクシーか何かと勘違いしてそうだな。もう時空は超えられないということを伝えておくべきかもしれない」
 エンシェント・フェアリーに精霊界から帰して貰ってすぐに何か合点がいったのか遊星は一人で納得したように呟いた。顔は困ったようでもあるが声には諦めが含まれている。遊城十代という人は他人を振り回さないではいられないような人だ。台風か暴風みたいなものである。
 遊星号をわざわざ空輸してまではるばる異国に連れてきたのは、単にI2所有の小型ジェットに搭載可能なだけの空きスペースがあったからなのだが今思えば虫の知らせだったのかもしれない。十代からの呼び出しということで何があってもいいように持ってきた遊星号がこういう形でまっとうに役に立つとは思っていなかった。
「龍亞、龍可、デュエル・ボードはこの家にあるか? なければ今から即席で作るが……」
「あるよ。あっ、遊星号にくっ付けて併走させるの? ジャックのホイール・オブ・フォーチューンにした時みたいに?」
「遊星号はあれ程安定性がないからアキのと一台ずつ分けるが、それが一番手っ取り早いだろう」
「やりい! 俺遊星の隣ね!」
「はいはい。好きにして」
 龍亞がはしゃいでヘルメットとボードを取りにガレージに走っていく。龍可はそれに溜め息を吐いてまったくもう、といつもと変わらない言葉を漏らした。龍亞はやっぱり龍亞だ。もうずっとこのまま子供っぽい大人になってしまうのではないかという予感が脳裏をかすめる。龍亞は母に似ているのだ。
「じゃあ、私はパパに似てるのかしら。どうだろ。自分じゃよくわからないかも」
『そうだね……ちょっと大人びてるとこは両親共通かな。基本的に冷静なところはヨハン。龍亞に頼り気味なとこは十代。半分半分ぐらいだよ、龍亞も龍可も』
「エクスクルーダー。ママってそんなに大人びてた? いつも子供みたいよ」
『ひとりの十代は寂しい大人だと私は思うなあ。家族でいる十代はわがままでいられるからそう映るのかもね』
「ふうん……そうなんだ」
 遊星とアキにも見えるように、と龍亞が実体化させたのでカード・エクスクルーダーは人間世界でも精霊界と変わらずにぱたぱたと動いている。それが龍亞の能力なのだと言うが原理とか理屈とかはまったくわからない。ただ、龍亞の目がほんの一瞬だけ橙と黄緑の互い違いに光ったように見えた。ついこの間まで精霊を見ることも出来なかった龍亞がディスクもなしでそういうことをやってのけてみせたことに奇妙な寂しさを覚えたが、これはこれでもうしょうがないし、別段おかしなことでもないのだろう。
 流石に覚えていないが赤ん坊の龍亞は寝返りを打つ度に見境なく精霊を呼び出していたらしい。小さな妖精とかの時は放っておいた両親も巨大なドラゴンを召喚された時ばかりはすぐさま精霊界に送り返したそうだ。家が破壊される寸前だったのだという。
「ねえ、エクスクルーダーの知ってるパパとママってどんな人? 私達が生まれる前のことも知ってるんでしょ?」
『そりゃあね。二人は……まあ、今もあんまり変わらないけどすごいバカップルだったよ。十代はヨハンが、ヨハンは十代が大好きで世界の何よりもお互いのことを愛してた。二人とも結構理想主義者で、ロマンチストで、でも局所的に現実主義者だったわ』
「なにそれ。矛盾してるじゃない」
『人間が好きなのよ、二人とも。理想のために武力を手にする人みたいな矛盾だね。いろいろ苦労してたよ』
「私達の前からいなくなってた時も?」
『そうだね。あの時は――苦労なんてものじゃ、なかっただろうけど』
 子供を守るために自らを実験動物として差し出していた三年間のことはエクスクルーダーもあまりよくは知らない。当たり前に二人は多くのことを語らなかったし、周囲もそれを尋ねることはしなかった。誰からともなくその出来事はタブー視された。
 おぞましく、非人道的で、醜悪な内容だったのだろうということは容易に想像が付く。でなければあの二人が脱出に三年も梃子摺るだろうか? まだ生身の人間だった学生時代からあらゆる敵を打ちのめしてきた二人に、人質付きとはいえあそこまで時間を掛けさせるなんて尋常じゃない。今の二人は半人半精の超人だ。尤も二人を捕まえていた組織も一年ちょっと前に捕返り討ちにあって全壊してしまっているので今となっては真相は闇の中である。
『……ハネクリボーは敵意はないって言ってたけど、嫌な予感はまだ拭えないんだよね。君達そっくりの双子、って響きがすごく不吉。十代とヨハンはともかく龍亞と龍可のサンプルなんて流出してないはずなんだけど……』
 そこまで言ったところで丁度遊星とアキが龍可を呼ぶ声が響く。二人の声に潰されてエクスクルーダーの台詞の半分はあまり龍可には伝わっていなかったようだ。龍可にそのことを伝えそびれたことに対する不安と安堵が同時にわき起こってくる。エクスクルーダーは俯いた。この相反する感情に決着が着かない。
『……私、躊躇してる』
 龍亞はいいのだ。あの子は幼い頃の十代によく似ているが、その思い切りの良さというかそういう面での柔軟性の高さはヨハン譲りのもので、狂的なまでの執着はない。その龍亞ですら「実験」のことを伝えた時、あそこまで怒りを露にした。紛れもない覇王の息子の顔をして、張り詰めた声を出した。
 ――では、龍可にその話をしたらどうなってしまうのだろうか。ヨハンに依存している十代によく似ている、覇王の娘は一体どんな表情で、声音で、糾弾するだろうか。
 エクスクルーダーはそれが怖くてたまらない。



◇◆◇◆◇



 ボードとD・ホイールを繋ぐ作業をしている遊星のところにアキがやってきて、ひょこりと顔を覗かせた。エプロンを付けたままの彼女は台所から来たのだろうか、軽食とコップが載った盆を抱えている。ふてぶてしい顔をした猫――確か、十代が昔連れていた――が描かれた借り物の赤いエプロンはまんざらでもなく似合っていた。十代の好む真紅、緋色もまた薔薇の色の一つだ。この少女には薔薇がよく似合う。
「もうちょっとかかりそう」
「そうだな。だがあと少しだ、夕方になる前には出られるだろう。……夜を跨ぐことになりそうだから本当は明日の朝の方がいいんだが、そういうわけにもいかないか」
 工具を持ったままの腕で額を拭う。双子が一刻も早く両親を取り戻したいと切望していることは明らかだった。もう一晩待てと言っても簡単に聞き入れてはくれないだろう。
 あの恐ろしく強い人をまんまと攫ってしまえる相手の実力も未知数だ。目下の心配事であった龍亞はもう目を覚ましたから次は急いで両親の元へ、となるのは当然の流れで遊星にも急ぐ気持ちはある。待っているのは自分の性分ではない。それを提言する立場に立たされて年を喰ったと思った。前だけ見て走っていられる時期はいつの間にか過ぎ去ってしまっていた。
「もう少し子供でいられたら良かったかもな」
「意外ね。遊星がそんなことを言うなんて」
「どこまで自分が『子供』だったのか、曖昧だが。自分に責任を持つことをマーサに叩き込まれたのはまだ尻が青かった頃だ。十歳にもなってなかった。とはいえ鬼柳達とつるんで馬鹿やっていたのもそう昔の話じゃない。今でも子供と大人の境界線はよくわからない……だが」
 龍亞はもう昔程子供でもないな、とぼやいて遊星は工具を置いた。盆からコップを受け取る。硝子が煤で少し汚れて少し申し訳ない気持ちになって眉を顰めるとアキが「大丈夫よ、洗えば落ちるわ」とタイミングよく返事を寄越した。
 コップの中身を飲み干してからガレージの中を改めて見る。車庫として使われているらしいが今は車がなく大きくスペースが開かれていた。双子によると車色は鮮やかな赤なんだそうだ。妻の色なのだろう。そういえばヨハンが使用しているマグカップも十代を愛しているのだということがよくわかるものだった。愛妻家の見本のような人だ。
 車洗用の用具だとかの品は日曜大工製らしい棚にきちんと収納されていて、そこがヨハンのテリトリーなのだろうということを連想させた。十代はこういう細かなものをきっちりと片付けない。ガレージの入口の向こうには手入れの行き届いた庭が広がっていて、花壇の中には様々な花が咲いていた。こちらは十代のテリトリーだ。龍可の手も入っているようで、花壇は中央から区分けされ両サイドに「Jyudai」「Ruka」と小さなプレートが刺さっていた。
 この家は、絵に描いたように完成された「幸福な家族の住む家」だった。うつくしかった。このこじんまりした家屋の中に遊城家の世界がある。だが綺麗すぎて遊星は今その領域内に自分がいることに違和感を覚えてしまう。遊星は十代の家族ではない。アキもそうだ。家主のいない家は、もぞもぞとして落ち付かない。
「俺は何のために十代さんに呼ばれたのかと、少し考えた」
 遊星はぽつりと漏らした。
「あの人は俺に『子供達を守ってくれ』と言い残したらしいんだ。だがこの件に関して俺はどこまで干渉出来る? ある一線を境に俺は単なる部外者にしかなり得ない。首を突っ込んでいいことと悪いことがあるだろう? まあ今までにあまりそういうことを考えず踏み出してしまったこともあるけどな」
「あら、でも少なくとも私は遊星が首を突っ込んでくれたことに感謝してるわ。あなたがいなかったら今もまだぎすぎすしていたかもしれないし。あなたは、大事なことは絶対に外さない人なのよ。だから呼ばれたんじゃないかしら。信頼されているのね」
「俺がか? あの人に信頼を置いて貰えるようなことをした覚えはないが。共闘した時も足を引っ張るばかりで……」
「龍亞も龍可もあなたに全幅の信頼を置いているわよ。あの子達は遊星のことが大好きだから、きっとそれで十分だったんじゃないかしら」
 アキが女性らしく笑う。アキも、いつの間にか大人になってしまっている。出会った時、彼女は自分の周りを皆敵だと思っていていつも誰かを睨むような寂しい顔付きをしていた。それは子供っぽい猜疑心と反抗心からのものだ。かつての彼女は間違いなく少女だった。高校生だったのだ。
「……あの人も昔は子供だったんだな」
 誰もが大人になる。そして、あまり楽しくない現実を知る。遊星はサテライトにいたからあまりそういうふうに夢を見た期間は長くなかったが、一度ぐらいは子供の内に思うものだ。「大人になれば自由になれる」「大人は何だって出来るに違いない」――
 まやかしだ。大人になればなるだけ、年を取れば取るだけがんじ絡めになって責任やら何やらが増えていく。辛いことも増える。
「大人になって、あの人は何を知らしめされたんだろう」
 遊城十代の痛みを知りたいと思った。憧れのヒーローの苦しみを知りたいと思う。十代を理解出来るとは思わない。完全無欠の英雄に近付きたいと浅はかにも思っているのかもしれない。
 ヨハン・アンデルセン、《例の不老不死》《不死のアナセン》と呼ばれるその人のように嘆きも悲しみも共に背負えるとは毛頭思わない。あの人には到底叶わないし張り合おうともさらさら思わない。
 ただ、辛すぎる現実が転がって来た時に双子の子供達を守る防波堤ぐらいにはなれるのじゃないかと思った。言ってしまえば過ぎた好奇心だがそのぐらいのわがままは許されるだろう。十代は確かに双子を守れというふうに言ったのだ。
 こればかりは間違いない。
「Beautiful World」‐Copyright (c)倉田翠.