22:リチュアル(08) 半人半精飼育 |
「私」がその仕事を任じられたのはとうとう「実験動物」が確保出来たと所内が大騒ぎになっているその最中だった。違法研究機関《EX‐Gate》は一世紀程前に発表された「藤原学説」を下敷きとした理念を提唱し、長らく人と精霊の関わりを少々危険な実験を交えつつ研究していたのだが、精霊の存在の不安定さが邪魔をして実験は難航していた。 「君には被験体の世話係をやって貰う。奴らはジャパニーズでしか喋らん。だがまあ、大人しく従順だから苦労するということはないだろう」 所属するセクションの上司は意気陽々とそんなことを言い、私にマニュアルとキーを手渡す。例の実験動物に関する情報は厳しく統制が敷かれていて、この時私は彼らが何者なのかということをあまり理解していなかった。いや、『ジャパニーズで喋る』のだから、人なのだろうということはなんとなくわかってはいたのだ。私自身を含めて機関の人間は皆倫理観念というものが狂いきっていた。何が正しく何が間違っているのか。この機関は、そんなことも区別が付かないような愚か者どもが表社会から締め出されて最後に流れ付くような場所だった。 「『藤原学説』に述べられていたオリジナルの確保に成功したのだ。名誉あることだと思わんかね――尤もまさか『彼』がそのオリジナルだとは、よもや思いもしなかったが。……入りたまえ。今日からこの扉の奥でモルモットを飼育するのが君の仕事だ」 扉が開け放たれ、病的なまでに真っ白な室内の内部が露になる。天井が高く、小さな窓しかない円形の広い部屋の中央に人が二人いた。これも潔白なまでに白い病人着を着せられ、積木やブロック、ぬいぐるみなどの玩具を転がしている。彼らは部屋に人が入って来たことに気が付くとにへらと笑ってこちらに向かって手を振った。およそ体格に不釣合なその様子は、まるで三歳の子供が無邪気にブロック遊びをしているかのようだった。 「……あれが『被験体』ですか? ……その、アンデルセン博士と同じ顔に見えるのですが」 「同じ顔に見えるのではなく、本人なのだよ。実に傑作だ。精霊研究の権威、世界のインダストリアルイリュージョン社のお偉いその人がまさか夫婦で精霊紛いの化け物だったとはな? 同族の研究をしていたわけだ。まったく天才博士の考えることはわからんよ、尤も彼ご自慢の脳も今や赤子同然だがな!」 吐き捨てるように言った上司がアンデルセン博士を嫌って、いや憎んでいるのは周知のことだったが(異端思想を理由にアンデルセン博士に学界追放されたというのが彼の持ち話の一つだった)、それでも上司の台詞は人でなしの一人である私にも結構なショックを与えた。アンデルセン博士と言えば、一昔前に不動博士と並んで学界を席巻した有名人でそしてかつての私の上司だったのだ。私は彼のことを柄でもなく尊敬していた――今でも。 上司が私の肩に手を置く。不愉快な重たさだった。 「一つだけ忠告しておこう。あれはアンデルセン博士とその妻ではない。半人半精の実験体だ。コードネームは『アダム』と『リリス』。情を覚えるのは君のためにならないだろう。いいね」 「しかし――」 「黙って餌をやって、機嫌を取って、手懐けていればいい。簡単な仕事だろう」 それともそれすらも出来ないのか。上司は無言でそういうふうなことを私に視線で尋ねた。ぐっ、と息が詰まる。そうだ。今までも散々精霊を食い物にするような実験をやってきたのだ。今更だった。私の手は既に汚れている。 上司が部屋から出ていく。密閉された円柱状の部屋は「実験動物」のケージだ。鳥籠より水槽のようだと思った。巨大な試験管は同時に矮小な世界でもあった。 被験体「アダム」の本当の名前を「遊城・ヨハン・アンデルセン」と言う。「リリス」は「遊城・十代・アンデルセン」。二人は元々夫婦で、その目的上機関でもつがいとして扱われた。実験動物のオスとメス。それ以上でもそれ以下でもない。 しかしオスとメスを同じ檻に閉じ込めてやっていることはといえば、本当に幼児をあやしているようなそんなことばかりだ。部屋の中にはいつも玩具がばらばらと散乱していて、二人はそれで戯れていた。積木を積んで城を作り、ブロックでよくわからないオブジェを作る。ぬいぐるみを撫でたり引っ張ったりもする。そしてカード遊びもよくした。 そのカード遊びこそが、彼らを飼育している機関の目的の一つだった。三つあるうちの一つだ。彼らは非常に特異な能力を持っていて、カードに触れるだけで精霊をこの世界に実体化させることが出来る。呼び出された精霊は通常のものよりも遥かに強い能力を保持しており、危害を加えようとすると徹底的に二人を守ろうとするので精霊の方を実験に用いることは出来なかったが、呼び出している二人から脳波などの計測を行うことは可能だった。 「おねーさん、おねーさん、よはんがね、ほしいカードがあるんだって。ライトロードの、りゅう? だっけ?」 「ジャッジメント・ドラグーン、ひかりでぴかーってさばきをくだすらしいよ。おねーさん、もってない?」 「今は、ないわ。今度持ってくるから……今日はこれとか、どうかしら」 「ドリル・ロイド? なんだろ、なつかしいな……」 実験体の二人は元来非常に優秀な頭脳の持ち主だった。夫のアンデルセン博士は言うまでもなく、妻の十代も頭のよく切れる優秀な研究助手であったらしい。そんな二人をいくら弱味を握ったとは言っても簡単にコントロールすることなど出来るまい。そこで体のいいモルモットにしてしまおうという方策が取られ、二人には毎日投薬がなされていた。並の人間なら一生廃人送りで帰って来れないだろうという強力な違法薬物だ。この機関には違法なものばかりが揃っている。 そうして聡明なアンデルセン夫妻は白痴のつがいになった。私は毎日、彼らに食事と一緒にその薬を投与している。継続して投与しないと信じられない自己治癒能力で薬物成分を体内から排除してしまうからだ。アダムとリリスには従順で扱い易い白痴の子供であることが求められた。だから部屋の中では、二十代後半の身体を持った三歳児がお互いを慈しみ合って生きている。 アダムとリリスはここまでの幼児退行を余儀無くされた今でも深く深くお互いを愛し合っている。記憶を奪われ自由を剥奪され愛する子供達からも引き離され、二人は何もかもを、ありとあらゆる全てを略奪された。しかしどんな手段を持ってしてもアダムからリリスへの、リリスからアダムへの愛というものは無くせなかったのだ。 昔、まだ私がアンデルセン博士の下で働いていた時に彼が言っていたことをふと思い出した。記憶の中の聡明で美しい博士は楽しくてたまらないというふうな笑顔でいつもそんなことを言っていた。 『俺の奥さんは世界一美人で、世界二にかっこいいんだぜ。世界を丸ごと救っちゃうようなヒーローだからな。でも、一番かっこいいのは俺だからそこは二番。とにかく十代は、とびっきり可愛い俺の一番大事な人なんだ』 勤めていた時は博士が自慢して見せてくる家族写真でしか知らなかった博士最愛の奥方は確かに美しい顔立ちをしていた。しかし幼児後退によって夫が礼賛したかっこよさというものは失われてしまっている。今の姿はどう転んでも精神に疾患や障害を負ったものでしかなかった。たとえそれが人為的な悪意によるものでも。 「よはんー、むずむずする」 「じゅうだい、だいじょうぶ?」 「せなかかゆい……」 「あー、またはねでてるよぉ」 おねーさん、はねでちゃった! 子供っぽい声で手招きされて私は慌ててリリスの服を腰あたりまで降ろした。テンプレートな悪魔の翼。彼女の半分である精霊のパーツが幼児化によってコントロールし切れなくなってしまったために度々こういう現象が起きるのだ。 この現象の観察測定が三つの目的の内の二つ目だ。精霊化現象、と機関では呼ばれている。普段は人間寄り――人間に擬態している、と定義付けられたがカメレオンや蛾のようなその呼び方が私は好きではない――の生態を持っている二人だが、その気にさえなればこうして体組織を精霊寄りに近付けることができる。精霊そのものになれるのかどうかはわからない。二人は決してただの一度も人の姿を崩すことはなかったからだ。 半人半精の彼らのみに起こり得るこの現象の研究に機関はえらく熱心で、測った数値や映像記録データをぐるぐると繰り返し見つめてはしょっちゅう、ぐちゃぐちゃと討論を交わしている。目下の課題はこの現象を機関側で何らかの方法を用いて制御出来るようにならないかということで、制御剤やら制御機器やらの開発に勤しんでいる班があるらしい。 ちなみに、彼らが一体どういう精霊をその存在の内に宿しているのかはまだはっきりしていない。翼の形状からアダムが天使族でリリスが悪魔族なのではないかとされているが憶測の域を出ないのだ。神の楽園エデンに住む始まりの男アダムが天使族で、アダムのあばらより生まれ楽園追放をもたらす始まりの女リリスが悪魔族。随分とまあ都合が良いというか、メルヘンな発想だ。 「おねーさんつばさかゆい」 「いつもみたいにじっとしていれば、その内治まると思うけど……」 「うー。おれひとりでばさばさしてるの、いやだぁ……」 「じゃあぼくもじゅうだいといっしょにする」 リリスが駄々をこねると、アダムはしょんぼりとして、それからいいことを思い付いたとばかりに手を叩き鼻から息を出してりきむ。めきめき、と病人着を突き破るようにして純白の翼がアダムの背から生えた。発作的に背を盛り上がらせ、少し突き出てしまったリリスの翼と違い完全体での解放だ。 「これでいっしょ」 「いっしょじゃないよ。よはんのほうがおっきいもん。よはんのほうがばさばさしてるもん」 「じゃ、じゅうだいもおっきくすればいいのに」 「そっか」 リリスが得心したようにこくりと頷く。すると小さく突出していた翼がすらりと伸び、大きく広がりを見せた。美しい翼だ。鍵爪すらも美しいと思う。 「よはん、すきー」 リリスが向日葵のように笑って言った。無邪気な声だ。 「じゅうだい、だいすき」 アダムはリリスをぎゅうと抱き締めてにこにこしながら嬉しそうに言う。 「おねーさんも、すきだよ?」 「うん、おねーさん、すき」 そして振り返って私に笑い掛けた。胸がじくじくと痛い。こんなことになって初めて気付かされるのだ。 私はまだ、人間でいたかった。人でなしの集まるこの機関の中でそんなふうに生きることはもう出来ないと思い知らされた今になって、そう思うのだった。 電子メロディの鐘が鳴る。アダムとリリスはぺたんと座り込んだまま「あー?」と声を上げる。 この鐘の音を境に二人には夜が訪れる。 三つ目の目的のための時間だ。 ◇◆◇◆◇ 「おや、今日はもうお世話の時間は終わりですかにゃ?」 「……ドクター。はい、一旦下がらせて貰いました。『時間』が終わったらまた戻ります。お風呂に入れて清潔な服を着せてあげないと」 「そうですか。君は優しいですにゃあ」 「……いいえ。ただ怖いんです。二人がいつか私のことを蔑んだ目で見るんじゃないかってそう思うと怖くて。私は、この時間が嫌いです。こんな実験に加担しておいて今更だってことは重々承知していますが、ともかくこの時間が嫌いなんです」 「それは優しさですにゃ。十代君とヨハン君への思いやりです。……二人は、きっと君を軽蔑することはありませんよ」 ドクター、アダムとリリスの主治医である私と別セクションに所属している人物はそう言って私の肩に手を置く。上司のものとは違って温かみのある心地良い重みだ。ドクターは機関内で本人達を除き唯一、実験動物の二人を識別コードではなく本当の名前で呼ぶ人だった。いつもにこにこ笑っていて、不思議な語尾の言葉で喋る。アダムやリリスと同じジャパニーズでだ。 私は彼と話をするのが好きだった。彼と日本語で喋る話は盗み聞きされても内容がばれない、ということもあったし彼の柔かな物腰に惹かれている部分もあった。だが一番はやはり、二人のことを「十代君」「ヨハン君」と呼んで実験用のモルモットではなく対等な存在として扱っているその振る舞いにあったのではないかと思う。 この気狂いばかりの機関において、彼という存在はとても稀有なものだった。 「二人をあんなふうにしておきながら、子供みたいにしておきながら、都合の良い時ばかり生物として成熟した機能を求めてる。雄と雌の機能を。本来秘されるべきものをモニター越しに無表情でずっと眺めてる……耐えられません。上司は私が女だから、と言って外れることを許可しましたがそういう問題ではないと思うんです。あんな、あんな純粋で無垢で、もう十分に辱められている二人をまだこれ以上辱めようとする。アダルトビデオでもウニの受精実験の教材ビデオでもないんですよ。あんまりです。私は……」 「はい」 「私は、それでも実験に加担し続けている自分も嫌で」 「ええ」 「守らなきゃ、って思うのに……」 「夜」に割り当てられている三つ目の目的は「交配実験」だった。被験体の雄と雌に生殖行為を強要して、更なるサンプルである「子供」を作ろうというものだ。幼児レベルまで知能レベルに退行が見られる二人に生殖行為を行わせる方法として用いられているのがあの「鐘」だ。鐘が鳴ったら、生殖をする。次の鐘が鳴るまでの三時間、交わりを続ける。そういうふうに二人の脳味噌に擦り込みを施した。 いくら頭の中が幼児並でも、肉体は成人した男女のそれだ。しかも一度既に双生児をもうけている夫婦。その例があるから、研究者達は人工受精ではなく自然な妊娠によるサンプルの誕生を期待した。オリジナルの子供達が手に入らなかったなら、それと同等の存在を作ってしまえということなのだろう。人工精製と自然精製には天と地程の差がある。上司の言い分だ。 あまりにも、むごいと思う。 こんな状況でもただ一つ幸運だったと思えるのが、「ヨハン」は「十代」を愛していて「十代」も「ヨハン」を愛しているということだった。それがたとえ望まない数を重ねたとのだとしても、望まない交わりではない。拒絶したい相手ではない。雌が雄の子を孕んだとしてもそれは愛し合った夫婦の子供なのだ。 「それでも私は彼らに投薬をすることを止められないんです。彼らが健康になったことがばれて居場所を失うことも恐れているから。最低だって。わかってるのに毎日毎日投薬を続けている」 初めの一回だけは、何も知らされていなかったから部屋から出ていくタイミングを失って(元よりその時は退出許可が下りていなかったが)同じケージの中で「交尾」を見るはめになった。リリスの全身が顕になって、それにアダムが覆い被さるのを、ただ力なくへたり込んで遠まきに見ていた。リリスの喘ぎ声も、アダムの呻き声も、全て耳を通り過ぎていった。耳を塞ぐ気力も残っていなかったが、恐らく塞げたとしても大した効果はなかっただろう。 二人が「発情」している姿は、男女の交わりではなく雌雄の交尾だった。そこに愛情があったことは救いだったがそれが私にとってどうしようもなく絶望的な光景だったことは確かだった。荒い吐息や色情が酷く無機質なものに感じられた。 その時私は動けなかった。終わりが訪れるまでの三時間、とうとう一歩もだ。 「どうしたらいいのかわからないんです。結局私も人でなしだから、どうすればいいのかがわからない。何をどうしたらいいのか。もう、まるで、全く――一年以上も」 「……仕方ないことだと思いますにゃ。この機関は異端で、異質です。こういうところにずっといればまあおかしくもなりますにゃ。それでも君は二人のことを思ってくれている。同情でも憐れみでもなく一緒に悲しもうとしてくれている。それってとても大事なことですにゃあ」 「そうでしょうか? それすらも判別が付きません。……ドクター、あなたは変わった人ですね。こんなところにいるのにまるで普通の人みたいで……」 「普通、ではないですにゃー。先生の身体は実は特別製でして」 「どうしてここに来たんです? あなたはここにいるべき人ではないように私には思えますよ」 素直に感じたことを言うとドクターは「そうですかにゃ?」と首を傾げた後、少し寂しそうに笑った。いつも閉じている瞳が少しだけ薄く開かれる。全体の雰囲気よりも随分と鋭く、そして哀愁の漂う瞳だと思った。 「ここに来た理由は、一つっきりです。十代君とヨハン君、先生の大事な生徒を助けるためですよ。我が子を守るためにモルモットになることを選んだ娘夫婦……みたいに思っているだけで全然血とかは繋がっていませんが……がもう一度幸せな家庭に戻れるようにお手伝いしたいとそれだけを思ってここにいますにゃあ」 言い終わると瞳を閉じて普段の人当たりのいい顔に戻る。ドクターはぴったりと人差し指を口に当て、私に「今のは、出来ればオフレコでお願いしますにゃ」とひそひそ話でもするかのように言った。 「それって……ドクター、あなたは一体……」 「しー、内緒のひそひそ話ですにゃー。ここら一帯は監視カメラのカバー範囲外ですからその辺は心配ご無用です。では、また後日お会いしましょう。その時もし思うところがあれば、私に言ってくださいにゃ。協力しますよ」 「ドクター……」 にこにこ笑いのまま、白衣をくるりと翻してドクターは元来た方向に歩いていく。手が背中に向かって伸びたが、口はぱくぱくと動くばかりで声にならなかった。 自分以外誰もいない廊下に呆然と立ち尽くす。あの人には微塵もそんな気はなかったのだろうが、無性に責めたてられているようなそんな心地になった。じくじくした胸の痛みがまた心臓の辺りに戻ってくる。 多分責めているのは、他の誰でもない自分自身なのだろう。 ◇◆◇◆◇ 「でも、ぼく、しあわせだよ?」 被験体アダムはそう言った。 「うん。よはんがとなりにいるのに、どうしてしあわせじゃないの?」 被験体リリスもそう言った。 私はぽろりと、そうするつもりでいたのではなく本当に弾みで、二人にそういうことを尋ねてしまったのだった。その時初めてアダムとリリスのことを「ヨハン」「十代」と呼んだ。確かな人間の名前を呼んだ。 私はこう言った。「二人は、十代とヨハンは生きているのが辛くはないか」と。「この狭い部屋が、嫌いではないのか」―― すると十代とヨハンは揃って本当に不可思議そうに首を傾げるのだった。私にはそれが予想外で、意外だった。 「おねーさん、なんで? なんでそんなこと、きくの?」 「それは……」 少なくとも私の感性から言わせて貰えば、この円柱状の部屋という名のケージ、水槽、試験管――それは酷く息苦しい場所だった。実験動物を逃がすまいとする独房。いや、牢獄の方がまだましだったかもしれない。私にはそれ程酷いものに思える。 玩具は大量に与えられたが、それが何の気休めになるだろう。死なないように餌は与えられるが、それが何の安息を二人にもたらすというのか。何もない。苦痛しかない。苦しみと痛みしかない。 窒息してしまいそうだとしばしば考えた。天井高くの天窓が余計に息をつまらせるようだった。 「二人は嫌ではないの」 「なにが? じゅうだいがいるんだよ。おねーさんもきてくれる。いやって、なにが?」 「よはんがいておねーさんがきてくれる。ほかにほしいものってなに?」 山とあるだろう、そう思う。まずは自由だ。それから、元通りの知性。奪われてしまった大切な記憶。長い間会っていない子供達。お気に入りのデュエル・ディスク。大事に填めていた結婚指輪。いくらでもあるだろうに。いくらでもあるはずなのに、それでも彼らは至極当たり前に満たされた顔をしている。幸福そうに笑っている。 私にはそれが信じられない。酷い扱いを受け、散々に貶められ辱められ、単なる被験動物としてのみ意義を見られているというのに二人は手を握り合って赤子のように純粋に微笑むのだ。二人が隣り合って存在していられる幸福、一人じゃないという安堵、愛、慈悲、それが二人の世界が必要とする全てだった。二人の世界は二人っきりで完成されていて、それさえ満たされていれば何も不具合なんてないのだと言われたようだった。 吐き気がする。眩暈がして視界がぐるぐると回る。どうして、どうして、どうして。 「だってそれがしあわせってことでしょう?」 寄り添って生きる、愛を謳うつがいの実験動物は口ずさむ。 現実は醜く、現実は恐ろしく、現実はおぞましかった。だが同時に、こんなにも狂気的で背徳的な美しさを孕んでいる――。 「わかりました。先生に任せてくださいにゃ」 ドクターはやはりにこにこと笑ったままで、私にお茶を勧めてくれた。主治医である彼は薬物調合が得意で、これはその応用の薬茶らしい。茶の水面をぼおっと眺めているといくつもの光景がぽつぽつと浮かんでは消えていった。落ち着いて息を吸った時に思い出すのはやはり、まだ私がまっとうな職場でまっとうな研究に精を出していたありふれた研究者であった時のことだ。 アンデルセン博士が指揮を執るI2の精霊研究部門に籍を置いていた期間は、短くはないが長くもなかった。ほんの三年程だ。その後、私は彼の掲げる理想平和主義に不満を覚えて今の境遇に至る。 アンデルセン博士はそもそも特異能力、サイコデュエリストと同等以上の精霊実体化能力を持つ人物としてその部署で働いていて、実験を行う時は彼のポリシーとしてまず精霊自身に協力を求めた。 その時に彼によって呼び出された精霊が嫌だと拒否の意を示せば実験は行わない。精霊が協力の姿勢を見せてくれた時にだけ、実験を行う。だから必然的に精霊に厳しい条件を課すような非人道的なものは行えなかったしそもそも博士はそんな条件を彼らに出さなかった。 精霊達も博士のことをとても好いていて、まず大抵の場合は彼の頼みを断らない。それがどうしてなのか、人柄にしたって特別すぎると昔は考えていたものだがわかってしまえばどうということもない。単に博士が彼らとよく似た存在だったということだ。精霊は博士にとってのもう一つの家族だった。 「先生、色々考えてましたにゃ。幸いここには錬金術のフェティッシュ……素材になるものがたくさんありましたから退屈はしませんでした。というわけで最近完成したこれの出番です」 ドクターが何か薬剤入りの瓶を取り出して私の前で揺らして見せる。普段投与を義務付けられている薬物に良く似ていた。 「少しずつ段階を踏んで体内に残留している薬害成分を取り除くお薬です。ここがなかなか苦労したんですが、各種測定で例の薬物を摂取し続けている時と同じ状態を偽装出来るようにしてあるため、その分効き目は微々たるものですにゃ。十代君とヨハン君は元々こういうものが効きにくい体質をしていますからにゃ、二人にとっては微々たる量でも一般の人が摂取したらどうなるのか保証はありません。くれぐれも気を付けてですにゃ」 「つまり、代わりにこれを投与しろと? しかしドクター、あの薬の投与を停止したら自然浄化ですぐにばれてしまうのでは……」 「大変残念ですが、もう一年と半年以上も継続投与がなされていますから、二人の自浄能力をもってしてもちょっと苦しいところまで来てますにゃ。外部からのお手伝いがなければ二人の社会復帰は難しいでしょう」 蒼白な顔になった。それを難しくしたのは誰か? 確かに命じられはしたが、実行犯は誰か? 私だ。紛れもない私自身だ。 血の気が抜けて手に力が入らない。がたがた震えるカップを、床に落としてしまう前に慌ててテーブルに置いた。机に触れたカップが立てた音が耳障りで目を閉じる。ドクターの手が気遣わしげに私の手に添わされ、それではっとして意識が元に戻って来た。 「あんまり自分を責めすぎるのは良くないですにゃー。君がまったく悪くないということはありませんが、それにしてもです。思い詰めすぎると出来ることも出来なくなってしまいます。十代君もヨハン君も君のことを好ましく思っています。信頼関係がある。どんな時でも、あの二人にあそこまで信用して貰うのって大変なことなんですにゃ? 先生は、そこは自信を持っていいと思います」 「……だと、いいんですが。なんだかドクターというよりファーザーのようですね。あなたは強い人です」 「だから君は、自身を過小評価し過ぎなんですにゃあ……」 ドクターは困ったように笑って私に代替品の薬剤を手渡してくれた。 しかし薬剤を変えたからといって特にこれという変化が見られることもなく、今日も十代とヨハンはやはり白痴のような表情で幼児と同じように戯れていた。昼は子供同然に意味のない遊びを繰り返し、精霊にあやされている。夜もまた変わることなく毎日ずっと「交配」を行う。ただこちらには何度か休止期間があった。十代が妊娠をしている間の数ヶ月だ。 実験動物として飼われるようになってから既に三年が経過しており、その間に十代は三度夫の子を身籠もった。しかしそのどれもが出産に至る前に流れ落ち死んでしまう。 それが母としてどれ程の痛みであったのか、ということは流産処置後しばらくの十代の態度からしても明白だった。子を失ってから一週間、決まって十代は食事を摂らなくなる。玩具遊びもしなくなる。鐘が鳴っても二人は眠り続けた。刷り込まれたメカニズムすらをも上回る本能なのだろう。三度のそれはまるで何かの宗教儀式のようですらあった。 「十代君は以前に二度、子供を失くしていますからにゃ。その時のうろたえようといったら酷いものでした。ヨハン君がいなければそのまま国一つぐらいはうっかりで焼け野原になっていたかもしれないというぐらいに焦燥していました。……辛い記憶なんですにゃ。機械に蓋をされて忘れてしまっていても、どこかでまだ思い出してしまうんですにゃ」 主治医として検診に訪れたドクターは眠っている二人を労りながらそのことに関してそうコメントした。私が黙っているとドクターは元気付けようとしてか「これは、二人には内緒ですにゃー」、と手を振る。 「子供もそうですが、二人は人間が大好きでして。人間といういきものが好きなんだと昔聞きました。ままならないことも愚かしさも含めて全てだそうです。そんな達観した、平たく言ってしまえば『人間離れした』思想を持っている二人ですが、でもそんな彼ら自身、とっても人間らしい性質を持っているんですにゃ。精霊研究をしているのなら知っていますにゃ? 精霊は通常子供を産めないと」 「ええ、アンデルセン博士が昔『概念発生をする』というようなレポートを残されていましたから……」 「そうです。だから二人は精霊でもありますが、やはり根底のところで決定的に人間なんですにゃ。――いつだったか、先生は問いました。君達は人間を嫌いになることが出来ますか、と」 沈黙が生まれる。数秒の間、十代とヨハンの規則正しい寝息だけが室内に響いていた。 「答えは簡潔でした。『怒りはする。だが憎めないし、嫌うこともない。人間はそういうものだって身を持って知ってるから』。……昔自分自身がそういう過ちを犯したからこそ、どうしようもなく人間だったからこそ、二人は人間を愛している。近い内に君もそのことを知らしめさせられるかもしれません」 沈黙を破って答えを残し、ドクターは仕事を終え部屋を出る。実際にそれを「思い知らされる」のはそれからほんの数週間ばかりが経った頃のことで、三年に渡る硬直した日々の変化は唐突に訪れた。三年の均衡は呆気なく瓦解する。しかし瓦解するように仕組んだのはドクターであり、私だ。 だからそれは望まれた異変のはずだった。だが機関の方だってそこまで馬鹿ではないし無力でもなかったのだ。そうして私は二重の意味で思い知らされることになる。 人間の貪欲さと人間の高潔さを。 |