Beautiful World

23:リチュアル(09) いつか、世界が終わっても

 止まっていた時間が明確に崩壊という形を取って動き出したその日、二人は私が担当する毎朝の簡単な基礎検診をいつも通りに終えたが、しかしいつも通りに玩具を手を取ろうとはしなかった。
 座り込むことすらもなく立ったまま、無言でお互い何かを確かめ合っている。私はカルテを書き終えてから彼らの方へ駆け寄った。
「どうしたの、どこか痛いの」
「ううん……」
「じゃあ、何か嫌なことが?」
「そうでもないよ」
「……?」
 受け答えの様子に違和感を覚える。声自体は同じものだったが、その調子が普段の言葉足らずで舌っ足らずなゆっくりしたものではないように思えたのだ。不意に十代が振り返って私の顔をまっすぐに見つめてくる。射抜くような金の瞳だった。見馴れた愛らしいチョコレート・ビターではない。
「ただ謝っておこうと思ってさ」
 十代は泰然と構えて私に告げた。紛うことのない、それは宣告だった。

「ごめんな。あんた、辛かったよな。気分のいいもんじゃなかっただろ、ずっと俺達の世話をしてて……感謝してるんだ。多分、『きっかけ』をくれたのもあんただろ? あんまりはっきりとは覚えてないけどここまで回復が出来たってきっとそういうことだ。本当にありがとう。でもここまでだ。これ以上俺達に情けをかけるとあんたの方が危なくなる」
 そうだろ? 一度も私が聞いたことのないとても流暢な日本語で十代は喋りかける。早口だがとても綺麗な音だ。三年間ずっと幼児言葉を使っていた反動なのかと感じるぐらいに一息にたくさんの言葉を十代は繋いだ。ありがとう、君は優しい人間なんだな。心の暗部っていうのは人間誰しも少しは持ってるもんさ、だから君はこの実験に加担して俺達に酷いことを強いていたとかそういうふうに自虐しなくったっていいんだぜ。奔流のような流れは止まらない。硬直していた世界が、堰を切ったみたいに私に向かって流れて来る。
 よくよく考えてみれば遊城十代という人とまともに会話をしたのはこの時が初めてで、この人のことなんて何一つ知りはしなかったのだということに思い当たった。向日葵のように笑う素直で純粋な変わらない愛を謳う「リリス」しか私は知らない。アンデルセン博士がしきりにかっこいい、かわいい、美人だ、世界一愛してる、そんなことを言っていたがそれは又聞きの遠い昔の記憶に過ぎない。元々饒舌な人だったのか、それとも人が変わったように今捲したてているのか、その判別が付かない。
 はたして遊城十代が元通りの理性や知性といったものを取り戻せているのかそれがわからない。
 彼女の隣でヨハン・アンデルセン、夫の博士は彼女が喋っている分黙りを決め込んでいるようで唇を動かさず結んでいた。瞳はあの透き通ったライムグリーンではなく、少し銀がかっているような橙がかっているようなそんな印象があった。
「俺達は純粋な人間じゃないから、最悪ずっとこの場所から逃れられなくても、死ぬことはないんだ。寿命はまだ腐る程残ってるしそうそう簡単に命を落とすこともない。人間にとっての劇薬ですら砂糖水と大差なく感じることがあるぐらいだからな。心残りは子供達に先立たれてもう再会出来ないかもしれないってことだが……それも、まあ、仕方ないんだろう。不甲斐無い父さん母さんがやらかしたへまがそもそもの発端なわけだし」
「何を言っているのか……」
「あんたがここでくたばるのは勿体ねえなって、そう思っただけだ。悪いことは言わないからこんなとこ逃げちまえ、やり直す方法なんていくらでもある。いくらでもだ。修道教会でもなんでもいい。若いんだからさ」
「十代、お前やっぱり説明下手だな……」
「うるせー。そんなのヨハンはずっと知ってただろ?」
「威張るなって」
 買って出たのはお前だろうが。聞き分けのない子供をよしよしとあやすように十代の頭を撫でてヨハンが閉じていた口を開く。紡がれた美しいイントネーションのジャパニーズもやはり私には聞き馴染みがなく、その分様々なインパクトといったものが希薄になっていた。アンデルセン博士はいつも訛りのないクイーンズではきはきと喋っていたからこの姿とは若干の違和感がある。
 それでも、そのうちに今妻の手を握って私の前に立っている人はI2のヨハン・アンデルセン博士なのだろうという理解がゆっくりと数テンポ遅れてから私の中に降りて来た。白衣に眼鏡を掛けてシャープペンシルをくるくると指で回し、時々鼻歌を歌ったり奥方自慢をしていた人がそこにいるのだとはっきり感じる。無知で初心な「アダム」ではなく、聡明で変わり者のアンデルセン博士なのだという確信が生まれる。
 室内に大音量で警告のアラームが鳴り渡った。どうやら監視室の人員がこの部屋で起こっている異変にようやく気が付いたらしい。ビープ音が次第に大きくなっていく。十代は耳に障ったらしく鬱陶しそうに顔を顰めて右手の指を弾いた。ボン、と煙が上がって音が止まり、しんとした静寂が帰ってくる。スピーカーが破壊されたらしい。
「時間、あんまりないみたいだな。手短な説明で済まないが、君に一つ頼みがある。――俺達に関わるのを止めるんだ。君はこの仕事に向いてない。君が俺達をどうにか解放しようとしてくれたことには感謝してるけど、俺達はまだここを出るつもりはない。俺達がここにいた方が子供達は安全なんだ。保証が取れない限りは。そういうわけだから俺達よりも可能性のある君が自由になるべきだと二人で決めた。頭がはっきりしてきてすぐに」
 出るつもりはない、という言葉が私を揺さ振った。酷く衝撃的な否定の言葉だった。
「……博士! でも、でもそんなのは偽善です……こんな地獄のようなところになんで、なんで……なんで……」
 上手い具合に言葉が見付からず、声が尻窄みに小さくなっていく。日本語を使っているからだとかそういう理由ではない。今の私の感情はどんな言語を用いたとしても言葉という記号では表せないんじゃないかと思った。この状況で、自分達ではなく機関側の人間である私をこの場所から解放しようとするこの二人の偽善者が考えていることがどうしても理解出来ない。
 二人が何故あんなにも穏やかな表情で私を見ているのかがわからない。私が加害者であることを自らの意志で断ち切れなかった時と同じ気持ちだった。
「優しさは美徳だが、素直さは更なる美徳だぜ。勿論愚鈍に鵜呑みにするのは頂けないが。……ハネクリボーが来ないんだ。だからまだ駄目なんだよな」
 自分の身体がどう弄ばれても子供達が無事なのならいくらでも我慢出来る。それから、君が笑ってくれれば言うことなしなんだけど。遊城十代は嘯く。彼女は恐らく強情に理不尽を糾弾しているであろう私の表情に苦笑した。困ったなあとまるで何も困ってなさそうな声を漏らしさえする。
「だから、言っただろ? 君が気に病むことなんか一つもないんだ。そんな顔するなよ。俺もヨハンも大丈夫だからさ。……あのな、じゃ、例え話をしよう。ヨハン」
「はいはい。ポンペイあたりがいい?」
「なんだっていいよ。……そう、理由はなんだっていいんだけど、たとえば火山灰が降り積もるなりなんなりして、ある時急に世界が終わるって時が訪れる。平等で無慈悲な死が俺達を襲うとする。満遍なく俺達がそれまで信じていた現世に終焉がもたらされる。その時俺とヨハンが一体どういうふうなことを考えるかっていうとな……」
 細く長い人さし指が内緒の話をする時のように十代の唇にそっと添えられ、離してから十代は夢みる少女のような声音で謳い出した。
「もしも、いつか世界が終わっても」
 十代の指が滑らかに動いてヨハンの髪を梳く。慈母のような表情で目を細め、愛おしげに撫でている。十代が目を瞑ると、白くて清潔な病人着を突き破って例の翼が現出した。巨大な悪魔の翼。あの、美しく鋭い精霊の翼だ。
 翼を揺らめかせながら十代の謳うような声は続く。私は黙って、いや呆然として、二人の前で立ち尽くしていた。
「ヨハンのいる世界が俺の永遠。ヨハンの隣が俺の世界。この身が滅びようと、存在を滅されようと、俺はずっと永却にヨハンのそばにいる。だから」
「……ああ。そうだな……」
 視線を投げ掛けられたヨハンはにこりと十代に微笑み返し、彼女の指に自らの指を絡めた。彼の背からも、病人着を突き破って翼が大きくはためき、その存在を誇示した。純白の天使の翼。誇り高い精霊に属する証。
「二人が共に在るのならばそれでも世界は美しい」
 十代の目とヨハンの目が同調するように発光する。二人を三年近くも観察してきたにも関わらず、それはまだ一度も見たことのない現象だった。天使と悪魔が共に何かに祈りを捧げている、そういう絵面だ。神々しいとさえ思う。
 汚濁したテストチューブの世界を、それでも美しいと断じるいきものがとても高潔だと思った。
「だからもういいんだよ、『おねーさん』」
 ヨハンが私に振り向いてそう言う。十代と二人で唇の動きを揃えて「ありがとう」というふうに形作る。凍り付いてしまった体はちっとも動かないし、脳味噌も駄目だ。クロック数を出来る限り引き落としたみたいにもたついて、思考がまとまらない。
 派手な音を立てて部屋中のガラスやプラスチックが爆散した。無数に設置された監視カメラが全て吹き飛んで使い物にならなくなる。天窓に填められた硝子が割れて落下する。玩具のブロックがばらばらになる。
 二人の「精霊」がどういうふうに恐ろしい存在であったのか、その気になればこんなことは造作もないことだったのか、そういった考えがとりとめなく右から左に流れていった。彼らを鳥籠に閉じ込めてインコのように飼育観察しようと言い出した誰かの気が知れない。圧倒的な上位種を無粋な暴力でどうにかしようというこの愚劣さ。
 しかしそれでも、機関はまだこの二人をどうにかして再捕縛しようとするのだろうなと朦朧としていく意識の中で考える。部屋中に段々と充満していく催眠ガスの匂い、これは恐らく対精霊用に調合された強化薬物だ。
 目を閉じて意識を手放す直前に、二体のとても巨大な龍を幻視した。一体が四つの首を備え、巨大な体躯で辺りを威嚇する悪魔の龍で、もう一体が美しい白く長い体躯に虹色の宝玉を埋め込み黄金と純白の翼を携える天使の龍だ。
 精霊の名前を知りたいという願いを抱く。しかしきっとその機会は訪れないだろう、そういう予感がある。
 私は沈み込んでいくような深い昏睡に陥った。



◇◆◇◆◇



 目覚めは小さな精霊の小さな両翼によってもたらされた。意識が曖昧で判然としない。ベッドの白、天井の白、病人着の白、肌の不健康な白。そこまで見回してから腕に点滴のチューブが繋がっていることに気が付いた。点滴の中身は白ではなく、オレンジだった。
 私が目を開いたことを確認した精霊がほっとしたように翼を引っ込める。茶色い毛玉のような胴体に小さな緑色のずんぐりした手足がぶら下がっているその精霊は大きな瞳をぱちぱちさせて私をじっと見た。
「……何?」
『くりぃ』
「ごめんなさい、わからないわ」
 病室を見渡す。機関の医務室の一角らしいその部屋は殺風景だったが、壁にデジタル時計が埋め込まれていて日付と時刻を確認することが出来た。それを視界に入れてからあまりはっきりしない記憶を手繰り寄せる。記憶はどこで終わっていただろうか。確か、二人が確たる言葉で喋り出して……
「ああ……」
 私は言葉を呑み込んだ。最後に記録した日付からまる一ヶ月が経過している。茶色い精霊が『くりくり?』と心配そうに私を覗き込んで来た。ありとあらゆる理解が私に訪れて唇を強く噛む。
「あの人達はどこに……?」
 いつか、世界が終わっても。
 それでも世界は美しいと。
『くりー……』
 あの日そう言った二人はどこにいるのだろう?


「二人は試験管の中にいますにゃ」
 気ままな猫のように唐突にふらりと現れたその人はデッキ・ケースを二つ手に持っていた。私はベッドに横たわっている身体を起こして精霊を手招きする。骨が擦れてごりごりと嫌な音を立てた。筋肉も随分と凝り固まって強張っている。体中が軋んで悲鳴をあげていた。一月も眠っていたのだ。
 デッキを手のひらに一つずつ抱えたその人物、ドクターの方に精霊がふわふわと寄っていってクリクリと何事かを伝える。彼はふんふんと頷きデッキを私に放って寄越した。掛け布団の上にぽすんぽすんとデッキが落ちる。
「地下九ブロックの最深部です。……君は随分と長いこと寝込んでいました。君のセクションの方から正式にプロジェクト移動の通達書も来ています。移動理由はそもそもの職務の消失、というふうに記載されていますにゃ。まあ確かにそれも嘘ではないでしょう」
 デッキに震える腕を伸ばして掴み寄せ、手に取り蓋を開ける。デッキトップに現れたのは効果モンスターの茶色いカードだった。「ハネクリボー」、レベル一天使族光属性。今空中を漂っている精霊と同じモンスターがイラストに描かれている。
 更にデッキを捲ると、「E・HEROネオス」「ミラクル・フュージョン」「N・アクアドルフィン」「コクーン・パーティ」「摩天楼‐スカイスクレイパー」などといったカードが次々と現れた。ヒーロー・カテゴリのカード達だ。
 もう一つのデッキを手に取って同じように開けると今度は「宝玉獣ルビー・カーバンクル」「宝玉の解放」「虹の引力」「宝玉獣サファイア・ペガサス」「虹の古代都市‐レインボー・ルイン」といったカードが目に入る。宝玉獣カテゴリ、アンデルセン博士のものだろう。
「これを、私にどうにかしろと?」
「強制ではないですにゃ。君がどうしたいかです。先生は十代君とヨハン君の幸福を願ってここにいますが、二人が自らの理性と意志でここに留まることを選んだのならば強引に連れ出そうとは思いません。ただ、それでも君が二人を解放したいと望むのならばこのデッキを持っていってください。――どうしますかにゃ?」
「誘導尋問ですね」
「さあ、どうでしょう」
 はぐらかすように言う。人の悪い手段だ。私が納得をしていないことをわかっていてなおそういうふうに問うてくるのだ。
 デッキを二つ綺麗に整えてしまい込み、手持ち無沙汰そうに浮かんでいるハネクリボーの方を見遣る。確かあの時十代は「ハネクリボーが来ない」「だから駄目だ」と言っていたはずだ。この精霊が伝令か何かの役割を負っていたのだろう。
「ハネクリボーがどういう役目を持っているのかドクターはご存知ですか」
「残念ながら。単独行動を取っていたということがそもそも初耳ですし」
『くりー』
「……やっぱり何を言っているのかわからないわ」
『くりくりぃ……』
 気落ちして目に見えてしょんぼりとするハネクリボーによしよしをするように手のひらを振る動作をしてやってベッドから立ち上がろうとする。体が鉛のように重たい。細胞の一つ一つが私をベッドに押し戻そうとしているかのようにずしりと重みを含んで反逆をする。それでも私は無理矢理に立ち上がった。立ち上がって前に進んで、そうしてあの二人にやってやりたいことがあるのだ。
 二人を包む殻を思い切り叩き割ってやりたいのだ。
「ドクター、私は行きます。どうしても二人に会いたいから」
「体がふらふらですにゃ?」
「些細なことでしかないですよ。この体を引きずって這ってでも私は行くでしょう。納得なんて何一つ出来てないんです。あの二人の偽善がどうしても許容出来ないんです。世界は無条件に美しいのだって断じたあの人達が私より不幸で惨めな境遇に置かれなければいけないということがどうしても私にはわからない。だから私は二人を包み込む作り物の世界を、境界線を粉々に破壊してしまいたいとそう思って」
「……それはたまげましたにゃ。君は実は、十代君みたいな無茶を言う人だったんですにゃ? ……ですが、そうですね、先生はそういう無茶苦茶も清々しくて好きですよ」
 じゃ、先生は裏方の地味なお仕事に徹しますにゃあ、そう言って意気揚々とドクターは私の体を医務室の出口の方に押していく。始めからそうさせるつもりでそうするつもりだったのだろう。だが言及は止めた。乗ってやるのも一興ではある。

 施設内の内部構造は大方頭に入れたつもりでいたが、第九ブロックというのはいわゆる「機密特区」に相当する原則立ち入り禁止区域のことで、更にその最深部ともなると順路などまるでさっぱりわからず体調が優れないこともあってよたよたともたつくように歩く羽目になった。幸いというべきかそれともドクターが工作をしたおかげというべきか、道中誰か人に会うこともなく私は歩を進めていく。あまりにもアクシデントがないものだから、途中からがらんどうの箱の中をひた走っているような気分にすらなってくる。本当に一切何も、阻むものがない。
 「サンプル」が押し込められた倉庫やらがただ単調に続く第九ブロックは普遍生活フロアの第一〜第四フロアの総合面積に比べれば遥かに狭い造りになっているはずなのだが、変わらない景観が途切れることなく続いているせいでいやに広い空間に感じらる。画一的なドアが並び立つ様は同じ景観パターンを延々とコピー・ペーストして製作された古い古い最初期のコンピュータゲームのようだ。それらの部屋の中には、やはり変わり映えのしない似たようなレイアウトで違法精霊密猟者御用達の精霊を閉じ込めるカプセルや瓶、試験管、そういった容れ物に入れて蓋をされた精霊がいくつもの部屋に「展示」されている。
 悪趣味な展覧会だ。それらの行為は私達研究員の知的好奇心を満たすためだけに利用され弄ばれそして最後には手に負えなくなるか用済みとなって棄てられたものの末路でもあった。まさにエゴイズムと言うに相応しいものだと思う。
 知的好奇心、などというと聞こえは良いが実際のところそれは単なる汚い欲望でしかない。欲を満たすために道具のように扱う。物以下としてこき使う。そうして強大な能力を秘める精霊という種族を支配したような気分になって、神にでもなったつもりなのだ。
 そんなことを自虐的に考えている内に、ドクターの言っていたと覚しき場所に私は辿り着いた。物々しい電子ロックの数々は私が指を触れるといとも簡単に道を開けた。

 部屋の中は他の倉庫や展示室と違い広々としていて殺風景で、無機質だった。銀色に鈍く光る機械類が部屋の四方に設置されそこから無数のチューブやコードが部屋の中央に存在するそれに向かって伸びている。もう私は声を上げるようなことはしなかった。薄暗いプラントのような室内に鎮座しているものは衝撃的でないと言えば嘘になるがそれでも予想はついていたことだ。
 アクアプランツ、という単語が不謹慎にも脳裏を掠める。水槽の中で育成栽培される観葉植物。それになんとなく似ていると思う。じっと動かずに瞼を閉じている二つは、そういうふうな美しさをたたえている。
「始めの男『アダム』と始めの女『リリス』、その標本詰め。標本の中の蝶のような……そんなことを、閉じ込めた人間は思ったのかしら」
『くりー……』
「私はただ、こんなのは間違ってるってそう思う」
 直径一.五メートル程の円筒のガラス・ケースの中に二人は納められていた。分厚い硝子の水槽の中、オレンジ色の狭っ苦しいデュエル・エナジーの海の中で彼らは全身をチューブに繋がれホルマリン漬けにされた生き物のように眠っている。ごぽごぽと零れる気泡から呼吸をして生きているのだろうということは理解出来たが、だが絵面としてはそれは完璧な停滞を示していた。死んでいるみたいなそういう美しさだ。
 そしてそんな状態に置かれてもなお、彼らはお互いの背から生えた翼を、腕を、足を、体全てを抱き合わせて幸福そうに微笑んでいるのだった。恍惚としているようにすら思えるそれは狂気の産物でもある。愛し合うつがいを小さな世界に封じ込めて陽の当たらない地下室に安置する。祟りを恐れてひっそりと祀られている厄神のようだ。
 事実二人の持つ精霊としての異能は人間からしてみれば神のようであった。神々しい姿で神の如き能力を振るうその姿は、最早神そのものと定義してしまってもなんらおかしくないものだ。あの強大な二体の龍が神の名を冠するカードなのかもしれない。神のカードと言えば普通は伝説の「オシリスの天空竜」「オベリスクの巨神兵」「ラーの翼神竜」を指し示すが、それら神に迫る性能を持つレベル十以上のモンスターが世の中に存在しないわけではない。
「聞こえますか、アンデルセン博士。それから、十代さん。ハネクリボーが一体何を伝えたいのか私にはわからないんです。だから……」
 眠り続ける原初の男女は答えない。緩く閉じられた瞼は開く兆しを見せない。何も纏わない全くの裸の姿で、母親の子宮に宿る双生児のように試験管の中で生きる二つに私は曖昧な視線を投げ掛けて制御用のコンソールに手を掛けた。プログラムに入っていって適当に弄り、構築をやり直すべくキーを叩く。専門分野ではないがそこそこは得意な部類だ。間もなくつがいの実験動物を眠るように生かし続けるプログラムの制御が私の随意に行えるようになった。
「私はこの試験管を、あなた達を縛る足枷を破壊します。何と言われようとも」
 エンターキーを、一際強く押し叩く。
 雌雄のモルモットを縛る硝子が爆散して部屋中に散乱する。どろりとしたデュエル・エナジー溶水が割れた硝子の隙間から零れ出してあっという間に床をオレンジに染め上げた。生温かい。それこそ母親の胎内に満たされた羊水のように、命を守る温もりをどろどろした水が持っている。生命のスープという表現を思い出したが誰が提唱した呼称なのかが出てこない。
 チューブに繋がれた肢体が外界の空気に晒されたことで体躯の痩せ細ったさまが露になる。気泡の規則正しい上昇が消え失せて呼吸音が代わりに鼓膜を薄く刺激する。
 遊城十代とヨハン・アンデルセン、深く互いを愛し合っている夫婦に私は何と言葉を掛けるべきかやや躊躇い、それからなんてことのないごく当たり前の挨拶を選択した。日本人が好んで用いる言葉で私は二人の目覚めを促す。
「おはようございます」
 そして実験動物の白痴のつがい、「アダム」と「リリス」に私はこっそりと別れを告げた。そんな名前も居場所も、もう世界の誰にも必要とされていない。
 十代とヨハンがゆっくりとその重たい瞼を持ち上げる。どんな顔をしているのかわからない自らの面を私は二人に向けた。今私は上手に笑えているだろうか。それとも不細工に顔を腫らしているだろうか。でもそんなことはどちらでもいいのだ。泣いていても笑っていても構いやしない。
 だって今、ガラス・ケースの世界は崩壊してなくなったのだから。零れたミルクは盆に戻らないし覆水も盆に返らない。同様に砕け散った硝子ももう二度と元には戻らないのだ。
 二度と同じことを繰り返してはいけないのだ。
 ハッキングし損ねていた回路が生きていたのか、一ヶ月前にも聞いた警報のビープ音が第九ブロックから鳴り出し、あっという間に施設全体に伝播していく。地に足を付けて直立の態勢を取った十代は気怠い仕草でオレンジの溶液に濡れた髪を邪魔っけに掻きあげ、スピーカーの方向を睨む。すぐにビープ音が止んで静かになった。相変わらずこの人は何でもありだ。
 それからくるりと私の方に振り返り、その美しい肢体を剥き出しにしたまま悪戯を思い付いたような顔をする。私は目の遣り場に困って視線を反らしそうになったがそれを許される雰囲気ではなく、已むなく顔を凝視することとなってしまった。
「ああ、おはようだ、『おねーさん』。……結局逃げなかったんだな。強情というか意地っ張りというか……好奇者というか」
「残念なことにうちの部署の人間って大抵が頑固者なんだ。そのせいで意見が行き違って俺の元から去っていく奴がいたり……ま、そういうことだろ」
 アンデルセン夫妻は子供みたいに笑う。子供じみたうすら寒いものではなく、ただ純粋に楽しくて仕方ないといった様子だ。あの異質な空気はなかった。そのことに安堵する。
 ハネクリボーが十代の肩を突いた。いつの間にかその隣に紫色のリスのような精霊が揃って浮かんでいる。デッキの中にあったルビー・カーバンクルだろう。
『くりくり!』
「ハネクリボー、子供達はもう大丈夫なんだな?」
『くりっ!』
「そっか、遊星が。エンシェントももう自由なんだな。……なら、大丈夫か」
「となると、足枷はなくなったってことだな。彼女が来たのはそういうタイミングだからか。なるほどね」
『るびー』
『くりぃ』
 二人と二匹がうんうんと頷く仕草を取って、それから目配せをし合ってにやりと不敵に笑む。絶対的強者の余裕と威圧だ。
 ひょっとしたら人類最強なんじゃないかというぐらいに強大無比な力を持っている二人がこの機関に囚われていたことにははっきりした理由があった。弱味を握られたからだ。二人には双子の子供がどういう目に遭ってもいいのか、という脅しがかかっていた。ネオドミノ、KC、それからI2という三つの後ろ盾をアンデルセン一家は持っていたがそれでも万全ではない。やはり不安と懸念は付いて回る。実際、件の《精霊暴走》事件の後の双子はとても危うい立場にあって、だからこそ二人は自分達を差し出しまでして子供を守ろうとした。
 その子供という足枷が今取り払われた。その事実が示す意味に気が付いて私は身震いする。
「デッキ持ってきてくれたの、サンキューな。やっぱこいつらがいないと始まらないや。頼むぜ俺のヒーロー達」
「俺の家族も、ありがとう。……だが取り敢えず十代、そこにある服を着よう。多少薄っぺらいし強度に難ありだがこれ以上このままでいるのは彼女に悪い」
「あー……そりゃそうだ」
 その辺に置かれていた病人着を引っ掴んで適当に着込み、十代は私に「気付かないで悪い」とばつが悪そうな顔をして見せた。それから同様に白い薄手の衣服を羽織った夫の手を取り、共に翼を広げ、我が物顔で足を踏み鳴らす。
「それじゃ、いっちょ派手に暴れてくるとしますか」
 遊城十代、その身に龍を宿すヒーローは高らかに宣告した。



◇◆◇◆◇



「『リリス』だ! 『アダム』と共謀して施設内の破壊工作に手を出してる。モニタリングの担当者を呼べ――奴らは規格外なんだ、わかっているのか?!」
「駄目です、第九ブロックの制御システムにエラー! 接続を拒絶されました。何者かがハッキングを試みたようです!」
「内部の離反者だ。さっさと逆探知をしろ!」
 本部は酷く騒々しく雑然としていて、ひいひい言う声や怒鳴り声、いかにも苛々していそうな癇癪などがひっきりなしに溢れ返っている。主任は鼻息を荒らげて自分の椅子に勢い良く座り込んだ。まったく馬鹿げている。昼間から一体何だと言うのだ。
 第九ブロックに侵入出来るような人間などそうそういない。となるとそもそも権限を上書きして抉開け、その上でアダムとリリスが入ったガラス・ケースをどうにかして割ったのだろう。なんという愚行か。あれ程貴重かつ重要なサンプルなど他には存在しないのだ。
 フロア全域を揺れが襲う。地鳴りに舌打ちした。ああまったく本当に度し難い。どこの阿呆が解放などしてしまったのだ。あれはセットの異常生命体で規格外かつ埒外の化け物だ。ヒトによく似た姿をしているが人ではない。半人半精の異端。ともすると手に余る異質。
 だから薬物投与までしてコントロール可能な年齢に精神を引き下げてやったのに、あろうことか耐性を付けて元通りに回復してみせた。仕方ないから呼吸をするだけの状態にして水槽に詰めた。それでも外へ出て、今度はここを破壊しようとしている。
「忌々しい偽善者めが」
 第一あのアンデルセンという男が気に入らないのだ。優男め、と毒づく。お綺麗なお顔と大層ご優秀な頭脳で、お美しい戯れ言を吐いていた「精霊研究学の第一人者」。自身が精霊なのだ、そんなもの詳しくて当たり前ではないか。
 本当に忌々しい。憎たらしい。そう思っていると警告のビープ音が大音量で鳴り響く。
「何をやっている!」
 苛立って叫ぶと、
「ちょっと憂さ晴らしを」
 部下の焦燥した声を塗り潰して部屋中のガラスが弾け飛ぶ音がした。そしてつい今しがた思い浮かべていた男が腹の立つ端正な顔を向けてきている。今まで見たことがない種類の高揚した顔は聡明な博士らしくもなく、彼はけらけらと笑っている。何が楽しいと言うのだろう。
 ヨハン・アンデルセン、アダムはくすくすと笑った。嘲笑しているように聞こえて余計に苛立った。
「君が誰だか思い出すのに少しかかった。そうか、君かあ。決して脳味噌は悪くないのに思想がカルト過ぎて勝手に出て行っちゃった君ね。この数年間、楽しかったかい?」
「今の気分は最悪だ。アンデルセン博士、いや『被験体アダム』」
「俺も最悪の気分さ。だが俺の妻はもっと機嫌が悪い。君、ヒーローを怒らせたことは流石に今までの生涯にないだろ。あれは本当に酷いもんだぜ、世界を救えるヒーロー、それだけは敵に回しちゃいけないと俺は心からそう思うよ。――御愁傷様、大ボケ野郎」
 ひらひらとわざとらしく手を振って背の羽を羽ばたかせアダムは宙空に戻っていく。その横からリリスがひょいと現れて空中で仁王立ちをして見せた。パフォーマンスのつもりなら帰って欲しい。
「で、そっか、あんたがおねーさんの陰険上司ね。なるほどそういう顔してるぜ、確かに。性格悪そうだなぁ……よし、『ネオス』!」
 リリスが格好を付けて指を鳴らすと三分で宇宙に帰ってしまう日本の実写に出てくる銀色の超人みたいな精霊が掛け声と共に出現する。アダムもそれに倣って精霊を一体呼び出した。非常に巨大な白い龍の精霊だ。七つの宝玉をその身に宿し、黄金と白亜二つの羽を誇示して咆哮する。雄叫びがびりびりと空気を震わせ、室内のまだ無事だった硝子を更に破損させた。
「魔法カード『融合』を発動。場の『E・HEROネオス』と『究極宝玉神レインボー・ドラゴン』を融合し『レインボー・ネオス』をここに呼び出す。――覚悟は出来たか? 俺は出来てるぜ。とくと味わえよ外道野郎、俺とヨハンの友愛の力を!」
 二つの精霊が突如として発生した渦の中に呑み込まれて新たな精霊に姿を変える。煌めく宝石にその身を包んだ巨人がそこに降誕した。まるで意味がわからない。アダムとリリスが一体何をしでかそうとしているのか理解が及ばない。アダムが圧倒的下等種を、例えば人が蟻を哀れむような表情をこちらに向けた。ぞわり、では済まないぐらいに酷い寒気がする。怖気がする。背中を恐怖という恐怖、畏怖という畏怖が駆け抜けて蹂躙していく。
「止めろ……」
「ん? なんだよ命乞い?」
 思わず後退る。本能的な欲求が喉元まで上ってきて、突っ掛かった。噎せ返ってしまいそうだ。このまま逃げてしまいたいと心底思う。
「そんな目で私を見るな……! 私を殺したら、誰に責任が……」
「知るかよ、そんなことは俺の管轄外だぜ。安心しろ殺したりしないから」
「そうそう。そんなことしても無駄だし。ただ昏睡するだけさ」
 俺も十代も「人間」が好きだから。人間によく似た化け物が親しげに言う。気色が悪い。どいつもこいつも馬鹿にして、ついこの間まで飼われていたくせに偉そうな真似をする。躊躇せずに襲って来たということは双子のオリジナルが今どういう状況に置かれているかという情報をどうにかして手に入れたのだろう。双子は今は人質として機能しないことを知っているのだろう。
 歯ぎしりをした。ともかく自分が助からないといことだけは理解する。そして、ならば、最後にありったけの悪意を込めてこのきちがい共を呪っておこうとそう思った。
「この、化け物ども……!」
「「レインボー・ネオス、レインボー・フレア・ストリーム!!」」
 夫婦二人がぴったりと声を揃えて精霊に攻撃命令を下す。そんな能力があるのなら白痴であうあう言っていた間に見せておけと言いたくなったが全て後の祭だ。研究はまだまだし足りないというのに、やりたい実験はまだあるというのに、そんなことを考えている内に視界がまばゆいばかりの七色に染まって、それから真っ白になった。ホワイトアウトして主任の意識が遠退いてゆく。
 警告アラームに加えて火災警報のけたたましいサイレンが施設全域に鳴り響いた。端から火の手が上がり、猛烈な勢いで勢力を伸ばしている模様だ。
「化け物扱いされるのは、慣れてる。別にもうどってことない。好奇の目で見られるのもいいよ。だからさ、おねーさん、そんな顔するなよ」
 やりたいことを全てやり切ったらしい十代が床に降り立って、「私」を寂しそうに見た。「私」は首を振る。
「私も加害者です」
「律儀だなぁ、もう。そういうの要らないって言ってんのに。一ヶ月前にも言ったじゃないか、素直さは美徳だぜって。こういう時は年長者の好意に素直に甘えておくもんだ。俺もヨハンも君のこと……いやそうだな、ここにいる大半の人間のこと、別にこれっぽっちも責めたりする気なんてないんだ」
「それにそこで突っ立っていられるような時間はもうあんまりない。面白がってフレイム・ウィングマンに放火を言い付けた奴がいるからな、他の所員みたいにさっさと逃げなきゃ君が死ぬぞ」
「私はそれで構いません」
「……思い込んだら一直線だな」
 腰に手を当てて、聞き分けのない子供を叱る母のように溜め息を吐いて十代が「私」の手を握る。ぐい、と引っ張られてよろめいた。そこをヨハンに抱え止められ、そのままふわりと体が浮上し出す。
 融合を解除して単体に戻ったらしい「ネオス」がヨハンから「私」を受け取り、抱えたまま一直線に空高く飛び上がった。十代とヨハンは自らの翼で浮遊・飛行をこなしている。ふいに眼下を見遣ると派手に炎上している施設が目に入った。人が蜘蛛の子を散らすようにそこから逃げ出していたが、どんどん高度が高くなっていってそれも視認出来なくなる。
「どういうことですか、これは……」
「んー? いや、さ。君の退社届けさ、四年だか五年前に貰った奴。あれまだ受理してないんだ。実は俺、こう見えても経営責任者の端くれなもんでその手の権限も持ってるんだよね」
「だってさ。それに俺もこの三年で体力が随分衰えちゃったから子供達に会えるようにリハビリとかしなきゃいけないと思うんだけど、やっぱそういうの俺とヨハンだけじゃ手が回らないし。丁度身の回りの世話を手伝ってくれるヘルパーさんが一人ぐらいは欲しいと思ってなー」
 そんなふうに夫婦揃って嘯く。まったくもって白々しい。「私」は何だかこみあげてきてしまって、泣きたくなった。この人達は、本当に偽悪者だ。
「そんなことを言われてどうやって断れと言うんですか。そういうのを『狡い』と言うんです」
「生憎もう百年ぐらい狡い大人をやってるからな。じゃ、交渉成立だ。それじゃおねーさん、君の名前、教えてくれないかな?」

 それから二年の歳月を費やして、アンデルセン夫妻はリハビリと違法研究機関《EX‐Gate》の後処理――平たく言えばあの手この手で社会的にも実質的にも組織を壊滅させたということだ――を行った。物理的にはもう殆ど再起不能なレベルまで追い込まれていたので後は持てる全ての権力を行使して書類から名前を消すだけだったらしい。
 安全が確保出来てから、十代は一度妊娠の検査を行ったが結果はバツだった。「もう一人ぐらい兄弟が出来たら龍亞も龍可も喜んでくれたかなあ」、と言いながら名残惜しそうに腹を見つめていたが、ヨハンに「もうしばらくそういうのは体力的に、きつい」と言われると頷いて検査キットを放り投げ、「それもそうかも」と笑っていた。
「WRGPの決勝凄かったな、色んな意味で。まあ遊星ならなんとか出来るって俺は信じてたぜ」
「パワー・ツールとエンシェント・フェアリーもデュエルに出たってことは龍亞と龍可も厄介事に関与してたんだな……チームのピットクルーやってるぐらいかと思ってたけど、あの子達もやっぱりトラブル吸引体質だったのか」
「だってチーム名が『ファイブドラゴンズ』だろ? 昔ヨハンが不動博士に作ってやったのも丁度五枚じゃんか。……いや一枚多いな。ブラック・フェザー・ドラゴンってのが……まあいいや。あのチームのユニフォームかわいかったから頼んだら着てくれないかな……」
 ワールド・ニュースを眺めながらそんなことをわいわい言い合う。子供達の方も一区切りが着いたと見て、二人は五年ぶりに電話を掛けようと考えているようだった。浮き足だってそわそわしているのが傍目にもよくわかる。
 そんな二人を見ていると思い出すものがある。機関にいた頃、二人に関して書き留めていた手記のことだ。あの場所に置き忘れてきてしまったあの手記の内容は、試験管の中で眠っているつがいを見付けたところで止まってしまっている。とはいえあんなもの、もう炎に呑まれて燃えてしまっているだろうから考えてもせんないことだ。
 そんな記録をこの先誰かが見る必要もないだろう。物好きで、その上二人から信頼を得た人物がどうしてもと望めばまた別かもしれないが。
 「私」はお茶を載せた盆を持って二人の方へ歩いていく。
「二人とも、電話をするのなら早くした方がいいと思いますよ。日本時間で今、午後七時をいくらかまわったところです。あまりずるずると引き延ばしにすると時機を逃してしまいますし……龍亞君と龍可ちゃんにも考える時間が必要でしょう」
「あー、ああ、そうだな……」
 十代は受話器をそろそろと取り、おぼつかない様子でダイヤルをする。数秒のコール待ちの後、スピーカーホンから少女の「もしもし」という声が聞こえてきた。心なしかあまり機嫌が良くなさそうだ。
「ああ、龍可、あのな……?」
 珍しく十代が萎縮している。ヨハンもだ。縮こまって、叱られるのを怖がる子供のようだと思った。そういう光景を見ることが出来るのも、あの日二人が強引に「私」を連れ出してくれたからだ。
 今なら、「それでも世界は美しい」と言った二人の気持ちがほんの少しだけわかるような気がした。清濁併せ持つ美しさが見えるように思う。
 ヨハンの手を握りながら十代は震える唇で娘の名前を呼ぶ。
「父さんと母さんと、一緒に暮らさないか……?」

 電話は、絶句の後向こう側から切られてしまった。
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