Beautiful World

26:リチュアル(10) 祈り

 ハミングが部屋中を満たしている。女性の美しいソプラノの歌声だ。十代は彼女の腕に抱かれている赤子をちらりと見遣って、心底羨ましいと言わんばかりの溜め息を吐いた。ハミングが止まる。
「なんだよ、止めちまうの。明日香の子守歌もうちょっと聞いてたかったのに」
「あなたがそんなふうに溜め息ばかりじゃあね。溜め息を吐くとその分だけ幸せが逃げるのよ。あなた、知らないの?」
「知ってる」
 投げやりに答える。明日香は「仕方のない人ね」と溜め息を今にも吐きそうな声で言ったが、自分が幸せが逃げるのだと講釈した手前か息を漏らすことはなかった。その代わりに眉を顰められる。その様子に十代は「お手上げ」のポーズを取って敗北の意を示した。
「明日香は相変わらずおっかねえよ」
「あら、私別に今までは怒っていなかったのだけども。あなたのその言葉を聞いたら何故か怒らなきゃいけないような気がしてきたわ」
「ゴメンナサイ。そういうつもりじゃなかったです」
「ならいいのだけど」
 そんな答えを返すと、十代は明日香があやしている赤子を指を咥えたもの欲しげな子供のような瞳で眺め見た。明日香に似た、明日香が生んだ子供。彼女は妊娠をし、そして無事に出産を終えた。それだけのことだとわかってはいても、どうしても羨まずにはいられない。
「いいなあ……赤ちゃん……」
「……仕方ないわ。あなたは……その、不可抗力だったじゃない。あなたもヨハンも悪くない。……なんて言えばいいのかしら、『次がある』とか『運が悪かった』って言うとどれも無責任で不謹慎ね」
「いや、いいんだ。実際運が悪かったわけだし。大徳寺先生はそもそも出産の成功確率はとんでもなく低いから気落ちしてもしょうがないって言ってたよ。次があるかはわからないけど」
「……ごめんなさいね」
「なんで明日香が謝ったりするんだよ。お前は何にも悪くないじゃないか。赤ちゃん、大事に育てろよ」
「ええ……」
 十代は今までに二度妊娠をしたが、二度とも生まれずに胎内で死なれてしまった。一度目は突然で、二度目は飛行機事故で母体が不安定になってしまったのが原因らしい。十代はヨハン共々奇跡の生還を果たした代償として、これから生まれるはずだった命を失ったのだ。
 命あっての物種とはいうが、それは十代に――母親とっては酷くショッキングな出来事だった。
「なあ、知ってるか明日香。流産の確率ってそんなに低くないんだ。全体の十パーセントは、産声を上げることなく死んでしまうんだって。その中には堕胎も含まれるから一概には言えないけど……だいたい十人に一人が望まれたのに両親に会うことなく死んでいくんだ。それってすごく悲しいことで、でもどうしようもないことだよな。母親にどうにか出来ることじゃねえもんな……」
「十代……。あなた、もう妊娠するのは嫌? 怖い?」
「ああ、そうだな。正直怖いよ。どうせ死んでしまうのなら、悲しむことになるのなら希望なんて要らないってそう思う。だから俺はもう子供が欲しいとはそんなに強く思わない。ヨハンには悪いけど、あいつは何も言わずにいいって言ってくれたから」
 ごめんな、嫌な話して。十代はからからと笑う。乾いた笑みは痛ましかった。十代が自らの子供をどんなにか欲しがっていたか明日香は知っている。自らの男としての性質を損なってでも宿した命を生み落とすことを願っていたぐらいにその存在を渇望していたことを知っている。だから余計に胸に刺さるように痛かった。この人が気丈に振る舞うのはいつも決まって酷く傷付いた時だ。
「夢、見たんだ。飛行機から落っこちてヨハンが息を吹き返した後泥のような眠りに落ちたその時に。神経すり減らしてへとへとで、でも安心しきってたから結構いい夢だった。家族の夢を見たよ。つっても、ずっと会ってない俺の両親じゃなくてまだ存在しない架空の家族の夢だ」
「どんなふうだったか覚えている?」
「ああ。……綺麗な庭のある家だった。そこに俺とヨハンが立ってて、子供が四人、俺達の前で何か言い合いをしてる。他愛のない雑談だったように思う。四人ともヨハンによく似てた。俺に似てたかは……客観的にはわかんないなあ。それで何か合意したらしい子供達が俺達の方にくるって向き直って、すごく可愛く笑うんだ。にこにこして『パパ』『ママ』って俺達のことを呼ぶんだ。それでああ幸せだなって思って、嬉しくて、そこで目が覚めた。目を開けたらそこには庭も家も子供もいなくて、それで夢だったんだなって気付いた」
「そう……」
「でも幸せな夢だった。ヨハンは目を覚ました俺に『随分唇を緩ませて笑ってたけど、そんなに楽しい夢だった?』って聞いてきたよ。きっと馬鹿みたいに嬉しそうな顔してたんだろうな……」
 そこまで言って十代は黙り込んでしまう。自らの下腹部を撫でて目を細めた。かつて命が宿って胎動していたそこには、しかし今は何もいない。そう思うと寂しくて切ないが、それでももう一度妊娠をしようという気持ちにはなれそうにもなかった。恐怖が全てに勝る。
 明日香はそんな十代の様子に自らも眉根を落としたが、すぐにいつも通りの表情になって十代の手を取る。十代は突然明日香の手が自らの腕を持ち上げたことに驚いて目を白黒させた。
「十代、今私が歌っていた子守歌を教えてあげるわ」
「え? 何でだよ」
「いつか必要になった時、教えてくれる人がいないかもしれないでしょ。あなたもヨハンもそういうのには無頓着というか、無関心であまり知らなそうだから。あのね、子守歌ってたくさんあるのよ。『ねんねんころりよ』で始まるのは江戸子守唄。他にもショパンやブラームスのものが有名ね。それで私が今歌っていたのがシューベルトのもの。あなたも名前は知っているでしょう?」
「ああ、うん……」
 明日香に押し切られる形になり、十代ははじめ戸惑っていたがやがて硬直を解いて明日香の歌声に耳を澄ませた。そして彼女に教えられた通りにたどたどしくだが、歌い出す。
「眠れ……眠れ……かわいいわが子……」
 明日香の子供は母の腕に抱かれ、すやすやと眠っている。その子供に生まれるかもしれない我が子を思って懸命に声を繋いだ。夢で見た四人の子供達の姿が目の前に浮かび、しかし過ってすぐに消えていく。
 幻を追って十代はどこにもいない彼の神に祈った。今は無理でも、いつの日か……あの夢のような、幸せな家族を持てる日が訪れますようにと。



◇◆◇◆◇



 二人の人間が人気のない共同墓地を訪れて、目的の墓の前で止まった。実家の墓参りと友人達の墓参りを兼ねて数十年ぶりに訪れた霊園はぞっとするぐらいの静寂に満ちている。色とりどりの花束を一つ手向けて十代は手を合わせた。
「明日香……なあ、元気か? お前っていつも、すごいよな。本当にお前の言う通りになったよ。俺がそれを必要に思った時には、俺にそんなものを教えてくれそうな旧知の奴らはもうみんないなくなってた。あの時お前に習っておいて良かったなって今になって思うよ」
 返事はない。だがそれでも十代は喋ることを止めない。昨日何を食べただとか、好きな番組が終わってしまった、そういう他愛のないことを墓前で喋り続けた。昔十代とヨハンが結婚する時に何だかんだ言いながらも祝福してくれた友人達は皆、何年か前に天寿を全うして先に逝ってしまっている。
 でもそれは仕方のないことだ。明日香も万丈目も、翔も剣山も、吹雪や藤原、カイザー、エド、顔馴染みは誰も彼も十代とヨハンよりも早く亡くなってしまったがそんなことは十代とヨハンが純粋な人間でなくなった時からずっと決まっていたことだ。精霊とその魂を一つにした二人は永の時を生きる存在になり、人の理を外れる。
 次々と召されていく友人達の死を見看るのは辛いことだったがヨハンがそばで支えてくれたから乗り越えることが出来た。
「赤ちゃん、生まれたんだ。双子の男女で、すごく元気だよ。やっぱりヨハンによく似てる。ヨハンは俺に似てるって言うけどどうかはわかんない。赤ちゃんって本当にかわいいな、俺もう、嬉しくてたまんなくてさ……」
 込み上げてくるものがあって、十代は手の甲で顔を拭った。拭っても拭っても、それは止まらない。
「明日香にも、明日香だけじゃない、吹雪さんやカイザーや翔や剣山やレイちゃん、エド、隼人、藤原、それから皆は知らないと思うけど不動とその奥さんにも見て貰いたかった。親のひいき目かもしれないけど本当にかわいいんだぜ。この前兄妹で揃って寝返りを打った。もう幾らかしたら言葉も覚えるんじゃないかな。仲良しでいつも二人で寄り添って寝てる。……明日香の子供も、ああいうふうに大きくなっていったのか……?」
 もう一度だけ顔を拭ってから黙って手を合わせ、十代は立ち上がった。ヨハンが十代を待っている。墓に手を振って十代は友に背を向けた。
「ヨハン、行こう。いつまでも愚痴垂れみたいなことしてたら明日香に怒られちまう。彼女は今眠ってる。寝てる明日香って、起こされるとちょっと不機嫌なんだ。……遊戯さんのとこにも行きたいし、黙する死者には花むけ、そして黙祷と祈り、本来はこれで十分だもんな」
「素直じゃないなあ、まったく。……またな、明日香。今度は俺も何か話しに来るよ」
 赤く腫れた目の周りを見て苦笑いし、ヨハンも手を振った。答える声はやはりないけれど、誰かが手を振り返してくれているような気がした。


『お帰り。二人とも今仲良く遊んでるよ。どうだった?』
「行ってみたら、世間話ばっかり口を突いて出てきてさ。向こうの明日香には笑われたか、もしかしたら変な顔されたかもしんねー。ずっと避けてたけど案外行ってみたらこんなもんだ。……ただ、明日香はもう答えてくれないんだなってそれだけを思った。明日香だけじゃない。そりゃあ当然のことなんだけどさ」
「しょうがない。その分俺達はたくさんの想いに囲まれて生きてるんだ。それは幸福なことじゃないかな」
「そうだな。うん」
 留守の間双子の面倒を見てくれていたカード・エクスクルーダー、それからカードフリッパー、アメジスト・キャットにありがとうを言って十代とヨハンは子供を一人ずつ抱き上げる。龍亞も龍可もきゃっきゃと無邪気にはしゃいだ。出産の時は結構危なかったらしいのだが(十代本人は痛いやら何やらでとてもそんなことを気にかけている余裕はなかった)、生まれた子供達は五体満足の健康体でとくにこれといった異常は今のところ見られていない。
 生まれながらにして精霊と深い結び付きを持つ特異体質であることを除けば健常なごくありきたりの人間の子供だった。十代とヨハンはそのことに安堵している。
『幸せねえ。僕が十代と共にあることで幸福を享受出来ているようにこの子らも君達に囲まれて幸福を享受しているのだろうね。親に常に愛されている子供が不幸なわけないもの』
「それはよく知ってる。だから俺は明日香がそうであったように厳しくも優しい母親になりたいんだよなあ。完璧であろうとは思わないけどさ」
「そうそう。十代らしいのが一番いい。ところでご飯の時間は? まだ大丈夫か?」
「どうだろ。もうそろそろかな」
 時計と満足そうに親にしがみ付いている我が子を交互に見比べて十代が首を捻る。エクスクルーダーやアメジストがそちらに寄って行くのを確認してユベルはヨハンの方に寄った。ヨハンは意外そうな顔をするでもなくユベルに笑い掛ける。
「どうした? 珍しいな、俺の方に来るなんて」
『いや。ちょっとね。……それにしても子供には過不足のない愛情を、か。十代らしいし君らしいよ』
「お褒めいただいて光栄だよ」
『別に褒めたわけじゃない。勘違いしないでくれるかい? 責めてるわけでもないけど』
 ぷいっと唇を尖らせて背を向ける。姑か何かと化しているユベルは基本的にヨハンに対してきつい物言いをすることが多かったが、それでも近頃はヨハンのことを十代の夫として子供達の父として認めつつある傾向にあった。辛辣な言葉の中にも時々、心配してくれてるんだなあということがわかるようなものが含まれていて彼女は随分丸くなったと思う。
 しかしそう言うと彼女は途端に機嫌が悪くなってしまうのであくまでも思うに留める。
 ユベルは含みのある視線でヨハンを見たが、不意に何か思い出したというふうに手を叩いた。
『君にいつか言ってやろうと思っていたことがあったんだよ』
「睨むなよー、おっかないなあ。それで、何だ?」
『気に入らない態度だねまったく。……大分昔の話だけどね、唐突に思い出した。君に妊娠させられた後、十代は怖いと言っていたんだ』
「へえ……?」
『君に会うのがだ。母になる、つまり女になって親友の君にそういうふうに向き合うってことを十代は酷く怖がっていた。君との関係が瓦解したり形を変えてしまう可能性を恐れていた。……ただそれでも子供を堕ろそうとは一言も言わなかった。猛烈に怒っていた僕に向かって十代は信じられないことに、『ヨハンの子供なら尚更そんなわけにはいかない』って言ったのさ。……君と出会ったその日から十代は変わらない愛情を君に向けているんだって言う。友愛や親愛、そういった感情をだ。『俺はヨハンのことあいしてるから』って馬鹿に幸せそうな顔で言う。知ってた? そのこと。君がどれだけ十代にとって大事に思われているか……』
 ユベルは真摯な瞳でヨハンを見つめる。いつもの不機嫌な睨み顔とかじゃなく、純粋にこちらを窺っていた。ヨハンはきょとんとして一瞬言葉を失ってしまう。
『十代は大勢に愛されていた。学友や教師、それから旅で会った奴ら、多くの人間が十代に好意的な態度を持っていたし心配もしてた。それぐらいは気付いてるだろ? そんな十代からの愛情を君は一身に受けているんだ。殆ど一人占めしていたと言ってもいい。だから君は、最後まで十代を愛していなきゃいけない。太陽を腕に抱き続けていなきゃいけない。もう心配ないとは思うけどね。心配してる奴らが思いのほかいてさ』
「……ユベル?」
『夜になったらわかるよ』
 ユベルはそれだけ言うとふいっと体を背けて十代の方へ行ってしまった。名前を呼んでも聞き入れる様子がない。
「……なんだってんだ?」
 首を傾げた。本当に、いきなりどうしたっていうのだ。



◇◆◇◆◇



 パパ、ママ、と子供達が自分達を呼ぶ声がする。十代は振り返って子供達に手を振った。双子の息子と娘が走り寄って来る。
 双子は随分と背丈が大きく、十幾つかそこらの年頃に見えた。何か見付けたようで目をきらきらと輝かせている。
「こいつらが十代の子供か。確かにヨハンのような目をしているな。無駄に煌めいているところなど瓜二つだ」
「万丈目君、アニキの子供に無駄って何さ。僕もヨハンの方の無駄って台詞には全力で同意するけどね。ていうかまだフリル着てるんだね。もう死ぬまでフリル野郎なの? アニキの概ね全てを肯定する僕でもそいつを選んだそのセンスだけは理解し難いよ」
 万丈目の台詞に続けて翔が露骨な溜め息を吐く。翔の毒舌はもう恒例行事というか日常茶飯事というか、むしろないとそわそわしてくる程馴染んだものなので誰も気にした様子はない。散々に言われているヨハンでさえもだ。とはいえヨハンは昔から彼の毒舌を「いやあ、それほどでも」で流していたので単に図太いだけなのかもしれない。この男がジャイアニズムの気を備えているのもまた周知の事実だった。
 子供達は後ろに二体のドラゴンモンスターを連れていて、興奮した面もちで腕の中に小さな何かを抱えていた。明日香がそれに気が付いてあら、と声を出す。
「龍亞君、龍可ちゃん、何を持っているの?」
「綺麗な花が咲いてる庭があってね、二人で見てたらその家の人が種を鉢植えに埋めて分けてくれたんだ。ねえママ、うちの庭で育てられないかな?」
「このまま鉢植えで育ててもいいんだけど、うちの花壇に埋め直すことって出来ないかしら」
「どうかな。ものによるけどまあ大丈夫じゃないか?」
「やった! じゃ、後で手伝ってね!」
 双子は嬉しそうにはしゃいでいる。その様子に吹雪が微笑んだ。人の色恋沙汰に首を突っ込むのが好きだというはた迷惑な趣味を持っている彼は、意外にも子供好きという一面も持ち併せているのだ。自分の甥に当たる子供が生まれた時も彼はとても喜んで度々自ら面倒を見たいと明日香に申し出ていた。なかなか面倒を見るのが上手く、大抵は兄の不養生だとか腑甲斐無さだとかに呆れたりしている明日香もその腕は認めていて「もういっそ保育士にでもなったらいいんじゃないかしら」と言っていたことがある。
 吹雪の隣でカイザー、丸藤亮も珍しく柔和な表情を見せている。孫の顔を見て喜ぶ祖父のような印象の表情だ。藤原が「亮、その顔じじくさいよ」と突っ込みを入れると「そうか……?」と小さくリアクションを取った。
「二人ともアニキに似ていい子だね。素直だし元気だし。あ、今アカデミアに通ってるんだっけ。デュエル、好き?」
「うん! 負けちゃうことも結構あるけどね。龍可なんて凄いんだよ、この前も先生に戦術を褒められててさ。俺、龍可が褒められてるとなんだか自分のことみたいに嬉しくなるんだ。龍可は俺の自慢の妹なんだよ」
「龍亞は怒られてばっかりだけどね。この前も宿題忘れたでしょ? 龍亞が怒られると何だか私も怒られてるみたいな気分になっちゃうんだから、気を付けてよね」
「なんだ、そのぐらい。母さんなんか宿題忘れどころか居眠りばっかりで筆記も散々だったから在学中はクロノス先生にすっげえ目ぇ付けられてたんだぞ」
「アニキ、それは自慢気に言うところじゃないでしょ……」
 翔が苦笑いをして十代のフォローに入った。龍亞と龍可は首を傾げて「それ本当?」と尋ねてくる。十代が口籠もってしまうとその代わりにヨハンや明日香、万丈目らが口を揃えて「間違いなく本当」と答える。彼らは十代の同級生だからその手の事情に一番明るいのだ。
「あまりに酷いもんで付いたあだ名が『ドロップアウト・ボーイ』。母さんの筆記の酷さだけは折紙付きさ。何せ日本語現代文のテストが留学生の父さんよりよっぽど酷いんだからな」
「ヨハン、あなたはアークティック首席なんだから比べるのも酷じゃないかしら。でもそうね、確かに十代は試験シーズンが終わるといつも追試のペーパーやレポートに追われていたわね。クロノス先生もなんだか途中から楽しそうに十代の監督をしていたことを覚えているわ」
「だけどデュエルだけは負けなしで滅茶苦茶に強いんだよね。オシリス・レッドなのにブルーの上級生もこてんぱてんにのしちゃってさ。あのお兄さんとの卒業デュエルで引き分けに持っていった時はびっくりしたもん」
「俺はそれぞれの攻撃力に目を丸くしたがな。それぞれ三万と二万を上回っていただろう」
「あれ、君……」
 腕組みをして話に乗ってきた男をじっと見て、翔は「君誰?」という表情を露骨にした。そのまましばらくの間考え込んでうんうん唸っている。男は妙な表情をしていたが、これも恒例行事の一つなのでじっと耐え忍んでいた。双子は何故かとても不憫な気持ちになって顔を見合わせる。
 ややあってからようやく翔は手を叩いて「あー、君か」と言った。
「なんだ三沢君か。いたの?」
「最初から、いた!」
「ふーん。君って正直いてもいなくてもよくわかんないっていうか、変わんないよね」
「うわ、すごい言われ方……」
 龍亞が引き目で三沢と呼ばれた男を見る。この場合悪いのは明らかに翔なのだが、何故か三沢の方を見てしまった。泣きたそうな顔をしている。すごく同情したくなる顔だ。
「まあまあ翔、三沢のことはそのへんで置いといてさ。今から種を植えに行くから皆もうちの花壇見てくれよ。庭が広いから結構いろんなふうに花壇作ってるんだ。綺麗だぜ」
「ああ。十代に迫る美しさだ」
「相変わらず恥ずかし気もなく言ってのけるな貴様は……」
「サンダー、それは俺に取っては褒め言葉だぜ」
「ん〜、ジョイン! 愛だねえ。胸キュンポイントを十ポイント一気に進呈しよう!」
「吹雪、明日香ちゃんが怖い目で見てるよ」
「優介。いつものことだ。こいつのこういう習性は死んでも治らない、無駄だから止めておけ」
「亮ってさりげなく辛辣だよね……」
 まあそんなところも好きだけどね、と吹雪は肩を竦めた。賑やかないつもの光景だった。
「ねえ、十代。あなたの夢は叶った? 家族に囲まれたありふれた幸福は手に入った?」
 庭に続く窓を開けると明日香が突然そんなことを尋ねてくる。十代は不思議に思いながらも頷いた。窓が開け放たれてトップス最上階のよく手入れされた空中庭園が姿を現す。色とりどりの花が咲き、プールも備えられている。家族の憩いの庭は十代にとっての自慢の場所の一つだ。
「叶ったよ。子供達はかわいいし、ヨハンも優しいし、順風満帆で幸せ盛りだ。……どうしたんだ? そんなこと聞いて。俺が不幸そうに見えたのか?」
「昔な。だがそれを聞いて安心した」
「万丈目まで。俺ってそんなに心配されるようなことしたっけか?」
「無自覚なのがアニキらしいよね。うん、そういう能天気なところも僕はリスぺクトするよ」
「ええ、翔も? なんだよぉ、どうしちゃったんだよぉ……」
「いいのいいの。気にしないで十代君」
 とうとう吹雪までもがそんなことを言い出した。十代はわけがわからなくなって変な顔になる。ヨハンは「十代は自分のこととなると鈍いから」と言って笑う。何となく面白くなくて子供のように頬を膨らませると皆安堵したように微笑んだ。
「ちょっとね、皆であなたのことを心配してたのよ。でもよかった。家族を大事にね、十代。ヨハンも。私達はもう行くわ」
「アニキが大丈夫だってわかったからね」
「明日香? 翔?」
「フン……じゃあな。嫌でもそのうちまた会えるだろう」
「おい、万丈目……」
「ああ……ありがとう、皆。俺はずっと十代の隣にいるし子供達もいる。心配掛けて悪いな」
「十代が手が掛かったり危なっかしかったりするのは、もう随分前からわかっていたことだ。構わん」
「おい、ちょっと……」
 急に別れの言葉を連ねられて何が何だか、こんがらがってしまう。しかし十代が考えている間に次々と友の姿は遠くなっていく。ヨハンと、子供達だけがそばに残ってくれていた。気が付いた時には四人きりになってしまっている。十代は焦燥して叫んだ。名前を呼ぶ。だが声は返ってこない。
「皆どこへ行っちゃったんだよ――!」
 そこで意識が途切れた。はっとして目を開けると、右手は天井に向かって伸ばされ、何もない空をすかすかと握ろうとしている。汗だくだった。パジャマがぐったりとしている。
 ばくばくと心臓が鳴る。隣を見るとヨハンが寂しそうに笑っていて、十代と目が合うと抱き寄せてくれた。
「よは……」
「ああ。俺もだ。皆に会った」
「あれは、夢か……?」
「さあ、どうかな。俺はただの夢じゃないってそう思うけど。十代、左手開けてみてくれ」
「え……うん……」
 堅く握り締めていた左拳を言われるままにゆっくりと開く。手の中には小さな植物の種が何粒か握り締められていた。鉢植えの中の種だ、と直感的に思う。
 あの子供達が持っていた鉢植えの中の種に相違ない。
「十代は皆に愛されてるから。皆心配なんだな。今日はお盆で墓参りにも行ったから、案外本当に来てくれてたのかもしれない」
「ヨハンは随分冷静だし、あっさりしてんのな」
「ユベルが墓参りから帰って来た後俺に言ったんだよ。十代のことを心配してる奴らがいっぱいいるってさ」
 だからあんまり驚かなかったのかもしれない。にっこりと笑う。なんだか悔しくなってきて十代はヨハンの頬を軽く指で弾いてやった。勿論何も持っていない右手の方でだ。
「明日になったら花壇に種、埋めようか。きっと綺麗な花が咲くよ。色は赤じゃないかなあ」
「なんでそう思うんだよ?」
「だって、十代って言ったらやっぱり赤だろ。オシリス・レッドの遊城十代。赤がお前のトレードマークなんだよ。元気で、明るくて、情熱的で……すごく綺麗な色だ」
 やはり恥ずかし気もなくヨハンは十代に「綺麗」だと言う。十代は赤くなって、もぞもぞしながら「褒めたってなんも出ねえよ……」と零した。するとキスでもごもご言う口を塞がれる。抵抗するのも馬鹿らしくてそれに甘んじた。
 この温もりに包まれている瞬間が幸福だった。あの時、明日香に子守歌を教わりながら祈った「幸せな家族」、憧れていたものが今は確かに手の中にある。


 翌朝埋め直した種は、数ヶ月後に美しい見事な花をいくつも咲かせた。まだ赤ん坊の子供達もその花を気に入ったようでとても喜んでいる。
 花の色はやはり赤色だった。美しい、深い緋の色だ。
 燃えるような情熱の赤はかつてアカデミア島を駆け回っていた少年のジャケットの色によく似ていた。いくら歳月が流れようと変わらないものが、その中にあるようなそんな気がした。



(リチュアル*エンド)
「Beautiful World」‐Copyright (c)倉田翠.