28:ファミリア(12) まためぐる朝へ |
とっておきの、とっておきの、とっておきなんだぜ。「そこ」に初めて連れて来てくれた時と同じように、父が子供みたいに興奮を隠し切れていない声でそんなことを言った。母もそれに同調してレインボー・ドラゴン並のとっておきだなぁなんて言う。双子はおかしくなってしまって、「ママもパパもまるで子供みたい」と口に出す。四人の子供の声がぴたりと揃った。この二組の双子は、ここ一ヶ月で四つ子みたいにますますそっくりになってきている。 「もう一回来たかったの。この丘に……パパとママのとっておきの、とっておきの、とっておきの丘にね。何度見てもきれい。『ほんもの』って、こんなにも美しいものなのね」 ルカが自然に笑う。十代にあの陰気な印象を与える白い被り布を取り払われ、姉と同じように髪を結われた彼女は目の色を除けばもう龍可と寸分違わぬ顔付きをしている。家族に愛された普通の女の子だった。普通に泣いて、笑って、生きていた。まるで普通の人間であるかのように。 だけどそれでもルカが精霊寄りの存在であることは変わりようがないし余命も決して長くはならない。「限りなく精霊に近い人間」である龍亞と龍可に対してルアとルカは「限りなく人間に近い精霊」でしかないのだ。 二人の命はもう間もなく終わろうとしていた。そのことはルアとルカだけじゃなく龍亞も龍可も、十代もヨハンもわかっている。皆知っている。 「見たことのないたくさんのほんものに触れられてすごく楽しかった。お日様もお月様も、空も大地も、雲、川、海、山、森、虹、それから数えられないぐらいいっぱいの『ほんもの』はどれもこれも皆綺麗だった。美しかった。皆一生懸命に生きてた。……ねえ、パパ、わたしたちは『一生懸命』に生きられた?」 「勿論さ。ルカもルアもとても生き生きしてた。おやつの量で喧嘩したり、一緒にソファで寝落ちてしまったり、テレビを見ながらくだらない話をして日曜日はドライブとピクニックに行って、海馬ランドにも行ったし、アカデミアにもカレッジにも行ったな。職場にも行ったか。働いてる父さん、どうだった?」 「かっこよかったよ! 遊星も。すごく難しい話をしてたから半分ぐらいしかわかんなかったけど」 「俺なんて半分もわかんなかったよ」 「わたしたちはドクターに専門知識を習ってたから。お兄ちゃんだけじゃなくてお姉ちゃんもわからなかったでしょう?」 「そうね。まあ、龍亞は授業とか真面目に聞いてないのも理解出来なかった原因だと思うけど」 龍可が辛辣だが本当のことを言うと龍亞は赤くなって縮こまってしまった。ルアとルカは苦笑いをする。龍亞もルアも妹にはなんだかすごく弱いのだ。いつも勝てない。気が付くと言い負けている。 「やってみたかったこと、みーんな叶ったよ。一番欲しかったものも皆与えてくれた。パパとママ、お兄ちゃんとお姉ちゃん。僕がずっと欲しかった家族。温かくて優しくて、……嬉しかった。僕もめいっぱい家族のことを愛したよ。僕と龍可の愛は伝わった? 受け止めてくれた?」 「当然。ルアの気持ちもルカの気持ちも家族みんなの中にちゃんと息づいてる。家族の中にだ。ルア、ルカ、お前達はもう二人ぼっちなんかじゃないんだ」 「そうだね。僕、あの頃知らなかったんだ。ルカもね。硝子を破っても結局僕たちの世界はコンクリートの天井で蓋をされた地下室に過ぎなかった。どこを見てもつくりものしかないんだ。プラネタリウムの空は綺麗なだけのプログラムだったし、降ってくる水滴は雨じゃなくてシャワーだった。光は、太陽じゃなくてLEDの人口灯。そしてそこに住む僕たちもつくりもの……世界は矮小で、卑屈で、汚れてるって信じてた」 「わたしたちカエルだったのよ。井戸の底からだと地上が遠すぎてなんにも見えなかった。見えたのは暗くて重くて真っ暗な何か。でも、違ったのね。世界って本当はこんなに美しかったんだわ」 この丘から見る星や、庭の花のように。きらきら光る星空、咲き誇る真紅の花、家族の愛情、それがルアとルカにとっての今の世界を象徴するものだ。『Beautiful World』――うつくしい世界。「ほんもの」が集まって出来たまぶしい世界。そういうふうに言う子供達を十代とヨハンは思い切り抱き締めた。同じ体格のはずの龍亞と龍可よりも細く脆そうで、軽い。メレンゲみたいに軽かった。存在が薄れてきているのだ。 強く強く腕に抱くと、泡になって弾けてしまいそうだった。あと少しでこの世界から消えて失くなってしまうものが持つ軽さだ。遠い昔に海の底に沈んでいったヨハンも同じように軽くなって、ちっぽけになって、頼りなくなって……死にかけていた。 「ルア、ルカ、俺の子供達。生まれてきてくれてありがとう。パパとママを愛してくれてありがとう。俺とヨハンはいつだって、君達のことをあいしてる」 親愛のキスをしてやる。唇から漏れた薄い吐息が十代とヨハンの顔を掠める。 口紅なんかつけてないのに、唇は紫色に染まっていた。 「ルアとルカは、死んじゃうの?」 わかっていたことだけれど呟かずにはいられなかった。両親の態度が今際の、今生の別れを惜しむものなのだとやっと理解が追いついてくる。ルアとルカがいなくなる。元通りにいなくなってしまう。 試験管双生児は頷いてそれを肯定した。なんだか涙が止まらなかった。 「皆から見たら、そういうことになるわ。でもわたしね、死ぬのは怖くないの。死ぬってことは、もう大切な人に会えなくなるってこと。挨拶が出来なくなるってこと。手を繋げなくなるってこと。朝が、もう来ないってこと……でもね」 ルカは硬直している姉の手を取って幼児のように抱き着いた。ルアも何も言えずに考え込んでしまっている兄に抱き着く。瓜二つの同じ顔が至近距離で視線を交錯させる。ライトイエローとダークイエローがかっちりとかみ合って、お互いを直視する。 十代とヨハンは双子が何をするつもりなのかに勘付いて、だが黙って見守ることに徹する。精霊の精神構造を体感的に知っている十代と構造的に理解しているヨハンは、人間に対して強固な思いを抱いた精霊が一体どういう手段を取ることが出来るのかを熟知しているのだ。特別な強い絆を持つ精霊が執り行う手段であり、そしてかつて十代が、多少過程と結果が異なるが似通ったことをユベルと行った手段でもあった。限りなく精霊に近い彼らにはその手段を教えられずとも知る本能があったのだろう。 それは双方にとって幸福な選択肢となり得るが、一歩間違えると相手を縛る呪縛の鎖ともなりかねないものだ。だから普通は、対象はその事実を知らされずに一生を終える。だが双子はそうしない。 それが龍亞と龍可にとってのイニシエーションだから。 「わたしたち、ただ死ぬわけじゃないわ」 「あのね、僕と龍可は人間とは違うから、死んだ時に体は残らないんだ。その代わりに光になる。光になって、好きなところに溶けてく。僕たちは……お兄ちゃんとお姉ちゃんのところへ行くよ。二人の魂を守る光になるんだ……」 「……だから、わたしはお姉ちゃんと一緒に生きるわ。お姉ちゃんの中で、お姉ちゃんになってわたし生きるの。大好きな龍可お姉ちゃんのことをずっとそばで見てる」 ルカが姉の体に自らを埋める。とくんとくんと脈打つ姉の鼓動、生きている証を直に感じる。冷え切ったルカの体温を受け止めて包み込んでくれる姉が好きだ。隔てている皮膚を通り抜けて、循環する血液になってしまうのもいいかなと今なら思える。姉の中で震える命の礎となる。それは、大好きな姉になるということだ。 会ったこともないくせに憎悪していたあの頃もルアとルカは兄姉になりたいと思っていた。彼らに成り変わりたいという願望半分、そして彼らのようになりたいという希望半分。今はもう成り変わりたいとは思わないが、兄姉のようになりたいという気持ちはまだ持っている。 言葉を交わすことなく、兄弟と姉妹は抱き合っていた。随分と長くそうしていたような気がするが、もしかしたら大したことのない時間かもしれない。瞬間が永遠のように長かった。時の流れが酷く緩やかで、そして苦しいぐらいに優しかった。 頭上で明けの明星が輝いている。これも写真でしか見たことのなかったものだ。また一つ、「ほんもの」に触れることが出来た。それらの体験、記憶の数々が二人を少しでも人間に近付けてくれたような気がする。 人間になりたいと思っていた。でも今は、それが叶わないのなら光になりたい。粒子になりたい。愛する家族の住む「美しい世界」を構成するものでありたい。そう願っている。 夜明けが近い。夜の帳に覆われていた静寂の世界にまた新しい朝が巡ってこようとしている。二人の終わりも近付いている。もうすぐだ。もうすぐ、試験管から生まれた子供達は新しい存在になる。 「さようなら、お姉ちゃん。お兄ちゃん。パパ、ママ、ドクター。遊星お兄ちゃん、アキお姉ちゃん、わたしたちの世界にいてくれた人たち」 太陽が少しずつ姿を現し出すと、それに呼応するようにルアとルカの体が透明になり、どんどんと薄く透き通って朧になっていった。本当に光になって溶けていく。粒子になって存在が薄れていく。 さらさらした粒になって消えていく様は、砂場の城が崩れていくみたいに脆くて儚かった。さっきまで冷たくても確かに皮膚の弾力があったのに、そこに存在があったのに、消えてしまう。何千年も経ったミイラの中身みたいに崩壊していく。 ルアとルカが果敢無いものに変わっていく。ついには感触がなくなって幽霊みたいに薄っぺらくなってしまった。腕を伸ばすと当たり前に通り抜けた。もう冷たくさえない。何もない。 『あいしてるわ――わたしと龍亞に世界を教えてくれたわたしの世界で一番大切な人たち。家族を教えてくれた一番きれいな人たち』 「ルア……俺の弟、なあ、俺、こんなだけど、お前と一緒にお前の分まで生きるから……」 『ありがとう、おにいちゃん』 「ルカ、私の大切な妹。私もあなたと一緒に生きるわ。あなたの分まで生きるから、だから……」 『うん。おねえちゃん』 ルアとルカはとうめいな手と手を繋ぎ合わせて屈託なく笑った。当たり前に人間がするようにはにかんだ。 『わかってるわ』 『全部、知ってる』 かつて偽者で贋作で、コピーキャットでどうしようもなくデッドコピーの紛いものだった双子は、もう紛れもなく「ほんもの」だった。彼らが恐れ、しかし惹かれたものだった。唯一無二の存在だった。代わりなんかいない。ルアとルカはルアとルカでしかない。 『大好きよ、わたしたちの家族』 ルカが「おやすみ」の挨拶をするように、この一月繰り返してきたことをまた反復して、まるで明日はなんでもない朝が来るみたいな声で呟く。昨日みたいに。一昨日みたいに。ずっと昔みたいに――。 『またね』 そしてルアが遺言のように囁いた。 夜明けと共にまた新しい朝が巡ってくる。龍亞はベッドから上半身を起こし、寝ぼけている頭をなんとか覚醒させようとごしごし目を擦った。隣のベッドにはまだ龍可が眠っている。珍しく龍亞よりもお寝坊だ。 「……ねむ……」 デジタル時計が七時丁度を示している。今日は学校は休みだ。だから普段ならもうあと何時間かは眠りに就いているのだが今日ばかりはそうもいかない。すっぽかすのは後味が悪いし、何より龍亞自身がそんなことをしたら自分に納得出来なくなるだろう。今日は遊星が日本に帰る日なのだ。 「るかー、るーかー、朝だよ、起きて、起きてってば……」 パジャマのまま断続的に揺すっているとややあった後に龍可は薄く瞼を開けた。やはり眠たそうだ。しかし目を開けている間に今日の用事を思い出したのか瞼が開ききる頃には覚醒してくる。龍亞と違って龍可は目覚めがいい。羨ましいといつも思う。 「いけない。遊星行っちゃう」 「まだもうちょっとだけ余裕あるよ。でもうん、やっぱ急いだ方が良さそう」 子供部屋のドアががらりと開いて、心配そうな母がフライパンとお玉を持って現れる。子供達二人が起床済みであることを確認すると母はちょっとだけ残念そうな顔をして「ご飯ダイニングに出来てるから」と言い残して戻っていった。どうやらフライパンを叩いて子供を起こすというあのシチュエーションをやってみたかったらしい。 「すみません、わざわざ」 「子供達の時に君も来てくれただろ。それに元はと言えば俺達がリリーを通じて呼び出したのが原因で、滞在が長引いたのも俺達が引き留めたのが理由だ。謝るんならむしろ俺達の方だな」 「いえ。俺も、いろいろ……考えましたから」 遊星が下げた頭を元に戻してぼそぼそと言う。ヨハンは「そっか」、と軽く返事を返して彼の手に封筒を握らせた。 遊星が不思議そうに封筒を見る。 「せめてものお詫びの気持ち。開けてみてくれないか?」 「わかりました」 請われるままに封を破り、中身を取り出す。写真だった。八つ切りサイズで現像された写真が何枚か納められている。 家族の写真だ。 「……これ……」 「礼は俺じゃなくて十代にな。山のようなフィルムやデータの山と睨めっこしてそれだけ見付けてきた。気にいってくれるといいけど。どうだい」 「気にいるも何も、驚いて……」 「え? 何々遊星、その写真なんなの?」 龍可が「ちょっと」、と止めるのも聞かずに龍亞が興味津々に覗き込む。写真はありふれた家族写真だった。ただし家に山程しまってある双子や十代、ヨハンのものではない。 遊星とその両親のものだ。 一枚目の写真では不動博士が赤ん坊の遊星を抱いてそわそわした顔で写っている。遊星が今にも泣き出しそうだったのかもしれない。二枚目は、遊星を抱いた知らない女性と十代のツーショットだった。顔は知らないが、しかし感じるものがある。恐らく彼女は遊星の母親だ。 三枚目には遊星と父母が揃ってカメラににこやかな視線を向けていた。四枚目では、ゆりかごの中の遊星が大写しになっている。五枚目も、六枚目も、父や母の写真だった。遊星の家族の写真だ。 「この人が遊星のご両親なの」 「そう。父親は実直で親馬鹿だった。母親は、気だてのいい良妻賢母。ちょっとおっとりしてたかな。父さんと母さんに負けないぐらいべた惚れの夫婦だったんだぜ……って言っても信じないかその目は」 「半信半疑ね。パパとママに負けないってよっぽどだもの。しかも遊星のご両親なんでしょ? 遊星よ。……でも、そっか。遊星は一人っ子だったのね」 龍可の言葉にアキも龍亞も頷く。そう言われて初めて遊星は今まで彼らに一人っ子だと明言していなかったことを思い出した。マーサの話でジャックやクロウは聞き知っていたから失念していたのだが、三人はもしかしたら生き別れの兄弟が……とか考えていたりしたのだろうか。 「きょうだいかあ……」 急に龍亞がしんみりした声を出す。乗り越えたばかりの出来事がまだ生々しく鮮烈で忘れられないのだろう。仕方ないことだ。遊星もゼロ・リバースの夢を見なくなるまでに二十年近くかかった。自らのアイデンティティに関与していたり左右していたりするとなかなか記憶というものは風化しない。出来ない。 「遊星もジャックもクロウもアキ姉ちゃんも一人っ子だけど、クロウは慕ってくれる子がいっぱいいるから弟妹だくさんって感じだよね。そっか。そうだよな……」 「龍亞、どうしたの?」 「もう一人ぐらい弟とか妹とかいてもよかったかも……」 「「え、そう?」」 龍亞の台詞にヨハンと十代が喰い付いてくる。言ってしまった後になってしまった、と龍亞は今更のように考えた。目がきらきらしている。というより爛々と輝いている。こういう時の二人はあまりろくなことを考えていない。大抵の場合はろくでもない。 「龍亞と龍可がどうしてもって言うんなら、父さん母さんちょっと頑張っちゃうけど」 「「全然頑張らなくていいから!」」 やっぱりろくでもない。龍亞と龍可はぶるぶる首を振り全力で拒否の意を示した。両親が露骨につまらなそうな顔をする。ものすごく子供っぽい。 「本当にいいのか? 時間かかるかもしれないけど母さんも父さんもまだいけるぞ」 「子供にそういう話するの、止めてちょうだい! 遊星もアキさんも困ってるじゃない!」 「そうだよ。それに俺、別に兄妹に困ってるわけじゃないし。龍可がいるし、遊星もジャックもクロウもお兄ちゃんみたいなもんだし、アキ姉ちゃんもいるし、それに……」 目を閉じて祈るような表情をする。言わんとすることを察して十代は腰に手を当てたまま「じゃあしょうがない」というふうに溜め息を吐いた。ヨハンも残念そうではあるが穏やかに笑っている。 「弟は、ここにいる一人でいいよ」 大人びた顔で心臓を指し示すと、龍亞は龍可の手をぐいとひいて勢いよく階段の方へ駆けて行った。 (ファミリア*エンド) |