06:一夜だけ、ミュンヘンで
※前半が十明日結婚ネタで後半は気色悪いヨハンさんです。ご注意ください。
「けけけけ、結婚だとぉ?! 天上院くんと十代がぁ?!」
「ああ。実はそうなんだ。近々式の招待状を出すつもりだった」
「ふーん。まあ明日香さんとアニキなら問題ないよね。アカデミアの女王とドロップアウト・ボーイっていう組合わせだけどさ」
「うんうん、お兄さんは異存ないよ。胸キュンポイント百万点さ。しかしあのあすりんを陥落させるとは十代君もなかなか悔れないよねぇ」
背景で「師匠ぉー! 俺を捨ててゆかれると言うんですか!」とやかましく騒ぎたてている万丈目をほっぽって、吹雪は順々に明日香と十代を見比べた。カレッジ二年で現在冬季休暇の為帰省中の明日香と、アカデミア卒業以来ずっと当てのないぶらり旅を続けている風来坊の十代。二人はまったく正反対の性質をしている。人々の中でこそ輝く明日香と違い、十代は縛られることを嫌い誰も知らないところへふらっと行ってしまって、そこでまた何かやらかしたり収めたりしている、そういうタイプだ。
「そしてあすりんの為に君が君自身のスタンスを捨ててしまえるというのも僕には結構意外だったよ。あの出来事以来君は君にとっての特別を作ることを避けるようになったと、そう僕は思ってたんだけど」
「吹雪さんの読みで間違ってませんよ。俺も意外だったもん。でも明日香が泣きそうな顔をするもんだから――」
「十代!」
「同じ所に留まってみるのもありかなって思った。回遊魚を止めて家庭を持ってもいいかなって」
泣きそうな顔、のくだりで顔を真っ赤にして抗議してきた明日香をなだめるように撫でて十代はにこりと笑う。そこに嘘はないし、ためらいの気持ちもない。実にストレートな彼の感情だ。吹雪は満足気にうなずいた。
「君になら安心してあすりんを任せられそうだ。宜しく頼むよ、何せ明日香はたった一人の目に入れても痛くないほど可愛い妹なものでね」
がっしりと十代の手を握り、吹雪が真面目な顔をしてそう言う。十代も真面目な顔になってそれに応じた。吹雪が明日香のことを溺愛しているのは十代も良く知るところだ。羨ましい程に美しい家族の愛情だった。十代にはこれまであまり縁がなかったものだ。実家とは疎遠な状態が続いている。
でもこれからは、家族の愛というものに深く触れることになるだろう。まず明日香と家族になって、そうしたらきっと吹雪が半分茶化しながら十代のことを義弟として扱い出すに違いない。そしてゆくゆくは命を授かる。血の繋がった家族が出来る。そう考えると不思議だった。
そんなごく普通の人並で当たり前な幸福を自分が甘受することになるのだと思うとくすぐったい。奇妙な感じだ。自分はもう普通の人間ではないというのに。
そう、十代は普通の人間ではない。
怪我はする。体調だって悪くなる。有難いことに、どうやら年も一応取っているらしい。ただし両眼がちぐはぐの、オレンジとグリーンに光ったりする。異能力を発動させるとそうなってしまうのだ。そしてその異能力――デュエルモンスターズを現実に干渉させる力は、世界を書き換えてしまいかねない危険性を孕んでいた。
例えば、十代が「激流葬」を悪意をもって発動したとする。赤子が生まれた瞬間にチェーンしてしまえば対象は世界中の全人類となる。そうすると、世界は滅亡してしまう。
実にあっけない。荒唐無稽で突拍子もないがしかしそれが揺るぎようのない真実であった。覇王たる十代にはそれだけの力があるのだ。
結婚しよう、という話になった時十代は懇切丁寧にこのことを明日香に話して聞かせた。自分は化け物だと何度か言い含めた。でも明日香は笑ってこう言ったのだ。
「あなたがちょっと変わった人だなんて今に始まったことじゃないわ。ずっと知ってる。そういうところも何もかもひっくるめて私はあなたが好きなの。世界で一番、大好きな人なのよ」
ちょっとどころではなく変で、もうまじりっけのないヒトであるかも定かではない十代に対して彼女は「あなたは優しい人よ」だなんて言う。
「ちょっと目が光るから人間じゃないなんて冗談じゃないわ。私の隣で血を巡らせて生きているじゃない、それで十分あなたは人間なの。もしあなたのことを化け物だなんて言う不届き者が現れたら言ってちょうだい。私が思い知らせてやるから」
そんなことを事もなげに言い切るものだから十代はあまりのことに一瞬ぽかんとしてしまって、「明日香はおっかねぇなぁ」と軽い口調で言おうとしたが、言い終わる前に涙がぽろぽろと落ちてきてしまった。嬉しくて、胸がつまる思いだった。
「明日香」
「何かしら?」
「ありがとう。こんな俺でもヒトと認めてくれて。愛してくれて。なんだろ、すごく嬉しくて……それで申し訳ない。俺はさ、ずっと馬鹿なんだ。今も。だからその分明日香には色々と迷惑をかけたと思う」
明日香と出会った頃、十代は恋という感情を知らなかった。愛というものがどんなものであるかも知らなかった。小学校で習った漢字、という程度にしか認識していなくってだから明日香が自分を見つめる時の視先の意味になんて気付くはずもなかった。
異世界から帰ってきてようやくその意味を悟り、しかし十代はそれに見て見ぬ振りをした。その時の十代にとってそれを受け入れるというのは酷く難しいことだったからだ。誰かを特別に想える自信がまるでなかった。
言い換えればそれは単に逃げていたということに過ぎない。怖かったのだ。
誰かを愛するということが恐ろしかった。自らの手で逆に傷付けてしまいそうで。
「俺は馬鹿だから明日香の気持ちには気付かなかった。二年前やっと気付いたけど、気付かない振りをした。明日香にはもっと相応しい人間がいるはずだって思ったのもあるし、俺の異質をはねのけられるのが恐かったからっていうのもある。でも多分一番恐ろしかったのはこの手で明日香を傷付けてしまうんじゃないかってことだ。君が俺を忘れてくれれば一番楽だと思ってた」
「あなたって本当に馬鹿ね。私が、いえ、誰があなたのことを忘れられるものですか。あなたに一度関わってしまったならそれは無理よ。出来っこないわ。――そして私はね、こう見えても結構しつこいのよ。諦めも悪いの」
「ああ。それはこの二年で重々承知したぜ。なあ明日香」
十代は改まって明日香の手を取った。十代自身男としては華奢な方なのだが、明日香の体はそれと比べても更に細い。実に女性らしいシルエットだ。
「馬鹿で、化け物みたいな、そんな俺だけど……君がそれでも構わないのなら。俺も、君を愛しても……いいかな」
そう言うと明日香は「当たり前でしょう」と言って十代を抱きしめた。
「あなたは、あなたでしかないの。……あのね、私の中ではもうずっと、私が好きになった無邪気な男の子のままなのよ」
「明日香が俺を選んでくれたってことも、俺が誰かを愛することが出来るってことも、同じように嬉しい。だからまあ、吹雪さんの頼みぐらいどうってことないです。心配要りません」
「ほう、頼もしいじゃないか。ちなみに僕、姪っ子甥っ子は最低五人欲しいんだけど」
「……それは難しいかもしれない」
十代が即答した隣で明日香がまた始まった、というふうに溜め息をつく。吹雪は「そうかい、それは残念だねぇ」とお茶らけた声で言いながら肩をすくめた。
「でもまあ、何にせよ喜ばしいことだ。十代君、君は愛を恐れていたみたいだしね。この機会に心ゆくまで触れてみるといい。愛こそ力さ。僕の信条だよ」
「っ……天上院くんと師匠に面じて! けけけ、結婚を認めてやろうではないか! 十代、貴様天上院くんを泣かせたりしたら絶対に許さんからな!!」
「はいはい。万丈目くん、男の嫉妬は醜いだけだよ」
「翔、お前はもうちょっと言葉をオブラートに包むとかさ……万丈目の奴泣いてるぞ……」
「いいんだよ、アニキの幸せを素直に祝えない奴なんてこんなもんで。……あれ、そう言えばさ」
万丈目のことをまるでなかったことであるかのように流して、翔が思い出したかのように言う。
「あいつ、いないんだね。あのフリル。こういう話好きそうなのにさ」
「ああ、ヨハンな」
翔に毒舌を止めろというのはどうやら無駄なことらしいと悟って十代は今度は彼の言をたしなめるのを止めた。あのフリルとは随分な言い様だ。本人が聞いたらさぞ憤害するに違いない。……見当違いのところを。
「ヨハンは今カレッジの試験中。終わったら、ドイツまで会いに行くつもりだよ」
「結婚の報告をしに?」
「ああ」
「ふーん……」
十代の言葉を受けて翔が意味ありげに声を漏らす。表情が暗に「ざまあ見ろ」と言っていた。悪意丸出しだ。
「ちょっと見てみたかったかも。あいつがへこむところ」
「へこむぅ? なんでだよ」
へこむという発現を不思議に思って十代は疑問を口にするが、「アニキは知らなくていいよ」と至極爽やかな顔で言い切られてしまっては追及もしづらい。仕方ないので押し黙ると吹雪だけがわかったというように微笑んだ。でも教えてはくれないのだろう。相変らず食えない人だ。
◇◆◇◆◇
ミュンヘンを訪れるのは一年半年ぶりぐらいのことだったと思う。大概は世界中をぶらぶらしている十代をヨハンの方がどうやってか捕捉して会いに来てくれていた。
ちなみに一年半前、十代が自主的にミュンヘンにあるヨハンが通うカレッジを訪れたのはヨハンが破滅の光として目覚めるのを事前に防いでしまおうとした為だ。多少心苦しかったが仕方ない。ヨハンだって男である俺に愛を叫ぶのは異世界でユベルに取り憑かれていたあの時きりにしたいはずである。
少なくとも十代はもう懲り懲りだった。ヨハンは大切な友人だ。でもそれ以外の何者でもない。
「十代!」
三ヶ月ぶりに会う親友は待ち合わせていたカフェに着くと一早く俺を見付け、嬉しそうに手を振った。普段の傍若無人っぷりからは想像も付かないがこいつは几帳面な奴で、ルーズな十代はこういう約束ごとでヨハンよりも早く場所に着いた試しがない。
「ヨハン」
「久しぶり。よく来てくれたな! ……あれ、明日香?」
「ええ。私は同窓会以来かしら。元気そうね、ヨハン」
「まあ。しかし珍しいな、十代がユベルと大徳寺先生以外に誰かを連れてるなんて。どうしたんだ?」
さり気なく明日香にも席を勧めながらヨハンはそんなことを言う。普通は男女が一緒にいたら付き合いでもしているのかと勘ぐるものなのだが、やはり十代はその手のこととは非常に縁遠いものと思われているらしい。
「ん。実はさ、今度明日香と結婚するんだ」
だから十代は務めてなんでもないふうに自然に、さらりとその旨を伝えてみた。
「え?」
「結婚。明日香と。籍はもう入れた」
目を丸くしたヨハンにああやっぱりなぁ、こいつも疑がってかかってきてると内心にやにやしながら追撃をかける。誰も彼も、まず最初は十代がらしくない冗談を言っているのだと思うらしくとんちんかんなことを言い出すのだ。それ程彼等の中で十代と結婚という単語はかけ離れたものであるらしいが、それに関しては十代自身同意しないこともない。
結婚。誰か一人を選んで家族になるっていうこと。誰か一人きりの異性を一番大切な人なのだと宣言するということ。
十代は長い間「特別」を作ることを避けてきた。先日吹雪に看破された通り、愛するということを極端に恐れていたからだ。愛することで逆に相手を苦しめるのだと思って、放浪の旅に出た。そうしていればいずれ皆の記憶から自分という存在が薄れてくれるのだと信じていた。その為にアカデミア時代の知人との接触も極力断った。
ただ一人、ヨハンという例外を除いては。
ヨハンとだけ頻繁とは言えないまでも定期的に会っていたのには勿論理由がある。彼の中に眠る破滅の光が勢いを増してはいないかとかそういうことを確認する為だ。それにヨハンならば覇王としての力が強い害を及ぼす危険も少ない。彼自身破滅の光の力に守られているからである。守護龍レインボー・ドラゴンと七体の宝玉獣に。
「どーしたヨハン、あんまり意外なんで声が出なくなっちまったのか?」
「あ……ああ。随分驚いた。びっくりしたよ。まさかあの十代が、誰かと結婚するだなんて」
「信じられないってか? まあそうだよな。みんなそう言ってたし」
ヨハンは本当に度肝を抜かれてしまったようでぽけっとした顔をしている。声もなんだか頼りない。傍目から見てもそうとわかる程にショックを受けていた。
まさかヨハンも密かに明日香のことを好いていたのだろうか?
隣で明日香も不思議そうな顔をしている。ヨハンはどうしてこんなに気落ちしているのだろう。
『まあアレだぜヨハン、報われない思いって奴だ。そもそもが不毛だった。諦めて嫁さんを探せ』
『ちょっとトパーズ、その言い方はデリカシーが無さすぎよ。でもまあ私も意見はトパーズと一緒。ヨハン、これでいいと私は思うわ。……その、彼は……』
『るび。ルビィ』
「ほんと、どうしたんだよお前ら。宝玉獣達まで出てきて」
「いや、気にしないでくれ。ちょっと驚きすぎただけだから。……それより、結婚式にはちゃんと呼んでくれよな。予定明けとくからさ」
無理に気丈な顔を作ってヨハンが言う。でも十代も明日香もヨハンに追及することは出来なかった。それはなんというか、酷であるように思えたのだ。
結局そのままヨハンは「用事がある」と言って店を出て行ってしまったが、追いかけることはしなかった。いや、出来る気がしなかった。
結婚。十代が明日香と。
別に何も不自然なことなんてないはずだ。学生時代から明日香はわかりやすく十代のことを好いていた。十代もまた、明日香とは親しくしていた。五年も付き合いがあれば恋愛感情の一つぐらい芽生えたっておかしくはない。
ただヨハン一人だけが動揺していた。酷く胸が苦しい。どうして? どうして十代が?
十代の特別は自分だけだって思っていたのに!
「ふ……ふふ……醜い。醜悪な感情だ。でもそうだよなあ、それが当たり前の結末だよな。何にもおかしくないんだ。おかしいのは俺で……でも、でもやっぱり俺は……」
十代が好きだった。
「馬鹿みたいだ。叶いっこないのにな。心のどこかで期待してた。自分にだけ会ってくれる十代もきっと、俺のことをそういう意味で好いていてくれるんじゃないかって。そんなわけないのにな。有り得ない。夢想に過ぎない」
『……ヨハン』
サファイア・ペガサスがデッキから出てきてヨハンの顔を心配そうに覗き込む。今ヨハンは一体どんな顔をしているのだろう? きっと歪み切った顔だ。嫉妬も何も隠そうとしない剥き出しの本能。
「祝って、やらなきゃならないんだよな。目出度いもんな。結婚して、子供が出来たりするんだろうな。……羨ましい。心底明日香が羨ましい」
『ヨハン、君は……』
「うん。わかってるさサファイア。でも今俺の胸中に毒々しいものが渦巻いているのは確かで、次に十代に会う時までにそれは浄化しておかないと。出し切って、吐き出しきって、"いつもの"俺に戻んなきゃ駄目だ」
そう言ったヨハンの目を見てペガサスは深い溜め息を吐いた。宝玉獣サファイア・ペガサスは彼が破滅の光を宿す存在であることを知っている。そして破滅の光が千五百年前に優しき闇を愛してしまったことも。ヨハンがこの命を生きる間は、余程のことがない限り最愛の優しき闇に抑え込まれて破滅の光が目覚めることがないということも。
(……相当なダメージだったのだな。眼差しが危うすぎる)
ヨハンの瞳は今、混濁していていつものあの美しいエメラルド色ではなくなっていた。半分ぐらい銀色だ。ユベルに憑依されていた時のあの色。
――破滅の光の、瞳の色。
『ヨハン、今日はもう休んではどうだ。ヨハンは疲れている。一度頭を整理して落ち着いてみるんだ』
「ああ……そうだな。今はろくなことを考えられそうにない。体もだるいし……」
『それがいい』
ヨハンに就寝を勧めてサファイアは体を緊張させる。彼は「体がだるい」と言った。やはり予兆が出ている。厄介なことになってしまった。
(今夜、出るな。破滅の光――我々の主が)
ただ救いだと言えるのが、優しき闇、破滅の光を唯一抑え込むことが出来る存在が今夜はこの街のどこかに存在しているであろうことだ。そして彼ならば破滅の光が目覚めればすぐさま察知してこちらへ飛んでくるだろう。
サファイアは破滅の光を守護する宝玉獣の一体だから、勿論主の出現を心底嫌がっているとか恐れているとかそういうことはない。ただサファイアは現実的なだけだった。今はタイミングが悪いのだ。覇王の封印を捻じ伏せることで悪影響が出るし、ヨハンの負の感情が強い今現れてしまったら彼の嫉妬の対象である明日香がどうなるかわかったものではない。
それはとても、良くないことなのである。
◇◆◇◆◇
その「予感」を感じたのは遅めの夕食を終え、風呂にも入りベッドの中でそろそろ微睡もうかとしていた時だった。明日香は既に寝入っている。時計の針が差す時刻は午前一時。夜遅いが、しかしそんなことを言っている場合でもない。
「……まさか。そんな馬鹿な……」
『クリ。……クリクリィ』
「やっぱそうなのか? 破滅の光が――ヨハンが、」
目を覚まそうとしている?
十代はいてもたってもいられなくなりベッドから抜け出た。ジャケットを羽織って靴を履く。ヨハンの家の場所は、引っ越していないのならば一年半前に訪ねた場所で大丈夫なはずだ。まあ仮に引っ越していたとしても二つの意思の間に存在する超感覚的なものを辿って行けば捕捉が出来るはずである。
「悪ぃ明日香、どうしても出かけないとダメなんだ。出来たら朝までには帰ってくる。……言ってくる」
寝込んだまま返事のない明日香の頬に行ってきますと謝罪の意を込めてキスを落とすと十代は部屋を飛び出た。
ヨハンの家は一年半前と変わらない場所にあった。手頃な大きさのアパートメントだ。建物の二階左端にヨハンが借りている部屋があって、内装は小奇麗に纏められている。インテリアに興味がないと言うくせにセンス良く整えられた室内。そのベッドルームにヨハンは佇んでいた。
「……ヨハン」
「十代?」
不法侵入でいきなり名前を呼びかけたにも関わらず「どうしてここに」も「何の用だ」もない。十代は嫌な予感がしてヨハンの瞳を見るために彼の正面に移動しようとする。
が、それは出来なかった。
「十代……どうして?」
「ッヨハ……!」
「どうして明日香と結婚するんだ? ……って言ってるぜ。この体」
体を地面に縫い付けられたかのように足がぴったりと吸いつけられて動かない。そんな十代に見せ付けるかのようにヨハンの体がゆっくりと動いて彼の正面が目に入った。思った通りだ。そこには橙色の瞳が覗いている。
「破滅の、光。何故? 俺は完璧に封じたはずだ」
「ああ、もうヨハンって呼んでくれないのかい? 君がヨハンの名を呼ぶ声は温かみがあって好きなんだけど、まあ仕方ないね。で、何故俺が今この体を動かしているかだけど……ヨハンが望んだからさ。君の封印を跳ね除けるほどに強く願ったからだ」
「何を馬鹿なことを。ヨハンが一体何を願ったらお前が目覚めるって言うんだ」
「わからない? 君は相変わらず愛に疎いねぇ。そんなんで女を娶るだなんて、本当滑稽だ」
「まあ俺を封じている今より前には安心して女とくっ付けるタイミングがなかったからねぇ」、と破滅の光は意地悪く笑う。優しき闇と破滅の光、二つの大いなる意思が宿主の意思を半ば浸食する形で目を覚ますのはいつも決まって宿主が十代後半の年頃の時だった。そして、目覚めた後は宿主のそれまでの都合なんかはそっちのけで永遠の殺し合いを演じる作業に入る。解放されるのは死ぬ時だ。だから誰かを愛する余裕なんてなかった。十代が結婚を決めたのも、それまでの生活サイクルをとことん破壊してくる破滅の光が今代は目覚める筈がないと踏んでいたからだ。
「ああでも安心していい。俺は夜明けぐらいで力を失ってまた眠りに就く。君の掛けた封を食い破って表に出現しているって案外大変なんだ。見た目よりも相当エネルギーを使うし、だから今は君と事を構える気もないぜ、覇王」
「だったら何故目を覚ました? 俺とヨハンの生活を乱してまで」
「だから、ヨハンの願いの為さ。君はそんなに物分りの悪い男だったっけか?」
十代の方へ歩み寄って来て破滅の光は髪を手で掬い上げた。十代が動けないのをいいことにその髪に顔を埋めてみたり、好き放題している。十代は苛ついて小さく舌打ちした。どうしてこの体は固まってしまっているのだ。
「君の封を超える為には君を抑えるレベルで力を使う必要があるんだよ。その副作用じゃないかな?」
十代の心を読んだかのようなタイミングでそんなことを言ってくる。もしかしたら実際に心の声が筒抜けてしまっているのかもしれない。それぐらい今の力量差は歴然としていた。――この、あらゆる闇を統べる覇王が成すすべもなく直立不動で固まっているのだ!
「うん、やっぱり君は美しい。綺麗だ。この俺が惚れるぐらいなんだ、ヨハンが惚れたって何にもおかしくないよな。でも君はヨハンの想いを踏みにじった。いいかい十代、わかってないようだから教えてあげるけど、今夜俺が目覚めたのはヨハンが君を愛するあまりに思い悩んでしまったからさ。可愛さ余って憎さ百倍ってところかい?」
「は? 何を言っているんだ。そんなふざけた話を俺が信じるとでも?」
「……まだそんな寝呆けたことを言っているんだ、ちょっと平和ボケしすぎてやいないか君。今代はどうもユベルの方が余程物わかりがいいみたいだ」
な、君は気付いていただろう? 破滅の光はくつくつ笑いながらそう言うとおもむろに十代の体に手を伸ばす。ぐっ、と一瞬強く皮膚を握りこまれる不快な感覚の後にそこから何かがずるりと這い出てきた。いや、何かは判りきっている。ユベルだ。
「――ユベル!!」
『十代ッ……僕は大丈夫だ、心配しなくていい! それよりもこいつをどうにかしなきゃ……!!』
「どうにかするぅ? おいおい酷いなぁ。俺の意思なんてもってあと数時間なんだからもう少しフレンドリーに接してくれよ。俺は何も害になることなんかしないからさ」
「嘘、つけ……ヨハンの体で散々気色の悪いほらを言っておきながら――」
「だからさあ、俺は嘘は言ってないって。なあ、そうだろユベル」
聞きわけの悪い幼子をなだめるように十代の頭を撫でながら破滅の光はユベルに同意を求める。ユベルは破滅の光の言葉にやや躊躇う様子を見せたが、しかし頷いた。
『……十代、ヨハンが君のことをその……特別な目で見ていたのは真実だ。僕、君が明日香と結婚することには反対しなかったろう? それはまあ、男女間の仲が最終的に落ち着くところで僕が野暮なことをする必要がなかったからっていうのもあるんだけどね、これでヨハンを警戒しなくてよくなるっていうのも実はあった。ヨハンが君を見る目、あれはちょっと……気に入らなかった』
ユベルがばつが悪そうに告げる。十代はそんな馬鹿な、と小さく呻いた。ヨハンは親友で、誰よりも信頼出来る同性で――破滅の光を宿してはいるけれど、目覚めていないければ――
「そんな馬鹿なことがあるか」
「だからそれこそが真実なんだよ。でもまあ、ヨハンの場合は半分以上若さって奴だけど。そんな取り乱すなって、心配しなくとも俺とは違う。あいつは俺程酔狂じゃないからほっときゃその内納得して心の広い女とでも結婚するだろうさ。常識的なんだ、ヨハンは」
だから落ち付け、と悪びれるふうもなく(実際問題として十代を取り乱させているのは他ならない自身であるというのにだ、)言うと破滅の光は十代の両頬に手を添える。十代は嫌な予感を覚えて毛が逆立つのを感じた。でも体はやっぱりかちこちに固まったままでぴくりとも動かない。ユベルも勘付いたようだが彼女も自由には体を動かせない。
「当たり前だろ。ヨハンは人間なんだ。ちょっと変わってるけど、でも人間なんだ。お前みたいに非常識が凝り固まって出来ている奴とは違う」
「でも、常識的なままじゃ何も手に入らない」
十代の言葉はどうでもよかったのか、無視して破滅の光は謳うように喋り続ける。
「その為に非常識な俺が現れてヨハンが唯一望んだ非常識的な願いを叶えてやるのさ。シンプルだろ? 純粋って言っても通る。健気だよな――だから拒むな」
それが恐らく、彼なりの最後の宣告だったのだろう。破滅の光はいきなり、何の前触れもなく十代の唇を貧り出した。口付け、吸い上げ、舌なめずりをして十代の唇を喰らう。
「っ……、んーっ!!」
『十代! ああ忌々しいったら、体さえ動けば!!』
ユベルの叫びを遠くで聞き、十代は自分の顔が青冷めていくのを感じた。
別に十代だってキスをするのが始めてだとかそういう生娘のようなことを言うつもりはない。ただぞわぞわと背中を走り抜けていく言いようのない悪感とその中に混じり込んできている浮わついた気持ちが酷く嫌だった。ヨハンの体で無理矢理キスをされているという現状が腹立たしい。
永遠にも思われたその状況から開放されたのは一体どれ程の時が経ってからであっただろう。恐らく実際には数分でしかなかったのだろうその出来事が、十代には異常に長い時に感じられた。生々しい感蝕が纏わりついて離れない。唇にこびりついた異物感は、しばらく消えそうにもなかった。
「ねえ十代、俺最愛の正しき闇にしてヨハン・アンデルセンの盟友遊城十代。幻滅したかい? もうほとほと疲れ果てて何もかも嫌になった?」
「ふ……ん……。ぁ、はぁ、誰がっ……」
息を荒げて浅い呼吸を繰り返しながら十代は破滅の光の問いを否定する。ヨハンは何も悪くない。だってこれはヨハンじゃない、別の意識だ。別種の生き物。今の行為でヨハンを嫌うのはお門違いというやつだ。……例え本当にあれがヨハンが深層意識下で望んでいたことだとしても。
でもそうすると破滅の光はあてが外れたような、調子を狂わされたような顔をして「あれぇ?」と心底不思議そうな挙作をする。
「だってそうだろう? こんなことされて、普通は間違いなく引くぜ。それともなんだ、もしかしてあれはヨハンじゃないとかそういうことを必死に言い聞かせてたりする?」
「それ、は……」
「逃げだな。現実逃避が悪いとは言わないがいずれ逃げ回ったつけは必ず返ってくる、それだけは覚えておいた方がいい。例え今世は上手くやりすごしたとしたって俺達は永劫に繰り返すんだ。"今"なんてものはほんの短い時の流れにすぎないんだぜ」
何百年も何千年も、今まで続いてきたようにこの先も途切れることなく永遠に。
そのどこかで、目を背けた罰が返ってくる。
「でもまあ、ついでだから教えておいてあげるとヨハンは今日のことを覚えていない。ただ、えらく幸せな夢を見たなあと思って目覚める。今はそういうことにしてしまえばいいんだろう? 十代としてはさ」
何もかも見透かしているかのような声で耳元に囁き、それから名残惜しそうに十代の体を抱き締めて破滅の光は「時間だ」と呟く。その言葉に十代はほっとするが、程なく「ようやく彼が自分の前からいなくなってくれるという安心感」はそのまま「考えることを後伸ばしに出来ることへの安堵感」だということに気が付いて口を噤んだ。破滅の光と別れる時はいつもそうだ。何かしら矛盾だとかそういうものがあって、深々と傷口を貫かれ衰弱していく相手を見ながらもう二度と会いたくないと思う反面次に相まみえる時のことを想像している時があったりする。
それを見た破滅の光が、恐らく十代が心中で思っていることに大方の想像がついてしまったのだろう、にやにやと笑いながら追い打ちをかけるように言った。
「また、来世で会おうな。我が最愛の優しき闇よ」
ヨハンが小さく耳打ちしてきたその時雌鶏の一番鳴きが辺りに響き、窓から朝陽が差し込む。視界が眩しい光に覆い尽くされ、弾ける。
十代が慌てて思わず閉じてしまった瞼を開くと、そこにはもう破滅の光だなんてものはいなかった。ただの人間のヨハンが床に倒れこんでいる。それだけだ。
「Deadend World」-Copyright(c) 倉田翠