09:僕の知らない君の話

「……いい。来てくれ、ヨハン」
 十代がそう言って扉を開けたのはヨハンが座り込みを始めてから一時間と少し経った頃のことだった。思ったよりも早い。開いた扉の向こう、特に乱れたところもない部屋の中で十代が床に正座している。ほぼ完全な部屋の調度からは枕だけが損なわれていた。さっき十代がヨハンに投げ付けたものが廊下に転がっているからだ。
 開け放してみると、六十分の長きに渡って二人を隔ていた木製の扉は酷く薄っぺらいようだった。大したことのない厚み。でもそれは、ついさっきまで絶対不可侵の壁だった。十代の抱えたもやもやの分だけ強固さを増していたんじゃないかと思う。
 ヨハンは無言で十代に歩み寄ると彼女の隣に座り込む。ルビーとハネクリボーは主人達の前に居場所を決めて二匹でちょこんと座した。
「なんか、馬鹿らしくなってきた。うじうじ考えることじゃなかったし、あんなに取り乱すことでもなかったと思う。ごめん」
 十代の口から真っ先に飛び出て来たのはそんな言葉だった。
「ヨハンにとって俺が女だろうが男だろうが、そんなことは些細なことでしかないと思う。友達って性別で扱いが変わるものかなぁ? そうじゃないだろ。だから俺はそういうの、どうでもいいやって思った」
「……いや、俺は少し気になるけど……」
「なんでだよ」
 反論されたことに何かしら思うところがあったのか、十代が面白くなさそうな声を出す。ヨハンは少し小さくなりつつも思うところを述べた。
「小さい頃から、レディは大事に扱えって言われて育ったんだ。女の子は弱くはないけど、でも誰かが支えてくれることでもっと安心出来る。だから乱暴に扱っちゃいけない。それが父さんの教えだった」
「的を射てんだかそうじゃないんだかいまいちよくわからない教えだな。女を一方的に弱者と決め付けてないとこは評価するけど俺は壊れものじゃないし、お坊っちゃんのお前が今までに接してきた多くの女の子と違ってレディじゃない。母さんにもジャックにもクロウにも男勝りって言われ続けてる」
「遊星さんは?」
「十代はそのぐらい元気なので丁度いいってさ」
「そうだな。俺もそう思う」
 多いに賛同するというふうに頷いてヨハンはまじまじと隣の十代を見つめた。そう手入れをしているふうには見えないぴんとはねた茶色の髪、猫っぽい瞳。凹凸の少ない体。意識して見ると肩や腰、腕、それら体を構成するパーツの一つ一つが細かった。ただ彼女が纏う全体の雰囲気が、かよわい少女であると感じさせることを拒んでいる。彼女は多分非力な少女として扱われることを嫌っているのだ。
 事実彼女は強かった。デュエルの腕だとかそういうところでなく、彼女という生命はすごく強力な何かを秘めているのだ。強い生き物だ。ちょっとやそっとじゃへこたれないし、諦めない。枯れない向日葵のような輝きを持っている。人を惹き付けて成功に導いていく、そういう強さを持っている。
「十代はさ、強い自分でありたいんだ。大好きなお父さんやお母さんのように強く芯を持った人間でありたいと思ってる。だから守られる女の子じゃ駄目だって思って、今の十代になった。実際十代は強いぜ。無理をしているわけでも背伸びしているわけでもない。そういうスタンスは、いいと思う」
「……つまりヨハンは、何を言いたいんだよ?」
「でも女の子だったらだったで、俺の中にも気持ちがあるわけ。勿論下心で優しくするとかそういうんじゃなくて、何て言うのかな……構え方の違い?」
「わかんないなぁ。友達は、友達だろ? 何が違って、何が変わるって言うんだ」
「例えば、ドアをノックせずに開けたりしないとかそういう最低限の心遣いだよ」
 ヨハンは大真面目にそう言った。
「そこかよ」
「そう。そのくらい。お前の言うように友達は友達で、そこは揺るぎようがない。でも、例えば――その先に考えるものは、変わってくるかなぁ」
「その先?」
「親友のままで終わるか、それとは違う関係を望むかどうか」
 そう含むように言ってやると十代はぽかんと口を開けて、ワンテンポ遅れてから顔を赤く染める。どうやらヨハンの言葉の意味するところを理解したようだった。肩がわなわなと震えている。
「それって、その、つまり、……ダンジョノカンケイって奴か? ないない。有り得ない。考えたこともないぜ。ていうかヨハン、お前はついさっきまで男だと思ってた相手に、女だとわかっただけで手のひら返したみたいにそんなこと言うのかよ」
「仮定の話だよ。もしかしたら、の可能性。でも完全にゼロなわけじゃないだろ? 今はまだ親友でも。――まあ俺、基本的に女の子に興味とかないんだけどなー」
 ハイスクールに上がるまでに何回か告白されたことあったけど片っ端から断ったもん、とまるで悪びれるふうもなく言い切る。あまりにあっけらかんとしていたので十代は呆れてしまった。こいつに恋してた女の子達が報われない。
「彼女とかよくわかんないんだ。デート? お喋り? そんなことより俺はデュエルしたいなぁ。十代だってそうだろ? 俺のこと渋い顔で見てたけどさあ、実は何回か告白されたことあるだろ」
 ヨハンがにやにやしながら十代の肩をつつく。十代は溜め息を吐いてそれを肯定した。どうでもいいが、さして面白くない過去だ。
「女の子からな。男にも興味ないけど、女の子にはもっと興味ない。デュエルが強い子なら楽しかったかもしれないけど皆大して強い子じゃなかった」
 そう言ってやるとヨハンは楽しそうに笑った。爆笑だ。何がそんなに面白かったのだろう。
「やっぱ似てんなぁ俺達! な、今はさ、それでいいんじゃないかと思うよ。十代の言う通り変わることはないんだ。ただ将来の選択肢が増える。それだけだよ」
 あと、十代が謝る必要はないと思うぜ。そう付け足してからヨハンは土下座をした。ものすごくシュールな光景だった。ぴっしりとした美しい土下座を決める外人(ヨハンは血の濃さで言えば圧倒的に日本人の成分が大きかったが、それでも見た目は完璧な外国人だ。髪は真っ青だし目もエメラルドグリーン。容姿に何一つ日本人らしさがない)。いわゆる扱いに困るという奴だ。
 何だかいたたまれなくなって十代はヨハンの頭を撫でた。思っていたより柔らかい。ハネクリボーの方が固いぐらいだ。
 触り心地が良いので猫を撫で続けるような気持ちで髪をくしゃくしゃにしていると、下から「起き上がれないんだけど」と文句が聞こえてくる。
「じゅーだい、そろそろ止めてくんないかな……。結構この態勢、辛いかも」
「お、おお。ごめん。つい……」
 ヨハンが起き上がってしまうと十代は手持ち無沙汰気味にハネクリボーを抱えた。しかし精霊なので感触がない。
「何か変なものに目覚めかけるとこだった気がする」
 ヨハンが妙な顔をして言った。
「へ? 変なのって? ……でもそもそもは土下座なんかしたヨハンが悪い。捨て猫みたいだった」
「飼い猫ですらないのかよ! まあいいけど。十代の機嫌も元に戻ったみたいだし。なあ折角だからさ、ディスク付けてくれよ十代。ふわふわしたものに触り足りないんだろ? ルビーとかトパーズとか実体化させれば触り放題だぜ」
「美しい毛並と言えば猫だろ。アメジストは?」
「あー、アメジストは駄目。気位高いからそういうのさせてくんない」
『そうね、心の機微がわからないヨハンみたいなお子様に触らせる毛はないわ。でも十代なら特別にいいわよ』
「アメジスト! 聞いてたのか」
 ヨハンが悪戯を見付かった時の子供みたいな顔をするとアメジストは冷ややかな顔をする。
『最初から最後まで、七匹とも聞いてたわ。それとも何、ルビーだけはいいって妙なことを言うのかしら? ヨハン』
「それは……えーっと、その……」
「あはは。アメジストには勝てないなぁヨハン」
 しどろもどろになって冷や汗をかくヨハンに十代は笑った。つられてヨハンも困ったように笑う。
『昔っから、駄目な子なのよ、ヨハンは』
 アメジストが言った。



◇◆◇◆◇



 調査が行き詰まったところで話し合いを切り上げ、今日のところは解散とした。得られた情報はそう多くない。レインボー・ドラゴンは始めから――少なくとも百年前から意思を持たないぬけがらの様な存在だったであろうということ。遊城・ヨハン・アンデルセンは遊城十代とヨハン・アンデルセンの直系子孫であり二人の十代も、二人のヨハンもとてもよく似た姿をしているということ。恐らく「十代」と「ヨハン」という存在の間に何かしらの因縁があるのではないかということ。
 赤き龍が示して見せた相模原モーメントについてはまだ保留だ。こちらは実物を見てみないことには何とも言えない。
「遊星、あなたとりあえず寝た方がいいわ。若い時みたいに無理出来る体じゃないのよ。同じように徹夜が出来るだなんて思わないでちょうだい。私がさせないから」
 妻のアキにはそう宣告された。よっぽど徹夜する気万々に見えたらしい。図星だ。遊星はホールドアップの仕草をして「お手上げ」の意を示す。
「そうだな。アンデルセンさんのお宅に電話を入れてから寝ることにしよう」
「そうね。十代、変なことをしていなければいいのだけど」
「大丈夫だろう。あの子はしっかりしてる」
「だといいけれど」
 ダイヤルを回すと穏やかな声が受話器の向こうから聞こえてくる。十代の様子を尋ねると、返ってきたのは「喧嘩して仲直りをしたようだ」というやや予想外の言葉だった。


 不動遊星という人間は基本的に夢見が悪い。
 若い頃は殆ど夢を見なかった。しかもたまに見たとしてもいつもろくな内容じゃない。光の奔流が視界をものすごい勢いで埋め尽くして暗闇を根こそぎ奪い取っていく。優しく温かく世界を覆っていた闇は目が潰れてしまいそうなぐらいに眩い光に駆逐されて消え、無惨なまでに徹底的に破壊された街だけが残る。瓦礫の山、泣きわめく子供達、骨すら残らず灰となって積み上がった、かつて生きていたものの残骸。人々はそれまで当たり前だったありとあらゆるものを剥奪された。平凡な幸福、家族の温もり。残ったのは死のにおいと絶望、そして「まだ生きている」というほんの僅かな希望だけだ。
 サテライトという名前で呼ばれていた掃き溜めのスラムで、そういった光景を目にする度に遊星は己の罪がいかに重いものであるかということを自ら胸に刻み込んで育った。全ての悲劇を引き起こした「ゼロ・リバース」は遊星の父が研究していたモーメント・エネルギーの暴走が原因だったのだ。父の罪は己が罪。しかし、不思議と父を恨む気持ちにはなれなかったのである。遊星は顔も知らない父親を尊敬していた。
 時が経ち自身が父親となった今も子供の頃に抱いた思いは変わっていない。ゼロ・リバースが残した爪跡は復興した街々やビルに埋もれて見えなくなったが、消えてしまったわけではない。過去はなくならない。それでも遊星はまどろみの中で幾度か邂逅した父を尊敬していたし、素晴らしいと思っている。
 そして願わくば、己もそうでありたいと思う。
 結婚して十代が生まれてからは少しずつ普通の夢を見るようになった。家族の夢だ。草っぱらにシートを広げて、膝に乗せたまだ幼い娘をあやしている。隣では妻がランチボックスを開いて昼食の準備をしていて、どこからか春の風が吹いてきて鼻をかすめる。幸せな家族の光景。子供の頃は知らなかったし、どんなに望んだって手に入らなかったであろうものだ。
 それでも夢を見ないことが大半だったが、比例するように悪夢は見なくなっていった。夢というものに対して遊星は長いこと平和ぼけをしていた。

 だからその風景は――酷くショッキングなものとしてその目に映った。

「はっ……っ、ぁ……」
 空は厚く雲に覆われ、真っ暗な黒色に染まっていた。星なんか一つも見えやしない。不吉の象徴のような濁った天井の下、並び立つ高層ビルの群れ。そしてその中心にそびえ建っているタワーの天辺から一筋の白い光が差し、次の瞬間それは猛烈な勢いで周りを呑み込んでいった。
 潔癖なまでの白が世界を包み破壊する。破滅の光だ。過ぎたものを求めた人類に与えられた破滅という名の光。代償は数多の生命。
 遊星の記憶にない、恐ろしく鮮明なゼロ・リバースの光景。
「っは……あ……ぅ……。久し……ぶりだな、こんな夢は。忘れていた。――忘れられるはずもないものを」
 体中が嫌な汗でびっしょりと濡れていた。隣で寝ていたアキも、起き出して心配そうに遊星の顔を覗き込んでいる。遊星は額の油汗を拭って何でもないと言う代わりに首を振った。きっと今、自分は酷い顔をしているに違いない。
「遊星……」
「何でもない。大したことじゃないんだ。あんな話をした後だからかな……久しぶりにゼロ・リバースの夢を見た。それだけだ」
「そうね……私もあまり、良い夢は見なかったわ。遊星、あなた酷く疲れた顔をしてる。……無理、しないでね」
「……ああ」
「あなたはちょっと目を離すと無茶苦茶なことをし出かすんですもの。一人で何もかも背負い込もうとしないで。私、何のためにあなたの隣にいるのかわからなくなるわ」
 アキのか細い手が遊星の体を包み込む。遊星は深く息を吸った。誰かを心配させてしまうということには後ろめたいものがある。
「不安なことが沢山出来てしまったけど、きっと最後には全部良い方向に行くわ。だってあなたが頑張っているんだもの。……あのね、私、夕べの話が実はぴんとこないのよ。だって十代は十代でしかないわ。私達二人の可愛い娘よ。運命だとか宿命、因縁、そういうのみんな馬鹿みたいだってそう思う」
「そうだな」
「最後に決めるのは曖昧な神様じゃなく、そして私達でもなく十代自身。結局はそういうことじゃないかしら? 遊城十代とヨハン・アンデルセンにどんな繋がりがあって、十代とヨハン君にそれがどう関係していようとなるようにしかならないの。私達がZ-ONEの定めた未来をはねのけたように」
「ああ。だが、俺がやらなければならないことは、片付けておかないとな。モーメントを制御して安全に運転させるのは俺の仕事だ。それに万が一でもまたあんな悲劇を繰り返すわけにはいかない」
 遊星がきっぱりとそう口に出すとアキはそれはそうだけど、と言葉を濁らせる。遊星は不思議に思ってアキの目を見つめた。視線を逸らすことが出来なくなったアキは少し息を吸ってから躊躇いがちに次の言葉を選ぶ。
「その……ね、遊星。さっきジャックにもああ答えていたし、大丈夫だとは思うのよ。でも何だか怖いわ。だってあなたの――『彼』を語る目は普通じゃないもの。憧れだとか、そういう言葉の範疇で収まるものじゃないような気が時々する。……崇敬に近い、何か」
「……どうしたんだ、アキ」
「あなたの尊敬する遊城十代さんと私達の十代は同じじゃないってことを、お願いよ遊星、忘れないでちょうだい」
 アキが絞り出すように言った。そのあまりにも意外な言葉に遊星はびっくりして一瞬言葉を失ってしまう。確かに遊城十代のことは尊敬している。崇敬に近い感情がないと言えば嘘になるかもしれない。十代が遊戯を半ば崇拝していたように。
 でも娘とその人を取り違えるなど。混同するなどありえない。
 遊星は心配するなと言ってアキの髪を撫でた。アキは「本当?」とまだ疑わしげな顔をしている。
 けれどいくらなんでもそんなことがあるわけがない。遊星はもういい年をした大人で、そのぐらいの分別は付くつもりだ。どこかのカルト宗教の狂信徒ではないのだし。そもそも遊城十代は三十八年前に死んでいる。
 再戦の約束は果たされていない。



◇◆◇◆◇



 ひとしきり実体化させたモンスターで遊び、そろそろ眠くなってきたかと思って時計を見てみれば日付が変わっている。十代とヨハンは揃って顔を見合わせた。結局何も有益な話が出来ていない。
「あーあ、結局遊んじまった。ルビーこのぉ、お前の触り心地が良すぎるのが悪いんだぞ?」
「俺の家族をいじめんなよ十代。あとハネクリボーがしょんぼりしてるぜ。お前さっきから全然ハネクリボーのこと触ってやってないじゃんか」
「だってハネクリボーは俺のモンスター、俺の相棒だもん。いつもそばにいる。好きな時に抱っこ出来る。でもルビーはそうもいかないだろ。あー、やっぱ柔らかいぜ……ハネクリボーだとこうはいかないよなぁ」
『く、くり、クリィ……』
『るびるび。ルビィ』
「十代、ハネクリボー泣いてる」
 普段は愛嬌のある顔が滂沱と流れる涙に覆われているのを指さしてヨハンが呆れたように言った。ルビーもハネクリボーを慰める方に回っている。十代の味方はいなかった。四面楚歌という奴だ。
「う……ごめんハネクリボー。さすがに悪ふざけが過ぎたぜ……。お前の毛だって嫌いなわけじゃないんだ。ちょっとちくちくするけど」
『くりぃ……』
「だからもう泣き止んでくれよ。今夜はお前を抱き枕にして寝てやるからさぁ!」
『……くり? クリクリィ!』
「そんなんで上機嫌になるなんて安上がりなやつだなぁお前」
 ハネクリボーの態度に苦笑いを漏らしてヨハンもルビーを腕の中に迎え入れた。ハネクリボーのあの喜びようを見るに、あいつは相当十代に抱かれることが好きらしい。それに少し柔らかさの足りない毛のことを除けば、確かにサイズ的に抱き枕にはぴったりだろう。ヨハンはハネクリボーを抱き枕にして眠る幼稚園児ぐらいの十代を想像してみた。顔より大きいハネクリボーに顔を埋める幼い十代。すごく可愛い。
「ヨハン、何考えてんだよ? 顔がにやにやしてて気持ち悪い。……ヨハンってそういう顔するんだなぁ」
「俺今変な顔してた? 参ったなぁ、十代に気持ち悪いと思わせるってどんだけなんだよ。クラスの女の子達には絶対見せられないな」
「俺にはいいのかよ」
「ああ。十代ただ一人にだけ見せる俺の真の顔その十八さ」
「そんなもん見せられても困るし、その十八ってどういうことだ。他のを見たいような見たくないような」
 十代がけらけら笑いながら言う。女子特有のコケティッシュさとか、耳触りの悪さとかそういうものがない十代の笑い方にヨハンは前々から好感を抱いていた。かといって無遠慮な男のような豪快さや乾いた感じもない。すごく素直な笑い声だ。
「んー、やっぱ十代の笑い方好きだなぁ。心地良い。そんな十代に、君だけに見せる特別な顔その七を見せてあげよう」
「へぇ? どんなの?」
「こんなの」
 言うと、ヨハンは手早く十代の腰に手を回した。
「ちょ、おい。くすぐったいって――え?」
「――じゅうだい」
 十代を腕の中に抱いたまま、ヨハンが耳元にそう囁いてくる。今まで十代が聞いたこともないような声だ。慌ててヨハンの目を見てみれば本当に始めて見る、挑発的で不敵な目をしていた。なんだこれ、十代は自問する。
 顔が、熱い。
「……なんてなー。酔った父さんから聞き出した母さんを落とした時の手法? らしいぜ。冗談だよ。だからそんな顔するな――ってうぉお?!」
「ほんっと、馬鹿――!!」
 顔を真っ赤に染めた十代にグーでパンチを喰らうヨハンを見て、
『救いようのない鈍感さだわ。呆れた』
『ほほ、若さがあって良いではないかのう? 人生に失敗は付き物じゃ』
 アメジストが頭を抱えるようにぼやくとエメラルドがのほほんと笑った。


「母さんの陰謀だ」
 十代がげんなりとした顔で言った。爽やかな朝の陽射しとは正反対にどんよりとした声が隣室から聞こえてくる。ヨハンは制服のズボンを穿きながら壁越しに十代に尋ねた。
「どうしたんだよ、朝からそんな声出して。幸せが逃げるって教わらなかったか?」
「どうしたもこうしたも、鞄にズボンが入ってないんだよぉ。母さんは何とかして俺にスカートを穿かせようとするのが趣味なんだ。高校入ってからやらなくなったと思ってたのに!」
「なんだそんなことか。俺のズボン貸そうか?」
「……いい、遠慮しとく。ヨハンのサイズだとなんかゆるそうだし。それになんとなく嫌だな」
「嫌って。傷付くなぁ」
「別にヨハンが嫌いってわけじゃないから気にしないでくれ」
 その後十代が黙り込んでしまったのでヨハンも黙って着替えを続行する。ネクタイをちゃっちゃと締めてブレザーを羽織る。一応鏡を覗き込んで、寝癖を手で適当に寝かし付けると鞄を持って部屋を出た。そのまま隣室に向かうが昨日のようにすぐに開け放したりはせずに二度扉をノックする。「ちょっと待て」という短い言葉の後、三分ぐらいすると扉が開いた。
「別に急ぐ必要なかったのに。髪、はねてるぜ」
「うるせー。そういうヨハンだってはねまくりじゃないか」
「俺のは体質だからいいの。……って、十代も体質かな? しかし、本当にスカートなんだなぁ。変な感じ」
「だよな? 俺こういうタイプだからスカートとかてんで駄目なんだ。寒いし。すかすかするし。女装してるみたいで気持ち悪くないか?」
「いや? 普通に可愛いと思うけど」
「あーもう、恥ずかしいから見ないでくれよぉ! あと可愛いって言うのも止めろ!」
「そうか。じゃあ止めとく」
 連れ立って階下に降り、にこにこと微笑んでいるアンデルセン夫妻と四人でテーブルを囲む。夫妻に合わせて二つ三つばかり他愛のない話に興じた。昨夜、何を話したか。十代の好きなもの。それから、ヨハンの失態の顛末。
 十代がいかにヨハンがデリカシーの欠如した行動を取ったかを事細かに伝えるとヨハンは動転し、夫妻はそれは大変だったわねぇ、とくすくす笑っている。ついにはヨハンがぶすくれてだんまりを決め込んでしまったので流石にかわいそうになって十代もこの話題を止めた。
 そして二人で、学校へ出掛けた。出会ったあの日以来の二人で歩く通学路は、いつもよりちょっとだけ狭かった。