11:破滅の光
時間は少し遡って、十代とヨハンが相模原に着く数時間前の朝のこと。
「あ、おはよう父さん」
朝食のトーストを齧りながら十代がぱっと明るい笑顔を遊星に向けてくる。遊星はコーヒーと新聞を手に娘の向かいの席に着くと「どうした」と問う。
「休みの日は十時まで起きてこないのが常の十代が随分と早起きじゃないか」
「友達と出掛けんの。待ち合わせの時間結構早いから」
「そうか。何処へ誰と行って何時に帰ってくるのかきちんと母さんに言ってから行くんだぞ」
「ヨハンと海馬ランドに行って、んー、そうだな、七時までには帰ってくるよ」
「……遅くないか?」
「俺もう高校生なんだよ。父さんは相変わらずそういう基準が厳しすぎる」
「そうよ遊星。私だってよく遊星達のところに夜遅くまで居座ってたけどこの子と同じぐらいの年だったわ」
「……そう言われると、返す言葉がないな」
常から過保護過保護とよく言われている遊星だが、それに比例しているのかアキの方は心配性な癖に信頼がおける相手であればこういうふうに寛大な判断を下すことが多かった。これまで「不動博士の娘というネームバリュー」の割に十代が大事に巻き込まれたことが少ないということもあるが、やはり自分が若い頃にそう危ない目に遭ったことがないという意識が大きいらしい。
「彼なら大丈夫でしょう。結構鍛えてるみたいだったし。強盗ぐらいなら撃退して帰ってくるんじゃないかしら」
アキはあっけらかんとして言う。確かに十代がその気になればモンスターの実体化能力で大概の危機は脱せる。実体化したネオスに立ち向かえる人間などそういるはずがないからだ。遊星自身若い頃は体力に自信があった方だがあれとやりあうのはいくらなんでも無茶である。
「まあ、いいんだが。感じの良い少年だし……」
遊星がまだどこか引っ掛かるという調子で漏らすが既にアキも十代も遊星の声に耳を傾けてはいないようで、話題は十代の恰好の話に移り変わってしまっていた。今日の十代はタンスから卸したばかりのぴったりしたジーンズにTシャツと薄手のパーカーを合わせている。いつもよりは気を遣っているみたいで、組み合わせが十代なりに考えられていてそれなりに纏まっていた。しかし少女らしさは殆どない。
十代の好みは女性らしい趣味を持っているアキには勿論似ていないが、かといって遊星と似通っているのかというとそうでもない。赤色が好きで、シンプルで機能性の高いものを好む傾向が強い。誰に似ていると聞かれれば遊星は真っ先に遊城十代の名を出すだろう。遊城十代は服装にとかく無頓着な人で、着られればいいといったふうな思考の持ち主なんだろうというのが遊星の見立てだった。それはパラドックスとのデュエルで汚れた服を着替えようとしない様子から感じたものだ。
『十代さん、着替えとか……ないんですか』
『んー? ああ、着替えなー。ないぜ。これ一張羅なんだ』
『酷く汚れていますけど、その服』
『構わねぇよ。泉か湖が見付かった時にでも体と一緒に洗うさ。それにこういう時ってな、何故かヨハンがタイミング良く俺を見付け出してシャワーに引っ張って行くんだ。そんで風呂場にぽいっと投げ出してタオルと自分の服を寄越すの。俺世界中フラフラしてるはずなのに面白れぇよな!』
武藤遊戯の時代から少しばかり未来にあたる彼の時代に送り届けている最中、遊星はそんなことを十代に尋ねた。遊星はバイク一つで駆けてきたからしょうがないのだが彼は旅道具一式を肩にかけている。だというのに着替えようか考えるそぶりも見せなかった。それで聞いてみたら、そもそも持ってないとの返事だ。これには流石の遊星も面食らった。頓着しない方の遊星ですら帰ったら着替えようと思っていたぐらいなのだ。それぐらいパラドックス戦でのダメージは酷かった。
女の子である娘の十代は豪快にも程があった彼よりは大分マシだったが、それでも服装を整えるということ自体が彼女としては相当珍しい行為に当たる。女子高生としてどうなのかしらというのが近頃のアキの嘆きだった。遊星の記憶の中のアキはいつも露出度の異常に高い服を着ていた覚えがあって、十代がそういう服を着出すのはそれはそれで嫌だなと思ったのは内緒の話である。
「ところで十代、スカートは穿いてくれないの? この前可愛いの見付けたからクローゼットに入れておいたのだけど……」
「げっ、母さんまたそんな無駄遣いしたの?! だから俺はスカート嫌いだから穿かないって、何回言ったらわかってくれるんだよ」
折角デートなのに、と惜しむアキに十代が「だからー、デートじゃないんだって!」と必死な声で否定するのを遠くに感じながら遊星は新聞を捲る。何だか落ち着かない。三面に踊っている小見出しの文字がうまく頭に入ってこないようなそんな感覚を覚えて遊星は新聞を置くとハムエッグにフォークを突き立てた。
母の誤解を解こうと弁を奮っている娘を遠目に見ながら遊星は首を傾げる。自分は一体、何にこんなに気が立っているのだろう。
◇◆◇◆◇
「悪いヨハン。待った?」
「全然。俺も今来たとこ」
「なんか、そういうのを地で言えるのってカッコイイと思うぜ……」
ずるい、と子供っぽく頬を膨らませて言ってきた十代の頭をあやすように撫でてやってヨハンは彼女の手を取った。パーカーの先から伸びる手のひらは小さく、指は整った細さで美しい。爪は生まれたままの桜色だった。日本人の色だ、となんとなく思う。
「十代はマニキュアとかしないんだな」
「なんだよ、期待してたのか? 残念だったな。俺はそもそも化粧というのを生まれてこの方したことがない」
「いや。俺マニキュア塗りたくってる女の子の爪好きじゃないんだ。折角綺麗なものを生まれ持ってるのに散々荒れさせちゃってて悲しくなるんだよね」
「ふーん。相変わらず変わった感性してるんだな」
「十代程じゃないさ」
「なんだと」
妙な印象を持たれているようなので軽くからかってやるとぶすくれて機嫌を損ねそうになる。ヨハンは慌てて十代の機嫌取りに回った。ルビーもひょこっと肩から降りてきてヨハンの加勢に回ってくれる。十代はルビーに触るのが好きで、ルビーを見ただけで大抵のことは水に流してくれるのだ。
「おっルビー! おはよう、今日もお前はちっこくて可愛いな!」
『るびぃ』
『クリィ! くりくりぃ』
「あはは、いっつも思うんだけど羽根と尻尾で握手するって面白いよなぁ」
この通り、効果は覿面だ。ヨハンはほっと胸を撫で下ろしてから、迷わないように注意してルビーの視線を追った。まずは駅に辿り着いて電車に乗らないことには、今日の冒険は始まらないのだ。
シティ中央からどんどんと遠ざかって、郊外へ向かう内に車窓の景色が緩やかに移り変わってゆく。初めは見慣れたコンクリート製の建物ばかりだったのが、次第にあの特徴的な「シティらしさ」というのが抜けて普通の都市になっていった。シティの外と内では基準になるセンスが違うのではないだろうかと時折思うことがある。繁栄の一言で表されるネオドミノの装飾は夜によく映えるネオンなんかが多かったりして、目に眩しい。人工のものであることに変わりはないのだが、シティの外の街の方が穏やかなのだ。
政界、財界とデュエル界が並び称される世の中において、デュエリストにとっての聖地と呼べる土実野町がいっそ過度に感じる程栄えていくのは当たり前の摂理かもしれないけれど。
「人、あんまり乗ってないんだな。いつもぎゅう詰めの満員電車にしか乗ったことなかったから新鮮だ」
「このぐらいが息しやすくて丁度いいよな。今は大分ましになったけど子供の頃は身長足りなくて呼吸困難になるかって何度思ったことか」
「俺は今でもたまになるぜ。ヨハンは俺より背高いもんなぁ」
なんでもない話をして、くすくすと笑いあう。多分傍目からでは、とてもこれからテロ紛いのことをしに行くつもりなのだというふうには見えないだろう。でも二人はそういう法律すれすれのことをしに電車に揺られているのだった。単純な興味好奇心からモーメント施設への潜入を試みようとしている。
「……わくわくするなあ、こういうの」
不意に十代が言った。正面を向いていた顔がヨハンの方にくるりと向けられて、にかっと歯を見せて笑う。歪なところのない歯列。真っ白く健康的な歯が笑顔によく合っていた。
「わくわくする。期待と興奮とがないまぜになってる感じ。高揚感って奴かな。ヨハンはどう?」
「俺の場合は興奮と期待に怯えがほんのちょっと。俺実は小心者だからまだどっかでびびってるんだよ」
「嘘吐け。全然そんなふうには見えない」
「そりゃまあ、好奇心の方が勝ってますから」
大人がひた隠しにしている秘密を知りたいと思うのは子供なら自然なことだ。しかもあの不動遊星の隠し事。相当、すごい事件がもしかしたらあるかもしれない。
「何があるんだろうな」
「世界がぐるっと変わるようなものがあったりすると面白いんだけどなぁ」
ヨハンが冗談めいてぼやいた。でも薄々わかってはいる。自分たちの世界観ががらりと入れ替わるようなものが、ただのエネルギー生成機関に隠されていたりするはずが普通はない。
◇◆◇◆◇
そして時間は実体化したモンスター達が飛び出していった後に戻る。
「そういや連絡してくれって気軽に言ってたけどそもそもモンスターとの連絡手段なんてあるのか?」
「多分。リサーチャーかサイクロン・クリエイターあたりならきっとなんとかしてくれると信じている」
「無茶ぶりじゃないか」
「機械族だろ。きっとディスクに通信が出来るはずだ」
「どうだろう……」
出来なかったらそもそもの計画がおじゃんだな、と施設から目を逸らさないままヨハンが言ってやるとああうん、と曖昧に言葉を濁して十代は思案するように目を細めた。本当、無計画というか行き当たりばったりというか。ヨハンだってもうちょっと現実的なプランをいくつか考案してから実行に移すだろう。尤もそのアバウトさも十代ならば長所の一つかなと思えてしまうのだけど。
「電波飛ばせなかったら侵入経路から一羽だけ戻ってきてくれるんじゃないかな? きっとそうに決まってる。あいつら正義の味方だからそれなりに頭良いんだ」
「まあそうなるといいけど」
かなり疑がわしげな表情をしているヨハンの方に飛んで来てハネクリボーが同調するように体を上下に揺らす。「ほれ見ろ、言わんこっちゃない――」ハネクリボーの言いたいことは大体こんなところだろう。この光属性・天使族のモンスターは本当にA・O・Jシリーズのことを嫌っているようだった。反りが合わないという言葉では済まされないらしい。相当だ。
「ハネクリボー、別に悪い奴らじゃないんだから信用ぐらいしてやれよ」
『クリ。クリクリ!』
「即答か。……ま、気長に待ってますか」
コンマ何秒の速さで拒否の意を示されたのでヨハンはこれ以上の会話は無駄だと判断してハネクリボーの説得を諦めた。元より頑張ったからといって何かメリットがあるわけでもない。
「見付からないようにコソコソ移動してるだろうから時間かかるだろうしなぁ。それにしてもどこから侵入したんだろうな? やっぱオーソドックスに通気口とか?」
「クラウソラスとかが入れるかどうか知らないけどな。ここからだとちょっとよくわからないけどモーメント、大きいから建物から突き出してるだろ? あの周りが確かサイズのある通風孔になってるはずなんだ。人間だと通るのもそもそもあそこに到達するのも難しいけど精霊なら不可能じゃない」
「……警備ゆるすぎないか、それ。小型爆弾を塔載した飛行型ロボットをモーメント付近に送り込んだら一発でドカン! ってことになりかねないぞ」
「んー、あれぐらい大型のモーメントになっちゃうと大抵の機械は狂っちゃうんだってさ。特殊処理を施したスパコンじゃないと命令系統がバグって機能しなくなるらしい。父さんの受け売りだから俺もよくわかってないけど」
「つまりよく訓練した鷹でも使わない限り普通は無理ってことか。……あー、でも爆弾は不発になるんだな。ややこしい」
「でも精霊達なら不可能ではないってことだよ。他のことは考えてもしょうがないだろ」
そんなことを呑気に話し込んでいると、ボン、というくぐもった音が小さく聞こえてモーメント・タワーの周囲から少量の黒煙が上がる。モーメント・エネルギーのすぐそばにあって爆発可能なものは通常モーメントを制御するコンピューター自身だけだ。恐らく所員はスパコンのオーバーヒートか何かを真っ先に疑うはずである。まさか実体化した精霊が爆発しているとは思うまい。
少し離れた場所で待機している十代達にもはっきりと聞こえるぐらいの大音量でサイレンが鳴り響く。ややあってから建物入口と思われる場所から人がぞろぞろと隊列を組んで出てきた。火災か何かと勘違いしてくれたのだろうか? 何にせよ好都合であることには変わりないし、これで目標は達成出来たことになる。
十代がそう思った時、丁度良くディスクのランプが光りビープ音がやや控え目に鳴った。リサーチャーからの連絡だ。
「おーしきたきたきたっ! じゃあ行くぞ、ヨハンしっかり俺の体抱えててくれな。態勢崩すかもしれないから」
「わかってるって。俺の決意が鈍る前に決行してくれ頼む」
ディスクにカードをかけ、準備万端といった様の十代を両手でしかと抱えながらヨハンが言う。十代は「心配すんなよ、なんとかなるって!」と至極お気楽に言い切ると一枚の魔法カードを発動させた。
「発動――緊急テレポート!」
視界から、未だ煙を排出し続けている施設が一瞬の内に掻き消えた。
「緊急テレポート」の効果で辿り着いた場所はモーメント機関の真正面だった。きぃぃぃんと薄い回転音を継続的に鳴り響かせている。巨大な光の柱は円形のガラスに閉じ込められ、その中でただ無心に回転を続けていた。永久機関モーメント。機械が壊れない限り半永久的にクリーンなエネルギー生産を続ける夢の装置だ。
モーメントの光は非常に不思議な色合いをしていて、ピンクをベースに青、黄色、水色、とかく様々な色が混じり合い溶け合ってなんとも形容し難い色をしていた。ホログラム加工を光に当てている時みたいな色だ。刻一刻と変化していって定まらない。
ただ全体に強烈な白のイメージがあった。真っ白なんかじゃ全然ないくせして汚せない白の印象が酷く鮮烈だった。
「本当に緊急テレポートでここまで来れるとは思わなかった。あれって確かレベル3以下のサイキック族モンスターを特殊召喚するって効果じゃなかったっけ?」
「サイコ・デュエリストなんてサイキック族みたいなもんだろ」
「何でもありだなサイコ・デュエリスト……」
服をぱんぱんと軽く払い、態勢を整えていると二人の元にモンスター達が集まってくる。クラウソラス、サイクル・クリエイター、リサーチャー、A・ボム、それからスフィアボム。十代は彼等を一撫でしてねぎらってやるとディスクからカードを外して実体化を解除した。びっくりするぐらい簡単に潜入出来たのは一重に彼等の働きのおかげである。部屋のあちこちに破損した機械が見えた。最低限の破壊で済むように指示した十代だが、どうしても徹底的に壊しておかなければならなかったものがある。つまりそれらは監視カメラの残骸なのだった。機械仕掛けの正義連合は本当に優秀である。
「さて、じゃあさっさと探し物をしてしまおう。俺部屋の左半分やるからヨハンは右半分頼む」
「ああ。了解した」
ぱたぱたと足早に駆けていく十代を見送り、しかしヨハンはそこから動こうとしなかった。顔を眼前にそびえるモーメントに向ける。白。光。何かがヨハンをそれに惹き付けてやまない。
規則的に回り続ける機械に熱っぽいと言えなくもない程の視線を送りヨハンは呆然と立ち尽くした。その光の奥から呼び声が聞こえるような、そんな気がする。とても大切な声だ。大昔に忘れてしまった約束を呼び起こさせようとするようなそんな声。ヨハンはモーメントに向かって手を伸ばした。モーメント本体には愚かそれを覆うガラスにさえ届かない。それでも手を伸ばす。宙にある見えない何かを必死に掻き乱そうとするようにばらばらと指を動かし、握り込む。
「なあ……そこにいるのは、誰なんだよ……?」
応える声などない。高速回転を続けるモーメントの中に人がいるはずがないのだ。そのはずだ。
だからこの声はきっと幻聴に違いない。
『君の役目は終わった。後はもう眠っていればいい。おやすみ、ヨハン』
「……え?」
その"幻聴"に驚いてヨハンは首を傾げる。おやすみ、ってどういうことなんだろう? でもその疑問についてゆっくりと思考を巡らせることはヨハンには出来なかった。目の前を異常なまでに眩い光が覆い尽くして、意識を奪い取っていく。
ヨハンがどさりと派手な音を立てて地面に倒れ込むのと同時にモーメントがゆっくりと逆回転を始めた。十代が音に気付いて、ヨハンに駆け寄って来る。狂ったような甲高い回転音が部屋中を満たした。
ゼロ・リバースが始まろうとしている。
◇◆◇◆◇
相模原からの緊急通信を受けて遊星は遠隔コントロールシステムを起動した。別のコンピューターでモニタリングの記録を表示させる。特に異常は見付からない。
先程入ったあちらからの報告によると、急に施設内の数箇所で爆発が起き、火災警報が作動した為急遽全職員を施設外に退避させたらしい。原因は全くもって不明。何が爆発したかさえ定かではない。
マザーにネットワークハックをかけて接続し、異常箇所の炙り出しを試みる。あの施設全体に及ぶ巨大なマザー・コンピューターのどの部位が欠損したのか。まずはそこの特定からだ。
幸いなことに、今のところモーメントは正常に稼働していた。運転を停止してしまうことも考えたが今はまだ下策だ。あの地域一帯が停電しかねない。マザーが必要とするエネルギーだけで備蓄分を食い潰してしまう恐れがあった。
「しかし爆発というのもおかしな話ですね。あれだけ巨大なモーメント磁場が発生している場所で爆発出来るものなんてそうありませんよ」
「ああ。マザー本体が何かの原因で爆発したと考えるのが一番自然だ。だがどうにも引っかかる。この前見た時はそんなに脆そうな部位なんて見当たらなかった」
「……ですが人為的なものだとしても不自然すぎます。犯行声明なんかは出ていませんから、そうすると犯人は何の要求もせずにわざわざ我々にも未知の爆発物を開発してどうにか侵入させたことになる。メリットが見えません」
「ああ。さっぱりだ。――欠損部位リストアップ開始する。関連性が見られるかどうか解析班、頼む」
遊星が振り返らずに背後に控えている所員達に通達した。画面をマザーのモニタリング結果からモーメントのモニタリング・コントロールに映し変える。胸がざわついて落ち着かない。嫌な予感がする。
「一応、制御をオートから手動に変更しておこう。何かあって命令を聞かなくなってからでは遅い」
「停止は」
「まだだ。相模原のエネルギー供給はほぼこいつに依存している。おいそれと停められるものじゃない」
モーメントは規則正しく回転を続けていた。しかし遊星は知っている。一度これが牙を剥けばガラスの拘束を打ち破って世界に破滅をもたらす光を撒き散らすのだ。世界が終焉というものを迎えたらこんなふうになってしまうのだろうかというむごたらしい惨状を作り出す。爆心地から半経二キロの生き物はまず助からない。生命は死に絶え建物は一瞬で元の形を失いごみ溜めの凶器と化す。二度とあってはならない光景だ。
必死にキーを叩いた。こんなに不安でたまらない思いをするのはいつぶりだろう? 数十年ぶりに世界の危機と向きあっている気分だった。ダークシグナー、イリアステル、それからZ-ONE――それらと一気に対決でもしているかのようなそんな心地だ。
「チーフ、欠損箇所のリストアップ終わりました。モーメントを中心として小規模な破損が円環状に不規則に見られますが、部位ごとの関連性は見られません。あえて言うのであれば、モーメントが設置してある部屋の監視カメラは全滅でしたが……」
「モーメント・エネルギーの影響と見るのが一番自然かもしれないな。モーメントも旧式だがあの施設は建物自体がやや古い。オーバーヒートか、或いは耐性が足りなくなったか――」
「わかりませんが……――チーフ!」
隣で演算をしていた部下の一人が遊星のモニタを覗いて悲鳴のような声を上げる。何事かと思って目を凝らし、遊星は悲鳴を上げる変わりに絶句した。恐れていたことが現実になろうとしている。
「……モーメントが。逆回転を始めようとしている」
モニターに映る波形がゆるやかに下降し、中央の横線を境に反転していた。
◇◆◇◆◇
酷く眩しい世界だ。白以外の色がない空間でヨハンは恐る恐るといったふうに目を開けた。ここはどこだろう? 確か、さっきまでは相模原モーメントの目の前に立っていたはずだ。あれに手を伸ばしたところまでは覚えている。でもどうして手なんか伸ばしたんだっけか?
『俺が呼んだからさ。随分長いこと君が来るのを待った。ようやくこの日が来たんだ――お帰りヨハン。そしておやすみだ』
疑問に答えたのは得体の知れない"誰か"だった。姿形はヨハンによく似ている。上向きにはねている蒼緑色の髪の毛に海みたいに青い瞳。袖口にフリルの付いた薄紫のシャツの上に青い袖なしのベストジャケットを着ていて、でもヨハンより幾分か背が高かった。それに顔付きも妙ににやにやしていて気持ち悪い。自分と同じ顔ににやにや笑いで見つめられるというのもなかなかシュールな体験だ。
『なんだよー、なに見てんだよ? ……なんちて。冗談さ。だからまあ、そんなに睨み付けないでくれよ。ちょっと怖すぎるぜお前』
「誰だよあんた」
『破滅の光。ちなみに四十年前のゼロ・リバースの原因も半分俺だ』
"誰か"がそうこともなげに言う。あまりにもなんでもないことのように言うものだから一瞬ヨハンはそれがどういう意味をもった言葉なのか理解出来なかった。――ゼロ・リバースの半分原因?
「ゼロ・リバースを望んで引き起こしたっていうのかよ? まさか。あれは不幸な事故だ」
『まあ別に俺が望んでたわけじゃない。俺という存在が事故に至る要因を加速させてしまっただけさ。何せ俺は破滅の光だからな。モーメントと俺は似通ったものだから、互いに干渉を起こし易いんだ』
今だってそうさ、と大仰に手を広げて"誰か"が言葉を続ける。ヨハンは必死に"誰か"が言わんとする意味を考えた。モーメントに干渉してモーメントに干渉される。どう考えたって普通じゃない。――人間じゃ、ない。
『今俺のことを人間じゃないとか考えただろ。心外だなぁ、俺はお前なんだぜ。正確にはこれからお前になるんだけど。大好きで大好きで大好きで愛しくて憎らしい我が最愛の優しき闇を今度という今度は手に入れてみせる。そのためにはお前の意識が邪魔なんだ。でも心配ない。別に"ヨハン"が死ぬわけじゃないし、お前も消えるわけじゃない。ただ世界がひっくり返るってだけの話だ』
「何……言って……」
『別に何も心配は要らないぜ。黙って俺を受け入れればいい。元より拒否権なんかないけどな。この光――そのうちセカンド・ゼロ・リバースって呼ばれんのかな――もお前が大人しくしていればそう外界に影響を及ぼす前に収まる。大好きな十代は漏れた俺の力に当てられたぐらいじゃどってことないけど普通の人間はそうもいかないんだ。これ以上拡散したら民間人に実被害が出るかもしれないなぁ』
尚も意地の悪いにやにや笑いを崩すことなく"誰か"はまるで脅迫でもするかのようにそんなことをのたまった。それはこう言っているのだ。「ヨハンが原因で、ゼロ・リバースが甚大な被害をもたらす」。脅迫のようなのではなかった。まるっきりただの脅迫だった。
「お前は何をするつもりなんだ……? 破滅の光ってなんだよ。なんなんだよ、お前……!」
『まだわかんない? 頭起きてるか? ――いいか、一度しか言わないからよく聞けよ。破滅の光を受け入れる器がない内は、エネルギーが漏れ続ける。望む望まないに関わらずだ。前回目覚めることなく不自然に抑圧されていた俺の力はもう限界でさ、かたちを手に入れないと俺自身でも御しきれる自信がないんだ。それもこれもあの愛しい十代が"気持ち悪いヨハンなんか見たくない"なんて我が侭を言うのが悪いんだけど』
「……?」
『ああ、この場合のヨハンと十代は今の二人のことじゃない。君達の前世さ。そのうち前世とかそういう括りの無意味さに気付くだろうから説明はしないけど。……とにかく限界なわけ。ギリギリ。だからその体を明け渡せ』
最後は命令形だった。ヨハンの言葉を待たずに"誰か"の腕が体へと伸びてくる。その指がヨハンに触れると、体の表面が水面のように揺れて滑らかに呑み込んだ。まるで初めっから「かくあるべき」だと定められていたのかのように抵抗なく"誰か"の体がヨハンの皮膚を溶かして同化すべく侵入をしてくる。
「つまりお前は存在を安定させるために体が必要で、たまたまそこにいた俺が都合のいい鴨だったってそういうことか?」
『何言ってるんだ。初めに俺はお前だって言っただろう? ヨハン、君じゃなきゃ駄目なんだよ。何のために赤き龍を焚き付けたのかわからないじゃないか。ヨハン・アンデルセンの魂じゃなきゃ意味がない』
ヨハンはぽかんとして、間抜けな顔をしてへたりこんでいた。その間にも"誰か"のヨハンへの浸食は進んでいく。もう"誰か"の手のひらは存在しなかったし、腕も大分消えかかっていた。ヨハンの内に溶けてしまったのだ。
「何だよ……お前が何言ってんのかも、俺がどうなっちまうのかも、もうなんにもわかんねぇよ。お前は何がしたいんだよ……!」
『へぁ? 簡単なことだよ。器たる君の体を手に入れて、そうしたら次は覇王を手に入れる』
「意味がわからない。それって要するに俺を乗っ取るってことだろ?!」
『心外だな』
"誰か"は何を馬鹿なことを、とでもいうふうに首を振る。
『俺と君の意思を統合して完全な存在になる。それだけさ。そもそも君と俺は同じ"もの"なんだぜ、何がおかしいって言うんだ? そっちの方がよっぽど理解不能だ。――それに君だって十代を愛しているんだろう』
「あ、あいぃ……?」
『何の不都合もない。まあ、とりあえず思い出すべき過去でも見ていてくれ。目が覚めたら全部終わってるさ。あるべき形になる。セカンド・ゼロ・リバースも』
"誰か"がそう言うと強烈なフラッシュが視界を埋め尽くして何も見えなくなる。走馬灯のように記憶が走っていく中、ただ一人の姿だけが鮮明に浮かび上がった。茶色い髪、瞳、はにかむ笑顔。愛らしい唇。赤。
じゅうだい。
――それが、遊城・ヨハン・アンデルセンが覚えている最後だった。
「Deadend World」-Copyright(c) 倉田翠