12:永遠の少年
土実野総合病院産婦人科の待ち合い室に設置されているベンチに二人の男がやや距離を開けて座っていた。二人とも、連れが帰ってこないものだから暇そうに指をもてあそんでいたりなんかしている。場を満たして支配する沈黙。長い間そのままの状況で膠着していたが、幾数分か経った頃に右側に座っていた男が口を開いた。
「……明日香が」
「うん?」
「もうすぐ出産しそうなんだ。予定日まであと二週間ぐらい」
「奇偶だな。うちの妻もだよ。こっちはあと一ヶ月だ」
「お前、なんでここにいるんだよ? 結婚式は租国のデンマークでやったじゃないか」
「人が悪いぜ十代。俺は日本のプロリーグに参加してるんだぞ。日本に住んでる方が自然だろ。それに土実野町はあらゆるデュエリストにとっての聖地だぜ、どうせ住むんならここだ。――それに十代、それを言うならお前だって実家はこの町じゃないだろ」
「……だって。遊戯さんがいるもんよ……」
「そう言うと思ったぜ。お前の武藤遊戯フリークは相変らずだなぁ。ま、いいけどさ……」
指を咥えた少年のようにいじけるヨハンに十代はふーんと素っ気ない態度を見せる。三年と少し前に「大人になってしまった」癖に随分と子供っぽい仕草だ。ああこいつまだこういう表情も出来るんだなぁと思うと同時に愛おしくなり、手を伸ばしかけるがどうしようもなく悲しくなってその手を即座に引っこめた。ヨハンの恋は一年半前に終わった。同性でありながら最愛の人だったその友人はヨハンが秘めた思いを告げる間もなく彼の思い人と結婚してしまった。そして今、彼は出産を控えた妻の付き添いとしてこの場所に座っている。でもそれはヨハンも同様だ。
「それで、ヨハン。一応聞いてやるけどお前はどこに住んでるんだよ?」
「土実野町第七地区十八番四号」
「めちゃくちゃ近所じゃんか。ヨハンお前、実は俺の住所調べてから引越して来たんだろ」
「さてね。時に十代、こんな近所で育つんだ、子供達が顔を合わせないということはまずないだろう。年も近い。きっと幼馴染になるだろうね。地区制だから学校も一緒だろうし、高校はアカデミア本校にするだろうなぁ。俺達の思い出の場所だ」
「で、お前は何が言いたいんだよ」
やたら回りくどい言い方をする友人に十代は疲れた声で問う。昔はこんなふうなもの言いをする奴じゃなかった。なんでもストレートに表現する奴で、わかりやすくて気持ちのいい奴だった。いつから変わってしまったのだろう? 自分が知らない内にヨハン・アンデルセンもまた大人になってしまっている。
でもそれは仕方のないことで、そして当たり前のことかもしれなかった。あの能天気という言葉に人間の形を与えたかのようにお気楽で馬鹿な子供だった十代が今やこの有り様だ。子供はいつの日か大人になる。ワクワクもドキドキも色褪せてつまらない無感動な存在になる。そういうふうに出来ているのだ。ワクワクドキドキしたままでは立派に子供を育てることは出来ない。
「俺達の子供がさ、男と女でもし万が一結婚するなんて言い出したら相当面白いことになると思わないか?」
ヨハンはあっけらかんとして言った。少年の純粋なワクワクした笑顔じゃなくて、大人の小狡い笑い方だ。口端でにやにや笑う。いつの間にこんな顔をするようになったのだろう。
子供の頃考えていたように大人は万能じゃなかった。大きくなればなるほど世の中の理解出来ないものが増えていく。知らないことが気が狂いそうなぐらいに転がっていて、その現実を知らしめさせる。人間は人間である限り不完全な存在であるという枠組から脱することが出来ない。何を考えているのかもわからない神ですら全知全能にはなれないのだ。猿がちょっとばかり賢くなっただけの人間は当たり前のように無知無能だった。
「……ワクワクを思い出すんだって、そういえば昔イルカに言われたことがある」
「随分哲学的なイルカだな。それよりも十代、あの甲高い超音波を聞きとることが出来る特殊技能を持っていると何故早く言わなかった? 初耳だぜ」
「そのイルカじゃねぇよ。木星の衛星・イオに住んでるイルカさ。ネオスペーシアン・アクアドルフィン」
「なんだ。あいつか」
宇宙からやってきた新たな正義の使者、優しく宇宙を育む正義の闇のヒーロー。十代がかつてクレヨンで描いたおもちゃ箱のヒーロー達が成長して意思を持った姿。破滅の光と永遠の殺し合いを続けている正しき闇を導くために生まれた精霊達。
彼等は絵に描いたような正義を体現するために存在している純粋培養されたヒーローだった。当然だ。型にはまった正義像しか知らない子供が絵に描いて生まれたのだから。彼等はダークヒーローですら許せない潔癖症の生き物だった。心の闇に引きこもって覇王となった十代にそれでも力を貸してくれたのは、昔馴染みのE・HERO達だけだ。ネオスは口さえ聞いてくれなかった。
とは言っても覇王十代が行ったことといえば持てる力の限りを尽くした大虐殺であったのだから(しかも弱い者苛めだった。救いようのない悪事だ)ネオスがそっぽを向いてしまうのも仕方ないことだ。あれはダークヒーローですらなかった。闇に堕ちたヒーローはただの魔王だった。
自分の内面に眠る汚れて荒み切った部分を知った時、馬鹿なだけだった少年は目を瞑っていた現実を思い知らされた。ワクワクを思い出せ、そうイルカは言ったけれどワクワクしているだけじゃ何も救えやしないのだということを理解した。がむしゃらに走り続けていれば全てが上手くいくのだという幻想は打ち砕かれた。そして少年は走ることを止め、大人になった。
「あの頃はワクワクするってことがどれだけ大変な事か知らなかった。すごく簡単で、きっかけさえあればすぐに思い出せることだと思ってた。待ちに待った三分間、悪い怪獣を薙ぎ倒して帰っていくお茶の間のヒーローがどれだけ無責任なのかまるで知らなかった。……今、ワクワクを思い出せって言われてもきっと俺は素直にそれに頷くことが出来ないんだ。そんな純粋な気持ちは忘れてしまった」
「そうかな。本当にそうか? 十代。そういうふうに思い込んでるだけかもしれないって俺は思うぜ。だってお前、全然無感動じゃないだろう?」
「……お前にはそう見えるのか?」
ヨハンが顔を顰めてそんなことを言う。十代はすごく間の抜けた、不思議そうな声を漏らした。ヨハンは真剣な目で十代の顔を見ている。どこにも嘘なんか吐いてないって顔だ。
「ああ。だって無感動な奴が結婚なんかするはずないだろ。子供なんて尚更だ。お前は映画を見て泣かないかもしれないけど、だから無感動なのかっていうと違うと思う。確かにもうお前は子供じゃないけど根本の『遊城十代』という人間の部分は変わらないんだ。変われない」
「そうかな。随分人が変わってしまったって散々言われたけど」
「そいつらはお前の内面を見てないんだよ。明日香もそんなこと言ったのか」
「……いや。明日香は、あの頃からずっと変わってないって、そう言ってくれた……」
「だろ? お前のことを本当に理解している奴ならそうだってことを皆知ってるんだ。勿論俺も」
十代が選んだのが十代を理解して支えてやれる人間で本当に良かった、とヨハンは胸を撫で下ろす。もしそうじゃなかったら? と聞いてみたい気がするが何となく止めておくことにして十代は意味もなく手のひらを握ったり開いたりした。子供の頃みたいに年中熱いわけじゃないけどそこに確かに温度があって、感触がある。それは生きてるってことだ。死んでいないということ。
不意にヨハンが言う。
「お前さ、子供が生まれたらきっと泣くぜ。それで新しい喜びを知るんだ。人間だもんな、生きてる限り新しい発見はある。そしてその度にワクワクすることを止められないんだ。そういうふうに出来ているから」
「……そういうふうに?」
「そ。遊城十代は、確かに皆が望んでいるようなヒーローなんかじゃないかもしれない。でもその足を止めることは出来ないんだ。体に染み付いたものはそう簡単に捨てられない。――十代はずっと、走り続けている。ヒーロー達とワクワクすることを見付けるために」
だって、世界は回ってるんだもんなぁ? そう言ったヨハンの声はどこか夢見る子供のようだった。「精霊と人間の架け橋になるのが夢なんだ」ときらきらした瞳で嬉しそうに語ったあの五年前の時と同じ。狡猾な顔も純粋な顔も両方持っている。ヨハンは器用に成長したみたいだった。そして十代も、不器用だけども根底のところは変わっていないのだという。
あの頃から変わらずに走り続けているのだという。
「お前が足を止めるのはきっと死ぬ時だよ。その瞬間まで未来を夢みているんだ。明日何を食べようとか、そのぐらいのことから何まで全てが新しい感動に満ちている。そう考えるとさ、素敵じゃないかな? 少なくとも俺はそう思う。だから俺も、十代のように走ることを止められない」
ヨハンはにこりと笑った。
――そういえば、と十代は思う。
もう何千年も生と死を繰り返している優しい闇も、我が子の産声だけはまだ一度も聞いたことがないのだ。
<ロマンチェスタ・完>