13:レインボー・ルインの昔話(上)

 ずっとずっと、ずーっと昔、砂漠の中に小さな王国がありました。オアシスを元として発展を遂げてきたその王国は小さいながら活気にあふれ、国民達は慎ましく平和に、のんびりとその国で暮らしていました。
 美しい虹が架かることで有名なその王国を、キャラバンや他国の人々はこう呼びます。――「オアシスのラスト・リゾート」。そして「レインボー・オアシス」と――


 綺麗な花が咲く小さな原っぱで、幼い少年と少女が寄り添ってお喋りをしたり、花を摘んだりして遊んでいます。二人は他愛ない話をしては幸せそうに笑いました。二人はとても幸福で、満ち足りた子供でした。
「じゅうだい、何、作ってるの?」
「えへへ、花かんむり。見て!」
 白い花で作られた花冠を頭に被って少女が笑います。少年はわあっ、と声を出してとても嬉しそうな顔をしました。
「きれい! この前結婚した向かいのお姉ちゃんみたい!」
「本当? わたしもいつかあんなふうなドレス着たいなぁ。それでね、よはんのおよめさんになるの!」
「そしたら、じゅうだいはぼくの奥さんになるんだ?」
 少年がわくわくしてそう少女に聞きます。少女は心持ち恥ずかし気に、けれどもしっかりとその言葉に頷きました。
「よはんのおよめさんになって、奥さんになる。えへ、そう考えるとなんかあったかい」
「きっとじゅうだいはお向かいのお姉ちゃん、ううん、誰にも負けないぐらい美人な奥さんになるよ。それで、ぼくのところに来てくれるんだ。僕もそう思うとあったかくてうれしい」
「うん。不思議なかんじ。大好き、よはん」
「ぼくも、大好き。じゅうだい」
 ごくありふれたおさな子の約束です。
 まだ何も知らない純朴な子供だった頃に少女と少年が交わした幸せであどけない、けれど確かな約束。純粋な子供同士の好き合い。
 ――この時は、まだ。
 この何でもない約束が永遠を縛る枷となるなんて誰も想像してはいませんでした。



◇◆◇◆◇



 ヨハンはレインボー・オアシスに住む商家の四男坊です。最近小さな妹が新しく家族になったり、上の兄達に散々からかわれたけれどずっと好きだった幼馴染の女の子との婚約が決まったりと、何だか幸せなことばかり続いています。
「いいことばっかり続くと馬鹿になるぜ。顔がな」
 お調子ものの三番目の兄はそう言ってヨハンの顔をつつきました。
「にやにやふやけてのびきってる。ちょっとは引き締めないと折角のフィアンセに見捨てられるかもしれないぜ」
「自分に嫁が見付からないからといってヨハンを苛めるのは感心出来ない」
 そこに寡黙だけれども兄弟で一番優しく思いやりにあふれた一番目の兄が現れてヨハンに助け船を出してくれます。三男は悪戯を見付かった子供のようにぺろりと舌を出して長兄に向けて肩をすくめました。
「冗談だよ。確かにやっかんでるってのはあるがヨハンは俺の大切な弟だ。苛めてやなんかいない」
「う、うん。俺も大丈夫だよ。おはよう兄さん」
「ああ、おはようヨハン。そして婚約おめでとう。良かったな、あの子のことがずっと好きだったんだろう?」
 大きな手で頭を撫でられてヨハンはくすぐったそうに目を細めます。兄弟で唯一既婚者のこの兄はとても力があり働き者で、一家を支えるために頑張っている一方で自分の奥方のことをとても大事にしているということで近所でも評判になるぐらいの人でした。ヨハンが父と母の次に尊敬している相手です。ヨハンは常々から長兄のようになりたいと考えていました。彼とその奥方のような仲むつまじい夫婦にジューダイとなるのが夢なのです。
「結婚出来るのはもう二年先だけど、これで夢に一歩近付けたんだ。そう思うとなんだか嬉しくてたまらない。兄さん、兄さんもそうだった?」
「ああ。みんなそうさ。父さんと母さんもそうだったと聞いたよ」
 この国では、十六の年を迎えたら心に決めた異性一人と婚約するのが古くからのならわしでした。そうして二年間実直な付き合いをして、十八の年を迎えた春から夫婦の仲を持つことが許されるのです。尤もならわしと言っても親が決めるわけでもない自由縁談が主流となってきている今は十六の内に相手を見付けることが難しくなってきていて、ヨハンのようにすぐに婚約をするケースは稀でした。なのでヨハンより一つ年が上の三番目の兄にはまだ婚約者がいません。
「だがヨハン、婚約したからといって二人の仲が劇的に変わるわけではないんだ。お前達二人は何年も前から婚約している男女のように仲が良かったから尚更な。それをゆめゆめ忘れないようにするんだぞ。焦る男というのはとかく見苦しいものだ」
「わかってるって。男はどっしり構えてるもんだって、兄さんの口癖だもんね」
 ヨハンがわざと三番目の兄を見ながらそう言ってやると、三番目の兄は大きく咳払いをしてヨハンから目を逸らしました。彼にも彼なりの苦労と自覚があることを知っているヨハンは少し悪いことをしたかなと反省してそれ以上の追及は止めることにしました。
 その時家の玄関口から来客を告げるベルの音が鳴り響き、ヨハンはもしかしてという期待の意を込めて振り向きます。はたしてそこに立っていたのは一人の少女でした。チョコレートみたいな茶色い髪をやや短めに揃え、大人しそうな栗色の瞳をおっとりと覗かせているやや控え目な印象のある少女。ヨハンの婚約者で隣家に住んでいる幼馴染のジューダイ。
「あ、ごめんなさい。邪魔……でしたか?」
「全然。つい今しがたもジューダイの話をしていたところだよ。……あ、そのバスケット。もしかして」
「うん。果物をお裾分けでもらったの。それと簡単なランチを作って持って来たから……その、」
「よしわかった。あの丘だろ?」
 ヨハンが「ジューダイのことはなんだってわかってる」というふうにちょっとばかり格好を付けて言うと彼女はぱっと顔を輝かせて可愛らしく笑いました。言葉なんか使わなくたって二人は通じあっているのだというのがヨハンの自負するところでまた自慢でもあります。柔らかい花のように笑うその少女と、明るく快活なヨハンは正反対の性格をしているのにとても良く似通った存在でした。
 もしかしたら二人は本当は一人の人間だったのかもしれないと考えたことは一度や二度ではありません。そのぐらい、二人は仲が良くてお互いのことを心得ているのです。
「今日はいい天気だし、七の日の感謝祭で仕事はお休みだ。折角ジューダイが誘ってくれたのに断るなんて有り得ないぜ、行こう!」
「ヨハンの好きなもの、バスケットに詰めてあるからね」
「流石俺の未来のお嫁さん。愛してるぜ。……あと、今月の初七日市で露店もいっぱい出てたはずだから、帰りに市も寄って行こうか?」
 ジューダイが度々気にしていた髪飾りを扱っている商店も夜店を出すはずです。稼ぎに余裕もあるし、ヨハンもその飾りをジューダイが付けたらとてもよく似合うと思っていましたから、それを買ってあげようかなと考えているのでした。ヨハンはジューダイが幸せそうに喜んでいる顔を見るのが大好きです。もう十年以上そうなのです。
「じゃ、兄さん達俺行ってくるな」
「あんまり遅くなりすぎないようにな」
「幸せすぎて浮かれて転ばないようにな」
「そんな間抜けなことしないって。行ってきます」
 バスケットを持っているのと逆の方の手を引いてヨハンはうきうきした気分で家を出ました。目指すのはこの国でも珍しい、小さいけれど美しい花の咲く野原です。砂漠の中にオアシスとはいえ野原と言えなくもない規模の野草が群生しているのは殆ど奇跡みたいなものでした。そしてヨハンとジューダイは、その小さなオアシスの奇跡を幼小の頃から二人の秘密の場所として、大切にしていました。
 家が隣同士だった二人が初めて顔を合わせたのはジューダイが生まれた日だと言います。ジューダイはヨハンよりも十日だけ生まれるのが遅かったのです。生まれてそう日の経っていない二人が出逢った時のことを、ヨハンは朧げにですが覚えていました。真新しい布にくるまれた小さな命に、とても大きくて暖かなものを感じたことを。
 兄弟同然に育った二人は、誰よりも近い距離感の中で成長しました。ヨハンが嬉しかった時、ジューダイが悲しかった時、どんな時も二人は一緒にいました。ヨハンが嬉しい時はジューダイも喜びましたし、ジューダイが悲しい時はその痛みを分かち合い柔らげるようにヨハンが彼女を抱きしめました。性別は違いましたが、ヨハンとジューダイはいつだって二人一緒だったのです。
 そんな二人でしたから、お互いを異性として意識し出したのはある意味当然のことでした。ですから彼等の婚約は誰もに祝われました。彼等は稀に見る、本当に恵まれた幸福な二人でした。
「今でも、まだ夢を見ているみたい。ヨハンと本当に結婚出来るなんて」
 ヨハンに手を引かれ、道中でジューダイがそんなことを言います。
「ヨハンのお嫁さんになるって、小さい頃約束したよね」
「ああ。そして奥さんになってくれるって言ったよな、ジューダイ。まだあと二年待たなきゃなんないけどそれは間違いなく現実になる未来なんだ。もう夢じゃない。確固たるものだよ」
「そうだね。……あのね、だから、今花嫁修業をしてるの。ヨハンの好きな料理もちょっとずつ作れるようになってきたと思う」
「本当か?! 感激だ。俺は幸せ者だな」
 そんなことを話しながら、二人は野原へとのんびり歩いていきます。途中で何人かの知り合いとすれ違いました。おばあさんも近所に住んでいるお姉さんも、ちょっと冷やかしたりしながら「行ってらっしゃい」と手を振ってくれました。



◇◆◇◆◇



 人の魂にはその人だけの精霊が宿っていて、レインボー・オアシスの人々は皆十八の年を迎えるまでにその精霊を魂の外に出す――つまり実体化させることが出来るようになります。西方から来た学者が言うには、「バー」と呼ばれる魂のエネルギーから「ヘカ」という精霊の動力源になる魔力を作り出し、「カー」たる精霊に与えることでその原理は成り立っているそうです。誰にでもカーは宿っていて、早ければ十二の年を迎える頃にはどんなカーが宿っているのかがわかります。
 でもどんなカーが宿っているのかわかってもそれだけでは駄目で、カーを実体化させるにはバーがある程度成熟していなければならないそうです。ですから未熟な子供では精霊を外へ出してやることが出来ないのです。
 けれど一度精霊を出せるようになりさえすれば彼等は常に人々の良き隣人であってくれました。持ち主の魂が穢れていれば精霊も穢れた存在になってしまいますが、恵まれた国であるこのレインボー・オアシスにいる人間は多くがとても綺麗な魂の持ち主でしたからほとんど問題はありません。
 子供たちの多くは十四にもなる頃にはどんな精霊が宿っているか、その名前も精霊との心の対話を繰り返している内にわかっていくので、お互いの精霊がどんな姿をしているのか話したりするのはよく見られることでした。精霊の話は男女問わず人気のある話題です。
 でも、例外は少なからずいました。その魂の中に宿る精霊が強大な力を持っていると、通常よりも打ち解けるのに時間がかかって名前は愚かどんな姿なのかも今一つはっきりしないことがあるのです。ヨハンとジューダイはそんな手合いでした。二人は自分の魂に宿る精霊の名前と正確な姿を知りません。
「でもきっと、とても綺麗な精霊に決まってるさ。だってジューダイの精霊だもの。ジューダイの綺麗な心のように美しい姿をしているに違いない」
「じゃあヨハンの精霊はすごくかっこいい姿だね。ヨハンはかっこいいもん。私のヒーロー」
「照れるなあ」
「だってそうだもん。……私の精霊ね、最近なんとなく存在を感じるの。すごく大きくて、広くて、あったかい。お母さんみたいな感じがする」
「ジューダイも? 俺もぼんやりとだけど感じることがあるんだ。俺のは、凛々しい感じがするかな。白くて、シャープなイメージ。強い精霊だったらいいなあ」
「ヨハンは精霊がいなくたって十分強いよ」
「でもさ、憧れはあるだろ。強い精霊は男にとってはステータスだよ。父さんみたいな気高い感じのもいいけど」
 ヨハンの家族は皆動物を模した姿の精霊をしています。父が羽の生えた白馬――ペガサスという神話の生き物だそうです――で、母が毛並みの美しい薄紫の猫。一番上の兄は巨大なマンモスで、二番目の兄が雄々しい虎。三番目の兄は鷲です。そして長生きの祖父は甲羅の特徴的な亀というらしい生き物。精霊は得てしてその人の人となりや一生を示すことが多いのですが、祖父の場合はそれがよく表れていて、亀は長寿の生き物だそうです。
 だからヨハンも、自分は何か動物の姿の精霊だろうと当たりを付けています。家族の誰かと被ることはないだろうから、犬か狼か、はたまた父のように神話上の生き物かもしれません。
「強そうで、でも綺麗なのがいいなあ。……そうだな、虹みたいな精霊だったら言うことなしだ。滅多に見れないけど、虹ってすごく美しいだろ?」
 レインボー・オアシスの名前にある通り、この国ではごくたまに虹が架かることがあります。七色の光の帯が織りなすアーチはとても美しくまた壮麗でした。この国の名物であり誇りの一つです。
「ふふ、ヨハン。ちょっと欲張りすぎない?」
「こうだったらいいな、っていう願望だからちょっと欲張りなぐらいでいいんだよ」
「それもそうかも。でも私は高望みしない。どんな姿でも私の一部、大事な精霊」
「ああ。その思いは俺も一緒さ」
 バスケットに最後まで残しておいた果物を口に放り入れてヨハンは大いに同意して見せます。精霊はその人の心のかたちであるというのが一般的な説です。だからどんな姿をしていたとしても精霊はその人の分身でいわばもう一人のその人自身。文句などあるはずもないのです。
「精霊の姿や名前がわかったら、私に一番に教えてね。私もヨハンに一番に教える。私の中にいる精霊にね、ヨハンを守ってくれますように、って私ずっとお祈りしてるの」
「俺の精霊もジューダイのピンチには俺と一緒に戦ってくれる。そうに決まってるさ。だって俺は君を守るために隣にいるんだから」
「ふふ、ありがとう。……あのね、精霊同士も恋に落ちることがあるんだって。私の精霊とヨハンの精霊が恋人同士になったら、素敵だと思わない?」
 そう言ってはにかむジューダイがあんまりに可愛いのでヨハンは思わずどきりとしてしまって、頬を赤く染めました。昔っからずうっと、いつだって彼女の笑顔はヨハンをどきどきさせます。ヨハンの未来の花嫁は言いようもなく可憐なのです。
 ヨハンは摘んで編んでいた白い花の冠を後からこっそり取り出すとそっとジューダイの頭に載せてやりました。ヨハンは花冠を頭に載せたジューダイの姿も好きです。子供の頃に結婚した近所のお姉さんの美しい花嫁姿を連想させるからだというのもありますし、白い花の可憐さとジューダイの愛らしさがヨハンに幸福と満足感をもたらすからというのもあります。
「ヨハンは白い花が昔から好きよね」
「ジューダイに一番よく似合う色だと思ってるからね。大人しくて、でも気高い色だよ」
 ジューダイと同じように。そう顔を彼女に寄せて耳打ちしてやるとジューダイもまた頬を赤く染めました。まだ赤みの残るヨハンの頬と真っ赤な自分の頬を順に手で触れて彼女は何か思案するような顔になります。くりくりした栗色の瞳にじっと見つめられるのはなんともいえない心地で、ヨハンは頭の中でこんなことを考えました。――今日の晩ご飯は、何がおかずに出るだろう?
「ヨハン、ご飯のこと考えてる顔になってる。お昼足りなかった?」
「うーん、正直言うともうちょっといけた」
 目ざとく堪付いて尋ねてきたジューダイに素直に答を言うと彼女は「あきれた」と言って腰に手を当てて頭を振ります。ヨハンは悪びれるふうもなく「嘘ついたってしょうがないだろ」と開き直って見せました。すると何かおかしかったのか、ジューダイがほんの少しだけきょとんとした顔をしてそれからくすくすと笑い出します。
「何がおかしかったんだよ、ジューダイ」
「別に、ヨハンが変なことをしたわけじゃないから気にしないで。……私ね、もし生まれ変わったらヨハンみたいな人になりたいな。はっきりしていて物怖じしない人。ヨハンはすごいよ。かっこいいもの」
 急にそんなことを言い出します。ヨハンは内心照れながら自分のように元気で快活なジューダイの姿を想像してみました。それはそれでまた別の魅力があるように感じられます。
「褒めてもキスぐらいしか出ないぞ。……俺は今の控えめなジューダイも可愛いと思うけど、そうだなぁ、はきはきしてるジューダイっていうのも可愛いかもしれない。ジューダイなら何してたって可愛いけど」
「もう。調子いいんだから」
「本当のことさ」
 ヨハンはすごく真剣な顔でジューダイの手を握り込みました。
「俺の嫁さんは何やってても世界一可愛い」